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自傷の流通 [小さな話]

「あ、『踊る大捜査線3』をご覧になったんですか?
ええ、観ました、観ました。実はあたし、織田裕二さんのファンなんです。この前の週末に行ってきました。結構、混んでましたね。
映画はどう思われました?
ああ、そうですよね。わたしも、ちょっとガッカリしたな。登場人物がみんな、もさもさって服を着込んでいて、ちっともカッコよくなかった。スピードが感じられませんでしたよね。
課長、厳しいなー、ふふふ。
柳葉敏郎さんの室井ですよね。偉くなって、なんとか審議官とかになってた。そのシーン分かります。最後の方です。確か、青島が楽しいですか、と室井に声をかけて、室井が黙って車に乗りこんで、そこで一言です。「シャバダバダ」?なんですか、それ。言ってませんよ、シャバダバダなんて。やだー、課長。おかしいー。そう聞こえたって、シャバダバダはないですって。秋田弁じゃないんですか。わたしも分かりませんけど。楽しいわけないだろう、とかそんな事じゃないんですか。あー、もう笑いすぎて涙でちゃう。
課長は映画がお好きなんですか。へえー、知らなかった。じゃあ、今度、お勧めの映画があったら教えてください。勉強します。勉強は、真面目すぎますか?
織田裕二さんのどこが好きかと言うとぉ、溌剌としてるじゃないですか。青島という役柄の設定だと言えば、そうですけど、溌剌とした人が好きなんです。父親に対する反発だと思うんですけど。父ですか?青島刑事には似ても似つかない最低の男です。残念ながら、まだ元気で働いてます。
えっと、少し聞いていただけますか?課長になら話せそうな気がする。
父はサラリーマンです。機械工具メーカーの設計技師です。会社は大きいそうですけれど、あまり表には名前が出てこないとか。父については、それだけです。それ以外なにも語るところがない人です。真面目とは違うんです。判で押したように寝起きして、会社に通い、休日はじっとしています。虫とかに近いかんじです。家の中に一緒に居ても、感情が感じられません。あまり口もきかないし。父親らしいことをしてくれたことはないんです。休みの日にどこかへ遊びに連れて行ってくれた事も一度もない。一度も、ですよ。学校の行事にも来てくれたことはありません。授業参観にも、運動会にも。無関心、無反応。笑ったり、泣いたり、嬉しがったりもしなければ、怒ったりもしない。だから、私、父親に怒られたこともないんです。テレビ、新聞?それも、見ないし、読まない。会社から帰ってくると、ほんとうにじっとしているんです。背広を着替えて、いつもの決まった場所、自分の部屋の座椅子なんですけど、そこでじっとしている。初めて見ると気味が悪いですよ。寝ているわけではなくて。充電しているみたいです。本当です。最低の、最悪の父親です。病気?さあ。違うと思いますけれど。会社では定期的に健康診断もやってるみたいですし。いえいえ、会社ではちゃんと話したりするらしいんです。どうも、家で、家族のわたしたちに対してだけ、無関心、無反応。
母は、いつも不安がっています。父が何を考えてるいるか分からないものだから、いっつもおろおろしちゃって。何故、どうやってあの二人が結婚したのか、謎なんですよね。
父のせいで、怒られないものだから、ずーっと反抗期です、私。
母と私は仲が良いですよ。父が相手にならない分、私が母の話し相手です。もうそれは、小さい頃から。母のことなら何でも分かりますし、母も私のことを分かってくれています。母は、私がいなければ駄目になると思います。姉妹みたいな母娘なんです。
今は、一人暮らしです。ええ、一昨年から、実家を出ました。大泉学園です。会社には1時間かからないですね。母ですか。寂しがってるとは思います。一人暮らしをしたいと言った時は、「本当に大丈夫なの」と心配してました。私としては父を見なくていいだけ、気分が楽っていうのもあります。生活を変えたいと思ってたんですよ。特別何かあったわけではないんですけどね。ふふ、毎日電話してきますよ。メールも、しょっちゅう。買い物の途中からメールしてきますから。
私ですか?いいえ。残念なことに父に似ているんです。さあ。イケメンなのかなぁ。まぁ、いい男だったのかも知れませんね。母は面食いなので、若い頃、父のそこに騙されたのかも。今はみっともないだけですけれど、アルバムで若い頃の写真を見ると、ちょっと爽やかな顔してるんですよね。
この前、夫婦喧嘩したって、メールしてきました。心配なんですよ、それが。母が隠してる。実は、どうも暴力を振るわれたらしいんです。信じられません。いい歳をした夫婦が。それに、あの父に、そんな感情があったということが、本当に信じられません。心配で、実家に帰ったんですが、母はニコニコしていて、何ともないわよ、なんて。ねえ、あなた、なんて言って、父の方を見たりするんです。父は父で、照れ臭そうな顔とかしたりするんです。え?夫婦ってそんなもんなんですか?分からないなぁ。その後は、何事もなさそうなんですけどねぇ。
課長のお宅も、夫婦喧嘩とかあるんですか?なんか、課長は絶対、夫婦喧嘩なんかしなさそう。奥さんを大事にする、って感じです。女の子の間では、課長は愛妻家だ、って噂ですよ。会社の愛妻家ランキング一位です。課長みたいな旦那さん、憧れだなあ。
憧れたらいけません?
憧れさせてくださいよぉ。
お子さんは、娘さん、おひとりでしたっけ?お幾つですか?じゃあ、小学校五年生?ふふふ、そうなんですか。ああ、お父さんの居場所がなくなる、って聞いたことあります。五年生だったら、もう肩車は無理ですねぇ。え?私、お父さんに肩車してもらうのが夢だったんですよぉ。へえぇ、そうなんですか。あ、課長は背が高いから、怖くなっちゃうんだ。なるほどぉ。私だったら平気なのに。今の私じゃありませんって。私なんか乗せたら、課長、腰を悪くしますよ。ええぇ?そんなことないです。結構お肉ついちゃってるんですから。細くないです。ええ、ダイエットはしてません。私、気にし出すと止まらなくなるんで、拒食症とかになりそうなんですよね。だから、なるべく体重は気にしないようにしてます。そうそう、体重計も目に入らない所に隠してます。」

