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君の唇は暗黒星(一) [小さな話]

 恭子さんの鼻先が机にくっつきそうだった。こっくりこっくりと近づいて、まさに着地する寸前で止まっていた。しかし、その雄大な穴を開いた鼻が触れそうになっていたのは、実は机そのものではなくて、その上に広げてあったA4のリストであった。そしてそれこそ、溝口和樹が恭子さんに処理をお願いしていた商品リストだったのである。
和樹は入力がどれくらい進んだのか確認するつもりだった。油断すると恭子さんの仕事はとてつもなく彼女のペースで処理されてしまう。恭子さんにものを頼んだらしつこいくらいに催促しなければ駄目だ、と先輩達からも常々言われていた。それで、様子を聞こうと恭子さんの机に近づいたのだが、意表をつくその姿に和樹の足は止まってしまった。
寝ている人を起こしてはいけない、と和樹は反射的に思った。
恭子さんは居眠りしている、声をかけたら起こしてしまう。他人の睡眠を妨げるのは失礼だし、良くないことだ。睡眠を取り上げるのは拷問でしかない。おまけに和樹は、寝起きで機嫌が悪くなる人が恐かった。恭子さんが寝起きが悪いかどうかは知らなかったが、もしどろんとした不機嫌な顔で「なに?」とか言われたら、正直ぞっとするではないか。それに比べれば商品リストの入力など大したことではない。ちっぽけな事だ。恭子さんの鼻の穴にある鼻クソみたいなものだ。
待て。「それに比べれば」とは何に比べてるのだ。和樹は思い出した。
その商品リストは午後の会議で使うものだから、なるべく早く入力しておかないと、困る人が結構な数で発生する。課長だって怒りだすだろう。今日の会議は部長が出席するわけではないので、課長の怒りもその場で噴火して終りだろうが、とは言っても、肝心要の資料が準備できてないのは課長が大っ嫌いな間抜けのパターンだろう。そこへわざわざドツボで嵌りこむ必要はないのだ。しかもそうなったら、課長に睨まれるのは和樹ということになるに違いない。課長に睨まれてもどうということもないが、小心者が怒るのを見るのは不快だ。
そもそも恭子さんにその入力を頼んだのは、さっき恭子さんの方から「溝口さん、何かお仕事ないかしら?」と言ってきたからだ。和樹は自分で片付けるつもりでいた。自分で入力すれば時間の計算もできるし、そんなに間違えるとは思えなかった。和樹の視野には恭子さんの影などほんの少しも入っていなかったのだが、恭子さんは和樹の椅子にずいずいとすり寄ってきて、和樹が持っているリストに完全に目を据えながら、仕事を寄越せと言ってきたのである。恭子さんに渡したら誤入力どころかリストの内容を書き変えかねない、と恐怖に近い不安が和樹の頭を過った。しかし次の瞬間には、恭子さんはもっちゃりとした手を和樹の方に差し出していて、桃色の唇を横に広げ(おそらく微笑んでいたのだろう)、「はい、頑張ります。ありがとうございます。」と言ったのだ。
あれから三十分しかたっていないのに、全然頑張っていないじゃないか、と和樹は思った。やはり恭子さんの睡眠に遠慮している場合ではない。起こして急かすか、リストを取り上げて和樹自身で入力した方がいい。今ならまだ間に合う。
恭子さんのつむじのあたりは髪の毛の根元が銀色になっていた。白髪が根気強く領土拡張を狙っているようで、放っておけば恭子さんの頭全体を侵略するのだろう。そのつむじに向かって声をかけようと和樹が一歩踏み出すと、恭子さんを挟んで向い側に、磨り減りが目立つスリッパから白いソックスの爪先がのぞいているのが見えた。
高野課長だった。
課長はワイシャツの袖をまくりあげた腕の肘を張って、両手を腰にかけていた。その片方の人差し指と中指が、腰骨のあたりをひくひくと叩き続け、痙攣しているように見えた。眉間に皺を刻んでいた。恭子さんの銀色のつむじに穴でも開けかねない勢いで見下ろしていた。四角い顔の部品が中央に寄り集まり、それぞれの稜線が引っ張られたようにきつくなって見えた。
課長は、苛立っている、を通り越して、怒っていた。恭子さんの居眠りに怒っていた。
簡単に言うと、課長は恭子さんが嫌いだ。恭子さんは高野課長の神経を逆撫でしっぱなしなのだ。特に恭子さんの居眠りは課長を沸騰させた。
和樹はスズメバチの羽音がどんどん大きくなる感じがした。これは絶対怒鳴りだすだろう。課長の体のまわりにもやもやと黒いものが凝集しているこんな時、身じろぎしたり、一言でも口をきこうものなら、課長の行く手を阻んで、とんでもないぶち壊しを演じてしまいそうに感じられて、和樹は再び止まってしまわざるを得なかった。恭子さんの頭がひょいと起き上がった。
「ん〜と、あ、いけない。そっか。」
恭子さんの指がPCのキーボードの上をさまよってからキーを叩きだした。ディスプレイを確認すると、机の上のリストに目を戻し、入力をチェックして頷いた。それから何事もなかったかのようにキーを叩いた。そして、明かに課長の存在に気づいていながら、そちらの方は向かず、必要以上に和樹の方へ顔を向けて、にっこりと笑顔で言った。
「あ、溝口さん。大丈夫です。」
課長が目を剥きに剥いた。恭子さんは課長のいるあたりが壁になっているかのように顔の向きを戻すと、エンター・キーを強く叩いて「タン、タタン」と音を立てた。
「え?あとどれくらいかかります?」課長がくるりと背を向けて去っていくのを感じながら、和樹は恭子さんに聞いた。
「あと十分くらい、かな。」
「そうですか。午後の会議で必要になりますので、よろしくお願いします。」
「はい。わかってまーす。」ディスプレイに目を据えながら、喉の奥から鼻の裏側を震わす甲高い声で恭子さんが答えた。
嘘をつけ、と思いながら和樹は自分の机に戻って行った。(何が「わかってまーす」だ。分っているならどうして居眠りできるんだよ。)どうせ間違いだらけなんだろうな、と和樹は溜息をついてから、その溜息で思い出したかのように首を上げ、高野課長の姿を探した。課長はもう席に戻っていて、広がった額だけがパーティションの上端に見えていた。和樹には課長のじくじくした顔が目に浮んだ。

 恭子さんは高野恭子という名前で、名字が高野課長と被っていた。それでは「恭子さん」と呼ぼうと言いだしたのは高野課長だった。営業に永く在籍して、広報課の誰よりも年上の女性を、姓では紛らわしいから名前で呼ぼうと言って、最初は「恭子ちゃん」にしようとまで課長はふざけていた。課長を囲んでいた課員は爆笑したが、それでもいざ本人が配属されるとそれなりに敬遠した「恭子さん」に落ち着き、しかも面と向かっては「高野さん」と呼ぶというダブル・スタンダードになった。
