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とび色の髪 [小さな話]

 世界が塗り替えられたのだと思った。一撃で、奇跡の技によって。
瞬くと、元の世界に戻っていた。あの、背の高い女の子の、珍しい髪の色に不意をつかれたのだ。あれは、何と呼ぶのだろう。
それにしても、その子のあたりだけ、陽の光が生き返っているような気がした。夏休みの間、うんざりするほど積もった蝉の声の灰から、七月の、梅雨を打ち負かしたばかりの太陽が甦ったようだった。
女の子の側には、中年の男の人が立っていて、その人と母が話していた。三人は、マンションの駐車場の角に立っていた。男の人の視線が僕の方に少し逸れると、母がそれに気付いてこちらを向いた。かすかに躊躇いの色を見せてから、僕を手招きする。自転車を押して近付いていく間、女の子がこちらを見ないでいてくれたので、少し気が楽だった。
「息子の達郎です。」
「こんにちは。」
「堤です。初めまして。」僕に向かって軽く頭を下げた人は、僕と同じくらいの背丈で、女の子よりは十センチ程低い。オールバックに撫でつけた長めの髪、ノーネクタイの開襟シャツ。ベージュのチノパンにブラウンのデッキシューズ。ここいら辺では見掛けないタイプの大人だ。ひょいひょいとゴルフへでも行きそうだが、日焼けはしていない。広告写真から切り抜いたようなおかしさがある。それでいて、僕に据えられた視線が真っ直ぐに問い掛けてきて、ぐいと引き込まれる。今にも泣きだすんじゃないかと心配したくなる。なんだか、こちらが恥かしくなるくらい、どこか違う人だ。
「お嬢さんと同級生になりますね。」
母の言葉遣いが聞き慣れなかったので、思わずその横顔を見てしまった。堤と名乗った人は、ハッとしてから苦笑し、女の子を紹介した。
「娘のリーサです。9月から笹原高校の2年生です。リーサ、こちら本城達郎君。」
リーサと呼ばれた女の子が、僕に向かって少しだけ微笑んだが、僕の方はちらりと視線を走らせるのが精一杯だった。それでも、僕は見た。高々となりつつある太陽の眩しさに、女の子はわずかに眉根を寄せ、その下の瞳が深い影に沈んでいた。それから、鈴の音が曲線となったきれいな頬があった。その頬も、ほっそりとした首も、白い。ただの白さではない。僕には、生きている蝋燭の色に見えた。
女の子は、シンプルな綿のシャツと淡い水色のロングスカートを着ていた。百八十センチ近くある背丈のせいか、スカートのウエストの位置があんなに高いと感じた。
そしてあの髪が、緩やかなカーブを描いて顏を囲み、燃えるように、肩から鎖骨の少し下のあたりまで流れていた。
「同じクラスになれるといいわね。」母が女の子に向って話しかけたが、女の子の方は微笑んだままで、男の人へ視線を投げた。
「初めは日本語の特別授業になるそうです。」
「それは、大変ねぇ。」
「本城君、仲良くしてやってください。こちらでは、まだ友達がいないから。」

 八階の外廊下から駐車場を見下ろすと、母が御辞儀をして二人と別れるところだった。五分もすれば、帰ってくるだろう。そして、あの二人について、分ったことをおさらいし、何かしら補足して、自分の意見を述べるのだろう。
 振り返ると足元に、河東さん家(ち)の亘が立っていた。じっと僕を見上げている。亘は五歳の男の子で、ここのところ僕達は、僕達なりの「近所付き合い」をしていた。
「誰と話してた?」タメ口を通り越した詰問口調に思わず笑ってしまう。
「見てたのかよ。堤さんていう人だよ。多分、ほら、あの端の空いてた処に越してきたんじゃないか。」
「なるほどね。外人も来るのか。」そう言われればそうに違いないのだけれど、それが五歳の男の子の口から出たので驚いてしまった。さらに、自分があの女の子を「外人」だと考えていなかったこともおかしなことだった。
「外人なんて、知ってるんだ。」
「あの、(ここで亘は声を潜めた)小峰の処に来てたから。」
「へえ、本当?!」
小峰賢一は、河東亘にとって恐怖の人だった。亘は、小峰賢一がいずれ最悪の怪物に変身し、世界を食い尽すと信じていた。その恐怖と不安は亘を虜にし、やがて訪れる災厄の日の兆候を逃さないために、小峰賢一の動きを見張っておかなければならない、と亘は思いこむようになった。そこで、親の管理下にある五歳児の生活の間隙を巧妙に生かして、亘は小峰賢一の監視をするようになった。
しかし、彼の空想世界の外側では、小峰さんはB棟の八階に住む、三十歳そこそこの独身のオヤジにすぎない。外資系のソフトウェア会社に勤めている、かなりできるプログラマーで、収入も相当なものらしい。そのため、マンションを買うのになんら不自由もなく、そういう人に限って、家族を作る前に容れ物の方を早々と準備してしまったりする。未だ可能性の領域にある自分の家族を現実のものとするための努力はしているらしいが、それでも、子供のいる家族が殆どのマンションの中では異質な存在に見えてしまう。その異質さが亘のような子の想像力を刺激してしまったのだ。
小峰さんは、穏かな感じの人で、マンションの大人達の評判も悪くはない。社交的という形容はあてはまらないだろうが、僕のようなクソガキにでもきっちり挨拶してくれる。顏を見かける機会が少ないのは、平日は夜遅くまで勤めに出ていて、土日はあまり外出しないからだ。
その小峰さんの処に人が来ていて、しかも日本人じゃないというのは、かなりなニュースだった。
「どんな人だった?女?」
「女の人だよ。金色の長〜い髪だった。」
「おお。金髪か。彼女かな。」
「英会話を習っているんだ。」
「誰に聞いた?」
「小峰。」僕は亘の顏を見たまま絶句した。恐怖の的に近づいて、どうやって情報を引き出したのだ?
「亘が小峰さんに聞いたの?」
「ううん。ママに聞いてもらった。」なるほど、五歳児の人脈をフルに活用したわけだ。僕はなんだかほっとした。それにしても、子供にせがまれて他人のプライバシーを詮索する母親って、何を考えているんだろう。
「小峰と話しするわけないだろ。」亘の唇がほんの少し尖った。わかりきった、間抜けなことを聞くな、という表情だ。上目遣いの角度が一度深さを増して、亘の考えていることが分る。僕の間抜けさの度合いを測って、大人の成分がどれほど増えたかを見極めようというのだろう。彼に言わせれば、間抜けな会話をし、間抜けなことしかできないのが大人であることなのだ。大人が間抜けなのは、鈍くて、訳が分ってないから。子供のころに見えていたものが見えなくなり、感じていたものを感じなくなるからだ。高校生の僕は、大人の成分が増えつつある子供で、どっちつかずの憐れむべき存在として亘の観察の対象となっている。恐らく亘は、僕が大人になりきったら、付き合い方を変えようと思っている。
五歳児の考えに正面切って反論するつもりはないが、大人に分らないものが子供に分るという考え方はどうかと思う。それは大方、テレビのヒーロー戦隊もの(今でもやってるのか?)や、しょぼいアニメで垂れ流されるお決まりのパターンというやつで、亘もそれらを見てその考えを吹き込まれたのだろう。阿呆な物語を作る連中が、子供の方が見えないものを見ることができる式の考え方を信じているわけではない、と僕は思う。連中はおもねっているのだ。覩る側に。つまりガキンチョに。
体が小さいだけで大人と少しも違わない子供なんてざらにいる。鈍いか鈍くないか、見えるか見えないかというのは、大人と子供の違いに関係ないのだ、多分。実際、この僕だって、子供の頃から何かが見えたことなど一度もなかった。何かを、他人に感じられないような何かを感じたことなど、全然ない。平々凡々な子供だった。そのまま十七歳になって、目立たない、なんだか平坦な、認めたくないが、僕の父親と同じサラリーマンみたいな高校生になっている。
つまるところ、亘の観察は正しい。僕は間抜けさを増やしつつ、大人へ移行している中途半端な存在だ。やがて、五歳のガキにも見捨てられるのかも知れない。
「じゃあな、亘。」
「勉強しろよ、達郎。」一瞬、生意気なガキの頭をはたいてやろうか、と思った。

