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君の唇は暗黒星(一) [小さな話]

 恭子さんの鼻先が机にくっつきそうだった。こっくりこっくりと近づいて、まさに着地する寸前で止まっていた。しかし、その雄大な穴を開いた鼻が触れそうになっていたのは、実は机そのものではなくて、その上に広げてあったA4のリストであった。そしてそれこそ、溝口和樹が恭子さんに処理をお願いしていた商品リストだったのである。
和樹は入力がどれくらい進んだのか確認するつもりだった。油断すると恭子さんの仕事はとてつもなく彼女のペースで処理されてしまう。恭子さんにものを頼んだらしつこいくらいに催促しなければ駄目だ、と先輩達からも常々言われていた。それで、様子を聞こうと恭子さんの机に近づいたのだが、意表をつくその姿に和樹の足は止まってしまった。
寝ている人を起こしてはいけない、と和樹は反射的に思った。
恭子さんは居眠りしている、声をかけたら起こしてしまう。他人の睡眠を妨げるのは失礼だし、良くないことだ。睡眠を取り上げるのは拷問でしかない。おまけに和樹は、寝起きで機嫌が悪くなる人が恐かった。恭子さんが寝起きが悪いかどうかは知らなかったが、もしどろんとした不機嫌な顔で「なに?」とか言われたら、正直ぞっとするではないか。それに比べれば商品リストの入力など大したことではない。ちっぽけな事だ。恭子さんの鼻の穴にある鼻クソみたいなものだ。
待て。「それに比べれば」とは何に比べてるのだ。和樹は思い出した。
その商品リストは午後の会議で使うものだから、なるべく早く入力しておかないと、困る人が結構な数で発生する。課長だって怒りだすだろう。今日の会議は部長が出席するわけではないので、課長の怒りもその場で噴火して終りだろうが、とは言っても、肝心要の資料が準備できてないのは課長が大っ嫌いな間抜けのパターンだろう。そこへわざわざドツボで嵌りこむ必要はないのだ。しかもそうなったら、課長に睨まれるのは和樹ということになるに違いない。課長に睨まれてもどうということもないが、小心者が怒るのを見るのは不快だ。
そもそも恭子さんにその入力を頼んだのは、さっき恭子さんの方から「溝口さん、何かお仕事ないかしら?」と言ってきたからだ。和樹は自分で片付けるつもりでいた。自分で入力すれば時間の計算もできるし、そんなに間違えるとは思えなかった。和樹の視野には恭子さんの影などほんの少しも入っていなかったのだが、恭子さんは和樹の椅子にずいずいとすり寄ってきて、和樹が持っているリストに完全に目を据えながら、仕事を寄越せと言ってきたのである。恭子さんに渡したら誤入力どころかリストの内容を書き変えかねない、と恐怖に近い不安が和樹の頭を過った。しかし次の瞬間には、恭子さんはもっちゃりとした手を和樹の方に差し出していて、桃色の唇を横に広げ(おそらく微笑んでいたのだろう)、「はい、頑張ります。ありがとうございます。」と言ったのだ。
あれから三十分しかたっていないのに、全然頑張っていないじゃないか、と和樹は思った。やはり恭子さんの睡眠に遠慮している場合ではない。起こして急かすか、リストを取り上げて和樹自身で入力した方がいい。今ならまだ間に合う。
恭子さんのつむじのあたりは髪の毛の根元が銀色になっていた。白髪が根気強く領土拡張を狙っているようで、放っておけば恭子さんの頭全体を侵略するのだろう。そのつむじに向かって声をかけようと和樹が一歩踏み出すと、恭子さんを挟んで向い側に、磨り減りが目立つスリッパから白いソックスの爪先がのぞいているのが見えた。
高野課長だった。
課長はワイシャツの袖をまくりあげた腕の肘を張って、両手を腰にかけていた。その片方の人差し指と中指が、腰骨のあたりをひくひくと叩き続け、痙攣しているように見えた。眉間に皺を刻んでいた。恭子さんの銀色のつむじに穴でも開けかねない勢いで見下ろしていた。四角い顔の部品が中央に寄り集まり、それぞれの稜線が引っ張られたようにきつくなって見えた。
課長は、苛立っている、を通り越して、怒っていた。恭子さんの居眠りに怒っていた。
簡単に言うと、課長は恭子さんが嫌いだ。恭子さんは高野課長の神経を逆撫でしっぱなしなのだ。特に恭子さんの居眠りは課長を沸騰させた。
和樹はスズメバチの羽音がどんどん大きくなる感じがした。これは絶対怒鳴りだすだろう。課長の体のまわりにもやもやと黒いものが凝集しているこんな時、身じろぎしたり、一言でも口をきこうものなら、課長の行く手を阻んで、とんでもないぶち壊しを演じてしまいそうに感じられて、和樹は再び止まってしまわざるを得なかった。恭子さんの頭がひょいと起き上がった。
「ん〜と、あ、いけない。そっか。」
恭子さんの指がPCのキーボードの上をさまよってからキーを叩きだした。ディスプレイを確認すると、机の上のリストに目を戻し、入力をチェックして頷いた。それから何事もなかったかのようにキーを叩いた。そして、明かに課長の存在に気づいていながら、そちらの方は向かず、必要以上に和樹の方へ顔を向けて、にっこりと笑顔で言った。
「あ、溝口さん。大丈夫です。」
課長が目を剥きに剥いた。恭子さんは課長のいるあたりが壁になっているかのように顔の向きを戻すと、エンター・キーを強く叩いて「タン、タタン」と音を立てた。
「え?あとどれくらいかかります?」課長がくるりと背を向けて去っていくのを感じながら、和樹は恭子さんに聞いた。
「あと十分くらい、かな。」
「そうですか。午後の会議で必要になりますので、よろしくお願いします。」
「はい。わかってまーす。」ディスプレイに目を据えながら、喉の奥から鼻の裏側を震わす甲高い声で恭子さんが答えた。
嘘をつけ、と思いながら和樹は自分の机に戻って行った。(何が「わかってまーす」だ。分っているならどうして居眠りできるんだよ。)どうせ間違いだらけなんだろうな、と和樹は溜息をついてから、その溜息で思い出したかのように首を上げ、高野課長の姿を探した。課長はもう席に戻っていて、広がった額だけがパーティションの上端に見えていた。和樹には課長のじくじくした顔が目に浮んだ。

 恭子さんは高野恭子という名前で、名字が高野課長と被っていた。それでは「恭子さん」と呼ぼうと言いだしたのは高野課長だった。営業に永く在籍して、広報課の誰よりも年上の女性を、姓では紛らわしいから名前で呼ぼうと言って、最初は「恭子ちゃん」にしようとまで課長はふざけていた。課長を囲んでいた課員は爆笑したが、それでもいざ本人が配属されるとそれなりに敬遠した「恭子さん」に落ち着き、しかも面と向かっては「高野さん」と呼ぶというダブル・スタンダードになった。
高野課長も陰では「恭子さん」と呼んでいた。それが直に「キョーコ」と呼び捨てになって、「キョーコの奴」とか「超音波」とか呼ぶようになった。「超音波」というのは恭子さんの高い声、鈴を割るほど黄色い声のことを指していた。
課長による恭子さんの呼び方の変遷が、恭子さん対課長の歴史を物語っている。歴史、といってもここ二年くらいのことだが。ちょっとからかいを含みながらも、やや気を置いた扱いから、やがて目の上の瘤へ。その歴史を煎じ詰めるとこうなる。
高野課長にとっては、その前史、恭子さんが広報課に配属されることになった経緯からが因縁含みだった。

 恭子さんは御年五十五歳。二十七歳の和樹の母親が五十三なので、数字だけ見ると「お母さん」みたいな年齢だ。と、恭子さんの隣に母親を持ち出してくると、和樹はいつも頭を抱えた。女性について自分の母親を物差しにするのは、なんだか凄く精度の悪いことをやっているようで、間抜けっぽいでないか。しかし、和樹と年の近い同僚達も、恭子さんが自分の母親くらいの年齢だということをちょくちょく笑いのネタにしていた。
恭子さんの体型は確かに「お母さん」的ではあった。和樹の席から見ると、椅子に座っている恭子さんは抜群の安定感で、鏡餅で作ったジャバ・ザ・ハットのフィギュアのようだった。恭子さんの名誉のために付け加えておくと、恭子さんがジャバ・ザ・ハットのように気持ち悪いわけではない。椅子に座っているシルエットが似ているだけだ。恭子さんの、ジャバ・ザ・ハット餅体型への接近は、広報課に配属されてから加速がついたため、制服のサイズが追いついていなかった。そのせいで座っているうちに次第と上着のベストがずり上がってきてしまうようだった。ベストの方が上がるのか、中味の方がはみ出るのか、定かではないが、恭子さんは椅子の上でもぞもぞと何度も上着の裾を引っ張って直した。スカートもサイズが合っていないため、恭子さんはかなり剥き出しのミニ・スカートをはいている格好になっていた。恭子さんがくるりと椅子を回してこちらに向くと、むっちりした腿が目の前に並ぶことになる。そこで和樹たちは一瞬「お母さん」的な笑いを忘れてしまうのだった。これがまた和樹の頭を抱えさせた。量感のある体の曲線に目を奪われる反射的反応なんて、まるっきり間抜けだからだ。恭子さんの太股に目を吸い寄せられて、(あぶない、あぶない)と我に返っている自分が情けなかった。
恭子さん自身に「お母さん」的な振舞いは微塵もない。恭子さんは独身で、子供を持ったことがないので、「お母さん」であったこともない。和樹たちが恭子さんの年齢に対して母親を持ち出してくるのは、恭子さんと同年代の女性で身近にいるのが自分の母親くらいだけだからだ。
恭子さんは、世話好きでもなく面倒を見たがりもせず、あるいは慈愛や包容力を見せることもなく、その代りと言うわけでもないだろうが、そう見えるくらい頻繁に恭子さんの外部と衝突した。恭子さんの外部というのは、当然職場の同僚や上司が含まれていて、営業にいたころは、そこに取引先も含まれてしまっていた。
恭子さんは会社の取引先と喧嘩したのだ。それも年がら年中。そして中でもとりわけ大きな一発が営業部から広報課への転属の理由となった。
和樹は入社して二年目くらいの頃一度だけ、恭子さんが電話でお客さんと喧嘩しているのを目撃したことがある。用事で営業部の部屋のドアを開けると、恭子さんの低い声だけが響いていた。広報課と違ってパーティションの無い営業部は見通しがよく、部屋の端までいつもの賑やかさと全然異なる空気が降りてきているようで、それはなんだか、耳を尖らせながら諦めて待っている犬がどこかに座っていると思わせた。
「はい。はい。ですから、これは御社の間違いじゃありませんか。ええ。備考にそう書いてありますけど。では、そちらのミスですよね?はい?そういうことでは困るんですけどぉ。どういうことでしょう?理解できません。分りませんのでもう少し詳しくご説明ください。はい。はい。はい。ええ。でも、それはそちらのご都合であって、わたくし共には関係ないことですよね?本来、そちらの方で責任を持たれることであって、ことらがやるべきことではないと思います。それをこちらが悪いように言われるのは間違っていると思います。できません。私が責任を持っております。課長を出す必要はございません。何のためですか?できません。できません。あ。」
どうやら相手が一方的に電話を切ったようだった。恭子さんは受話器を置きながら、隣の畑山孝司の方に向っていつもの高い声で話しかけた。
「切っちゃた。なーにかしら。馬鹿にしてるわ。自分が悪いくせいに。」
畑山は微妙な笑い方をした。和樹と同期の男にしては実に高度な技、話し掛けてきた恭子さんに対して「聞いてますよ」というサインを見せた上で、「いやあ、大変ですねぇ〜」という何の薬にもならない反応を込めつつ、自分の仕事が忙しくて恭子さんの話よりもそちらに気をとられているので「これ以上はお相手できないかも知れません。ごめんなさい」という言い訳をそこはかとなく見せた笑いだった。畑山がそれほどに巧みな技術を身につけたのは、営業部に配属されてからずっと恭子さんの隣に座ってきたからだった。その畑山の証言によれば、恭子さんは電話に出る際に第一声からしてなんとなく高圧的で、そのうち「高野ですけど、何か?」と電話をかけてきた方が悪いくらいの勢いで切り出すようになるのではないかと畑山は思っていたらしい。
その「そのうち」は実際やって来て、畑山の予想を遥かに越えた騒動となった。
騒動の一部始終を和樹に報告する時、畑山はこう切り出した。
「恭子覚醒。東京壊滅。」
「アキラ」や「エヴァンゲリオン」のように恭子さんに隠されたパワーがあったわけではないのはもちろんだ。畑山の言いたかったことは恐らく、恭子さんの抑止弁が開放されたままになったということだったのだろう。
恭子さんのターゲットとなったのは取引先の若い社員だった。彼は、千個入り一ケースの商品を千ケース誤って注文してしまったのだが、恭子さんはその注文の取り消しを認めずに相手を呼び付け、さんざん責めてから謝らせた。ついに泣きだした相手には一切かまわず、椅子に座って肩を震わせているその横に傲然と立って、恭子さんが言う謝罪の言葉を復唱させたということだった。
「わたくしは、はい。」「わ、わたくしは…」「この度の、はい。」「こ、こ、この度の…」「声が小さいわよぉ。」
「声が小さい」といった指導は高い声で、「ご迷惑をおかけしました。」と相手に言わせる言葉を唱えるときは低い声と使いわけ、音楽の教師よろしく恭子さんは取引先の若手社員を指揮した。
その場にいたわけでもないのに畑山は、恭子さんが若手社員を「鍛える」様子を見てきたように語った。畑山の話は、聞き手がこうあって欲しいと思っている方向へ捻じ曲がっていく傾向があった。相手自身が意識していない願望、相手の眼差しの底にうずくまっている欲望、相手が思い描いているストーリーを察知して、それを話してみせることが畑山の特技でもあった。畑山はその特技を生かして、取引先はもちろん、上司にも取り入っていた。畑山の話がカーブを描いて膨らみ始める時、畑山は目をわずかに細めて、聞き手の反応を注意深く見守るのであった。恭子さんが取引先の若手社員を泣かせて「鍛えた」という話も、その後半部分は誇張された物語になっている、と和樹は思っていた。
いずれにしても、その取引先は千ケースの商品を買わされることになった。そこは、社長夫婦とその一人息子で経営されている小さな会社であった。つまり、恭子さんに痛めつけられた若手は社長の息子だったのである。家族三人でやっている会社に千ケースの商品は、単価が安いとは言え重荷のはずだが、社長の金井利彦にとってはそれよりも、可愛い一人息子が泣いて帰ってきたことが一大事であったようだった。金井は一直線に和樹たちの会社へやって来て受付で「高野恭子という人はどこにいますか。」と力んだ。
その頃恭子さんの上司であった池野課長は、いきなり取引先の社長が現れ、恭子さんを名指しで呼び出したので、何事かと同席することにした。池野は取引先に面と向かうと何やら足元が怪しいほど卑屈になる。商社の課長に時折見受けられる類の人物だ。その池野が、応接室の恭子さんの隣で飛び上がりそうになった。金井の剣幕がもの凄く、対するに恭子さんが一歩も引かず、「間違っていらっしゃると思います。」を繰り返したのだ。
「千ケースも注文するわけないでしょうが。そのくらい分かるはずだ!」
「ご注文の時に確認していただかないと困るんです。」
「こっちだって謝ってんですよ。それを呼び付けて土下座させるみたいなことをして、何様のつもりなんだ?」
「土下座などしていただいてません。」
「みたいなことって言ってるんだ。」
「常識的なことをご存知ないないようなので、お願いしただけですけど。」
「うちの社員には常識がないってのか?うちの教育が間違っていると言いたいのか?そっちはどうなんだ?」
「そちらの教育がどうなのかは知りませんがぁ、御社の社員が間違っていらっしゃったのは事実なんです。」
「なんだとぉ?」
金井と恭子さんの声はどんどん大きくなっていった。池野が事情を掴めぬまま、テニスの試合の観客のように二人を交互に見ている内、双方の言葉が重なり合った途端、ワワワワっと聞き取れない怒鳴り合いが破裂した。その直後は二人とも口を閉じたので応接室は静まりはしたが、空気が熱くなって、埃が上がったまま沈んで行かずに舞い続けていた。
営業部の佐藤加奈子はお茶を持って応接室の外にいた。しかし、聞こえてくる大声の成行きにノックするのを待った。そして耳をそばだてて知った様子を後で、同期である和樹に話した。その頃には社内中に噂が広まっていた。
もちろん、営業部のトップである奥村部長のもとへ報告が行かないわけはない。
翌日奥村は池野を連れて金井を訪ね、頭を下げた。
金井はそれで矛をおさめたらしい。その経緯について佐藤加奈子はこう語った。
「結局、奥村部長は営業マンだった頃、金井社長の担当だったわけじゃない。それで、『奥村君がそう言うなら』ということになったの。割と仲良かったらしいのよね、部長と向こうの社長。ちょっと意外な組合せなんだけど。」
佐藤加奈子が言うには、双方の面子を立てたケリのつけ方だった。そして意外だと言ったのは、金井と奥村が相容れないタイプに見えるからなのだ。
金井は、経営者よりは高校の教師が似つかわしかった。埃がうっすらと背広の肩に積っていそうな男である。対する奥村雅弘を営業部の女性社員らは「昭和の大オッサン」と評している。昭和は、そう呼んでひとくくりできるほど単調な時代ではなく、少し真面目にほじくり返せば大きな曲り角がいくつも見つかる、ごてごてと入り組んで迷路じみた回廊のはずだが、奥村を陰でこきおろすのにそんなことはどうでも良いらしい。彼女らはただ、独り善がり、かつ欲に騒々しく、流通するイメージに振り回されて上がったり下がったりを繰り返しては虚勢を張り直す、鬱陶しい年長の男と揶揄しているのであった。
「奥村部長ってさぁ、自分が西田敏行に似てると思ってるの。でも実は似てないじゃない?色は浅黒いしさ。鼻毛ボーボーでしょう、鼻毛よ。体型だって太ってると言うよりは冷蔵庫よ、あれは。のぺーっと場所ふさぎ。邪魔だわ。どれだけ邪魔かというと、机の前に座っているとすぐに飽きるみたいで、時々部屋の真ん中に立って背伸びするんだ。背中がポキポキ鳴るしさ、のけぞるからシャツの腹のところがちょっと割れて下着が見えるの。もう通れないんだ。どいてとか鬱陶しいとか言えないじゃない?邪魔だわ。目障り。部長の後ろに行列ができるんだよ。でね、奥村部長は西田敏行に似ているというかぁ、西田敏行みたいになりたいわけ。んんん、西田敏行ではなくて西田敏行が売りにしているイメージよね。それも分ってないんだけどさ、部長は。どんなイメージか?えーと、あったかくて?頼りがいがあって?可愛いおじさん?そんなところかな。実際は全然違うのにね。調子だけ良くてさ、冗談きついし、言ったことコロコロ変えるし、その割に結構根に持つタイプよ。」佐藤加奈子によればこんなところであった。
その、根に持つタイプの奥村は、金井の所から会社に戻ると、騒動の始末をつけた。
恭子さんを営業部から放り出し、広報課に押しつけたのである。
問題を起こしがちな厄介者を何故広報課が引き取ったか。畑山孝司と佐藤加奈子と溝口和樹は誘い合い居酒屋に腰を下し、それぞれの所属部署が関係した事件の筋を読み解こうとした。
「ねえ、速かったよね。今回の異動。」佐藤加奈子がまず口火を切った。
「おう、おう。うちの会社にしちゃ異例だな。」と畑山孝司がそれに応じた。
「厄介払いができて清々してるんだろう、営業部は?」和樹が言った。
「良かったね、溝口くん。高野恭子さんと一緒に働けるよ。」加奈子は枝豆をつまんだままにやにやしている。
「あ〜、隣にあの人がいないと思うと、体の凝りがほぐれたみたいな気がする。」畑山はその場で背伸びをしてみせた。
「寂しいんじゃないの?すぐ返すぜ。」
「いらねえよぉ。絶対いらない。」
「戻ることはないわよ。」
「え、なんで?広報の仕事なんか出来るわけないだろう。使えない人を抱えておくほどうちの部署も余裕があるわけじゃないからすぐに放り出されるさ。そうしたら、あの人を引き取れる所は営業部しかないんじゃないか。」
「ほう、ほう。溝口氏は分ってないようですな。」
「何が?」
「いろいろあるのよ、これが。んん、んん。」
「な。いろいろあるのだ。」
「な〜にがいろいろだ。教えろ。」
「高野さんはさぁ、ずっと内藤さんの下で働いてきた人じゃない。」
「内藤さんとは、前の営業部長の内藤さんのこと?」
「そう。うちの会社の営業の土台を作ったって言われてて、安定政権で、そのうち取締役になるんだろうなってみんな思ってたのに、奥村部長のクーデターで引っくり返されたのよね。」
「ああ、奥村さんのチクリで内藤部長が電撃解任されて、次の日に辞表をだして辞めた。」
「その後に、奥村政権が誕生したでしょう。」
「今、内藤さんどうしてるのかな?知ってる?」
「あれね、内藤さんの子飼いの人たちがぞろぞろ辞めたでしょう?」
「大森課長とか八巻さんとか、だろ?」
「その人たちとね、中柳商事にいるらしいの。」
「あれ、あれ。そこまでつるんじゃうの?」
「内藤さんのことはいいんだけど、奥村部長は内藤派だった人たちを目の仇にして、だいぶ辛くあたってるわけ。」
「ははは、陳腐、陳腐。どこかで見たような展開だよな。内藤派の残党狩りということさ。」
「高野さんは内藤派そのものだったし、実はそれ以上かも知れないんだけど、奥村部長の内藤派残党狩りのターゲットになってたわけよ。チャンスさえあれば追い出したかったんでしょう。それが今回の事件で、待ってましたと奥村部長が動いたのよね。それから、広報課が引き取ったのも、奥村派対内藤派残党の構図があるからだわ。」
「溝口よ、分かんないかね?」
「え?どういうこと?」
「企画部の川上部長は奥村部長にべったりじゃない。で、広報課の高野課長は内藤さんを信奉してたでしょう?奥村部長と川上部長の高野さんイジメよ。高野さんを押しつけてさ。広報課で使えないことを知ってて、高野さんの働きが問題になれば、高野課長の責任にするつもりでしょう。何も起きなくても、目の前から消えてくれれば清々するしね。だから、高野さんは広報課から出ることはあり得ないと思うのよ。川上部長が許さないでしょう。高野課長は貧乏くじよねぇ。高野さんが広報課を出ていく時は、退職される時だけだわ、きっと。」
「そうなのか?」和樹はいささか釈然としなかった。絵に描いたような話ではないか。しかし、恐らく佐藤の言う通りなのだろう。恭子さんは割りと早く広報課からいなくなるだろうと漫然と期待していたことに和樹は気づかされた。
「そう言えばさ、奥村さんは何をチクったの?内藤さんは何やらかしたか知ってる、佐藤?」
「内藤さんの親戚とかいって入ってきた子がいたでしょう?」
「西浦だったっけ。いつの間にか消えてたよな。おれ外から戻ってきたらいなくなっててさ、驚いたよ。」
「あの人、お客さんの返品商品をどこかに失くしたらしいの。それも結構高いやつ。」
「あ、なんかそれ聞いたことある。失くしたんじゃなくて、捨てたとか。」
「ええー!本当?それは知らなかったわ。余計ひどいじゃない。あの子さぁ、言われたこと全然やらなくて。机の中に伝票ごっそり溜めこんでたんだから。おかしいでしょう?そのくせ休みの日に勝手に出てきて仕事してたのよ。そしたら総務から休出する時は届けを出すようにと言われて、それも放ったらかしにして。そんな事ばかりしてたわけ。そしたらすごい返品を処理しないで、商品を行方不明にしてしまったの。と言うか、ごまかして捨ててたわけよね。それを内藤さんはかばって、伝票を揉み消したらしいのよ。親戚の子だから。それを奥村さんが嗅ぎつけて、問題にした。奥村さんがなんで嗅ぎつけることができたかというと、庄司係長っているでしょう?あの人、内藤さんの身内みたいなポジションだったのに、部下の女の子に手をだした時かばってもらえなかった事を逆恨みして。そこで仕返しのつもりで内藤さんの揉み消し工作を奥村さんに漏らした、というわけよ。そしたらうちの社長はそういうの大嫌いな人だから、あっと言う間にクーデター成立。」
「うわー、なんだそのどろどろ。複雑すぎて理解できねぇ。」
「何言ってんの。もっと深い話があるんだから。経理の伊藤さんに聞いたんだけどさ。」
「あ、白クマ!」佐藤加奈子が吹き出した。経理課の伊藤純子が白クマと呼ばれるのは色白で巨躯だからだ。身長180センチ、体重100キロ強と噂され、本人は肌の白さを自慢にしていたが、野獣並の体格は気にして、そうすれば小さく見えると思っているのか、体を丸めるようにする癖があった。社歴も長く、取締役連を含め誰からも一目置かれる存在であって、情報通でもあった。
「あんたさぁ、伊藤さんの前で白クマって言ってみなよ。」
「無理。無理。怖すぎでしょう。」
「ふん。伊藤さん情報によるとぉ、奥村部長はヒラの頃に高野さんを口説こうとしたらしいの。」
「なんだ、それ。なんだ、それ。どうして?だって、高野さんは内藤さんの愛人だったんだろう?」
「待て。待ってくれよ。もうついて行けないんだけど。」和樹の慌てぶりが面白かったのか、加奈子と畑山が笑った。
「そうよねぇ。誰だってついて行けないわぁ。」
「溝口くんの理解が追い付けるまで待ちますぞ。うほほ。」
「まず、さ。高野さんが内藤さんの愛人だったって、どういうこと?」
「ありぁ、知らないの?」おどける畑山を受け流して、和樹は佐藤加奈子を見た。
「営業部内では有名な話なんだけどね。他じゃ知らないかも。内藤さんと高野さんはデキてたの。もうずっと前から。高野さんが入社してすぐくらいから。」
「内藤さんは結婚してたよね。」
「だから、愛人なの。で、それを知りながら奥村さんは高野さんに近付いたらしいの。」
「…」
「おー、溝口が絶句してるぜ。」
「信じられん。」
「だよな?」
「誰だって信じられないわよ。」
「いや、だってさ、なんで高野さんなんだよ?あの高野さんだぜ?内藤さんも奥村部長も理解できないよ。」
「知らないわよ。若い頃は魅力的だったんじゃないの?」
「どんな風に?」
「ねぇ、若い頃の写真とかあったら見てみたくない?昔の写真とか残ってないかな。」
「高野さんは奥村部長を振ったってことか?」
「そうよ。それを根にもってて、今の今になって高野さんにああいう仕打ちをしたんだわ。」
「それを言ったら、内藤さんの追い出しだって、高野さんをものにできなかったせいかも知れないからな。」
「恭子さん、恐るべし…」
「本当。なぜ高野さんがそんなにモテるのか、全然理解できない。でも、なんとなく分かる部分もある。あるだろう、溝口?え?だから、ああいうタイプの女性が好きな男もいるんだよ。そこんところ、こう、薄らと分かる。」
「え〜、じゃあ溝口君もああいう黄色い声がいいの?」
「いやー、勘弁して欲しいよ。僕にはちっとも分かんないね。理解を超えてます。」