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/8 22:30 +9:00
Subject:ママへ
会社の皆と飲んでて、遅くなりました。これから帰ります。先に寝てていいよ。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/8 22:38 +9:00
Subject:お久しぶり
高松です。
元気ですか。さっき、携帯に電話したんですけど、繋がらなかったんで、メールします。どうせ、飲んでるんだろうね。携帯にでないということは、結構楽しんでるんだろうな。
自分ばかり楽しまないで、友達にも会ってくれよ。仕事が一段落ついたので、今度、飲みませんか。連絡ください。バーベキューの打合せもしたいし。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/8 23:42 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。今日は、ありがとうございました。
課長とお話ができて、課長のお考えがよく理解できました。それに、仕事以外のお話しも聞けたので、とても楽しかった。課長は、私のイメージ通りです。先月から新しい環境で、色々不安や悩みもありましたけれど、もう大丈夫だと思います。私は、課長のグループで頑張ります。
でも、なんだか私ばかり話していたみたいで、申し訳ありません。普段はあんなにおしゃべりじゃないんですよ。信じてくださいね。でも、今日は、課長がしっかり受け止めてくださるので、ついつい甘えてしまいました。次は、課長の映画のお話を聞きたいので、また誘ってくださいね。
では、おやすみなさい。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/13 9:20 +9:00
Subject:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡が遅くなり、申し訳ありません。
東機製作所様とのシステム連携の件、早速のご対応、ありがとうございます。
誠に申し訳ございませんが、弊社側のスケジュールについては、現在調整中でございます。その為、ご連絡いただきましたスケジュールでの対応につきまして、実施できない場合がございますので、その旨、ご了承くださいますよう、お願いいたします。
なお、弊社側のスケジュールについては、別途、ご連絡させていただきます。
ご迷惑をおかけしますが、以上、よろしく御願いもうしあげます。

From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/13 10:45 +9:00
Subject:Re:トゥモローとのシステム連携スケジュール
菅原課長
トゥモローさんとのシステム連携、どうなりましたか?
スケジュールが、先方の都合で未定になっている、と聞きましたけれど、もしそうなら、製作所の商品照会画面の方を先にして予定を組みたいと思います。よろしく。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/13 13:03 +9:00
Subject:グループ会議、延期します。
菅原課長
明日のグループ会議、都合により延期します。次回の日時については、追って連絡します。
P.S.
例によって、吉田部長の気紛れだよ。つまんない仕事を押し付けられたんだって?ご愁傷さま。エリート課長も辛いね。
昨日、樫山恵美と飲んだらしいね?どう、彼女?

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/13 19:01 +9:00
Subject:ママへ
これから帰ります。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/13 20:12 +9:00
Subject:Re:Re:お久しぶり
高松です。
それじゃ、そういうことで、よろしく。藤田にも声をかけておきます。来れないかもしれないけど。バーベキューの候補地は、こっちで調べておくよ。
じゃ、恭子さんと茉莉ちゃんにもよろしく。

From:総務課 田口 To:菅原課長
Date:2010/7/14 9:05 +9:00
Subject:人事考課面談について
菅原課長
総務課田口です。来月の人事考課面談について、課長が担当されているセクションの面談スケジュールが提出されておりません。よろしくお願いします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 10:27 +9:00
Subject:(未設定)
暑いね。そんだけ。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:31 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
さて、東機製作所様とのシステム連携の件ですが、弊社側のスケジュールが確定しましたので、ご連絡いたします。詳細につきましては、添付のエクセルファイルをご覧ください。遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
添付ファイル中にも記載してあります通り、大変急でもうしわけないのですが、連携のテストを9月6日(月)より開始とさせていただきたいと思います。
重ね重ねご迷惑をおかけしますが、以上、よろしくお願いもうしあげます。

From:(株)トゥモロー To:菅原課長
Date:2010/7/14 10:44 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:Re:Re:システム連携のスケジュールについて
東機システムズ株式会社 菅原課長
いつもお世話になります。(株)トゥモローの中道です。
ご連絡いたしましたシステム連携のスケジュールは、案ではなく、これでいきましょうというものです。かなりタイトな日程であることは、当方も承知しておりますが、何分他社さんとの兼ね合いもありますので、東機製作所様だけを特例とするわけにもまいりません。そこのところをご了解いただければ幸いです。
今回のスケジュールにつきましては、弊社の都合により、ご迷惑をおかけしておりまして、大変もうしわけなく思っております。
なお、このスケジュールにつきましては、事前に、当社の原口が御社の吉田部長と打合せさせていただいたと聞いております。ご確認ください。

From:吉田彰俊 To:菅原課長
Date:2010/7/14 11:06 +9:00
Subject:Re:システム連携スケジュールの件
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携については、先日、先方の原口課長と会って、先方の状況について説明を受けています。
今回のシステム連携の日程については、先方の事情を飲みこんであげてください。止むを得ない都合もあると思います。でも、プロジェクトの進捗については、君のグループなら問題ないでしょうから、後は任せますので、よろしく。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/14 14:20 +9:00
Subject:飯、食ったのか?
なにカリカリしてんの?また、吉田部長かよ。
かわいそうねぇ、菅原ちゃん。寂しくなったら僕のところにおいで。一緒に飲んであげるから。
あ、そうだ。飲みに行く時は、樫山恵美も誘おうぜ。

