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バアちゃんとぼく [小さな話]

 下の道から見たこともない黒い車が上がってきて、軍人が降りた。風が切れそうな良い姿で、ぼくを見つけるとにっこり笑って言った。
「立原さんのお宅はこちらですか?」
「はい。」散歩に行こうとしていたぼくは、柴犬の流星号のリードを握ったままつっ立って答えた。流星号も緊張しているのが分かった。吠えるべきかどうか僕の方をチラッと見上げる。
「貴美子さんはご在宅でしょうか?」
「はい。バアちゃんは、家にいます。」言ってから、「祖母」と呼ばずに「バアちゃん」なんて呼んだことが恥ずかしくなってしまった。でも、軍人は気づかないふりをしてくれて、「ありがとう。」と言うと、家の玄関へ向かった。防衛軍の軍服の、濃紺の胸に、一尉を示す階級章がきらめいていた。
軍人が玄関の呼び鈴を押していると、隣の家から一平さんが出てきて、ぼくの家の方を見た。
その視線に気づいて軍人の顔が横を向くところへ、ちょうど玄関のドアが開き、バアちゃんの姿が現れた。軍人が敬礼をすると、バアちゃんが腕組みをした。軍人とバアちゃんは同じくらいの背丈だった。軍人は上背のある方だと思うが、バアちゃんは負けていない。今日のバアちゃんは、白いシャツを着てジーンズをはいている。髪の毛は頭の後ろでまとめてある。ぼくのところまでは軍人の声は届かなかった。それでもバアちゃんの大きな目が細められて、軍人の言ってることに納得していないことが分かった。
結局、軍人は家の中へ招き入れられ、玄関のドアが閉まったので、ぼくは流星号を連れて一平さんのところへ行った。
流星号は尻尾をおもいっきり振った。流星号も一平さんのことが大好きなのだ。一平さんは、しゃがみ込んで流星号の首を撫でてくれた。
「防衛軍の人だよ。」ぼくは言った。
「ふむ。」
「あの人、一尉だよ。」一平さんが太い眉毛を片方だけ上げた。
「ほぉ、若そうだけどな。優秀なんだろう。それにしても、久しぶりの軍が、そんな上の方の将校をよこして何の用だろうな。」
ぼくの家に防衛軍が訪ねてきたのは初めてのことだ。だから一平さんが「久しぶり」といったのは、ぼく達がこの家に住む前の事を思い出して言ったのだろう。ぼくの知らない話だ。
「散歩に行っておいで。」一平さんは立ち上がった。
「うん。」

 散歩から帰ると、もう黒い車はいなくなっていた。秋の夕焼けがぼく達の家と一平さんの家をオレンジ色に濡らし、流星号と僕の影が地面に長く伸びた。

 晩ご飯は、ぼく達の家で一平さんも一緒に食べる。一平さんは家族ではないが、ここに住むようになってからずっとそうしている。ぼく達三人の習慣の一つだ。
ぼく達三人は、東京を襲ったあの大侵入の後、ここへやってきた。それまでで最悪と言われた侵入は、ぼくの父母を奪い、祖父も又死んだ。バアちゃんはぼくを連れて、祖父の親友であり、仕事仲間でもあった一平さんを頼ったのだ。ここは、もともと一平さんのお兄さんの持ち物だった。そのお兄さん一家も、別の時の侵入によって死に、残された家と土地を一平さんが管理していたのである。一平さんのお兄さんは農業で暮らしていて、田んぼも相当に持っていたのだけれど、そちらの方は手に余るので売り払い、広い庭のある土地とそこに建てられた二棟の家だけを一平さんは手元に残した。家が二棟あったのは、息子が結婚したら住まわせようと、お兄さんが後から一棟立てたからだ。でも、その息子さんも死んでしまった。一平さんはぼく達に、その、後から建てられた方の家を使うといいと言ってくれた。一平さん自身は、滅茶苦茶になった東京の家を捨て、もともととお兄さんの家だった方で暮らし始めた。バアちゃんは一平さんに深く感謝していて、何度もそのことをぼくに話してくれた。
移り住んだその日、バアちゃんとぼくは手をつないで一平さんの家まで行って、一平さんを晩ご飯に招いた。それからはずっと、一平さんはぼく達の家へやって来て、一緒に晩ご飯を食べるようになった。
料理が出来上がるとバアちゃんは、キッチンの一平さん側の窓を開け、外に吊るしてある中華鍋をすりこ木で三回叩く。「コオン、コオン、コオン」という音がしてからしばらくすると一平さんがやって来て、腰を下ろすと晩ご飯が始まる。
テーブルのキッチンを背にした側にバアちゃんが座り、ぼくと一平さんは向かい合って座る。バアちゃんの向かいの席は流星号の席だ。流星号がそこに座るのは、冷蔵庫の前に置かれた皿の餌を食べてからだ。誰も煩わせずに自分で椅子に上がり、丸くなって、ぼく達が食事を終えるまでじっとしている。
バアちゃんは料理の天才で、晩ご飯はとびきり美味しい。「何も特別なことやっているわけじゃないのよ。ささっと料理するだけ。」とバアちゃんは言うが、極めつけの秘技があるんじゃないかと思う。ぼくのお気に入りは唐揚げだ。街まで下りて買ってくる鶏肉でも文句はないけれど、渋谷さんの家で飼っている鶏をもらえると最高だ。
今晩の料理は、あいにく唐揚げではなかった。それでも二番目に好きなカレー、チキンカレーだった。
「予報はどうだったの?」バアちゃんが聞いた。
晩ご飯の会話は、まず挨拶がわりに、侵入ついての予報を確認するところから始まる。
「四国の方で二十%。」と一平さんが答えた。
「そう。とりあえずは安全そうね。」
「当てになるわけない、あんなもの。」
予報の理屈は、地磁気の変動のパターンによって空間の変位を割り出し、侵入を予想するというものだが、一平さんによればそんな予想ができるわけないというのだ。
「地磁気の変動はたまたま観察されたに過ぎない。侵入との関連性はまだ確認されていないんだ。それをもって予報と称するのは、詐欺だよ。いや、危険極まりない。あやふやな情報は、混乱を増すだけだ。そもそも、侵入がどうやって起きるのか解明がなされていないと言うのに、何が予報だ。」
物理学者で、高度時空研究所の研究者だった一平さんは、侵入の予報をこき下ろす。高度時空研究所は、そもそも侵入が始まったところと言われている。祖父もそこの研究者だった。一平さんにしてみれば、侵入についていい加減なことを言われるのが耐えられないらしい。
「一平さんは、最初の侵入を見たんでしょう?」ぼくは尋ねた。もう何度も訊いたことだけれども、誰もそれを指摘したりはしない。一平さんは目を閉じて頷く。
「ああ。すべては、バーンというクロアチアの変人の思いつきが発端なんだ。バーンは悪い男ではなかった。少しだけ自分の考えにのめり込みすぎてしまっていた。立原くんは」ここで一平さんはバアちゃんの方を見た。「バーンを抑えようと頑張ってた。責任ある立場だったからね。でも、バーンの奴は自分の理論を証明しようと先を急ぎすぎて、超限加速装置の数値設定を誤った。それで、時空に何かが、うん、絶対に何かが起こって、こう断層ができるようにズレが発生し、あいつらの次元からの扉を開いてしまった。」一平さんは、深くため息をついた。「そうして侵入が起きたんだ。」
「大変な災厄の始まりね。」バアちゃんが言った。一平さんは顎が胸につくほど深く頷いた。
「後で分かったのだが、バーンが事を急いだのはお金のせいだった。隣の大国の愚か者どもがバーンの理論を兵器開発に使おうとして彼に近づき、莫大な研究費の援助をちらつかせたのさ。ありがちな話だ。ありふれた愚かさがありえない悲劇を招いた。」
「あいつらはすぐに侵入してきたの?」
「いいや、最初は空間の歪みだけだったよ。だから、何が起こったか誰も分からなかった。三日目にあいつらが現れたんだ。最初の犠牲者は、バーンだった。」
「食事時にふさわしい話とは言えなさそうね。」一平さんに微笑みながらバアちゃんが言った。
「ああ、申し訳ない。」
ここまではいつも通りだった。この後、普段なら、少し黙って料理を味わっていると、バアちゃんがぼくに話しかけて、また三人の会話が続くのだ。
でも、今日は少し違っていた。ぼくは、昼間のお客のことが知りたくてうずうずしていた。バアちゃんは一言も話してくれていなかった。ぼくは、合図のつもりで一平さんの顔を見守った。一平さんはぼくの視線に気づくと、カレーを一口食べ、スプーンを持った手の人差し指をぼくに持ち上げて見せてから言った。
「そう言えば、珍しい客があったようだね。」
「ええ。防衛軍が来たの。」バアちゃんは皿に目を落としたまま答えた。
「防衛軍が何の用事かな。」
「あの人、一尉だったよ。」バアちゃんはぼくの方をチラッと見た。
「大した用事じゃないのよ。お祖父ちゃんの遺族年金のこと。」
「遺族年金は文科省から支給されているはずだと思っていたが。」
「ちゃんと支給されているか確かめたかったんですって。」
「それはまた、ご丁寧だね。」バアちゃんは花びらが閉じるようにゆっくり笑った。
「この鶏肉も悪くないけれど、やっぱり渋谷さんのところの鶏が美味しいわね。」
バアちゃんが、話を変えて、その後軍人のことは話題にならないままになった。

 朝起きたら、まず一番にテレビの予報を見る。近くで五十パーセントを超えていたら、非常用のリュックを持ってきて避難の準備をする。そんなことがなければ、流星号を散歩に連れていく。帰ってからバアちゃんと朝食をとる。それからバアちゃんを手伝って、洗濯と掃除。
終わるとぼくは外に出る。敷地をぐるりと一回りする。
そうすれば侵入が起こらない気がする。進む時計の針を指で戻したように、侵入を遠ざけておける気がする。何の根拠もない、ぼくだけのおまじないだ。世界中でぼくだけが信じている迷信だ。とことん効き目のない魔術。子供に侵入が防げるなら、今頃、世界はもっと幸せなはずだもの。
それは分かっていた。でも、ぼくは見回りをやめることができない。
一度、こんなことをやっても無駄なんだと思い、朝の見回りをやめたことがある。バアちゃんの手伝いが終わってから自分の部屋へ行ってじっとしていた。始めはなんともなかったが、そのうち心臓の鼓動が速くなって、顔中に汗が浮いてきた。汗をかいているのに、手足の先が冷たくなった。そのままじっとしていると、ぼくの中から何かが飛び出てきそうな気がして、ぼくは急いで見回りに行ったのだった。それで、ぼくは見回りをやめることができず、一日の決まった時間に繰り返している。そうしておけば、ぼくの心の波が静まったままでいてくれる。
敷地をぐるっと回って心が落ち着くのは、流星号が一緒に歩いてくれるせいもあると思う。
ぼくが玄関の方へ向かうと、流星号はどこにいても、ひょいと立ち上がってやって来て、一緒に外へ出る。見回りの時間を覚えていて、玄関の前に座って待っていることさえある。
流星号はぼくに歩調を合わせ、敷地の外寄りを歩く。敷地の外とぼくの間にいて、ぼくを守っているつもりなのだ。
流星号は地面に鼻を軽く近づけながら、ぼくは敷地を取り巻く景色を見ながら、黙ったままゆっくり一回りする。
ぼく達の家は丘のてっぺんに立っていて、飯本の市街地と、それに接して迫上っている山並みを見渡すことができる。飯本はこれまで大規模な侵入にあったことがない。一度でも侵入されると、家が倒され、道が壊され、醜い爪痕が残るので、すぐに分かる。
青空が高かった。
朝のさらさらとした光が、山並みの襞の辺りを白っぽく見せていた。
秋の中に、流星号と一緒に浮かんでいる気がした。