高野課長も陰では「恭子さん」と呼んでいた。それが直に「キョーコ」と呼び捨てになって、「キョーコの奴」とか「超音波」とか呼ぶようになった。「超音波」というのは恭子さんの高い声、鈴を割るほど黄色い声のことを指していた。
課長による恭子さんの呼び方の変遷が、恭子さん対課長の歴史を物語っている。歴史、といってもここ二年くらいのことだが。ちょっとからかいを含みながらも、やや気を置いた扱いから、やがて目の上の瘤へ。その歴史を煎じ詰めるとこうなる。
高野課長にとっては、その前史、恭子さんが広報課に配属されることになった経緯からが因縁含みだった。

 恭子さんは御年五十五歳。二十七歳の和樹の母親が五十三なので、数字だけ見ると「お母さん」みたいな年齢だ。と、恭子さんの隣に母親を持ち出してくると、和樹はいつも頭を抱えた。女性について自分の母親を物差しにするのは、なんだか凄く精度の悪いことをやっているようで、間抜けっぽいでないか。しかし、和樹と年の近い同僚達も、恭子さんが自分の母親くらいの年齢だということをちょくちょく笑いのネタにしていた。
恭子さんの体型は確かに「お母さん」的ではあった。和樹の席から見ると、椅子に座っている恭子さんは抜群の安定感で、鏡餅で作ったジャバ・ザ・ハットのフィギュアのようだった。恭子さんの名誉のために付け加えておくと、恭子さんがジャバ・ザ・ハットのように気持ち悪いわけではない。椅子に座っているシルエットが似ているだけだ。恭子さんの、ジャバ・ザ・ハット餅体型への接近は、広報課に配属されてから加速がついたため、制服のサイズが追いついていなかった。そのせいで座っているうちに次第と上着のベストがずり上がってきてしまうようだった。ベストの方が上がるのか、中味の方がはみ出るのか、定かではないが、恭子さんは椅子の上でもぞもぞと何度も上着の裾を引っ張って直した。スカートもサイズが合っていないため、恭子さんはかなり剥き出しのミニ・スカートをはいている格好になっていた。恭子さんがくるりと椅子を回してこちらに向くと、むっちりした腿が目の前に並ぶことになる。そこで和樹たちは一瞬「お母さん」的な笑いを忘れてしまうのだった。これがまた和樹の頭を抱えさせた。量感のある体の曲線に目を奪われる反射的反応なんて、まるっきり間抜けだからだ。恭子さんの太股に目を吸い寄せられて、(あぶない、あぶない)と我に返っている自分が情けなかった。
恭子さん自身に「お母さん」的な振舞いは微塵もない。恭子さんは独身で、子供を持ったことがないので、「お母さん」であったこともない。和樹たちが恭子さんの年齢に対して母親を持ち出してくるのは、恭子さんと同年代の女性で身近にいるのが自分の母親くらいだけだからだ。
恭子さんは、世話好きでもなく面倒を見たがりもせず、あるいは慈愛や包容力を見せることもなく、その代りと言うわけでもないだろうが、そう見えるくらい頻繁に恭子さんの外部と衝突した。恭子さんの外部というのは、当然職場の同僚や上司が含まれていて、営業にいたころは、そこに取引先も含まれてしまっていた。
恭子さんは会社の取引先と喧嘩したのだ。それも年がら年中。そして中でもとりわけ大きな一発が営業部から広報課への転属の理由となった。
和樹は入社して二年目くらいの頃一度だけ、恭子さんが電話でお客さんと喧嘩しているのを目撃したことがある。用事で営業部の部屋のドアを開けると、恭子さんの低い声だけが響いていた。広報課と違ってパーティションの無い営業部は見通しがよく、部屋の端までいつもの賑やかさと全然異なる空気が降りてきているようで、それはなんだか、耳を尖らせながら諦めて待っている犬がどこかに座っていると思わせた。
「はい。はい。ですから、これは御社の間違いじゃありませんか。ええ。備考にそう書いてありますけど。では、そちらのミスですよね?はい?そういうことでは困るんですけどぉ。どういうことでしょう?理解できません。分りませんのでもう少し詳しくご説明ください。はい。はい。はい。ええ。でも、それはそちらのご都合であって、わたくし共には関係ないことですよね?本来、そちらの方で責任を持たれることであって、ことらがやるべきことではないと思います。それをこちらが悪いように言われるのは間違っていると思います。できません。私が責任を持っております。課長を出す必要はございません。何のためですか?できません。できません。あ。」
どうやら相手が一方的に電話を切ったようだった。恭子さんは受話器を置きながら、隣の畑山孝司の方に向っていつもの高い声で話しかけた。
「切っちゃた。なーにかしら。馬鹿にしてるわ。自分が悪いくせいに。」
畑山は微妙な笑い方をした。和樹と同期の男にしては実に高度な技、話し掛けてきた恭子さんに対して「聞いてますよ」というサインを見せた上で、「いやあ、大変ですねぇ〜」という何の薬にもならない反応を込めつつ、自分の仕事が忙しくて恭子さんの話よりもそちらに気をとられているので「これ以上はお相手できないかも知れません。ごめんなさい」という言い訳をそこはかとなく見せた笑いだった。畑山がそれほどに巧みな技術を身につけたのは、営業部に配属されてからずっと恭子さんの隣に座ってきたからだった。その畑山の証言によれば、恭子さんは電話に出る際に第一声からしてなんとなく高圧的で、そのうち「高野ですけど、何か?」と電話をかけてきた方が悪いくらいの勢いで切り出すようになるのではないかと畑山は思っていたらしい。
その「そのうち」は実際やって来て、畑山の予想を遥かに越えた騒動となった。
騒動の一部始終を和樹に報告する時、畑山はこう切り出した。
「恭子覚醒。東京壊滅。」
「アキラ」や「エヴァンゲリオン」のように恭子さんに隠されたパワーがあったわけではないのはもちろんだ。畑山の言いたかったことは恐らく、恭子さんの抑止弁が開放されたままになったということだったのだろう。
恭子さんのターゲットとなったのは取引先の若い社員だった。彼は、千個入り一ケースの商品を千ケース誤って注文してしまったのだが、恭子さんはその注文の取り消しを認めずに相手を呼び付け、さんざん責めてから謝らせた。ついに泣きだした相手には一切かまわず、椅子に座って肩を震わせているその横に傲然と立って、恭子さんが言う謝罪の言葉を復唱させたということだった。