「参ったよ。山手線がさ、遅れてて。すまんね。え?うん、一体なんだろうね。ここの所、しょっちゅうだ。『後続の電車が遅れておりますので、時間調整をいたします。』だよ。なんとなく納得いかないよな、あれ。いや、駅に停まってる間に、次から次に乗ってくるから、もうギュウギュウになって、その内、気持ち悪くなる奴がでてきて、今度は『気分の悪くなられたお客様がいらっしゃいますので、しばらく停車いたします。』だよ。どんどん遅れてきちゃってさ。
え?車内アナウンスの真似が上手い?お前、人の話しのどこを聞いてるんだよ。まったく。
遅れる電車にも腹が立つけど、乗ってる客にも腹が立つね。混んでるってのに、携帯だのゲームだのを持ちだしてさ。顔の真ん前にかかげて、周りなんかおかまいなしだもんな。どうなってるんだろうね、あれは。お前、混んでる時に、携帯とかする?しないよなぁ。そんなにメールしたいか、ゲームしたいか、だよ。そもそも、俺は、携帯だとかゲーム機の小さい画面が嫌いなんだ。もう狭っ苦しくてさ、息がつまりそうなんだよ。それにね、目が痛くなって、駄目だ。そいでもって、あの格好だよ。携帯やゲーム機の画面に見入ってる格好、どう思う?いい格好かね?携帯とかゲーム機のメーカーの奴らは、もう少し考えたほうがいいよな。あんな格好した奴が街中にあふれて、美しいか?なんて言うのかなあ、みんなちょっと寄り目になってさ。美人もイケメンも台無しだぜ。小さい箱を後生大事に抱えて、御託でも聞くみたいにのめりこんで、そんな顔を他人の目にさらして、平気なのか。一番恥かしい所が剥きだしだ、っていうのは誰の言葉だったっけな?それなのに、恥かしい顔が呆けた様子をさらしているにもかかわらず、どいつもこいつも全然気づいていないんだ。そんな街の風景を作りだしてんだぜ。携帯のメーカーは、さ。ゲーム機屋さんは、さ。
え?相変わらずかよ。はいはい。こればっかりはね、治らないんです。すんませんですな。
どう、そっちは。忙しい?景気は?どこも同じだね。俺のとこも似たようなものだよ。ほら、不景気な顔してるだろ。変わんない?そうかなぁ。人間的な深みは増したと思ってるんだが。へへへ。
お前さ、そう言えば、この前どうして携帯にでなかったんだよ。飲んでたって?誰と?いやいや、俺様以外にお前さんに飲む相手がいるのか、と思って。いいじゃんよぉ、教えてくれたって。だから、誰とよ。会社の部下?女か?お、図星。おいおい、これは只事じゃないね。とうとう菅原の君も、鬼畜の仲間入りか。そんなんじゃない、って、どんなんだよ。そんなもこんなも、俺はまだ何も言っちゃいないよ。話せ、白状しろ。その娘、綺麗なのか?写真がある?お前なぁ、なんでそんなもの持ってるの?ますます怪しい。課の連中と記念写真?もうちょっとましな言い訳したら。わかった、わかった。わかったから、見せろよ。ほら、携帯をよこせって。
どれどれ。ああ、この右端の?おお。いい女じゃん。う〜ん。なんか、こう、独特の雰囲気だね、これは。恭子さんとは違うタイプだな。え?恭子さんを引き合いに出すな?いいだろう、そんなこと。俺の勝手だね。俺はなあ、血の涙を流して彼女を諦め、身を引いたのだ。何かにつけても彼女を思い出す権利があるというものだぜ。あの恭子さんの夫の座にのうのうとふんぞり返っている菅原君にとやかく言われたくないね。なんだよ。お前はな、俺がどれだけ恭子さんのことを愛していたか、知ってるだろ。だろ?ああ、はいはい。お前にとっては昔のことかも知れないけど、俺にとっては、まだ終ってないの、彼女のことは。ええ、ええ、そうですよ。ひきずってますよ。ずるずるだよ。だからな、これだけは言っておくがな、お前らにもしもの事があったらな、恭子さんに言っちゃうよ、俺は。プロポーズしちゃうよ。
わかったよ。声がでかくなるのもしかたないだろう。わかったよ。
でさ、なんでその女と二人で飲むことになったの。忘れてないよ。大変だもん。事と次第によっては、恭子さんに告げ口しなけりゃならんからな。え、菅原君、吐いてしまいなさいよ。楽になるよ。いや、変な勘繰りしてるわけじゃないさ。お前の事だから、何か事情があると思ってるの。そうだぜ。何年の付き合いなんだよ。憧れの人を譲る友情を何だと思ってんのさ。何があった。
ふ〜ん。ああ、そうか、いわゆる問題有りってやつか。前の部署でもゴタゴタしてたんだ。情緒面ね。課長はいろいろな面倒みなきゃならないなぁ。仕事だけじゃ収まりつかないよなぁ。しかし、美人なのに。関係ないか。セクハラ?ははは、そうだね。怖いね。
でも、分かる気がするな。もう一度写真見せてみな。うん。確かに。このさ、独特の雰囲気ね。化粧を決めてるのに、どこか粉吹いたみたいな、な。ちょっと脆そうな、な。そうだぜ。共通してあるんだよ、そういう雰囲気がね。笑ってろよ。」

From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/16 21:17 +9:00
Subject:Help!
パパへ。パソコンが固まって、動かないんだけど。どうしよう?このままにしておきますので、よろしくね。

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/16 22:49 +9:00
Subject:ママへ
高松と飲んでました。これから帰ります。パソコンの件、帰ってからやっておきます。そのままで、先に寝ててください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:こんばんはー!
菅原課長
樫山です。こんばんは。
もうご自宅ですか?
今日は、課長がいそいそとお帰りになったので、気になってメールしちゃいました。お友達と会ってらっしゃったのですか?
先週、課長とお話しできて、あんなに楽しかったのに、今週は、お忙しいようで、殆どお話しできないのがちょっと寂しい感じです。また、飲みに誘ってください。
トゥモローさんの件、頑張ります。
では。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/16 22:51 +9:00
Subject:Re:Re:こんばんはー!
うわー、課長から返事がいただけるなんて!ウレシー!
今、私、にっこにこして、ホッとしてるんです。さっきのメール、失礼だったかなぁって、送信してから凹んでたんです。
でも、課長は、本当に優しいんですね。課長の部署に配属されて、よかったという気持ちでいっぱいです。
明日も仕事、頑張るぞー!って、明日から三連休でしたね。何の予定もないから、忘れてました。気を取り直して、来週も、頑張ります。
ではでは、お休みなさい。
奥様とお嬢さんにもよろしくお伝えください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 16:40 +9:00
Subject:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
お休みのところ、申し訳ありません。
来週、お時間をいただけないでしょうか。個人的なことなのですが、課長に話しを聞いていただきたいのです。このままでは、どうかなってしまいそうです。わがままなお願いですが、どうかお時間をください。お願いします。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/19 20:01 +9:00
Subject:Re:Re:来週、お時間をいただけないでしょうか。
菅原課長
樫山です。
すみません、来週のことですけれど、忘れてください。
もう大丈夫です。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/20 10:18 +9:00
Subject:憤慨
ちょっとさ、聞いてくれよ。納品の前日になって、二日分のデータを作れだとよ。なんだあの会社は。信じられないぜ。
菅原課長さま、何とか言ってやってくださいまし。あの、馬鹿会社の馬鹿部長に。

From:恭子 To:パパ
Date:2010/7/20 17:00 +9:00
Subject:パパへ
茉莉です。
今晩、早く帰ってきますか?