朝の見回りから戻ると、バアちゃんに勉強をみてもらう。
学校へは行ってない。行くと気持ちが悪くなるので、行けないのだ。小学二年生の時にここへ引っ越してきて、この辺りの子供が行く学校へひと月ほど通ったが、すぐに行かなくなってしまった。それから三年間、ずっとバアちゃんと勉強している。侵入が起きた時のことを恐れて子供を学校へ行かせない親がいるので、学校側もあまり強く言わないらしく、ぼくの場合もそれほど問題にされていない。二年生の時、ひと月だけ担任だった先生が、学年が上がる度に教科書を届けてくれ、週に一度は授業で使ったプリントをまとめて持ってきてくれる。「熱心な、ありがたい先生だね。」とバアちゃんは感心している。その先生は、「学校へ来たくなったら、いつでもいらっしゃい。私が待っててあげるから。」と言う。糸のように細い目をして笑う。そうして、黙っているぼくの肩をぽんぽんと叩いてから、手を振って帰っていく。ぼくは何も言うことができない。その先生が嫌いなのではないのに、舌がずんと重くなって、言葉がお腹の底に沈んでしまう。
「学校へ行ってみる?友達がいるよ。」バアちゃんはそんなぼくを見ながら、微笑んで言う。
ぼくは首を振る。
「まだ具合が悪くなりそう?」バアちゃんはぼくが頷くのを黙って見ている。

父と母と祖父を奪った大侵入が起きた時、ぼくは学校にいた。
一時間目が始まったばかりだった。職員室の方から何か大きな音がして、気味の悪い叫び声だとわかると、非常ベルが鳴り出した。ベルの音は信じられないくらい大きく、心臓の辺りを叩いてきた。
布を裂くような音が何度もして、ガラス窓が割れる音と悲鳴がごっちゃに響いた。先生が我に返って、「逃げて、逃げて!」と大声で叫んだが、ぼくも他の子も体が固まって動けなかった。
校庭側の窓がいっぺんに暗くなった。次の瞬間にガラス窓が全部吹き飛んだ。体全体を揺さぶる低い音がした。窓枠をめりめりと押し破りながら、バスほどもある、巨大なカタツムリの殻が押入ってきた。でもそれはカタツムリなんかじゃない。背負った殻は銅鍋色に輝いている。その下に覗いている真っ黒な体は、丸々と太い爪のようなものが無数に、びっしりと生えていた。その爪が一本一本震える。前から後ろへとその震えが波となって伝わっていく。
殻と爪の間から、平べったい触手が伸びて蠢いていた。髪の毛が生きているようだった。そこから、青白い炎に見える体液がシャーっと噴き出され、弧を描いて前方にだらだらと垂れる。それは実際炎のように、触れたものを焼き尽くした。お化けカタツムリの進路にいた何人かの子が、その液を浴びて悲鳴を上げた。服はあっと言う間に白い煙を上げてぼろぼろになった。皮膚は溶け、肉は崩れた。自分の手が焼け落ち、骨が現れてくるのを見ている子がいた。ぱんと弾けてのけぞり、くるくる回って倒れる子もいた。
平べったい触手は、伸び縮みしながら周囲を探り、触れたものを巻き込んで試すと、引き裂き、放り投げた。当然、触れた子供も引き裂かれ、まき散らかされた。仲の良かった友野和樹くんも、肉の塊にされた。小さな五本の指が、ばらばらになって降ってきて、ぼくの顔にあたったのを覚えている。
そいつは教室の天井よりも高かったので、天井を崩しながら進んだ。埃と、落ちてくる天井板と、がらがらという音と、叫び声に悲鳴。
それから後のことは覚えていない。
気がつくと白い壁に沿って寝ていた。天井と壁の継ぎ目の線をただ見ていた。また記憶が途切れて、次に気がついたときは、誰かがぼくの手を握っていた。体中が痛く、助けを求めて呻いた。痛みから逃れたくてもがこうとしたが、全然自分の思い通りにならなかった。深い穴にドーンと落ちて行くように気を失った。
ようやく目が覚めると、バアちゃんが側にいた。
「目が覚めたわね。」
「バアちゃん。」
「どう?苦しい?痛い?」ぼくは首を振った。体に力が入らなくて、ほんの少ししか頭が動かない。バアちゃんの後ろで、白いカーテンが風に膨らんでいた。ぼくの視線に気づいたのか、ばあちゃんが言った。
「ここは病院よ。」
「ぼくは助かったの?」
「ええ。少し怪我したけれど、大したことないから、もう大丈夫。」
「バアちゃん。」ぼくはもう一度呼んだ。
「大丈夫よ、もう大丈夫。」バアちゃんはぼくの手を持ち上げ、頬を寄せてくれた。バアちゃんの頬の柔らかさがほんとうに嬉しかった。
次の日にはもうベッドから起き上がれるようになり、それから一週間で退院することができた。後になってカレンダーで確認すると、意識を取り戻すまでは四、五日かかっていた。怪我は少しだけだったとバアちゃんは言っていたが、両方のこめかみに縫った跡があり、指で上から押さえると固いものが埋まっているのが感じられた。
そうして体は回復したのだが、この時のことが原因で、学校へ行くと気持ちが悪くなってしまうようになった。
登校したときはなんともない。その内時間が経つにつれ、胃の辺りに雲のようなものが溜まり、それがひくつく。心臓のリズムが乱され、息苦しくなる。自分ではどうしようもないので、胸を押さえているしかないのだが、周りがぼくの顔色に驚いてしまう。青いのを通り越して、土気色になっているらしい。慌てて保健室に連れていかれる。乾いて固くなった自分がその様子を見ている気がする。バアちゃんが迎えに来て、一平さんが運転する車で帰る。
これの繰り返しになってしまったので、バアちゃんもぼくも学校へ通うのを諦めてしまった。
不思議なのは、学校以外ではなんともないことだ。それに、あの時学校で起きたことは、繰り返し、繰り返し思い出す。でも怖くなったり、具合が悪くなったりすることはない。ただ、学校の教室にいる時だけ、いつの間にか倒れそうになる。ぼくの体だけが、大侵入の記憶を拒否しているようだ。

大侵入の時、母がどうなったか、父がどうなったかは、バアちゃんが教えてくれた。
母は勤め先で火事に巻き込まれて死んだ。遺体も遺品も見つからなかった。父は、祖父と一緒の研究所に勤めていたので、祖父ともども死んでしまった。こちらも遺体は発見されなかった。
たまたま自宅に帰っていたバアちゃんだけが生き残った。バアちゃんも父と祖父と一緒の研究所で働いていたので、いつも通りだったらバアちゃんまで死んでいたことだろう。バアちゃんは、自宅で侵入のニュースを聞き、それがこれまでとは比べものにならないほど大規模であることを知った。祖父の携帯を呼び出したが、もうその時点で繋がらなかったという。バアちゃんは外へ飛び出し、まずぼくを助け出すことを考えたそうだ。その頃のぼく達の家は、バアちゃんの家から十五分ほどのところにあった。ぼくの通う学校もそれほど遠くはなかったのだ。
バアちゃんはたった一人で瓦礫の中からぼくを助けだして、病院へ連れて行ってくれた。
その後、祖父とぼくの父母の消息を確かめるために走り回った。多分バアちゃんのことだから、研究所へ飛び、母の勤め先へ駆けつけたのだろう。交通機関がマヒしているのも、まだ侵入の危険が残っているかも知れないのも、二次災害の危険すらもバアちゃんは平気で乗り越えたと思う。そして、自分の夫も息子夫婦も死んだことを自分自身で確かめたのだろう。ぼくにはひと言も言わなかったけれど、もしかすると遺体の一部を見たかも知れない。
バアちゃんは、ぼく達の家族に起きたことを包み隠さず話してくれた。
その事実を受け止め、悲しんだり怒ったりの流れに浸けるよりも前に、ぼくはそれを話しているバアちゃんのことが心配になってしまった。いつもは風が人間になったようなひとが、その時は、ぼくのことをオロオロ心配して、小さくなって、もう粉々に砕けてしまいそうだった。
「…だから、ねえ、バアちゃんと一緒に暮らそう?」
ぼくはバアちゃんの唇の端が細かく震えるのを見ていた。バアちゃんが可哀想だと思っていた。

父母が帰って来なくなってしまったことは、ぼくの心のなかで井戸になった。深くて、底に暗さが溜まった井戸だ。月の光のような曖昧な明るさの中で、ぼくは井戸の周りを巡り続け、近寄って覗き込むことを避けてきた。だが、耳には届いていた。井戸の底で反響している音が聞こえていた。それは、父を亡くしたことでぼくが何もできない子供であることを告げているようだった。さらに母を失った子供であるということで、ぼくのことを出来損ないであると決めつけていた。おまけに井戸の底には冷たい水だけがあり、もう二度と暖かくなることはないと思われた。
そんな感じだったから、父のことや特に母のことは思い出さないように努めていたけれど、ただひとつ、いつの頃かはっきりしない記憶だけは、知らないうちに何度も呼び起こしていた。多分、もうずっと小さい頃のことだろうが、ぼくは母の目を覗きこみ、その濃い茶色の瞳に映る自分の顔を見て笑っていた。母も「映ってる?」と聞いて、笑っていた。
そしてあの母の瞳を思い出してバアちゃんの瞳を思い浮かべてみたり、バアちゃんの瞳を見ながら母の瞳はどんなだったろうと考えてみたりした。
バアちゃんの瞳に映るほど顔を近寄せたことはない。でもバアちゃんは、ぼくを助けだしてくれてからずっとぼくを見てくれていた。それは、天秤の端のおもりだった。反対側の端に乗っている何かを下におろしてしまわないための、バランスを取るおもりだった。
そのバアちゃんが、昨日、防衛軍の将校が来てからずっとぼくの目を避けていた。勉強を教えてくれている間も、いつものようにぼくの瞳をまっすぐ見てはくれなかった。
「はい、終わり。」ひとつ軽いため息をついてから、バアちゃんは教科書を閉じた。
ぼくは、バアちゃんの顔を見つめたが、話しかけるきっかけがつかめなかった。バアちゃんは立ち上がると、キッチンの方へ歩きながら普通らしく「お昼はいつも通りの時間よ。」と背中越しに言った。
バランスが崩れつつあった。