「わたくしは、はい。」「わ、わたくしは…」「この度の、はい。」「こ、こ、この度の…」「声が小さいわよぉ。」
「声が小さい」といった指導は高い声で、「ご迷惑をおかけしました。」と相手に言わせる言葉を唱えるときは低い声と使いわけ、音楽の教師よろしく恭子さんは取引先の若手社員を指揮した。
その場にいたわけでもないのに畑山は、恭子さんが若手社員を「鍛える」様子を見てきたように語った。畑山の話は、聞き手がこうあって欲しいと思っている方向へ捻じ曲がっていく傾向があった。相手自身が意識していない願望、相手の眼差しの底にうずくまっている欲望、相手が思い描いているストーリーを察知して、それを話してみせることが畑山の特技でもあった。畑山はその特技を生かして、取引先はもちろん、上司にも取り入っていた。畑山の話がカーブを描いて膨らみ始める時、畑山は目をわずかに細めて、聞き手の反応を注意深く見守るのであった。恭子さんが取引先の若手社員を泣かせて「鍛えた」という話も、その後半部分は誇張された物語になっている、と和樹は思っていた。
いずれにしても、その取引先は千ケースの商品を買わされることになった。そこは、社長夫婦とその一人息子で経営されている小さな会社であった。つまり、恭子さんに痛めつけられた若手は社長の息子だったのである。家族三人でやっている会社に千ケースの商品は、単価が安いとは言え重荷のはずだが、社長の金井利彦にとってはそれよりも、可愛い一人息子が泣いて帰ってきたことが一大事であったようだった。金井は一直線に和樹たちの会社へやって来て受付で「高野恭子という人はどこにいますか。」と力んだ。
その頃恭子さんの上司であった池野課長は、いきなり取引先の社長が現れ、恭子さんを名指しで呼び出したので、何事かと同席することにした。池野は取引先に面と向かうと何やら足元が怪しいほど卑屈になる。商社の課長に時折見受けられる類の人物だ。その池野が、応接室の恭子さんの隣で飛び上がりそうになった。金井の剣幕がもの凄く、対するに恭子さんが一歩も引かず、「間違っていらっしゃると思います。」を繰り返したのだ。
「千ケースも注文するわけないでしょうが。そのくらい分かるはずだ!」
「ご注文の時に確認していただかないと困るんです。」
「こっちだって謝ってんですよ。それを呼び付けて土下座させるみたいなことをして、何様のつもりなんだ?」
「土下座などしていただいてません。」
「みたいなことって言ってるんだ。」
「常識的なことをご存知ないないようなので、お願いしただけですけど。」
「うちの社員には常識がないってのか?うちの教育が間違っていると言いたいのか?そっちはどうなんだ?」
「そちらの教育がどうなのかは知りませんがぁ、御社の社員が間違っていらっしゃったのは事実なんです。」
「なんだとぉ?」
金井と恭子さんの声はどんどん大きくなっていった。池野が事情を掴めぬまま、テニスの試合の観客のように二人を交互に見ている内、双方の言葉が重なり合った途端、ワワワワっと聞き取れない怒鳴り合いが破裂した。その直後は二人とも口を閉じたので応接室は静まりはしたが、空気が熱くなって、埃が上がったまま沈んで行かずに舞い続けていた。
営業部の佐藤加奈子はお茶を持って応接室の外にいた。しかし、聞こえてくる大声の成行きにノックするのを待った。そして耳をそばだてて知った様子を後で、同期である和樹に話した。その頃には社内中に噂が広まっていた。
もちろん、営業部のトップである奥村部長のもとへ報告が行かないわけはない。
翌日奥村は池野を連れて金井を訪ね、頭を下げた。
金井はそれで矛をおさめたらしい。その経緯について佐藤加奈子はこう語った。
「結局、奥村部長は営業マンだった頃、金井社長の担当だったわけじゃない。それで、『奥村君がそう言うなら』ということになったの。割と仲良かったらしいのよね、部長と向こうの社長。ちょっと意外な組合せなんだけど。」
佐藤加奈子が言うには、双方の面子を立てたケリのつけ方だった。そして意外だと言ったのは、金井と奥村が相容れないタイプに見えるからなのだ。
金井は、経営者よりは高校の教師が似つかわしかった。埃がうっすらと背広の肩に積っていそうな男である。対する奥村雅弘を営業部の女性社員らは「昭和の大オッサン」と評している。昭和は、そう呼んでひとくくりできるほど単調な時代ではなく、少し真面目にほじくり返せば大きな曲り角がいくつも見つかる、ごてごてと入り組んで迷路じみた回廊のはずだが、奥村を陰でこきおろすのにそんなことはどうでも良いらしい。彼女らはただ、独り善がり、かつ欲に騒々しく、流通するイメージに振り回されて上がったり下がったりを繰り返しては虚勢を張り直す、鬱陶しい年長の男と揶揄しているのであった。
「奥村部長ってさぁ、自分が西田敏行に似てると思ってるの。でも実は似てないじゃない?色は浅黒いしさ。鼻毛ボーボーでしょう、鼻毛よ。体型だって太ってると言うよりは冷蔵庫よ、あれは。のぺーっと場所ふさぎ。邪魔だわ。どれだけ邪魔かというと、机の前に座っているとすぐに飽きるみたいで、時々部屋の真ん中に立って背伸びするんだ。背中がポキポキ鳴るしさ、のけぞるからシャツの腹のところがちょっと割れて下着が見えるの。もう通れないんだ。どいてとか鬱陶しいとか言えないじゃない?邪魔だわ。目障り。部長の後ろに行列ができるんだよ。でね、奥村部長は西田敏行に似ているというかぁ、西田敏行みたいになりたいわけ。んんん、西田敏行ではなくて西田敏行が売りにしているイメージよね。それも分ってないんだけどさ、部長は。どんなイメージか?えーと、あったかくて?頼りがいがあって?可愛いおじさん?そんなところかな。実際は全然違うのにね。調子だけ良くてさ、冗談きついし、言ったことコロコロ変えるし、その割に結構根に持つタイプよ。」佐藤加奈子によればこんなところであった。
その、根に持つタイプの奥村は、金井の所から会社に戻ると、騒動の始末をつけた。
恭子さんを営業部から放り出し、広報課に押しつけたのである。
問題を起こしがちな厄介者を何故広報課が引き取ったか。畑山孝司と佐藤加奈子と溝口和樹は誘い合い居酒屋に腰を下し、それぞれの所属部署が関係した事件の筋を読み解こうとした。
「ねえ、速かったよね。今回の異動。」佐藤加奈子がまず口火を切った。
「おう、おう。うちの会社にしちゃ異例だな。」と畑山孝司がそれに応じた。
「厄介払いができて清々してるんだろう、営業部は?」和樹が言った。