 「あと十分くらい」という言葉にそれほど違わず、恭子さんは和樹のもとへリストが仕上がったと告げに来た。
「溝口さーん。にゅうりょくぅ終りましたぁ〜。どうしますぅ?メールで送りますかぁ?」変な節回しがついている。おまけに和樹の方へ歩きながら特別に高い声で言った。恭子さんのいつものパターンなのだが、これを聞かされる度に和樹は未知の形状のコネクタを力一杯押し付けられて、しかも嵌り込まないのはこちらが悪いと言わんばかりに無理矢理挿入しようとされているイメージが湧いてしまうのだった。
「ありがとうございます。じゃ、メールに添付してもらえます?」
「はい。わっかりましたぁ〜。」和樹の即答に恭子さんは立ち止まることなく回れ右をして帰っていった。
直後に送られてきた商品リストは、和樹の予想通りに誤入力があった。商品名の中の「パ」が「バ」になっている部分が1件と、キャンペーン価格の所が1行重複して入力されたために1行ずれて、残りの商品8件の価格がすべて違っていた。
恭子さんの仕事からミスが無くなったことはない。
広報課に来た当初、恭子さんに与えられたのは単純な事務処理だった。それは高野課長の指示であり、課長は「慣れないからね。」と恭子さんの立場に理解力を示したつもりだったのだが、出来上がってきたものには間違いがあった。高野課長はそれを低温度の笑顔で迎えた。周囲も似たり寄ったりにあしらった。が、次の仕事にも、その次の仕事にも同じように誤入力、入力漏れ、重複があり、三度目の仏の顔など覚えていられないほど度重なるので、課長も皆も驚き、あきれ、慌てた。部署が違ったとは言えベテランと呼ばれる社歴なのだから、事務処理なんかでそんなに間違うわけがない、と誰もが勝手に思い込んでいたのである。
しかし、恭子さんはミスを連発した。ミスを指摘されると、恭子さんは焦り、その訂正をさらに間違えた。
「あらま、大変。」と、結構明るい声で言う。その時点で既に恭子さんは外側の世界をシャットアウトし始めていてるのである。ミスを指摘した側にはその言葉と態度がなんとなくふてぶてしく思われた。恭子さんはキーボードを打ち抜くほど強く叩いてミスを修正しようとし、さらに奇怪なミスを積み上げるのだった。
「新入社員以下じゃないか。」と高野課長は熱くなった。恭子さんのいない所で地団駄を踏んで毒を吐いた。それ以後、課長にとっては、恭子さんのミスが未来永劫に完治しない潰瘍となってしまった。あるいは、カミキリムシの幼虫に骨の内側を食い荒らされているとでも思っているかも知れない。
恭子さんの仕事に必ずミスがあるということになると、彼女に仕事を依頼した者か指示した者が悪いということになって、誰も恭子さんに仕事を渡さなくなってしまった。仕事がなくなると、恭子さんは居眠りを始めた。これがまた高野課長の神経を逆撫でした。
和樹に商品リストのメールを送信した後も、もはや手持ちの仕事がないはずなので、恭子さんは居眠りを始めるだろうと思われた。送信ボタンの上でマウスをクリックした瞬間からこくり、こくりと眠りだしたかも知れない。
ミスと居眠り。
恭子さんが会社に居る間にやっていることの殆ど。
とても管理されているとは言えない恭子さんの生産性に、管理するはずの側の高野課長は怒りの閾値を下げた。課長の、恭子さんに対する耐性は、課長自身が履き減らしているスリッパと同じくらいにヘナヘナになった。
課長のスリッパは、課長が不在の時、しばしば椅子のキャスターの下敷になったり、踏み付けられたりしている。人が通る側に脱ぎ置いて行くからだ。ゴミと見間違えるほど薄くなってしまっていているのも一因だ。そうして誰かが課長のスリッパを圧殺したことに気付く。彼もしくは彼女は、罪悪感に停止することなく「あ、いけない。」と言う。ガムを踏み付けた時の方がもっとはっきりした忌々しさを見せるだろう。
そのスリッパの主である高野課長自身もスリッパ同様の扱いである。さすがに高野課長を踏み付ける者はいない。いや、それはただ課長が二本足で立っているからであって、スリッパのように床に捨て置かれていれば、うっかり踏み付けらてしまうのかも知れない。課長が直立している間は、危害を及ぼしてくる恐れのない生き物として、さらに会社組織への若干の敬意を払って、誰も踏み付けたりはせずに、ただただ軽く無視していた。高野課長自身もそういう扱いを心地良いものとして居座るような男だった。
小心者。和樹は課長をそう評価していた。が、和樹には見えていない面もあった。高野課長が内藤元部長のシンパであった事もそのひとつだ。
内藤が営業部長だった頃、高野課長は内藤のもとを訪れては、営業の大森課長と三人で部長室で長々と話し込んだ。佐藤加奈子や畑山孝司などの営業部員たちは、それを「密談」と呼んでいた。その「密談」からはほとんど何も生れてこなかったのだが、では三人は何をしていたのかと言うと、舞台裏に回って策を練ったつもりになっていたのである。高野課長はその手の事が大好きだった。
その頃、恭子さんは「高野さんが内藤さんを困らせている。」と言っていた。あるいは、「高野課長は邪魔。」とも。高野課長の行動は恭子さんを苛立たさせていた。それから立場が逆転し、恭子さんが高野課長をカリカリさせることになった。
しかし高野課長は恭子さんのいない場所で怒り散らし、「お荷物」を押し付けられたと愚痴ってみせたが、直接、恭子さんの目を見て物を言おうとはしないのである。
恭子さんに何を言えばいいのか、和樹にだって分った。「高野さん、あなたの仕事はミスが多いようです。どうしたらミスを減らせるか、工夫して取り組んでみてください。」そしてアウトプットを要求し、それを恭子さんに評価させ、評価する。居眠りしていたら、机の上にぼたりと伏せかかっている背中を軽く叩いて起してやればいい。そして、広報課の仕事を教えて、覚えてもらうのだ。課長自身がやらずとも、誰かに指示して、教育と監督を計画すればいいだけのことだ。
そんな当たり前のことをやらずに、高野課長は、恭子さんを除いた課員全員を集めて会議を開いた。議題は「恭子さんをどうすべきか」である。それが本当の議題なのか、和樹は隣に座っている先輩に確かめた。先輩は和樹の方を向いてニヤっとし、「まあ、仕方ないだろう。」と言った。どうやら、広報課の中に課長の苛立ちを共有する空気がもやもやとまとまりだしているようだった。そういう空気は、それに囲まれていると息をするたびに体の中に入りこんでくる。すると、顔のまん前に、鼻の頭につくほど近くに存在するようになって、右を向いても左を向いてもそこにあるように感じられてくる。しかもそれは飢えていて、さらに飢えっぱなしなのだ。そんな風だから誰もその会議が変だとは言いださなかったし、むしろいつもより発言が多かった。実のある決定がなされなかったのは普段の会議と同じであったが。
会議では高野課長がまず口火を切った。
「今日集まってもらったのはさ、高野恭子さんのことなんだよね。ほら、営業部からうちに来て、もういい時間が経ったわけでしょう。でも問題があると思うんだよね。ほら。それをさ、課の課題として話し合いたいんですよ。どうしたらいいのか。高野さんを個人攻撃するとかじゃなくて、業務改善の一環として考えてみたいんですよ。業務改善は常に取り組まなければいけないわけです。だから、課全体の課題として考えて欲しい。でね、高野さんのどこが問題かというと、ほら、ミスが多いでしょう?」
課長は作り笑顔で話しながら、しきりに腕を振り回した。支離滅裂な言葉の合間を身振りで糊付けし、闇雲な同調だけは強制する課長の発言に続いて、あちらこちらから、恭子さんの仕事がいかに酷いかが披露された。だが、目新しい失敗は殆ど無く、和樹も耳にしたことがある話が力を入れて繰り返されるか、「ね、酷いでしょう?信じられないでしょう?」という目配せとともに語られた。
その中から、恭子さんはミスを指摘されると、しばらくは注意して鎮火するのだが、じきに復活してしまう、という観察がでてきた。
飽きっぽいのか?しかし、仕事をやっている間は集中しているようじゃないか。どちらかと言うと乱暴なんじゃないかしら。恭子さんが使った後の給湯室は水びたしになっていた。書類を渡される時、少し離れたところから机の上へ投げられたことがある。ああ、そうそう、それは僕もある。私もされたことがあるわ。確かに乱暴だよね。粗雑っていうのか?雑ね。よく物を落す。大雑把でもありますよね。でも、空になったお菓子の箱をきれいな小物入れに作り変えてたじゃない。そういうのは細かいんだ。仕事中ずっとやってたよね。ボールペンとか鋏とか入れてる箱でしょう?仕事をしないで箱を作ってたのぉ?有り得ない。あの箱、ボールペンを投げ入れて引っくり返してたよ。あとさ、キーボードをすごく強く叩く音が響くけど、あれ、そのうち叩き割るぜ。あんなに強烈に叩くのは何故なの?苛々してるのかも。へっ、苛々してんのはこっちだよ。キーボードに恨みがあるんじゃない?何の恨みだ。あんなにしなくてもいいのにね。いや、ああすると仕事してる気になるんだよ。「恭子、入力中!」アピールしてるわけね。引き出しの開け閉めもすごく音を立てる。いつもガサガサいわせてるよね、何か。こっちまで聞こえてくるよ。あれは正直うるさい。何をしてるわけ?バッグの中を掻き回してんの。飴を探してるんだ。静かになったなーと思うと居眠り。一日中飴食べてるよな。あんなに甘いもの食べたら、ああいう風になるって。ああいう風って、どんな風よ。ふっくらしてらっしゃるだろう?食っちゃ寝だもんな。食べ物の話しが好きだよね。お土産と言ってよくお菓子持ってくるじゃない?休み明けとかだろう?あれはどこへ行ってるんだ。この前は博多ですよ。北海道に行ったこともあった。博多は多いよね。何しに?観光?いや、聞いたことない。博多に行ってきたのとしか言わないから。一体、休みの日に何をしてるの?知らないですよ。休みの日に無理するから会社で眠くなるんだ。遊びすぎて?そうそう。二十代じゃないのにさ、そんなに暴れ回るから疲れてるんだよ。
すると、誰かが、恭子さんのミスには原因があると思う、と言いだした。「あれは画面の字が見えてないんだよ。」それも近眼ではなく、老眼で恭子さんはディスプレイの文字がよく見えず、それで入力などをミスしてしまうのではないか、と言うのである。「パ」と「バ」のような間違いは、パソコンのディスプレイの小さな文字がかすんで見えてないから起きるというわけだ。それを聞いて「年のせいなのか?!」と、年齢が一番近い課長が驚き、落胆していた。それは「なんで俺がガンに?!」と言っているのに似ていた。
本当に老眼で画面上の文字が見にくいのだとしたら、何故眼鏡をかけないのだろう。コンタクトでもいいけれど。本人が見えていなことに気づいていない可能性もある。しかし、これほど間違いを指摘されるのだから、何かおかしいと気づくはずだ。自分では正しくやっていると思っているのにしょっちゅう間違いを指摘されて、何故かしらと首をひねったままで原因に気づかないでいるなど、そんな与太郎な話はないだろう。それはプライドがあるからだ、と指摘するものがいた。プライドで老眼を認めたくないのだ。よって眼鏡をかけたくない。
その時和樹には、老眼であることを受け入れないプライドがどのようなものか理解できなかった。老眼でなければ、恭子さんのプライドは満足なのだろうか。そのプライドの正体が見えなかった。それをプライドと呼ぶのかも疑問だった。会議室を見回すと、誰もがプライド説に納得しているようだった。課長はわずかに項垂れていたが、それでも「ふむ」とうなずいた。
和樹にはそもそも老眼が想像できなかった。それから、会議と称しておばさんの行状と老眼についてだらだらと論評していてる事態もさっぱり分からなかった。
和樹を置き去りにして、恭子さんはプライドが高いという話が始まった。
恭子さんに接すると誰もが彼女のプライドの高さを感じるようだった。特に女性から恭子さんのプライドに関する報告が上がった。曰く、簡単すぎる仕事を頼むと不満そうにする、そのくせ間違う。曰く、いいからやれ的な指示をすると必ず、これはどのような目的でやるんでしょうか、と聞いてくる。営業部へ書類を届けるように頼んだら、相手が不在の時はどうしますか、メモを残さなくてもいいのでしょうか、それ以外にやる事はありませんか、と普段訊かないようなことをしつこく確認してきた。仕事の手順を説明すると「営業とはやり方が違うのね。」と一言つぶやく。そして、こちらが指示したのとは違う仕方でやってきて、それが間違っている。説明した通りやってくれないと困ると言うと、自分のやり方のほうが効率がいいと思ってと言い訳する。食べ物以外の雑談は無視しているのに、営業の噂話になると割り込んでくる。奥村部長の悪口には「いやだぁ〜」と言いながら、手を叩いて喜ぶ。お気に入りの営業マンがいて、その人の悪口には弁護するようなことを言う。そのお気に入りの営業の一人は確実に伊東さんだ。この前私たちで、伊東さんはすぐ肩なんかに触ってくる、あのボディタッチは明かにセクハラだ、と話していたら、「伊東さんはそんなつもりじゃなかったんじゃないかしら。偶然、手があたったとかじゃないの?」と言ったよ。若い子が好きみたい。顔がカワイイ子が好きなのよ。ううん、かわいくて体がマッチョなの男の子よ。だから伊東さんか~。伊東さんいい体してるもんね。いい体。学生時代、体操の選手だったんでしょう?食べ物の話は本当に好き。絶対参加してくる。誰かが「あのお店のバケットが最高においしい。」と話していると、必ず口を挟んできて、自分の知ってる店の方がおいしいようなことを言う。話題になっているものと全然関係ない食べ物の話をいきなりしだす。食べ物の話だけではなく、あの人の話はいきなり異次元に突入する。どこをどう通ったらそういう発想になるかというような話を割り込ませる。会話の背骨を叩き折る。いわゆる「不思議ちゃん」なのでないか。五十を越えた「不思議ちゃん」なんて気色悪い。あの人が話しだすと話題がぶつ切れて、しんとなる。この前、武井君がスノーボードをやってるということから、平山さん達が今年の冬はスノーボードを覚えたいので教えてくれないかという話になった時、恭子さんが「もう一人探さなくちゃね。誰かいるかしら。」と言いだした。何の話か分からないので、「もう一人とは?」と聞きくと、どうやら平山さん達が四人で、武井君を合わせると五人になって、リフトに乗る時、武井君が独りで乗らなければならなくなるから、もう一人参加者を探さなくちゃいけないと言っているのだった。「武井の相乗り相手を心配してるわけ?」「武井、モテるな。」
笑い声がおさまって、緩んだ表情が皆の顔に残った。プライドが高いことを証明する実例もそれほど出てこず、もういい加減、会議の体をなしていないことに気づいて、高野課長が口を開いた。課長は、自分の愚痴をぶちまけるつもりだったのに、いつも通りに無視されていることに傷ついていた。
「ま、おしゃべりはそのくらいにしてさ。ほら、真面目に恭子さんをどうしたらいいかな。どうする?どうすべきか。」
まったく無意味な問い掛けだったし、その結論はあっさりと出た。和樹が恭子さんを指導する、ということになったのだ。誰かが恭子さんをしっかり教育しなければだめだ、営業部のキャリアも尊重しなければいけないけれど、広報課のやり方と仕事を覚えてもらうために誰かが面倒をみた方がいい、と話が固まりだした時、課長が和樹の方をちらちらと見ていたので、和樹は自分に火の粉が降りかかってくるのを覚悟していた。「溝口君はどうだろう。」という課長の提案に反対する者はいなかった。「恭子さんと席も近いことだし。」と課長が口をすべらせ、隣の先輩が小さく「ぷっ」と吹き出した。

 また恭子さんがやって来た。
「溝口さん、あの商品リストどうでした?」
「あ、ありがとうございました。バッチリでしたよ。」
バッチリ何なのか。バッチリ間違っていたのだ。会議は無事に終ったのだが、間違いははっきり伝えておかないといけない。しかし和樹にはそれを指摘するのがもう面倒臭い。それは恭子さんの面倒をみるように言われて半年も経った頃からだ。その理由のひとつは、恭子さんのミスが減らなくてうんざりしているためだし、もうひとつは、どうも恭子さんが和樹に対して何につけても自分が年上であることをアピールしているように感じられるからだった。それから恭子さんが「どうでした」なんて聞いてくる時は、仕事を頼んだことに対するお礼がはっきり恭子さんに伝わっていないことが多い。恭子さんはお礼が足りないと思っているのだった。和樹は、「線路は続くよ、どこまでも、恭子は図々しいよ、どこまでも」と胸の内で歌って、それ以上恭子さんを相手にせず、素気ない態度で追い払おうとした。
しかし恭子さんは、和樹の態度よりも何かに気を取られていた。その視線を追うと、高野課長の席の横に奥井部長の姿があった。
奥井部長が話して、それを課長が聞いている。部長は腹を課長の方へ突き出して、頭を少し後ろに反らしているので、課長を見下ろす目が薄く閉じているように見えた。唇が動くのは見えるが、和樹の所に声までは届かない。課長はと言えば、時々見上げて部長の方へ視線を向け、また正面へ顔を戻し際に頷いている。表情が無く、相槌だけを返しているところを見ると、課長に利害関係のある話ではないのだろう。それでも、奥井部長の顔から視線を逸らす際には、「あんたにすべて従うわけじゃない」という光を漏らしていた。
この光景を恭子さんがどう思っているのか、ちょっと知りたいと和樹は思ったが、すでに恭子さんの姿は無かった。
 奥井部長がわざわざやって来て高野課長に何を話したのか、それは時を置かずに分かることになった。高野課長は和樹と恭子さんを呼び付けた。
「ほら、来週さ、君達二人で九州に行ってもらいたいんだ。」
「九州ですか。」
「福岡営業所ね。ほら、福岡で展示会があって、うちのお客さんが出展するんだ。それを福岡営業所が手伝うんだけれどね、手が足りないんで本社から応援へ行くんだよ。営業部からも応援に行くんだけれど、広報課でも人を出して欲しいと要請があってさ、それで溝口君と高野さんに行ってもらいたいんだ。」
「ぼく達が応援、ですか。」
「そう、そう。」
「営業部の応援は誰ですか。」
「えっと、ほら、畑山君。」
「一人?それで広報課からは二人も。」
「全部で三人。」足し算くらいできます、と和樹は言いたかった。
「三人も手伝うということは、かなり大掛かりな展示なんですか?」
「どうだろうね。福岡の展示会だから、こちらでやるほどではないと思うよ。」それなのに、三人も行くのか?
「先程、奥井部長がおみえでしたけれど、このお話だったんでしょうか。」恭子さんが先にしゃべりだしたので、和樹は横っ飛びにその場から身をかわしそうになった。
「そう、そう。」
「展示会の応援は、具体的にどんなことをするんですか。」和樹は恭子さんの様子を気にしながら課長に聞いた。
「それはね、ほら、福岡営業所と打合せて、ね。」
「つまり、何をするか決まっていないわけですね。」畳みこむように恭子さんが口を挟んだ。和樹は自分と課長だけで話して、なるべく恭子さんに口を開かせる機会を与えたくなかった。恭子さんが何か言いだせば、怪しい雲行きが訪ずれてあれあれよと手に余るものになるにちがいないのである。奥井部長の姿が広報課に現われた時から和樹は用心していた。しかし、気を揉む和樹の努力も空しかった。
「具体的には、ね。具体的には。ほら、でも展示会の応援だよ。高野さんは展示会の仕事をやったことがあるでしょう。溝口君ははじめてか。でも、営業の畑山君は同期だよな。」
「本社から三人も派遣するような事なんでしょうか。」
「ほら、福岡営業所は二人しかいないからさ。」
「大阪営業所から応援へ行くべきではないんですか。距離的にも近いんですから。」
恭子さんの「べき」が登場した。
恭子さんの「べき」は「本来」と対になっていることが多い。「本来は○○すべき」とか「本来、○○は△△であるべき」とか。「べき」は恭子さんを取り巻く世界へ、豪雨となって降り注ぐ。でも恭子さん自身を濡らすことはない。和樹自身も、「恭子べき」の洗礼をすでに何度も受けてきた。「べき」が登場すると恭子さんの話はしばしば、恭子さんを取り巻く世界との戦闘モードへ突入してしまう。「恭子べき」は彼女の戦いのエンジンであり、それを駆動する燃料でもあるようだった。
早く話に割り込まないと、恭子さんと課長が衝突してしまう。和樹は焦った。
「本来、取引先のお手伝いなわけですから、担当する営業がやるべき仕事だと思います。」
「うん、まあ、そうだけどね。」
「それが無理なら、お手伝いを辞退すればいいわけで、同じ会社だからと言って私たちが応援へ行くのはおかしいと思います。」
「いや、おかしいとかね、そういうことではなくて…」
「どういうことですか。」
「困ったな。光正商会さんなんだよ、その取引先は。知ってる?九州の方では、もう古くからのつきあいなんだ。ほら、社長が会長に退いて、息子さんが社長になったんだけど、その息子さんの方がなかなかこちらを向いてくれないようなんだよね。だからうちとしては、パイプを細くしないためにここで踏んばっておきたいわけよ。光正商会さんは福岡ではかなり力を持っているからね。それで、ほら、展示会で働いて、点数を稼ぎたい、ということなんだよ。」珍しく課長が落ち着いて恭子さんに話していた。
「なおさら営業部の人が行くべきではないですか。納得できません。」
課長はにやにやしながら言った。和樹は課長の態度に目を見張った。
「いや、営業も出るんだけれど、うちとしては全社を挙げて光正商会さんのお手伝いをします、という格好をつけたいみたいんだよね。それで広報課から出てくれと。しかも、ほら、高野さんはさ、営業の経験もあるでしょう?高野さんが行ってくれれば何かにつけて安心なわけよ、営業部としては。ほら、本当のことを言うとね、溝口君、気を悪くしないでくれよ。営業部は高野さんをご指名なんですよ。こういう時は高野さんでなければ、と奥井部長が言っててさ。営業部長が頭を下げてくれば、僕としても断れないじゃないですか。それで、高野さんと溝口君はチームだから、な。」
「チーム?」和樹は思わず声をだしてしまった。おまけにその声は裏返っていた。寝耳に水だった。それも泥水の。しかし、課長も恭子さんも和樹の驚きを取り合おうとはしなかった。
「そうなんですかぁ、困るわぁ。なんか、虫のいい話ですよねぇ。」それまで低くとがりだしていた恭子さんの声が一変した。和樹はショックを受けて、恭子さんの横顔を覗き込んだ。その鼻の穴は、自らの巨大さを誇るかのようにさらに広がった。人の鼻の穴は黒く見える。光が届いていないためだろう。それと黒い鼻毛が生えているからだ。恭子さんの鼻の穴も、日の光が届かないところへ黒々とした鼻毛がびっしりと生い茂っているのだろう。和樹は自分の体が小さくなって恭子さんの鼻の穴の入口に立ち、一抱えはある鼻毛が触れ合うほどに密生し、猛々しく伸び上がって漆黒の彼方へ奥まってゆくのを見ているところを想像した。
「あ、都合が悪かったかな?」
「そういう事ではないんですけど。」
「高野さん達の仕事の都合もあると思うけれど、今回はお願いしますよ。」
「私達の方は大丈夫ですよね。」恭子さんの口調は確認ではなく、同意を求めるものだったが、和樹は唖然としていて答えられなかった。
「じゃ、溝口君、そういうことで、よろしく、な。」
「溝口さん、スケジュールについて打合せておきましょう。」恭子さんが先に立って席に戻って行く。何を打合せるんですか、高野さんにはスケジュールなんかないじゃないですか、どうせ一日中居眠りしているくせに、と和樹は思ったが、口にはださず黙って自分の椅子に座った。視界の隅で恭子さんが卓上カレンダーを手にしていた。
恭子さんの変化は驚きだった。しかしそれ以上にショックだったのは、課長から恭子さんと和樹が「チーム」だと言われたことだった。それは和樹が、ポンコツで使えないオバサンと同じ側にいると見られていることを意味している。和樹にはそう感じられた。あんな不良品みたいなオバサンと自分が同じジャンルに括られるはずがないと和樹は信じていたのだが。それに、恭子さんを押し付けられたのは、ふざけた会議の流れでそうなっただけで、理由など皆無のはずだった。その理由をしいて挙げるとすれば、和樹が課の中で一番下っ端だからにすぎないのだ。それは周りも承知しているはずで、和樹が恭子さんを見放せば結局、和樹の方を受け入れてくれるだろうと和樹は見込んでいた。だが、それはどうやら和樹の思い込みであり、課長を含めた皆は、和樹を恭子さんと同じ位置にいるものとして見ているようなのだ。課長のたった一言であったが、和樹にはそこまで考えが落ちてくるものがあった。と言うのも、最近、課の連中の自分に対する態度が変ってきていることをうっすらと感じていたし、日々の仕事の隙間に捉え所のない悪意がもやもやと潜んでいるような気がしていたのである。
とうとう標的にされた、と和樹は焦った。それと同時に、溜りに溜った屁が体中の毛穴から抜けでたような脱力感があった。恭子さんがしきりに何か話しかけてきていたが、和樹は一言も理解できなかった。(この不良品の側にいたら自分まで不良品扱いになっちまった。)と和樹は思った。(このオバサンは定年までうつらうつらしてやり過せればいいだろうけれど、こっちはそういうわけにはいかないんだ。何とかしないとそのうち酷いことになる。居場所がなくなっちまう。こっち側から脱出しないと。)
和樹が気づくと、恭子さんは博多にどんなおいしい物があるかを滔々とまくしたてていた。伸び縮みする桃色の唇を和樹は忌々しく見た。

君の唇は暗黒星(二) [小さな話]

 誰がどんな気を回して余計なことをしたのか、福岡に向う飛行機の席は恭子さんを真ん中に挟んだ三人並びの席だった。それでも和樹にとって幸いだったのは、恭子さんが久し振りの畑山に気をとられて、そちらに盛んに話しかけ、和樹の方にはそれほど干渉してこなかったことだ。ただ、恭子さんから逃がれようとした畑山はしきりに話題を和樹に振り、その度に恭子さんがくるりと和樹の方を向き、はしゃいだ笑顔を見せてくるので、まるっきり苛々しないでいられたわけではなかった。和樹は(こっち見んな、ばばぁ)と叫びだしたかった。
 福岡空港で飛行機のドアをくぐると、それまで圧迫感があったのだと気づかされた。その後の空白へ五月の風が寄せてくるようだった。その爽やかさに思わず頬を緩めていると、恭子さんが「あ、気持いいですねぇ。」と言い、和樹たちは「本当、本当。」と声を合せた。
畑山と和樹はスーツケース型のキャリー・バッグを引き摺り、別にビジネス・バッグを下げていた。どちらのキャリー・バッグも真新しく、この出張にあわせて買ったことが窺える。それに対して恭子さんは大きめのショルダーバッグ一つだけという軽さだった。展示会は三日だが、最終日に帰るので福岡に滞在するのは二泊であり、それほど荷物が必要なわけではないにしても恭子さんの手荷物は少なかった。畑山が和樹を突ついて、恭子さんの荷物に注意を促した。
「あれは少ないって。下着とかどうする気だ?三日間同じパンツか?」
和樹は畑山に口の形だけで聞こえるぞと警告した。逆に畑山は前を歩く恭子さんに追いついて質問した。
「これだけですか。ずいぶん身軽ですね。」
「え、ああ、これ。いつもこんなものよ。それに今回はお仕事でしょう。着るものもスーツでいいから、ある意味、楽ね。」
「そうか、さすが高野さん、旅慣れしてるなあ。博多は何度も来てるんでしょう?」
「そうね。結構来てるわね。でも、この前に来たのは去年の夏よ。」
「そうなんだ。やっぱりグルメ旅ですか。」
「それもあるけど。」
「他にも目的がある。彼氏がいるとか?」
「ないない。」
「本当ですかぁ?」
「博多の街が好きなのよ。街が肌に合うというのか、性に合うというのか。おいしい食べものもたくさんあるし。」
「後でつれて行ってくださいよ。高野さんがお勧めの店。」
「いいわよ。」
「どのくらい旅行に行くんですか?」和樹は急に興味を掻きたてられて質問した。
「以前に比べると減ったけど、月に二回ぐらい。連休があると出来る限り、ね。」
「一週おきのペースですね。行き先は?海外とかも行くんですか?」
「行きますよ。国内より安い所もあるから。それでも国内が多いかな。やっぱり食べ物は日本の方がおいしいから。」
「安心ですもんね。」畑山が地下鉄の方向を指差しながら言った。福岡営業所の最寄り駅に迎えが来ることになっていた。
「旅行に行かない時は何をしてるんですか?」
「旅行に行かない時ですかぁ、まあ、いろいろと。」
「忙しいわけですね。」
「そうね。結構時間がないのよね。」
「充実してるんだ。」畑山が言った。
「そう言われるとそうでもない気がするけれど。でも、仕事と言うのは生活していくための手段であってぇ、それが目的ではないわけ。だって働いている時間は人生の全体からしたら三分の一しかなくて、それ以外の時間が三分の二あるんです。だから、仕事以外の時間をどうやって過ごすかが大切なんです。その時間に本当にやりたい事を思い切りやらなきゃいけないのよ。」
「高野さんが本当にやりたい事は何なんですか?」畑山が目を丸くしているのを横目で見ながら、和樹はきいた。
「いろいろあるんだけど、やっぱり人との出会いかな。」
「出会い?」
「そうね。たくさんの人と出会いたいんですよ。そしてそこにある人間の生活を知りたいわけ。もちろん食べ物も含めて。分るかしら?」
「分んない。」和樹は呟いたが、恭子さんにも畑山にも聞こえなかった。
「最近は、ただ旅をしたり、美味しいものを探したりするだけでは駄目で、それを記録してぇ、自分の言葉で表現することに興味があるの。」
「はあ、記録って、写真を撮るとかですか。」畑山がきいた。
「ええ、写真も撮るの。カメラも ちょっとイイものを買ったし。今日はお仕事だから持って来てないけれど。それで。ふふふ。」ちょっと勿体つけたように恭子さんは言葉を切った。「撮った写真をブログにアップロードして、感想を書くんです。」
「ほぉ。」「どんな事を書くんですか?」
「感じたことや考えたことを自分の言葉で書くんです。食べ物だったらどんな風に美味しかったかとか、旅先でどんな人に出会ったかとか。難しいことは書けないけれど、自分が体験したことを嘘のない、自分の言葉で書く。それが本物の記録だと思うから。」
「写真の説明ではなくて?」
「写真と全然違うことを書くこともありますよ。それがいい効果を生み出すこともあるのね。」
「パソコンで入力して?」
「そう。」
「旅行から帰ってきたらすぐ書くんですか?」
「そうね。旅先で書くこともあるけれど。最近はスマホでも書こうと思ったら書けるのよね。でも、小さい画面だと眼につらいわ。」
「書いたものは見直したりするんですか?」
「ええ、当然。誤字脱字があったら恥かしいし、そんな文章読んでもらえないでしょう。それに私のブログの読者に失礼になると思うから、変な文章を読ませたら。」
どうやら自分のブログの文章なら慎重にチェックするらしい、と和樹は思った。ブログがプログになるようなことはないということなのだろう。本人が気づいていない可能性はあるが。
「へぇえ。ブログとか書くのは芸能人だけかと思ってましたよ。」
「いえ、そんなことないですよ。私にブログを教えてくれた人は、もうずっと前から自分のブログを持ってて、そういう方は結構いらっしゃるのよ。」
「ブログを教えてくれる人がいるんですか。どこでそんな人と知り合うんですか。そういう紹介所みたいなものがあるとか。」
「紹介所って何よ。ブログを通して知り合ったんです。」
「出会い系ブログ?」
「畑山君はどうしてもそちらの方向へ持って行きたいみたいね。出会い系ブログなんかないですよ。たまたま旅行した所の写真をインターネットで見つけて、それに添えられていた文章が素敵だったの。それで感想を書き込んだら、そこから遣り取りが始まってぇ、それで知り合ったわけ。」
「そんなことがあるんだ。」
「高野さんのブログはどれくらいアクセスがあるんですか。」
「んー、SNSでお友達になっている人が主に読んでくださるので、普段は五十人くらいかな。検索してくる人もいるから、時々増えるわね。」
「SNSって?」畑山が和樹に聞いた。
「フェイスブックとかミクシィとかのこと。」畑山は「そう言えばいいのに」という顔をした。
「そういう人達と一緒に旅行へ行ったりするわけですか。」
「そうね。誘い合うこともあるけど、そんなにいつも一緒ではないの。同じ所へ行ったらブログの内容が同じになってしまうでしょう。」
「はあはあ、なるほど。高野さんのブログのURLを教えてくださいよ。興味があるなあ。」
「あ、いいですよ。畑山君に読んでいただけると嬉しいわ。」
「あれ、高野さんは一人旅が多いんですか?」
「本来旅は一人ですべきなんです。連れがいるとその人に気を使うでしょう。一人だと気も楽だし。」
「高野さんのご家族は…?」
「家族も一緒には行きませんよ。」
「ご兄弟はいらっしゃいましたっけ?」
「いえ。今は母と私と二人だけ。父は一昨年亡くなったので。」
「じゃあ、休日はお母さん一人でお留守番じゃないですか。」
「そうよ。でも、いいの。」恭子さんは、話はここで終りという風に窓の外へ顔を向けた。列車は地上に出ていた。もう次が降りる駅だった。

 駅の改札口の向うには二人の男が待っていて、和樹たちに気づいた。こちらでは恭子さんが大きな声で「お疲れさまですぅー!お世話になります。お久しぶりぃ」と一歩先に近づいていった。
二人は福岡営業所の井上哲彦と古賀敏だった。後で古賀が和樹たちに語ったところによると、井上と古賀はほぼ同期の入社で、入社した時の本社研修で恭子さんに面倒をみてもらったことがあるとのことだった。「もう、僕達が入社した時には、高野さんはバリバリ働いておらしたとですよ。」と古賀が言った。二人は研修のあと福岡に戻り、数年後、他社からの転職してきた年長の井上が所長になった。
「何年ぶりですかね~、いや~、懐しいですね~。」と井上所長が言った。井上所長は背丈こそ中背だったが、肩の肉が盛りあがり、分厚い体つきで、こちらにどんどん迫ってきそうな男だった。四角い額が血色良く日焼けしていた。古賀の方はずっと小柄で、骨がないような掌をしていた。坊主頭が白髪でもないのになぜか白っぽい。抜け目なさそうに笑った。
煙草臭い会社の車に乗ると井上所長が後ろの和樹たちの方へ半身を出して、「とりあえず。」と手刀を振るような真似をしてから、ハンドルを握る古賀の方へ「おい、大丈夫か?」と声をかけた。古賀の返事など確かめもせずにまた後ろへ顔をつきだすと、「とりあえず、光正商会さんの所まで行って、挨拶をしときたいんですよ。それから食事をしましょう。ね?」と言った。そして和樹たちの返事もまた関係なく、古賀に「じゃ、行こう。」と指示するのだった。車が動きだすと前を向いたまま「食事が終ってから宿へ行きますから。」と言った。

 すぐに恭子さんが「井上君、この車煙草臭いわね。」と言いだした。
「あ、匂いますか?すみませんね。二人とも吸うもんで。窓ば開けてください。」井上所長が言った。
「芳香剤を置きなさいよ。本来、煙草を吸うべきじゃないのよ、会社の車だって。」
「すみません、すみません。申し訳ないです。いや〜、なかなか止められんとですよ。でも、高野さんに怒られちゃいかんですな。禁煙せんと。おい、古賀君、君も禁煙だな。」
「はい、頑張ります。」古賀の返答に井上所長がすかさず「本当だな。禁煙しろよ。東京の皆さんが証人だからな。」と言い、古賀がそれに「明日からでいいですか?」と返した。井上所長は「これはあてにならんですばい。」と和樹たちの方へ振り向いてから、一緒に笑えとばかりに大笑いしてみせた。何度も繰り返された儀式に見えた。恭子さんの文句を黙らせようとする圧力が底に隠れていそうだった。畑山は笑い声に乗じて「禁煙は難しいですよねぇ〜。」と同調してみせたが、それに対して井上所長は前を向いたまま頭を二三度上下に沈ませただけだった。
「畑山君、窓を開けてもらえない?気持ち悪くなりそう。」恭子さんはおかまいなしに続けた。
一呼吸の間、車内が風の音だけになった。
井上所長は左肩を窓に寄せながら座る位置をずらし、「本社の方はどうですか?」と誰にというわけでもなさそうに聞いた。「そうですね、やっぱり厳しいです。」と畑山が出番を心得ていると言わんばかりに首を伸ばした。「九州の方はどうですか?」
「景気悪いですよ。だめ、だめ。さっぱりですて。」
「そうですか。どこも厳しいんですねぇ。」
「そいでも、本社はいいのではないですか。奥井部長がおらすけん。」
「はあ。」畑山には「おらすけん」が今ひとつピンとこなかったようだった。和樹は話の行方に見当もつかず、ただ聞くだけだった。
「奥山部長がいれば大丈夫です、ねえ。奥山さんが部長になったのは会社にとっていい事だった、と僕は思います。それまでは会社が、いや営業部がね、私物化されていた。戦略も展望もない人たちが権力だけを握って、悪い方へ流れていた。それが奥山部長によって変りましたよ。社長だって分っとったはずです。でも、営業所から見とるとよりはっきりと分かるんですな。」
「井上君は奥山部長のことが好きみたいね。」恭子さんの肘がわずかに張られて、和樹の肘を押した。
「好きか嫌いかと言われれば、好きなんですかね。あは、そんな気はありません、僕は。ノーマル、ノーマル。女の人の方が好きですよ。なあ、古賀君。」
「え、所長は女性が大好きです。」
「大好きは余計だろ。ハハハハ。でも、奥井部長の考えとらすことは、いちいち頷けるとですよ。部長は、良く考えている。会社にとって何が大切か、これからどうすべきか。ああいう人こそ会社にとって必要なんですな。」
「そうかしら。横暴だという人もいるわよ。奥山部長こそ私物化しているかもしれないし。」
「そんなことはないでしょう。ハハハハ。売上がすべてを物語っているとではなかですかね。」
「福岡営業所がお荷物になってなければいいけど。」
「おお、こりゃたまらんばい。高野さんの毒針は健在ですな。」
「何が毒針よ。」
「なあ、古賀君、高野さんには鍛えられたもんな。」
「はい、はい。お世話になりました。」
「あら、もう忘れたわ。」
「いや〜、あの頃の高野さんは内藤部長の隣で輝いていましたから。新入りの私らにしてみたらまるで女王様のようでした。なあ、古賀君。」
運転席のヘッドレスト越しに古賀の頭が少しだけ振られるのが見えた。
「失礼で図々しいのは変らないのね。内藤部長がいなくなって、叱ってくれる人がいなくなったせいかしら。」
「内藤さんがいなくなられて、本当にほっとしましたよ。あの人がいたら会社は駄目になっていたばい。」
「どうかしら。古くからのお客さんがどう言ってるか、よね。」
「どう言ってるとですか。」
「離れていいってるお客さんもいるようよ。商売の基本を忘れてるんじゃないかって、心配する声も聞くけど。奥山部長は数字だけ追いかけて、お客さんに顔を向けていないって。」
「どうせ片山商事の社長あたりの話でしょう?まったく。売上をあげなければどうやって食べていくとですか。環境が変ってきているのに今まで通りのことなどできんでしょうに。あの手の人たちは、自分たちがおいしい目にありつけた頃の思い出にいつまでもしがみついてるということですよ。言わせておけばよかとです。もう片山さんの時代ではなかとです。」
「そうかしら。やっぱり聞くべきところは聞くべきだと思うけど。今の営業のやり方に不満を持っている得意先もいるということじゃないの。」
「ハハッ。」
井上所長と恭子さんの間に何か因縁があったのか、それとも単に内藤対奥山闘争の残響を見せられているだけなのか、和樹にはどうにも判断できかねた。二人の言葉は、声色低く、相手の間合をはかるように繰り出されて、じりじりと切っ先を尖らせていくようだった。
「それはそうと、高野さんは結婚されたんですか。」恭子さんが明かに面喰っているのが分った。
「いきなり何?」
「いや、高野さんはもう結婚されたのかなと思ったのですよ。私らが東京にいた頃には、高野さんは憧れの的でしたもん。どげん男が高野さんのハートを射止めるのか、みんな注目してました。」
「何それ。私が誰と結婚しようと井上君には関係ないことよ。」
「おろ。結婚されたとですか。こっちには噂が流れてこんかったなあ。」
「してない。」
「はあ?」
「結婚なんかしてないわよ。」
「ありゃ。そうですか〜、失敬、失敬。しっかしそれはいかん、いかんばい、なあ、古賀君。高野さんならよか奥さん、よかお母さんになるとに。もったいなか〜。これからでも遅くはないですよ。結婚せんばいかん。結婚して子供ば作らんですか。」
「残念ながら結婚してくれる人がいなくて。でも井上君に心配してもらう必要はないわ。おおきなお世話です。」
「この古賀君はどうですか。なあ、古賀君。内藤さんに比べると少し見劣りするかもしれんばってん、内藤さんよりずっと若いですよ。真面目だし。どうですか、ええ?」
恭子さんは答えず、シートに背を深く預けた。井上は恭子さんが黙り込んだのを無視しして、「どうだ、古賀君。え?」と言いながら古賀の左肘を下から突くのだった。古賀は「ありゃ、あぶない、所長、あぶないですて。」と笑っていた。