流星号を少しかまってから、ぼくはPCの前に座る。流星号が足元に寄り添って丸くなる。
インターネットで配信される侵入の情報をいつでもチェックできるよう、PCは起動したままだ。
ぼくは「異次元生物カタログ」というサイトを開いた。
このサイトでは、侵入してきたものを生物として捉え、その情報が整理されて、図鑑のように眺めることができた。侵入してくるものを生物とみなすことに反対する人もいる。一平さんもその一人だ。この世界の生物の概念であいつらを見ることは間違っている、というのだ。それでも、このサイトのオーナーやぼくのような科学者ではない者にとっては、分かりやすい考え方だった。
サイトのオーナーは、「キャプテン・H」と自称していた。
キャプテン・Hは、侵入のニュースを国内だけではなく、世界中から根気よく集めて整理していた。侵入は世界各地で起きているのだ。このサイトでは、アメリカにある同じようなサイトと提携して情報を交換しているとのことだった。キャプテン・Hの本職はシステム・エンジニアであると、プロフィールのページに書いてあった。
サイトは、侵入してきたものについての投稿も受け付けていて、誰でもサイトの「ボード」と呼ばれる掲示板にアップロードすることができる。大きな侵入が起きると、ボードには読みきれないほどのメッセージが投稿される。侵入の鎮静化後一日二日で、キャプテン・Hが投稿の情報を整理し、カタログに登録してくれる。
カタログの内容は、侵入生物の画像、動画、あるいはイラストと、その発生場所、日時、大きさなどの形状、現れた数と侵入の経過、それまでに侵入してきたものとの類似点、特徴、その生物による被害状況などが記されている。侵入生物と防衛軍の戦闘経過についても、実況中継のように記録されることがある。ボードにアップロードされた投稿へもリンクしていて、その生物についての投稿を一覧することもできた。
生物に名前をつけたりはしていない。ただ場所と時間で記号が振られているだけだ。他のサイトでは名前をつけたりしているところもあるが、ぼくは嫌いだった。キャプテン・Hは防衛軍が侵入生物の情報を取り扱う方式にならった、と書いていた。名前なんか付けると馬鹿馬鹿しい感じがするので、こちらのほうがいいと思う。
「異次元生物カタログ」には使いやすい索引ページがあり、時間順や場所、大きさ、数、特徴などの視点で検索できるようになっている。検索すれば、ぼくが遭遇したお化けカタツムリも当然見ることができる。
最近登録された情報は、「新着情報」のコーナーにリストアップされていて、ぼくはまずそこを見ることにしていた。
一番新しい情報は、半年前に千葉の市川市で起きた侵入で現れた生物だった。侵入は立て続けに起きることもあれば、三、四ヶ月何も無いこともあった。半年も侵入がないのは珍しく、テレビのニュース番組でも話題になっていた。
市川に現れた生物は、「ヒト型」と呼ばれるタイプのものだった。
これまでに確認された侵入生物は、約五千体。形状で分類されるものが約百十種。「ヒト型」は侵入例が割合に少ないタイプだ。携帯のカメラで撮られた画像が掲示されている。このサイトを知っている人が侵入の現場に居合わせて撮ったものだろう。「ヒト」と言うより、足で立ち上がった白い蛸に見える。記事によれば高さ三メートルぐらいだったとある。侵入生物の大きさは様々だ。一番小さいものは昆虫型の生物で、三十センチ程度。最大の「百足鯨型」は百メートルはある。最も多く見られるのは十メートル前後の大きさだから、市川に現れた「ヒト型」は小型だ。
市川の「ヒト型」は画像がぼやけていて、亡霊のように見えた。のっぺりとした頭には目も鼻も、口もない。人間の脚にあたるものはなく、筒型の胴体がそのまま地面に突き立っている。両脇に太い触手が垂れる。体全体が白っぽい。目立った凹凸もない。とても嫌な落書きを見ている感じがする。
「ヒト型」の出現状況は、他の侵入と同じだ。
眼球を指で押さえた時のように、視野に歪みが現れる。それが渦巻いて見える時もある。数秒後に、関門が開けられた感じで、向こう側の生物が侵入してくる。生物は、空間に置かれた見えない平面から身を突き出してくるようだ。全身がこちら側に出てきてしまうまで十秒もかからない。
市川の「ヒト型」の特徴は人間の捕食だった。触手で逃げ遅れた人を捕まえる。頭部がミカンの皮を剥いたように四つに開き、捕まえた人間をそこで食べてしまったらしい。記事には「食べ散らかした。」と書いてある。丸呑みしたのではないということだろう。食べちぎったということだろうか。人間を捕食する侵入生物はかなり多い。侵入してくるものを生物と考える人たちの根拠もこの捕食活動にある。市川の「ヒト型」は休日の繁華街に現れて、相当数の人間を餌食にしたようだ。逃げ惑う人間を追いかけて、建物を壊し、自動車をつぶした。動きが俊敏で、強力な侵入生物だったのだ。現場は「食べ散らかされた手足がごろごろと転がり、地獄となった。」
「ヒト型」の侵入の終結も、他の侵入と変わるところはない。侵入は普通長くて三日間続く。短い時は、一分程で終わることもある。防衛軍の到着が間に合えば、侵入してから一時間以内に侵入生物が掃討される。防衛軍が間に合わず、暴れるだけ暴れて消えてしまうことも多い。侵入生物は消える。ぼくも見たことがある。それは掻き消える。今まで見ていたのが間違いのようにいなくなる。一瞬の出来事だ。防衛軍に倒された死骸も同じで、跡形もなく無くなってしまう。この侵入生物の「消失」が人々の精神状態に悪い影響を与えていると唱えている心理学者がいるのを知っている。バアちゃんの言葉を借りれば、「醒めない悪夢になってしまった。」と感じる人がいるのだ。市川の侵入に防衛軍は間に合わず、「ヒト型」は消え去った。侵入してから一時間後のことだった。

防衛軍はだいたい間に合わない。
公式の発表では、今年は六割の掃討率となっている。国内で確認された侵入のうち、六割は侵入生物を掃討しているということだ。でも、みんな口には出さないけれど、防衛軍は間に合わないものと思っている。一平さんは、「被害が凄まじいので、間に合わなかった時のことが強く印象に残って、いつも間に合わないように感じるんだろうなあ。」と言っている。ぼくも同感だ。防衛軍は確かに戦っていて、侵入生物を撃退してくれている。「侵入生物カタログ」では、防衛軍が戦っている動画が最近よくアップロードされている。登録されている侵入生物について、防衛軍に掃討されたかどうかを集計してみれば、五割ぐらいにはなるんじゃないだろうか。
でも、五割ぐらいあいつらをやっつけたところで、死ぬ人が多すぎるのだ。二度と戻ってこない人が多すぎて、釣り合いが取れない。生き残っても、怪我をして後遺症に苦しんでいる人が大勢いる。侵入生物の変な体液を浴びて、骨が変形し、車椅子で暮らさなければいけなくなった人を飯本の街で見かけた。今まで一体だけ侵入が確認されている、「四〇一号」と呼ばれる生物は、オレンジ色の光線を出した。それは、人の体の組織を溶解させたが、破壊するのではなく、形を融かして再構成してしまうのであった。溶けた後、しばらくすると固まって、それでも生き続けるのだ。「四〇一号」が侵入してきたとき、一緒にいた二人の女性がその光線を浴び、体の半分がどろどろに溶けて混じり合い、そのままくっついて離れなくなってしまった。全然赤の他人同士が、ひとつの体になって暮らさなければならなくなった。彼女たちはいろいろな合併症に苦しみ、結局、電車に飛び込み自殺して決着をつけた。
侵入生物は街も破壊する。人間にも建物にも関心を示さない侵入生物がいる一方で、何の敵意を感じるのか、建物、自動車、電車、道路などを狂ったように破壊する生物がいる。その破壊に巻き込まれて死ぬ人もたくさんいる。そうでなくても十メートルの物体が動き回るので、街は自ずから傷つけられる。大人たちは、傷ついた街を復興しようという気持ちを無くしてしまった。侵入の後、自分たちの家がまだ住めるなら住み続け、家を壊された人は街を出ていってしまうことが多い。壊された家や建物はそのままにされる。後片付けを負担できる人などいない。役所も手が回らず、侵入の破壊が広範囲に及ぶと、住民がいなくなりゴーストタウンになってしまうこともある。大侵入の後、秋葉原がゴーストタウンになったと聞いた。
潰された家の前に立って呟く男の人の動画をインターネットで見たことがある。不安になるくらいに叩き潰された家はその人の自宅で、家の中にいた家族も全員死んでしまった。家族を奪われ、住む場所も無くなった男の人は、カメラに全然注意を払わず、小さな声で呟き続ける。瞳がまぶたの奥に隠れたようで、表情はわからない。顔色が悪く、頬の肉がたるんでいる。カメラが近寄って、男の人の声を拾う。
「…こんなになるなら、もう何も持たないほうがいいんだ。どうせ無くなるなら、家族も家も持たない方がましだ。それのほうがいい。それのほうがよっぽどいい。…」
男の人は恐怖と悲しみに縛られ、頭の何処かが痺れてしまっているのだろうか。
この動画の視聴回数は異常に多い。サイトではコメントもたくさんつけられている。その殆どが男の人に同情していた。同じように家族を亡くしたと自分の悲しみを綴るものもあった。定期的に「絶望してはいけない。この動画は、人々の希望を奪ってしまう。削除すべきだ。」というコメントが投稿されることがあるが、誰も相手にしていない。無視されて、同情と悲しみと辛さを訴えるコメントがまた流れていく。侵入は確実に人々の心を裂き、地面に這いつくばらせ、立ち上がろうとする気力を弱らせていた。