「良かったね、溝口くん。高野恭子さんと一緒に働けるよ。」加奈子は枝豆をつまんだままにやにやしている。
「あ〜、隣にあの人がいないと思うと、体の凝りがほぐれたみたいな気がする。」畑山はその場で背伸びをしてみせた。
「寂しいんじゃないの?すぐ返すぜ。」
「いらねえよぉ。絶対いらない。」
「戻ることはないわよ。」
「え、なんで?広報の仕事なんか出来るわけないだろう。使えない人を抱えておくほどうちの部署も余裕があるわけじゃないからすぐに放り出されるさ。そうしたら、あの人を引き取れる所は営業部しかないんじゃないか。」
「ほう、ほう。溝口氏は分ってないようですな。」
「何が?」
「いろいろあるのよ、これが。んん、んん。」
「な。いろいろあるのだ。」
「な〜にがいろいろだ。教えろ。」
「高野さんはさぁ、ずっと内藤さんの下で働いてきた人じゃない。」
「内藤さんとは、前の営業部長の内藤さんのこと?」
「そう。うちの会社の営業の土台を作ったって言われてて、安定政権で、そのうち取締役になるんだろうなってみんな思ってたのに、奥村部長のクーデターで引っくり返されたのよね。」
「ああ、奥村さんのチクリで内藤部長が電撃解任されて、次の日に辞表をだして辞めた。」
「その後に、奥村政権が誕生したでしょう。」
「今、内藤さんどうしてるのかな?知ってる?」
「あれね、内藤さんの子飼いの人たちがぞろぞろ辞めたでしょう?」
「大森課長とか八巻さんとか、だろ?」
「その人たちとね、中柳商事にいるらしいの。」
「あれ、あれ。そこまでつるんじゃうの?」
「内藤さんのことはいいんだけど、奥村部長は内藤派だった人たちを目の仇にして、だいぶ辛くあたってるわけ。」
「ははは、陳腐、陳腐。どこかで見たような展開だよな。内藤派の残党狩りということさ。」
「高野さんは内藤派そのものだったし、実はそれ以上かも知れないんだけど、奥村部長の内藤派残党狩りのターゲットになってたわけよ。チャンスさえあれば追い出したかったんでしょう。それが今回の事件で、待ってましたと奥村部長が動いたのよね。それから、広報課が引き取ったのも、奥村派対内藤派残党の構図があるからだわ。」
「溝口よ、分かんないかね?」
「え?どういうこと?」
「企画部の川上部長は奥村部長にべったりじゃない。で、広報課の高野課長は内藤さんを信奉してたでしょう?奥村部長と川上部長の高野さんイジメよ。高野さんを押しつけてさ。広報課で使えないことを知ってて、高野さんの働きが問題になれば、高野課長の責任にするつもりでしょう。何も起きなくても、目の前から消えてくれれば清々するしね。だから、高野さんは広報課から出ることはあり得ないと思うのよ。川上部長が許さないでしょう。高野課長は貧乏くじよねぇ。高野さんが広報課を出ていく時は、退職される時だけだわ、きっと。」
「そうなのか?」和樹はいささか釈然としなかった。絵に描いたような話ではないか。しかし、恐らく佐藤の言う通りなのだろう。恭子さんは割りと早く広報課からいなくなるだろうと漫然と期待していたことに和樹は気づかされた。
「そう言えばさ、奥村さんは何をチクったの?内藤さんは何やらかしたか知ってる、佐藤?」
「内藤さんの親戚とかいって入ってきた子がいたでしょう?」
「西浦だったっけ。いつの間にか消えてたよな。おれ外から戻ってきたらいなくなっててさ、驚いたよ。」
「あの人、お客さんの返品商品をどこかに失くしたらしいの。それも結構高いやつ。」
「あ、なんかそれ聞いたことある。失くしたんじゃなくて、捨てたとか。」
「ええー!本当?それは知らなかったわ。余計ひどいじゃない。あの子さぁ、言われたこと全然やらなくて。机の中に伝票ごっそり溜めこんでたんだから。おかしいでしょう?そのくせ休みの日に勝手に出てきて仕事してたのよ。そしたら総務から休出する時は届けを出すようにと言われて、それも放ったらかしにして。そんな事ばかりしてたわけ。そしたらすごい返品を処理しないで、商品を行方不明にしてしまったの。と言うか、ごまかして捨ててたわけよね。それを内藤さんはかばって、伝票を揉み消したらしいのよ。親戚の子だから。それを奥村さんが嗅ぎつけて、問題にした。奥村さんがなんで嗅ぎつけることができたかというと、庄司係長っているでしょう?あの人、内藤さんの身内みたいなポジションだったのに、部下の女の子に手をだした時かばってもらえなかった事を逆恨みして。そこで仕返しのつもりで内藤さんの揉み消し工作を奥村さんに漏らした、というわけよ。そしたらうちの社長はそういうの大嫌いな人だから、あっと言う間にクーデター成立。」
「うわー、なんだそのどろどろ。複雑すぎて理解できねぇ。」
「何言ってんの。もっと深い話があるんだから。経理の伊藤さんに聞いたんだけどさ。」
「あ、白クマ!」佐藤加奈子が吹き出した。経理課の伊藤純子が白クマと呼ばれるのは色白で巨躯だからだ。身長180センチ、体重100キロ強と噂され、本人は肌の白さを自慢にしていたが、野獣並の体格は気にして、そうすれば小さく見えると思っているのか、体を丸めるようにする癖があった。社歴も長く、取締役連を含め誰からも一目置かれる存在であって、情報通でもあった。
「あんたさぁ、伊藤さんの前で白クマって言ってみなよ。」
「無理。無理。怖すぎでしょう。」
「ふん。伊藤さん情報によるとぉ、奥村部長はヒラの頃に高野さんを口説こうとしたらしいの。」
「なんだ、それ。なんだ、それ。どうして?だって、高野さんは内藤さんの愛人だったんだろう?」
「待て。待ってくれよ。もうついて行けないんだけど。」和樹の慌てぶりが面白かったのか、加奈子と畑山が笑った。
「そうよねぇ。誰だってついて行けないわぁ。」
「溝口くんの理解が追い付けるまで待ちますぞ。うほほ。」
「まず、さ。高野さんが内藤さんの愛人だったって、どういうこと?」
「ありぁ、知らないの?」おどける畑山を受け流して、和樹は佐藤加奈子を見た。
「営業部内では有名な話なんだけどね。他じゃ知らないかも。内藤さんと高野さんはデキてたの。もうずっと前から。高野さんが入社してすぐくらいから。」
「内藤さんは結婚してたよね。」
「だから、愛人なの。で、それを知りながら奥村さんは高野さんに近付いたらしいの。」
「…」
「おー、溝口が絶句してるぜ。」
「信じられん。」
「だよな?」
「誰だって信じられないわよ。」
「いや、だってさ、なんで高野さんなんだよ?あの高野さんだぜ?内藤さんも奥村部長も理解できないよ。」