「奥さんの連れ子なんだって。リーサちゃん。」
「へえ。」僕が去った後の短い時間で(ちゃん)付けするほど親しくなったのか?僕は、ゲームをポーズにして母の話しの続きを待った。母は、コーラを入れたコップを手にソファに腰をおろした。
「背が大きいわよねぇ。着るものとか大変そうね。あんた、もうちょっとテレビから離れなさい。目が悪くなるって。」
僕は立ち上がって、自分の分のコーラを入れにキッチンへ向った。
「向うから声を掛けてきたのよ。同じ階に越してきましたからよろしくお願いします、って。堤さんはアメリカの大学で長い間教えてたんですって。今度、日本で仕事をすることになったから、ここのマンションを買ったらしいの。ここはそんなに高い方じゃないはずだけど、お金ないのかしらね。」
食卓の椅子に座ってリビングの方を見ると、テレビの画面でゾンビ達が凍りついている。その手前に母の後頭部があって、ゾンビが母に襲いかかっているようだ。母はソファに転がっている団扇を取り上げて、自分の顏の前であおぎだした。母との間に置く距離を調節するのは、息子にとって、ヘリコプターでホバリングするようなものなのかなと思う。ヘリコプターを運転したことはないが、そんな風な、それなりのテクニックを要する操縦に似ている気がするのだ。
「奥さんとアメリカで知り合って、奥さんが再婚で、リーサちゃんが連れ子だったんだって。でも、奥さんね、うつ病なんですって。アメリカの病院に入院したまま、堤さんとリーサちゃんだけこっちに来たそうよ。」
うつ病というのがどんな病気なのか、イメージが湧かなかった。母親を病院に置いて、自分だけはるばる日本へ来る女の子が何を考えているのかも、想像できない。
「うつ病って、どんなになるのかな?」
「九階の佐藤さんとこの旦那さん、うつ病だったわ。何もできなくなって、一日中寝てたと聞いたわよ。ただ寝てるだけ。薬飲んで治したそうだけど、大変だったらしい。最近、増えてるそうね。」
生ける屍が、病院のベッドで天井を凝視したまま、青灰色の頬骨を浮き上がらせて横たわっている場景を想像してしまう。その髪の毛は、あの女の子と同じ色なのだろうか。
「どうしてうつ病になるんだろう。」
「さーぁ…、佐藤さんの旦那さんは、仕事のストレスが原因だと聞いたけど。最初、眠れなくなったりするらしいわよ。うつ病で自殺する人も多いんでしょ。」
うつ病で一人病院に残された母親のイメージが、陽光を隠す鈍色の雲となって、あの女の子の輝きを色褪せさせる。
「いろいろあるわよねぇ。あんたさあ、リーサちゃんに親切にしなきゃだめよ。あ、ほら。英会話を習ったら。あんた、英語できないんだから、丁度いいわよ。そうしなさい。ウチに来てもらって、ここでやればいいじゃない。達郎は日本語教えてあげて、授業料はチャラね。いいわよ、これは。ついでにあたしも教えてもらおうかしら。」
十七歳かそこいらの女の子が正しく英会話を教えられるのだろうか。僕は返事を失った。最近、よくこうなるのだ。僕の母親である女性に届く言葉が、僕の中には失くなっているような気がしてしまう。彼女はお喋りを続け、僕は黙って、コーラに唇を近づける。炭酸の、本当に小さな泡が背伸びして飛び上がり、僕の唇の上の辺りにつく。髭が伸びているかなあ、とぼんやり考えた。
「これ、なんて言うゲーム?気持ち悪いわね。うえ〜。」

 夏休みは、二週間もかけてようやく終った。でも、暑さは去らない。あらゆる物に熱気が篭り、重たさが増す。九月の新学期は惨敗気分だ。
ただ、そんな中にも、ちょっと甘い滴がぽつりと浮かんでいた。
それは、あの女の子のことだった。二週間の間、マンションの中では一度も見掛けていない。学校であの女の子を見たらどんな風な感じがするのか。僕は漠然と楽しみにしていた。
 全校朝礼では彼女は現れなかった。授業が始まるまでの間、一組から隣の五組まで、廊下から教室を覗いてみたが、彼女の姿は見当らない。
一時間目の休み時間、僕が見つけるよりも先に、翔一が情報を握って飛んできた。
「見たか。五組に外人が来てるって。」
「ふん。」
「見に行こう。」
「やめとけよ。」
「お、興味無いっすか?それとも、洋モノサイトを見すぎたとか?」
「ありえん。」
「おれ、行ってこよう。」
翔一は他の二、三人に合流すると、五組の方へ向かった。女子達が座ったまま首を伸ばし、そちらの方を見て、「何、何?」と言っている。翔一達は、五組の後ろの戸口に集まっているのだろう。女子が二人、連れだってそこへ加わる。まるで動物園の珍獣見学だ。僕は落ち着かなかった。が、好奇心で猿のようになった奴らに混じるのは嫌だった。リーサは、どんな顏をして座っているのだろうか。そこへ翔一が戻ってきた。へらへらしている。
「おい、外人のギャルだ。本物のギャルだな。」
「意味、分かんないよ。」
同じく戻ってきた女子が、「カワイイよね。お人形さんみたい。」と言っているのが聞こえる。
「達郎も見てこいよ。あれは赤毛だな。背、でかいぞ。大味、大味。ほら、見てきてみ。」
「いいよ。」
「ま、今どき、珍しくもないよな。俺、ベッドで英会話を習っちゃおうかな。ジンガイ、激しいぜ、きっと。Fuck、Fuck me 達郎!」
「うるせぇよ。」翔一の下ネタが妙に神経を逆撫でした。突っかかりたくなるのを抑えて、僕は視線を逸らし、翔一との会話をそれとなく打ち切った。
 その後は一日中、五組の辺りがざわついていた。入れ替わり立ち替わり、他のクラスの連中がやって来た。遠慮を知らない好奇心が大小に泡立った。その周りに退屈が、群れて馬鹿騒ぎするきっかけに飢えた退屈が押し寄せた。いつものことだ。好奇心をみんなと共有し、興奮をかきためるために興奮の中へ浸るのは、それなりに楽しいことだし、いつもなら僕もそこへ顏を出したかも知れない。でも僕は、皆に混じってリーサを見に行けなかった。常に廊下の方、五組の方を気にして、教室を移動する時など機会さえあれば、リーサの姿を探してはいたのだけれど、正面切ってリーサを見に行くことはできなかった。そして放課後、校門へとゆるゆる移動する生徒の固まりのひとつの中に、ぽんと飛び出たリーサの姿を見つけた時は、心臓が口から転げ出そうになって、教室へ戻りたくなってしまった。
「おら、外人、帰ってるぜ。」
僕が教室へ戻らなかったのは、横を歩いている翔一の手前だった。
「ほほ。早速、目立ちたがり屋がくっついてる。」
カバンを振って翔一が指した先には、リーサの横を歩く茂木由美子の姿があった。
「あいつ、違うクラスだろう。それに、英会話なんてできないんじゃなかったっけ?」翔一があきれた声で言った。
僕と翔一は一年生の時、茂木由美子と同じクラスだった。茂木の目は、ぱっちりとしていながら、猫毛の感触を漂わせていて、ちょっと可愛い顏をしている。本人もそれを充分意識している。男子と話す時は、必ず上目遣いで、顎を引いている。茂木は、他人の目に映る自分の姿を確認するためだけに、人の注目を集めようと躍起になる、空っぽ頭の女の子なのだ。
「小判鮫の戦略か。へへ。大した女だぜ。」
翔一の意見に同意した。皆の注目を集めているリーサの側にいて、その視線のおこぼれを自分の方へ向けようという計算なのだろう。
茂木由美子の姿を見ている内に、僕は、自分がリーサを堂々と見に行けなかった理由を理解した。多分、僕の心の中にリーサの部屋ができてしまったのだ。そこには、「病気の母と離れて、継父と外国で暮らすことになった女の子」という、今のところ僕だけが知っている事柄が横たえられている。それで僕は、リーサとの間に、軽々しくあしらえない連絡ができたような気になっている。そして、薄っぺらな好奇心に混じってリーサに会いに行くと、その部屋も、リーサと僕の間の連絡も、ぶち壊してしまうと思っている。これが、皆の前でリーサに会いに行けずにいた理由だ。
なんという言い訳。なんという妄想。まわりくどくて、蜂蜜状の自意識があふれそうだ。ただ恥かしいだけじゃないのか。でも、なんで恥かしいんだ?僕は混乱した。