 昼食後、一平さんに運転してもらって、三人で飯本の街へでかけた。今日は土曜日なのでバアちゃんの仕事も休みだ。流星号も連れて行った。車に乗ると流星号は、窓を開けて顔を出す。風が当たるとバアちゃんが寒がるので、流星号とぼくが後ろの座席に座った。それでもバアちゃんは、「もうだいぶ風が冷たいわよ、流星号。」と笑いながら言った。流星号は風に目を細め、身じろぎもせずに車の進行方向を見つめていた。その横顔はきりりと見事なものだった。
ぼく達の家から飯本の街までは二十分ほどで着く。いつもイトーヨーカドーで買い物をし、気が向いたら街中を歩くことにしている。アーケードを通り抜けて、城跡の公園まで歩くのがぼく達のコースだったが、今日は買い物が多いので、イトーヨーカドーだけで済ませることになった。流星号は買い物の間、顔見知りの動物病院に預かっておいてもらった。
イトーヨーカドーの中にはそこそこ人がいた。やはり家族連れが一番多いようだ。子どもの姿に目を惹かれる。ぼく達の家の周りでは見かけないからだろうと思う。同い年くらいの子には特に、その子の話していることを聞き取ろうとし、仕草や行動をじっと見入ってしまった。催眠術にでもかけられた気がした。
家族で、夫婦で、カップルで、人々はゆるく集まって動いていた。音楽がその間を常に流れている。そのせいで、集まり同士は少しだけ隔てられた空間の中で移動している感じがした。
ショッピングカートを押して、バアちゃんの後についていきながら、一平さんが言った。
「侵入が始まる前と同じだ。同じように暮らしている。何も知らずにこの人たちの様子を見たらどう思うかね?侵入なんてものがあるとは想像できんだろう。侵入とはどこの世界の出来事かと思うよ。」
「侵入があるからと言って、生活を止めるわけにはいかないでしょうに。」バアちゃんが言った。ぼくはバアちゃんを見つめた。
「でも、見て。こういう商品は、侵入前には無かったわよ。」バアちゃんは商品の棚の一角を指さした。
テントやバーベキューセットといったアウトドア用品に隣り合って「防災用品」とパネルが吊り下げられたコーナーがあった。そこの一棚全部に「侵入に備えましょう!」とうたわれた商品が並べられていた。
「こんなの効果あるのかしら?」バアちゃんが手にとったのは、「侵入防護シールドテープ」という商品だった。磁石の粉を練りこんだテープで侵入生物が近寄らないようにする、と書いてあった。ドアの枠や窓枠に貼るとよい、と。どうやら、侵入生物は磁力を嫌うという法則を勝手に思いついて、商品にしてしまったらしい。
「磁石が侵入生物に効果あるなんて聞いたこと無いね。」ぼくは言った。
「ああ。でたらめさ。」一平さんがうなずく。「虫除けのお守りのようなものだ。ふふ。ここに書いてあることが本当なら、新しい物理学ができるぞ。」
他にも、侵入生物の体から飛散する細菌から体を守る「侵入マスク」だの、電磁波を発振して家に侵入生物を近づけないようにする「バリア1(ワン)」などがあった。一平さんは「でたらめにもほどがある」と言って笑い出し、しまいには腹を抱えて涙を浮かべた。ぼくとバアちゃんが一平さんの腕を引っ張ってそこから連れ出さなければならないほどだった。あまり大きな声で笑うので、店員が僕達の方へやってこようとしているのが見えた。
ぼくは侵入前の世界がどうだったかをよく知らない。たしかに「侵入に備えましょう!」商品は、侵入前には無かったものだろう。あの手の商品を思いつく人は侵入前にも存在していたのかもしれないけれど。
侵入が落としている影は他にもあった。イトーヨーカドーのフードコートでそれを見ることができた。
買い物が済んだから、コーヒーでも飲んで帰ろうとバアちゃんが言い出し、ぼく達はフードコートへ入った。円形の広場になった所にテーブル席が並べられ、ラーメン、お好み焼き、パスタ、ドーナッツ、ハンバーガー、フライドチキンといったお店がぐるりと取り囲んでいる。食べ物の雑多な匂いが混ざり合い、結局油の匂いだけが勝った。店のカウンターで出される皿をトレイに載せ、椅子の間を縫って行った先には、家族が座って待っている。家族連れの間に中学生や高校生のグループが混じっている。友達同士で来ているのだろう。お金がなくて仕方なく来ているという感じだ。お腹がいっぱいになったら、もっと面白いところに移動してやるという顔をしている。それらのグループよりぐっと数は減るが、小学生の、ぼくと同い年くらいの連中もいて、彼らはそこを本当にいいところと思っていそうだった。
それらのグループの間に、全然別の種類の人たちが座っていた。たいていは一人。二、三人でいるのは老人だ。うどんを啜る人、カレーをゆっくり食べている人もいれば、目の前のテーブルにコーヒーをおいて、じっとしている人もいる。そのなかの一人が、「西清川避難所」と背中に書かれたブルゾンを着ていた。「避難所」というのは侵入によって住むところを失った人の仮住居のことだ。県や市がそういう施設を開いて、侵入の被害にあった人に提供している。そのブルゾンを着ている人は、近くの避難所からイトーヨーカドーへやってきているのだった。他の人々も、同じようなものなのだ。家族連れや子供のグループに属さない人たちはほぼ全員が同じような人々だ。インターネットでの呼び方を借りれば、彼らは「侵入難民」呼ばれる人たちで、彼らこそ、侵入によって落とされた影と言えた。
彼らは一目で見分けがつく。
一人でぽつんと座っていて、ほとんど体を動かさない。目だけはきょろきょろと辺りを伺っている。側に人が近寄ると、ひょいと見上げる。すがるように。でも、その視線は虚ろで、こちらが見えているようには思えない。老人のグループは、低い声でずっと話していたが、それは会話しているのではなく、ひとりごとを呟き合っているのだった。彼らは腐った枯葉のような表情をしていた。もう形を保てなくなってしまったもののような雰囲気を漂わせていた。恐怖の青白い匂い、苦痛の、硫黄に似た匂いをまき散らしていた。
侵入によって何かを失った人たちが、フードコートにはいた。その人たちはばらばらと座っていた。他の人々、家族として身を寄せ合い、生活を続けている人々から少し離れて。

イトーヨーカドーを出て、ぼくとバアちゃんで流星号を迎えに行った。一平さんがイトーヨーカドーの駐車場から車を出して、動物病院の前で待っているぼく達を拾ってくれることになっていた。
「さて、少し時間がかかりそうね。」駐車場の出口を見ながらバアちゃんが言った。駐車場から出る道路が少し混んでいて、車の流れがつかえている。一平さんの車は立体駐車場の七階に停めてあったので、降りてくるまではまだ間がありそうだった。
流星号のリードを持って、イトーヨーカドーを出入りする人の流れをぼんやり見ていると、「あ、犬だ。」という声が聞こえた。
長い髪の、ジーンズをはいた女の子が流星号を見て、目を輝かせていた。側に母親らしい人がいた。女の子はぼくと同じくらいの背丈だった。大きな瞳でぼくが流星号のリードを持っているのに気づき、一瞬、ぼくを見つめた。それから笑った。広がるように笑った。
「撫でてもいいですか?」ぼくに言っているのだと分かった。ぼくが流星号の飼い主だと認めて、ぼくに許可を求めていた。
「いいよ。」
「ありがとう。」女の子が嬉しそうに言ったので、ぼくは笑ってしまった。女の子は流星号の側にしゃがみ、撫でるどころか左腕を下から首にまわして抱いた。流星号は女の子の方を少しも見ないで、抱きつかれるままにじっとしている。それは、多分、女の子が自分の体に触るのを許している印だった。流星号は、女の子の事を気に入っているようだった。
「かわいいなあ。」女の子が言った。流星号の首に頬を寄せている。ぼくの位置からは、女の子の白い横顔が見えた。睫毛がとても長く、目元に鮮やかな影ができている。ぼくは女の子の顔をじっと見つめた。目を逸らすことができなかった。
女の子がぼくの視線に気づき、その頬が赤く染まった。そのことを知りながらも、照れずに言った。
「何という名前なの?」
「流星号。」ぼくも頬が熱くなった。顔をじっと見ていたことを知られたと分かった。
「流星号?すごい。流星号、こんにちは。」女の子は、流星号に話しかけた。女の子の母親らしい人は、何も言わずにニコニコしていた。バアちゃんの視線が女の子に吸い付けられているのが分かったが、何が気になっているのかははっきりしなかった。
流星号は、女の子に抱きつかれるまま、足を踏みしめていた。それは、女の子を支えているようにも見えた。
女の子は、「ありがとう、流星号。」と言ってから立ち上がり、ぼくをまっすぐ見つめた。そして、笑った。信じられないくらい晴れやかに。
「どうもありがとう。流星号、かわいいね。私も犬を飼ってたの。とっても可愛がってたけれど、大侵入で死んでしまったの。私の父も母も。それと、私の右手も」そう言うと、ぼくの側からは死角になっていた右手を差し上げて、見せた。そこには掌がなく、丸く盛り上がった腕の先があるだけだった。女の子の生き生きとした表情に比べて、右手はあまりにも不完全な感じがした。バアちゃんが何を見ていたのか分かった。ぼくは息が詰まりそうな気がした。
「私、高橋紗子。」
「え、立原、立原龍太郎だけど。」「けど」なんなんだ?自分で自分の言葉に顔が熱くなった。
「じゃ、また会えるといいね。」一瞬、高橋紗子は笑うのを止めてぼくの目を見つめた。その黒い瞳は呼びかけていて、それに応えなければ、何かが永久に失われてしまうのが分かった。なのにぼくは、くるりと背を向けて去っていく女の子を、ただ見送った。

 それから一週間は、何事も起こらず過ぎた。
午前中はバアちゃんの手伝いと勉強。バアちゃんは午後から飯田橋の研究所へ出勤し、ぼくは一平さんの手伝いをした。一平さんの手伝いと言っても、研究の助けになるようなことはできるはずもないので、コーヒーを入れたり、言われた本を書棚から集めたり、また戻したりするくらいだった。時には、一平さんがぼくのために物理や化学の初歩を教えてくれた。簡単な装置をこしらえて、実験をやらせてくれることもあった。それ以外の時間は、一平さんが持っている本を読ませてもらう。合間の決まった時間に、流星号と見回りをする。日が暮れてしまう前には、流星号を散歩に連れていく。その頃にはバアちゃんが帰ってくる。そして晩は三人と一匹で食事をした。その後、ケーブルテレビで古い映画を観た。

バアちゃんは、軍人の訪問について一言も話してくれなかった。それどころか、あの軍人が来てから以後、明らかにバアちゃんの口数が減っていた。ぼくの視線を避けてもいた。
川が長々と濁るように、不安が広がった。何が起ころうとしているのか分からなかったし、たとえ分かったとしても、そのことに対してぼくはどうすることもできないのではないかと思った。
ただ、高橋紗子と名乗った女の子の事を思い出すときだけ、不安の色を忘れることができた。「また会えるといいね」という言葉と呼びかけていた美しい瞳が、ぼくのなかでどんどん大きくなっていった。
ぼくは高橋紗子の右手のことを思った。失われた右手。それから、失われた彼女の父母と犬。ぼくは、自分の父母も祖父も同じ時に失われたことを彼女に言うべきだったと気づいた。そうすれば、あの瞳の呼びかけに応えることができた、と。
でも、ぼくは何も言わずに彼女を見送った。もう二度とあの呼びかけに応えることができないんじゃないかと思うと胸が押し潰されそうになった。高橋紗子は、また何かを失うかもしれない。その時、ぼくは何をしているというのだろう。

また土曜日が来て、ぼくは高橋紗子を探しに行くことにした。
あの子に会わなければ、ぼくは窒息してしまうだろう。
バアちゃんは休みで家にいた。飯本の街に行くと告げると「一平さんに送ってもらったら?」と言ったが、ぼくは一人で行くことにした。自転車で行けると言うと、バアちゃんは目を丸くした。
財布とバアちゃんに持たされた携帯電話だけを入れたメッセンジャーバッグを背負った。一緒に来たがる流星号を繋いで、ぼくは自転車を漕ぎ出した。
下の道へ出るとき振り返ると、流星号が走りだしそうな姿勢でぼくの方を見ていた。尻尾がきゅっと跳ね上がって、背中の方へ丸まっている。
飯本の街まで、おそらく一時間もかからない。一本道なので迷うことはない。
タイヤとチェーンの軽やかな音だけを友に、ぼくは漕ぎ続けた。
木陰が続くと少し肌に冷たく感じるほどの風だった。速く、速くと心臓が高鳴り、気づかぬうちに額にうっすらと汗が浮いてくる。何の根拠もなく、ぼくは高橋紗子に会えると信じこんでいた。
国道に突き当たり、傍らを抜いていく車の排気ガスに喉を焼かれるような気がする頃には、背中は汗でびっしょり濡れていた。
やがて、「飯本駅前」という表示が見えた。
まず、イトーヨーカドーを目指した。イトーヨーカドーを上から下まで探して回り、その後、動物病院の前でイトーヨーカドーの出入口を見張るつもりだった。
イトーヨーカドーの真ん前に、防衛軍の車が停まっていた。迷彩塗装が施されたライトアーマーの場違いな重々しさが周りを圧していた。おそらく地点防御車だ。「異次元生物カタログ」のサイトで読んだことがある。防衛軍の侵入防衛戦略についてまとめてある文章で紹介されていたと思う。実際にその戦略が実行されていて、実物を目の前にしているのは異様な感じがした。ぼくは、地点防御車に目を奪われた。

