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「浦沢直樹の漫勉 高橋ツトム」NHK Eテレ [感想文:その他]

 高橋ツトム氏の回。
ペンが速い、速い。氏自身がそれに驚く。「意識が飛んでるんだ」と浦沢氏が注釈する。浦沢氏自身がよく知ってる状態なのだろう。白い紙の上にイメージを定着させることに集中して、無我夢中なのだ。
高橋氏がそんなに集中するのは、とにかく漫画を描いていて楽しくて仕方ないからである。その楽しさの根は「たかがいたずら書き」。その延長線上で高橋氏は、楽しくて仕方ないを追求して、様々な工夫を凝らす。
 特筆すべき工夫は、コンピュータを活用することによってスクリーントーンを貼る作業を無くしてしまったことだ。まず主線を描く。その紙をクリアファイルに入れ、その上に紙を重ねて薄墨を塗る。物理的に作ったレイヤーをそれぞれコンピュータに取り込み論理的なレイヤーに変換する。薄墨のレイヤーをドットに変換して、トーン化する。コンピュータの画面上で位置合わせをしてから紙に出力する。それにベタを入れて完成させる。それまで物理的な制約から、最後にせざるを得なかったベタ塗り・スクリーントーン貼りの順番をひっくり返し、より直感的な、表現する感性の構成に近い手順に、要するに描きたい通りに変えてしまったのである。やりたい通りにやるのが楽しいから、そのために頭をひねったわけだ。
 このあたりの作業を見ていると、高橋氏は空間を層が重ねあわされた構造として捉えているように思われる。単に近景・中景・遠景として考えられているだけで、絵を描く人には当たり前のことなのかもしれないが。このことを示唆する別の例は、修正ペンをもうひとつの描画ペンとして大胆に空気の流れを描き入れる時で、氏はそれを「一番手前にある空気の流れ」と表現するのだ。
こうした、シーンの中に捨象された構造を把握するセンス、あるいは、見えている景色から感じられる情景を取り出すセンス、さらにはカッコイイもの・スゴイものを見せるセンスが氏の楽しいの骨格であるのだろう。
 しかし、高橋氏の楽しさの中味は、そのセンスの中に閉じ籠る方向にはなくて、絶えず思いがけないものに出会うこと、技と偶然がせめぎ合う境界線にあることである。それは、紙のひっかかり具合や、かすれてくれる筆ペンとして追求され、ロックのライブ感、グルーブという言葉で語られる。恐らく氏は、カオスに囲まれた偶然の上に、氏のセンスが切り取る情景が立ち上がってくること、カッコよさが生成する瞬間にこそ表現の生命があるのを知っているのだろう。
 では、高橋氏の制作過程はやり直しを捨てた即興なのかというと、それも違う。「漫勉」に登場した他の漫画家同様に、ひとつのコマのために何度も描き直す。読者が一瞬で感じる衝撃のために、惜しげもなく描いては消し、消しては描く。「漫勉」を見ていて感じるのは、プロの漫画家達の描き直す時の潔さだ。誰もみみっちく消したりしない。捨てるときは、見ているこちらが「あーっ」と声を上げるほどあっさりと消してしまう。そして彼らは、読者に与える衝撃の為に悪戦苦闘するのである。
 漫画を描いているとどんなに楽しいか語る、その楽しさのための工夫を見せる、楽しさの奥にある表現の秘密を示唆する、今描けるものを全部掛けて描けと勧める。まさに「漫勉」にふさわしい偉大な教師の回だった。ご本人は教師だとは少しも思っていないだろうけれども。

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