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 17:05 +9:00
Subject:Re:パパへ
茉莉へ。
会社の打合せで、少しだけ、遅くなりそうです。ごめんね。

From:時雄 To:恭子
Date:2010/7/20 21:21 +9:00
Subject:ママへ
会議が長引いて遅くなりました。無理なことを言ってくるクライアントがいて困ります。でも、今、終りましたので、帰ります。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/20 22:38 +9:00
Subject:ありがとうございました。
菅原課長
樫山です。
今日は、本当にありがとうございました。私、わがままな女ですね。反省してます。
でも、課長に話しを聞いてもらえたので、心が晴れ晴れとした気分です。
ありがとうございました。

From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 11:07 +9:00
Subject:システム連携の進捗について
菅原課長
(株)トゥモローとのシステム連携の進捗についてですが、予定より遅れています。ちょっと立て直しが必要かと思います。打合せの時間を下さい。
それから、樫山さんの担当分なんですけど、決められたルールに従って進捗を報告するように指導してください。仕事のクォリティは問題ないんですが、どうも自分勝手で困ります。それと、チームのメンバーに対する接し方にも、もう少し気をつかって欲しいと思います。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:05 +9:00
Subject:菅原大明神殿
梅雨はもう終ったんだっけ?なんだい、この暑さ。どうにかして、菅原の神様。
営業部の岩瀬ちゃん、辞めるらしい。赤ちゃんできちゃったから。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/22 13:08 +9:00
Subject:Re:Re:菅原大明神殿
俺じゃないよ。営業の藤田だよ。岩瀬ちゃんは藤田と結婚するんだな。9月に辞めるんだってよ。

From:高橋明宏 To:菅原課長
Date:2010/7/22 14:19 +9:00
Subject:Re:Re:システム連携の進捗について
菅原課長
樫山さんの言動については、以前に口頭でも報告してあります。報告書にしますか?

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/23 10:10 +9:00
Subject:Re:相談
菅原様
樫山恵美のことなら、少しは噂を聞いてるよ。メールで書くのも何だけど。菅原大明神のお膝もとでも火の手をあげましたか?
彼女、感情の起伏が激しいんだよ。情緒不安定の面もあるらしい。仕事の方は問題ない、と言うより上々だと。その辺りは、菅原さんのほうがご存知でしょう。噂だけから判断するに、依存心が強いんじゃないかな。彼女の口のきき方も、ちょっと澄ましたところがあって、人を責めるような感じがあるよ。でも、噂だから、本人とじっくり話し合うのが王道でしょう。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/23 21:07 +9:00
Subject:ごめんなさい。
菅原課長
樫山です。
今日は、ご指導ありがとうございました。ご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ありません。本当にごめんんなさい。
会議室で、あんな態度をとってしまって、課長に不貞腐れていると思われたのじゃないかと心配です。実は、ショックで体が固くなっていたのです。それで、満足に返事をすることもできなかったんです。私のこういうところが、誤解されてしまうんですね。反省しています。
だから、私は、課長のご意見に不満だったのではありません。逆です。課長のお話しがじわって、深く染み込んだ感じです。
周りの人にどう思われてるか、課長から聞けてよかった、と思っています。転ぶ前に手を差し伸べてもらった気がします。きっと、菅原課長でなければ、私の心には届かなかったと思います。例えば、3グループの大竹リーダーなんかだったら、私は絶対受け入れられなかったでしょう。でも、菅原課長だから、素直に聞くことができました。
私って、イヤな女だったんですね。友達もできないし(お昼休みには、一人でお弁当を食べているんですよ…涙)、男の人達の目もなんだかギスギスしてる気がして、どうしてか分からなかったんですが、これでハッキリしました。課長にズバリと心臓をつかれて、血の気がひくほどショックでしたけれど、でも本当の姿を知ることができました。
私、明日から、生れ変ります。ずっと強い女になります。心配しないでください。あ、心配なんかしてません?とにかく、明日からは、樫山恵美改造プロジェクトの発足です。仕事も頑張ります。課長に褒めていただける女になるために、努力します。ダイエットもしなくちゃ。しばらくは、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、見守っててくださいね。
だから、今日は、本当にごめんなさい、&ありがとうございました。
P.S.
ひとつだけお願いがあります。
こうして課長にメールすることを許可してくださらないでしょうか。
課長に私の気持ちを知っていただかないと、駄目になってしまいそうな気がするんです。今も、私、折れてしまいそうなんです。
だから、メールだけでいいですから、許してください。
P.S.のP.S.
小指の包帯ですが、ちょっと包丁で切ってしまいました。ご心配、ありがとうございます。でも、大丈夫です。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/25 20:33 +9:00
Subject:Re:Re:バーベキューについて
高松です。
なんだよ、秋ケ瀬公園じゃ、問題あるの?
恭子さんにも了解とってあるんだからね。茉莉ちゃんも喜んでくれたぜ。
バーベキュー・グリル等々はこちらで用意するから、ターフとか椅子とかをお願いします。いつも通りで。
恭子さん、きれいだなぁ(遠い目)。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/25 22:49 +9:00
Subject:夜遅く、すみません。
菅原課長
夜分、申し訳ありません。
今日、足を怪我してしまいました。足の小指を家具にぶつけて、腫れてしまったのです。ジンジンしてます。なので明日、少し遅刻します。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:20107/27 10:42 +9:00
Subject:やったね!
おい、見てたぞ。よくぞ言ってくれたよ。さすが、菅原課長。拍手。
吉田部長の顔、見たか。目を、こぼれそうに剥いて、顔が真っ青だったぜ。
トゥモローなんか糞くらえ、だって。製作所の連中も、システム連携なんざどうでもいいと思ってるさ。
うちのチームでは、菅原課長万歳のメールが回ってるって。
俺たち応援してるからな。でも、左遷されてもついて行かない(笑)。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/27 23:11 +9:00
Subject:こんばんは。
菅原課長
こんばんは、樫山です。
今日は大変でしたね。課長と吉田部長のバトル、怖かったぁ。課長の真剣な表情、すごく迫力があって、びっくりしました。
吉田部長は、ぶるぶる震えてましたよ。あんな、横暴で自分勝手で、がさつな奴、自業自得なんです。
私が前のグループに在籍していた時、吉田部長にこう言われました。『女というだけでもお荷物だなんだから、せいぜい人に迷惑をかけないよう、気をつかえ』。信じられますか。あいつは、人間として最低です。下劣な男です。人の上に立つ器じゃないと思います。本来の部長職としての仕事を全うしていないくせに、権力だけふりかざしている。
今回のトゥモローさんの件も、はっきり言って公私混同もいいところではないですか。
今のままでは、課長がかわいそうです。
吉田部長は、今回の件を根に持って、陰険にしかえししてくると思います。どんな手を使ってくるかと想像すると、おぞましくて身の毛がよだちます。あのクソ部長、死んでしまえばいいのに。死ね。死ね。
課長、吉田部長が何をしてきても、負けないでください。闘ってください。私も闘います。課長の為に、吉田部長に引き裂かれても構いません。私達の赤い血で吉田部長の不正を染めあげて、白日のもとに晒してやりましょう。そうすれば、社長がそれを見て、必ず正義が執行されると思います。
課長、負けないでくださいね。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/28 8:20 +9:00
Subject:樫山です。電車遅延で遅れます。
菅原課長
樫山です。山手線が止まっているようですので、遅刻すると思います。
よろしくお願いします。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/29 7:02 +9:00
Subject:遅れます。
菅原課長
樫山です。
今朝、ちょっとお腹が痛いので、午前中、病院に寄ってから出社させてください。
よろしくお願いします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:08 +9:00
Subject:ご報告
吉田部長、あんたからもらった一発が相当こたえたみたいだぜ。取り巻きに、あんたの機嫌を聞いてたってよ。すごいね、菅原課長。次の部長は、決まったね。
お節介かも知れないけれどさ、手の打ちどころを考えてた方がいいと思うよ。吉田部長もまだまだ使える人だし。俺だったら、こちらから頭下げるけれど、ね。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:19 +9:00
Subject:Re:Re:ご報告
吉田部長の取り巻きだと思われたなら、心外だな。
俺が冷や飯くってるのは誰のせいだと思ってるの?吉田さんにまんまと嵌められたんだぜ。
それは、ともかく、菅原課長が頭下げに行けば、すべて丸く収まると思うよ。菅原さん、ちゃんと考えてんだな。えらいよ。
ところでさ、週末は?また、家族サービスですか。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/7/29 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:ご報告
秋ケ瀬公園でバーベキュー?!
ひょっとして熱中症で自殺する気ですか?
あそこ、暑いだろう。信じられん。奥さん、よくOKだしたね。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/7/29 18:38 +9:00
Subject:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
高松さん。恭子です。
こんばんは。
土曜日のバーベキューの件ですけど、ちょっと心配な事がありまして、メールしました。
お友達の奥さんが、先週の日曜日に秋ケ瀬公園に行ったらしんですが、この天気で、暑くて大変だったそうなんです。大人だけではなく、特に小さい子が、参ってしまったと聞きました。高松さんのところの秋ちゃんも、うちの茉莉も、そんなに小さい子ではないから、問題ないかな、と思いますが、ほら、あそこは日陰がないでしょう?熱中症対策とか考えておかないと駄目なんじゃないかと思って。
私も日焼けは怖いし。もう、若くないから。ね。