地点防御車は侵入防衛に対する切り札だと防衛省がふれ回っていた。侵入防衛の問題点は、防衛軍が間に合わないことだった。それは誰の目にもはっきりしていた。防衛軍が間に合わないのにはそれなりの理由があって、そもそも局地的に発生する侵入の精密な予測が難しいのだ。そのため防衛軍がどんなに急行しても間に合わないことがしばしば起きた。そこで、主要都市に駐屯する部隊を設置し、さらにその部隊から地域を巡回してパトロールを行う作戦がとられた。それが地点防御作戦であり、その主要装備が地点防御車なのである。少しでも早く侵入現場に到着できれば、被害を大きくしないで済む。
地点防御車には二人の兵士が乗ることになっている。一人が操縦を担当し、もう一人は戦闘員となる。戦闘員は、次元変位レンズを武器として異次元生物と戦う。この次元変位レンズを開発したのは、他でもないぼくの祖父だ。高度時空研究所で、一平さんや父達と協力して、祖父は対侵入防御兵器を作り出した。一平さんがその時の様子を話してくれたことがある。
「立原くんのプレッシャーは傍で見ていても相当なものだった。研究所全体も同じようなプレッシャーを感じていたんだが、侵入を引き起こした責任があると思っていたんだ。侵入を止めねばならないと思っていた。
止めると言うことは、要するに次元のズレをもとに戻して、侵入を封じ込め、向こう側に押し戻せばいいのだが、これがとてつもない話だった。侵入が起こる仕組みも分からず、どこから手をつけていいのか見当もつかなかったのだからだ。
ただひとつの手がかりはバーンの理論だったんだけれど、それは八割方クロアチア人の頭の中にあって、我々に残されたのは、メモの束だけだった。でも、ここから立原くんの天才が輝いた。
立原くんは、次元のズレを戻すことを捨て、逆に向こう側に侵入することを考えついた。向こう側へ出ていき、侵入してくるものと戦おうと思いついたわけだ。
バーンの理論といっても、彼も相当な天才だったに違いないにしても、もともとは立原くんの構築した基礎理論の上に組み立てられた仮説だったんだ。だから、理論的な筋道はさておいても、立原くんには直感的に侵入の向きを逆にすることを発想できたんだな。」
祖父の発明した兵器は侵入生物との戦いを一変させた。それまで、次元の差異が影響して、重火器による反撃がさほど効果がなく、蹂躙されるがままになっていた。しかし、次元変位レンズによって敵に決定的な打撃を与えることができるようになったのである。
それでも次元変位レンズは、侵入に対する最終兵器ではなかった。それを一平さんはこう説明してくれた。
「パワーの問題だ。今の次元変位レンズは、バッテリーの改良によって三分ちかく使える。それでも、侵入してきたものに対して接触さえできれば、敵を倒すことが可能だ。だが、三分は心許ない。向こう側のパワーが優れば、次元変位レンズで戦っても勝てないだろう。もっと圧倒的なパワーがなければ。
もうひとつの問題点は、やっぱり侵入が予測できないことに絡む。君のお父さんや、貴美子さんが頑張ってくれたおかげで、次元変位レンズを持ち運ぶことができるようになったが、侵入を予測できない以上、間に合わないということがどうしても起きてしまう。防衛省と防衛軍は地点防御作戦とか言って得意気だが、あんなものは付け焼刃でしか無い。もう一度大侵入が起きたら、あれが全然役に立たないことは誰にでも分かる。もっと根本的に次元変位レンズの仕組みを変えなければ、この問題は片付かないんだ。侵入が発生したら、その場で次元変位レンズによって反撃できるように。
そして、根本的と言えば、侵入を抑えることができないという大問題がある。なぜ侵入を抑えることができないか?それは、我々が侵入がなぜ起こるのかを解明していないからだ。我々は次元のズレを元に戻していない。この点は十年前と何も変わっていない。進歩がない。ここにこそ大きな問題が潜んでいるんだ。我々は侵入に対してもっと理論的な取り組みをすべきなんだ。」
次元変位レンズを使った侵入生物との戦闘は、ちょっと不思議な光景だ。
ぼくは現場に居合わせたことがないが、ニュースの映像やインターネットにアップロードされてる動画で見たことがある。次元変位レンズによって向こう側に侵入する兵士は巨人になったように見える。一平さんによれば、目の錯覚に過ぎないということなのだが、五メートルぐらいの、まぶしく輝く巨人になるのだ。その巨人が侵入生物へ立ち向かってゆく。接触した途端、目を灼く閃光が激しく飛び散る。それが収まったときには、侵入生物は打ち倒されている。

もうそこで、侵入生物との戦闘が始まったかのように、ぼくは地点防御車に目を奪われていた。でもぼくは、頭を振って目をそらし、イトーヨーカドーへ急いだ。
光る巨人より、高橋紗子に会うことのほうが大切であることを思い出した。それに、都合よく侵入が起きるわけもないのだ。祖父が発明し、祖母と父が改良した兵器を間近に見てみたかったが、それも脇へどけた。横目で、地点防御車の運転席に兵士が一人だけいるのを見た。

しかし、イトーヨーカドーで高橋紗子に会うことはできなかった。最上階から地下まで歩き回ったが無駄だった。体の何処かで薄々感づいていたような気がしていた。ぼくは、最初に決めていたとおり、イトーヨーカドーを出て、動物病院の前、彼女が流星号を抱きしめてくれたところに立って待つことにした。
二時間くらいは経っていたのに、地点防御車はまだ同じ場所に停まっていた。侵入の予報でも出たのだろうかと思い、地点防御車の方に一歩近づくと、助手席に別の兵士が乗っていた。それが、一週間前にバアちゃんを訪ねてきた将校だったので、ぼくは驚いた。あの時と違って、迷彩の戦闘服を着ていた。若々しい目元が確かにあの将校だった。
その時、ぼくは将校の訪問の理由を思いついた。彼は、新たにこの近くの駐屯基地に赴任してきたのだ。その挨拶にバアちゃんを訪ねてきたのかも知れない。ということは、バアちゃんが行ってる研究所で面識があったのだろう。バアちゃんは、祖父と父の研究の後を継いで、次元変位レンズの改良に取り組んでいる。防衛軍の軍人がバアちゃんの研究所に関係があるとするなら、それは新型の試験をやったからではないだろうか。そうすると筋が通る。ただ、あの時のバアちゃんの態度が謎だ。何も話してくれないのも訳がわからない。
ぼんやり見ていたぼくの視線に気づき、将校がぼくの方を向いた。彼はすぐにぼくを認め、笑って手を振った。この前と同じ涼し気な笑顔だった。つられてぼくはお辞儀をした。
何か空気が変わったと思った。
急に周りの人が口をつぐんだようだった。男の人が駆け出す。他の人の目を細めた視線がぼくの後方を向いた。振り返ったとき、女の人の叫び声と男の人の怒鳴り声が一度に起こった。
「逃げろ!逃げろ!」
イトーヨーカドーの裏側からわらわらと人々が駆け出してきた。どの人の目もひきつり、口が裂けるように開かれている。手を広げ、ぐるぐる振り回して、こちらへ突き進んでくる。ぼくの脇を抜け、一目散に走り去った。
体ごと持って行かれそうな地鳴りがした。白っぽい埃がイトーヨーカドーの裏から吹き出した。
侵入だ。
侵入生物が建物の陰からその体の一部を現した時、頭が二つある象に見えた。瘤の中からさらに瘤が生えたような二つの灰色の塊から、長い管が一本ずつ伸びて、左右に振り回されていた。二つの瘤は、妙に薄っぺらい胴体に乗っかっている。足は四足だ。胴体の側面から生えた足は丸太となって道路を踏み砕いた。足には節がいくつもある。節の一つ一つがそれだけで生きているようだった。百足などに似て、滑らかにくねって移動していくのが禍々しかった。体の表面を赤黒い液体がずっと垂れている。
侵入生物の手前で車が急ブレーキをかけた。その後ろの車が間に合わず追突した。押されてくるりと回った最初の車のボンネットを、丸太が踏みつけた。車は紙でできているかのようにぺしゃんこになった。歪んだドアを何とか押し開けて、逃げ出そうとしている運転手が見えた。長い管の一本が車のトランク辺りを一掴みすると、簡単に引きちぎって、向こうのビルに投げつけた。逃げ出そうとしていた運転手が、一緒に放り上げられ、空中でくるくると回りながら落ちた。
人が落ちるぐしゃりという音、車の残骸がビルに突き刺さる物凄い音、逃げ惑う人の悲鳴、侵入生物の地鳴りのような足音。
「逃げろ!」だの「助けて!」だのいう声が飛び交う。
侵入生物は、イトーヨーカドーの面している駅前のロータリーに入ってきた。
どこでどうしたのか、道路に何人もの人が倒れている。片方だけの靴が、道の白い線の上に落ちている。そんなばらばらのことだけが頭の中に押しこんできた。
ぼくは、体が固まって動けなかった。
「装着完了。」きびきびした声が背中のほうから聞こえた。その声だけがあたりの滅茶苦茶をまっすぐ切り抜けて耳に届いた。振り返ると、地点防御車の前にあの将校が立っている。その横に運転席にいた兵士がしゃがんでいる。将校は、トンボの眼に似たゴーグルをつけ、平たい台の上に直立していた。その台には、横に突き出たパネルがあり、しゃがんだ兵士はその上で指を走らせていた。台の後ろ側から太いケーブルが伸びて、地点防御車の側面に開かれたパネルに接続されていた。
「準備よし。」「準備よーし。」「侵入防御作業を開始。」「開始します。」
兵士の方が台のパネルの一点を指で触れ、さっと台から身を離した。その時になってぼくは、それが新しい次元変位レンズ装置であることに気がついた。今まで見たものとは明らかに違う。
将校の姿が歪んで見えなくなったと思った。次の瞬間には、目を刺すほどの光が輝き、それがずんずんと大きくなって、空気を細切れにするようなシュッ、シュッという音が高まる。街灯の倍ぐらいの大きさのところで光は、人の形にまとまった。輝く巨人の体からは、小さい火花が無数に弾けている。下に伸ばした手指の先から、ネオン色の稲妻が断続的に地面へ走っている。
輝く巨人の姿を見ていると、こめかみの辺りから、痛みが頭の中へ刺さってきた。尖ったものを押しこまれたようだった。ぼくは頭を抱えて膝をついてしまった。頭の中が外へ引きずり出されるような感覚。周りの音が遠ざかる。
一瞬、双頭の象に向かっていく映像が開けた。その視点は高く、駅前のロータリーを見下ろしていた。そして、暗い帳が下りてきた。