 窓の外の緑が明るかった。山が迫るほど近くなって来ているのだ。市街地から随分と離れてしまっていた。取引先の会社へ向かっている気分ではない。和樹は「旅館、温泉、刺身の盛り合わせ。」と呟いてしまった。
「本当ね。」恭子さんが和樹の独り言を聞きつけていた。「これじゃ社員旅行よね。」畑山がニヤリとしてから井上に向かって言った。
「結構遠いんですね。」
「ああ。そうね。もう少しですよ。ちょっと不便な所にあるけんね。」
しかし、どう見ても「ちょっと不便」どころではなさそうだった。左手には山の連なりが近く、道路と山裾の間には山中から降りてきた木々が立ち塞がり、建物の影も見あたらなくなっている。右手は、路肩を下った先に水田が見え隠れしてはいるが、その向こうにはやはり山々が控えていて、それが道の先の方でぐっと近寄ってきている。どうも山の間に入って行くような感じだった。あれほど賑やかに道の両脇に並んでいたファミリー・レストラン、日用雑貨のショッピング・センター、ガソリン・スタンド、パチンコ屋、ラーメン屋が、既にまるっきり影も形もない。それどころか、濃くなる緑が途切れたと思うと、何か取り壊した跡なのか、白っぽく開いたコンクリートの空き地が急に現れたりして、人間が去ってしまった雰囲気がするくらいなのである。
山を越えると町が開けるということもあるかも知れないが、こんな所で商売が成り立つのだろうか、と和樹は疑問に思った。
さすがに空腹が感じられて、時計を見ると一時半を回っていた。車内は、エンジンの唸りとタイヤの擦過音の背景に風の音がかぶさり、舗装の継ぎ目を乗り過ぎるゴトッ、ゴトッという音が間遠に響くだけだった。
恭子さんと井上所長の、棘を含んだやり取りを見せられ、それが何を下敷にしているものなのか見当もつかないまま、和樹は案内の無い土地の奥深くへ運ばれていた。誰かとこの状況を整理したかった。その誰かは畑山以外にはいないのだが、しかし畑山は、和樹の視線に一向に気づく様子はなく、車に乗り慣れた犬のような顔をして、風に顔を差し出し、目を細めていた。
その時、和樹の手の中に何かが押し込められた。「ひっ」と声を出して見ると、「ソイジョイ」とアルファベットで書いてある細長い袋だった。
恭子さんが「どうぞ。お腹、減ったでしょう?はい、畑山さんも。」と言いながら、カバンから同じ物を取り出して畑山に渡した。それから、もう一度カバンに手を入れ、さらに二本取り出すと、井上所長と古賀に「食べます?」と聞いた。
「お、すみませんな。」と井上所長は二本とも受け取った。恭子さんも自分の分の袋を破き、五人は「ソイジョイ」という小麦色の、ハーモニカのような棒を齧り、黙々と口を動かした。
恭子さんは五本以上の「ソイジョイ」を持ってきているようだった。ちらりと見えたカバンの中には、「ソイジョイ」の袋がさらにわさわさと入っていた。どれだけ「ソイジョイ」が好きなのだろう。配るチャンスがなかったら、全部自分で食べるつもりだったのか。横目で見た恭子さんは、まるっきり空っぽの表情で口を動かしているのだった。

 井上所長の「もう少し」が三十分近くになってようやく車は止まった。すでに舗装された道路は途絶え、車輪の跡が深い山道を登ってきた。車から降りた恭子さんが「ここぉ?」と誰の答を期待するわけでもなさそうに溜息をつきながら言った。
来た道は先へ登ってから、少し薄暗くなった緑のトンネルの中へ曲がって消えていた。和樹たちが止まった所には左へ入る脇道があり、入口に矢印の描かれた板が棒に打ち付けられて立っていた。しかし、赤く大きく矢印が描かれているだけで他には何もなく、しかも板が少し下を向いているので、脇道自体を矢印が指しているように見えて、「ここに脇道がありますよ」と白痴じみた念を押されている感じがするのだった。
「ここですか?」畑山が小さい声で言った。畑山も和樹同様に驚き、訝しんでいるようだった。
博多の市街から車で二時間も離れているのである。そして滅多にお目にかかれないほど瑞々しい緑の只中だ。意識しなくとも耳が澄んでくる。すると遠くで、喉を潤すような鳥の囀りが聞こえる。
強度の人間嫌いにはその辺りは天国だろうと思われた。しかし、会社を作るのは馬鹿げていた。畑山が携帯の画面を覗いて「圏外かよ。」とぼやいた。
「こっちです。」古賀が脇道の奥を指差している。井上所長は腰に両拳をあてて、背を反らせていた。
道は軽自動車でも通れない幅で、井上所長を先頭にして縦に一列となって歩くことになった。両側に杉の森が押し出してきていた。道との境界は草が息を吹き返したように繁っている。道を半分ほど進んだあたりで、両脇の草叢の中に黒い鉄柵が現れた。
和樹の前を歩いている畑山が振り返って道の入口を指し、「光正商会さんに来たら、みんなあそこで車を降りるのか。」と言った。
「会社の車はどうなってるんだ?」
「さあ。」
「それに、社員はどうやって通勤するんだよ?携帯も通じないでどうするんだよ?」
「不思議だよな。」畑山と和樹の会話は囁き声になっていた。畑山の前を歩いていた恭子さんも振り返り、同じように小さな声で言った。
「なんなの、これは?変よね。」畑山と和樹は何度も頷いた。
道の突き当たりはコンクリート塀で塞がれ、その中央に黒い鉄の門が現れた。門の向うに平屋の建物があって、屋根の下の壁に大きく「光正商会」と書かれた看板が取り付けてあった。
 和樹たちは明かるい緑の作業服を着た男性に案内されて応接室へ通された。
「ただいま社長が参りますので、お掛けになってお待ちください。」男性はカクッとおじぎをすると応接を出て行った。部屋はそれほど広くなく、和樹たちが腰をおろすともう空きはなかった。
すぐにノックの音がして、お盆を捧げ持った女性が入ってきた。最初の男性と同じ色の上着に紺のスカートで、丸い顔をしていた。
「いらっしゃいませ〜。」と一礼してから、お盆のお茶を配った。それが終わると、テーブルのすぐ横に立ち、お盆を胸の前に抱えて和樹たちを見ながらニコニコしている。
「あの、東京からいらっしゃたんですよね。」
「そうたい。本社の精鋭部隊に来てもらったと。」井上所長が答えた。
「遠いところからありがとうございます。あの、あの、私、先月、東京へ行ってきたんです。」
「アキちゃん、前から行きたいと言いよったもんね。」古賀が言った。
「はい。念願の東京ですよ。」
「どぎゃんだった?」
「楽しくて、楽しくて。」
「東京のどこに行かれたんですか。」畑山が口を開いた。
「え、お台場のディズニーランドへ。」アキちゃんと呼ばれた女性はさらに笑顔を広げ、目が描かれたように細くなった。畑山の笑顔が固まっていた。
「ディズニーランドか。いいねぇ。」井上所長はアキちゃんの言葉にも畑山の様子にも気づいていないようだった。
「それから山手線を一周して、秋葉原のメイドカフェも行きました。」
「ディズニーランドはいつからお台場に移ったの?」恭子さんの言葉は昨日の夕飯に何を食べたかと訊いているようだった。
「本当に行ったんですよ。有給を取って。」恭子さんは畑山を見た。恭子さんの視線は「あなたが続きを引き受けなさいよ。」と言っていたが、畑山は固まったままだった。
「疑ってるんですか?」アキちゃんの顔から笑顔が消えた。
「アキちゃん、誰も疑ったりしとらんよ。」古賀が手をアキちゃんの方へ伸ばし、掌で拭うような仕草をしながら言った。「よく社長が有給とらせてくれたねぇ。」
「はい。真面目に働いているから、お休みとっていいよ、て。」
「ほぉ〜。」
「どちらにお住いなんですか?」和樹はどうやって通勤しているのかを知ろうとして訊いた。しかし、和樹の質問は無視された。
「新宿も原宿も行きましたよ。人、人、人ですね。びっくりしました。私だったら、あんな所には住みきらんなーと思いました。蟻の巣のように人がいるじゃないですか。人を見ていると具合が悪くなってしまいました。なんであんなに人がいるんですか。あんなに人が必要なんですかね?」
「あら、必要ない人もたくさんいるわよ。必要もないのに遊びに来る人たちも混じってるし。」
「あれ。あれ。どういうことやろうか。遊びに行ったらいけんかったとですか?」
「本当に人の多さにはあきれますよね。新宿駅とか池袋駅の中は人が多すぎて速く歩けないんですもん。具合が悪くなるというのは良く分るなぁ。」ようやく畑山が口を挟んだ。アキちゃんは畑山の言葉に我が意を得たりと笑顔になって頷いた。
「アキちゃん、お土産は?お土産はないとね?」
「あ、忘れた。古賀さん、ごめーん。」急にアキちゃんが大きな声を出した。
「忘れんでよー、切なかー。」古賀とアキちゃんが叫んだ。和樹にはそう聞こえたのだが、どうやら笑っているというのが本当のところのようだった。古賀は「へやへやへや」と収まったが、アキちゃんは「くきっ、くきっ」と鋭い音を出し続けた。和樹が井上所長を窺うと、何もおかしいとは思っていないようで、少し斜め上の空間に視線をさまよわせていた。
「この古賀さんのことを忘れんでよー、アキちゃーん。古賀さんは独身で寂しかとばーい。」
「んもう、古賀さん、笑わせんで〜。おかしか。」
「オカシカ。」恭子さんがアキちゃんの言葉尻を平板なイントネーションで繰り返した。「オカシカ。」
すると急に古賀もアキちゃんも静かになって、和樹たちと視線を合せないようにあらぬ方を向いた。アキちゃんはお盆の縁を持ちかえ持ちかえしてずらしていた。やがて片手をお盆から離すと、恭子さんを真っ直ぐ指差しながら古賀に向って言った。
「この人たちは何しに来たと?」恭子さんの目が見開かれた。
「お仕事のお手伝い、ばい。」
「へー。でも、手伝ってもらわんでもいいよ。人手は足りとるもん。それに、訳の分からん人に余計な事をされると、逆に仕事が増えるけんね。」
「アキちゃんはプロだもんなー」
「そうよ。 プロよ。」
「アキちゃん、社長はまだかなぁ?」井上所長が口を開いた。しかし、アキちゃんは井上所長の方を見ようとはしなかった。
「あんた、何様のつもりですか?」アキちゃんが恭子さんに向かって言った。「あんた」と「ですか」という非対称が和樹の耳についた。
「なにかしら、この子は。」恭子さんは不意をつかれた。
「えっらそうにして。ただのオバチャンのくせして。あたしは正社員ですよぉー、馬鹿にせんといてくれんかね。」
「アキちゃん、アキちゃん、もうよかて。よか、よか。」古賀が中腰になってアキちゃんの腕をつかもうとした。しかし、アキちゃんは古賀の手を振り払って怒鳴りだした。
「触るな。触るな。セクハラぞ。なんばしよっとか。ふざけんな。ふざけんな。あんたら、いっちょんわかっとらんちゃ。事務の仕事がどんだけ大変か、知らんちゃ。うちは正社員ばい。正社員の権利を行使させていただきます。そう言ってんだ。ふざけんなよ。触るな。セクハラで訴えるよ。訴えてやる。このエロババア。男の前でくにゃくにゃしてから。お前がセクハラだ。訴えてやるぞ。出るとこ出るぞ。目にもの見せてやる。」
アキちゃんの顔からは笑顔が消え、黒目が瞳の真ん中に固まってしまった。割れるほどの大声を出している間中、持っているお盆をぐらんぐらんと振り回した。一番近くにいた畑山と古賀がそのお盆の方に腕をかかげて護りながら、止める隙を伺っていた。井上所長が立ち上がって、アキちゃんにすっと近寄った。振り回しているお盆をハッとつかむと、肩を巻き込むようにしてアキちゃんをドアの方へ向かせ、「社長を呼びに行こうよ、な。」と言いながらあっさりと出て行った。アキちゃんの方は体の向きを変えられた途端に怒鳴るのを止め、井上所長に背中を押されるがままにドアの外へ去った。
 二人の姿が消えると、泡立って物問いたげな空気が応接室を支配した。
古賀が口火を切った。
「いや、今日はどうしたのやろか、アキちゃん。興奮しとったのかなぁ。」
「何なの、あの子?」恭子さんが訊いた。
「少しコレ、ですか?」畑山がこめかみの辺りに人差し指を立てて訊いた。
「コレ?いや、いや、普通の女の子ですよ。普通だと思うけど。」
「明らかに普通じゃないでしょう?」
「電波が飛んできちゃってる感じですよね。急に怒りだして。」
「意味が分からないもの。」
「え〜、そうですか。そうかなあ。いつも普通ですけどねぇ。明るいイイ娘なんだけどなぁ。」
「本来、社長のお客様に話しかけるのがおかしいのよ。そこらへんから変だったわ。どこか目付きもおかしかったし。精神的な病気じゃないの?」恭子さんの「本来」が珍しく「べき」を連れず、「おかしい」をお供に登場した。
「え、えー?」古賀はテーブルの上へ少し前屈みになり、茶碗に目を落した。恭子さんの言葉には抵抗を感じているが、それ以上アキちゃんのことを話すつもりはないようだった。
「あー、驚いた。九州の女性はホットだということですかね。」畑山が言うと、恭子さんが睨み返した。
「ちょっと、畑山君、それは違う。」
「あの人はどこに住んでるんですか。」和樹は古賀に訊いた。
「え?え?どこ、とは?」
「この近くに住んでるんですかねぇ。ここは通勤するのに大変そうじゃないですか。だからどこに住んでいて、どうやって通勤してるのかな、と思って。」
「はあ、そりゃそうばいねー。いやぁ、知りません。聞いたことないです。考えたこともない。」
「それじゃだめじゃない。取引先の社員の動向に関心持たなきゃ。特に、事務所にいる女性社員は色々情報を持っていることがあるんだから、コネクションを作らなければダメよ。」
「はあ、はあ。」古賀はニヤニヤしていた。
「何がおかしいの、古賀君。」
「ずいぶん昔の研修で高野さんから同じような事を聞かされたと思いまして。デジャブって言うちゃろか?」
「お、古賀さんが入社された頃の事ですか?高野さんが古賀さんの教育係だったんですよね。」
「はい。私と井上所長も高野先生の生徒でした。」
「先生とかやめなさいよね。」
「いや、先生ですよ。あの頃ですね、高野さんにみっちり仕込まれたから今の私があるとですもん。」
「仕込んだって、新人の研修期間は三ヶ月しかなかったじゃないの。それにあの時の研修の結果がこれなら、私の教育は失敗したんじゃない。」
「ありゃ、オレは失敗作ですか。かはっ。切なかー。それにしても、もう何年前になりますかね?」
「やめてよ。何年前かとか、数えたくないわ。いやね。」
「さーて、何年前だったかなー?」部屋の空気から角々しいところが抜けたように感じられた。畑山がソファの背凭れに体を預けて、古賀と恭子さんを交互に見ていた。
「十五年?二十年にはならんですもんね。この私めがですね、今年で三十八だからー、そうか、やっぱり十五年になりますね。速いなー。」
「古賀君、三十八なの。老けてるわね。ああ、いやね。」
「ええ?そうですか。ショックぅー。でも、高野さんは変らんですね。あの頃もおきれいでしたし、今も、ね。」
「高野さんは、やっぱり厳しかったんですか。聞きたいな。」
「何、畑山君。あたしは厳しくなんかないわよ。」
「そりゃあ、もう、ビッシビッシでした。所長はね、転職してこられてたので叱られることはありませんでした。でも、僕なんかは、なーんも分かっとらん若造ですもん。高野さんにビッシビッシと鞭打たれましたよ。」
「ビッシビッシ、ね。」
「そう、ビッシビッシ。」
「何言ってるのよ。本来、新入社員の研修は社会人としての常識も教えなければならないの。だから、少しくらいは厳しくしなければいけないわけ。」
「そうです。そうなんですけど、ほら、高野さんは営業部のマドンナでしたからね、大卒のヒヨッコには見ただけで目が潰れそうなくらい神々しいお方だったとですよ。もう女神様ですよ、言うなれば。言うなれば。その女神様から、『あなた、馬鹿じゃなないの?』とか叱られたら、どう思います?もう会社からアパートに帰ったら、首をくくって死のうと思いましたもん。」
「馬鹿ね。」
「ほら、ほら、ほ~ら。聞いたでしょう?『馬鹿ね。』くぅー、ジンジンくるなぁ。柚子胡椒を一瓶食ろうたごたるばい。食べたことはないけど、です。」
「高野さんはマドンナだったんですか?」
「え?今でもそうでしょう?営業部の女神様ですよね?」
「今は企画課よ。」
「あ、そうかー、そうか、そうかー。企画課に異動になったんですよね。もう営業部ではないとですね。僕が入社した時は、内藤部長と高野さんが並ぶとキングアンドクィーンのようでした。え、内藤部長はどちらかと言うと、お殿様的な顔ではないですか。そう思いませんか?あれ、高野さんにも同意していただけない。おかしいなー。内藤部長は営業部のキングという感じで、高野さんがクィーンだと思ってました。その内藤部長も辞められて、寂しかです。内藤部長、中柳商事へ行かれたんですよね。よかねー、よかねー。僕も中柳商事へ行こうかな。内藤部長がおらっしゃった頃がよかった。そりゃあ良かった。井上の奴を叱ってくれましたからね。え?所長のことですよ。アイツはね、駄目です。
どこが駄目かと言うと、所長は奥村部長にべったりですもん。奥村部長に大切な尻の穴を貸したんじゃないんですかい。おっと失礼。しかし、この噂はあながち嘘でもない。穴だけに。な〜んて。え、福岡営業所内の噂です。そうです、福岡営業所は井上所長と僕しかおらんけん、僕が言ってる噂ということです。ここだけの話ですけどね、井上の奴、内藤部長時代には大人しかった癖に、奥村部長の部長就任が発表された日に、こう言いよったとですよ。『明けない夜はないのだよ、古賀。』偉そうに、人を呼び捨てにしよってから。僕はアイツの友達でもなんでもないとです。親しき仲にも礼儀ありだ。僕を呼び捨てにできるのは、そうだなー、高野さんくらいですかね。高野さ~ん、呼び捨てにしていいですから、『古賀』と言ってみてください。
ふざけてないですて。本気。本気と書いてマジ。は?まあいいじゃないですか。それにしても遅いですね。何をしとるのかな、ここの会社の人達は。井上所長も出て行ったきりで。待つしかないです。何の話でしたか?ああ、そうだ、僕たちは十五年前からずっと高野恭子ファンクラブの会員だったんです。井上所長もそうですよ。あれ、もう忘れたとですか?井上の奴が高野さんにセクハラをしようとして、内藤部長に殴られた事件。そうかー、そうかー、高野さんは知らなかったのかー。くそ、それを知ったら井上の奴が喜びよるなぁ。そしたら、ここで僕がお話ししておきますよ。十五年前に何があったのか。真実を知って、井上の奴を軽蔑してください。あはは。井上よ、ザマを見ろ。悪の栄えた例は無いのじゃ。
あれは、研修も残り一ヶ月になったあたりやったから、六月の終わり頃でしたか。僕と井上所長は奥村部長に飲みに連れて行かれました。ああ、その頃はまだ奥村課長で、所長も肩書はなかったのです。だから、井上さんと奥村課長と呼びますけん。連れて行かれたのは、結構おいしいしゃぶしゃぶのお店でした。でも、蒸し暑い日で、食べながら汗だくだくになりました。お腹もいっぱいなり、アルコールもいい加減まわった頃合いに、話が女の子の事になったとです。当然、社内の女性の品定めですよ。高野さんの顔が恐か。そう怒らんでください。男というものは下らんものなのです。男同士が寄り集まれば、女性の話題はアルファにしてオメガ、挨拶代わりであり、かつ究極の話題です。それで、誰それがかわいい、自分が好きなのは誰それだと、奥村課長も独身ですけん、盛り上りました。
そうですよ、奥村部長は今も独身ですよ。なんで結婚されんとですかね。知りませんけど。井上所長?結婚してます。ぶっさいくな奥さんですよ。所長そっくりなケチでね。
バーベキューをやるから来いと言われて、恐る恐る行ってみたとですよ。そしたらなーんか、ドブ川のごたる所にシートば広げて、小汚いガキが三人もいてですよ。上の子はゲームばっかしよってから挨拶もせん。真ん中のは女の子なんですが、どこがどう捻じ曲がっとるのか、僕の尻をボッコボコ蹴りよるとです。けたけた笑って。一番ちっこいのなんか鼻水ば僕のズボンにべらべらつけよってから、もう散々ですよ。こっちは良い肉とビールを持っていったとに、僕の皿には野菜とトウモロコシと焼きそばばっかりのせよって。僕が持って行った肉は『あーら、このお肉は高級品ちゃねー。』とかなんとか言いながらこっそり隠してしまいよりました。なんちゃ、あげな女が許されて、似たものどうしくっつきよるか、不思議ですばい。
僕ですか、まだ独身ですもん。どこかに良い人のおらんですかね。高野さんに憧れたままこの歳になってしまっとです。ひゃははは。
そいで、奥村課長と僕たちの好みの女性の話も、当然高野さんの事になりました。なるでしょう。なんと言うても一番でしたから。いや、今でも一番か?な、ヤング諸君もそう思われるでしょう?なにニヤニヤしとるっちゃ。ヤングやら死語ですか?ともかく、やっぱり高野さんが良い、一度でいいからデートしたい、と僕と井上さんが言うと、奥村課長があの目をすうっと細めまして。よしよし、みたいに、ね。それからこう言いよったんです。
『口先だけじゃ、どうしようもないだろう。行動に移さないと、行動に。』
行動と言っても何をしたらいいですか、と井上さんが訊くと、『今度、営業部で飲み会があるはずだから、その時、高野を酔わせて口説け。』と言いよったとです。いやいや、本当に奥村課長が言ったんです。本当、本当。井上さんはもう目をとろっとさせて奥村課長の方へ顎を突き出して、『いいんですか?本当に口説きますよ。』とか言いいだしよりました。奥村課長は『おう、いいぞ。口説け、口説け。』とけしかけて、井上さんはすっかりその気になったようでした。
僕は、どうせ酔っ払いの悪ふざけだろうと思っとったんですが、奥村課長が言う飲み会が近付くにつれて、井上さんがそわそわしだして、いよいよその日などは黒目が上にあがっていて、もうこれは本気も本気、危ないと思い知らされました。
たしか、その営業部の飲み会は七夕の日やった。ねえ、高野さん。」
「ああ、そうねえ。営業部で七夕にビアガーデンへ行ってたわ。」
「そうです。井上さんは色々準備してましたよ。準備している間に妄想がエスカレートして、おかしな方向へすっ飛んで行きよりました。
まず、飲み会でどうやって高野さんの横に座るか。内藤部長の横が高野さんの定位置なのは営業部の常識でしたから、それをどう乗り越えるかが最初の問題でした。これが内藤部長以外の人が障害物なら井上さんの図々しさで無理矢理も通せたでしょうけど、内藤部長だとそうもいかない。どうするか。内藤部長がトイレに席を立った隙を狙うとか。でも、内藤部長の膀胱が人一倍大きかったら、飲み会が終るまでトイレへ行かない可能性もある。井上さんは僕に、『内藤部長に、飲むとトイレが近くなるかどうか訊いてきてくれないか』と頼んできましたが、断りました。すると井上さんの思考は、内藤部長を飲み会へ参加させない方向へ向かい、当日の朝から内藤部長のコーヒーに下剤を混ぜようと言いだしたのです。それでも内藤部長の大腸が人一倍長かったら無駄になるから、何か仕事を入れて、飲み会に出席できなくすればいいということになりました。
本気ですよ。井上さんは本気でそう考えよったとです。
しかし、まだ研修中の井上さんに部長の仕事をどうこうできるわけなどありません。その位は井上さんも判断できて、井上さんは真面目に奥村課長に相談したとですよ。奥村課長は『まかせろ。俺がなんとかする。』と言いました。相談した井上さんも相当な奴ですが、それに『まかせろ』だなんて答える方も僕の想像を超えるとです。まあ、結局、なんともできなかったわけですが。でも、井上さんは、奥村課長は懐の広い人だ、侠気のある人だ、とか言って、目を潤ませよりました。
それから井上さんは高野さんの横に座ってからどうするかに集中するのだと宣言しまして。
『ああいうプライドの高い女に対しては、まず全否定から入る。』いや、これは井上さんが言ったとですよ。そげな怖い顔で睨みつけんでくださいよぉ、高野さ〜ん。井上さんが高野さんのことを『プライドの高い女』て言いよったとです。
『全否定して、そのプライドの城壁を崩してから、一気に攻めこむ。高いプライドの奥には、自信の無い本丸が隠れているのだ。その本丸を武装解除して、怒涛となって激しく、かと思えば両の掌で包むかのように優しく、さらに炎のように熱く隈なく、次の瞬間には春の風となってくすぐり、揺がしては慰め、静めては轟かし、緩急、緩急と絶え間ない波となって、敵が膝を屈っするまで攻め続ける。』てな意味不明な事をですね、しつこく繰り返すとです。目はぎらぎらと光らせて、小さな声でも念仏を唱えるように呟きよりました。これはなんだか危ないなと思っちょったら、そのうちこう言いだしました。
『飲み会の後、どこへ行くか。』
『はあ。』
『だから、飲み会で口説いた後だよ。』
『そうですね。』
『何がそうですね、だ。真面目に考えろ。場所を移して、最終段階へ行かねばなるまいが。』
『そうですか。』
『あたりまえばい。しかし、ああいうプライドの高い女は、なんのかんのと屁理屈を並べて尻込みするもんたい。への理屈で尻込みか。面白い。とにかく、それにあらかじめ手を打っておかにゃならん。ま、女に言い訳を与えてやるわけさ。』
『と言うと?』
『もうどうしようもなく眠くなって、仕方なくホテルへ入った、とか、な。』
『はあ?』
『目薬をさ、酒の中に垂らすといいとか聞いたこあろうもん。目薬を入れた酒を飲ませると眠らせることができる、とか。』
『ああ、高校生の頃、よくそんな話を聞きました。先輩たちが話してましたが、あれは昔の目薬のことだとか。』
『目薬はな。だから、本当に眠くなる薬を手に入れるわけ。』
『高野さんを眠らせてホテルへ連れ込もうとか考えとるとですか?それは犯罪じゃなかとですか?』
『阿呆。それまで俺の口説きでもう合意に逹っしとるとに、何が犯罪か。』
『ええー、そうかいな?でもですよ、飲み会の席で眠らせることはできんですよ。皆の目がありますよ。』
『なんとかなるさい。それよか、睡眠薬を手に入れねばならん。古賀くんはどこかにあてがなかかな?』
『あるわけないですよ。』
『困ったな。誰が病院に知り合いがおる奴はおらんかなあ。』
この調子でもう滅茶苦茶でした。本当にこんなことを言いよったんです。そ、最低、最悪です。
とんでもない事はもっと続きました。
内藤部長に病院関係者の知り合いがいるという話を井上さんが聞き付けてしまったのです。それで、僕はまさか井上さんもそこまではやらないだろうと思っとったら、そのまさかをやりおりました。しかも僕をだしにして。井上さんは内藤部長の所へ行って、古賀が不眠症で悩んでいる、医者に相談したいが、会社に知られると研修中なのでまずいのじゃないかと行けないでいる、と言ったとです。
内藤部長は、病気だったら治療した方がいい、心配しないで病院へ行けと答えたそうです。当たり前ですよね。それに対して井上さんは、博多からこちらに出てきていて良く知らないので、どこか信頼できる病院を紹介してくれないだろうかと頼み、内藤部長が保険組合の診療所を使えと言っていたのを押し切って、内藤部長の知り合いの病院をまんまと聞きだしました。自分が責任を持って古賀くんを病院へ連れて行きます、とかなんとか言ったようです。
いえ、僕は病院へ行ってません。井上さんは僕の保険証を持って、僕の振りをして診察を受けたのです。
お医者さんの前でどんなでたらめを言ったのか。その場に居合せなかったので分かりませんが、おそらく相当ちぐはぐな事を言ったんだろうと思います。あるいは、とにかく眠れなくて辛いから、よく効く睡眠薬をだしてくれと強引に押し通したか。聞いた話では、井上さんはようやく処方箋を出してもらったんですけれど、その時も、この薬はすぐに眠れるかどうかとしつこく質問し、お医者さんからかなり怪しまれたそうです。何故そんな事を訊いたかと言えば、眠くなるのに時間がかったのでは思い通りにならないからです。
そやけん、井上さんは薬局で薬の袋を開け、自分で飲んでみたとです。どのくらいで効き目が現われるのか、試してみたくなったわけですよ。
薬局を出て、電車に乗る頃にはふらふらになってしまい、様子が変なので、乗客から通報されて電車を降ろされたそうです。持っていた処方箋から薬局、病院と連絡が行き、結局、紹介者となっていた内藤部長が呼び出されたました。そこで僕の振りをしていたことがバレて、井上さんは問い詰められ、あっさりと計画を吐いてしまったらしいとです。なんでしょうね。睡眠薬の副作用でもあったとか、頭がぼんやりしていたのでしょうかね。高野さんを眠らせてホテルに連れ込むつもりだったとまで内藤部長に言ってしまったそうですから。内藤部長はびっくりしカンカンになって、井上さんをごつごつ殴り倒したそうですよ。どうやら、その時井上さんは、奥村課長が一枚噛んでいるというような事も口を滑らしたようです。そのせいで奥村課長は内藤部長に酷く叱られ、奥村課長の方ではそれを随分と根に持ったとか。井上さんは真っ青な顔で奥村課長に土下座したそうですが、奥村課長は全然怒らず、それっきり井上さんは奥村派ですもん。
なんとも滅茶苦茶な、最低な、馬鹿げた話でしょう。ああいう事が井上の本性そのものなんですよ、高野さん。分かりましたか。ああ、すっきりしました。」
「へえー。」畑山がふうっと息を吐きながら体を起し、ソファの背凭れに背中を伸ばした。
「まったく、あきれ返るわね。人のこと何だと思ってるわけ?会社に何しに来てるわけ?馬鹿じゃないの。馬鹿だけじゃなくて、犯罪者ね。もう、信じられない。」恭子さんが一息にまくしたてた。「会社に何しに来てるのか」という質問は、そのまま恭子さんにも訊いてみたいものだ、と和樹は思った。
「高野さんは全然知らなかったんですか?」
「知るわけないでしょう。気持悪いわ、まったく。」
古賀はニヤニヤして恭子さんの反応を見ていた。
「あー、やだやだ。古賀くん、二度と聞きたくないわよ、そんな話。分かった?」
「はいはい。分かりました。怒らんといてくださいよ、高野さん。」
「ま、あなたに怒っても仕方ないわね。…お手洗は何処かしら。」
「あ、ここを出て、左手の突き当たりを右に曲った所にあります。」
「ありがとう。ちょっと失礼します。」
恭子さんが皆の視線の中で立ち上がった。が、平均より低め、かつ横幅との差があまり無いため、立ったのかどうか変化が分かりにくかった。スーツ姿の恭子さんは実におばさんだった。

 恭子さんが応接室から出て行くとすぐに、和樹は声をひそめて古賀に質問した。
「高野さんて、昔はそんなに良かったんですか?」
「はあ?どういうこと?」
「だって話を聞いていると、内藤さんや奥村部長を含めて、みなさんが高野さんを巡って大騒ぎしていた様じゃないですか。でも僕には正直、今の高野さんからは想像できないんですよ。それで昔は今と違っていたのかな、と。」和樹にしてみれば、居眠りとミスばっかりの、ジャバ・ザ・ハット餅おばさんに男が群がるはずなどないのである。しかし、古賀の話に誇張があるとしても、それが事実であるなら、恭子さんは今と違って別人のようだったということになるだろう。それ以外の事は和樹には思いもよらなかった。
「そうねぇ。今より随分痩せていたかいなぁ。それ以外は変ってないよ〜。あまりお変りない。」
「ええ?あんな女にみんなが目の色変えてたんですか?想像できないです。」横で畑山が激しくうなずいていた。
「あんな女って、あははは。ひどい事ば言うねえ。あははは。あんな女が好きな男もいるとばい。僕は違うよ。」
「でも、さっきから『高野さん、高野さん』て…」
「あれは社交辞令たい。挨拶のお世辞くさ。」
「とてもそうには聞こえませんでしたよ。」
「そうね?でも、高野さんは僕のタイプじゃなか。鼻の穴もでかいし、そのくせ目は小さいし。僕はどちらかというと、もっと目がパッチリした女性がよか。」
「いやあ、それなら尚更ですよ、何故恭子さんがもてたんですか?」
「う〜ん。でも、もてたと言っても、恭子さんに熱を上げとったのは、内藤部長やろ、奥村課長やろ、井上さんの三人くらいなもんばい。」
「三人もいれば十分ですよ。」
「多いくらい。」
「そうねえ、何だろうねえ。フェロモンかなあ。奥村課長、おっと部長か、奥村部長が『あの女はくすぐられ好きじゃないか』と言ってたねえ。こう、気安く近寄ってきて、くすぐられるのを期待している、みたいな雰囲気を出しとるような気がしたよ、あの頃。」
「分からん。分からん。」畑山が腕組みを揺らした。和樹は古賀の「フェロモン」という言葉に、恭子さんのずり上がりかけたスカートと太腿を思い出していた。それから、歯車が噛み合って回りだすような自分の連想にげんなりした。
「あとさ、内藤元部長と恭子さんの仲は、そもそも恭子さんの方から仕掛けたとばい。それとさ、奥村部長が恭子さんに手を出そうとした話は知っとる?井上所長が睡眠薬騒ぎを起す前の事さ。社員旅行の時、宴会の席で奥村部長は、あ、その頃はまだ課長ね、恭子さんにねちねちと言い寄ってから、しまいには恭子さんにビールを浴せられたらしいよ。ビールを頭からね、こうやってコップでかけたんだと。僕の目から見たところではですね、奥村部長が恭子さんに言い寄ったとは、内藤元部長になりたかったからじゃないか、と思う。奥村部長は内藤元部長のようになりたくて、恭子さんも欲しかったんだね。」
その時、駆け足の音が近付いてきて、三人は口を閉じた。和樹は恭子さんがトイレの水を止められずにパニックを起こし、助けを求めに帰ってきたのかと思った。
が、ドアを開けて顔を出したのは井上所長だった。
「古賀君、それと東京の人たちも、ちょっと来てくれんか。」井上所長の後ろには戻ってきた恭子さんの顔があった。
「どうしたんです?」
「早う、早う。理由は歩きながら説明するけん。」