 心の中にできたリーサの部屋は、静かな熱を発していた。土日を挟んで一週間を過ぎ、健忘症の好奇心があっという間に散り消え、底無しの退屈が他の獲物を求めて去っても、僕の気分は熱せられ、ふつふつと蒸発していた。
マンションの内外でリーサに遭遇することはなかったが、学校ではちょくちょく見かけるようになった。同じクラスの女子が、必ず一人か二人、側にいた。彼女達は、小さい子を世話するように、リーサを見上げて話しかけた。するとリーサは、小さい子が言うことに耳を傾けるように、笑顔を作った横顔を見せた。そういう時、話しかけた女子の顏に、一瞬戸惑いが浮ぶのが分った。それから、視線が下におりて、リーサが案外しっかりしたスニーカーを履いているのに気がつく。同級生の靴に注意を払ったことなどないのに。
言葉の壁に追い払われると、気安くリーサに近付く男子はいなくなったようだった。男というのは、基本的に怠け者なのだろう。
例外は、ESSの原と美術部の中尾だ。
原武史とは一年生の時に同じクラスだった。僕にとっても翔一にとっても、うまの合うタイプではなかったが、翔一は原が使っているムースを異様に気にして、よく原に接近していた。原と会った後は、必ず僕のところへやって来て、一言二言、原を講評した。
「あいつ、母ちゃんに制服のボタンをとめてもらってんのかね。」
原の方は、使っているムースを教えようとはしなかった。
「原みたいな髪型にしたいのかよ。」
「違うけどさ。原のやつ、なんで秘密にするんだ。」
「どうせ、コンビニとかで売ってる物だろう。」
「だと思うんだ。しかし、原の口から聞きたい。」
なかなか口を割らない原に苛立つと、翔一は原が所属しているESSの悪口を言いだした。
「なあ、ESSって何の略だか知ってる?」
「English Speaking Society。」
「バーカ。Eros & Sex Society だよ。原様のハーレムってわけよ。」
僕と翔一の会話の九割がたはアホで下らない。でも、原の英会話なんか、砂浜で婆さんがトロッコを押して行く位のものだろう。それは、リーサと原が話している様子で証明された。
原は、ESSに所属している以上、自分にはその権利があるという顏つきで、教室から出てきたリーサを呼び止め、サラサラの前髪を自信たっぷりに掻きあげて話しかけた。リーサは、にっこりして原の方を向いた。離れて二人の様子を見ていた僕のところへ会話の内容までは届かなかったが、リーサの笑顔が張りついたままになったのは分った。原の身振り手振りが次第に大きくなる一方、リーサの目の表情が変っていった。相手の意図がつかめない宙ぶらりんの表情から、可笑しくてしかたないという表情へ、火星への道順を尋かれてるようだけど、一体この傑作な事態はどういうわけなの、といった表情へ、リーサの目は生き生きと動いた。最初会った時は影に隠れて分らなかったリーサの目は、実はいつも明かるく、鮮やかに、感情の動きを語った。必死で話す原を見ているリーサの目が語っていたのは、英語が通じているかどうかより手前の、原の会話のトンチンカンさ加減だった。
リーサに近付いたもう一人、美術部の中尾については、原と同じようには語れない。と言うより、僕も翔一も中尾については、ぐうの音もでないのが本当のところだ。
中尾朋宏は特別なのだ。
中尾には、三つ違いの兄がいる。僕達の高校の卒業生で、大学で工業デザインを学んでいると言う。在校していた時には、中尾と同じ美術部に所属し、部長を務めていた。美術室に入ると、中尾の兄が描いたという大きな絵が壁に掛っている。それは抽象画だ。夜の底で沈んで光っている感じの銅色の背景に、アルファベットのSがゆったりと引き伸ばされたような曲線が画面を縦に流れている。曲線は、一見黒に見えるが、目を凝らすと、その表面が玉虫色に輝いている。僕には、その絵のどこがいいのか、さっぱり理解できなかった。けれども、その絵を見ていると、自分の知らない世界がそこにあると分った。その世界の、豊かな風が、さっと頬をひと撫でするような気がした。
その絵の隣には、同じ大きさの、中尾朋宏の絵が掛けてある。兄弟で美術室の壁を飾っているわけだ。中尾の絵には、椅子に腰かけた女生徒が描かれている。モデルは、去年卒業した美術部の先輩で、一年生の僕達でも知っていた美人だ。絶対汗をかかない、と伝説的に噂されていたその人は、切れ長の目を伏せがちに、揃えた膝をやや右の方へ傾げ、反対方向へ少しだけ上半身を捻っている。僕達よりずっと年上のようにも、まだ幼ないようにも見える。透き通りそうな首筋が寡黙な幼なさを感じさせ、ゆるやかに右腿に置かれた左手は、同年代の女の子が知る以上の事を語ることができそうだった。中尾のその絵の前に釘付けになっている生徒を何人も見ている。僕もそのうちの一人だ。中尾はそういう絵を描ける男だった。
当然のように僕達は、絵のモデルと中尾の関係を想像した。一番真しやかに言われたのは、モデルの女性が中尾の兄とも関係があった、というものだった。
中性的な印象の兄に対して、中尾は長身のスポーツマンタイプだ。実際、球技は、球が小さくなければどれも上手かった。やや撫で肩で、髪をごく短かく刈り込んでいる。翔一は陰で、米軍の海兵隊のようだ、と言っていた。よく笑い、周りを笑わせるのも得意で、美術の教師を友人のように笑わせていた。
中尾の周りにはある色のグループができていて、そこに参加するためには、試験に合格する必要がありそうに思えた。もちろんそれは、僕の思い込みにすぎない。事実、翔一は美術室に入り浸り、中尾たちのグループにも顏を出していた。
「本城も来ればいいのに。中尾ったって大したことないぜ。」
「興味ないね。」
強がりだ。興味がないのではなく、自分が中尾たちのグループへの入会試験に合格するとは思えなかったのだ。僕は、遠くから中尾と中尾を取り巻く面々を眺め、彼等がどっと笑い崩れるのを見ていた。そこには、キラキラと乱反射するものがあって、失われている僕の居場所もあるような気がするのだったが、同時に、僕がそこに加わろうとすればグループの全員から絶対、拒絶されると思っていた。
中尾がリーサに声を掛けても、誰も変だとは思わなかった。リーサには、始めから入会資格があるようなものなのだから。
美術室で中尾達とリーサが何を話したかは、またもや翔一が教えてくれた。
「中尾って、英語も話せんのな。驚き。あの子が言った事を中尾が日本語で言ってくれてさ、通訳だよ。」
「どんな女の子なの?」
「分っかんね。ニューヨーク州から来たんだって。父親が日本人で、再婚。あの子は連れ子になるのか。でも、母親は病気で、アメリカの病院に入院したままなんだと。」
「置いてけぼりか。」
「姉が面倒見てるって言ってた。」
「そんな事まで話せたのか。」
「中尾ちゃんたら、ペラペラよ。学校の授業は、全部出席してるわけじゃないらしい。特別に日本語を習ってて、英語の授業に出席して、あと、空いている時間は図書室で勉強してるんだと。」
「暇だな。」
「中尾がさ、絵のモデルになってくれって頼んだんだよ。そしたら、あっさり断わってさ。あの中尾の頼みをだよ。中尾先生、豆鉄砲でも喰らったみたいな顔してさ、へへへ。」
僕は翔一の頭を撫でてやりたくなった。一方では、リーサの家庭の事情がリーサ自身の口から漏らされたと知って、目をしばたかせる程の脱力感に襲われた。
中尾がリーサをしょっちゅう美術室へ呼びつけていても、気持ちの波が騒がしくなることはなかったが、原が英会話の実地訓練を何度も試みているのを見ると、苛立ちと焦りを感じた。僕は、やはりリーサと話しがしたくなった。

 その日、二時間目の数学が突然自習になったので、僕は教室を抜けだして図書室へ行った。翔一には、読みたい本がある、と言っておいた。
図書室の奥側、部屋の3分の1を占めて、肩をそろえた書架が並び、手前のスペースに丸いテーブルが五つ置いてある。その、壁際のテーブルに、窓の方を向き、横顔を見せてリーサは座っていた。
僕に気付くと、リーサの顏がぱっと明かるくなった。リーサは、僕のことを覚えていたらしい。そんなことは、夢にも思わなかった。僕は虚を突かれ、頭の中から言葉が追いだされた。視界がリーサの顏でいっぱいになり、近付いているのか、間抜けに棒立ちしているのか、分らなくなった。でも、僕は笑えたのだろう。リーサの顏が少し綻んだ。
「やあ、こんにちは。」
「コンニチハ。」
椅子を指差して、座っていいかときくと、リーサがうなずいた。
図書室は明かるく、テーブルの裏側にまで光が届いている気がした。その明かるさの中で僕を注視するリーサの瞳は、きれいに澄んだ灰色で、緊張の影を僅かにとどめながら、次に起こることを待っていた。
リーサの前に広げてあるノートが目に入った。
「何をしてたの?」
リーサは、僕がノートの事を言っていると理解して、「ああ」という顏をすると、「Japanese」と答えた。日本語を勉強しているのだ。
「ハジメマシテ、コンニチハ、サヨウナラ。」大きな目がくるくると動いて、おどけてみせた。
「挨拶か。はじめまして、本城達郎です。」
「ツツミリーサ、デス。ホ・ン・ジョー・タ・ツ・ロ?」
「そう、本城達郎。」
その時気づいたが、リーサは美しい声の持ち主だった。桜色の淡い花となった雲雀だ。
「We met、オトーサン、ト、ネ?」どうやら、この前、マンションの駐車場の所で挨拶したことを言っているらしかった。やはり、リーサは覚えていたのだ。あの時目を奪われた髪を、今はしげしげと見ることができた。とび色と呼ぶのだろうか。茶褐色の中で金色の粒子が息づいている。それが卵形の顏を、ゆったりと囲んでいた。翔一は「赤毛」と言ったが、とても赤には見えない。
その髪の色や、くっきりとした目鼻立ち、大柄な体付きで、自分よりずっと年が上の感じがした。それに、ノートの側に置かれたペンケースがヨレヨレで、もう何年も使い込んでおり、しかもそれを気にしていない様子で、そのこともリーサを大人びて思わせるのだった。
僕達は、身振り手振りに英単語を混ぜ合わせ、辞書を指差しながら会話した。
(お姉さんがいるの?)
(一人。)
(お姉さんも日本に来ているの?)
(お姉さんはアメリカに残っている。兄弟は?)
(いない。ここに一人で、寂しくない?)
(大丈夫。)
話した事といったら、こんな風な他愛のないことばかりだった。それでも、相手に通じることだけが楽しかった。リーサの言葉を理解しようと、僕は彼女の顏を見守った。それから僕の番になると、リーサが僕をじっと見てくれた。
音楽の話題は、意外に通じない。特に新しめのやつになると、リーサはきょとんとした。本は全然駄目だ。リーサは本をよく読むようだが、僕がからきしなのだ。ハリウッド映画やテレビドラマのシリーズでは盛り上がった。でも、英語のタイトルが分らないことがあって、痒いところに手が届かない気持ちになった。ゲームは、持っているゲーム機の名前は通じるのだが、ゲームソフトのタイトルはさっぱりだ。
少しでも込み入った話題になると、力を合せてパズルを解いているような格好になった。相手が言葉を発したり、ノートに絵を書きつけたり、身振りをするのを辛抱強く待ち、それに応えて、今度は自分が精一杯に何かを伝えようと工夫していると、心の片隅で、二羽の鳥が鳴き交わしている姿が浮んだ。
リーサの瞳は、生き生きと輝いた。僕は、僕の目の前に同い年の女の子が座っているのを、体の奥深くのどこかで、いや、僕の全体で感じた。リーサの髪が、その感情の波を映し、触れることのできる炎となった。笑った拍子に、髪の一部が唇にかかった。リーサは、白い指先でその髪を無造作に撥ねて除けた。あとには、唇が笑みの形に残り、その色の柔らかさに僕の心臓が一度跳び上がった。