 誰かが頭を触っていた。
その指は、額をまたぎ、ぼくのこめかみの辺りを押していた。目を開けると、大きな掌が顔を覆っている。
「暗い。」気がつくと声が出ていた。
指がピクッとして、顔の前から退いた。
「やあ、気がついたのか。」
声の主が誰だか見当がつかなかった。ぼくは寝かされていた。天井に埋め込まれている蛍光灯が見えた。そばに人が立っている気配がした。目だけ動かし、声がした方を見る。軍服を着た将校がぼくを見ていた。あの将校だ。ぼくの頭を触っていたのも彼のようだ。
「気がついたかい。」もう一度将校は聞いた。
「ここは?」
「病院だよ。君は、飯本駅前の侵入で倒れて、ぼくがここへ運び込んだ。」
ぼくはうなずいて、将校から目を逸らした。イトーヨーカドーの前で見た混乱と、ぼくの頭を襲った痛みが甦る。
「気分はどうだい。大したことはないそうだ。」
「はい。」
「帰りたくなったら言って。僕が家まで送って行ってあげよう。」
「侵入は?」
「ああ、片付いたよ。君のお祖母さんに感謝しなくてはいけないな。」将校は新型の次元変位レンズの事を言っているのだった。彼は、ぼくの顔をじっと見ていた。
「あの時、頭が急に痛くなって…。」将校が頷いた。
「作業が終わって戻ってみると、君が倒れているのを見つけた。」それからぼくの目を覗き込んで、一瞬黙ってから続けた。「頭が痛くなったときのことを覚えているかい?」
「あまり…。」
「何かを見なかった?」
ぼくは首を振った。身を竦めるようにして嘘をついた。意識がなくなる寸前に何かが起こったのは覚えていたが、将校の目の色を見てそれを隠すほうを選んだ。
「そう。しかし、あの時何かが起こったんだよ。君のその頭に埋め込まれているものが関係してるんじゃないかな。」
「埋めこまれてる?」
「ああ。ここにね。知ってるだろう?」将校を自分のこめかみを指で差した。ぼくの頭に埋め込まれているプレートのことを言っているのだ。将校がぼくの頭を探っていた訳が分かった。
「これは、大侵入の時に頭の骨を折って、その手術でプレートを埋め込んだんです。」
将校は、ぼくの話に一瞬目を細めた。ぼくの言ったことを頭の中でひっくり返しているようだった。
「それは、立原さんがそう言ったのかい?」
「祖母が教えてくれました。」
「そう。」将校はくるりと背を向け、窓に近づいた。将校の体で陰になっていて気がつかなかったが、ぼくは窓近くのベッドに寝かされていたのだ。首を持ち上げて見回すと、部屋の中には他にも三つベッドがあった。四人部屋だ。が、他のベッドは空っぽで、僕と将校の他には誰も部屋にはいない様だった。
気がつくと、将校が体を捻ってぼくの顔を見ていた。そのまま向き直ると、ベッドの足元にあった丸椅子を引き寄せて座った。
「挨拶がまだだったね。防衛軍東部方面隊第一師団第一特殊防御隊の高橋です。君は立原龍太郎君だったね。」
「はい。」
「立原道太郎先生と立原貴美子先生のお孫さんであり、立原修太郎教授の息子さんでもある。」
ぼくは、ベッドの上に身を起こした。
「大丈夫かい?辛かったら寝てていいんだよ。」ぼくは首を振った。高橋と名乗った将校は頷いた。その名前が少しだけ心に残る。
「では、ぼくの話を聞いてもらいたい。それから、ぼくの質問に応えて欲しい。いいかい、これは大事な話だ。我々の未来がかかっている。いいね。
僕は、去年まで君のお祖母さんと同じ研究所で働いていたのだ。軍の任務で、次元変位レンズの改良を研究していた。当然、君のお父さんの研究も勉強した。立原修太郎教授は、人間の脳に直接働きかけ、次元変位レンズのパワーを飛躍的に増大させる方法を思いついていた。しかもそれは、次元変位レンズの欠点も克服することができるかも知れないというのだ。君はこのことを知っているかい?」
「いいえ。」
「ふむ。今、何年生だい?」
「五年生です。」
「立原教授の研究記録は三年前のものまでが残されている。大侵入の時までのものしかない。君が知るわけもないな。よし。」
ぼくは少し胸の底が重くなった気がした。
「ぼくは、立原教授の記録をくまなく調べて、教授の発見したものを再構成したのだ。教授は意識体験のネットワーク化によって次元変位レンズのパワー・アップができると考えていたようなのだ。簡単に言うと、たとえば僕が見たり聞いたりして、それを感じていると意識していることを共有するようにすることだ。どうしてそれが次元変位レンズのエネルギーになるのか、そこまでは分らなかった。教授が持っていたノートが大侵入によって失われてしまったからだ。でも、どうやら教授は、意識体験のネットワークを可能にする装置を試作していたようなのだ。それは、脳に直接働きかけるもので、当然、外科的な手術が必要なはずだ。ここに、ね。」
将校は自分のこめかみを指さした。
「教授は、誰かにその手術を施したんじゃないだろうか。そうしてだよ、その手術を受けた者は、新型の次元変位レンズに対して、何らかの反応を示すのではないかと思うのだ。」
ぼくは、将校の追い詰めるような目の光が怖くなってきていた。耳を塞ぎたかった。
「君の、そのこめかみの手術は、たしかに大侵入の直後なんだね?その前に手術を受けたことはないのかい?」
ぼくは将校の目を避けて俯いた。知らず知らず毛布を握りしめていた。その掌がじっとり濡れてくる。
「え?どうなんだい?思い出してくれ。君の手術は大侵入の前ではないだろうか?」
「いいえ、違います。大侵入の前に手術を受けた覚えはありません。」
「そう。」前のめりなっていた体を起こすと、将校は足を組んだ。
「だけどね、立原教授の理論を知っていた人がもう一人いる。立原貴美子だ。君のお祖母さん。彼女なら、大侵入の直後に手術を行うことができるのだ。」
「祖母が、ぼくに?」
「ああ。その可能性は否定できない。立原さん自身は否定されたけどね。ぼくは信じてはいない。そのようなことをしていないという証拠もないのだ。」
話の続きを待っていたが、将校が話しださないので、ぼくは顔を上げた。見透かすような将校の視線がぼくの目を捉えた。
「いいかい、立原くん。侵入が我々の生活を滅茶苦茶にしているのは分かってるだろう?たくさんの人が死んでいるんだ。たくさんの人の生活が、辛く悲しいものになっている。侵入さえなければ、僕達の社会はもっと良くなるはずだ。少なくとも侵入から僕達の生活を守って、余計な心配のない社会を作らなければ。その為には、次元変位レンズが必要なんだ。もっと強い次元変位レンズが。立原教授も同じことを考えたはずだ。考えて、新たな次元変位の仕組みにたどり着いたはずなんだ。それを実現する装置を試作している。僕はそれが必要だ。それを知りたい。だから、正直に教えてくれないか。君が見たり聞いたりしたことを隠さずに教えてくれ。君は、さっきの侵入の時、何を体験したんだ?」
ドアが開く音がした。ぼくと将校は入口の方を見た。
「龍太郎?」バアちゃんがそこに立っていた。後ろに一平さんの姿も見える。

 病院を出るまでの間、バアちゃんは将校とひと言も話そうとしなかった。将校を睨みつける目付きは、傍目にもあからさまで、視線だけで相手の首を切り飛ばしそうだった。将校は、一平さんに向かって、事のあらましを説明した。一平さんは「うん、うん。」と頷いて、ぼくを病院へ連れていってくれたことに礼を言った。それから、ぼく達は一平さんの車に乗って帰った。車の中では、ぼく達三人の誰も口をきかなかった。
高橋紗子に会えなかった、とぼくは思った。何度も、何度も、思った。大きな石が一回、二回、三回と落ちてきて、ぼくの心を潰していくようだった。石は、途切れなく落ちてきた。重みで、ぼくの首は項垂れて、体ごと地面に沈んでしまいそうな気がした。
ぼくの頭に埋め込まれたもののことが、さらにぼくを痛めつけた。ショックだった。自分の体が盗まれたような気持ちと騙されていたという気持ち。手も足も出ない自分。
近付かずにいた井戸から声が届く。お前なんか、この中に落ちてしまえ。冷たい水の底深くに溺れてしまえ。芋虫みたいなガキめ!
ぼくは、自分の部屋のベッドの上に座り、一晩中ぼんやり目を開いていた。

翌日ぼくは、一平さんに本当のことを聞くことにした。
「意識体験のネットワーク化?あの高橋という軍人がそう言ったのかね?」
ぼくが頷くと、一平さんは椅子に背中を預け、目を上にさまよわせて黙った。ぼく達は、斜めに向い合って座っていた。一平さんの仕事が一段落して、ぼくと話しをする時はいつもそうしていた。一平さんは、書斎の奥に陣取っている大きな机の前に、横向きに座っていて、机の上にはぼくが淹れたコーヒーが乗っていた。一平さんの背後から、天井まである本棚がぐるりと部屋の壁を埋め尽くしいる。話題に従って本を取り出してみることがある。ぼく達は、深い焦げ茶色の飾り気のない椅子に座っていた。クッションも固めで、愛想のない椅子だが、座っているうちに心が落ち着く椅子で、ぼくは好きだった。椅子の部分部分の木の厚みが、座っているこちらの心を支えてくれるように思った。その椅子の中で、一度身じろぎすると、一平さんは口を開いた。
「ふん。まあ、間違いとは言えない表現だろうな。修太郎君の理論を理解しているかどうかは怪しいが、軍人にしては上出来だと言ってやろうかな。」
「それが、次元変位レンズの威力を強力にするんだって言ってた。」
「修太郎君の研究は、もちろん侵入と戦うことを第一にしていたが、それだけに収まるものではなかった。侵入という現象の解明を大きな目標として常に意識していたんだ。そこを忘れないでくれ。君のお父さんは、立派な人だったんだよ。」
ぼくはじっと一平さんを見ていた。
「意識活動を次元変位させることが可能であることを発見したのは知っているよ。ぼくもその発見のレクチャーを受けたからね。それがもたらす結果についても、修太郎君は突き止めて、僕達に説明してくれた。ごくごく簡単に言うと、それは意識が新しい視点を獲得するということなんだ。すると今までこの次元に縛られていた意識が交通することができるようになる。二次元平面上では閉じた図形が三次元では閉じていないようにね。こういう次元の変位がエネルギーをもたらすことも観察された。そこで次元変位レンズにそのエネルギーを誘導することを考えた。そのためには意識活動の物理的変化を直接取り出す必要があることが分かった。脳にチップを埋め込まなければいけないことが分かった。」
一平さんは僕の様子を伺っていた。
「そのチップを開発したのも修太郎君だ。大車輪の働き振りだったなあ。そして結局、志願者にその手術をした。実験は成功した。大侵入の直前の頃だ。これは間違いない。僕は当事者の一人なんだからね。
と言うことは、君がその手術をされたかどうかといえば、それは絶対にないと言える。志願したある人にだけ手術は行われたんだ。君にではない。僕が保証する。君の頭に埋め込まれているのは、本当にプレートなのさ。」
「でも、高橋さんは疑っていた。」
「貴美子さんがその手術をすることができて、君に施したというのだろう。ふん、馬鹿馬鹿しい。三つの点で、それはありえない。
まず、大侵入のすぐ前の時点で修太郎君はまだ作業中だった。貴美子さんもすべてを把握していたわけではない。理論の殆どは君のお父さんの頭の中にあって、僕達の誰も手を出せない状態だったのだ。それが不幸なことに大侵入によって失われた。本当に悲しい出来事だった。研究もそこで止まってしまった。だから貴美子さんにはその手術ができるわけはない。
二つ目は、いくらなんでも貴美子さんに外科手術はできない。そうすると外部の医者に頼むことになるが、そんなことを請け負う医者がいるとおもうかね?人体実験なんだよ?ありえないな。
それからもう一つありえないというのは、君のお父さんも貴美子さんも、君を実験台にするなどということは絶対にないからだ。いいかい。絶対にないんだ。立原君も、貴美子さんも、君のお父さんもお母さんも、そしてこの僕も、君をそんな目に合わせることはないよ。」
「じゃあ何故バアちゃんは、高橋さんが訪ねてきたことについて、ぼくに何も話してくれないんだと思う?遺族年金のことだなんて嘘をついて、何かを隠してるんじゃない?」
一平さんは、胸の前で手を組み合わせ、首を振って否定した。
「考えすぎさ。君にいらぬ心配を掛けたくないんだよ。」一平さんは、ほっとため息をついて続けた。「僕と立原君と貴美子さんは、大学生の頃からの付き合いだ。こんなことを君に言うのは恥ずかしいんだが、僕は貴美子さんのことが好きだった。立原君もね。貴美子さんはあの頃と少しも変わっていない。びっくりするよ。貴美子さんは立原くんと結婚したが、それでも僕達三人は変わらず仲が良かったのさ。そうして僕は、立原君と貴美子さんの間に修太郎君が生まれ、その修太郎君が成長して結婚し、君が生まれるのを見てきたんだ。どれだけ僕は年寄りになったのかね?あきれるぞ。
何が言いたいかというとだね、僕はそのくらい長く貴美子さんを見てきたんだ。あの人がどうして君に全部を話さないのか、よく分かる。あの人は君を心配させたくないだけなんだ。ただそれだけだよ。今はダメでも、もう少し様子を見て、直接聞いてみればいい。」