From:高松祥之 To:菅原恭子
Date:2010/7/29 18:44 +9:00
Subject:Re:こんばんは。土曜日のバーベキューの件です。
恭子さん。
高松です。メールありがとう。
わかりました。秋ケ瀬公園は、たしかに日陰がないですよね。7月にあそこでバーベキューは無謀かもしれません。秋ケ瀬公園、やめましょう。別の場所を探します。OK、ご心配なく。
恭子さんは、いつまでも若いですよ。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:03 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
そういうこと。だってぇ、恭子さんの提案だぜ。もう最重要事項だよ。
ま、なんとかするから。ご心配なく。

From:高松祥之 To:菅原時雄
Date:2010/7/29 19:07 +9:00
Subject:Re:計画変更
高松です。
なんだよ。俺達の仲だろう。恭子さんと連絡とったら悪いのか。
あれ、嫉妬してるの?
心配だったら、早く帰りなさい。
早く帰って、美人の奥さんの話しに耳を傾けるんだな。恭子さん、嘆いてたぜ。最近、怖い顔して、会社の問題社員の話しばかりする、って。問題社員って、あれか?この前二人きりで飲んだ女か?問題あるのは、菅原君の方じゃないの?

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/7/30 23:01 +9:00
Subject:残念でした。
菅原課長
樫山です。
こんばんは。
今日は、残念でした。
菅原課長が、吉田部長と笑顔でお話しされているところを見たからです。
私の本当の気持ちを書きます。なんだか、裏切られた気分です。
でも、きっと菅原課長はいろいろ考えられてるんですよね。
私ひとり、眉を吊り上げて、馬鹿みたい。なんて。
菅原課長、私を置いてけぼりにしないでください。
では、また来週。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/2 9:01 +9:00
Subject:体調不良で、遅れます。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、遅れます。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/3 8:11 +9:00
Subject:遅刻します(泣)
菅原課長
樫山です。
今日も、具合が悪いので、遅れます。申し訳ありません。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/8/5 10:17 +9:00
Subject:先日はありがとうございました。
高松さん。恭子です。
土曜日は、ありがとうございました。とっても楽しかった。
あんな所があるんですね。全然知らなかった。涼しくて、水遊びもできて、茉莉もとっても喜んでました。
どこで知ったんですか。
また遊びに行きましょうね。
涼子さんと秋ちゃんにもよろしくお伝えください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:27 +9:00
Subject:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
熱があるようなので、今日はお休みさせてください。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/6 11:45 +9:00
Subject:Re:Re:お休みさせてください。
菅原課長
樫山です。
ありがとうございます。
起き上がれたら、午後にでも病院へ行ってみようと思います。

From:樫山恵美 To:菅原課長
Date:2010/8/9 6:13 +9:00
Subject:お休みします。
菅原課長
樫山です。
具合が悪いので、お休みします。

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:01 +9:00
Subject:Re:樫山さんの事
火曜日から無断欠勤なのか?!
そう言えば、最近見かけないなあと思ってたけど。無断欠勤とは。そんな女の子だったっけ?病気?
電話にはでないの?