「知らないわよ。若い頃は魅力的だったんじゃないの?」
「どんな風に?」
「ねぇ、若い頃の写真とかあったら見てみたくない?昔の写真とか残ってないかな。」
「高野さんは奥村部長を振ったってことか?」
「そうよ。それを根にもってて、今の今になって高野さんにああいう仕打ちをしたんだわ。」
「それを言ったら、内藤さんの追い出しだって、高野さんをものにできなかったせいかも知れないからな。」
「恭子さん、恐るべし…」
「本当。なぜ高野さんがそんなにモテるのか、全然理解できない。でも、なんとなく分かる部分もある。あるだろう、溝口?え?だから、ああいうタイプの女性が好きな男もいるんだよ。そこんところ、こう、薄らと分かる。」
「え〜、じゃあ溝口君もああいう黄色い声がいいの?」
「いやー、勘弁して欲しいよ。僕にはちっとも分かんないね。理解を超えてます。」

 「あと十分くらい」という言葉にそれほど違わず、恭子さんは和樹のもとへリストが仕上がったと告げに来た。
「溝口さーん。にゅうりょくぅ終りましたぁ〜。どうしますぅ?メールで送りますかぁ?」変な節回しがついている。おまけに和樹の方へ歩きながら特別に高い声で言った。恭子さんのいつものパターンなのだが、これを聞かされる度に和樹は未知の形状のコネクタを力一杯押し付けられて、しかも嵌り込まないのはこちらが悪いと言わんばかりに無理矢理挿入しようとされているイメージが湧いてしまうのだった。
「ありがとうございます。じゃ、メールに添付してもらえます?」
「はい。わっかりましたぁ〜。」和樹の即答に恭子さんは立ち止まることなく回れ右をして帰っていった。
直後に送られてきた商品リストは、和樹の予想通りに誤入力があった。商品名の中の「パ」が「バ」になっている部分が1件と、キャンペーン価格の所が1行重複して入力されたために1行ずれて、残りの商品8件の価格がすべて違っていた。
恭子さんの仕事からミスが無くなったことはない。
広報課に来た当初、恭子さんに与えられたのは単純な事務処理だった。それは高野課長の指示であり、課長は「慣れないからね。」と恭子さんの立場に理解力を示したつもりだったのだが、出来上がってきたものには間違いがあった。高野課長はそれを低温度の笑顔で迎えた。周囲も似たり寄ったりにあしらった。が、次の仕事にも、その次の仕事にも同じように誤入力、入力漏れ、重複があり、三度目の仏の顔など覚えていられないほど度重なるので、課長も皆も驚き、あきれ、慌てた。部署が違ったとは言えベテランと呼ばれる社歴なのだから、事務処理なんかでそんなに間違うわけがない、と誰もが勝手に思い込んでいたのである。
しかし、恭子さんはミスを連発した。ミスを指摘されると、恭子さんは焦り、その訂正をさらに間違えた。
「あらま、大変。」と、結構明るい声で言う。その時点で既に恭子さんは外側の世界をシャットアウトし始めていてるのである。ミスを指摘した側にはその言葉と態度がなんとなくふてぶてしく思われた。恭子さんはキーボードを打ち抜くほど強く叩いてミスを修正しようとし、さらに奇怪なミスを積み上げるのだった。
「新入社員以下じゃないか。」と高野課長は熱くなった。恭子さんのいない所で地団駄を踏んで毒を吐いた。それ以後、課長にとっては、恭子さんのミスが未来永劫に完治しない潰瘍となってしまった。あるいは、カミキリムシの幼虫に骨の内側を食い荒らされているとでも思っているかも知れない。
恭子さんの仕事に必ずミスがあるということになると、彼女に仕事を依頼した者か指示した者が悪いということになって、誰も恭子さんに仕事を渡さなくなってしまった。仕事がなくなると、恭子さんは居眠りを始めた。これがまた高野課長の神経を逆撫でした。
和樹に商品リストのメールを送信した後も、もはや手持ちの仕事がないはずなので、恭子さんは居眠りを始めるだろうと思われた。送信ボタンの上でマウスをクリックした瞬間からこくり、こくりと眠りだしたかも知れない。
ミスと居眠り。
恭子さんが会社に居る間にやっていることの殆ど。
とても管理されているとは言えない恭子さんの生産性に、管理するはずの側の高野課長は怒りの閾値を下げた。課長の、恭子さんに対する耐性は、課長自身が履き減らしているスリッパと同じくらいにヘナヘナになった。
課長のスリッパは、課長が不在の時、しばしば椅子のキャスターの下敷になったり、踏み付けられたりしている。人が通る側に脱ぎ置いて行くからだ。ゴミと見間違えるほど薄くなってしまっていているのも一因だ。そうして誰かが課長のスリッパを圧殺したことに気付く。彼もしくは彼女は、罪悪感に停止することなく「あ、いけない。」と言う。ガムを踏み付けた時の方がもっとはっきりした忌々しさを見せるだろう。
そのスリッパの主である高野課長自身もスリッパ同様の扱いである。さすがに高野課長を踏み付ける者はいない。いや、それはただ課長が二本足で立っているからであって、スリッパのように床に捨て置かれていれば、うっかり踏み付けらてしまうのかも知れない。課長が直立している間は、危害を及ぼしてくる恐れのない生き物として、さらに会社組織への若干の敬意を払って、誰も踏み付けたりはせずに、ただただ軽く無視していた。高野課長自身もそういう扱いを心地良いものとして居座るような男だった。
小心者。和樹は課長をそう評価していた。が、和樹には見えていない面もあった。高野課長が内藤元部長のシンパであった事もそのひとつだ。
内藤が営業部長だった頃、高野課長は内藤のもとを訪れては、営業の大森課長と三人で部長室で長々と話し込んだ。佐藤加奈子や畑山孝司などの営業部員たちは、それを「密談」と呼んでいた。その「密談」からはほとんど何も生れてこなかったのだが、では三人は何をしていたのかと言うと、舞台裏に回って策を練ったつもりになっていたのである。高野課長はその手の事が大好きだった。
その頃、恭子さんは「高野さんが内藤さんを困らせている。」と言っていた。あるいは、「高野課長は邪魔。」とも。高野課長の行動は恭子さんを苛立たさせていた。それから立場が逆転し、恭子さんが高野課長をカリカリさせることになった。
しかし高野課長は恭子さんのいない場所で怒り散らし、「お荷物」を押し付けられたと愚痴ってみせたが、直接、恭子さんの目を見て物を言おうとはしないのである。