 学校から帰り着くと、積乱雲の底が溶けて、マンションの上に広がっていた。折り重なって襞となった部分は、うっすらと青紫を帯び、もう日が傾いたことを徴している。その一部分が破れて、雲塊がのぞいていた。それは、爆発的に盛り重なって、遥か高くで夕日を横向きに浴びていた。オレンジに色に輝く、凱歌の建築。僕の内で、何の響きか、どこまでも駈け上がるものがあった。
 エレベーターホールに入ると、河東亘が待っていた。
「やあ。」
亘がいつもより小さい。挨拶に返事もせずに、視線を滑らせたまま一直線に近付いてきた。制服のズボンをぎゅっとつかむと、見上げて言った。
「小峰のところに来た外人が殺された。」
「え?」
「昨日、小峰のところに、また外人のお姉さんが来たんだ。今度は、黒い髪の毛で。ぼくは見たぞ。」
「ええ?何を言ってるんだよ?」
「だから、昨日、小峰のところに、外人の女の人が来たんだ。」
「それで?」
「その人が、ずっと出てこない。きっと殺されたんだよ。」
ようやく少しだけ亘の言うことが呑み込めてきた。
「その人はいつ小峰さんの家に来たんだ?」
「昨日の夕方だよ。」
「今日になっても出てこないって?」
亘が頷く。
「殺されたってのは?どうして分ったの?」
「小峰に殺されたんだ、きっと。」
「亘がそう思ったのか。」再び頷いた亘の、僕にひたと据えられた眼差しに、思わず微笑みが漏れてしまった。子供に見えないこともあるのだ。
「殺されたなんて物騒なことを言っちゃだめだよ。死体を見たわけじゃないだろう?その女の人、小峰さんの彼女かも知れないじゃん。昨日の晩、小峰さんの所に泊まったのかもよ。」
「でも、出てこないよ。」亘の頬がふくらむ。僕が肯定しないのが不満そうだった。僕は、こんな弟がいたら可愛いだろうな、と思った。
「朝早く出ていったのかもね。亘が寝ている間に、さ。」
亘が首をゆっくり振った。
「ちがうね。昨日の夜、小峰のドアの前で、変な声を聞いたんだ。苦しそうな声だった。」
「おいおい、そんなことしてるのかよぉ。」夜中、家を抜けだして、他所の家のドアの前で聞き耳をたてる五歳児とは。しかし、亘にとっては決死の覚悟だったのかもしれない。僕は、亘の頭に手を置いて、しゃがみ、目をのぞきこんだ。
「やり過ぎだぞ。女の人、お腹が痛くなったのかもよ。それで、今日も小峰さんの所にいるのかも知れないぜ。きっとそうだよ。小峰さんが人を殺すわけないじゃないか。」
「そうかな。」
亘の顏つきがようやく柔らいだ。亘自身、不安になっていたのだろう。僕は、自分が亘の気分を変えられたことに満足した。それから、小峰さんの外人の彼女の"変な声"という言葉に、頬が熱くなる気がした。

 十月に入る頃、僕とリーサは、一緒に帰るようになっていた。時々は、翔一も加わった。聞かれもしないのに「同じマンションだからさ。」と言う僕に、翔一は「へへ。」と笑っていた。翔一は、マンションの住人ではなく、一戸建ての家に住んでいる。
三人でいると、翔一は直接リーサに話し掛けないで、僕を通訳代りにした。僕とリーサが話す時、翔一が隣でじっと見ているのを僕は感じていた。そして、二人だけになると、翔一はこう言った。
「お前、リーサといると本当に楽しそうな。よくあんなに面倒臭いやりとりができるよ。」翔一の目が笑っていた。「よかったな。でも、あいつは俺のタイプじゃない。」
 翔一の言うとおり、僕はリーサと一緒にいることが楽しかった。
待合せて学校を出ると、ひと気の少ない道を選び、二人並んで歩きながらいつまでも喋った。マンションの八階のエレベーターホールで左右に別れるまで話しは尽きなかった。一人になって思い返すと、それまで日本語と英語のどちらを使ったのか、区別がつかなくなっているのが不思議だった。でも、確かに僕達は会話を続けた。
話題が途切れても、沈黙は訪れなかった。口を閉じると、隣にリーサが歩いていて、僕達がごくごく自然に相手の歩調に合わせていることを感じた。急ぐことも、のろのろすることもなく、体のどこかにおかしな力が入らずに、僕達は並んで歩いた。調子がいい時は、呼吸も合っていそうな気がした。
僕はリーサのことを知りたくて、次から次へと質問した。
(好奇心の塊ね。)
わざと目を細めて見せると、頬を少し上気させながら、リーサは嫌がりもせずに答えた。
最初、勝手に思い込んでいたのとは違って、リーサは自分の家庭の事情について、それほど悩んでいなかった。継父について日本に来たのも、物珍しさからで、込み入った動機があるわけでない。アメリカにいる母親のことは心配していたが、気に病むほどではなかった。
(お姉さんがいるから、大丈夫なの。)
姉とは、メールで頻繁に連絡をとりあっているようだった。十月の終り、文化祭の準備で校内がざわつきだした頃に、水曜日から学校を欠席した。翌週に本人から、父と一緒にアメリカの母の元に行っていた、と聞かされた。その時は、さすがに思うところがあったのか、やや沈んだ顔色をしていた。
それでも、どちらかと言えば、あっけらかんと快活な性格なのだろう。
よく笑った。しかも、色々な笑い方をした。弾けるように笑いだしたかと思うと、含み笑いをし、辺りに広がる微笑みを見せた。猫が獲物に狙いを定めてムズムズと腰を振る笑い。涙まで浮べて止め処なく続く馬鹿笑い。覆うような笑み。笑いにこれほどの表情があるのか、と驚かされた。
それでいてリーサは、回る独楽の心棒に似て動じないところがあり、自分に近付いて来る人間をじっと観察していた。
それは、時折、言葉の鑿の一振りで、その人の戯画を削り出した。
例えば、ESSの原については、こう言った。
(英語より、鏡の前の方が好きなんじゃないかしら。)
そして、美術部の中尾については、(気味が悪い。)と評した。
(気味が悪い?気持ち悪いということ?)
(違う。あの人ね、ヒトラーだよ。)
(独裁者だってことかな?)
(あら、そこまで言ったら、言い過ぎよね。)
リーサの言葉は、僕にたっぷり深呼吸をくれた。僕は、ほっとした。それでも、リーサは相変わらず美術室へ行き、それを見かけるとちりちりと焦げるように苛立った。あんな事を言いながら、どうして中尾のグループに近付くのか、理解できないと思った。僕の心を、気紛れな風が吹き散らかし、追われた波が幾重にも重なり、四散して乱れた。