 応接から一旦玄関を出て、建物の右に回り込んだ。井上所長の隣を古賀が歩き、和樹たちはその後ろに続いた。森を押し止めている柵と建物の間には、和樹たちが横に並んで歩けるほどの空きがあり、森から建物へと手を伸ばした枝々がひんやりとした陰を敷いていた。鳥の声も絶えていた。振り返りながら話す井上所長の声だけが和樹の耳に届いた。
「さっきのアキちゃんがね。倒れてしもうたらしい。社長が病院へ連れて行くんだが、今ラインを見ておれる人間がいなくてさ。」
「吉野さんはお休みですか?」古賀が訊いた。
「うん、うん。ちょうどタイミングが悪かと。それでさ、機械を動かし始めたところだから、もう手伝ってくれんか、ということなわけ。」
「あれ、今日は挨拶だけだったでしょ?」
「そうばってん、こうした状況だから、一日早いがお願いできませんか、ということです。みなさん。」
井上所長がさっと手を前に伸ばした。その先には、背の低い、ネズミ色の建物があった。一見すると窓がない。壁板の継ぎ目から雨水の跡が汚なく垂れていた。そこに目がいってから改めて建物を見ると、至る所に黒ずんだ染みが浮んでいるのに気づく。
和樹たちが面した壁の一角に入口があった。今は扉が内側に開いたままになっていた。その入口にくっきりとした日射しが切り込んで、グリーンの床の上に眩しい三角形を描いている。そこへスニーカーの爪先が現れるのが見えると、建物の中の影から若い男が出てきて、和樹たちの方へお辞儀した。最初に和樹たちを応接へ案内した男性だった。
「お、どうも、どうも。んん?まだ、スイッチは入れとらんとですかな?」
「はい。これから稼動させるところだったので。」
「そうか。それはある意味、都合がよかった。さ、みなさん、入って。」
促されて細い通路を入って行った部屋には、長い折り畳みテーブルが中央に一本あり、壁にずらりとロッカーが並んでいた。
若い男は、テーブルの上の白い布の山を指差して言った。
「これを着てください。帽子とマスクの着用も忘れないでください。上着やらは脱がれて着られたほうが動きやすいと思います。脱がれたものは空いているロッカーば使ってもらって構いません。ここから向こうのロッカーは誰も使ってませんです。」
「そしたら、みなさん、森本くんが教えてくれますので、指示に従って頑張ってください。ちょっと予定が狂いましたが、早くなったと思えばよかとです。ある意味、光正商会さんのピンチですから、我々で応援しましょう。」
「さっぱり訳が分からないんだけど。」恭子さんの声は遠慮を忘れた大きさになっていた。
「なにがですか?」
「私たちに何をしろと言うの?」
「ここの手伝いを。」
「ええー?何故?」
「さっきも説明しましたけど、ほら、アキちゃんというお茶を持ってきた女の子が倒れて…」
「待って。一日早いとか、予定が早まったとか言ってたけれど、それはどういうことなの?」
この時ばかりは和樹も恭子さんの質問にすんなりと同調していた。
「予定ではですね、今日は挨拶だけして、明日からこちらのお手伝いをすることになっておりました。それが少し早まったということですばい。」
「ここの手伝い?展示会のお手伝いじゃないの?」
「いんや、光正商会さんの工場のお手伝いですよ。ちょうど社員の方の休暇が重なって、人手が足らんごとなってしまわしたけん、当社でピンチのお手伝いをするとです。」
「僕達、福岡の展示会の展示の手伝いをするって聞いてきたんですけど?」畑山が森本と呼ばれた男のことを気にしながら抑えた声で言った。
「いんや〜、なんやろ?福岡の展示会やら今は開かれておらんけど。古賀くん、知っとうや?」
「知らんです。」
「ちょっと、井上くん。」
「あのさ、高野さん。一応、わたしも役職がありますけん。昔馴染での『くん』づけは控えていただけません?ここは他の会社さんですけん。」
恭子さんは井上所長の唐突な強い口調に一瞬たじろいでしまった。井上所長はそんな恭子さんを睨み付けてから言った。
「奥村部長にはメールでも伝えたけどなあ。光正商会さんの工場の手伝いだと。なあ、古賀くん。あのメール、君にもBCCしておいたよな?」
「はい、僕も見ました。」
「なによ、それ。ちょっと私、高野課長に電話して聞きます。あの、ここで携帯を使ってもいいでしょうか?」
「あ、どうぞ。でも、ここら辺、だいだい圏外ですけど。」
森本の返事に臆することなく、恭子さんは携帯を取り出した。畑山も和樹も俥を降りた時に電波が届かないのを知っていたが、もしかしてと思って自分の携帯を確認してみた。
「本当。」
「やっぱり、圏外ですね。」
「社員の皆さん、不便ですよね?」畑山が森本に気をつかった。
「ええ、まあ。でも慣れれちょるけんですね。」
「すみませんけど、事務所の電話を貸していただけませんでしょうか?本社に重大な確認事項があるものですから。」
言葉遣いが奇妙なうえに、森本がその場にいて話の流れを知っているはずなのを無視して「確認事項」などと殊更言うところがいかにも恭子さんだった。加えて、「重大」などという自分中心の余計な情報を押し付けるのも忘れていない。
「よかですよ。こちらが事務所ですから。」森本は恭子さんを連れて部屋を出て行った。
恐らく原因は奥村部長か井上所長のどちらかにあるのだ。またはその両方か。誰かがいい加減な事を伝えたということは確実だった。営業部の畑山も知らなかったのだから、部署の違う高野課長の仕業とは考えにくい。それでも恭子さんは高野課長に電話するつもりだろう。情報を正確に伝えられないおっさんたちもにうんざりだし、自分の気の済むまで騒ぐつもりのおばさんにもげんなりだった。そのおばさんと同じ側に自分が位置付けられかけていることを思い出すと、和樹は苛々してきた。
もう九州の山の中まで来てしまっているのだから、高野課長に何を確認しようとも同じことなのだ。話が違うから帰ってこいなどという命令がでるはずもない。そうであれば、何をやらせられるのか不安であるにしても、工場の手伝いとやらをさっさと始めた方がいい。

「おい、古賀くん。僕は荒牧先生にアポとっとったとばい。今になって思い出した。」
「あれ、そうでしたか?」
「そいけん、行かにゃならんばい。すまんけど、後を頼む。そしたら、えっと、お二人さん。僕はちょっと離れます。」
「え?」「マジですか?」
「大丈夫、大丈夫。夕方になったら迎えに来るけんですね。では、では。」
手刀を下から上へすいすいと二度振って、あれよあれよと井上所長は去った。古賀が「逃げよった。」と忌々しそうに呟いた。
「どうなるんだよ、俺たち。」畑山が和樹に訊いた。和樹は首をすくめて見せた。
「ま、大丈夫やろ。ここの工場はフル・オートマチックで、人間のやることは監視だけらしかけんですね、難しくはないはずです。」
「ここでは何を作ってるんですか?」和樹が古賀に訊いた。
「辛子大福。」
「大福?食べ物ですか?うちの会社は食品関係と取引できるんですか?」
「辛子大福はここの本業ではないとです。でもね、最近始めて、これを本業にしようと力を入れとるようです。」
「つまり僕達のお手伝いは大福作りということですか?」
「そういうことだね。」
「その辛子大福って、餡の中に辛子が入ってるんですか、それとも外側に辛子が練り込んであるとか。」唖然としている和樹を尻目に、畑山がおどけたように訊いてきた。
「さあて、さあて、よく知らん。」
「そうかー、どんな味なんですかね。」
そこへ恭子さんが森本と一緒に帰ってきた。
「どうでした?」畑山が笑顔で恭子さんに声をかけた。
「もう、高野課長は出張なの。何にもハッキリしないわ。どうなってんのかしら。」恭子さんは、畑山の顔をちらりと見ると、テーブルに軽く指を触れながら行ったり来たりした。
「高野さん。もう仕方ないですから工場の仕事をやらせてもらうしかないです。」和樹の言葉に恭子さんは止まると、和樹の目は見ずに言った。
「でも、話が違うじゃない。本来、命令と違うことをしてはいけないのよ。命令は展示会の手伝いなの。工場の作業ではないはずなんです。」
「それでも、やっぱり仕方ないでしょう。」
「そうかしら。あたしはそう思わないけど。仕方ない、仕方ないで諦めていいのかしら。溝口さん、結構簡単に諦めるわよね。それって良いのかしら…。あら、井上くんは?」
「約束があるとかで、出て行かれました。夕方に迎えに来てくださるそうです。」和樹が恭子さんの口からでた批判の言葉に不意を突かれて黙っていると、畑山が恭子さんの質問に答えていた。
「何それ。無責任よ。信じられない。自分の伝え方がまずかったから、極りが悪くなって逃げたんじゃないの。信じられない。有り得ない。」
「まあ本当のとこは分かりませんけどね。それを追求したところで…」
「あの。」そこへ森本が口を挟んだ。「あの。横から申し訳ないとですが、もし良ければですね、手伝っていただけると有り難いとですが。今のうちに機械を動かしておかないと夕方の納品に間に合わんとです。僕一人じゃ、ちいとばっかし無理とです。ですから、今日だけでも手伝っていただけると助かります。」
「おう、おう、森本くん、あたりまえたい。是非手伝わせていただきますよ。ねえ、高野さん。」
「…」
「じゃ、やりましょうか。な、溝口。やらせていただきますよ。」
「いいですか。」「もちろん。」というやり取りがあって、森本はテーブルの上の白い布の山を再び指差して「これを着てください。靴は、工場の中に入る前に履き替えますので。」と言った。和樹が見やると、どうやら恭子さんはしぶしぶ従うようだった。それから、服のサイズはどうなっているんだ、パンツを履くようになっている、ここでは着替えられないということになって、結局、恭子さんは女子のロッカー室へ案内された。

 和樹たちが作業服を上下、帽子、マスクと白づくめになって勢揃いすると、背の高さだけで見分けるしかなかった。恭子さんだけが一段背が低く、目立ってその人と分かるのだった。
森本に引率されて工場に入った。
マスクを通しても、胸を埋めるような、粉っぽい匂いが分かった。
学校の体育館並の広さの所を、ステンレス製の機械が埋めつくしていた。それほど高くない天井から蛍光灯が隈無く照らし、その光を銀色の機械が反射して、影がことごとく無くなっているように見えた。機械はおおよそ三列に分かれ、その間をローラーコンベアが貫いて繋いでいる。どの機械も複雑に絡み合っていた。どちらを向いてもステンレスの光沢があるため、厨房の設備の雰囲気が漂よっていて、そこへ、見当もつかない目的で畸形の技術がぶちまけられたようだった。
畑山が和樹に耳打ちした。
「辛子大福でこんなに大掛かりな設備が必要なのか?まだ売れてもないんだろう?」
森本は和樹たちを連れて機械の間を歩き、一人一人と指差し、機械の操作パネルへ連れて行っては仕事の段取りを説明した。まず古賀、次に畑山が持ち場を与えられた。どちらの仕事も単純なもので、パネルのディスプレイに表示される数値とメッセージを監視するのである。数値は、機械の各所の状態についてのセンサーの測定値で、それぞれに標準値が決まっている。そこからずれだすと、数値の色が緑から橙、赤へと変化する。ひとつでも赤に変化すると要注意で、いくつかの数値が赤になってしまうと、メッセージが表示されるので、そのメッセージに従ってパネルのボタンやスライドバーを操作するのだ。古賀の持ち場には操作するように言われたボタンが一つしかなかったが、畑山の所にはボタンとスライドバーが二つずつあった。どちらの操作パネルにも、与えられた仕事には関係ない部分がいくつかあって、その一つは特に、「これだけは僕の指示がない限り触らないでください。」と念を押されていた。見ると、ボタンの表面に「緊急停止」と印字してあった。
それからだいぶ離れて、もう装置の行列の終端近くまで歩いていき、森本は、あろうことか和樹と恭子さんの二人でペアになって監視するように言った。
「ここはもう最終工程で、箱詰めまでやります。他よりも少しばっかり複雑な作業ですけん、お二人でやってください。」
森本の説明によれば、片方がディスプレイの数値を監視し、もう一方がその数値にあわせて別の操作パネルでレバーを上下するのだ。
「こんなに機械化されているのに、人間が合図するんですか。」
和樹が驚いて発した言葉を森本は質問と捉えて頷き、言った。
「どうもここの連携のタイミングが上手くいかなくてですね。機械の業者が何度も来て調整しよったとですが、駄目でした。仕方ないので、僕達人間がコントロールします。」

森本がライン全体の起動を行うために去ると、恭子さんはスススッと和樹に近付いてきて、マスクを掴んで下げると、「溝口さん、どうします?」と訊いてきた。
「レバーの方は立ったままやらなければならないようですね。数字の方を高野さんが担当してもらえますか。」
「はい。」恭子さんの声が妙に高く、甘ったるく聞こえるので、こちらが気を使うのを予め計算していたのではないかと和樹は思った。「なんだか緊張するわね。」
「では、皆さん。ラインを稼動させます。僕は、 餡と辛子と皮をセットしたら、製品の運び出しを担当します。皆さんの所には管理者呼び出し用の内線があると思います。その内線は、僕が持っているPHSに繋がっておりますので、何かあったら呼び出してください。よろしいでしょうか。では、スタート。」
館内放送で森本の開始の合図が響いた。
あちこちでガタン、ガタンという音がした。それにつれてモーターが回りだし、ファンの音が重なって、場内は低い唸りに満たされた。
それでもすぐには何も起らない。森本が一人で原材料をセットするのだから、それなりに時間がかかるだろう。それが済んでも、上流から和樹たちの所まで流れてくるのはまだ先のことになりそうだった。
「これは貴重な体験よね。」恭子さんが話しだした。マスクを戻しているので声がくぐもっていた。それでも場内の音に負けないように少し大きな声をだしている。「ああん、カメラを持ってくればよかった。」
「写真を撮るんですか。」
「ここの事を書いてアップしたら面白いと思って。まだ誰も辛子大福なんて知らないでしょう?後で試食させてくれないかしら。」
「明日、明後日もありますから、撮るチャンスはあると思いますよ。」
「そうよね。…それにしても、今回の出張はひどい。そう思いません?だって、展示会の手伝いだなんて嘘八百。本当は工場の手伝いでしたなんて。馬鹿にしてる。本来バイトを雇うべきよ。ここの会社にいい顔したいなら、うちの会社がバイトを雇って、それをここに来させればいいんじゃない。東京から飛行機を使って社員を送り込むような事じゃないわ。」
「どこかで伝達ミスがあったんでしょうね。」
「うん、奥村部長かしら。」
「井上所長が勘違いしたのかも。」
「奥村部長ね。あたしへの嫌がらせよ。」
「でもそれでは僕と畑山が余計でしょう?」
「でも、溝口さんはあたしと同じチームだし、畑山さんは溝口さんとお友達でしょう。だから、ターゲットになったのかもしれない。最低。卑劣よ。奥村部長はケダモノだわ。」
恭子さんが「同じチーム」と言ったのは、和樹と対等に仕事をしていると思い込んでいるからだろう。しかし、和樹にしてみれば、それは恭子さんのとんでもない錯覚なのだ。
それから和樹は、奥村部長がケダモノだというのには、全然別の方角からの恭子さんの感想だろうと思った。
「溝口さん、本当にごめんなさいね。」
「え?何がですか?」
「わたしなんかと同じチームになったばっかりに、溝口さんがこんな馬鹿げたことに巻き込まれて、申し訳ないと思ってるんです。営業部の権力争いの結果が、奥村部長の個人的な、んー、なんと言うのか、恨みになるのかな、わたしに対する恨みになって、それが溝口さんにまで及んでしまって。すみません。それだけじゃなくて、企画課の仕事でも色々迷惑をかけているし。」
「迷惑じゃないですよ。」迷惑と言われると何か違和感があった。そういう感情の貸し借りみたいなものなど、和樹には少しもないのだ。しかし、恭子さんは和樹に説明させてはくれなかった。
「いえ、やはり迷惑は迷惑ですから。私は本当に申し訳ないと思っているの。本来なら、わたしがもっとちゃんとしなければならないのに。」
「ちゃんと、ですか。」ちゃんとというのは便利な言葉だ、と和樹は思った。具体的なことは何も言っていない。
「そうなんです。でも、言い訳じゃないんですが、母が高齢で、少しボケが始まってしまっていて。家では母の面倒を見なければならないので、夜遅くなってからでないと自分のことができないんです。そのせいで会社で少しぼんやりしてしまうみたいで。溝口さんには理解してもらってると思うんですけど、それでも私の問題なので、本来自分がもっとちゃんとしなければならないな、と感じているんです。もう本音を言いますと、自分でも歯痒くて、うーんていうのかなぁ。企画課の仕事ももっと覚えて、溝口さんに迷惑をかけないようにしなければならないし…」
どうやら恭子さんは、仕事中の居眠りと仕事そのものが出来ないことを、こんな時に言い訳しているようだった。
母親がボケて、面倒をみなければならず、それに自分の趣味も忙しいので夜更かしをします、だから昼間は眠くて、仕事中居眠りをします。仕事は、覚えるつもりはあるんですけど、まだ覚えられません。いつになったら覚えられるのか分からないけど。
こんな言い訳を聞いて、和樹に同情して欲しいのだろうか。まさか愛して欲しいということはないだろう。「大変ですね」とか言って欲しいのか。多分、恭子さんは自分の気持に収まりをつけたいだけなのだ。和樹は、それならばいっそのこと、「高野さんの鼻の穴はデカイですね。」と突然、まるで関係ない言葉を投げつけてやろうかと思った。
恭子さんはこうして自分の気分の為だけに無駄な言い訳をして、ここの仕事が済んで東京に戻ったら、言い訳する前と変らず、うとうとと同じことを繰り返すのだろう。そして定年を迎えて、会社とも馬鹿な奥村部長ともサヨナラするのだ。自分のプライドを死守するために「本来」とか「べき」を武器として振りかざし、それでいて現実を認めようとしないまま、生活の道があちらこちら穴ぼこだらけになったのを認めないまま、フゴー、フゴーと鼻の穴をから空気を出入りさせて過すのだ。
急に恭子さんの姿が、白衣の内側にすっぽりと収まったように和樹は感じた。不透明で、べっちゃりした、ジャバ・ザ・ハット餅が、白衣に包まれてそこにそのままの姿で立っている。それ以上でも、以下でもない。
和樹の理解もそこまで、その限り、それより先に進まず、一日の何時間か以上に共有するものもなく、ここの今より頒ちあうこともない。つまるところ、会社とかいう場所で面つきあわせるだけのつきあいというわけだ。
恭子さんの頭頂でじわじわと領土を拡張している白髪が目に浮かんだ。
その時、和樹たちの持ち場のローラーコンベアが一斉に回りだした。機械がざあっと滝を落とすような音をさせた。もう話しができるような空間は無くなって、二人とも自分たちの前の機械に向き直った。
場内をモーターの唸りが満たし、その上に、箱いっぱいのネジを揺するような音、瓶を次から次へとぶつけるような音、歯車でできた烏の鳴き声がリズミカルに絡み合っった。
和樹たちの持ち場の機械は、上下二つの大きな長方形の箱がコンベアを挟みこんでいて、上の箱の底面にそれぞれ形の異なる棒が出ているのが見えた。
そこへ、二つずつケースに入った「辛子大福」が流れてきた。
先頭のケースが最初の棒に近付くと、恭子さんのパネルに表示されている数字がゼロから変化した。
「23。」と恭子さんがその数値を読み上げる。数値がマイナスになると和樹がレバーを操作しなければならないのだ。
機械は棒の先端で「辛子大福」をひとつずつ、チョンチョンと触れた。次の棒は先端が小さな丸い円盤になっている。それで又、ひとつずつ触れる。その次は、小振りのトングのようなものが下りてきて、大福の両脇をクイックイッとつまむのだ。最後に二枚の板がケースの蓋を閉じ、四角い棒がすばやくケースにステープラーを打つ。
その間恭子さんが「23、23、23。」と数字を読み上げる。
「高野さん、マイナスになった時だけ読み上げて下さい。」「はい。」
「辛子大福」はどんどん流れてきた。
チョンチョン、チョンチョン、クイックイッ、カチカチ、チョンチョン、チョンチョン、クイックイッ、カチカチ。
和樹たちの所を出た「辛子大福」は、もう一度何かの機械を通ってからコンベアの終端に溜るようだった。その脇にはクリーム色のコンテナボックスが積んであった。
そこへ森本が小走りに到着した。和樹の所から実際の作業は見えなかったが、森本は「辛子大福」のケースをコンテナボックスに並べ、ある程度の数のコンテナボッスがいっぱいになったら、台車で場外へ運びだすのだろう。
最終工程に納得すると和樹は、目の前の「辛子大福」の行列に目を戻した。結構なスピードで流れている。
時々、和樹たちの所から遠く、場内の真ん中あたりで、圧搾空気が排気される音がした。
騒音がリズミカルなので直に慣れてきた。すると騒音は意識の背景に退いて、和樹の頭の中だけに静けさが生まれた。すぐに和樹の頭の中はとりとめない考えでいっぱいになった。畑山と古賀はどうしてるのだろうか、明日はこの仕事を一日やることになるのだろうか、こんな所にこんな仕事をしに来る人がいるのか、晩は何か旨い物を食べたい、東京へ戻ったら恭子さんと同じ扱いから抜け出したい。
どれだけそうしていたのか、ふと気がつくと、コンベアの流れが注意を引き付けた。「辛子大福」のケースが少し斜めになってコンベアを流れていた。機械が刻むリズムの中におかしな音が混じっていた。何か潰れるような音。
たちまち「辛子大福」のケースがひっかかり、止まり、後から来たものがその上に乗りあげ、また後から来た一つに押されて、塔のように立ち上がったかと思うと、コンベアの外に倒れて落ちた。それからそれへ「辛子大福」は溜まり続けた。
はっとして和樹は恭子さんを見た。
恭子さんの鼻先が操作パネルにくっつきそうだった。こっくりこっくりと近づいてパネルに着地し、そのまま押し潰され、恭子さんの雄大な鼻の穴はひしゃげて山羊の瞳孔の形になった。
機械の中でも「辛子大福」が詰まっていた。到着する新たなケースが溜まった山にぶつかってぼろぼろとコンベアの左右に落下していく。
「高野さん!」
和樹が叫ぶと恭子さんははっとして体を起こし、何事もなかったふりをして「マイナス5。」とパネルの数字を読んだ。
その時、トング形の棒のあたりから「ビーン」という音がして、何かが和樹の頭めがけて飛んできた。咄嗟に頭を下げて和樹は飛んできたものをよけた。背後でぐしゃっという音がした。振り向くと、ケースが辛子大福を吐き散らかしていた。また機械から弾ける音がして、辛子大福のケースがコンベアの外に転がり落ちた。
「高野さん、緊急停止ボタン、緊急停止ボタン!」
叫ぶ和樹に目を剥いた恭子さんは、一瞬凍りつき、それからあわてて操作パネルの上で「緊急停止ボタン」を探した。しかし、「緊急停止ボタン」は恭子さん側のパネルには無く、実は和樹の前のパネルについていた。それを知らない恭子さんはとりあえず赤いボタンを連打した。
「ビーン、ビーン、ビーン」
弾ける音が速くなった。今や暴発した花火倉庫のように、四方八方へ辛子大福が発射されだした。
「おい!どうした?」
遠くで古賀の声が聞こえたようだった。和樹は辛子大福の弾幕をよけるのに精一杯で、返事をする余裕はなかった。辛子大福は着弾して破裂し、餡をぶちまけ、辛子を飛び散らせた。
ひときわ高く発射されたケースが、空中で回転しながら場内の真ん中あたりへ飛んで行ったのが見えた。そこから古賀か畑山の「うわー!」という叫びが聞こえた。
和樹はしゃがんで頭を抱えながら、恭子さんに近づき、呆然と突っ立っている恭子さんをしゃがませようとした。耳もとで辛子大福爆弾が風を切る音がする。床には、黒く見える餡がぼたぼたと広がり、それに辛子の鮮かな黄色が鳥の糞に似た飛沫を叩きつけていた。餡の甘ったるい匂いと辛子の刺激臭が分かった。
和樹が恭子さんの白衣の裾に手を伸ばした時、しゅるしゅると音がしたと思うと、横に回りながら飛んできた辛子大福のケースに手をはたき落された。
「痛ーっ!…高野さん、高野さん、危ないから。しゃがんで。高野さん!」
機械から異音が轟きはじめ、餡と辛子の阿鼻叫喚が地獄への斜面を滑り落ちる中、和樹は声を張りあげた。
すでにトング形の棒は連続的に振動し、「ビーン」という長い唸りに変化して、その形も目には見えなくなった。辛子大福爆弾の弾はまだまだ到着していた。人が息をつく暇など少しも与えず、空中に辛子大福が浮んでいない時がない程に、次、また次と、右に左に上に下に、辛子大福爆弾が発射され続けた。
恭子さんの体がよろめき、一歩二歩と後退った。左肩に辛子大福が命中したのだ。
「危い、危ない、危いからしゃがんでください!高野さん、てば!」
和樹が見上げると恭子さんは大福の餡を両方の鼻の穴に詰めてふざけているようだった。しかし、それは恭子さんの鼻の穴が大きくて、餡が詰められているように見えただけ、恭子さんはふざけているはずはなく、混乱に目を見開いているだけだった。その恭子さんの顔へ、辛子大福爆弾が命中した。射出される時にケースが外れ、皮もやぶれた辛子大福は、恭子さんの顔の真ん中を直撃し、餡まみれにした。餡の中の辛子も破裂した。その様子が、恭子さんをスカトロ趣味の変態に見せた。
恭子さんの頬についている餡の塊がずり落ち、和樹は思わず身を引いてその餡の塊を避けた。
あの唇は餡こ臭くなっているだろう、と和樹は思った。そして、その場から逃げだすことにした。

監禁された女/青空(一) [小さな話]

 オフィスのドアを開けた時、話し声がやんだ。彼はそう感じた。「だるまさんがころんだ」と言って振り返った時のような空気の中、視線が自分に集まっているのが分かった。高岡真理の机の周りに女の子たちが固まっている。彼が会議で不在の間、一息入れていたという事らしい。だが、見咎められて首をすくめる様子はない。彼の視線を捉えて、彼女たちの輪へ引きこもうとする気色があった。女性たちのこんな調子は良くない徴だ。女たちが集まってこちらを見ていると、たいてい面倒なことが起きる。何か要求してくるか、彼に何かをやらせようとするか。尖ってはいないが固い棒のひと突きを繰り出してくる前触れだった。
彼の経験が警報を鳴らし、思わず矛先をそらそうと、その場に見当たらない男性社員の名前を彼は口に出した。
「佐山くんは?」
「営業部です。西谷さんに呼ばれて。」佐山と机を並べている子が答えた。その先は継がれず、女性たちの輪の間で視線が行き交う。誰が口火を切るのかと問いかけているのだろう。
「課長。」輪の中心にいる高岡が、牽制のやり取りを払うように口を開いた。彼の目をまっすぐ捉えていた。
「ん?」
「その西谷さんのことなんですけど。」高岡がゆっくり立ち上がった。彼の部署では、もう一番の年長になっているが、背丈も一番だ。女性たちの輪の中に立つと、腰元連を従えたお姫様と例えたくなる。おそらく彼女は、彼のそういう連想も感づいているだろう。彼のことを一番知っているのも高岡真理だった。
「西谷さん、大丈夫なんでしょうか。様子がおかしいようなんですけど。ね、友野さん。課長にお話ししてください。」
友野由紀恵が促されて話しだした。
「今朝、給湯室にいた時のことなんですけど、西谷さんがいきなり入ってきて、流しをじっと見てるんです。目をギラギラさせて。何を見てんのかなあってのぞいたら、流しの底にゴキブリがいたんですよ。」(「いやぁ。」「いるよねぇ、時々。」「この前、ホイホイ置いたのに。」と口々の反応があった。)「そしたら、西谷さん、ぱってそのゴキブリを掴んで、口に入れたんです。」
キャーと悲鳴があがった。友野は渋面を作りながら続けた。
「で、そのまま食べだしたんです。ジャリジャリって口を動かしながら。おまけに私の方をじっと見てるんです。もう気持ち悪くて、気持ち悪くて。私、給湯室を飛び出てきちゃいました。」
友野が口を閉じると周りが一斉に話しだした。「信じられない。」「私、吐きそう。」「飲み込んだの?飲み込んだの?」「体に悪いんじゃないのぉ?」等などと喧しいのを幸いに、彼は自分の席に向かい、腰を下ろした。彼女たちの反応は恐らく二度目だ。最初に友野の話を聞いた時にすでにひと騒ぎしているはずだ。だからこれは彼に聞かせるためと自分たち自身のためだ。高岡が後をついてきて、彼の机の前に立った。彼は、高岡の目を見ながら言った。
「ゴキブリを食べるのは、まだ禁止していなかったっけ?」
「冗談では済まされないと思います。他の社員に不快感を与えます。西谷さんについては、他にもあります。最近、会社の備品がなくなることが多いんですが、無くなったものを西谷さんが持っているのを見た人がいます。」
「うちの課の備品を?」
「はい。お客様用のコーヒーカップが無くなりました。」
「なんでこちらまで出張してくるんだ。」
「それと、更衣室のロッカーを開けてるんじゃないかと思います。まだ物を盗られた人はいませんが、ロッカーの中の物の位置が変わっていたという人もいます。」
「ロッカー?分かった。総務に伝えて、相談しよう。西谷君のことは、さっきの連絡会議でも話題になった。」高岡の後ろに並んでいる女子社員を見回しながら彼は声を大きくした。「まだハッキリした事柄ではないから、騒ぎ立てたりしないように。何かあったら、逐一報告してください。それと、ロッカーの鍵は必ずかけること。」
机の前の人の壁が、ひとまず落ち着いた表情で散らばる中、高岡だけは残って彼を見ていた。
「話が出たんですか?」
「うん。問題社員という事でね。営業部の誰かを脅したらしい。」
「男?女?」
「女の子。」
「あの人、完璧におかしいと思います。早めに対処しないと、大変なことになると思います。」
「そうだね。何か気がついたら教えて。」
「はい。」
彼は高岡から机の上へと視線を逸したので、彼女がまだ机の前に残って彼を見つめているのに気が付かなかった。
「…課長。疲れてます?」
驚いて見上げた先に、高岡の切れ長の瞳があった。何かを訴えている表情ではなく、それは、言葉より少しだけ別のものを問いかけていた。彼はそれに答えることが出来なかった。
「いや。大丈夫だよ。」
「そうですか。疲れてらっしゃるように見えたので。失礼します。」
高岡が自席に戻っても彼は、ため息をつきそうになるのを堪えた。今ため息をつけば、机二つしか離れていない高岡に聞こえてしまう。高岡真理は耳をこちらに向けてそばだてている。彼の様子をうかがっているのが肌に感じられた。彼女は、自分に対してため息をつかれたと誤解するかもしれない。誤解しないにしても、ため息の意味に気を使わせてしまうだろう。
高岡との間には微妙な緊張感が沈んでいる。後で声をかければ、高岡は彼のため息に付き合ってくれるだろうが、彼はそうしないし、彼女も今以上の行動に出ることはない。彼と高岡との距離は、彼が離婚して以来、緩やかな振幅を描きながら、結局元のままを保ってきていた。これから先どうなるのか。何が起きても、起こらなくも、彼は全てに背を向けていたい気分になっていた。
自分の体温の中で丸まってしまう夢想にもぐり込みたいと思った。
しかし西谷準の姿が、彼を慰撫してくれるはずのイメージを色褪せさせた。化膿した傷口のように不快な熱と疼きを脈動させて、彼の心の空間を腐敗の黒ずみでみるみる染めていった。
西谷準というのは異様な男だった。
年は、彼より十歳下で、三十二歳。新入社員の頃は人の話題に登るようなことはなかった。仙台営業所で五年を過ごし本社に戻ってきてから、人が変わったのか、地金を見せだしたのか、ちらほらとおかしな噂が流れるようになった。それは奇行や悪徳の噂で、はじめそこには、人付き合いのない私生活に対する憶測も混じって、まさかと鼻で笑っていられるものが多かった。その頃彼が聞いた噂の一つには、私鉄の始発電車に乗り、朝帰りで眠りこけている女性を狙って痴漢をしているというものがあった。営業成績が上々の部下のおかしな噂に、営業部長は苦笑していたが、やがて陰口に暴力が影を落としだして、部長の眉を顰ませることになった。
被害者として囁かれる名前は女性ばかりだった。
勤務態度が至って真面目で、あまり目立たない女性社員が、萎れるように元気をなくしたかと思うと、ある日突然会社を辞めていく。後から、西谷につきまとわれ、いいように遊ばれて、その上暴力を振るわれていたという話がついてくる。一人二人、あの子もあの子もと続いた。どうしたものか女性からの訴え出はなかった。それは西谷が被害者を操作して、他人に話させないようにしているからだと言う者もいた。噂に怯えて西谷と働くのを嫌がる社員もでてくる始末となって、西谷が所属するチームの女性社員の出入りが目立って増えてしまった。
とうとう営業部長が乗り出して、西谷準に事の真偽を問い質した。その顛末について、営業部長本人の口から彼は聞かされた。部長がその役職に就く前まで、彼は直属の部下として働いていたのだった。インターネット上での取引を扱う彼のチームが「eコマース課」として独立した後も、部長は話し相手として彼を選ぶことが多かった。彼は、目覚しい話題には乏しいが、辛抱強い聞き手と目されていた。西谷準相手のやり取りについても、部長から誘われた酒席で聞かされたのである。
部長は西谷のことを、とにかく気持ちの悪い奴だと評した。どうしてあれほど不快な印象を与える人間が会社にいるのか不思議だと言った。西谷が入社した時の事がまるで記憶にない。西谷を呼びつける前に人事部と相談して、西谷の履歴書を見てみたりもしたが、平凡そのもので何も思い出せなかった。いつの頃からか、気づかぬうちに会社にいるような感じがする。
そして、部長の眼前に座っていたのは、化粧でもしたかのように顔色の白い男だった。身なりに不潔感はないのだが、バラバラに乱れた印象を与える。鼻筋が通り、整った顔立ちと目の下の青黒い隈、頬の脂染みた影。瞳が描き込まれたかのように作り物めいて見えた。体つきは、兇暴なほどぶあつい。
結局、西谷は隙を見せず、無実を言い張った。根も葉もない噂だと固く主張した。一つ質問すると、それに対する答えに同じ事を三度も四度も繰り返して言うので、頭が痛くなってきたと部長は語った。責めているのではなく、真相を調査しているのだ、君が何もしていないというのならそれを信じるが、火のないところには煙が立たないという事もあるから、日頃の行動を反省してみてはどうだろう、と部長は西谷に向かって言った。それに対して西谷は「何を反省しろというのか」と低く唸るように言い返した。
「君のチームの、女性の定着率が悪すぎはしないかね。」
「魅力のない男ばかりですからね。」西谷は嘲りに近い薄笑いで唇を歪めた。
「君と一緒に働くのが怖い、と言っている人もいるんだよ。」
「偏見ですよ。偏見。」
「チームワークが大切なことは言うまでもないだろう?もう少し女性のメンバーに対する接し方を考えてはどうかな。」
「低能な奴らに合わせて、こっちの成績を落とせというのですか。」
「違うよ。同じチームのメンバーの面倒を見るのも君の仕事だ。」
「面倒見てやってますよ。でも、もう少し面倒見がいのある女をあてがってくれませんかね。」
「やはり女性たちに何かしているのか?」
「女なんか相手にしてませんよ。」
「君は、セクハラの傾向が有りそうだな。人事部に連絡しておくから、研修を受け給え。」
「そっちはパワハラの傾向があるんじゃないんですか。」
言い捨てた後、獲物を値踏みするように睨みつけてきた西谷の目の光は、部長を心底不安にさせた。「恥ずかしい話だが、何か、しがみつけるものがないかと探したくなったよ。」部長は、その不安をこう語った。剛胆という表現はそぐわない部長だが、組織の長の職に就くだけの才覚と鈍感さを持っている男だった。その部長を慌てさせた不安を想像して、彼はたやすく伝染ってしまった。
伝染した不安は触媒となって、じわじわと侵食する腐敗のイメージを西谷準の姿に纏わせた。それは死病のイメージでもあった。彼はひと月ほど前から、自分でもおかしいくらい、西谷準に対して過敏になっていた。
そこへ先程の定例会議で、西谷準が女性社員を脅しているらしいという情報が流された。またも被害者からの届け出はなく、西谷と女性社員のやり取りを見かけた別の女性社員からの報告だった。人事では「問題社員」として対処をすると告知された。彼が直接関係しなければならなくなることはないはずだが、部長の語った不安が甦り、胸騒ぎを抑えることが出来なかった。
そして西谷準はとうとう彼の周辺にその影をちらつかせだしたのだ。女の子たちの間から西谷の名前が出た時、心臓が絞られるような感じがした。同時に、出し抜かれている怒りと、悪い予想が当たった時の気抜けした沈みもあった。
彼は途方に暮れていた。会社として、組織として対応すればいいだけの問題であることも承知していたが、ウロボロスの輪のような感情の罠に嵌って、それに気づいていながらも、途方に暮れていた。
そのまま椅子に背を預け、部屋を見渡すと、見慣れたいつもの佇まいがあった。名指し、語ることができる人々と物々が存在していた。高岡真理のシルエットもそこにあった。隙を見せているととられるのを好まないそのシルエットは、背に垂れかかる長い髪の毛先が、柔らかく巻いて、女性らしさを描こうとしていた。だが、彼自身だけがその人々と物の佇まいの中に含まれていなかった。彼は目の前に広がるものからはじき出されて、呆然と遠くにいるのだった。
 その時、眼の前の世界が色を変えた。机のPCに向かっていた女性達が一斉にドアの方を見たのだ。その視線の先には、佐山友樹の姿があった。しかも明らかに佐山の様子が違う。手を止めて佐山の挙動を目で追うものもいた。佐山は手に持っていたノートPCを机の上に置くと、投げやりな仕草で椅子に腰を下ろした。すぐ後から武田昌也が姿を現し、ドアの所で彼の方を一瞥してから、佐山の席に本人の姿を見つけ、近寄っていった。おそらく、佐山が彼のところへ行っているのではと思ったのだろう。
女性が大勢の彼の課で、男性は、彼と武田、佐山の三人だ。行動力のある武田はリーダーのポジションをこなし、彼も安心して仕事を任せている。女性達も武田の指導力を認めているようだった。佐山は、すでに新人とは言えなかったが、それでも三人の男性の中では一番年下で、佐山の方で武田を慕うせいか、自然と一番年少のような扱いになって、女性達も弟のように世話を焼きたがる傾向があった。いつもにこやかな、くすぐられ好きに見える佐山は、まわりからのちょっかいにされるがままになって、楽しそうにしていた。
そんな佐山の顔から今は笑みが消えていた。眉根に力が入っているのが見て取れる。やや血の気が薄れた目元が興奮を語っていた。
武田は佐山の椅子に手をついて、横から佐山の方に体をかがめて何か言っていた。武田の反対側で、佐山の隣の大下奈津子が肩を佐山の方につきだし気味に武田の話に耳を傾け、佐山と武田の顔を見比べている。武田の手振りが彼の方を指している。佐山に報告を促しているのだろう。佐山は武田の言葉に口を開かず、やおら立ち上がると彼の方へやってきた。
彼は椅子から背を離すと、指を組んで両肘を机の上につき、佐山を迎えた。
「あの、営業部からクレームがありまして…」佐山は少し頬をふくらませていた。拗ねたように彼の目を見ない。彼は黙っていた。
「まずいことになりました。ちょっと僕もカッとなってしまって。」
佐山の話は要領を得なかった。「やっちゃいました。」だの、「もっと大人にならないといけません。」などと繰り返すばかりだった。高ぶった気持ちが続いたままのようだった。彼は早々に武田を呼び寄せ、あらましを報告させた。武田の話す間、佐山は彼の机の上あたりに視線をとどめ、白っぽく瞳を凍りつかせて黙っていた。
武田によれば、要するに佐山は西谷に言いがかりをつけられたということだった。佐山は西谷に、打ち合わせをしたいからと呼び出された。行くと、いきなり土下座しろと怒鳴られた。面食らって、何があったんですかと聞く佐山に、土下座しろ、土下座して謝れの一点張りだったらしい。悪いこともしていないのに土下座などできないと佐山が言い返すと、西谷の担当しているお客からeコマース課の営業活動で売上を奪われて困っているというクレームが入っている、eコマース課の責任だから土下座してあやまれと言ってきた。佐山は、自分では分からないので課長に話してくれと答えた。西谷の理不尽さに辟易して、ひとまずかわして早く逃げ出そうと思ったのだった。突然、西谷は佐山の胸ぐらにつかみかかって、客の損害は会社の損害だ、お前が個人的に弁償しろ、eコマース課も解散して、全員会社を辞めてしまえ、と吼えた。佐山は反射的に西谷の手を振り払おうとし、させまいとする相手と揉み合う形となってしまった。あまりの展開に唖然とする営業部員たちの前で、佐山は西谷に振り回され、椅子を倒し、ファイルの列を崩して床にぶちまけた。痩せ型ではあるが標準よりずっと上背のある佐山に向かって西谷が拳を振り上げたところへ、たまたま武田が通り掛かり、間に入って分けたという事だった。
「営業部の部屋でその立ち回りをやらかしたのか?」
「ええ。みんな見ていました。他の課からも見物が来てました。」武田が答えた。
「部長も?」
「はい。」
「部長は何か言ってた?」
「課長には後で連絡するそうです。部長は西谷を小会議室へ連れていかれましたから、だいぶ時間がかかると思いますけど。」敵の尻尾を逃すまいと眦を決している部長の勢いが彼には見えるようだった。
「すみません。課長にご迷惑をかけてしまって。」佐山は急に大声を出して、頭を深く下げた。彼は、片手を上げて佐山を制した。それから、連絡会議で出た西谷の話題をかいつまんで話し、要注意であることを伝えた。佐山の顔にハッとした色が現れ、それが罠に嵌められたような憤りに変わった。彼は、お客からのクレームの件を調べて対応するようにと武田に指示を出した。佐山には、落ち度がないのだから引きずるなと注意を与え、気を落ち着けて仕事に戻るように言って、二人を解放した。