 一平さんの話で納得がいかなかったのは、防衛軍の軍人がやってきて父の研究について調べ回ることが、何故ぼくを心配させることなのか、ということだった。
ぼくは知らず知らずにこめかみの皮膚の下にある硬いものを指で確かめていた。
バアちゃんは研究所へ行っていた。一平さんには具合が悪いからと断って、部屋に一人でいた。静かな午後だった。窓の景色には秋の終わりが近づいていた。椅子にすわっている足元に流星号が寄り添って丸くなっている。その耳の形を見ていると、流星号はぼくの視線に気づいて、頭を上げてこちらを見た。
流星号はものを問いたげだった。犬ですら、ぼくを気遣っている。まるでぼくが、そうやって気遣わなければどうしようも無い子供のように。
ぼくは、足で流星号を押した。流星号は顔を前に戻した。耳が一回はたりと動く。
もう一度押した。犬の体が床の上で少し滑ってずれた。
足に力を込めて、持ち上げるように押した。
流星号は、ゆっくり立ち上がると、部屋を出て行った。ぼくの方を見ようともせずに。

一人になった僕は、鋏を持って洗面所へ行った。
鏡の前にたち、右を向き、左を向き、こめかみの位置を確かめた。
左の方へ顔を向け、左手でこめかみの下の物体を探り、右手の鋏の先をそこに当てる。
このままぐりぐりと回しながら押し付ければ、薄い皮膚だから破ることができるだろう。それで埋めこまれたものを取り出すことができる。
やるときは、思い切ってやらなければ駄目だ。埋めこまれたものが何なのか確かめなければならない。血が出るだろうから、タオルを二、三枚、洗面台に置いた。
深く息をついてから、正面を向いて、自分の顔を見た。少し青ざめて見えた。
どのくらい痛いのだろう。
一平さんが言うように、それが本当にただのプレートだったら、ぼくはどうなるのだろう?死ぬのだろうか?もし実験用のチップだとしても、それを取り出して生命に影響はないのだろうか?
足の先が、もう冷たい井戸の水に浸かっているような気がした。
右手の鋏を握りしめる。
勢いをつけて鋏を突き立てればすぐ片がつくだろう。きっと、じわじわと切り開くより、そちらの方がましだろう。勢いで恐怖と苦痛もごまかせるだろう。
心臓の鼓動が胸の内側を叩くように速くなった。
「うおー」と叫びながら鋏を頭に突き刺した。
ぼおんという音が頭全体に響き、視界が揺れた。焼けるような痛みが破裂する。右目がひきつる。右側の顔半分がこめかみの辺りに絞り上げられるようだった。鋏を下に落としてしまった。こめかみを押さえていた右手を確認する。血がついていない。急いで鏡に映してみると、狙ったところをずれて、ほとんど生え際の辺りに赤い小さな跡がついていた。少しは血が滲んでいるようだった。おそらく、体のほうが反応して直前に力を抜いたのだ。ぼくは、こわかったのだ。
洗面所のドアの向こうで、流星号の吠え声がした。ぼくの叫びを聞きつけたのだろう。しきりに吠え、ドアを前足でガリガリとこすっていた。心配している。
ぼくは、洗面台の前にしゃがみ込んでしまった。高橋紗子の失われた右手、その丸くなった傷跡を思い出した。気がつくと泣いていた。涙が止まらなかった。