 文化祭の日、リーサは、帰りに自分の家に遊びにこないかと誘ってくれた。料理を覚えたから、ご馳走すると言うのだ。リーサの方から翔一も一緒にどうかと言ってくれたが、翔一は、クラスで出した喫茶に夢中で、断ってきた。僕としては、翔一について来て欲しかった。
 僕達のマンションは、低い丘陵をえぐるようにして建っている。丘陵地が広がった先を取巻いて、黒瀬川という小さな川が流れている。丘陵の頂点には黒瀬神社があり、マンションは、神社を背負って黒瀬川を見ている。マンションを建てる際に、この神社を取り壊すわけにはいかなかったので、今のような形になったのだと言う。
神社の前から伸びて、丘陵の稜線を降りながら、マンションの敷地へ入って行く道が造られている。ちょうどマンションを片腕で抱く形だ。
その道を歩きながら、リーサはいつになくおしゃべりだった。僕を自分の家に招待したことで、ちょっと興奮しているのが、僕にも見てとれた。僕の方は、落ち着いているわけでもなんでもなくて、ただ、珍しい様子のリーサの姿で一杯だった。僕は、リーサをずっと見ていたいと思っていた。秋の、空の底まで透明な光がリーサの髪を輝かせ、深い黄金色の光暈に変えた。世界の何処かで、失われていた鍵が見つかり、あるべき姿で錠が開けられている気がした。
マンションを背景にして歩くリーサをうっとり見ていると、僕は別の視線を感じた。B棟の、八階あたりに誰かが立って、僕達を見ているのだ。珍しいその人影は、小峰さんだった。僕は亘との会話を思い出し、急に恥かしさを覚えた。同時に、何かひっかかるもの、こんな平日の昼間に家にいるのか、仕事は休みなのだろうか、という疑問を抱いた。
一旦家に帰り、着替えてリーサの家に向う途中、もう小峰さんの姿は無かったが、僕はその家の扉の前で立ち止まり、少し聞き耳を立てた。だが、何も聞こえるはずなない。そもそも、このマンションの造りからして、外に物音が漏れるとすれば、よほどの事だ。
リーサの家も、同じドアだ。同じような間取りで、同じような空間に、彼女も暮している。手の届くほどの距離にリーサという女の子がいるのだと思うと、どうして今まで会いに行かなかったのか、不思議な気がした。
僕を出迎えたリーサは、ピンクのシャツにジーンズで、髪も後ろで束ね、高校の制服の時よりずっと活発に見えた。家の中は、物が少い。静かに体を休める家という印象がした。普段、家事は父親と分担しているらしい。料理はもっぱら父親が担当して、結構上手いということだった。リーサも少しずつ料理を教わっていて、この前習った料理が美味しく作れるようになったので食べてほしいと言うのだ。僕が手伝おうかと言うと、「イイカラ、イイカラ」とリーサは、リビングで座って待っていろ、と言った。
そして、でてきたのは焼きそばだった。
それは、皿を押し潰しそうに山盛りで、スター・ウォーズに出てくるジャバ・ザ・ハットの形をしていた。二人で分けて食べるのかと思っていたら、リーサは自分の分を普通に持ってきた。
「オトコノコ、ダカラ、タベル、デショ?」
僕は、爆笑しながらジャバ・ザ・ハット焼きそばに挑んだ。普通の焼きそばで普通に美味しい。「う〜ん、美味しいね!」と言って、僕達は笑った。食べ終えた時には、さすがに晩御飯のことは考えたくなくなっていた。
僕達は、並んで洗い物をし、リビングに戻ると、リーサが淹れてくれたコーヒーを飲みながら、話しをした。いつもより、リーサがずっと近い。僕が黙ってリーサを見ていると、リーサが笑った。
(何、考えてるの?)
(何も。リーサは?)
(お腹いっぱいだね。)
(晩御飯は食べられそうにないな。)
(達郎は、英語を勉強しないのね。)
確かに、リーサの日本語は着々と上達していたが、僕の英会話はお粗末なままだった。僕は、返す言葉を失っていた。
(でも、大丈夫よ。私、日本語をどんどん勉強するから。)
(リーサは凄いよ。日本語が上手くなってるもん。)
その時、玄関で音がして、リーサが「ダディ、ダ。」と言って立ち上がった。英語で話すリーサの声が聞こえ、低い返事が二つ、三つとあってから、リビングにあの人が現われた。
「やあ。」
「こんにちは。お邪魔してます。」
「いつもリーサが仲良くしてもらってるようですね。ありがとう。」
棒のように立った僕は、気のきいた返事を思い浮べることができずに、頭を下げるしかなかった。堤さんはごく普通の背広姿で、下げている鞄がぱんぱんに膨れていた。最初に会ったときの問い掛けるような視線もなく、そそくさと自分の部屋へ引っ込んでしまった。何か恥かしいことがあって、それでいたたまれないといった風に。リーサは父親の部屋の戸口に立って、短かいやり取りをすると、うなずいて戸を閉めた。リビングに戻ってきた時は、片付いたというさっぱりした笑顔を見せた。しかし、もう僕は居心地が悪くなっていて、それから十分もすると、帰らなきゃと言って腰を上げた。後で気がついたが、リーサは、一度も、自分の部屋へ行こうとは言ってくれなかった。