恭子さんに何を言えばいいのか、和樹にだって分った。「高野さん、あなたの仕事はミスが多いようです。どうしたらミスを減らせるか、工夫して取り組んでみてください。」そしてアウトプットを要求し、それを恭子さんに評価させ、評価する。居眠りしていたら、机の上にぼたりと伏せかかっている背中を軽く叩いて起してやればいい。そして、広報課の仕事を教えて、覚えてもらうのだ。課長自身がやらずとも、誰かに指示して、教育と監督を計画すればいいだけのことだ。
そんな当たり前のことをやらずに、高野課長は、恭子さんを除いた課員全員を集めて会議を開いた。議題は「恭子さんをどうすべきか」である。それが本当の議題なのか、和樹は隣に座っている先輩に確かめた。先輩は和樹の方を向いてニヤっとし、「まあ、仕方ないだろう。」と言った。どうやら、広報課の中に課長の苛立ちを共有する空気がもやもやとまとまりだしているようだった。そういう空気は、それに囲まれていると息をするたびに体の中に入りこんでくる。すると、顔のまん前に、鼻の頭につくほど近くに存在するようになって、右を向いても左を向いてもそこにあるように感じられてくる。しかもそれは飢えていて、さらに飢えっぱなしなのだ。そんな風だから誰もその会議が変だとは言いださなかったし、むしろいつもより発言が多かった。実のある決定がなされなかったのは普段の会議と同じであったが。
会議では高野課長がまず口火を切った。
「今日集まってもらったのはさ、高野恭子さんのことなんだよね。ほら、営業部からうちに来て、もういい時間が経ったわけでしょう。でも問題があると思うんだよね。ほら。それをさ、課の課題として話し合いたいんですよ。どうしたらいいのか。高野さんを個人攻撃するとかじゃなくて、業務改善の一環として考えてみたいんですよ。業務改善は常に取り組まなければいけないわけです。だから、課全体の課題として考えて欲しい。でね、高野さんのどこが問題かというと、ほら、ミスが多いでしょう?」
課長は作り笑顔で話しながら、しきりに腕を振り回した。支離滅裂な言葉の合間を身振りで糊付けし、闇雲な同調だけは強制する課長の発言に続いて、あちらこちらから、恭子さんの仕事がいかに酷いかが披露された。だが、目新しい失敗は殆ど無く、和樹も耳にしたことがある話が力を入れて繰り返されるか、「ね、酷いでしょう?信じられないでしょう?」という目配せとともに語られた。
その中から、恭子さんはミスを指摘されると、しばらくは注意して鎮火するのだが、じきに復活してしまう、という観察がでてきた。
飽きっぽいのか?しかし、仕事をやっている間は集中しているようじゃないか。どちらかと言うと乱暴なんじゃないかしら。恭子さんが使った後の給湯室は水びたしになっていた。書類を渡される時、少し離れたところから机の上へ投げられたことがある。ああ、そうそう、それは僕もある。私もされたことがあるわ。確かに乱暴だよね。粗雑っていうのか?雑ね。よく物を落す。大雑把でもありますよね。でも、空になったお菓子の箱をきれいな小物入れに作り変えてたじゃない。そういうのは細かいんだ。仕事中ずっとやってたよね。ボールペンとか鋏とか入れてる箱でしょう?仕事をしないで箱を作ってたのぉ?有り得ない。あの箱、ボールペンを投げ入れて引っくり返してたよ。あとさ、キーボードをすごく強く叩く音が響くけど、あれ、そのうち叩き割るぜ。あんなに強烈に叩くのは何故なの?苛々してるのかも。へっ、苛々してんのはこっちだよ。キーボードに恨みがあるんじゃない?何の恨みだ。あんなにしなくてもいいのにね。いや、ああすると仕事してる気になるんだよ。「恭子、入力中!」アピールしてるわけね。引き出しの開け閉めもすごく音を立てる。いつもガサガサいわせてるよね、何か。こっちまで聞こえてくるよ。あれは正直うるさい。何をしてるわけ?バッグの中を掻き回してんの。飴を探してるんだ。静かになったなーと思うと居眠り。一日中飴食べてるよな。あんなに甘いもの食べたら、ああいう風になるって。ああいう風って、どんな風よ。ふっくらしてらっしゃるだろう?食っちゃ寝だもんな。食べ物の話しが好きだよね。お土産と言ってよくお菓子持ってくるじゃない?休み明けとかだろう?あれはどこへ行ってるんだ。この前は博多ですよ。北海道に行ったこともあった。博多は多いよね。何しに?観光?いや、聞いたことない。博多に行ってきたのとしか言わないから。一体、休みの日に何をしてるの?知らないですよ。休みの日に無理するから会社で眠くなるんだ。遊びすぎて?そうそう。二十代じゃないのにさ、そんなに暴れ回るから疲れてるんだよ。
すると、誰かが、恭子さんのミスには原因があると思う、と言いだした。「あれは画面の字が見えてないんだよ。」それも近眼ではなく、老眼で恭子さんはディスプレイの文字がよく見えず、それで入力などをミスしてしまうのではないか、と言うのである。「パ」と「バ」のような間違いは、パソコンのディスプレイの小さな文字がかすんで見えてないから起きるというわけだ。それを聞いて「年のせいなのか?!」と、年齢が一番近い課長が驚き、落胆していた。それは「なんで俺がガンに?!」と言っているのに似ていた。
本当に老眼で画面上の文字が見にくいのだとしたら、何故眼鏡をかけないのだろう。コンタクトでもいいけれど。本人が見えていなことに気づいていない可能性もある。しかし、これほど間違いを指摘されるのだから、何かおかしいと気づくはずだ。自分では正しくやっていると思っているのにしょっちゅう間違いを指摘されて、何故かしらと首をひねったままで原因に気づかないでいるなど、そんな与太郎な話はないだろう。それはプライドがあるからだ、と指摘するものがいた。プライドで老眼を認めたくないのだ。よって眼鏡をかけたくない。
その時和樹には、老眼であることを受け入れないプライドがどのようなものか理解できなかった。老眼でなければ、恭子さんのプライドは満足なのだろうか。そのプライドの正体が見えなかった。それをプライドと呼ぶのかも疑問だった。会議室を見回すと、誰もがプライド説に納得しているようだった。課長はわずかに項垂れていたが、それでも「ふむ」とうなずいた。
和樹にはそもそも老眼が想像できなかった。それから、会議と称しておばさんの行状と老眼についてだらだらと論評していてる事態もさっぱり分からなかった。
和樹を置き去りにして、恭子さんはプライドが高いという話が始まった。