From:大竹和則 To:菅原さん
Date:2010/8/13 13:24 +9:00
Subject:Re:Re:樫山さんの事
おいおい、家庭訪問じゃあるまいし、彼女の家に行くつもりかい?
電話にでるんなら、ちゃんと連絡を会社に入れて、病院へ行って治療するように指導するしかないんじゃないの?いくら管理職だからといって、家に押し掛けるのは…、

「課長が来てくださるなんて。
驚きました。
でも、課長に来て欲しかったのかも。
どうぞ、座布団、使ってください。ちらかってるでしょう?体を動かすのがきつくて。課長が来てくださるなら、頑張って掃除したのに。本当は掃除好きなんですよ。
顔色、悪いですか?課長の顔にかいてある。
アイス・コーヒー、ありますけど、飲みますか?ええ。あ、いいんですか?冷蔵庫の中です。はい。お買い物?全然してません。あまりお腹空かないんです。冷蔵庫、空っぽでしょう?ふふ。夜中に、なんとかしてコンビニへ行くんですよ。ええ。
そうだ。今日はゆっくりお話しできますか?よかった。課長に聞いてもらおうっと。
何を見てるんですか。隠さなくてもいいんです。あのタオルでしょ?血で真っ赤ですもんね。よいしょっと。見てください。ほら。
なんだか分かりますか?
私の足の指です。
今のとこえろ、三本。
自分で切り落したんです。
ほら。この包帯を取るのは、ちょっと。まだ出血してるんです。ずきずきして熱をもってる。
右足の方が、切りやすそうだったので、右足の小指、薬指、中指、ですね。こうやって、 タオルに包んであると、本当に気味が悪い。小指とか可愛いんじゃないかと思ってたけど、案外グロテスクですよね。ちょっと色が変ってきたかなぁ。でも、勇気をだすために、捨てないんです。達成感もあるし。冷凍庫にしまったほうがよさそうですね。
そうですね。それが一番お知りになりたいでしょうね。
でも、お話しして信じてもらえるかどうか。
私、矛盾してますね。課長に聞いてもらおうと思ってるのに、心の別の側では、信じてもらえないだろうなと思ってるんですもん。
そこのテーブルに置いてある包丁で切るんですよ。大変です。スパってわけにはいきません。ゴリゴリという感じかな。一本切り落すと、もう汗だくだくですよ。後始末もひと苦労で。
課長、気持ち悪いですか?ええ。顔色が青い。すみませんね。
無理もないです。
やめましょうか?ごめんなさい。
…帰らないでください。
やっぱり、課長に聞いてもらいたい。私一人で、どこまでこれを続けられるか。
でも、し遂げないと大変なことになる。負けてしまう。
いつから、ですか?足の指は、先週の土曜日から始めたんですけど、これ自体は、もっと前からですね。これ自体?そう、足の指なんて、途中でしかないんです。最終目的ではないし。でも、ここを通過しないと先へは行けません。そして、…私が先へ進まないと、すべてあれらの思い通りになって、何もかも無駄になってしまうでしょう。
頭がいかれた女だと思ってらっしゃいますよね。
当然です。
私自身、どうかなっちゃってるんだと思いますもん。
でも、心が病んでるとかそういうんじゃないんです。あはは、言ってて自分で笑っちゃった。どう考えても病んでますもん。病んでないと証明できる手立ては何もないし。どうしよう。どうしたらいいの。
……
わかりました。大丈夫です。泣いたりして、ごめんなさい。ああ、変だなあ。今日は、変。きっと課長が来てくださったからだ。課長に甘えてるんですね。もっと強くならなきゃいけないのに。でも、私一人でやってきたから、今まで。自分でもびっくりするくらい頑張ったんですよ。もういっぱいいっぱいだった。
……
なによりも、私の宿命を宿命として引き受けるまでが、大変でした。どうして私なのか。でも結局、理由などないんです。たまたま私があのリンクに辿り着いただけなんです、きっと。私でなくてもよかった。他の誰かでもよかった。他にも同じ事が起きている人がいるようですけれど。でも、そこに辿り着き、それを知ったら、もう引き返すことはできません。その先へ進むことが宿命となるのです。そう思い至るまで、すごく苦しみました。なんかこう、頭の中をぐるぐるにかき混ぜられて、絞り出されるようなものでした。そして、ようやく受け入れることができると、そこで終りではないんです。始まりにすぎない。そしてその先に進むのは、決死の登山みたいなものでした。しかも誰かの手を借りるわけにはいかない、私一人でやらなければならない。それに、これは、成し遂げても誰かから褒められるような事じゃないんです。それはわかってます。ぎりぎりの戦いですから。戦い続けないと、すべてが駄目になってしまう。すべて、すべて、すべて。
そうです。課長のやさしさや、他の人達のいいとろこ全部、恋人達や、家族や、友情や、なんかそういうもの全部が、ギチギチと噛み潰されて、あっという間に無になってしまうんです。課長のご家族、奥さんと娘さん、憧れなんですよ。皆さんが幸せでいるためには、戦うしかないんです。もちろん、自分のためにも。
自分のため?
自分のためと言うより、恐怖ですよね。この恐怖から逃がれるためです、正直に言えば。
恐怖はあります。恐怖だけかも知れない。でも、狂ってはいない。それは自分で分かるんです。いっそのこと、狂ってしまえば、どんなに楽だろう。なのに、私はどこまでも正気なんです。どんなに強く言っても信じてもらえないかも知れませんけど、私は狂っていません。じゃ、狂ったら狂ったと分かるのかというと、そんなことはないでしょう。けれども、私の恐怖が私の正気を証明してくれる。
でも、でも、ようやくここまで来ました。足の指は、まだ七本もあります。これでどこまであれらの計画を邪魔することができるか。
……すみません。少ししゃべり過ぎたようです。疲れました。
帰ってもらえませんか。
メールしますんで。」