 文化祭が終り、いつもの学校が戻ってきた金曜日、五組の教室を覗くと、リーサの姿はなかった。僕がリーサを探しても、もう誰も気にかけない。「中尾たちの所かもよ。」と言う声を背に、僕は美術室へ向った。
だが、美術室にもリーサの姿はなかった。ただ入口から顔をのぞかせただけなのに、美術室にいた全員が僕の方を見、全権大使然として中尾が二、三歩、こちらへ出てきた。
「彼女、今日は来てないけど。」
「彼女」は確かにリーサの事を指しているのだが、僕はまだ一言も言ってはいなかったのだ。それに、中尾が言う「彼女」には、無理矢理肩を組んで、人の顏を下からのぞき込むような感じがあった。僕は、思わず意地を張った。
「いや、翔一を探してるんだけど。」
中尾が黙って首を傾げると、後ろのグループから、「バイトじゃないか?」と言う声があがった。
「そう。」僕は、翔一がバイトをしているのを知っている上、その日はバイトの日ではなく、翔一はまだ教室にいた。
リーサはどうやら早々と下校したようだった。
一緒に帰る約束をしたわけではないし、僕とリーサの関係は、おそらく、拘束力のある関係ではない。僕に一言も無しにリーサが帰っても、おかしいことはない。僕はリーサの友達に過ぎない。また、来週になったら会えるだろうから、今日じゃなければということもない。それに、もし用事があるのなら、同じマンションなのだから会いに行けばいいわけで、そんなに苛々することでもない。僕はリーサの予定を知らない。リーサは僕の気持ちを知らない。僕の側にリーサはいない。リーサにとっては、僕など何ほどのものでもない。
「ない」を積み重ねながら僕は、混乱しつつ、マンションへ帰る坂を下っていた。
見上げたB棟の外廊下に制服姿のリーサがいた。側に小峰さんが立って、話しかけている。二人は、八階の小峰さんの家の前にいた。笑顔だが、少し緊張して、大きな目がさらに見開かれたリーサの横顔が見える。僕は、体が硬くなった。身を隠す場所を探さなくては、と思った。小峰さんの左手が、リーサの肘のあたりに添えられている。その手が、隙を伺うようにして、すっとリーサの二の腕へと移動した。右手で玄関のドアを開き、抱きかかえるように左手をリーサの背中に回すと、笑顔を仰いでリーサの目に視線を合せながら、中へ誘った。リーサの笑顔がむこうを向いて、見えなくなった。リーサの姿が消えると、続いて小峰さんが玄関のドアを後ろに従えて中に入り、ドアがぴたりと閉じられてしまった。
目の前で、急に坂道が白々と広がった。
家に帰ってみると、母は外出していた。制服を着替えて、自分の部屋のベッドに転がった。何も思い浮かばない。思考が押し潰されて、ものすごく薄くなった気がする。
寝返りをうち、枕に額を押し付けると、突き上げるようなものが胃の底にあって、ベッドから飛び降り、棒立ちになった。
河東亘の顏がちらちらと現われる。(昨日、小峰のところに、外人の女の人が来たんだ。)(金色の長〜い髪だった。)(小峰のドアの前で、変な声を聞いたんだ。苦しそうな声だった。)(英会話を習っているんだ。)亘の言った事が、次々に過った。
そこへ、小峰さんがリーサの背中に手を回したイメージが切り込んで、僕はかっとなった。僕は、狭い部屋の中を、猛烈に行ったり来たりした。両の拳を、爪が食い込むほどに握り締めていないと、大声を出しそうな気がしていた。
たぶんリーサは、小峰さんに英会話を教えてくれと頼まれたんだ。(達郎は、英語を勉強しないのね。)いい歳をした大人が、リーサみたいな女の子に興味を持つわけがない。あのとび色の髪と灰色の瞳を見ているとどんな感じがするか、小峰さんのような大人に分るわけがない。でも、今日リーサは、僕の側にいない。(彼女、今日は来ていないけど。)リーサは、僕の気持ちなど知らない。リーサにとって、僕は友達の一人でしかない。(お前、リーサといると本当に楽しそうな。)(よかったな。)
僕は、小峰さんの家へ向った。
自分が何をしているか、どんなことになるのか、考えると首筋が薄ら寒くなったが、何もしないでいるよりはずっと良いと思い込んだ。チャイムを押して、小峰さんが出てきたら、リーサが居ないか聞いてみよう。リーサの家の人にこちらだと聞いたので、と言えばいい。僕は、同級生なんですけど、リーサにちょっと用事があるんです。呼んでいただけませんか。それから先、リーサが出てきたらどうするか、何も思い付かない。遊びに行こう、と言おうか?
 あまり迷う暇もなく、僕は、小峰家のドアの前に立っていた。
チャイムを押す。指が震えていた。
もう一度。
もう一度。
怒りが、どこか遠い地平線で、列車のように連らなって走りだした。
もう一度、僕は、チャイムを押し、返事を待った。ドアに耳をつけてみる。ドアノブに手をかけると、あっけなく回った。鍵がかかっていない。ゆっくりドアを開けて、顔だけ中に差し入れる。
三和土には、男物の革靴が一足だけあった。おそらく、小峰さんはすぐに戻ってくるつもりだ。だから、鍵をかけていないのだ。
リーサはいない。もう帰ったということだ。僕は拍子抜けした。たまっていた息が、すーっと吐き出た。開けた時よりへなへなになりながらドアを閉めようとした時、玄関から続く廊下の壁に掛けられている額に目を捕られた。大きな額だが、余白がいっぱい取られた中央に、モノクロームの風景写真があった。暗い木の艀が、銀色の湖面に伸びている。その突端は、持ち堪えきれずにばらばらと崩れて、水中へ落ちていた。湖面の上に広がる空は白く抜け、粗い質感で、むしろ黒く感じる。紙鑢で傷つけられたような、荒涼とした印象の写真だった。
その写真の連想で、玄関から続く廊下の突き当たりにぼうと視線を投げた時、そこにあるドアがわずかに開いているのを見た。その隙間からのぞく床に、何かが無造作に置いてあった。いや、黄白色の塊が転がっていた。それが何なのか、目を凝らしている内に、僕は視線を逸らすことができなくなり、その物体にたぐり寄せられて、家の中へ上がっていた。
鼻を満たす匂いがある。でも、それを感覚として捉えることができない。この家の中に充満している匂いがあるのは確かだった。それが息を吸う度に、鼻をいっぱいにした。
わずかに開いていたドアを押し開くと、部屋の明かりが溢れてきた。外はまだ明かるいはずだが、この部屋はカーテンが閉めきってあるのだ。
僕は、僕を引き寄せたものを見下ろした。
玄関から見えたのは、金髪の女性の頭だった。目を開いたままの金髪の女の人が、不自然に真っ直ぐな姿勢で寝ていた。(小峰のところに来た外人が殺された。)僕を必死に見上げている亘の顏が思い出された。何かひっかかるものがあった。亘が何か大切な事を言っていたような気がする。女の人の唇の端から血が少し流れている。耳の下に見える金髪に、赤い血が溜っている。
その時、僕は後頭部にものすごい衝撃を受け、視界が真っ暗になった。
     *
 僕は、僕の顏を見下ろしていた。僕の額から顏を流れた血は、まだ乾かずに、浴室の電燈の光を生々しく反射していた。僕は、浴槽の隣に沿って、裸で寝かされていた。その浴槽には、金髪の女性の体が、バラバラにされて入れられていた。赤黒い肉の切断面を所々にのぞかせながら、体の各部分がごちゃごちゃに積み重なり、一番上に頭が浴槽の壁を向いて置かれていた。ちょこんと立てられた様子が、女の人の体をそんな風にした者の悪意を感じさせる。
感じさせる、と言うのはちょっとばかり大袈裟かも知れない。僕からは、感じるということが脱け落ちだしているから。でも、まだある程度は感じることができるのは確かだ。それで、裸の自分を見るのは、やはり恥かしいし、白っぽくなった体にぼとりと見えている陰茎が、情けなく心細い。
浴室の戸が開いて、小峰が現れた。手に大きなナイフを持っている。僕の体を通り抜けると、裸の僕の、頭の横にしゃがみこみ、ナイフで僕の首を切りはじめた。ナイフが首の骨に達すると、ごり、ごり、と低い音がした。結構な時間小峰は手を動かしていて、シャツの背中に汗の染みが大きく広がりだした頃、長く息を吐いてから後ろに尻を落した。僕の首を切り落しきったのだった。
もう僕は、完全に殺された。

 一言で言うなら、僕はこの世界の読者になってしまったのだ。つまり、読み取るだけで、手出しできない存在。ポルターガイストなんてのは、それなりに才能のある奴にできる芸当で、僕にはせいぜい、空気を少しばかりかき混ぜるくらいしかできない。それにも相当な努力が必要らしいことが分る。それから、壁などの物理的障害物は僕にとっては意味をなさなくなった。ただ、壁を抜ける時は、一瞬真っ暗になって、うっと息が詰まる気がする。息なんてしてないのだから、あくまで気持ちだけれど。壁抜けが出来るとなると、もう何処へでも行けそうな気がするが、そうでもないらしい。どうやら、生前に知っていた所周辺だけに限られるようなのだ。新しい知見を得ることはできないわけだ。
誰かは、僕のことを幽霊と呼ぶだろうけれど、馬鹿げて聞こえるので、自称する気はない。幽霊と呼びたければ勝手に呼ばせておこう。もう人目を気にする必要はなくなった。僕は人に見えなくなったのだから。
こうなった時、最初に、やはり両親のことが思われた。
父も母も、悲しむだろうと思った。
両親は僕を慈しんでくれた。僕は、それに応えることができなくなったのが残念だった。彼等が肩を落し、涙を零すだろうと思うと、申し分けない気持ちに炙られる。それに郷愁。彼等に見守られていた幼い頃がなつかしい。あの頃…
僕は、幼い頃のことを思い出そうとして、記憶が欠落しだしているのに気がついた。
感覚に脱け落ちた部分ができているように、昔の記憶に、薄れて消え去った部分ができている。それは、どうもじわじわと広がっているようだった。そうして時間が経てば、僕自身が、小さな溜息のように霧散して、消え去ってしまうのだろう。残された時間は余りないらしい。
一方で、このような記憶の変化があって、他方では、感情にも変化があった。感情は、積み木のように、固く、手触りのある物としてあった。ある感情から別の感情へと、流れるように変様することはなくなった。ひとつひとつの感情は、ばらばらと存在して、いつの間にか消えてなくなる、というようなこともないようだった。
その感情のなかで、とりわけ大きな場所を占めているのが、リーサの身を案ずる心配だった。
僕は、亘が言っていた事を思い出した。亘は、小峰の家に来て、出てこなかった女の人が黒い髪をしていた、と言っていたのだ。僕が見つけたのは金髪の女性の死体だった。と言うことは、小峰は二人の女の人を殺しているのだろう。次々に、外国から来た女性を自分の部屋へ連れ込んで、どのようにしてか殺している。遺体はバラバラにして始末している。それが何時から始まったのかは、分らない。でも、現在進行中なのだ。リーサも、小峰のターゲットになっている。なんとかしないと、リーサが危ない。
しかし、何ができるというのだろう。もう僕は、この世界の物に働きかけることができないというのに。
またもや、無力だ。
ちっぽけで、凡庸で、無力な高校生のまま、何も変っていない。
このまま、やがて消えていくのだ。雨上がりの水溜りのように、陽に照らされて、縮こまりながら蒸発してしまうのだ。

 僕は、バラバラにされた自分の体を見下ろしていた。大きくて、ごつごつした悲嘆を抱えたまま。
そこへ、再び小峰が現れた。何か違和感があるので、よくよく見ると、かつらを被っている。黒い長髪だ。いったい何を考えているのだろうと、正面から凝視める僕を通り抜けて、小峰は浴槽の傍らにしゃがみ込んだ。僕は小峰の顏をはじめてじっくり検分することができた。殺人を犯して、しかもその遺体をバラバラにできるような奴にはとうてい見えない。平べったい顏と低い鼻、濡れたような唇、細い眉の下で、小さい目がせわしなく動いていた。目の下が、赤く腫れぼったい。額が狭く、かつらの生え際が不自然だ。ぎざぎざになったその縁が、めくれた皮膚に見える。
小峰は、持っていたナイフを、浴槽に置かれている頭部にあてた。刃先を金髪の生え際に潜り込ませるように突きたてると、左手で頭を上から押えつけながら、ナイフを生え際の線に沿ってざりざりと進めた。頭の皮ごと女性の髪を剥ぎとろうとしているのだ。僕は、もう一度小峰のかつらを見た。どうやら被っているのは、前の犠牲者の頭髪らしい。やはり、黒髪の女の人も殺していたのだ。そして今度は、金髪というわけなのだろう。では、次はとび色の髪か?
小峰の息が荒い。強張った顏の中で、目がねっとりと光っていた。
僕は焦って、小峰の家から外へさまよい出た。
リーサを守りたい、リーサを、歪んだ欲望の犠牲にするわけにはいかない。でも、僕にはどうすることもできない。焦燥感が体を灼く。
外の世界には夜明けが訪れていた。
まだ鳥達すら目覚めていない。世界は、すっかり色彩を取り戻していた。身支度が整って、時が来るまでの束の間の休息のようだった。やがてここに音が満ち、昇る太陽に導かれて、世界は船出するのだろう。リーサを乗せて、喜びにさざめく海原へ。