恭子さんに接すると誰もが彼女のプライドの高さを感じるようだった。特に女性から恭子さんのプライドに関する報告が上がった。曰く、簡単すぎる仕事を頼むと不満そうにする、そのくせ間違う。曰く、いいからやれ的な指示をすると必ず、これはどのような目的でやるんでしょうか、と聞いてくる。営業部へ書類を届けるように頼んだら、相手が不在の時はどうしますか、メモを残さなくてもいいのでしょうか、それ以外にやる事はありませんか、と普段訊かないようなことをしつこく確認してきた。仕事の手順を説明すると「営業とはやり方が違うのね。」と一言つぶやく。そして、こちらが指示したのとは違う仕方でやってきて、それが間違っている。説明した通りやってくれないと困ると言うと、自分のやり方のほうが効率がいいと思ってと言い訳する。食べ物以外の雑談は無視しているのに、営業の噂話になると割り込んでくる。奥村部長の悪口には「いやだぁ〜」と言いながら、手を叩いて喜ぶ。お気に入りの営業マンがいて、その人の悪口には弁護するようなことを言う。そのお気に入りの営業の一人は確実に伊東さんだ。この前私たちで、伊東さんはすぐ肩なんかに触ってくる、あのボディタッチは明かにセクハラだ、と話していたら、「伊東さんはそんなつもりじゃなかったんじゃないかしら。偶然、手があたったとかじゃないの?」と言ったよ。若い子が好きみたい。顔がカワイイ子が好きなのよ。ううん、かわいくて体がマッチョなの男の子よ。だから伊東さんか~。伊東さんいい体してるもんね。いい体。学生時代、体操の選手だったんでしょう?食べ物の話は本当に好き。絶対参加してくる。誰かが「あのお店のバケットが最高においしい。」と話していると、必ず口を挟んできて、自分の知ってる店の方がおいしいようなことを言う。話題になっているものと全然関係ない食べ物の話をいきなりしだす。食べ物の話だけではなく、あの人の話はいきなり異次元に突入する。どこをどう通ったらそういう発想になるかというような話を割り込ませる。会話の背骨を叩き折る。いわゆる「不思議ちゃん」なのでないか。五十を越えた「不思議ちゃん」なんて気色悪い。あの人が話しだすと話題がぶつ切れて、しんとなる。この前、武井君がスノーボードをやってるということから、平山さん達が今年の冬はスノーボードを覚えたいので教えてくれないかという話になった時、恭子さんが「もう一人探さなくちゃね。誰かいるかしら。」と言いだした。何の話か分からないので、「もう一人とは?」と聞きくと、どうやら平山さん達が四人で、武井君を合わせると五人になって、リフトに乗る時、武井君が独りで乗らなければならなくなるから、もう一人参加者を探さなくちゃいけないと言っているのだった。「武井の相乗り相手を心配してるわけ?」「武井、モテるな。」
笑い声がおさまって、緩んだ表情が皆の顔に残った。プライドが高いことを証明する実例もそれほど出てこず、もういい加減、会議の体をなしていないことに気づいて、高野課長が口を開いた。課長は、自分の愚痴をぶちまけるつもりだったのに、いつも通りに無視されていることに傷ついていた。
「ま、おしゃべりはそのくらいにしてさ。ほら、真面目に恭子さんをどうしたらいいかな。どうする?どうすべきか。」
まったく無意味な問い掛けだったし、その結論はあっさりと出た。和樹が恭子さんを指導する、ということになったのだ。誰かが恭子さんをしっかり教育しなければだめだ、営業部のキャリアも尊重しなければいけないけれど、広報課のやり方と仕事を覚えてもらうために誰かが面倒をみた方がいい、と話が固まりだした時、課長が和樹の方をちらちらと見ていたので、和樹は自分に火の粉が降りかかってくるのを覚悟していた。「溝口君はどうだろう。」という課長の提案に反対する者はいなかった。「恭子さんと席も近いことだし。」と課長が口をすべらせ、隣の先輩が小さく「ぷっ」と吹き出した。

 また恭子さんがやって来た。
「溝口さん、あの商品リストどうでした?」
「あ、ありがとうございました。バッチリでしたよ。」
バッチリ何なのか。バッチリ間違っていたのだ。会議は無事に終ったのだが、間違いははっきり伝えておかないといけない。しかし和樹にはそれを指摘するのがもう面倒臭い。それは恭子さんの面倒をみるように言われて半年も経った頃からだ。その理由のひとつは、恭子さんのミスが減らなくてうんざりしているためだし、もうひとつは、どうも恭子さんが和樹に対して何につけても自分が年上であることをアピールしているように感じられるからだった。それから恭子さんが「どうでした」なんて聞いてくる時は、仕事を頼んだことに対するお礼がはっきり恭子さんに伝わっていないことが多い。恭子さんはお礼が足りないと思っているのだった。和樹は、「線路は続くよ、どこまでも、恭子は図々しいよ、どこまでも」と胸の内で歌って、それ以上恭子さんを相手にせず、素気ない態度で追い払おうとした。
しかし恭子さんは、和樹の態度よりも何かに気を取られていた。その視線を追うと、高野課長の席の横に奥井部長の姿があった。
奥井部長が話して、それを課長が聞いている。部長は腹を課長の方へ突き出して、頭を少し後ろに反らしているので、課長を見下ろす目が薄く閉じているように見えた。唇が動くのは見えるが、和樹の所に声までは届かない。課長はと言えば、時々見上げて部長の方へ視線を向け、また正面へ顔を戻し際に頷いている。表情が無く、相槌だけを返しているところを見ると、課長に利害関係のある話ではないのだろう。それでも、奥井部長の顔から視線を逸らす際には、「あんたにすべて従うわけじゃない」という光を漏らしていた。
この光景を恭子さんがどう思っているのか、ちょっと知りたいと和樹は思ったが、すでに恭子さんの姿は無かった。
 奥井部長がわざわざやって来て高野課長に何を話したのか、それは時を置かずに分かることになった。高野課長は和樹と恭子さんを呼び付けた。
「ほら、来週さ、君達二人で九州に行ってもらいたいんだ。」
「九州ですか。」
「福岡営業所ね。ほら、福岡で展示会があって、うちのお客さんが出展するんだ。それを福岡営業所が手伝うんだけれどね、手が足りないんで本社から応援へ行くんだよ。営業部からも応援に行くんだけれど、広報課でも人を出して欲しいと要請があってさ、それで溝口君と高野さんに行ってもらいたいんだ。」
「ぼく達が応援、ですか。」
「そう、そう。」
「営業部の応援は誰ですか。」
「えっと、ほら、畑山君。」
「一人?それで広報課からは二人も。」
「全部で三人。」足し算くらいできます、と和樹は言いたかった。
「三人も手伝うということは、かなり大掛かりな展示なんですか?」
「どうだろうね。福岡の展示会だから、こちらでやるほどではないと思うよ。」それなのに、三人も行くのか?