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監禁された女/青空(二) [小さな話]


 彼は会社を休み、夜を待った。
昼間、雨は降らなかったが、重い雲に覆われた。夜になると、その一面の雲が街の光を吸い取る暗天となった。
真夜中をまわってから家を出た。懐中電灯と包丁を茶色い紙袋に入れて抱えた。「ちょっと酒でも買って行くよう見えるだろう?」と呟いてほくそ笑んだ。包丁は西谷に使うつもりだった。もちろん西谷が倉庫にいればの話である。その時は西谷を殺し、すべてを解決するつもりでいた。そういう事なら本当は女たちに使った斧の方が心強いのだが、それはすでに多摩川に捨ててしまったのだった。
倉庫へ向かって車を走らせるうちに、雨が降りだした。雨滴が湧いたようにフロント・ガラスに現れた。本降りになる様子はなかった。
彼は倉庫にまだ距離がある所で車を路上に停めて降りた。車の側に立ってじっとしていると、エンジンが冷えていく音が聞こえた。その辺りは街灯も間遠で、家々の灯りはすでに消され、雨筋など少しも見えなくなっていた。彼は倉庫へ向かって歩き出した。
見えない小雨がまとわりつくように肌を濡らした。それとは別に彼の手のひらは汗を握っていた。
視界に入ってきた倉庫は闇に沈んで、彼には人の気配が感じられなかった。
引き戸門を開けずに乗り越える。体重がかかった時、門がゆらりと動いて彼をひやりとさせた。
敷地のここかしこで亀裂の入ったコンクリートの隙間から雑草が伸びていた。それが闇の中から彼に触ろうとしてくる。
彼が出入りしていたドアを通り過ぎ、町工場との境の塀と倉庫の間に入った。打ち捨てられた廃材を慎重に踏み分けて進むと倉庫の壁に窓がある。そこから中を覗いた。
窓ガラスに闇が塗り込められていた。
中にはどんな灯りもない。やはり西谷はここにいないのか。彼は懐中電灯のスイッチを押すと、始め窓枠にピタリとつけ、それから少しずつ窓ガラスの方へずらしていった。ガラスを厚く汚している埃が斑に浮かび上がり、中の床に楕円の光の輪が落ちる。その光の輪の中では埃の影が大きくなって、不可解な地図を描いていた。ゆっくりと光線の向きを上げた。懐中電灯の光は棚と棚の間を貫き倉庫の奥へ消えていった。
彼はドアのところへ戻り、鍵を開けた。注意して鍵を回したのに鍵のバネが轟くような音を出した。扉の向こうの気配に耳を済ませてからドアノブを回した。
倉庫の中は、立ったままでじっとしていると何も気づかないが、動くと嫌な臭いが瀰漫していることに気付かされた。埃と甘く爛れた悪臭が口の中にまで入ってくる気がした。
懐中電灯を振ると、棚の一箇所が黒いシートで覆われているのが見えた。彼が最初に殺した女を入れた場所だ。何も変わっていない。
が、その手前の床が彼の目をひいた。
靴跡がある。
彼はゆっくりそこへ近づき、足を靴跡の横に並べた。彼の足とほぼ変わらないが、靴底の模様が特徴的な波形だった。彼は自分の靴にこんな波型の靴底があったか思い出そうとした。その靴跡は一番新しく、埃が積もりだしている他の靴跡を踏みつけていた。もし彼の靴跡なら、一番最後の殺人の時に履いていた靴になるが、彼はしばらく靴を新調していない。では、彼の靴跡でなければ彼以外の誰かがこの倉庫に入ったのだ。頬が粟立ち、首筋から背中へ広がっていった。
彼は靴跡が階段へ続いているのを追った。階段の下では埃が踏み荒らされて、靴跡を識別することは難しくなっていた。
中二階で彼が動きまわった跡はすでに埃で均されようとしていた。波型の靴底がその上を歩いていた。七体の死体が押し込められた棚の列には一見変化がないように見える。悪臭の原因を確かめようとしなかったのか、確かめたのだが、その後ビニールシートを元通りにしたか。
更に彼は三階へ登った。
これまで三階は殆ど意識したことがなかった。ここも下の階と同じく空の棚が端から端まで並んでいた。一、二階とは違って天井が高い。映し出される影の姿も大きくなり、ついには不分明な形となって天井の闇へ溶けていく。この階の道路側の端にパーティションで囲われた一画があり、そこは事務室に使われていた部屋だった。パーティションの壁にはめられた窓ガラスが懐中電灯の光を反射した。
部屋のドアを開けると、闇の底で盛り上がった塊が動いた。
慌てて光をそちらに当てた。
右手奥の壁際に誰かが座っていた。
「誰だ?」
その時、彼の背後で空気が裂かれ、後頭部で白い閃光が砕けた。彼はそのまま床に開いた闇の中へ吸い込まれ、落ちていった。

 「起きた?」女の声がした。
すぐ眼の前に汚れたクリーム色の床があった。明るい。後頭部から首筋にかけて鋭い痛みがあり、口から唸り声が漏れでてしまう。
「起きたね。よかった。痛い?」
また女の声がした。声のする方を見るために体を起こそうとして、彼は後ろ手に拘束されていることに気がついた。細く硬いもので固定されている。手首に食い込む感触からしておそらく結束バンドのようなものだろう。なんとか首だけを持ち上げると、とたんに後頭部の痛みがひどくなった。唸る彼を見て女が言った。
「じっとしてた方がいいよ。血がたくさん出てたから。でも、もう止まってるみたいね。」
彼は女の姿を探した。壁際に敷かれたマットレスの上に女は座っていた。
ボサボサと赤茶けた髪の中に白い顔が埋まっているのだけが見える。女は横座りになって両手をつき、彼の方を覗き込んでいた。
「どう、気分は?喉、乾いてない?」
彼は頷いた。
「じゃ、水を持ってくる。」女が視界から消えた。
すぐに戻ってきた女の手に小皿があった。「どうやって飲もうか。」と女が言う。
女の手を借りて体を起こし、どうにか座ると、女が小皿を口に持ってきてくれた。女が彼の口元に注ぐ視線を感じながら、彼は皿の水を啜った。水はぬるく、喉に微妙な粘つきを残した。何か水道の水には思えなかった。
彼は何が起こったのかを理解しようとした。
事務所の部屋に入った時に何者かに後ろから殴られて気を失ったのだろう。そのままそこで縛られて転がされていたのだ。床に彼のものと思われる血が落ちていた。この部屋に入った時に見た人影は彼の眼の前にいる女なのだろう。女はマットレスに座ってしげしげと彼を見ている。
そのマットレスの側にバケツが置いてあった。部屋にはそれ以外何もない。倉庫内の棚はそのままなのに、この部屋の机や椅子は処分されたらしい。
部屋が明るいのは壁に窓が並んでいるからだった。今の彼の位置からは電線と遠くのマンション、少しばかりの屋根の稜線、灰色の空が見えていた。雨が降っている。
その窓の列と反対側の、パーティションの壁にも窓が開いていた。しかし、手前に並んだ棚が見えるだけで、倉庫の奥の方は闇に沈んだままだった。
「分かった?あんた、あいつに殴られて気を失ったの。」女が話しかけてきた。
「あいつ?」
「知らないの?ここに入ってきたから、あいつのこと知っているのかと思ってたけど。」
「あいつって?」
「西谷よ。ひどい奴よ。人間じゃないよ、あいつは。」やはり西谷はここにいたのだ。そして彼を不意打ちした。破局がどこまで進んでいるのかと考えると視界が揺れた。また一方では、西谷に出しぬかれたことに対する怒りもあった。常に西谷に先回りされているという感じがしていた。自分で状況の進展を変えることができない無力感が彼を怒らせ、恐れさせた。上から土がどんどん彼の喉に押し込められる。入りきらない土塊が唇からこぼれて顎を転がり落ちる。その幻に彼は拳を握りしめ、爪を掌に食い込ませた。そのため彼の手首を締め付けているバンドがより厳しく肉を痛めつけた。怒りも拘束されてしまった。鼻から深く息を吐くと、「とうとう裁きが姿を現したのだ、とうとう裁きが姿を現したのだ」という独語が頭の中を満たして、他の感情を追い出してしまった。そのまま彼の体を固くさせていた力が萎えていった。
しかし、西谷はどうやって彼の仕業を知ったのだろう?そもそもこの倉庫に隠されている八つの死体の犯人が彼だと知っているのだろうか。彼は眼の前にいる女から探りだそうとした。
「君、名前は?」彼の質問に女の顔が明るくなった。
「わたし?わたしはね、尾島沙絵。」
「ここで何をしてる?」
「西谷にここに連れ込まれて、監禁されている。」
「監禁?」
「そう。逃げ出そうとすると、酷い目に合わせられる。ほら。」尾島と名乗った女は髪をかき上げて耳を見せた。左の耳朶がない。盛り上がった肉の間に耳の穴が開いていた。「耳を切り取ったのよ。それから、足の指も。見て。」尾島が足を差し出した。片方の足の小指と薬指のあるところにぷくりとした肉の突起があるだけになっていた。「きつかったのよぉ。今度ふざけた真似をしたら歯を抜くって。」尾島は顔をしかめてみせた。
「何がなんだかさっぱり分からない。詳しく説明してくれないかな。西谷というやつは何者なんだい?ここで何をしている?」
「あんた、名前は?」
「平沢和伸。」
「なんでここに来たの。」
「この倉庫を所有している会社の社員だ。倉庫で何か物音がするって連絡があって、調べに来た。」
「へ?夜中に?」
「夜中に音がするという連絡だったんだよ。」尾島は彼の言葉を吟味しているようだった。殴られて後ろ手に縛られているということはどういうことか想像してくれ、と彼は胸のうちで叫んだ。
「ふん。いいわ。話してあげる。その前に、あんたこっちに座って壁に寄りかかったら。そのほうが楽だよ。」尾島の勧めに従い、彼はマットの上に移動して背中を壁にもたれかけた。体を動かすと後頭部に痛みが走る。後ろ手の腕が壁に圧迫されて痺れそうだったが、支えもなしにただ胡座をかいているよりは楽だった。体の向きが変わったので、今まで背中になっていた部屋の部分が見渡せた。トイレと給湯室らしいドアがあった。
「あいつは西谷準というの。普通の会社に勤めているそうだけど、とんでもない悪魔よ。人間じゃない。西谷と最初に会ったのは池袋駅の地下だった。あたしね、ホームレスだったの。もう住むところがなくなって駅の地下に寝泊まりしてた。最低よ。でも最悪じゃない。今より良かったもの。ふふふ。
それで、地下街の柱に寄りかかってうとうとしてたら、西谷が目の前にしゃがんで優しい声で話しかけてきたの。若い女のホームレスはね、結構そうやって話しかけられたりする。他のおっちゃん、ホームレスのおっちゃんたちも気を使ってくれたりするしね。下心見え見えのやつもいるけど、西谷には感じられなかった。ほんとうに親切そうに見えた。今から思うと、私のホームレス歴が浅かったからあいつの本心が見抜けなかったのかも知れない。その日はお腹も空いていたし。要領悪くて食べ物を探せなくて。おっちゃんたちに分けてもらうのも嫌だった。ホームレスって結構縄張りとかあんのよ。難しいのよ。そこへ西谷が現れて『どうしたの?』とか言った。その時は本当に優しい声だったの。胸があっという間に一杯になるくらい。」
聞き手に飢えていたようで、尾島の話は勢いがついてきていた。彼はそのまま続けさせた。
「西谷について行ったら、マクドナルドのハンバーガーを食べさせてくれた。店の中へは入れなかったよ。西谷が買ってきてくれたのを外で、ベンチに腰掛けて食べたの。そうして西谷が自分の家へ来ないかって言うから、車に乗って行ったわ。怖くはなかった。もういいや、みたいな、ね。あたしのことを色々質問してきた。どうしてホームレスになったのか、とか。親のこととかも。
西谷の家というのはマンションだった。そこへ行ったら、お風呂を使わせてくれた。半年ぶりくらいに正式なお風呂に入った。正式っておかしいわね。ホームレスの間はね、公園の水道とか使うの。それが湯船にお湯を張った普通のお風呂に入ったわけ。あれは気持ちよかったな。
それから西谷の家で暮らすことになった。奥さんみたいに働いたんだよ。ご飯をつくったり、洗濯したりして。良かったよ、最初の頃は。上手く行ってたんだ。西谷も優しかったしね。働き口が見つかるまでいていいんだよ、なんて言ってくれた。この人どんだけ良い人かと思った。幸運が巡ってきたかも、とか思ったりもした。」
「それはいつ頃の話なんだ?」
「え?う~ん、と。三年ぐらい前かなぁ。」
「それで?その続きは?」
「そう。そのうち西谷の態度が変わり始めたの。変わったっていうかさ、それまでが嘘だったのよね。それまで仮面をかぶってたの。冷たくなって、よそよそしくなって。ちょっとしたことで怒鳴るようになった。料理がまずいとか。貧乏臭い顔をするな、とか。酷いでしょ?目障りだとかも言われた。びっくりしたよ。良い人だと思ってたから、わたしが本当に悪いんだと思って落ち込んだもの。ホームレスやってたような女だからなぁ、って。
それである日、決心してこう西谷に言ったの。お世話になりました、もう出ていきます。
そう言ったら、殴られたよ。すごく殴られたし、蹴られた。顔から体から、あちこち殴られて、お腹も蹴られた。次の日まで寝こむほどやられた。
黙って出ていけばよかったのよ。後悔しても遅いけど。なんで『出ていきます』なんて喋っちゃたんだろうね。やっぱりわたしが馬鹿だったんだ。」
尾島沙絵は悪夢の日々が甦るのか、眉根をしかめた。その時彼は、彼女の目が表情豊かな光に満ち、そこへ長い睫毛が影を落として繊細な葉陰のように見えることに気がついた。
西谷は彼女に「お前が俺のところから出ていくのは許さない。」と言った。「拾ってやった恩を返せ。」と何度も繰り返し、連日彼女を殴った。「勝手に出て行ったら、もっと酷い目にあわせる。」と暴力で脅した。彼女を恐怖で縛り付けた。彼女は「出て行かないから、殴るのはやめて。」と言う他に逃げ道がないように追い込まれた。すると西谷は少しの間優しくなり、彼女は一息ついて、またはじめの頃の生活に戻れるのではないかと淡い希望を抱いたりした。
昼間、西谷は会社へ行って不在になる。彼女は西谷に隠れて、駅と反対方向にあるコンビニでバイトを始めていた。バイト代を貯めて、西谷から逃げた時の足しにするつもりでいた。が、その日はいつか来る日で、明日や来週などの切迫した日付を持つとは思えなかった。拘束されていたわけではないのに西谷の呪縛が彼女を閉じ込めていたのである。
その頃から西谷が帰ってこないことがあるようになった。帰らないと連絡があるわけでなく、彼女は西谷の不在に安堵してはいたが、いつ玄関が開けられるのだろうかと気を置いたまま夜を過ごした。
そしてある日、西谷は女を連れて帰ってきた。
当たり前のように女を従えた西谷は、沙絵を一瞥しただけで、女については何も言わなかった。
女と沙絵は西谷が風呂に入った隙に自己紹介し合った。女は「千田奈津子」という名前で、西谷と同じ会社に勤めているといった。沙絵に対して構えることなく「よろしくね。」と言って笑った。友達になることを当たり前としているようなその笑顔に沙絵は驚かされた。奈津子は真面目そうで柔らかな顔つきをしていて、およそ西谷とは不釣り合いに見えた。奈津子がどうして西谷についてきたのか、沙絵には不思議だった。
翌日から三人の生活が始まった。
西谷と奈津子は前後して会社へ出勤した。残された沙絵は家事を慌ただしく済ませるとコンビニのバイトへ出かける。夕方戻ってくると三人分の晩御飯を作って待った。やがてまた前後して奈津子と西谷が帰ってきた。奈津子を連れてきて以来西谷は口を開くことが少なくなった。が、女性二人の挙動は常に目で追いかけていて、切り刻むような視線で喉元を鷲掴みにするのだった。気がつくと西谷の偽物めいた瞳が二人を刺し貫いていた。その黒目は意図や感情を表さず、底無しの欲望が地下の生物となって巨大な口を開いているように見えた。それが二人の急所をピンで止めて身動きできなくさせ、沈黙を強いた。
奈津子は一度、服を取りに家へ帰らせて欲しいと西谷に頼んだことがあった。西谷は「戻って来なかったらどうなるか、分かってるな。」とボソリと言い捨てた。奈津子の眉間に影が落ちるのを沙絵は見た。それでも奈津子は部屋を出、じきに大きなバッグを抱えて帰ってきて、中から出した服を沙絵に渡し、「もしよければ。」と言った。沙絵が服をほとんど持っていないのを知って、自分の服を分けてくれたのだ。奈津子は沙絵より背が高かったので、くれた服は丁度いいというわけにはいかなかったが、沙絵は喜んで着た。年が近い同性という存在が沙絵には珍しかった。西谷の視線が及ばないときは、沙絵は奈津子にあれやこれやと質問し、その言葉に耳を傾けた。料理を教わり、家事を習った。次第に沙絵と奈津子の距離は縮まっていき、沙絵は何よりも奈津子の傍らにいることを好み、奈津子も沙絵が懐くのを喜んだ。互いに世話をし、相手に気を配るのが沙絵には新鮮で、楽しくもあった。しかし我知らず奈津子と顔を見合わせて笑みを交わしている時、西谷が彼女たちが仲良くするさまを値踏みするように睨めつけていることに気付かされ、肺の中の空気が凍りつくほどゾッとさせられることがあった。その時、沙絵たちの接近を西谷が見逃しているのではなく、むしろ待っていたことに沙絵たちは気づくはずもなかった。「今なら分かるけど、」と沙絵は言った。「あいつは私達が仲良くなるのを待っていたのね。それがあいつの企みだった。私と奈津子さんが親しくなってから、酷いことをするつもりだったのよ。信じられないような事。」
西谷は沙絵にも奈津子にもセックスを強要することはなかった。沙絵は西谷と寝たことは一度もないといった。
奈津子が西谷とどういう関係にあったのか、はっきりと奈津子から聞いたことはなかったが、西谷と奈津子が一緒に寝るところを沙絵は見ていない。
「あいつは人間じゃないから、人間の女には興味がないんだ、と思った。普通の人が興味を持ったりすることには関心がない。でも何に関心を持っているのかは分からないの。会社から帰ってくると、御飯食べて、風呂に入って、あとは少し携帯を弄って、それから寝るのよ。テレビも見ない、ゲームもしなかった。本はよく読んでいたけどね。本は買わないで、図書館から盗んでくるらしい。そして読んだら捨てるんだって。それを言った時だけは、薄笑いするの。楽しいんだろうけど、裂けて引き攣ったみたいな笑い方。本の中身はわかんないよ。あたし、本を読まないもの。そうだ。あいつが興味を持っていることがある。それは人を苦しめること、痛めつけること。人の悲鳴が奴の好物なのよ。」
やがて西谷はその嗜好を満たすため、紗絵たちに毒牙を剥いた。
夏の盛りのある日、頭痛がするような暑さの中を沙絵がマンションに帰ると、西谷がいた。「しまった」と臍を噛みながら沙絵は西谷の様子を伺った。西谷は半笑いを浮かべていた。目を薄くして「どこへ行ってた?」と訊いた。
「コンビニ。」
「コンビニ?コンビニで何を?」
「暑かったからアイスでも食べようと思って。」
「買ってきたのか?おや、手には何も持ってないようだけど。」
沙絵は首を振った。
「コンビニでアイスを、ねえ。どこからその金が出てくるのかな。どこから。俺の財布か?ちがうな。お前が隠れてコソコソ稼いだ金からだろう?なあ?」
「何の話?」
「何の話、とは何の話だ?あ?お前が勝手にコンビニでバイトしていることを知らないとでも思ってるのか?俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ。」
西谷は沙絵の腕をつかんで捻り上げた。ビシリと音が出そうな激痛に沙絵は声が出てしまうのを抑えられなかった。
「お前、どうせ逃げ出そうと思ってたんだろう。金を貯めて逃げ出そうとしてたんだろう?そんな勝手なことをしたらどうなるか思い知らせてやろう、な。」西谷はそう言うと沙絵を後ろ手に縛った。「奈津子が帰ってくるまで待て。」
「コンビニで働いて何が悪いのよ。私はあんたにお世話になった分を返そうと思ったんだ。」沙絵は必死に訴えて西谷の気を変えようとした。しかし読み取れるような表情は一欠片も浮かべず、西谷は白っぽい顔にニヤニヤ笑いを貼り付けたままでいた。
奈津子は帰ってきて沙絵の様子を見ると一歩、後退った。
「そこへ座れよ、奈津子。」奈津子の顔がみるみるうちに青ざめ、西谷に操られたように座り込んだ。
「この女はな、奈津子。逃げ出そうと企んでたんだ。お前も知ってたんだろう?」奈津子は西谷と沙絵の顔を見比べてから首を振って否定した。
「いや、知ってたはずだ。知ってたんだろう?お前ら仲良かったじゃないか。そういう話をしないはずはない。お前も知ってたに違いないんだ。いいか、俺を馬鹿にするんじゃないぞ。俺は本気だ。いつもだ。俺を馬鹿にしたらこうしてやる。」
西谷は立ち上がると、沙絵の髪の毛を鷲掴みにした。引っ張り上げるようにして沙絵の頭を固定し、右の拳で顔を続けざまに三回殴った。ゴツゴツゴツと鈍い音がした。それから足で沙絵の腹をけった。爪先を腹に刺すような蹴り方だった。沙絵の口から唸り声が漏れた。体が自然と折曲がって、顔が床についてしまった。
歯噛みしながら「寝るな」と言うと、西谷は髪の毛を掴んで沙絵の体を起こした。
顔を殴り、腹を蹴る。これを執拗に繰り返した。
視界がぼやけて、奈津子がどんな顔をしているのか、沙絵にはわからなかった。腹の痛みに息がつまり、体中が痙攣した。体の中のどこかから奇妙な音がしていた。それは金属を削る音に似ている気がした。しかしそれは、沙絵の口から出ている悲鳴だった。「やめて、許して」と自分では言っているつもりでも、声帯を吐き出すような音しか出せなかった。
「おい、奈津子。見ろ。見ろ。」西谷が殴るのを止めた。沙絵は崩れ折れた。「手が痛い。手を痛めたらこっちが損だな。」西谷が一度遠ざかって、足音が戻ってくると奈津子の近くで止まった。
「こいつで殴ろう。奈津子、俺はこいつを殴るのをやめられない。それだけ怒ってるんだ。それでもこの鉄アレイで殴ったら沙絵は死んでしまうよな。奈津子、目の前で紗絵が殴り殺されるのを見たいか?見たいか?」
「だめ。お願い。やめてください。」奈津子の小さな、震える声が聞こえた。
「なんだ?なんだ?聞こえないぞ。奈津子、沙絵が殴り殺されてもいいのか?沙絵を殴り殺したら、俺は刑務所行きだ、なあ?それでもいいのか?そうだろう。そんなことになったら困るよなあ。それでも、俺は収まりがつかないんだ。どうしたらいい?ん?そうだ、奈津子。お前が俺の代わりに紗絵に教えてやってくれ。どれだけ俺が怒っているか。それと二度とこんなことをしないように。奈津子が紗絵に教えてやってくれ。」
「はい。…そうしたら、沙絵さんに酷いことをしないんですね?」
「しない、しない。しないよお、奈津子。でも、俺の気持ちもわかってくれよぉ。俺は怒ってるんだ。だから、それ相応の罰を与えてやってくれないか?な、奈津子?」
「わかりました。」
「よし。待ってろ。」
西谷の足音がキッチンの方へ遠ざかった。
沙絵の体の中では心臓の代わりに痛みが脈動していた。その一拍一拍で体全体がバラバラになっては、か細い腱でなんとか結び合わさるのだった。
西谷は奈津子に沙絵の足指を一本、包丁で切り落とすように命じた。沙絵は引き起こされ、西谷の寝室へ連れていかれた。グラグラ揺れる体をベッドの隅に縛り付けられて、悲鳴が漏れないようにタオルをくわえさせられた。新聞紙を厚く敷き、その上にバスタオルを畳んで置き、そこへ足先を出させられた。
奈津子は包丁を握らされ、沙絵の小指に刃をあてたが、結局、包丁が左右に揺れるほど震えだして西谷の命令を実行することは出来なかった。奈津子のその様子を西谷は目を輝かせて眺め、喜んだ。それから奈津子の手に自分の手を添えて、沙絵の足の小指を一気に切り落としてしまった。
痛みが沙絵を灼いた。奈津子のキーっと言う悲鳴を聞きながら、痛みから逃れようとして沙絵の体はひとりでに跳ね上がった。その後、沙絵は気を失った。
気がついたのは次の日の朝だった。布団に普段通りに寝かされていた。爪先に熱い痛みがあって、目と目の間で爪先が息づいているようだった。見ると爪先は丁寧に包帯を巻かれていた。
「それからは地獄。西谷は奈津子さんも殴った。わたしのことも。思い出すと体が震えてくる。毎日少しずつ、少しずつ、奈津子さんと私は潰された。理由なんか何もない。脅かされて傷めつけられて、無茶苦茶なことをされたよ。彼奴は人間じゃないんだって。もう許してくれというと、その代わりに奈津子さんを痛めつけろと命令したし、奈津子さんも同じだった。できるわけ無いけど、もう苦しくて苦しくて、奈津子さんに酷いことをしたわ。命令に従って奈津子さんを傷つけると、その後は本当に辛かった。奈津子さんも同じだと言ってた。二人で涙を流して、頭がぼんやりしてきたりした。」沙絵は深いため息をついて口をつぐんだ。
「どうして逃げなかった?」
沙絵は彼の顔を一度見てから首を振った。
「分からない。奈津子さんもわたしも、どうやったって逃げられないと思っていた。変よね。それに西谷がわたし達を痛めつけない日には、そのことでありがたいとか思いそうになったりしたの。西谷の機嫌がよかったり、あたし達に興味がない日は嬉しくなったりして。完璧に滅茶苦茶。あたしは片足に枷をつけさせられてた。その枷は長い鎖でベッドの足に結いつけられているの。トイレとかキッチンとかへ行くだけは動けるんだけど、外へは出られない。その枷は鍵がかけられてた。奈津子さんも帰ってくると同じような枷をつけられていた。奴隷みたいにね。
それでも、逃げようとしたこともあったの。わたしの足の指がまた切り落とされた後、わたしの方から奈津子さんに逃げ出す話をした。このままじゃ殺されると思ったから。一度思いつくと、結構簡単そうに見えた。彼奴は寝る時わりと無防備だった。あたし達の足枷の鍵も、キーホルダーにぶら下げてて、寝る時は財布と一緒に机の引き出しの中に入れてた。それで彼奴が寝入った後ならチャンスがあると思った。奈津子さんにそう言うと、真剣に聞いてくれて、あたし達、手を取り合って泣いたのよ。『がんばろうね』とか言ったりしてさ。
でも、それは彼奴の罠だった。信じられる?」
罠、しかも裏切りが仕組まれた罠だった。奈津子が沙絵の計画を西谷に漏らしていたのだ。沙絵が足枷の鍵を机の引き出しから取り出した瞬間に西谷が目を覚まし、沙絵を殴りつけて組み敷いた。薄暗がりの中で、バネでも仕掛けられたかのように跳ね起きた西谷の眼から青白い光が迸ったと沙絵には見えた。恐らく西谷は新たに沙絵の体を傷つける口実を求めて奈津子を脅し、沙絵の計画について口を割らせたのだろう。この時沙絵は結局、耳を切り落とされてしまった。
沙絵を裏切ってしまった奈津子はおかしな振る舞いを見せるようになった。会社を休み、一日中泣いた。沙絵に話しかけることもせず、座り込んで背中を丸めたまま何をするわけでもなくだらだらと涙だけを流した。身だしなみに対してごく自然に気を使う様は沙絵を感心させ、真似させたものだったのに、それが一向に気を使わなくなり、崩れた感じになってきた。眼から光が失せた。視線が固まり、表情が少しも変化しなくなった。西谷に殴られても、魂の宿らない人形のようにされるがままになって、悲鳴のひとつも、唸り声すら漏らさないのだった。
沙絵は奈津子の事を心配した。はじめの頃奈津子に世話を焼いてもらってようにして沙絵が奈津子に気を使った。沙絵の働きかけに対して奈津子は無反応だった。それでも、沙絵の手が奈津子の頬に触れてさめざめと涙を流しだしたことがあり、そのことで沙絵は、奈津子の胸の奥深くに彼女の心が退いて、扉を閉じてしまっていることを理解した。
ある日西谷は奈津子の枷を解き、身の回りの品をバッグに詰めて奈津子に持たせ、部屋から連れ出した。それ以来奈津子は帰って来なかった。どこへ行ったのか沙絵には分からなかった。あたりまえのように西谷は奈津子の行方について語らない。奈津子は沙絵の生活から消え去った。
「それからひと月くらい経ったかしら。ここに連れてこられたのよ。」
彼は体を動かした。肩が痺れだしていた。
「西谷は何も言わなかったのかな?ここに行くことについて。」
「いきなり連れてこられたわよ。でもここのことについては喋ってた。興奮してさ。面白いものを見つけたと言ってた。『ひでえぞ。ひでえことした奴がいんだ。そいつの隠れ家を見つけたが、もう俺のものだ。』とか。」
「『ひでえことした奴』というのは?誰のこと?」彼は唾を呑み込んだ。
「さあ。誰だとかは言ってなかった。何人も人を殺して死体を隠してる。それだけ。世の中、気違いだらけよね。最初にここに入った時はさぁ、変な臭いがして、おまけに恐いし。犯人が戻ってきたらわたしも殺されると思って。だからあんたが入ってきた時はもう息が止まりそうだった。」
「それで、君はここにずっといるのか?」
「そうよ。西谷は夜にちょっと寄って食べ物と飲み物を置いていくだけ。昼も夜もわたし一人。」
「昨日の夜、西谷が僕を殴った時は、食べ物を置きに来てたわけか?」
「いいえ。昨日は特別だったわね。夕方一度来て、それからもう一度来たから。そう言えば、あんたが来るのを知ってたみたいね。何故?」
「西谷のことは何も知らないんだ。どうやって西谷が僕のことを知ったのかも分からない。…西谷が来るのは、いつも何時頃?」
「何時かな。時計ないからね。だいたい日が暮れてから。最近は黙って食べ物を置いていなくなるの。以前は、逃げ出そうとしたら殺すとか、もっと酷い目にあわせるとか脅かしていったけど、最近は何も言わない。何を考えているのか、もう分からないわね。」
「西谷は昨日、何か言ってた?僕のこととか。どうするつもりか言ってなかった?」
沙絵は首を振った。
「あんたを縛り上げたら出て行った。」
その沙絵の言葉に反射的に頷いてから、彼は一旦頭の中を整理しようと思った。
西谷は倉庫の棚に押し込まれているのが死体である事を知っている。誰かが人を殺して隠していることも知っているようだ。どうやってそれを知ったかは分からない。では、殺人者が誰かを知っているだろうか。昨日の夜、彼を襲ったことを考えると西谷は彼が犯人であることを知っているように思えた。彼が来ることを察知していたからこそ彼の背後を襲い、虚をつくことができたのだ、と思った。しかし、と彼は縋るように思い直した。彼が犯人だと西谷が気づいた徴はなにもない。沙絵によれば西谷はそれらしいことを何一つ言ってないのだ。そこまで考え至って彼はある事に気づいた。それで愕然とし、その事を沙絵に確かめた。
「昨日は真っ暗だったよね?」
「そう。ここには電気も来てないからね。」
「西谷は懐中電灯か何かを持ってきていたの?」
「そうよ。何故?」
「僕の顔を見ていた?」
「ええ、懐中電灯で照らしてたわ。それからその懐中電灯を私に持たせてあんたの手を縛ったのよ。」
つまり西谷は彼が誰であるかを知ったということだ。仕事上の直接的な関係はないとはいえ、会社では何度も顔をあわせている彼を西谷が分からない訳はない。彼がなぜここにいるかという疑問から、倉庫の中にある死体と彼を結びつける説明を思いつくことは造作もないことだろう。
彼は焦った。
恐らく西谷は佐山殺害の件で隠れている。昨日はここに来たが、また現れるかどうかは定かではない。沙絵を打ち捨てて姿をくらますことも考えられる。その先はどうなるだろう。行方知れずになったままだろうか。兇悪な目的で彼のもとに現れないと断言できるだろうか。何も判然としない以上、西谷が彼にとって目に見えない脅威となるのは間違いない。それに逃亡の果てに捕まることも充分ありうる。そうなれば彼の犯罪も白日のもとに引き摺り出されるだろう。やはり西谷に顔を見られたことは致命的であった。
事が動く前に手立てを講じなければならない。
彼の所業を知っているものは、その存在を消さねばならないのだ。知られることがなければ破局は免れ得る。そうやって彼の地平線を遠くから圧している雲影を吹き払うことができる。
西谷を何とかして殺さなければならない。沙絵も、と彼は思った。