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/8/30 20:17 +9:00
Subject:メール、ありがとう。
菅原です。
メール、ありがとう。
今、葬式から帰ったところなので、あとでまたゆっくり。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/9/1 23:53 +9:00
Subject:説明
高松君
菅原です。
色々申し訳ない。少し長くなると思うけど、最近僕に起きたことをお知らせするよ。
いや、むしろ、僕の方から、話しを聞いてくれと、お願いしなくてはならないのだ。だから、どうか最後まで、メールを読んでくれ。なるべく、筋道立てて短かめに書くから。
と、書いたそばから、もう指が動かない。筋道立てる自信がない。実は、その筋道立てることこそが、今の僕には難しいのかも知れない。僕のこの状態は、混乱としか言いようがないんだ。視点が定まらないような、そんな感じだ。
とにかく、書いてみよう。悪いが、つきあってくれたまえ。
僕の混乱の、中心に居座っているのは、部下の女子社員だ。覚えてるかい?樫山恵美という娘だよ。樫山と二人で飲んだ事を君にさんざんからかわれたろう。携帯の写真を見せたね。あの娘だよ。思い出してくれたかな。
実は、一昨日の葬式は、樫山恵美の葬式だったんだ。
彼女は自殺した。
自殺の状況は、酷いものだったらしい。彼女が死んでいるのを発見したのは、彼女の母親だった。母親は娘のあり様に半狂乱になったんだそうだ。訳の分からないことを叫びながら、マンションの管理人のところに転がりこんできた、とその当の管理人から聞かされた。
管理人は、僕の顔を覚えていて(その理由は後で書くよ)、葬式の時僕に近づき、事細かに教えてくれた。僕の顔色をじっとうかがいながら、ね。管理人の嫌らしい目つきが忘れられないよ。そして、彼女の死に方の、奇怪で陰惨な様子も。
で、その死んだ様子なんだけど、君は大抵の事は平気だろう?ホラーものは、映画でも小説でも大好きだからな。だから、遠慮せずに書くよ。彼女は、自分の両眼を抉り、右耳を削ぎ落していた。それから、鼻と下唇も同様に、鋭利な刃物(たぶん、包丁だろう。僕は分かるのさ。その理由は後で書く。)で切り落していた。全部自分でやったのだ。右足の指は、きれいさっぱり無かったらしい。死体が発見されてから、後で、冷凍庫に五本の足指が、ビニール袋に包まれて凍らされているのが見つかったそうだ。それだけの事を、いったいどんな順番でやらかしたんだろう。右足の指三本が先なのは知っている。その理由は、これも後で書く。でも心配しなくていいよ。彼女のしでかした事に、僕は一切関係ないからね。と思う。
そんな様子で、彼女の死因は、結局、失血死だった。首を大きなカッターナイフでひと掻きしたんだ。「チキチキチキ」と刃を繰り出すカッターナイフだよ。一息にやったんだな、きっと。部屋は血の海だったろう。死ぬまでに、ある程度は意識があったんだろうか。想像するだに恐ろしい状況だよ。
遺書は無かったということだ。だから、自殺の動機は不明だ。おまけに、PCや携帯電話の履歴関係も、全てきれいに消去されていたと言う。彼女が自分でやったようだ。これは、マスコミの連中から聞かされた。僕にも取材をしにきたからね。僕は彼女の上司だったし、彼女の母親も僕の名前を知っていて、その線から取材の対象になったのだろう。だが、マスコミの連中はこぼしていたよ。どうして死んだのか、情報が少くなすぎてさっぱり分からん、と。
でも、僕は、自分が、彼女の死の理由のすぐ近くにいる、と感じてるんだ。何もはっきりはしていないんだが、それでも、扉のすぐ向う側に彼女の死の動機が突っ立っている気がする。君は、いつも僕の事を理屈っぽいと貶すが、その僕が、直感で物を言ってる。おかしいだろう。でも、事実さ。本当に僕はそう感じているんだ。
彼女、樫山恵美は、この間六月に僕のいる部署に配属された。本人の希望もあったらしい。一番の理由は、前の部署でゴタゴタしたからだ。
彼女は、確かに美人の部類だった。君の言うとおり恭子とは違うタイプだ。恭子が美人だと言ってるわけではないよ。君には悪いけれど。君も見たように、髪型はたいていボブで、魅力的な目をしていたよ。ちょっと見には、クリエイター系の雰囲気を漂わせてるようなんだが、ずっと沈んだ感じだった。けだるいとか、ふんわりとか、作ったような物静かさの女の子がクリエイター系にはいると思うけど、それとも違う。突飛な表現を承知で言えば、内側に崩れ落ちていくような感じだ。
それで、彼女の配属が決まった時、僕は警戒した。僕のグループで問題を起されてはたまらないからね。噂は噂でしかないが、火のないところに煙は立たない。僕は、前の部署でのゴタゴタとやらについて、複数の人間にあたって聞いてみた。彼女がどんな人物で、どんなトラブルを引き起したのか、と聞いてみたのだ。
まず、彼女は依存心が強いようだった。彼女の依存心の対象となるのは、主に教育係の人間や上司だ。一度依存の対象が決まると、彼女はその人間と急速に距離を詰めてしまい、相手を戸惑わせる。彼女が自分に恋愛感情を抱いていると錯覚する人間もいたようだ。
また彼女は、他人の非に対して非常に厳しく、攻撃的だという評価も多かった。原理・原則でガチガチになって、周りを裁かずにはいられない。一方、自分の非についてはご想像の通りさ。謝ることをしない。棘をさんざん突き出して、ごろごろ転げまわる毬栗みたいなものだ。
そして、勤務時間中、遠くに持っていかれたようにボーッとしていることがあるかと思うと、突然悲鳴をあげたり、泣きだしたりした、というんだ。周りの人間はぎょっとさせられる。
それより前には一時期、目の治療をしていたことがあったらしいが、これは完治して特別どうこうはなかった。
それにしてもやっかいな評判が多かったよ。
彼女の元上司は、彼女のことを話した後で、僕に対して申し訳なさそうな顔をした。押し付けてしまってすまない、という雰囲気だった。元上司も手を焼いて放り出したのだが、僕に押し付けたのは、部長の仕業だった。時々君に話したことがあったろう?あの、クソ部長さ。だから、僕は元上司の奴に、そのことを思い出させてやって、気にしないよう言ったさ。