 両親は、捜索願いを警察に出したようだった。母親の憔悴ぶりを見るのが辛いので、僕は、自分の家には近づかないようにした。
小峰は鳴りを潜めていた。解体した死体を、大きな冷蔵庫に入れ、毎日少しずつ始末していた。一部はトイレに流し、あるいは生ごみとして出したり、実に慎重に、丁寧に、こつこつと処理し続けるのだった。それでも二人分の死体は相当な体積があるので、時間がかかった。冷蔵庫に入れてるとは言え、冷凍しているわけではないので、徐々に腐敗がすすみ、部屋の中へ異臭が漏れだすのだった。小峰は、消臭スプレーを頻繁に撒いた。会社には行ってない。おそらく辞めているのだ。毎日、毎晩、小峰はせっせと死体をばらした。勤勉な異常者。
死体の処理をしていない時は、被害者から剥ぎ取った頭髪を被って、パソコンに向かう。隠し撮りしたリーサの写真をディスプレイに表示させて、飽かずに眺めている。リーサはやはり狙われていた。
僕は、怒り、身悶えしつつ、リーサを守る手立てを求めて彷徨った。
もちろん、リーサの側にも居た。
リーサは、僕の失踪を翔一から聞いた。
翔一は、欠席している僕を心配して、僕の家を尋ね、母から「達郎が突然いなくなった。」と聞くと、心当たりを調べてまわってくれた。驚いたことには、僕の家に何度も足を運んでは、両親に会い、なんとか励まそうとした。僕はそんな翔一の顔を、感嘆と感謝と、後悔の念で見ていた。もっと翔一と話しをしておけばよかったのだ。そうして翔一は、リーサに事の次第を告げた。身振り手振りを混じえて、なんとか苦労して「事件に巻き込まれたのかも知れない。」と伝える翔一を前に、リーサは口に手をあてて、息を呑んだ。次に、その大きな瞳から、信じられない程の涙の粒がぽろぽろと零れた。
リーサが僕のことを心配してくれていた。でも、少しも嬉しくなかった。
それよりリーサの涙のほうが胸を抉った。誰が彼女に泣いてほしいと思うだろう?彼女の沈んだ顏など見たくなかった。彼女の心の中に僕の場所があることより、僕のことなど忘れても彼女が生き生きと笑っていてくれたほうがいい。
教室で、授業を受けているリーサの横に佇んだ。長袖のセーラー服を着たリーサも素敵だった。
誰もいない校庭から、リーサの居る教室を見上げた。
マンションへの坂道の入口で、下って行くリーサを見送った。
エレベーターにリーサと一緒に乗りこんだ。
リーサの横顔。耳朶のうぶ毛が金色に輝いていた。静かな横顔に見えたが、もしかすると寂し気な色が現われていたのかも知れない。
リーサの家の玄関の外で、僕は立ち尽していた。
 その時、僕は視線を感じて横を見た。河東亘がこちらを見ていた。
僕はぎょっとした。亘の視線が僕の視線をしっかりと捉えている。
亘は、目を逸らさずに、まっすぐこちらへやって来た。
「おまえ、見えるのか?」
「うん、見えるよ。達郎、何があったの?」
誰にも見えなかったのに、この五歳児には僕の姿が見えるようだった。
「達郎、怖い顏してる。ううん、なんか悲しそうにも見える。」
何をどう言ったものかと、僕が黙っていると、亘が声を秘そめて言った。
「達郎、死んだのか?」
「ああ。」
「死んだから、そんな風になったのか。」
「怖くないのかい。」
「怖くないよ。達郎じゃないか。怖いわけないよ。達郎…。」
「何?」
「殺されたのか?」
僕が頷くと、亘の目に恐怖の色が浮かんだ。
「誰に?」
「小峰だよ。」
亘の顏がさらにひきつった。
「ずっと家にいるんだよ。」亘は小峰の家の方を指差した。
「ああ、知ってるよ。亘の言ったことは正しかったんだ。小峰は女の人も殺している。」
小さな両手を口に押しあて、亘は悲鳴を呑みこんだ。
「次は、僕の友達を狙っている。」
「達郎も狙われたの?」
「いや、僕は秘密を知ったから。偶然、小峰の家の中を覗いて、死体を見てしまったんだ。それで殺された。後ろからやられたよ。小峰が、次に狙っているのは僕の友達だ。」
「達郎がいつも一緒にいたお姉さんか。」
「いつも一緒にかぁ。亘はなんでもお見通しだな。」
亘は強い眼差しで、僕を見上げた。
「達郎、どうする?」
「僕はリーサを守りたい。でも僕にはどうすることもできないんだ。」
「超能力で小峰をやっつければいい。」
「幽霊に超能力なんてないさ。それに、僕はどうもダメ幽霊みたいでさ。何もできないんだ。風を起こすくらいしかできない。扇風機代りにはなるぜ。」
亘が少し微笑んだ。
「誰かに頼んだら?警察に行こう。」
「こんな姿で説得力ないだろう。こっちの話しを聞いてくれる前に逃げ出されちゃうよ。」
「僕が、誰かに話すよ。」
「お前の話しを聞いてくれる人って、いたっけ?」
「達郎だけだ。」亘は俯いてしまった。
「気にするなよ。」
「誰かに乗り移ってさ、その人を操るんだ。」
「無理だなぁ。人に憑いたりするのは、かなり難しい技みたいでさ。」
「じゃあ、僕達で小峰を倒そう。」
「亘は危ないから、俺一人でなんとかする。小峰のところに近寄ったら駄目だぜ。」
「達郎。」
「元気でな。亘。」僕は、亘の瞳の輝きを見て、五歳でも男の子は男の子なんだ、と納得しながら亘のもとを離れた。

 亘には、一人でなんとかすると言ってはみたが、何の当てもなかった。できることといったら、小峰を監視することぐらいだった。小峰には、僕の姿が全然見えない。
ひと月以上かけて死体があらかた無くなった。延々と続いたおぞましい作業がようやく終りを告げた。しかし、このままでいけば次には、汚れた爪がリーサの肌を引き裂こうとするだろう。僕は引き千切られそうだった。リーサの笑顔も、美しい声も、とび色の髪も、得体の知れない欲望によって蹂躙されるかもしれないと想像するだけで、耐えがたい苦痛と怒りが僕を吹き飛ばしそうになった。
おまけに、僕の記憶はどんどん失なわれて行った。残された時間は、指で示すことができるほど少い。
小峰の方は、しばらくパソコンにかじりついていたかと思うと、二、三日後から勤めに出だした。仕事を見付けたらしかった。世の中には働き口を見つけるのに必死な人がいるというのに、こんな異常なやつがどうして仕事を見つけることができるのか、不思議だ。働くということは、もうしばらくは次の殺人を犯すつもりがないのだろうか。だが、こちらにはのんびり構えている余裕はない。小峰の思惑など構わず、どうにかしてリーサを守る必要があった。小峰が外出するようになったのはチャンスとも言える。僕は、小峰が不在となった部屋を、何かヒントになるものはないかと調べて回った。
その時、小さな足音が玄関の前で止まり、郵便受けが開いて、封筒がぽとりと差し込まれた。落ちた封筒の表には、子供の字で「小峰へ」と書いてあった。亘だ。
僕は慌てて外廊下へ出ると、亘の姿を探した。A棟を目指して駆けて行く姿があった。僕は、急いで亘の前に回り込んだ。
「あ、達郎。」亘は、僕の体を通り抜けそうになって止まった。声を精一杯押し殺して言った。「おれの手紙、見たのか?」
「何をするつもりなんだ。」
「お前が人殺しなのを知っているぞ、って書いてやった。」
「そんな事書いて、どうするんだ。」
「知ってるぞ、って言ってやれば、怖がって達郎の友達を狙ったりしないだろう?」
「馬鹿だな。あいつは、秘密を知った僕を殺したんだぞ。そんなことをしたら、亘のことを襲うかも知れないじゃないか!」
「幽霊が怒ったって、怖くないぞ。」亘は唇をくっと閉じた。
「いいか、しばらくは一人で遊ぶんじゃない。お母さんと一緒にいろよ。お母さんじゃなくても、誰か大人と一緒にいるんだ。そして、小峰の動きに充分注意するんだ。いい?」
「ああ、わかったよ、達郎。でも、俺、友達いないからな。友達、達郎だけだったからな。もう一人で遊ぶしかないんだけど。」亘は、自分の足元に視線を落した。友達と呼ばれたことに驚きながら、僕は言った。
「それでも、一人でいるのは危い。小峰は、きっとあの封筒を書いた奴を探すよ。子供の字だってわかるからな。」
「子供のいたずらだと思うかも知れないじゃないか。」
確かに、子供のいたずらだと思えば、亘を狙ったりはしないかもしれない。それに、用心してリーサを襲うのをやめるかもしれない。
「あんなおかしな奴の考えることなんか分るわけない。」
その時、亘の家から、くぐもった声がした。
「亘?亘?誰と話してるの?」ドアが開いて、亘の母親が顏をのぞかせた。目元が亘とよく似ている。僕は、これが僕の友達の母親か、と懐しいようにじっと見た。彼女には、やはり僕の姿は見えないようだった。それでも、何か感じるのだろうか。目を細めて、僕の胸元のあたりを訝し気に見る。猫がかすかな匂いを宙に確かめるように。
「独り言だよ。」