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黒い花束 [小さな話]

 刑事が語ってくれた話である。
被害者は、三十二歳の男性だった。
指示を受け、アパートの前に遅れて到着したときは、すでに近所から野次馬が集まってきていて、ただならぬ雰囲気となっていた。夜の八時を少し回ったあたりだったので、自宅で寛いでいるのがパトカーのサイレンの物々しさにつられて出てきたのだろう。十一月の中旬は、夜になるともう寒さが滲みこんで来た。思いの外秋が短く、冬の足がはやかった。
現場はアパートの二階、道路側から一番奥の部屋。ドアが開いて、先に到着していた菊池刑事とはち合わせた。菊地刑事は白い手袋をした手を口元にかざし「メッタ刺し。」と声をひそめながら言って、脇を通り抜けて行った。
被害者は玄関を上がってすぐの所で、足先を外へ向け、大きな血溜まりの中、仰向けに倒れていた。グレーのトレーナーとジャージを着て、その首もとから、胸、腹、腿にいたるまで染みた血が乾き、黒ずんで見えた。投げ出された掌に裂けた傷口が見える。顔も相当刺されているらしい。近づいて見るには、入り口をふさいだ形の死体を回りこまなければならなかった。もう固まっているようだったが、血溜まりに足を踏み入れないようにするのに苦労した。頭の横にしゃがみ込んで、大小の顔の傷を見ていると、被害者の側をかすめて点々と続く血の跡があり、ひとつはリビングの中へ入っていっていた。風呂場らしきドアの近くにも跡がある。もちろん鑑識は見逃していない。犯人は被害者を刺した凶器を提げて、血を滴らせながら部屋の中を歩き回ったのだろうか。血まみれの体をまたがないと奥へはいけなかったろう。その時、被害者にまだ息はあったかどうか。そう思って膝先の男の顔を見た。開かれたままの瞳に白熱灯の光が淀んでいる。死体を見直すこんな瞬間が一番恐い。死が悪意の顔をして、己の背後に立っているような気がするのだった。
立ち上がってリビングの中へ入ると、所轄署の刑事がいた。部屋の真中でこちらに背を向けて立っていた。声をかけると振り向いて、ボールペンを握った手を上げた。その刑事からまず話を聞いた。
被害者の身元はすぐに確認された。名前を後藤瞭といい、殺害現場であった渋谷パレス二〇四号室の借主である。上野の事務機器販売会社に勤める会社員で、独身。鋭利な刃物で体の前面を執拗に刺されており、その傷に因る失血死とみられる。これは後の鑑識の報告で確認された。鑑識は刺創を三十二箇所数えており、死亡推定時刻を前日、十一月十六日の午後七時から九時の間とした。
第一発見者は、後藤と交際している古田美由だ。後藤から連絡がなく、会社にも出勤していないのを知って部屋を訪ね、倒れている後藤を発見し、通報した。古田は、後藤の部屋の合鍵を持っていたのでドアを開けることができた。つまり、古田が到着したときには、二〇四号室の鍵がかかっていたことになる。
一般的に「メッタ刺し」には強い殺意が見られる。捜査は、怨恨による殺害を軸にして始まった。
まず、被害者の殺害当日の行動をつかむこと。近隣への聞き込みも同時に行われた。並行して、後藤の交友関係の洗い出し。もちろんその中心となるのは、古田美由に対しての聞き込みであった。

 古田は取り乱し、怯えていた。身を保てない弱さを感じさせる女だった。泣き腫らした目をし、睡眠不足が浮いて、肌の色を黄色っぽくしていた。
年齢は二十七歳。後藤と交際をはじめて三年になる。付き合いだしたきっかけは、古田が勤める衣料卸会社に後藤の大学時代の同級生がいて、その人物の紹介であると言う。
古田も一人暮らしだが、一年ほど前から土日は後藤のところで過ごすことが多くなっていた。部屋の合鍵は後藤から渡された。後藤が仕事で遅くなる時は、合鍵で部屋にあがり、食事の準備などをして帰りを待つのだ。古田の住まいは、隣の駅である秋津から五分ほどの賃貸マンションで、後藤の住む清瀬へは会社からの帰りに途中下車すれば良いことになる。
事件当日の行動については、こう語った。
「その日は、いつも通りに会社を出て、三原あかりさんと映画へ行ったんです。」
「三原さんというのは?」
「会社の先輩です。」
「会社を出たのは何時でしたかね。」
「六時でした。タイムカードを押してから、更衣室で三原さんを待ってて、出るときもう一度時計を見て、その時六時でした。」
鼻をすする音が混じり、語尾がはっきりしないので、とても聞きづらかった。勢いこちらの声が大きくなってしまう。その度に古田は肩をびくっと動かした。
「どこの映画館ですか?」
「豊島園の。」
古田と三原の二人は、十八時四十分頃豊島園駅につき、マクドナルドでハンバーガーを購入。十九時十五分には、豊島園駅すぐそばのユナイテッドシネマとしまえんの座席についていた。映画は約二時間で、映画館を出たのが二十一時三十分頃。三原あかりの住まいの最寄り駅である大泉学園駅まで一緒に電車に乗り、その後は一人で帰った。駅からマンションまで寄り道はしていない。
「家に帰ってから彼にメールをしたんですけど、返事がなくて。十一時頃に電話してみました。でも、やっぱり出ないので変だなあと思いました。」
「変だと思った?」
「携帯なんで、いつもすぐでるんです。でも、ずっと呼び出してるのにでなかった。電源を切ってるわけじゃないようだから、おかしいって。」
その時、被害者の携帯がどうなっていたか確認していないのを思い出した。
「古田さんが三原さんと映画へ行くのを後藤さんは知ってましたかね?」
「映画に行くとは言ってありました。友達と行くと言いましたけど。三原さんのことは、彼は知らないから。」
「で、後藤さんが電話に出ないので、心配になって翌日、後藤さんの会社に電話したんですね。」
「はい。」
「誰と話したか覚えてますか。」
「上司の方だったと思います。連絡もなく、会社に来ていないと言われました。」
「後藤さんの部屋に行ったのは何時頃ですか?」
「七時過ぎだと思います。」
「会社から?」
「はい。」
「で、合鍵を使って入った?」
「はい。インターホンを押しても返事がないので。」
ドアを開けたときの光景を思い出したのか、古田の顔が沈んだ。
「大変でしたね。ところで後藤さんなんですけどね。誰かに恨まれるようなことはなかったですかね?」
「さあ…。そういう人じゃないと思いますけど。」
「人間関係のトラブルとかを聞いたことはないですか?」
「いいえ。ありません。」
「古田さんは後藤さんと結婚の話とかしてましたか?」
「…何度か。」古田の視線が宙をさまよった。
古田と話した後は、なにかひっかかるものがあった。恋人の無残な姿を目の当たりにした女性としては、古田の様子は受け入れやすいものだった。とにかく酷いショックを受けているのが見て取れた。起こったことをまだ完全には飲み込めていず、呆然としている。なのだが、その目にはこちらが思っている以上の恐怖が浮かんでいるように見えた。

 次に、一緒に映画を観ていたという三原あかりに会うことにした。古田と三原が勤める衣料卸会社は馬喰町にあった。古田が会社を休んでいるのを確認して、話を聞かせてくれと三原を訪ねた。
通された応接は、フロアの一角を衝立で囲っただけのもので、話す内容が他の社員に聞こえてしまうのではないかと気になった。そこへ三原が現れた。背格好が古田と同じくらいだ。派手ではないが、化粧に隙がない。目をわずかに細めて、相手を見据える。紺のカーディガンの下は、グレーのベスト、青いストライプのシャツを着ていた。スカートはベストと揃いのボックススカートだ。シャツ以外は他の女子社員も同じだったので会社の制服なのだろう。姓名と三十一歳という年齢、住居を確認した。
「古田美由さんとはお友達ですよね。」
「はい。古田さんが入社した時の教育係で、それがきっかけで友達になりました。」
「実は、古田さんのお友達の事件を捜査していまして。」
「知ってます。古田さん、可哀想。」
「十一月十六日の午後六時以降、何をされていたか聞かせてもらえませんかね。」
「はい。古田さんと映画を観ていました。」
三原の話は古田の話と食い違いを見せなかった。映画の後、大泉学園駅まで古田と一緒に電車で帰った。住んでいるマンションに帰りついたのは十時過ぎだった。これで被害者、その恋人、恋人の友人と一人暮らしが続いた。それほど珍しいことではないけれど、その時はなんとなく数え上げていた。
三原は協力的だった。ハキハキと受け答えた。その間、伸ばした背筋が揺るがない。
「古田さんと後藤さんの関係は、どうだったんでしょうね?」
「そうですねぇ、時々は喧嘩もしていたようですけれど、深刻な相談を受けたことはありません。仲は良かったのではないですか。他人には分からない部分もあるとは思いますけれど。」
「三原さんは、後藤さんに会ったことはない?」
「ええ。」
「後藤さんが殺害されていたことについては、誰から聞かれましたか?」
「いえ、テレビのニュースで知りました。まさかと思って、古田さんに電話して、それで。」
最後に三原はこう言った。
「私、本当に古田さんに同情しているんです。私にできることがあれば何でもしますので。」

 古田と三原に会っている間に、近隣への聞き込みの結果と被害者の交友関係の情報があがってきた。
まず、アパートの住人。渋谷パレスは一年前にできたばかりのアパートだ。二階建て、部屋は全部で八つ。全部に入居者がいる。一階の一番手前、事件のあった二〇四号室から最も離れた部屋に年金暮らしの老夫婦がいるほかは、すべて若い勤め人の一人暮らしである。帰宅が遅くなる者が多く、事件当夜もほとんどがまだ会社にいた。後藤瞭が殺害された時間帯にアパートにいたのは、一〇一号室の老夫婦と、その上の部屋二〇一号室の住人だけだった。どちらも異変に気づいてはいなかった。
渋谷パレスの大家は敷地に隣り合って住んでいる。もとは農家だった地主で、趣味のようにしてやっていた菜園をつぶし、あとに渋谷パレスを建てた。後藤瞭とは契約の時に顔を合わせたぐらい。家賃は滞り無く振り込まれていた。大家は、まだ新しいアパートに起きた事件に困惑していた。
渋谷パレス近辺は、一戸建ての家が多い。申し訳程度の庭のついた分譲住宅も目につく。そのなかで聞き込まれた後藤瞭の姿は実にかすかなものだった。新しくできたアパートに最初に入居してきた人として、渋谷パレスの向かいの家の主婦が覚えていただけで、他は概ね、見かけた気がする程度の反応しかない。
アパートの住人間の認識も似たりよったりだ。真下の一〇四号室の住人も、存在を意識するぐらいだったと語った。古田美由が土日に泊まりに来ていたことも知られていなかった。
渋谷パレス近辺と駅までの間で不審者の情報は皆無だった。清瀬駅と駅前のコンビニからも防犯カメラのビデオが参考資料として借り受けてあった。が、コンビニの店員は当夜の客について知っている顔ばかりだったと言っており、あまり期待は出来なさそうだった。
次は、被害者の交友関係だった。後藤の交友は、会社の人間関係が中心となっていた。
後藤が勤めていた会社は、コピーやファックスなどを主力とする大手メーカーの販売代理店である。社員二百名を抱えて、中堅会社と呼ばれる規模だ。後藤はそこの総務部に所属していた。勤務態度は平均的だったと後藤の上司が語った。
職場の同僚で親密に交流があったのが二人。他の部署に二人、入社が同期で仲が良かった者たちがいて、これらと後藤を含めた五人でグループとなり、仕事が終わってからしばしば飲みに行ったという。
この会社の友人に、古田との交際のきっかけを作った人物ともう一名の大学時代からの友人を加えると、後藤の交友関係の図はほぼ完成する。
これらの友人たちの間から、ようやく後藤瞭の手触りのある姿が浮かび上がってきた。
総務部の同僚であり、後藤と席を並べて仕事をしている矢島哲也は、こう語った。
「真面目といえば真面目なんでしょうけど、そう言うより頑固というほうが近いかなぁ。」矢島は椅子に腰掛けると盛り上がった肉の塊のように見えた。
「社内でトラブルとかありましたか。」
「いや、そりゃあね。いろいろ毎日ありますけど、仕事の上のことで片が付いていましたよ。後藤くんはさぁ、融通が効かないところもあったから。なんか、他の部署の人と衝突しちゃうんだよね。」
「恨まれるようなことは。」
「そこまではないですよ。小さいことなんだもの。ぶつかると言っても。提出した書類の書き込みが足りないから受け付けないとか、ね。でも、それだけですよ。『あいつめ』と思っても、仕事の上のことだけで終わりでしたよ。」
「借金をしているとか言う話はなかったですか?」
「後藤くんがですか?いや、ないなぁ。彼、無趣味だからね。ギャンブルもやらないし。お金に困ってるということはないと思うなぁ。」
「女性関係はどうです?」
「彼女、いましたよね?古田さん。他には聞いたことないです。あの人、後藤の第一発見者だったじゃないですか。ショックですよね。」
「古田さんに会われたことは?」
「ありますよ。一度僕達の飲み会に後藤くんが連れてきたことがあって。可愛らしい人ですよね。」
矢島はそう言うと笑った。細くなった目が顔の肉の中に埋まりそうだった。
矢島は、事件当日に後藤がいつも通り午後六時には会社を出たことを証言した。後藤のパスモの記録から、清瀬駅の改札を出たのが十九時十三分。その後、駅前のコンビニ、ファミリーマートで弁当を買っている。その時のレシートが後藤の部屋のゴミ箱から出てきた。また、コンビニの防犯カメラにも後藤が写っていた。
後藤の友人の間からは、人間関係のトラブルの話は出てこない。借金の話もない。怨恨へと結びつく線は見えないままだった。
 しかし、他の部署の友人、大木伸彦からおかしな話が出てきた。なにやら半笑いを浮かべて大木はこう言った。
「そう言えば、後藤くん、変な間違い電話のことを言ってましたね。」
「間違い電話?」
「ええ。一週間ぐらい前だっけ。変な間違い電話がかかってきたと相談されまして。」
「どんな電話ですか?」
「女の人だそうなんですけど。自分のことを愛しているなら、明日の七時に錦糸町の駅前に来てくれと言ったんですって。それから、来なければ自殺すると言ったそうです。」
「それが間違いだというのは?」
「誰からの電話か、見当がつかなかい、と。声が低くて、気味が悪い感じだったと言ってました。」
「後藤さんが大木さんに相談されたんですね。」
「ええ。どうしようか、と。錦糸町へ行ったほうがいいだろうか、と相談されました。やめとけと言いました。」
「後藤さんは錦糸町へ行ったんでしょうか。」
「いや、行かなかったみたいですよ。」
「それはいつ頃のことかおぼえてますか。」
「えっと、あの日の前の週のことだったと思います。八日じゃないでしょうか。」
「電話は何時頃にかかってきたんですかね?」
「夜遅くだと言ってましたよ。十一時過ぎだとか。これ、続きがあるんです。」
「続きとは?」
「ええ。次の日に、何故昨日は来なかったかと怒りの電話がかかってきたそうです。同じくらいの時間に。さんざん一方的に詰って、恨みを言って切れた、と言ってました。それから四、五日続いたみたいです。呪ってやるとか言われたそうです。後藤くん、まいってました。」
「いたずらではなく、あくまでも間違い電話だと?」
「あ、そうか。いたずらかもしれないのか。後藤くんが間違いだと言ってたので間違い電話だと思ってました。事件と関係がありそうですか?」
「いえいえ、まだ何も分かりませんけれど。間違い電話なら、間違いだと言ってやれば収まりそうなものですよね。」
「そうですね。後藤くんも間違いだと相手に言ったようでしたけど。」
「その電話は、四、五日続いて終わったんですかね?」
「ええ。急にかかってこなくなったと言ってました。」
古田から間違い電話のことなどひと言も出てこなかったことを思い出した。
「後藤さんがその電話のことを相談したのは、大木さんにだけですかね。」
「ふん。どうかな。矢島くんは何か言ってましたか?」
「矢島さんは何も。」
「じゃあ、僕だけかも知れない。」大木の半笑いが急に消えた。あとを薄墨色に停滞した表情が広がっていった。同僚の死のショックから半笑いで自分を守っていたのが、力尽きたようだった。
「僕だけ知らされていたとしたら、嫌だな。」大木はぼそぼそと呟いた。
大木を帰して、もう一度矢島を呼んでもらった。矢島は最初の落ち着いた様子を失っていた。聞き忘れたことがあるからと宥めたが、こちらの真意をはかりかねて不機嫌になっていた。怯えが蹲っている矢島の感情こそ、後藤の友人たちの偽らざる空気だろうと思えた。矢島は、大木が証言した間違い電話を知らなかった。やはり後藤が相談したのは大木だけのようだった。
 大木が話した間違い電話をはっきりさせることにした。
鑑識に被害者の携帯電話について問い合わせた。携帯電話は、着信履歴、発信履歴、電子メール、ショートメッセージなどが諸々消去されていた。わずかに、殺害後に着信したと思われる電話と電子メールが残るのみだった。どれも古田美由からのものだ。映画を見た後、後藤にメールを送ったが返事がなく、電話をしたが出なかったという古田の話を裏付けている。ここで履歴関係が消されていることは見過ごせない。犯人はなぜそこまでしたのか。「自分」の「痕跡」を消そうとしたのだ。携帯電話に残されていた「痕跡」がその犯人に繋がっていることになる。通話記録をキャリアに照会するよう指示を出した。
鑑識の担当者は、携帯電話の指紋が拭い取られていることを教えてくれた。そのついでに、現場から指紋が発見されなかったことも告げてきた。
犯人は用意周到だ。強い殺意と殺害後の冷静さ。
部屋の中を点々と歩きまわっていた血痕を思い出した。凶器を手にしたまま、犯人は部屋で何をしたのだろう。指紋を拭き取るほどの落ち着きを見せる人間が、その冷たい眼差しで何を見たのか。
殺害現場に戻り、確かめることにした。

 アパートへは一人で行った。いつものやり方でやりたかったのだ。なるべく雑音を絶って、自分の感覚に集中する。人が殺されたその場所に、それを見ていた物たちに心を開くつもりでやる。運が良ければ、見えてくるものがあるだろう。しかし、うまくいくとは思っていない。ついていないことのほうが多いのだが、それでも自分の考えに集中することで、その後の捜査の進むべき道がしっかりと心のなかに落ち着く。
後藤瞭の事件で組んだ刑事は、こちらのやり方を知っている人間で、好きにさせてくれていた。
二〇四号室のドアを開けると、黄色いテープが貼ってあった。それをくぐって中に入り、後藤の死体があった場所、死体の足元あたりに立った。
すぐ右手に部屋がある。血の跡はこの部屋には入っていない。開けると寝室で、入った右奥の壁に寄せてベッドがおいてある。カーテンが閉めきってあり、暗い。ベッドの上は、十六日の朝、後藤が起きたままになっているのだろう。乱れた布団が人の背中のように盛り上がっていた。左手はクローゼットになっている。部屋の電灯をつけて、クローゼットを開けてみる。背広が数着。他にはジャケットやシャツ、ズボンなどが下げられていた。背広の上着のポケットを探ってみたが何もない。クローゼットには二段二列の引き出しが据え付けてあった。すべて開けてみる。下着やシャツが整理されてしまってあるだけだ。
もっぱら寝るだけの部屋らしい。気にかかるようなものは何もなかった。
その部屋を出ると、奥のリビングに入った。正確にはLDKだ。十畳ほどの広さで、中央に折り畳み式の間仕切りが付いている。間仕切りは畳み込んであった。そこを境に左側がダイニングキッチンだ。シンクとガスレンジがあり、冷蔵庫、テーブルが置いてある。右側にはフロアソファとリビングテーブル、大型の液晶テレビが目に付いた。リビングテーブルの上にノートパソコンがあったはずだが、鑑識が持っていったようだ。独身の会社員としては、なかなかに余裕のある住まいではないか。
血痕はこの部屋に入ってきてすぐに途切れ途切れとなり、部屋の中をどのように動き回ったかまでは教えてくれなかった。
まずはキッチンの方から、順に見て回る。棚の戸、引き出しはひとつ残らず開けた。シンクの下にある戸の内側には、包丁が一本だけ差してあった。鑑識では殺害に使われた凶器は大型のナイフではないかと見ている。おそらく犯人が持ってきたものに違いない。冷蔵庫も開けてみた。ペットボトルが四本、横倒しに入れてある。ミネラルウォーターだ。キッチン全体が乾いた感じで、汚れが少ない。ガスレンジの上の換気扇にも汚れがついていない。料理することが少なかったのだろう。古田が泊まりに来ても、コンビニの弁当などで済ましていたのか。冷蔵庫の脇のゴミ箱を覗くと、紙くずばかりだった。やはりコンビニのレシートが目に付く。
次にリビングへ移った。リビングデーブルの下に、雑誌がきれいに揃えて積んである。が、新聞は見当たらない。インターネットのニュースサイトで間に合わせているということもある。雑誌は、下から順に新しくなっている。この部屋に入った時からつきまとっていた直線的な感触が、雑誌の縁の線に重なった。几帳面の印象が強まる。掃除もまめにやったに違いない。というより、散らかさないように気を使った方だろうか。矢島哲也はこの部屋の主を「無趣味」と評したが、彼は、このリビングをある一定の状態に保つことに執着していたのではないかと思えてきた。土日に古田が泊まっていっていたというのは本当なのか、と疑問が湧く。
しかし、その疑問は洗面所に入って消えた。ドアの前に血の跡があって、ここへも犯人が足を踏み入れたことが分かる。洗面所は入ると洗濯機が置いてあり、左手が浴室になっていた。洗濯機の隣の洗面台に、ピンク色の柄の歯ブラシが一本、コップに入れてあった。それが古田の歯ブラシなら、後藤の所で週末を過ごしていたという話は嘘ではない。洗面台の上の鏡は、薬棚の戸になっていた。開けてみると、洗剤、コロン、整髪料などがきれいに並べて収納されている。ケースに入ったままの歯ブラシが二本あった。買い置きしていたのだ。一本はピンク色の柄で、もう一本は緑の柄。
部屋を出るとき三和土に立って、死体の様子を思い出してみた。
後藤瞭は、その時恐らくリビングにいた。インターホンに呼び出されてドアの前に来る。覗き穴から訪れた人間を確認してドアを開ける。来訪者は招じ入れられ、ドアを閉めると後藤と正対し、持ってきた凶器で後藤を刺した。何度も執拗に、恐るべき力で。後藤が倒れて虫の息になると、凶器を持ったままリビングに入り、中をうろついてから洗面所へ向かった。その後、部屋を出て鍵を閉め、闇の奥へ去る。後藤の鍵は部屋の中で発見されているので、犯人が使ったのは合鍵ということになる。
何も収穫がないまま、部屋を後にした。しかし、今見てきた部屋の様子の底で何かがこちらに合図を送ってきているような気がしていた。

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バアちゃんとぼく [小さな話]

 下の道から見たこともない黒い車が上がってきて、軍人が降りた。風が切れそうな良い姿で、ぼくを見つけるとにっこり笑って言った。
「立原さんのお宅はこちらですか?」
「はい。」散歩に行こうとしていたぼくは、柴犬の流星号のリードを握ったままつっ立って答えた。流星号も緊張しているのが分かった。吠えるべきかどうか僕の方をチラッと見上げる。
「貴美子さんはご在宅でしょうか?」
「はい。バアちゃんは、家にいます。」言ってから、「祖母」と呼ばずに「バアちゃん」なんて呼んだことが恥ずかしくなってしまった。でも、軍人は気づかないふりをしてくれて、「ありがとう。」と言うと、家の玄関へ向かった。防衛軍の軍服の、濃紺の胸に、一尉を示す階級章がきらめいていた。
軍人が玄関の呼び鈴を押していると、隣の家から一平さんが出てきて、ぼくの家の方を見た。
その視線に気づいて軍人の顔が横を向くところへ、ちょうど玄関のドアが開き、バアちゃんの姿が現れた。軍人が敬礼をすると、バアちゃんが腕組みをした。軍人とバアちゃんは同じくらいの背丈だった。軍人は上背のある方だと思うが、バアちゃんは負けていない。今日のバアちゃんは、白いシャツを着てジーンズをはいている。髪の毛は頭の後ろでまとめてある。ぼくのところまでは軍人の声は届かなかった。それでもバアちゃんの大きな目が細められて、軍人の言ってることに納得していないことが分かった。
結局、軍人は家の中へ招き入れられ、玄関のドアが閉まったので、ぼくは流星号を連れて一平さんのところへ行った。
流星号は尻尾をおもいっきり振った。流星号も一平さんのことが大好きなのだ。一平さんは、しゃがみ込んで流星号の首を撫でてくれた。
「防衛軍の人だよ。」ぼくは言った。
「ふむ。」
「あの人、一尉だよ。」一平さんが太い眉毛を片方だけ上げた。
「ほぉ、若そうだけどな。優秀なんだろう。それにしても、久しぶりの軍が、そんな上の方の将校をよこして何の用だろうな。」
ぼくの家に防衛軍が訪ねてきたのは初めてのことだ。だから一平さんが「久しぶり」といったのは、ぼく達がこの家に住む前の事を思い出して言ったのだろう。ぼくの知らない話だ。
「散歩に行っておいで。」一平さんは立ち上がった。
「うん。」