「先程、奥井部長がおみえでしたけれど、このお話だったんでしょうか。」恭子さんが先にしゃべりだしたので、和樹は横っ飛びにその場から身をかわしそうになった。
「そう、そう。」
「展示会の応援は、具体的にどんなことをするんですか。」和樹は恭子さんの様子を気にしながら課長に聞いた。
「それはね、ほら、福岡営業所と打合せて、ね。」
「つまり、何をするか決まっていないわけですね。」畳みこむように恭子さんが口を挟んだ。和樹は自分と課長だけで話して、なるべく恭子さんに口を開かせる機会を与えたくなかった。恭子さんが何か言いだせば、怪しい雲行きが訪ずれてあれあれよと手に余るものになるにちがいないのである。奥井部長の姿が広報課に現われた時から和樹は用心していた。しかし、気を揉む和樹の努力も空しかった。
「具体的には、ね。具体的には。ほら、でも展示会の応援だよ。高野さんは展示会の仕事をやったことがあるでしょう。溝口君ははじめてか。でも、営業の畑山君は同期だよな。」
「本社から三人も派遣するような事なんでしょうか。」
「ほら、福岡営業所は二人しかいないからさ。」
「大阪営業所から応援へ行くべきではないんですか。距離的にも近いんですから。」
恭子さんの「べき」が登場した。
恭子さんの「べき」は「本来」と対になっていることが多い。「本来は○○すべき」とか「本来、○○は△△であるべき」とか。「べき」は恭子さんを取り巻く世界へ、豪雨となって降り注ぐ。でも恭子さん自身を濡らすことはない。和樹自身も、「恭子べき」の洗礼をすでに何度も受けてきた。「べき」が登場すると恭子さんの話はしばしば、恭子さんを取り巻く世界との戦闘モードへ突入してしまう。「恭子べき」は彼女の戦いのエンジンであり、それを駆動する燃料でもあるようだった。
早く話に割り込まないと、恭子さんと課長が衝突してしまう。和樹は焦った。
「本来、取引先のお手伝いなわけですから、担当する営業がやるべき仕事だと思います。」
「うん、まあ、そうだけどね。」
「それが無理なら、お手伝いを辞退すればいいわけで、同じ会社だからと言って私たちが応援へ行くのはおかしいと思います。」
「いや、おかしいとかね、そういうことではなくて…」
「どういうことですか。」
「困ったな。光正商会さんなんだよ、その取引先は。知ってる?九州の方では、もう古くからのつきあいなんだ。ほら、社長が会長に退いて、息子さんが社長になったんだけど、その息子さんの方がなかなかこちらを向いてくれないようなんだよね。だからうちとしては、パイプを細くしないためにここで踏んばっておきたいわけよ。光正商会さんは福岡ではかなり力を持っているからね。それで、ほら、展示会で働いて、点数を稼ぎたい、ということなんだよ。」珍しく課長が落ち着いて恭子さんに話していた。
「なおさら営業部の人が行くべきではないですか。納得できません。」
課長はにやにやしながら言った。和樹は課長の態度に目を見張った。
「いや、営業も出るんだけれど、うちとしては全社を挙げて光正商会さんのお手伝いをします、という格好をつけたいみたいんだよね。それで広報課から出てくれと。しかも、ほら、高野さんはさ、営業の経験もあるでしょう?高野さんが行ってくれれば何かにつけて安心なわけよ、営業部としては。ほら、本当のことを言うとね、溝口君、気を悪くしないでくれよ。営業部は高野さんをご指名なんですよ。こういう時は高野さんでなければ、と奥井部長が言っててさ。営業部長が頭を下げてくれば、僕としても断れないじゃないですか。それで、高野さんと溝口君はチームだから、な。」
「チーム?」和樹は思わず声をだしてしまった。おまけにその声は裏返っていた。寝耳に水だった。それも泥水の。しかし、課長も恭子さんも和樹の驚きを取り合おうとはしなかった。
「そうなんですかぁ、困るわぁ。なんか、虫のいい話ですよねぇ。」それまで低くとがりだしていた恭子さんの声が一変した。和樹はショックを受けて、恭子さんの横顔を覗き込んだ。その鼻の穴は、自らの巨大さを誇るかのようにさらに広がった。人の鼻の穴は黒く見える。光が届いていないためだろう。それと黒い鼻毛が生えているからだ。恭子さんの鼻の穴も、日の光が届かないところへ黒々とした鼻毛がびっしりと生い茂っているのだろう。和樹は自分の体が小さくなって恭子さんの鼻の穴の入口に立ち、一抱えはある鼻毛が触れ合うほどに密生し、猛々しく伸び上がって漆黒の彼方へ奥まってゆくのを見ているところを想像した。
「あ、都合が悪かったかな?」
「そういう事ではないんですけど。」
「高野さん達の仕事の都合もあると思うけれど、今回はお願いしますよ。」
「私達の方は大丈夫ですよね。」恭子さんの口調は確認ではなく、同意を求めるものだったが、和樹は唖然としていて答えられなかった。
「じゃ、溝口君、そういうことで、よろしく、な。」
「溝口さん、スケジュールについて打合せておきましょう。」恭子さんが先に立って席に戻って行く。何を打合せるんですか、高野さんにはスケジュールなんかないじゃないですか、どうせ一日中居眠りしているくせに、と和樹は思ったが、口にはださず黙って自分の椅子に座った。視界の隅で恭子さんが卓上カレンダーを手にしていた。
恭子さんの変化は驚きだった。しかしそれ以上にショックだったのは、課長から恭子さんと和樹が「チーム」だと言われたことだった。それは和樹が、ポンコツで使えないオバサンと同じ側にいると見られていることを意味している。和樹にはそう感じられた。あんな不良品みたいなオバサンと自分が同じジャンルに括られるはずがないと和樹は信じていたのだが。それに、恭子さんを押し付けられたのは、ふざけた会議の流れでそうなっただけで、理由など皆無のはずだった。その理由をしいて挙げるとすれば、和樹が課の中で一番下っ端だからにすぎないのだ。それは周りも承知しているはずで、和樹が恭子さんを見放せば結局、和樹の方を受け入れてくれるだろうと和樹は見込んでいた。だが、それはどうやら和樹の思い込みであり、課長を含めた皆は、和樹を恭子さんと同じ位置にいるものとして見ているようなのだ。課長のたった一言であったが、和樹にはそこまで考えが落ちてくるものがあった。と言うのも、最近、課の連中の自分に対する態度が変ってきていることをうっすらと感じていたし、日々の仕事の隙間に捉え所のない悪意がもやもやと潜んでいるような気がしていたのである。
とうとう標的にされた、と和樹は焦った。それと同時に、溜りに溜った屁が体中の毛穴から抜けでたような脱力感があった。恭子さんがしきりに何か話しかけてきていたが、和樹は一言も理解できなかった。(この不良品の側にいたら自分まで不良品扱いになっちまった。)と和樹は思った。(このオバサンは定年までうつらうつらしてやり過せればいいだろうけれど、こっちはそういうわけにはいかないんだ。何とかしないとそのうち酷いことになる。居場所がなくなっちまう。こっち側から脱出しないと。)
和樹が気づくと、恭子さんは博多にどんなおいしい物があるかを滔々とまくしたてていた。伸び縮みする桃色の唇を和樹は忌々しく見た。

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