 亘は、僕が言ったことを守って、家から出ずにいてくれた。小峰は、時間通りの勤め人の生活を続けていて、何か行動を起こす様子はない。亘の手紙も、すっと目を走らせただけで、ゴミ箱へ丸めて捨てたきりだ。子供の悪戯だと気にしていないように見えた。
僕の記憶はどんどん失なわれていった。小峰の監視を続けながら、マンションと学校の間を何度も往復した。そうすれば、リーサと一緒にいた記憶だけは残しておけるような気がしたのだ。それ以外の時間は、リーサを守るためにできることはないかと彷徨った。
小峰が出勤したのを確かめ、自分の家の様子を覗いてから、学校へ向かった。エレベーターに乗って一階に着くと、宅配便の業者が僕の体を通り抜けて乗り込んできた。帽子を目深にかぶり、両手でダンボール箱を運んでいる。
エレベーターの扉が閉った時、僕は何かひっかかりを覚えて、止まった。帽子の下の小さい目。目の下の赤いふくらみ。濡れたような唇。
僕は慌てて、もう一基のエレベーターに滑りこんで八階へ急いだ。
扉が開くのを待たず、息を詰めて外へ飛び出る。亘の家があるA棟へ。外廊下からは、向こうの方で、亘の家の扉が開かれ、亘が宅配便の業者を見上げているのが見えた。
「亘、ドアを閉めろ!そいつは小峰だ!」幽霊の大声はありえないのか、亘には僕の声が聞こえなかった。
小峰は、素早く亘を突き飛ばすと、家の中へ踊り入り、玄関を荒々しく閉めた。
僕が中へ飛び込んだ時には、小峰は居間にいた亘の母親に掴みかかっていた。亘は、廊下に倒れて、弱々しく呻いている。怪我をしているようではなかったので、おそらく突き飛ばされた時に頭でも打ったのだろう。何かが割れる音がして、鈍い音が立て続けに響く。
テレビから、別の夢を見ているような、平然としたアナウンサーの声が流れている。足音が積み重なって乱れ、小峰の手に巨大なナイフが握られているのが見える。僕の首を切断する時に使っていたナイフだ。亘の母親の足が縺れ、仰向けに倒れこみ、そこへ小峰がのしかかろうとした。母親は、顔の前で小峰の方に掌を向けて攻撃を防ごうとする。その、頼りない防壁の間をつき、喉元めがけて突き出されたナイフが、反射的に体をすくめた母親の、腕の内側を切った。ナイフが引き戻されると、一瞬遅れて、腕の内側に大きな赤い裂け目が走る。次の突きは、母親の掌を刺した。腕全体が、みるみる内に血塗れになる。
僕は、「やめろ!やめろ!」と怒鳴り続けていた。誰にも聞こえないのに。
「ママ!」と、亘の鋭い叫びが響いた。僕の怒鳴り声に意識を取り戻したのだ。僕は、起き上がって恐怖に体を硬直させている亘を見てから、小峰の方に視線を戻した。
小峰は、母親の両手首を左手で鷲掴みにし、頭の上の方の床に押し付けて万歳の格好をさせると、右手のナイフを振り上げた。「亘ちゃん、逃げて!」母親が聞き取れないほどの金切り声をあげる。母親の人相は変ってしまっていた。激痛と恐怖のためだ。血飛沫がとび散った顔は、許容を超えた感情だけで覆われていた。犠牲者の顔。それに対峙している小峰の顔には、薄らと妙な笑いさえ浮かんで見えた。犠牲者の表情が、彼を愉しませている。
熱く、弾丸となった怒り、宙の、漆黒の壁を打ち抜く、怒りの柱が、僕を狂った高みへ突き上げた。
僕は、亘の体に飛び込んだ。出来るかどうかなんて、考えることもできなかった。
亘の肉体の、無限とも言える騒音が、一瞬の内に僕を取り囲んだ。
熱と振動でできた、嵐のざわめきがあった。五歳の男の子の、小さな体なのに、そこには、宇宙を呑みこむ程の、騒音の大海原が広がっていた。その、手がつけられない混沌の中から、正確無比なリズムが浮びあがってきた。その拍子が、次第に僕の怒りに同調し、次の瞬間には、僕は亘に乗り移っていた。
片隅に、亘の意識が脈打っているのが分る。
僕=亘は駆け出した。
僕には、亘の体に潜んでいる騒音の大海原の力を利用することができた。僕自身の怒りもそれに加勢した。五歳ではできるはずのないジャンプで、小峰の頭部をめがけ、身長百十センチ程の体から、百七十センチの大人を吹き飛ばす蹴りを叩きこんだ。小峰の目が驚愕に白っぽく剥きだされたのが見えた。
天地も分らないほどに小峰はどうと倒れて、転がり、手にしていたナイフを放りだした。ナイフは落ちるとごつっと硬い音をさせ、そのまますべって回転し、刃先が床をシャラシャラと擦った。
亘の母親がもがくようにして、逃げだそうとする。僕は、体の体勢を立て直すと、ナイフに飛びついた。拾いあげたナイフを持ち直すと、一足飛びに小峰に近寄り、腹這いになって立ち上がろうとする小峰の、右の太腿に、ナイフを振り下した。刃が閃光となってズボンの布地を難なく裂き、深々と中程までも突き刺さった。
「あ!ギャー!」小峰は濁った悲鳴をあげ、腿に手を伸ばして身を反らせる。どくどくと血が迸った。
僕=亘の攻撃はここまでだった。潜んでいる力を使うことができたと言え、子供の体では力の量に限界があるのだろう。僕は、体から力が抜けてしまうのを感じ、その場に尻餅をついた。
隅で事の成行を見ているだけの亘の意識に呼び掛けながら、僕は後ろ手で後退りし始めた。
案の定、小峰は復活した。怒りで顔を赤黒くさせていた。自分の腿からナイフを引き抜くと、ゆらゆらと立ち上がった。ナイフからは血が滴る。歯を剥き、甲高く吠える。右足に体重をかけた途端、がくりと膝をついた。僕は、その隙に、四つん這いになって玄関を目指した。
「亘ちゃん!」母親の喉を裂く叫びが響く。
小峰は、不揃いな足音をさせ、猛烈に追い掛けてきた。右足は引き摺っている。靴下までも血でぐっしょり濡れて、床に跡をつけていた。
僕が立ち上がり、玄関の外へ走り出て、振り向きざまドアを閉めた瞬間に、小峰が追い付き、ドアを思い切り開けた。それに突き飛ばされて、僕は、外廊下の手摺り壁に背中をしたたかに打ちつけた。息が止まりそうだった。呼びかけていた亘の意識がようやく目覚めた。手摺り壁に背中をつけて、足を投げ出した格好で座っている僕=亘を目掛けて、小峰が飛びかかってくる。高々と振りかざしたナイフが、血塗れで兇々しい。
(亘、僕を力一杯あいつに向って吐き出せ!)
僕は体の制御を亘に手渡した。
亘は僕に言われた通り、息を肺一杯に吸い込むと、丸くすぼめた口から勢いよく吹きだした。その息の流れに乗って僕は、下から小峰の体にあたり、叶う限りの力で膨張した。どんという感触があり、小峰の体は持ちあがって、外廊下の手摺りをくるりと乗り越え、落ちた。「あー」という長い叫びがマンションの谷間に反響した。

 世界は、何ひとつ、その色さえ変えなかった。今し方、人の姿をした怪物が墜落死したというのに、雨だれほどの小さな波紋で、たちまち吸い込まれて消えてしまった。でも、人間の世界では、これからひと騒動起きるのだろう。
僕を、五歳くらいの小さな男の子が見上げていた。その子は、「達郎、もう行ってしまうのか?」と言った。僕は笑って手を振った。
あの可愛い男の子は誰だったろう?ますます記憶が薄れていく。もう、僕自身が風のようだ。世界に吸い込まれるまであと僅かだろう。怪物の死の波紋と同じく、跡形もなく消え去るだろう。
僕は先を急いだ。
最後に、ひとつだけ、やり残したことがあるのだ。あの、とび色の髪をした女の子のもとへ行きたい。そして、素晴しいあの髪をそよがせ、頬を包んで、その唇に触れたい。それが、僕の、ただひとつの希いだった。
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