 散歩から帰ると、もう黒い車はいなくなっていた。秋の夕焼けがぼく達の家と一平さんの家をオレンジ色に濡らし、流星号と僕の影が地面に長く伸びた。

 晩ご飯は、ぼく達の家で一平さんも一緒に食べる。一平さんは家族ではないが、ここに住むようになってからずっとそうしている。ぼく達三人の習慣の一つだ。
ぼく達三人は、東京を襲ったあの大侵入の後、ここへやってきた。それまでで最悪と言われた侵入は、ぼくの父母を奪い、祖父も又死んだ。バアちゃんはぼくを連れて、祖父の親友であり、仕事仲間でもあった一平さんを頼ったのだ。ここは、もともと一平さんのお兄さんの持ち物だった。そのお兄さん一家も、別の時の侵入によって死に、残された家と土地を一平さんが管理していたのである。一平さんのお兄さんは農業で暮らしていて、田んぼも相当に持っていたのだけれど、そちらの方は手に余るので売り払い、広い庭のある土地とそこに建てられた二棟の家だけを一平さんは手元に残した。家が二棟あったのは、息子が結婚したら住まわせようと、お兄さんが後から一棟立てたからだ。でも、その息子さんも死んでしまった。一平さんはぼく達に、その、後から建てられた方の家を使うといいと言ってくれた。一平さん自身は、滅茶苦茶になった東京の家を捨て、もともととお兄さんの家だった方で暮らし始めた。バアちゃんは一平さんに深く感謝していて、何度もそのことをぼくに話してくれた。
移り住んだその日、バアちゃんとぼくは手をつないで一平さんの家まで行って、一平さんを晩ご飯に招いた。それからはずっと、一平さんはぼく達の家へやって来て、一緒に晩ご飯を食べるようになった。
料理が出来上がるとバアちゃんは、キッチンの一平さん側の窓を開け、外に吊るしてある中華鍋をすりこ木で三回叩く。「コオン、コオン、コオン」という音がしてからしばらくすると一平さんがやって来て、腰を下ろすと晩ご飯が始まる。
テーブルのキッチンを背にした側にバアちゃんが座り、ぼくと一平さんは向かい合って座る。バアちゃんの向かいの席は流星号の席だ。流星号がそこに座るのは、冷蔵庫の前に置かれた皿の餌を食べてからだ。誰も煩わせずに自分で椅子に上がり、丸くなって、ぼく達が食事を終えるまでじっとしている。
バアちゃんは料理の天才で、晩ご飯はとびきり美味しい。「何も特別なことやっているわけじゃないのよ。ささっと料理するだけ。」とバアちゃんは言うが、極めつけの秘技があるんじゃないかと思う。ぼくのお気に入りは唐揚げだ。街まで下りて買ってくる鶏肉でも文句はないけれど、渋谷さんの家で飼っている鶏をもらえると最高だ。
今晩の料理は、あいにく唐揚げではなかった。それでも二番目に好きなカレー、チキンカレーだった。
「予報はどうだったの?」バアちゃんが聞いた。
晩ご飯の会話は、まず挨拶がわりに、侵入ついての予報を確認するところから始まる。
「四国の方で二十%。」と一平さんが答えた。
「そう。とりあえずは安全そうね。」
「当てになるわけない、あんなもの。」
予報の理屈は、地磁気の変動のパターンによって空間の変位を割り出し、侵入を予想するというものだが、一平さんによればそんな予想ができるわけないというのだ。
「地磁気の変動はたまたま観察されたに過ぎない。侵入との関連性はまだ確認されていないんだ。それをもって予報と称するのは、詐欺だよ。いや、危険極まりない。あやふやな情報は、混乱を増すだけだ。そもそも、侵入がどうやって起きるのか解明がなされていないと言うのに、何が予報だ。」
物理学者で、高度時空研究所の研究者だった一平さんは、侵入の予報をこき下ろす。高度時空研究所は、そもそも侵入が始まったところと言われている。祖父もそこの研究者だった。一平さんにしてみれば、侵入についていい加減なことを言われるのが耐えられないらしい。
「一平さんは、最初の侵入を見たんでしょう?」ぼくは尋ねた。もう何度も訊いたことだけれども、誰もそれを指摘したりはしない。一平さんは目を閉じて頷く。
「ああ。すべては、バーンというクロアチアの変人の思いつきが発端なんだ。バーンは悪い男ではなかった。少しだけ自分の考えにのめり込みすぎてしまっていた。立原くんは」ここで一平さんはバアちゃんの方を見た。「バーンを抑えようと頑張ってた。責任ある立場だったからね。でも、バーンの奴は自分の理論を証明しようと先を急ぎすぎて、超限加速装置の数値設定を誤った。それで、時空に何かが、うん、絶対に何かが起こって、こう断層ができるようにズレが発生し、あいつらの次元からの扉を開いてしまった。」一平さんは、深くため息をついた。「そうして侵入が起きたんだ。」
「大変な災厄の始まりね。」バアちゃんが言った。一平さんは顎が胸につくほど深く頷いた。
「後で分かったのだが、バーンが事を急いだのはお金のせいだった。隣の大国の愚か者どもがバーンの理論を兵器開発に使おうとして彼に近づき、莫大な研究費の援助をちらつかせたのさ。ありがちな話だ。ありふれた愚かさがありえない悲劇を招いた。」
「あいつらはすぐに侵入してきたの?」
「いいや、最初は空間の歪みだけだったよ。だから、何が起こったか誰も分からなかった。三日目にあいつらが現れたんだ。最初の犠牲者は、バーンだった。」
「食事時にふさわしい話とは言えなさそうね。」一平さんに微笑みながらバアちゃんが言った。
「ああ、申し訳ない。」
ここまではいつも通りだった。この後、普段なら、少し黙って料理を味わっていると、バアちゃんがぼくに話しかけて、また三人の会話が続くのだ。
でも、今日は少し違っていた。ぼくは、昼間のお客のことが知りたくてうずうずしていた。バアちゃんは一言も話してくれていなかった。ぼくは、合図のつもりで一平さんの顔を見守った。一平さんはぼくの視線に気づくと、カレーを一口食べ、スプーンを持った手の人差し指をぼくに持ち上げて見せてから言った。
「そう言えば、珍しい客があったようだね。」
「ええ。防衛軍が来たの。」バアちゃんは皿に目を落としたまま答えた。
「防衛軍が何の用事かな。」
「あの人、一尉だったよ。」バアちゃんはぼくの方をチラッと見た。
「大した用事じゃないのよ。お祖父ちゃんの遺族年金のこと。」
「遺族年金は文科省から支給されているはずだと思っていたが。」
「ちゃんと支給されているか確かめたかったんですって。」
「それはまた、ご丁寧だね。」バアちゃんは花びらが閉じるようにゆっくり笑った。
「この鶏肉も悪くないけれど、やっぱり渋谷さんのところの鶏が美味しいわね。」
バアちゃんが、話を変えて、その後軍人のことは話題にならないままになった。

 朝起きたら、まず一番にテレビの予報を見る。近くで五十パーセントを超えていたら、非常用のリュックを持ってきて避難の準備をする。そんなことがなければ、流星号を散歩に連れていく。帰ってからバアちゃんと朝食をとる。それからバアちゃんを手伝って、洗濯と掃除。
終わるとぼくは外に出る。敷地をぐるりと一回りする。
そうすれば侵入が起こらない気がする。進む時計の針を指で戻したように、侵入を遠ざけておける気がする。何の根拠もない、ぼくだけのおまじないだ。世界中でぼくだけが信じている迷信だ。とことん効き目のない魔術。子供に侵入が防げるなら、今頃、世界はもっと幸せなはずだもの。
それは分かっていた。でも、ぼくは見回りをやめることができない。
一度、こんなことをやっても無駄なんだと思い、朝の見回りをやめたことがある。バアちゃんの手伝いが終わってから自分の部屋へ行ってじっとしていた。始めはなんともなかったが、そのうち心臓の鼓動が速くなって、顔中に汗が浮いてきた。汗をかいているのに、手足の先が冷たくなった。そのままじっとしていると、ぼくの中から何かが飛び出てきそうな気がして、ぼくは急いで見回りに行ったのだった。それで、ぼくは見回りをやめることができず、一日の決まった時間に繰り返している。そうしておけば、ぼくの心の波が静まったままでいてくれる。
敷地をぐるっと回って心が落ち着くのは、流星号が一緒に歩いてくれるせいもあると思う。
ぼくが玄関の方へ向かうと、流星号はどこにいても、ひょいと立ち上がってやって来て、一緒に外へ出る。見回りの時間を覚えていて、玄関の前に座って待っていることさえある。
流星号はぼくに歩調を合わせ、敷地の外寄りを歩く。敷地の外とぼくの間にいて、ぼくを守っているつもりなのだ。
流星号は地面に鼻を軽く近づけながら、ぼくは敷地を取り巻く景色を見ながら、黙ったままゆっくり一回りする。
ぼく達の家は丘のてっぺんに立っていて、飯本の市街地と、それに接して迫上っている山並みを見渡すことができる。飯本はこれまで大規模な侵入にあったことがない。一度でも侵入されると、家が倒され、道が壊され、醜い爪痕が残るので、すぐに分かる。
青空が高かった。
朝のさらさらとした光が、山並みの襞の辺りを白っぽく見せていた。
秋の中に、流星号と一緒に浮かんでいる気がした。

朝の見回りから戻ると、バアちゃんに勉強をみてもらう。
学校へは行ってない。行くと気持ちが悪くなるので、行けないのだ。小学二年生の時にここへ引っ越してきて、この辺りの子供が行く学校へひと月ほど通ったが、すぐに行かなくなってしまった。それから三年間、ずっとバアちゃんと勉強している。侵入が起きた時のことを恐れて子供を学校へ行かせない親がいるので、学校側もあまり強く言わないらしく、ぼくの場合もそれほど問題にされていない。二年生の時、ひと月だけ担任だった先生が、学年が上がる度に教科書を届けてくれ、週に一度は授業で使ったプリントをまとめて持ってきてくれる。「熱心な、ありがたい先生だね。」とバアちゃんは感心している。その先生は、「学校へ来たくなったら、いつでもいらっしゃい。私が待っててあげるから。」と言う。糸のように細い目をして笑う。そうして、黙っているぼくの肩をぽんぽんと叩いてから、手を振って帰っていく。ぼくは何も言うことができない。その先生が嫌いなのではないのに、舌がずんと重くなって、言葉がお腹の底に沈んでしまう。
「学校へ行ってみる?友達がいるよ。」バアちゃんはそんなぼくを見ながら、微笑んで言う。
ぼくは首を振る。
「まだ具合が悪くなりそう?」バアちゃんはぼくが頷くのを黙って見ている。

父と母と祖父を奪った大侵入が起きた時、ぼくは学校にいた。
一時間目が始まったばかりだった。職員室の方から何か大きな音がして、気味の悪い叫び声だとわかると、非常ベルが鳴り出した。ベルの音は信じられないくらい大きく、心臓の辺りを叩いてきた。
布を裂くような音が何度もして、ガラス窓が割れる音と悲鳴がごっちゃに響いた。先生が我に返って、「逃げて、逃げて!」と大声で叫んだが、ぼくも他の子も体が固まって動けなかった。
校庭側の窓がいっぺんに暗くなった。次の瞬間にガラス窓が全部吹き飛んだ。体全体を揺さぶる低い音がした。窓枠をめりめりと押し破りながら、バスほどもある、巨大なカタツムリの殻が押入ってきた。でもそれはカタツムリなんかじゃない。背負った殻は銅鍋色に輝いている。その下に覗いている真っ黒な体は、丸々と太い爪のようなものが無数に、びっしりと生えていた。その爪が一本一本震える。前から後ろへとその震えが波となって伝わっていく。
殻と爪の間から、平べったい触手が伸びて蠢いていた。髪の毛が生きているようだった。そこから、青白い炎に見える体液がシャーっと噴き出され、弧を描いて前方にだらだらと垂れる。それは実際炎のように、触れたものを焼き尽くした。お化けカタツムリの進路にいた何人かの子が、その液を浴びて悲鳴を上げた。服はあっと言う間に白い煙を上げてぼろぼろになった。皮膚は溶け、肉は崩れた。自分の手が焼け落ち、骨が現れてくるのを見ている子がいた。ぱんと弾けてのけぞり、くるくる回って倒れる子もいた。
平べったい触手は、伸び縮みしながら周囲を探り、触れたものを巻き込んで試すと、引き裂き、放り投げた。当然、触れた子供も引き裂かれ、まき散らかされた。仲の良かった友野和樹くんも、肉の塊にされた。小さな五本の指が、ばらばらになって降ってきて、ぼくの顔にあたったのを覚えている。
そいつは教室の天井よりも高かったので、天井を崩しながら進んだ。埃と、落ちてくる天井板と、がらがらという音と、叫び声に悲鳴。
それから後のことは覚えていない。
気がつくと白い壁に沿って寝ていた。天井と壁の継ぎ目の線をただ見ていた。また記憶が途切れて、次に気がついたときは、誰かがぼくの手を握っていた。体中が痛く、助けを求めて呻いた。痛みから逃れたくてもがこうとしたが、全然自分の思い通りにならなかった。深い穴にドーンと落ちて行くように気を失った。
ようやく目が覚めると、バアちゃんが側にいた。
「目が覚めたわね。」
「バアちゃん。」
「どう?苦しい?痛い?」ぼくは首を振った。体に力が入らなくて、ほんの少ししか頭が動かない。バアちゃんの後ろで、白いカーテンが風に膨らんでいた。ぼくの視線に気づいたのか、ばあちゃんが言った。
「ここは病院よ。」
「ぼくは助かったの?」
「ええ。少し怪我したけれど、大したことないから、もう大丈夫。」
「バアちゃん。」ぼくはもう一度呼んだ。
「大丈夫よ、もう大丈夫。」バアちゃんはぼくの手を持ち上げ、頬を寄せてくれた。バアちゃんの頬の柔らかさがほんとうに嬉しかった。
次の日にはもうベッドから起き上がれるようになり、それから一週間で退院することができた。後になってカレンダーで確認すると、意識を取り戻すまでは四、五日かかっていた。怪我は少しだけだったとバアちゃんは言っていたが、両方のこめかみに縫った跡があり、指で上から押さえると固いものが埋まっているのが感じられた。
そうして体は回復したのだが、この時のことが原因で、学校へ行くと気持ちが悪くなってしまうようになった。
登校したときはなんともない。その内時間が経つにつれ、胃の辺りに雲のようなものが溜まり、それがひくつく。心臓のリズムが乱され、息苦しくなる。自分ではどうしようもないので、胸を押さえているしかないのだが、周りがぼくの顔色に驚いてしまう。青いのを通り越して、土気色になっているらしい。慌てて保健室に連れていかれる。乾いて固くなった自分がその様子を見ている気がする。バアちゃんが迎えに来て、一平さんが運転する車で帰る。
これの繰り返しになってしまったので、バアちゃんもぼくも学校へ通うのを諦めてしまった。
不思議なのは、学校以外ではなんともないことだ。それに、あの時学校で起きたことは、繰り返し、繰り返し思い出す。でも怖くなったり、具合が悪くなったりすることはない。ただ、学校の教室にいる時だけ、いつの間にか倒れそうになる。ぼくの体だけが、大侵入の記憶を拒否しているようだ。

大侵入の時、母がどうなったか、父がどうなったかは、バアちゃんが教えてくれた。
母は勤め先で火事に巻き込まれて死んだ。遺体も遺品も見つからなかった。父は、祖父と一緒の研究所に勤めていたので、祖父ともども死んでしまった。こちらも遺体は発見されなかった。
たまたま自宅に帰っていたバアちゃんだけが生き残った。バアちゃんも父と祖父と一緒の研究所で働いていたので、いつも通りだったらバアちゃんまで死んでいたことだろう。バアちゃんは、自宅で侵入のニュースを聞き、それがこれまでとは比べものにならないほど大規模であることを知った。祖父の携帯を呼び出したが、もうその時点で繋がらなかったという。バアちゃんは外へ飛び出し、まずぼくを助け出すことを考えたそうだ。その頃のぼく達の家は、バアちゃんの家から十五分ほどのところにあった。ぼくの通う学校もそれほど遠くはなかったのだ。
バアちゃんはたった一人で瓦礫の中からぼくを助けだして、病院へ連れて行ってくれた。
その後、祖父とぼくの父母の消息を確かめるために走り回った。多分バアちゃんのことだから、研究所へ飛び、母の勤め先へ駆けつけたのだろう。交通機関がマヒしているのも、まだ侵入の危険が残っているかも知れないのも、二次災害の危険すらもバアちゃんは平気で乗り越えたと思う。そして、自分の夫も息子夫婦も死んだことを自分自身で確かめたのだろう。ぼくにはひと言も言わなかったけれど、もしかすると遺体の一部を見たかも知れない。
バアちゃんは、ぼく達の家族に起きたことを包み隠さず話してくれた。
その事実を受け止め、悲しんだり怒ったりの流れに浸けるよりも前に、ぼくはそれを話しているバアちゃんのことが心配になってしまった。いつもは風が人間になったようなひとが、その時は、ぼくのことをオロオロ心配して、小さくなって、もう粉々に砕けてしまいそうだった。
「…だから、ねえ、バアちゃんと一緒に暮らそう?」
ぼくはバアちゃんの唇の端が細かく震えるのを見ていた。バアちゃんが可哀想だと思っていた。

父母が帰って来なくなってしまったことは、ぼくの心のなかで井戸になった。深くて、底に暗さが溜まった井戸だ。月の光のような曖昧な明るさの中で、ぼくは井戸の周りを巡り続け、近寄って覗き込むことを避けてきた。だが、耳には届いていた。井戸の底で反響している音が聞こえていた。それは、父を亡くしたことでぼくが何もできない子供であることを告げているようだった。さらに母を失った子供であるということで、ぼくのことを出来損ないであると決めつけていた。おまけに井戸の底には冷たい水だけがあり、もう二度と暖かくなることはないと思われた。
そんな感じだったから、父のことや特に母のことは思い出さないように努めていたけれど、ただひとつ、いつの頃かはっきりしない記憶だけは、知らないうちに何度も呼び起こしていた。多分、もうずっと小さい頃のことだろうが、ぼくは母の目を覗きこみ、その濃い茶色の瞳に映る自分の顔を見て笑っていた。母も「映ってる?」と聞いて、笑っていた。
そしてあの母の瞳を思い出してバアちゃんの瞳を思い浮かべてみたり、バアちゃんの瞳を見ながら母の瞳はどんなだったろうと考えてみたりした。
バアちゃんの瞳に映るほど顔を近寄せたことはない。でもバアちゃんは、ぼくを助けだしてくれてからずっとぼくを見てくれていた。それは、天秤の端のおもりだった。反対側の端に乗っている何かを下におろしてしまわないための、バランスを取るおもりだった。
そのバアちゃんが、昨日、防衛軍の将校が来てからずっとぼくの目を避けていた。勉強を教えてくれている間も、いつものようにぼくの瞳をまっすぐ見てはくれなかった。
「はい、終わり。」ひとつ軽いため息をついてから、バアちゃんは教科書を閉じた。
ぼくは、バアちゃんの顔を見つめたが、話しかけるきっかけがつかめなかった。バアちゃんは立ち上がると、キッチンの方へ歩きながら普通らしく「お昼はいつも通りの時間よ。」と背中越しに言った。
バランスが崩れつつあった。

流星号を少しかまってから、ぼくはPCの前に座る。流星号が足元に寄り添って丸くなる。
インターネットで配信される侵入の情報をいつでもチェックできるよう、PCは起動したままだ。
ぼくは「異次元生物カタログ」というサイトを開いた。
このサイトでは、侵入してきたものを生物として捉え、その情報が整理されて、図鑑のように眺めることができた。侵入してくるものを生物とみなすことに反対する人もいる。一平さんもその一人だ。この世界の生物の概念であいつらを見ることは間違っている、というのだ。それでも、このサイトのオーナーやぼくのような科学者ではない者にとっては、分かりやすい考え方だった。
サイトのオーナーは、「キャプテン・H」と自称していた。
キャプテン・Hは、侵入のニュースを国内だけではなく、世界中から根気よく集めて整理していた。侵入は世界各地で起きているのだ。このサイトでは、アメリカにある同じようなサイトと提携して情報を交換しているとのことだった。キャプテン・Hの本職はシステム・エンジニアであると、プロフィールのページに書いてあった。
サイトは、侵入してきたものについての投稿も受け付けていて、誰でもサイトの「ボード」と呼ばれる掲示板にアップロードすることができる。大きな侵入が起きると、ボードには読みきれないほどのメッセージが投稿される。侵入の鎮静化後一日二日で、キャプテン・Hが投稿の情報を整理し、カタログに登録してくれる。
カタログの内容は、侵入生物の画像、動画、あるいはイラストと、その発生場所、日時、大きさなどの形状、現れた数と侵入の経過、それまでに侵入してきたものとの類似点、特徴、その生物による被害状況などが記されている。侵入生物と防衛軍の戦闘経過についても、実況中継のように記録されることがある。ボードにアップロードされた投稿へもリンクしていて、その生物についての投稿を一覧することもできた。
生物に名前をつけたりはしていない。ただ場所と時間で記号が振られているだけだ。他のサイトでは名前をつけたりしているところもあるが、ぼくは嫌いだった。キャプテン・Hは防衛軍が侵入生物の情報を取り扱う方式にならった、と書いていた。名前なんか付けると馬鹿馬鹿しい感じがするので、こちらのほうがいいと思う。
「異次元生物カタログ」には使いやすい索引ページがあり、時間順や場所、大きさ、数、特徴などの視点で検索できるようになっている。検索すれば、ぼくが遭遇したお化けカタツムリも当然見ることができる。
最近登録された情報は、「新着情報」のコーナーにリストアップされていて、ぼくはまずそこを見ることにしていた。
一番新しい情報は、半年前に千葉の市川市で起きた侵入で現れた生物だった。侵入は立て続けに起きることもあれば、三、四ヶ月何も無いこともあった。半年も侵入がないのは珍しく、テレビのニュース番組でも話題になっていた。
市川に現れた生物は、「ヒト型」と呼ばれるタイプのものだった。
これまでに確認された侵入生物は、約五千体。形状で分類されるものが約百十種。「ヒト型」は侵入例が割合に少ないタイプだ。携帯のカメラで撮られた画像が掲示されている。このサイトを知っている人が侵入の現場に居合わせて撮ったものだろう。「ヒト」と言うより、足で立ち上がった白い蛸に見える。記事によれば高さ三メートルぐらいだったとある。侵入生物の大きさは様々だ。一番小さいものは昆虫型の生物で、三十センチ程度。最大の「百足鯨型」は百メートルはある。最も多く見られるのは十メートル前後の大きさだから、市川に現れた「ヒト型」は小型だ。
市川の「ヒト型」は画像がぼやけていて、亡霊のように見えた。のっぺりとした頭には目も鼻も、口もない。人間の脚にあたるものはなく、筒型の胴体がそのまま地面に突き立っている。両脇に太い触手が垂れる。体全体が白っぽい。目立った凹凸もない。とても嫌な落書きを見ている感じがする。
「ヒト型」の出現状況は、他の侵入と同じだ。
眼球を指で押さえた時のように、視野に歪みが現れる。それが渦巻いて見える時もある。数秒後に、関門が開けられた感じで、向こう側の生物が侵入してくる。生物は、空間に置かれた見えない平面から身を突き出してくるようだ。全身がこちら側に出てきてしまうまで十秒もかからない。
市川の「ヒト型」の特徴は人間の捕食だった。触手で逃げ遅れた人を捕まえる。頭部がミカンの皮を剥いたように四つに開き、捕まえた人間をそこで食べてしまったらしい。記事には「食べ散らかした。」と書いてある。丸呑みしたのではないということだろう。食べちぎったということだろうか。人間を捕食する侵入生物はかなり多い。侵入してくるものを生物と考える人たちの根拠もこの捕食活動にある。市川の「ヒト型」は休日の繁華街に現れて、相当数の人間を餌食にしたようだ。逃げ惑う人間を追いかけて、建物を壊し、自動車をつぶした。動きが俊敏で、強力な侵入生物だったのだ。現場は「食べ散らかされた手足がごろごろと転がり、地獄となった。」
「ヒト型」の侵入の終結も、他の侵入と変わるところはない。侵入は普通長くて三日間続く。短い時は、一分程で終わることもある。防衛軍の到着が間に合えば、侵入してから一時間以内に侵入生物が掃討される。防衛軍が間に合わず、暴れるだけ暴れて消えてしまうことも多い。侵入生物は消える。ぼくも見たことがある。それは掻き消える。今まで見ていたのが間違いのようにいなくなる。一瞬の出来事だ。防衛軍に倒された死骸も同じで、跡形もなく無くなってしまう。この侵入生物の「消失」が人々の精神状態に悪い影響を与えていると唱えている心理学者がいるのを知っている。バアちゃんの言葉を借りれば、「醒めない悪夢になってしまった。」と感じる人がいるのだ。市川の侵入に防衛軍は間に合わず、「ヒト型」は消え去った。侵入してから一時間後のことだった。

防衛軍はだいたい間に合わない。
公式の発表では、今年は六割の掃討率となっている。国内で確認された侵入のうち、六割は侵入生物を掃討しているということだ。でも、みんな口には出さないけれど、防衛軍は間に合わないものと思っている。一平さんは、「被害が凄まじいので、間に合わなかった時のことが強く印象に残って、いつも間に合わないように感じるんだろうなあ。」と言っている。ぼくも同感だ。防衛軍は確かに戦っていて、侵入生物を撃退してくれている。「侵入生物カタログ」では、防衛軍が戦っている動画が最近よくアップロードされている。登録されている侵入生物について、防衛軍に掃討されたかどうかを集計してみれば、五割ぐらいにはなるんじゃないだろうか。
でも、五割ぐらいあいつらをやっつけたところで、死ぬ人が多すぎるのだ。二度と戻ってこない人が多すぎて、釣り合いが取れない。生き残っても、怪我をして後遺症に苦しんでいる人が大勢いる。侵入生物の変な体液を浴びて、骨が変形し、車椅子で暮らさなければいけなくなった人を飯本の街で見かけた。今まで一体だけ侵入が確認されている、「四〇一号」と呼ばれる生物は、オレンジ色の光線を出した。それは、人の体の組織を溶解させたが、破壊するのではなく、形を融かして再構成してしまうのであった。溶けた後、しばらくすると固まって、それでも生き続けるのだ。「四〇一号」が侵入してきたとき、一緒にいた二人の女性がその光線を浴び、体の半分がどろどろに溶けて混じり合い、そのままくっついて離れなくなってしまった。全然赤の他人同士が、ひとつの体になって暮らさなければならなくなった。彼女たちはいろいろな合併症に苦しみ、結局、電車に飛び込み自殺して決着をつけた。
侵入生物は街も破壊する。人間にも建物にも関心を示さない侵入生物がいる一方で、何の敵意を感じるのか、建物、自動車、電車、道路などを狂ったように破壊する生物がいる。その破壊に巻き込まれて死ぬ人もたくさんいる。そうでなくても十メートルの物体が動き回るので、街は自ずから傷つけられる。大人たちは、傷ついた街を復興しようという気持ちを無くしてしまった。侵入の後、自分たちの家がまだ住めるなら住み続け、家を壊された人は街を出ていってしまうことが多い。壊された家や建物はそのままにされる。後片付けを負担できる人などいない。役所も手が回らず、侵入の破壊が広範囲に及ぶと、住民がいなくなりゴーストタウンになってしまうこともある。大侵入の後、秋葉原がゴーストタウンになったと聞いた。
潰された家の前に立って呟く男の人の動画をインターネットで見たことがある。不安になるくらいに叩き潰された家はその人の自宅で、家の中にいた家族も全員死んでしまった。家族を奪われ、住む場所も無くなった男の人は、カメラに全然注意を払わず、小さな声で呟き続ける。瞳がまぶたの奥に隠れたようで、表情はわからない。顔色が悪く、頬の肉がたるんでいる。カメラが近寄って、男の人の声を拾う。
「…こんなになるなら、もう何も持たないほうがいいんだ。どうせ無くなるなら、家族も家も持たない方がましだ。それのほうがいい。それのほうがよっぽどいい。…」
男の人は恐怖と悲しみに縛られ、頭の何処かが痺れてしまっているのだろうか。
この動画の視聴回数は異常に多い。サイトではコメントもたくさんつけられている。その殆どが男の人に同情していた。同じように家族を亡くしたと自分の悲しみを綴るものもあった。定期的に「絶望してはいけない。この動画は、人々の希望を奪ってしまう。削除すべきだ。」というコメントが投稿されることがあるが、誰も相手にしていない。無視されて、同情と悲しみと辛さを訴えるコメントがまた流れていく。侵入は確実に人々の心を裂き、地面に這いつくばらせ、立ち上がろうとする気力を弱らせていた。

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最初の課長 [小さな話]

 課長がある日、「予知能力があるんじゃないかと思うんだよね。」と言いだした。
「じゃあ、何か予知してみせて下さい。」と返すと、「内線が鳴りだす前に、かけてくる人のことがふっと頭に浮かぶんだよ。」と言った。
猫でも膝に抱いていたい十一月の終りだった。
「やってみようか。」課長は嬉しそうに身じろぎした。
それで私達は、電話機を見つめて待つことになった。手を止めてじっとしていると、意外なほどに物音がない。その内、音にならないざわめきがあるような気がしてきた。たぶん、あちらこちらで昼食が準備されているのだ。壁の時計では、昼休みまであと二十分ほど。それを確認して、課長の顔に目を戻した。
課長は立ち上がっていて、机の電話の上に少し身を傾げている。電話が鳴るのを待っているというより、何かが出てくるのを構えているように見えた。
ちらりと私の方を見ると、にんまりと笑みを広げた。いたずらの共犯者に合図を送っているといった風だった。私は、二人でだるまさんが転んだみたいにじっとしているのがおかしくなり、脇腹の皮膚の内側がくすぐったくなってきた。笑いだすのを堪えている内に、頬が熱くなった。
笑わないようにと、課長の耳から顎の線に視線を滑らせてみた。いつも、あの辺りを触ってみたらどんな感じがするんだろう、と思っているので、それを思い出して気をそらせたのだ。
すると、奇妙なイメージが浮かんできた。空一面を雲が覆い、ぴたりと動きを止めている。雲の底は明かるい。光が柔らかくなり、物々の色が優しく、瑞々しい。読みさしの本を閉じた空気が満ちている。その雲の彼方では、戦争が始まっている。何と戦っているのか定かではないが、大風のように渦巻いている。
「はは、駄目だね。」課長がすとんと腰を下した。途端に内線が鳴りだした。私は跳びあがって電話を取った。机の端を握りしめ、課長の目が丸く見開かれている。
「はい、営業三課です。」笑いを堪えているので、声が裏返りそうだった。唇の端が痙攣した。
「はい。いらっしゃいます。お待ちください。」課長の方へ受話器を差し出した。「織田部長です。」
「はい。くっ。前川です。え?いえ、なんでもありません…」
課長は、笑いを抑えつけたので、鼻から変な音を漏らした。それを電話の向うの織田部長に聞き咎められたのだろう。私の方は、吹き出さないようにと手を口にあてていたが、もう鼻が思いきりひくひくしていた。涙が出そうにおかしかった。課長の額には汗が浮んでいた。
「ひゃー、びっくりしたぁ。」織田部長の電話を切ると、課長は高い声で言った。

 結局、課長に予知能力があるかどうかは、分からないままになってしまった。私は半分くらい信じていたかもしれない。課長が織田部長の事を話し出す。すると織田部長から内線がかかってくる。そんなことが確かにあったような気がする。
あれは、予知能力なんて言わなくても、前川課長の性格から説明できるんじゃないかとも思う。きっとそれまでに会議や立ち話で前振りがあったに違いない。「○○について×××したいんだけど、どうかな?」とか。課長のことだから、だいたいその手の話には「はい、大丈夫です。」と答えてしまう。相手ががっかりするのを見たくないからだ。それで課長の内では(あの仕事、振られるぞ)という身構えができて、課長に接触してきた人の行動パターンが思い出される。商品課の鈴木課長が内線でぐずぐず言いたくなる時間帯だ、とかだ。そうすると前川課長は、鈴木課長のことを話したくなってきて、そこへ実際に鈴木課長の内線がかかる。こんな具合だったのだろう。
 ただ、私たちのところへそれほど頻繁に内線がかかってくることはなかった。営業の織田部長、商品課の鈴木課長、経理課の平沼課長ぐらい。あと、商品が入荷した時に倉庫の担当者から確認の内線がかかってきた。一日一本、あるかないかだった。なにせ私達の営業三課は、忘れられた部署だったから。
こうなったのは織田部長の仕業である。
織田部長の前は遠山部長で、前川課長は遠山部長の派閥だった。周りはそう見ていた。課長自身は、派閥なんて夢にも思わない人なのに。遠山部長は急逝し、織田部長に交代して、前川課長は前部長派の残党みたいな扱いをうけることになった。
「遠山部長の遺志を継ぎつつ、僕の理想とする営業をつくっていきたい。」と織田部長は皆の前で宣言して、営業三課から仕事と人をどんどん減らした。故遠山部長と織田部長の間、あるいは織田部長と前川課長の間にしこりとなる過去の経緯があったのか、詳しくは知らない。案外何もなく、ただそんな流れになってしまって、周りも織田部長本人もそれに乗っかっただけなのかも知れない。
その時、前川課長は亡くなった遠山部長のことを考えていた。本人がそう言ったわけではなく、入社以来ずっと課長と仕事をしてきた私の目には、そう見えた。織田部長の理想が着々と私達の周りを侵食している時、課長は左腕を椅子の背にかけて、キーボードの上に視線をさ迷わせていた。たぶん、遠山部長のことを考えて。
遠山部長について、課長は「入社した時からお世話になった人だよ。」と言っていた。私は、入社試験の面接で初めて遠山部長に会った。遠山部長というとM字型に禿げあがった額を思い出す。だらんと垂れたような顔がその下に続き、低い声で「えっへっへっへ。」と笑った。遠目に見ているとそうでもないが、近付くと結構量感がある体型だった。「昼下がりのオランウータンが、ちゃんと背広を着てるみたいだよね。」と課長が言ったことがあった。私を笑わせようとしてくれたのだけれど、遠山部長を言い表わし過ぎて、パズルが解けたように私は納得してしまった。私が笑わないので、課長は少し残念そうだった。
遠山部長の家庭は、奥さん、働きだした息子さんと大学生の娘さんの四人だった。大田区のマンションの十二階に住んでいた。
四月下旬、疾い風の前触れが吹く夜、遠山部長の家族は、少し遅くなる息子さんを待たずに夕食をはじめていたと言う。課長によれば、部長の話題は家族のことが多かったそうなので、仲の良い家族だったのだろう。息子さんが帰ってきた頃には、和やかさも一層盛り上がったに違いない。家族の顔が食卓の周りに揃うと遠山部長は笑顔で、「これで全員だね。よし。」と言って立ち上がり、そのままリビングへ、ベランダへと出て、十二階から地上へ飛び降りてしまった。
遺書などはなかった。うつ病の薬を飲んでいたことが後で分かったそうだ。
その頃私は、うつ病のことをよく知らず、遠山部長の行動を納得できないと思っていた。何か隠された動機があるだろうと思っていた。社内でもそういう方向で噂話をする人がいた。仕事に行き詰まっていた、女性関係で悩んでいた、借金があった、会社の金を横領した、などなど。それらの噂話は、どれも根も葉もないもので、私はますます納得いかなくなっていた。それで一度、課長の前で自分のもやもやを口にしたことがある。
「納得いかないと言うけどさ、納得してどうするの?」珍しく目をそらして課長が言った。その頃はまだ、営業三課に他の人もいて、課長は彼等に気を使って低い声で話した。
「うつ病だったらしいよ。僕も、うつ病になったことが無いし、遠山部長本人じゃないから、言えることはここまでだと思ってるよ。」
私は、課長の言葉にたじろいだ。
「でも、うつ病って、隠し通せるものなんですか。」
「さあ。遠山部長の性格を考えると、家族に心配させるのが辛かったんだろうね。」課長は私の表情を見た。「納得いかないかい?」私がうなずくと、課長は続けた。
「うつ病のこと、調べてみたら?僕は、病気と遠山部長の間に都合の良い説明を置くより、部長のことを思い出すことにするよ。」
課長の唇が固く結ばれ、顎の筋肉が浮き上がったのが見えた。私は自分が嫌になって、かなり落ち込んだ。

 遠山部長の死後、課長は流れから半分だけ身を引き抜いた。まだ半身は流れに任せながらも、あとの半身は向こう岸に気を取られていた。それは、表面だけなら、思い出に縛られている様子と区別できない。前川課長は故人の追憶に足をとられて、会社の隅に追いやられた、と取る人もいた。が、遠山部長に対して課長はそんなに湿った感傷を抱いてはいなかったと私は思っている。別の水位で、別の姿勢で、課長は遠山部長のことを考えていたと思う。