 二週間が経って、日曜日になっていた。
見回りを終えて帰ろうとしている時だった。流星号が登ってくる車に気がついた。
ぼく達は入り口のところまで行った。黒い車がぼく達の前で停まり、あの高橋という将校が降りてきた。最初に見たときのように軍服を着ていた。軍服のズボンにはきれいに折り目が付いていて、長身を際立たせていた。
流星号は警戒している。ぼくはお辞儀をした。
「やあ。あれから、どうですか?」
「大丈夫です。…あの、ありがとうございました。」
高橋一尉はうなずいた。それから、流星号を指さして訊いた。
「この前来たときは気がつかなかったけど、なかなか賢そうな犬だね。名前は?」
「流星号です。」
高橋一尉の目が丸くなった。
「紗子が会ったのは君だったのか。」
「え?」
「飯本の街で、高橋紗子という女の子に会ったでしょう?」
ぼくは頷いた。
「ぼくの妹なんだよ。紗子が、流星号という変わった名前の犬に会ったと言ってたんだ。君の犬だったとはね。紗子は犬の飼い主の、やさしい男の子のことも話していたんだが、どうも秘密にしたいらしくて、詳しくは教えてくれなかったのさ。」
心臓がどきどきしてきた。黙っている自分が馬鹿のように思えた。ぼくが一人でイトーヨーカドーの前にいた理由に気付かれないよう、祈った。
「そうか。紗子に教えてやろう。きっと喜ぶよ。また会いたいって言ってたんだ。流星号にもね。今度遊びに連れて来てもいいかな?」
連れて来るということは、この高橋紗子の兄も一緒ということなのだろう。それがちょっと気詰まりだったが、ぼくは「はい。」と答えた。
「ありがとう。仲良くしてください。こちらではまだ友達もいないようでね。引っ越してきたばかりだから。」
ぼくが頷くと高橋一尉は笑顔を見せた。
「さて、僕は君のお祖母さんに会いに来たのだが、立原貴美子さんはいらっしゃるよね?」
ぼく達が家の方を見たとき、玄関が開き、バアちゃんが出てきた。バアちゃんは大股でぼく達の方へやって来た。眉間にシワをよせいている。白い長袖のシャツと紺色のチェックのスカートを履いていた。軍服の前に相対して立った姿は、デザインされたようだった。
「何のご用でしょう?」
「立原先生、もう一度お話させていただけませんでしょうか。」
「この前の件でしたら、何もお話をすることはありません。」
「私の言葉が足りなかったと思っています。」
「いいえ。あなたがおっしゃったことも、軍の考えもよく分かっているつもりです。」
「では、意識ポテンシャル誘導ユニットについてご協力ください。」
「もうお話ししたとおりです。」
「と言いますと?」
バアちゃんの目が更に険しくなった。
「あれは息子が研究していたもので、私には理解すらできないものなのです。どなたか、他の方をお探しください。」
「しかし、試作機があったのではないですか?」
「ありません。」
「龍太郎くんの手術は何のためだったのですか?」
バアちゃんの目が大きく見開かれ、一歩、高橋一尉の方へ近づいた。声が低くなっていた。
「あなた。この子に何を言ったの?」
「やはり、そうだったのですね。」
「何を根拠にそんなことを。いいえ。違います。この子は何の関係もありません。」
「そうなんですか。」
「言ったことが分らなかったのですか?」バアちゃんの体から怒りが炎となって見えそうだった。
「分かりました。龍太郎くんの手術は関係ないのですね。でも、立原先生、社会的責任について、もう少し良く考えられたほうがいいのではないですか。侵入を引き起こしたのは、立原道太郎氏であったのではないですか。侵入は大小様々な荒廃をもたらしている。我々は侵入に対して責任を取らねばならない。」
「夫が侵入を引き起こしたわけではないわ。」
「一片の責任もないと?」
「いいえ。夫は自分がやらねばならないことを常に知っていました。私も同じです。私たちは科学者として重い責任を負っています。」
「そうでしょう。私は立原家の方々を尊敬しています。」
「なんとおっしゃっても、試作機のようなものはありません。」
「どうかご協力を。」
「いいえ。私は研究所で働いて、出来る限りのことをしているつもりです。これ以上は求めないでください。お願いですから。」バアちゃんは、相手の目から視線を外し、ぼくの方を見た。もうバアちゃんは怒っていないようだった。高橋一慰の方は、視線をバアちゃんにぴたりと据えたままだった。
「立原さん、私は両親を大侵入で失いました。その上、私の妹は可愛がっていた犬と右手を失ったのです。私の悔しさがおわかりいただけるでしょうか。私はこの手で侵入を食い止めたいのです。侵入のない世界を実現することが私の願いです。」
バアちゃんは頷いていた。
「私だって夫と息子夫婦を亡くしたのです。」
ぼくにはバアちゃんの方になにかつっかえているものがあるように思えてならなかった。どうしてそんなに頑になっているのだろうと不思議だった。
「立原先生、それでは、私の研究を助けていただけないでしょうか?意識ポテンシャル誘導ユニットについては諦めます。しかし、次元変位レンズの改良は急がなければなりません。立原先生のお力が是非とも必要なのです。どうかお願いします。」高橋一慰が頭を深く下げた。
「今、私は、息子の研究よりも、夫のやり残した仕事のほうが気になっているのです。」
「侵入現象の解明ということですか。」
「そう。これは大変な仕事だけれど、放っておくわけにはいかない。侵入という現象の中には、私たちがまだ知らない何か、知識の地平線を遥か彼方まで押し広げるものがあるに違いないのです。夫はそれを感じていました。息子の修太郎もそう言ってました。でもこれは本当に難しい問題です。あと何年かかるか。十年?二十年?想像もつきません。私などがたどり着ける高みでもない。それははっきりしています。それでも、私はこれに取り組まなければいけないと感じています。私のできることをしなければならないのです。」
「では、助けていただく時間はないと?」
「いいえ、そうではありません。あなたのお手伝いはさせていただきます。どのくらい時間を割けるか分かりませんが、できる限りのことはします。でも、そう多くを期待していただくわけには…」
バアちゃんの話を聞きながら、ぼくは視界の端に注意を引かれた。一平さんの家の屋根の辺りで何かが動いたと思った。そちらの方へ顔を向けると、はじめ、尖塔の先が伸び上がってくるように見えたが、もっと幅の広い三角形のものが近づいてきているのだった。
おすわりの姿勢だった流星号が腰を上げた。ぼくと同じものを見ている。
三角形の物体は、近づいてきているどころか、一平さんの家のすぐ後ろに来ていた。
屋根の上にぽんと煙が立ち上がり、ばりばりばりという音がした。どんどん大きくなる三角形に屋根が押し潰されていった。
音に気づいて、バアちゃんと高橋一尉は話を止め、一平さんの家の方を見た。
「あれは、何?」バアちゃんが呆けたように言った。
ぼくははっと気がついて叫んだ。「一平さーん!」
流星号が猛烈に吠え出す。家が真っ二つに割かれながら、押し潰されていく。一平さんは、まだ家の中のはずだった。
すっかり家の形がなくなり、もうもうと埃を上げる瓦礫の山になるまで、あっと言う間だった。その上にのしかかって、三角形だった物体が現れた。しかしそれは三角形ではなく、四角錐を二つ底面でくっつけた形をしていた。上部の頂点が三角形に見えたのだ。下部の四角錐は、頂点を軸にゆっくりと回転していた。表面は金属のように滑らかで、薄い紫色をしている。太陽の光があたった側は白く輝いていた。
見る見るうちに、二階建ての家の倍ぐらいの大きさになった。張り出した胴の部分が、ぼく達の家につきそうになっている。
「侵入だ!逃げろ!」高橋一尉が怒鳴った。
気がつくとバアちゃんは既に家の中へ入ろうとしている。
「立原さん、だめだ、家の中から出て!」高橋一尉はバアちゃんの方へ怒鳴りながら走り出し、振り返ってぼくを見て大声で言った。
「龍太郎くん、逃げろ!僕の車の後ろに隠れろ!」
侵入してきた物体は、上下の四角錐の底面が合わさった部分から鋭い光線を斜め下へ向けて発射した。光線は胴に沿って一周しながら地面を叩く。突き刺さった光線は激しい衝撃を生み、土煙が高々と上がった。ぼく達の家も、光線に貫かれた。窓ガラスが外へ向けて砕けて飛ぶ。中で崩れたり割れたり擦る音がした。窓を通して、天井が部屋の中へ崩れ落ちるのが見えた。家全体が揺れたが、まだ外形をとどめていた。
「バアちゃん、バアちゃん。一平さん。助けて、誰か。」自分でも何を言っているのか分からない。体が動かなかった。流星号がぼくと物体の間に立ち、歯を剥き出して吠え続けていた。
「伏せろ、伏せろ、伏せろ。」振り返ると、高橋一尉が乗ってきた車の前に立ち、掌を下に向けて激しく振っている。一方の手には拳銃が握られていた。車に駆け戻って銃を取り出したのだ。ぼくは地面に伏せた。
続けざまに発砲する音が聞こえた。物体には何の変化も起きない。
また光線が発射され、庭を横切って入口の方へ走った。「あっ」と言う声が聞こえ、頭を捻って車のほうを見ると、バスッという音と共に紺色のものが破裂した。車のフロントガラスに血と体液の飛沫が叩きつけられた。高橋一尉の体は粉々の肉の破片になってしまった。もう一度、白熱した光線が空気を切り裂いた。轟音。車が爆発し、炎があがった。伏せている足に、火の粉が当たる感触があった。
車の爆発で耳の奥がじーんと鳴っている。流星号の吠え声が他人の家のテレビから聞こえてくるようだった。地面に伏せている自分を立って見下ろしていると思った。気がつくと「うわー、うわー」と叫んでいた。恐怖で吐きそうだった。
地響きに体が揺さぶられ、物体がこちらに向かって動き出した。
目の前が白くなった。強く爆ぜる音がした。土煙が収まると、流星号がいなくなっていた。心臓がぎゅっと縮まる。
「流星号?」
顔をあげると、四五歩離れたところに穴が空いていた。そこから白い煙が上がっている。視線を巡らすと、右手の方に流星号が倒れていた。外れた光線の衝撃で弾き飛ばされたのだ。
「流星号?流星号?」
ぼくは声を限りに呼びつづけた。尻尾が一度ぱたりと振られ、流星号が少し頭を上げてぼくの声を確かめようとした。死んではいないようだった。恐れを忘れ、ぼくは起き上がって、流星号のところへ駆け寄った。流星号の上に覆い被さった。ぼくの犬を守るために。
その時、銀色の光がぼく達の家から輝いた。
頭の中へ尖ったものがぐりぐりとねじ込まれる痛みがする。
頭を抱えながら、光の正体を見ようと、ぼくは目を開けた。
女の巨人が立っていた。
滑らかに流れる曲線の姿が、すくっと物体の方を向いていた。髪が肩まであり、小さい稲妻が集まってできたように、絶えずうねり、形を変え、火花を震わせている。白熱し、皮膚が金属に見えるが、横顔はバアちゃんのものだった。
バアちゃんが次元変位レンズを始動させたのだ。一度も見かけたことはないが、どこに隠してあったのだろう。
バアちゃんは、細かな稲妻の光跡を描きながら、物体へ向かっていった。手を伸ばし、物体に触れようとする。バアちゃんの手が近づいた物体の表面が、赤紫へ変色した。胴体から発射された光線が空間を一薙ぎし、バアちゃんの体に当たると、猛烈にスパークした。耳がおかしくなるほどの破裂音がした。バアちゃんは、弾き飛ばされて地面に倒れた。パワーが足りない。
バアちゃんは起き上がろうとしていた。その顔に土がついて、滑らかな頬を汚していた。
その汚れを見た瞬間、ぼくの体の中で怒りが沸騰した。その怒りの中心に向かって、体中の血が押し寄せてくるようだった。井戸の底へ向かって、叫んでいる気がした。
痛みが頭を二つに割りそうになった。
ぼくは、起き上がって物体を見ていた。
バアちゃんの見ているものをぼくも見ていた。
バアちゃんが力強い声をあげ、ぼくもそれに合わせて叫んだ。世界中の目に見えない力がぼく達に集まってくる感じがした。
物体が再び光線を発したが、ぼく達は両手の掌を前に出し、その光線を受け止めた。硬く大きな力が掌に当たる。でも、それに応えて体の奥から力がどんどん湧いてくる。ぼく達は光線を振り払い、物体に一気に近づき、その胴体を抑えた。
一瞬、二つの世界を見た。ぼく達の世界と侵入してくるものたちの世界。それらは虚空に浮かんだ雫のように見えた。その周りには、さらに他の雫が浮かんでいた。幾つも、幾つも。合わせ鏡に映った像に似て、目の届く限り果てし無く、どこまでも続いていた。雫の表面で虹色が循環しながら渡って行った。

 頬をくすぐる生暖かい感触で目が覚めた。流星号が僕の顔を舐めていた。
僕は地面の上に仰向けに寝ていた。懐かしいバアちゃんの顔が覗き込んで言った。
「気がついたわね。」
「バアちゃん。」普通に声が出せるので、少し驚いた。
「終わったみたいよ。」ぼくは頷いた。バアちゃんに助けられて起き上がった。一平さんの家の残骸があるだけで、侵入してきたものは無くなっていた。頭を巡らすと、自動車だった黒い燃えかすが箱型に盛り上がっていた。
「一平さんも高橋さんも…。」
バアちゃんは僕の頭を抱いて、胸に押し付けた。胸の中をひりひりする息が通り抜ける。
「流星号は?」
ぼくは、流星号の頭をなぜて様子を見た。
「大丈夫みたいよ。怪我もしていない。」
「バアちゃんは?」
「大丈夫よ。」
ぼくはひとつ息を呑んでから、聞いた。
「バアちゃん、ぼくはやっぱり埋め込まれたんでしょう?」
「いいえ。」バアちゃんは花が開くように笑った。「手術されたのは私なの。あなたのは本当に怪我のためよ。私の頭の中には意識ポテンシャル誘導ユニットが埋めこまれている。」
「でも、さっき、あれが起きたじゃない?バアちゃんが見ているものをぼくも見た。」
「そうね。私たちの意識が繋がったわね。あれこそが私の頭の中にある装置の力よ。あなたのお父さんはあの現象を見つけ、それを引き起こせる装置を作った。それでお祖父さんが作った次元変位レンズの弱点を克服できると考えた。なぜなら、意識体験のリンクは空間の制約を飛び越えるはずだから。それに、意識の次元を変位させると高いエネルギーも引き出せることが分かったわ。でも、誰かがそれを頭の中に埋め込んでテストする必要があったの。それでお祖父ちゃんとあなたのお父さんと私とで話し合って、私がその実験をすることになったのよ。」
「実験は成功したの?」
「半分成功して、半分は駄目だった。装置は期待されたとおりに働いたんだけど、意識の次元を同調させ、リンクを確立するには、相性があるようなの。装置をつけた側とリンクされる側の、ね。誰と誰との相性がいいのか、その場にならないと分からなくて、それが問題だった。修太郎はその問題を解決できないままに終わったわ。」
「相性が合わないとどうなるの?」
「相手の神経を傷つけるようなの。だから現実的には使えなかった。」
「ぼくとバアちゃんは相性が合ったということ?」
「そうね。よかったわ。」バアちゃんがにっこりした。
「でも、バアちゃん、そんな大事なことをなんで教えてくれなかったの?一平さんは知ってたの?」
「一平さんも私も、あなたに心配させたくなかったの。黙っててごめんなさい。と言うより、あの時開発に携わった私たち以外は知らないことだった。軍が知れば、事を急いで実地で使おうとするだろうから、私たちは誰にも教えないことにしたのよ。愚かな事をもう一度やる必要は無いと思ったのね。」
「それから、次元変位レンズは簡単には使えないでしょう?バアちゃんが使えるなんて知らなかったよ。」
「だってあなたにお転婆だって思われたくなかったんですもの。」ぼく達は笑った。笑うと、恐怖で凝り固まっていた栓が抜けて、体の力が流れでてしまいそうになった。ぼくはバアちゃんの手を握った。流星号がぼく達を見上げていた。
「一平さんのお葬式をあげなければ。」
ぼくは頷いた。
「それと、お兄さんを亡くした女の子に会いに行こうと思うの。私たちと一緒に暮らさないか、誘ってみようと思うのよ。どう?」
バアちゃんの手を強く握った。ぼくはバアちゃんが大好きだ。
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