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自傷の流通 [小さな話]

「あ、『踊る大捜査線3』をご覧になったんですか?
ええ、観ました、観ました。実はあたし、織田裕二さんのファンなんです。この前の週末に行ってきました。結構、混んでましたね。
映画はどう思われました?
ああ、そうですよね。わたしも、ちょっとガッカリしたな。登場人物がみんな、もさもさって服を着込んでいて、ちっともカッコよくなかった。スピードが感じられませんでしたよね。
課長、厳しいなー、ふふふ。
柳葉敏郎さんの室井ですよね。偉くなって、なんとか審議官とかになってた。そのシーン分かります。最後の方です。確か、青島が楽しいですか、と室井に声をかけて、室井が黙って車に乗りこんで、そこで一言です。「シャバダバダ」?なんですか、それ。言ってませんよ、シャバダバダなんて。やだー、課長。おかしいー。そう聞こえたって、シャバダバダはないですって。秋田弁じゃないんですか。わたしも分かりませんけど。楽しいわけないだろう、とかそんな事じゃないんですか。あー、もう笑いすぎて涙でちゃう。
課長は映画がお好きなんですか。へえー、知らなかった。じゃあ、今度、お勧めの映画があったら教えてください。勉強します。勉強は、真面目すぎますか?
織田裕二さんのどこが好きかと言うとぉ、溌剌としてるじゃないですか。青島という役柄の設定だと言えば、そうですけど、溌剌とした人が好きなんです。父親に対する反発だと思うんですけど。父ですか?青島刑事には似ても似つかない最低の男です。残念ながら、まだ元気で働いてます。
えっと、少し聞いていただけますか?課長になら話せそうな気がする。
父はサラリーマンです。機械工具メーカーの設計技師です。会社は大きいそうですけれど、あまり表には名前が出てこないとか。父については、それだけです。それ以外なにも語るところがない人です。真面目とは違うんです。判で押したように寝起きして、会社に通い、休日はじっとしています。虫とかに近いかんじです。家の中に一緒に居ても、感情が感じられません。あまり口もきかないし。父親らしいことをしてくれたことはないんです。休みの日にどこかへ遊びに連れて行ってくれた事も一度もない。一度も、ですよ。学校の行事にも来てくれたことはありません。授業参観にも、運動会にも。無関心、無反応。笑ったり、泣いたり、嬉しがったりもしなければ、怒ったりもしない。だから、私、父親に怒られたこともないんです。テレビ、新聞?それも、見ないし、読まない。会社から帰ってくると、ほんとうにじっとしているんです。背広を着替えて、いつもの決まった場所、自分の部屋の座椅子なんですけど、そこでじっとしている。初めて見ると気味が悪いですよ。寝ているわけではなくて。充電しているみたいです。本当です。最低の、最悪の父親です。病気?さあ。違うと思いますけれど。会社では定期的に健康診断もやってるみたいですし。いえいえ、会社ではちゃんと話したりするらしいんです。どうも、家で、家族のわたしたちに対してだけ、無関心、無反応。
母は、いつも不安がっています。父が何を考えてるいるか分からないものだから、いっつもおろおろしちゃって。何故、どうやってあの二人が結婚したのか、謎なんですよね。
父のせいで、怒られないものだから、ずーっと反抗期です、私。
母と私は仲が良いですよ。父が相手にならない分、私が母の話し相手です。もうそれは、小さい頃から。母のことなら何でも分かりますし、母も私のことを分かってくれています。母は、私がいなければ駄目になると思います。姉妹みたいな母娘なんです。
今は、一人暮らしです。ええ、一昨年から、実家を出ました。大泉学園です。会社には1時間かからないですね。母ですか。寂しがってるとは思います。一人暮らしをしたいと言った時は、「本当に大丈夫なの」と心配してました。私としては父を見なくていいだけ、気分が楽っていうのもあります。生活を変えたいと思ってたんですよ。特別何かあったわけではないんですけどね。ふふ、毎日電話してきますよ。メールも、しょっちゅう。買い物の途中からメールしてきますから。
私ですか?いいえ。残念なことに父に似ているんです。さあ。イケメンなのかなぁ。まぁ、いい男だったのかも知れませんね。母は面食いなので、若い頃、父のそこに騙されたのかも。今はみっともないだけですけれど、アルバムで若い頃の写真を見ると、ちょっと爽やかな顔してるんですよね。
この前、夫婦喧嘩したって、メールしてきました。心配なんですよ、それが。母が隠してる。実は、どうも暴力を振るわれたらしいんです。信じられません。いい歳をした夫婦が。それに、あの父に、そんな感情があったということが、本当に信じられません。心配で、実家に帰ったんですが、母はニコニコしていて、何ともないわよ、なんて。ねえ、あなた、なんて言って、父の方を見たりするんです。父は父で、照れ臭そうな顔とかしたりするんです。え?夫婦ってそんなもんなんですか?分からないなぁ。その後は、何事もなさそうなんですけどねぇ。
課長のお宅も、夫婦喧嘩とかあるんですか?なんか、課長は絶対、夫婦喧嘩なんかしなさそう。奥さんを大事にする、って感じです。女の子の間では、課長は愛妻家だ、って噂ですよ。会社の愛妻家ランキング一位です。課長みたいな旦那さん、憧れだなあ。
憧れたらいけません?
憧れさせてくださいよぉ。
お子さんは、娘さん、おひとりでしたっけ?お幾つですか?じゃあ、小学校五年生?ふふふ、そうなんですか。ああ、お父さんの居場所がなくなる、って聞いたことあります。五年生だったら、もう肩車は無理ですねぇ。え?私、お父さんに肩車してもらうのが夢だったんですよぉ。へえぇ、そうなんですか。あ、課長は背が高いから、怖くなっちゃうんだ。なるほどぉ。私だったら平気なのに。今の私じゃありませんって。私なんか乗せたら、課長、腰を悪くしますよ。ええぇ?そんなことないです。結構お肉ついちゃってるんですから。細くないです。ええ、ダイエットはしてません。私、気にし出すと止まらなくなるんで、拒食症とかになりそうなんですよね。だから、なるべく体重は気にしないようにしてます。そうそう、体重計も目に入らない所に隠してます。」

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/8 22:30 +9:00
Subject:ママへ
会社の皆と飲んでて、遅くなりました。これから帰ります。先に寝てていいよ。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/8 22:38 +9:00
Subject:お久しぶり
高松です。
元気ですか。さっき、携帯に電話したんですけど、繋がらなかったんで、メールします。どうせ、飲んでるんだろうね。携帯にでないということは、結構楽しんでるんだろうな。
自分ばかり楽しまないで、友達にも会ってくれよ。仕事が一段落ついたので、今度、飲みませんか。連絡ください。バーベキューの打合せもしたいし。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/8 23:42 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。今日は、ありがとうございました。
課長とお話ができて、課長のお考えがよく理解できました。それに、仕事以外のお話しも聞けたので、とても楽しかった。課長は、私のイメージ通りです。先月から新しい環境で、色々不安や悩みもありましたけれど、もう大丈夫だと思います。私は、課長のグループで頑張ります。
でも、なんだか私ばかり話していたみたいで、申し訳ありません。普段はあんなにおしゃべりじゃないんですよ。信じてくださいね。でも、今日は、課長がしっかり受け止めてくださるので、ついつい甘えてしまいました。次は、課長の映画のお話を聞きたいので、また誘ってくださいね。
では、おやすみなさい。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/13 9:20 +9:00
Subject:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。
東機製作所様とのシステム連携の件、早速のご対応、ありがとうございます。
誠に申し訳ございませんが、弊社側のスケジュールについては、現在調整中でございます。その為、ご連絡いただきましたスケジュールでの対応につきまして、実施できない場合がございますので、その旨、ご了承くださいますよう、お願いいたします。
なお、弊社側のスケジュールについては、別途、ご連絡させていただきます。
ご迷惑をおかけしますが、以上、よろしく御願いもうしあげます。

From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/13 10:45 +9:00
Subject:Re:トゥモローとのシステム連携スケジュール
菅原課長
トゥモローさんとのシステム連携、どうなりましたか?
スケジュールが、先方の都合で未定になっている、と聞きましたけれど、もしそうなら、製作所の商品照会画面の方を先にして予定を組みたいと思います。よろしく。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/13 13:03 +9:00
Subject:グループ会議、延期します。
菅原課長
明日のグループ会議、都合により延期します。次回の日時については、追って連絡します。
P.S.
例によって、吉田部長の気紛れだよ。つまんない仕事を押し付けられたんだって?ご愁傷さま。エリート課長も辛いね。
昨日、樫山恵美と飲んだらしいね?どう、彼女?

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/13 19:01 +9:00
Subject:ママへ
これから帰ります。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/13 20:12 +9:00
Subject:Re:Re:お久しぶり
高松です。
それじゃ、そういうことで、よろしく。藤田にも声をかけておきます。来れないかもしれないけど。バーベキューの候補地は、こっちで調べておくよ。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。

From:総務課 田口 To:菅原課長
Date:2010/7/14 9:05 +9:00
Subject:人事考課面談について
菅原課長
総務課田口です。来月の人事考課面談について、課長が担当されているセクションの面談スケジュールが提出されておりません。よろしくお願いします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 10:27 +9:00
Subject:(未設定)
暑いね。そんだけ。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:31 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
さて、東機製作所様とのシステム連携の件ですが、弊社側のスケジュールが確定しましたので、ご連絡いたします。詳細につきましては、添付のエクセルファイルをご覧ください。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
添付ファイル中にも記載してあります通り、大変急でもうしわけないのですが、連携のテストを9月6日(月)より開始とさせていただきたいと思います。
重ね重ねご迷惑をおかけしますが、以上、よろしくお願いもうしあげます。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:44 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡いたしましたシステム連携のスケジュールは、案ではなく、これでいきましょうというものです。かなりタイトな日程であることは、当方も承知しておりますが、何分他社さんとの兼ね合いもありますので、東機製作所様だけを特例とするわけにもまいりません。そこのところをご了解いただければ幸いです。
今回のスケジュールにつきましては、弊社の都合により、ご迷惑をおかけしておりまして、大変もうしわけなく思っております。
なお、このスケジュールにつきましては、事前に、当社の原口が御社の吉田部長と打合せさせていただいたと聞いております。ご確認ください。

From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/14 11:06 +9:00
Subject:Re:システム連携スケジュールの件
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携については、先日、先方の原口課長と会って、先方の状況について説明を受けています。
今回のシステム連携の日程については、先方の事情を飲みこんであげてください。止むを得ない都合もあると思います。でも、プロジェクトの進捗については、君のグループなら問題ないでしょうから、後は任せますので、よろしく。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 14:20 +9:00
Subject:飯、食ったのか?
なにカリカリしてんの?また、吉田部長かよ。
かわいそうねぇ、菅原ちゃん。寂しくなったら僕のところにおいで。一緒に飲んであげるから。
あ、そうだ。飲みに行く時は、樫山恵美も誘おうぜ。

「参ったよ。山手線がさ、遅れてて。すまんね。え?うん、一体なんだろうね。ここの所、しょっちゅうだ。『後続の電車が遅れておりますので、時間調整をいたします。』だよ。なんとなく納得いかないよな、あれ。いや、駅に停まってる間に、次から次に乗ってくるから、もうギュウギュウになって、その内、気持ち悪くなる奴がでてきて、今度は『気分の悪くなられたお客様がいらっしゃいますので、しばらく停車いたします。』だよ。どんどん遅れてきちゃってさ。
え?車内アナウンスの真似が上手い?お前、人の話しのどこを聞いてるんだよ。まったく。
遅れる電車にも腹が立つけど、乗ってる客にも腹が立つね。混んでるってのに、携帯だのゲームだのを持ちだしてさ。顔の真ん前にかかげて、周りなんかおかまいなしだもんな。どうなってるんだろうね、あれは。お前、混んでる時に、携帯とかする?しないよなぁ。そんなにメールしたいか、ゲームしたいか、だよ。そもそも、俺は、携帯だとかゲーム機の小さい画面が嫌いなんだ。もう狭っ苦しくてさ、息がつまりそうなんだよ。それにね、目が痛くなって、駄目だ。そいでもって、あの格好だよ。携帯やゲーム機の画面に見入ってる格好、どう思う?いい格好かね?携帯とかゲーム機のメーカーの奴らは、もう少し考えたほうがいいよな。あんな格好した奴が街中にあふれて、美しいか?なんて言うのかなあ、みんなちょっと寄り目になってさ。美人もイケメンも台無しだぜ。小さい箱を後生大事に抱えて、御託でも聞くみたいにのめりこんで、そんな顔を他人の目にさらして、平気なのか。一番恥かしい所が剥きだしだ、っていうのは誰の言葉だったっけな?それなのに、恥かしい顔が呆けた様子をさらしているにもかかわらず、どいつもこいつも全然気づいていないんだ。そんな街の風景を作りだしてんだぜ。携帯のメーカーは、さ。ゲーム機屋さんは、さ。
え?相変わらずかよ。はいはい。こればっかりはね、治らないんです。すんませんですな。
どう、そっちは。忙しい?景気は?どこも同じだね。俺のとこも似たようなものだよ。ほら、不景気な顔してるだろ。変わんない?そうかなぁ。人間的な深みは増したと思ってるんだが。へへへ。
お前さ、そう言えば、この前どうして携帯にでなかったんだよ。飲んでたって?誰と?いやいや、俺様以外にお前さんに飲む相手がいるのか、と思って。いいじゃんよぉ、教えてくれたって。だから、誰とよ。会社の部下?女か?お、図星。おいおい、これは只事じゃないね。とうとう菅原の君も、鬼畜の仲間入りか。そんなんじゃない、って、どんなんだよ。そんなもこんなも、俺はまだ何も言っちゃいないよ。話せ、白状しろ。その娘、綺麗なのか?写真がある?お前なぁ、なんでそんなもの持ってるの?ますます怪しい。課の連中と記念写真?もうちょっとましな言い訳したら。わかった、わかった。わかったから、見せろよ。ほら、携帯をよこせって。
どれどれ。ああ、この右端の?おお。いい女じゃん。う〜ん。なんか、こう、独特の雰囲気だね、これは。恭子さんとは違うタイプだな。え?恭子さんを引き合いに出すな?いいだろう、そんなこと。俺の勝手だね。俺はなあ、血の涙を流して彼女を諦め、身を引いたのだ。何かにつけても彼女を思い出す権利があるというものだぜ。あの恭子さんの夫の座にのうのうとふんぞり返っている菅原君にとやかく言われたくないね。なんだよ。お前はな、俺がどれだけ恭子さんのことを愛していたか、知ってるだろ。だろ?ああ、はいはい。お前にとっては昔のことかも知れないけど、俺にとっては、まだ終ってないの、彼女のことは。ええ、ええ、そうですよ。ひきずってますよ。ずるずるだよ。だからな、これだけは言っておくがな、お前らにもしもの事があったらな、恭子さんに言っちゃうよ、俺は。プロポーズしちゃうよ。
わかったよ。声がでかくなるのもしかたないだろう。わかったよ。
でさ、なんでその女と二人で飲むことになったの。忘れてないよ。大変だもん。事と次第によっては、恭子さんに告げ口しなけりゃならんからな。え、菅原君、吐いてしまいなさいよ。楽になるよ。いや、変な勘繰りしてるわけじゃないさ。お前の事だから、何か事情があると思ってるの。そうだぜ。何年の付き合いなんだよ。憧れの人を譲る友情を何だと思ってんのさ。何があった。
ふ〜ん。ああ、そうか、いわゆる問題有りってやつか。前の部署でもゴタゴタしてたんだ。情緒面ね。課長はいろいろな面倒みなきゃならないなぁ。仕事だけじゃ収まりつかないよなぁ。しかし、美人なのに。関係ないか。セクハラ?ははは、そうだね。怖いね。
でも、分かる気がするな。もう一度写真見せてみな。うん。確かに。このさ、独特の雰囲気ね。化粧を決めてるのに、どこか粉吹いたみたいな、な。ちょっと脆そうな、な。そうだぜ。共通してあるんだよ、そういう雰囲気がね。笑ってろよ。」

From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/16 21:17 +9:00
Subject:Help!
パパへ。パソコンが固まって、動かないんだけど。どうしよう?このままにしておきますので、よろしくね。

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/16 22:49 +9:00
Subject:ママへ
高松と飲んでました。これから帰ります。パソコンの件、帰ってからやっておきます。そのままで、先に寝ててください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:こんばんはー!
菅原課長
樫山です。こんばんは。
もうご自宅ですか?
今日は、課長がいそいそとお帰りになったので、気になってメールしちゃいました。お友達と会ってらっしゃったのですか?
先週、課長とお話しできて、あんなに楽しかったのに、今週は、お忙しいようで、殆どお話しできないのがちょっと寂しい感じです。また、飲みに誘ってください。
トゥモローさんの件、頑張ります。
では。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:Re:Re:こんばんはー!
うわー、課長から返事がいただけるなんて!ウレシー!
今、私、にっこにこして、ホッとしてるんです。さっきのメール、失礼だったかなぁって、送信してから凹んでたんです。
でも、課長は、本当に優しいんですね。課長の部署に配属されて、よかったという気持ちでいっぱいです。
明日も仕事、頑張るぞー!って、明日から三連休でしたね。何の予定もないから、忘れてました。気を取り直して、来週も、頑張ります。
ではでは、お休みなさい。
奥様とお嬢さんにもよろしくお伝えください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 16:40 +9:00
Subject:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
お休みのところ、申し訳ありません。
来週、お時間をいただけないでしょうか。個人的なことなのですが、課長に話しを聞いていただきたいのです。このままでは、どうかなってしまいそうです。わがままなお願いですが、どうかお時間をください。お願いします。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 20:01 +9:00
Subject:Re:Re:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
すみません、来週のことですけれど、忘れてください。
もう大丈夫です。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/20 10:18 +9:00
Subject:憤慨
ちょっとさ、聞いてくれよ。納品の前日になって、二日分のデータを作れだとよ。なんだあの会社は。信じられないぜ。
菅原課長さま、何とか言ってやってくださいまし。あの、馬鹿会社の馬鹿部長に。

From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/20 17:00 +9:00
Subject:パパへ
茉莉です。
今晩、早く帰ってきますか?

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 17:05 +9:00
Subject:Re:パパへ
茉莉へ。
会社の打合せで、少しだけ、遅くなりそうです。ごめんね。

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 21:21 +9:00
Subject:ママへ
会議が長引いて遅くなりました。無理なことを言ってくるクライアントがいて困ります。でも、今、終りましたので、帰ります。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/20 22:38 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。
今日は、本当にありがとうございました。私、わがままな女ですね。反省してます。
でも、課長に話しを聞いてもらえたので、心が晴れ晴れとした気分です。
ありがとうございました。

From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 11:07 +9:00
Subject:システム連携の進捗について
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携の進捗についてですが、予定より遅れています。ちょっと立て直しが必要かと思います。打合せの時間を下さい。
それから、樫山さんの担当分なんですけど、決められたルールに従って進捗を報告するように指導してください。仕事のクォリティは問題ないんですが、どうも自分勝手で困ります。それと、チームのメンバーに対する接し方にも、もう少し気をつかって欲しいと思います。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:05 +9:00
Subject:菅原大明神殿
梅雨はもう終ったんだっけ?なんだい、この暑さ。どうにかして、菅原の神様。
営業部の岩瀬ちゃん、辞めるらしい。赤ちゃんできちゃったから。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:08 +9:00
Subject:Re:Re:菅原大明神殿
俺じゃないよ。営業の藤田だよ。岩瀬ちゃんは藤田と結婚するんだな。9月に辞めるんだってよ。

From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 14:19 +9:00
Subject:Re:Re:システム連携の進捗について
菅原課長
樫山さんの言動については、以前に口頭でも報告してあります。報告書にしますか?

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/23 10:10 +9:00
Subject:Re:相談
菅原様
樫山恵美のことなら、少しは噂を聞いてるよ。メールで書くのも何だけど。菅原大明神のお膝もとでも火の手をあげましたか?
彼女、感情の起伏が激しいんだよ。情緒不安定の面もあるらしい。仕事の方は問題ない、と言うより上々だと。その辺りは、菅原さんのほうがご存知でしょう。噂だけから判断するに、依存心が強いんじゃないかな。彼女の口のきき方も、ちょっと澄ましたところがあって、人を責めるような感じがあるよ。でも、噂だから、本人とじっくり話し合うのが王道でしょう。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/23 21:07 +9:00
Subject:ごめんなさい。
菅原課長
樫山です。
今日は、ご指導ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。本当にごめんんなさい。
会議室で、あんな態度をとってしまって、課長に不貞腐れていると思われたのじゃないかと心配です。実は、ショックで体が固くなっていたのです。それで、満足に返事をすることもできなかったんです。私のこういうところが、誤解されてしまうんですね。反省しています。
だから、私は、課長のご意見に不満だったのではありません。逆です。課長のお話しがじわって、深く染み込んだ感じです。
周りの人にどう思われてるか、課長から聞けてよかった、と思っています。転ぶ前に手を差し伸べてもらった気がします。きっと、菅原課長でなければ、私の心には届かなかったと思います。例えば、3グループの大竹リーダーなんかだったら、私は絶対受け入れられなかったでしょう。でも、菅原課長だから、素直に聞くことができました。
私って、イヤな女だったんですね。友達もできないし(お昼休みには、一人でお弁当を食べているんですよ…涙)、男の人達の目もなんだかギスギスしてる気がして、どうしてか分からなかったんですが、これでハッキリしました。課長にズバリと心臓をつかれて、血の気がひくほどショックでしたけれど、でも本当の姿を知ることができました。
私、明日から、生れ変ります。ずっと強い女になります。心配しないでください。あ、心配なんかしてません?とにかく、明日からは、樫山恵美改造プロジェクトの発足です。仕事も頑張ります。課長に褒めていただける女になるために、努力します。ダイエットもしなくちゃ。しばらくは、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、見守っててくださいね。
だから、今日は、本当にごめんなさい、&ありがとうございました。
P.S.
ひとつだけお願いがあります。
こうして課長にメールすることを許可してくださらないでしょうか。
課長に私の気持ちを知っていただかないと、駄目になってしまいそうな気がするんです。今も、私、折れてしまいそうなんです。
だから、メールだけでいいですから、許してください。
P.S.のP.S.
小指の包帯ですが、ちょっと包丁で切ってしまいました。ご心配、ありがとうございます。でも、大丈夫です。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/25 20:33 +9:00
Subject:Re:Re:バーベキューについて
高松です。
なんだよ、秋ケ瀬公園じゃ、問題あるの?
恭子さんにも了解とってあるんだからね。茉莉ちゃんも喜んでくれたぜ。
バーベキュー・グリル等々はこちらで用意するから、ターフとか椅子とかをお願いします。いつも通りで。
恭子さん、きれいだなぁ(遠い目)。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/25 22:49 +9:00
Subject:夜遅く、すみません。
菅原課長
夜分、申し訳ありません。
今日、足を怪我してしまいました。足の小指を家具にぶつけて、腫れてしまったのです。ジンジンしてます。なので明日、少し遅刻します。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/27 10:42 +9:00
Subject:やったね!
おい、見てたぞ。よくぞ言ってくれたよ。さすが、菅原課長。拍手。
吉田部長の顔、見たか。目を、こぼれそうに剥いて、顔が真っ青だったぜ。
トゥモローなんか糞くらえ、だって。製作所の連中も、システム連携なんざどうでもいいと思ってるさ。
うちのチームでは、菅原課長万歳のメールが回ってるって。
俺たち応援してるからな。でも、左遷されてもついて行かない(笑)。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/27 23:11 +9:00
Subject:こんばんは。
菅原課長
こんばんは、樫山です。
今日は大変でしたね。課長と吉田部長のバトル、怖かったぁ。課長の真剣な表情、すごく迫力があって、びっくりしました。
吉田部長は、ぶるぶる震えてましたよ。あんな、横暴で自分勝手で、がさつな奴、自業自得なんです。
私が前のグループに在籍していた時、吉田部長にこう言われました。『女というだけでもお荷物だなんだから、せいぜい人に迷惑をかけないよう、気をつかえ』。信じられますか。あいつは、人間として最低です。下劣な男です。人の上に立つ器じゃないと思います。本来の部長職としての仕事を全うしていないくせに、権力だけふりかざしている。
今回のトゥモローさんの件も、はっきり言って公私混同もいいところではないですか。
今のままでは、課長がかわいそうです。
吉田部長は、今回の件を根に持って、陰険にしかえししてくると思います。どんな手を使ってくるかと想像すると、おぞましくて身の毛がよだちます。あのクソ部長、死んでしまえばいいのに。死ね。死ね。
課長、吉田部長が何をしてきても、負けないでください。闘ってください。私も闘います。課長の為に、吉田部長に引き裂かれても構いません。私達の赤い血で吉田部長の不正を染めあげて、白日のもとに晒してやりましょう。そうすれば、社長がそれを見て、必ず正義が執行されると思います。
課長、負けないでくださいね。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/28 8:20 +9:00
Subject:樫山です。電車遅延で遅れます。
菅原課長
樫山です。山手線が止まっているようですので、遅刻すると思います。
よろしくお願いします。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/29 7:02 +9:00
Subject:遅れます。
菅原課長
樫山です。
今朝、ちょっとお腹が痛いので、午前中、病院に寄ってから出社させてください。
よろしくお願いします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:08 +9:00
Subject:ご報告
吉田部長、あんたからもらった一発が相当こたえたみたいだぜ。取り巻きに、あんたの機嫌を聞いてたってよ。すごいね、菅原課長。次の部長は、決まったね。
お節介かも知れないけれどさ、手の打ちどころを考えてた方がいいと思うよ。吉田部長もまだまだ使える人だし。俺だったら、こちらから頭下げるけれど、ね。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:19 +9:00
Subject:Re:Re:ご報告
吉田部長の取り巻きだと思われたなら、心外だな。
俺が冷や飯くってるのは誰のせいだと思ってるの?吉田さんにまんまと嵌められたんだぜ。
それは、ともかく、菅原課長が頭下げに行けば、すべて丸く収まると思うよ。菅原さん、ちゃんと考えてんだな。えらいよ。
ところでさ、週末は?また、家族サービスですか。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:ご報告
秋ケ瀬公園でバーベキュー?!
ひょっとして熱中症で自殺する気ですか?
あそこ、暑いだろう。信じられん。奥さん、よくOKだしたね。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/7/29 18:38 +9:00
Subject:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
高松さん。恭子です。
こんばんは。
土曜日のバーベキューの件ですけど、ちょっと心配な事がありまして、メールしました。
お友達の奥さんが、先週の日曜日に秋ケ瀬公園に行ったらしんですが、この天気で、暑くて大変だったそうなんです。大人だけではなく、特に小さい子が、参ってしまったと聞きました。高松さんのところの秋ちゃんも、うちの茉莉も、そんなに小さい子ではないから、問題ないかな、と思いますが、ほら、あそこは日陰がないでしょう?熱中症対策とか考えておかないと駄目なんじゃないかと思って。
私も日焼けは怖いし。もう、若くないから。ね。

From:高松祥之 To:菅原恭子
Date:2010/7/29 18:44 +9:00
Subject:Re:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
恭子さん。
高松です。メールありがとう。
わかりました。秋ケ瀬公園は、たしかに日陰がないですよね。7月にあそこでバーベキューは無謀かもしれません。秋ケ瀬公園、やめましょう。別の場所を探します。OK、ご心配なく。
恭子さんは、いつまでも若いですよ。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:03 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
そういうこと。だってぇ、恭子さんの提案だぜ。もう最重要事項だよ。
ま、なんとかするから。ご心配なく。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:07 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
なんだよ。俺達の仲だろう。恭子さんと連絡とったら悪いのか。
あれ、嫉妬してるの?
心配だったら、早く帰りなさい。
早く帰って、美人の奥さんの話しに耳を傾けるんだな。恭子さん、嘆いてたぜ。最近、怖い顔して、会社の問題社員の話しばかりする、って。問題社員って、あれか?この前二人きりで飲んだ女か?問題あるのは、菅原君の方じゃないの?

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/30 23:01 +9:00
Subject:残念でした。
菅原課長
樫山です。
こんばんは。
今日は、残念でした。
菅原課長が、吉田部長と笑顔でお話しされているところを見たからです。
私の本当の気持ちを書きます。なんだか、裏切られた気分です。
でも、きっと菅原課長はいろいろ考えられてるんですよね。
私ひとり、眉を吊り上げて、馬鹿みたい。なんて。
菅原課長、私を置いてけぼりにしないでください。
では、また来週。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/2 9:01 +9:00
Subject:体調不良で、遅れます。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、遅れます。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/3 8:11 +9:00
Subject:遅刻します(泣)
菅原課長
樫山です。
今日も、具合が悪いので、遅れます。申し訳ありません。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/8/5 10:17 +9:00
Subject:先日はありがとうございました。
高松さん。恭子です。
土曜日は、ありがとうございました。とっても楽しかった。
あんな所があるんですね。全然知らなかった。涼しくて、水遊びもできて、茉莉もとっても喜んでました。
どこで知ったんですか。
また遊びに行きましょうね。
涼子さんと秋ちゃんにもよろしくお伝えください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:27 +9:00
Subject:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
熱があるようなので、今日はお休みさせてください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:45 +9:00
Subject:Re:Re:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
ありがとうございます。
起き上がれたら、午後にでも病院へ行ってみようと思います。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/9 6:13 +9:00
Subject:お休みします。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、お休みします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:01 +9:00
Subject:Re:樫山さんの事
火曜日から無断欠勤なのか?!
そう言えば、最近見かけないなあと思ってたけど。無断欠勤とは。そんな女の子だったっけ?病気?
電話にはでないの?

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:樫山さんの事
おいおい、家庭訪問じゃあるまいし、彼女の家に行くつもりかい?
電話にでるんなら、ちゃんと連絡を会社に入れて、病院へ行って治療するように指導するしかないんじゃないの?いくら管理職だからといって、家に押し掛けるのは…、

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とび色の髪 [小さな話]

 世界が塗り替えられたのだと思った。一撃で、奇跡の技によって。
瞬くと、元の世界に戻っていた。あの、背の高い女の子の、珍しい髪の色に不意をつかれたのだ。あれは、何と呼ぶのだろう。
それにしても、その子のあたりだけ、陽の光が生き返っているような気がした。夏休みの間、うんざりするほど積もった蝉の声の灰から、七月の、梅雨を打ち負かしたばかりの太陽が甦ったようだった。
女の子の側には、中年の男の人が立っていて、その人と母が話していた。三人は、マンションの駐車場の角に立っていた。男の人の視線が僕の方に少し逸れると、母がそれに気付いてこちらを向いた。かすかに躊躇いの色を見せてから、僕を手招きする。自転車を押して近付いていく間、女の子がこちらを見ないでいてくれたので、少し気が楽だった。
「息子の達郎です。」
「こんにちは。」
「堤です。初めまして。」僕に向かって軽く頭を下げた人は、僕と同じくらいの背丈で、女の子よりは十センチ程低い。オールバックに撫でつけた長めの髪、ノーネクタイの開襟シャツ。ベージュのチノパンにブラウンのデッキシューズ。ここいら辺では見掛けないタイプの大人だ。ひょいひょいとゴルフへでも行きそうだが、日焼けはしていない。広告写真から切り抜いたようなおかしさがある。それでいて、僕に据えられた視線が真っ直ぐに問い掛けてきて、ぐいと引き込まれる。今にも泣きだすんじゃないかと心配したくなる。なんだか、こちらが恥かしくなるくらい、どこか違う人だ。
「お嬢さんと同級生になりますね。」
母の言葉遣いが聞き慣れなかったので、思わずその横顔を見てしまった。堤と名乗った人は、ハッとしてから苦笑し、女の子を紹介した。
「娘のリーサです。9月から笹原高校の2年生です。リーサ、こちら本城達郎君。」
リーサと呼ばれた女の子が、僕に向かって少しだけ微笑んだが、僕の方はちらりと視線を走らせるのが精一杯だった。それでも、僕は見た。高々となりつつある太陽の眩しさに、女の子はわずかに眉根を寄せ、その下の瞳が深い影に沈んでいた。それから、鈴の音が曲線となったきれいな頬があった。その頬も、ほっそりとした首も、白い。ただの白さではない。僕には、生きている蝋燭の色に見えた。
女の子は、シンプルな綿のシャツと淡い水色のロングスカートを着ていた。百八十センチ近くある背丈のせいか、スカートのウエストの位置があんなに高いと感じた。
そしてあの髪が、緩やかなカーブを描いて顏を囲み、燃えるように、肩から鎖骨の少し下のあたりまで流れていた。
「同じクラスになれるといいわね。」母が女の子に向って話しかけたが、女の子の方は微笑んだままで、男の人へ視線を投げた。
「初めは日本語の特別授業になるそうです。」
「それは、大変ねぇ。」
「本城君、仲良くしてやってください。こちらでは、まだ友達がいないから。」

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祖母と孫娘〈十二〉 [小さな話]

〈十二〉

 右手に力が入らない。水希は息も満足につけずに、振り回されていた。両手に巻き付けたコードを引き絞ろうにも、男の背中にしがみついているのが精一杯だった。吉野智=小松秋男の体から立ち上る腐敗臭が水希の鼻を刺激する。小松秋男の体に触れている部分が、火傷しそうに熱い。背中の痛みも激しくなる一方だ。ふっと気が遠くなったら、殺されるという恐怖感に心臓が悲鳴を上げた。
その時、小松秋男が横を向いて、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「がぁ、離せ。離さないと、お前の婆をごうじでやずずぅ。」
小松秋男は、水希を背負ったまま真子に近付き、倒れている真子の腹を踏みつけた。
真子が声にならない呻きをあげた。ぐぐっと体を縮める。
小松が真子を踏みつける度に上下に揺さぶられながら、水希は真子に呼び掛けたかった。しかし、今叫ぶと力が抜けて振り落され、二人とも殺されると思い、目を閉じ、真子の方を見ないようにして我慢した。体が、(早く、早く、これを止めて、もう勘弁して)と懇願を繰り返している。
小松は何度も真子を踏みつけた。
真子は、強烈な痛みから逃れようと身を捩り、そのせいで小松の足は、真子の腰、腿、胸、背中と所かまわず踏みつけた。真子の足の折れた部分に目をつけると、水希を背負ったまま跳び上がって、両足でそこを直撃した。真子の口から信じられないほどの血を吐く悲鳴があがった。真子の左足はギプスが砕け、膝と踝の中間が破れて白い骨が見えていた。

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