まあ、だいぶいかれた女の子らしかったが、それでも仕事の方は上々のようで、誰もがそれを惜しんだ。実際、やらせてみるとかなり出来たんだ。色々たて混んだ時には随分助けられた。
しかし、僕の経験では、ここで色気を出すといけないんだ。目先の儲けに色気をだしてバランスを崩すのが一番いけない。それですべてをメチャクチャにしてしまう。最優先にするのは、チームワークと、全体の生産性だ。それを台無しにするものと闘うのが僕の仕事だ。いくら彼女の仕事が素晴らしいからと言って、僕のチームを壊すようなら排除しようと僕は決心した。ただし、彼女が僕の方針に従ってくれるなら別だ。彼女の欠点は、いくらでもカバーし、フォローしてやる。そう考えて、僕は、早い時期に彼女と一対一で飲みに行ったんだ。これが、君にからかわれた彼女とのデートの目的だったわけさ。
これは火中に栗を拾うようなものだったね。でも、なんとか上手く行った。
そしてしばらくは、彼女は大人しくしていた。あんまり長くは続かなかったけど。
やはり彼女は、僕に対して依存心を持ち、周りのメンバーと摩擦を生んだんだ。胃の痛くなる思いをしたよ。それについては、率直に彼女に注意した。最初に彼女と一対一でコミュニケーションを取っていたのが功を奏して、彼女は僕の忠告を受けいれた。その代り、樫山恵美の悩みを聞くという交換条件をのまされた。
その内、クソ吉田部長と僕の間でゴタゴタが持ち上がった。これが、樫山もからんでいた案件で、結果としては、あまり芳しくない事になった。部長と僕の間は、例によって大人の話し合いで落ち着くところに落ち着いたのだが、それこそ樫山のような子には受け入れられない落とし所だったわけだ。
彼女は僕に裏切られた気がする、とメールしてきたよ。
僕の本心は、もうこれは駄目かな、というところだった。そうなったら仕方ない。彼女とじっくり話し合って、選択してもらうしかない、と思っていた。選択というのは、僕のもとに留まるか、別の道を選ぶかということだ。
ところが彼女は、会社に出てこなくなってしまったのだ。遅刻がちになり、その後、無断欠勤が続いた。これが僕にはこたえてね。僕に挨拶も無しに、そんな道を選ぶのか、と思ってしまった。おかしいだろう?依存された側にも依存されることに対する依存が生れるのかも知れない。彼女の家庭の事情なんかも聞かされていたからね。彼女は、父親との関係が上手く作れなかった口なのだ。もっとも、彼女の父親自身が相当に変な奴で、彼女に罪は無い。生れ育った家庭環境が人の性格に与える影響は、はかり知れないと思う。自分と娘の茉莉との関係は、大丈夫だろうか、と心配になる。
彼女の欠勤というカウンターパンチで、僕はふらふらになって、おかしな行動に走った。
彼女のマンションを訪ねたのだ。自分がやった事だけど、有り得ないよ。どうかしていた。頭に血が上っていたんだろう。それと、おそらくこの時、管理人は僕を見たのだと思う。僕と彼女の関係を何か勘違いして、それで葬式の時僕に近付いてきたのだろう。
とにかく、僕は彼女のマンションへ行って、その部屋で信じられないものを見せられたのだ。
その事を書くには、もう一度深呼吸が必要だと思う。それに、だいぶ長くなってしまったしね。続きは、明日、書くよ。
では。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/9/3 0:11 +9:00
Subject:Re:Re:説明
高松君
菅原です。
メール、ありがとう。心から感謝する。
あんな長いメールを読んでくれた上に、君に励まされると、本当にありがたいと思った。お言葉に甘えさせてもらうよ。
もったいぶるつもりはさらさら無いので、直截に書くが、僕が樫山恵美の部屋で見せられたのは、彼女の自傷だった。気味が悪かった。今でも胃がむかむかしてくる。その時すでに彼女は、右足の指を三本まで切り落していた。彼女は自分で、包丁を使って切断したと言っていた。それを聞いていたので、前のメールで、他の部所を切り刻んだのも包丁だろうと書いたのだ。
僕を迎えに出てきた時から様子が変だった。壁についた手で体を支えているのが精一杯という様子なんだ。足先の包帯に血がにじんでいた。顔色は白く、紙粘土を連想させた。それから、彼女の部屋の、あの空気が忘れられない。後で気がついたんだが、あそこには血の腥さがたちこめていたのだ。昼間だと言うのに、薄暗い印象がつきまとって離れなかった。その中で、樫山恵美は、脱ぎ捨てられた服のように座り込んで、足の指を切り落したと語った。
タオルに包んだ指も見せてもらったよ。もらったと言うのはちょっと変だな。丸めてあるタオルが目について離れなかったんだが、彼女がそれに気がついて、中を見せたのだ。グロテスクだった。もう少しで、目の前が真っ白になって、吐いてしまいそうな気がした。胃の底で黄色い塊がぶくぶく泡を出していそうだった。
彼女は自傷行為について話してくれた。しかし、僕にはその意味が今ひとつ理解できなかった。気味の悪いものを見せられた後で、頭がぼうっとしていたせいもある。それに、彼女の話しは、肝心な焦点がぼやけているような、何かが隠されている感じだったんだ。
彼女はやはり精神を病んでいたのだろうか。
病んでいたのは確かだ。しかし、僕には、頭がおかしくなっていたと一言で片付けることができない。彼女は、狂えるものならどれほど楽かと言った。恐怖が自分の正気の証明だとも。
恐怖が正気であることの証になると思うかい?彼女はそれを言い張ったのだ。
樫山恵美は、足指を切り落したことを、何かに対する戦いであるようなことも言っていた。それが何かは教えてくれなかった。ただ、その戦いの相手を「あいつら」というように呼んでいた。足指を切り落すことで、あいつらとの戦いに勝つことができるかも知れないのだ、と。と言うことは、樫山恵美は最後の戦いを敵に挑んで、空しく敗れて自死したのだろうか。
僕には、分からない。分からないんだ。
口の中に、嫌な味が粘ついていつまでも残っている気分だよ。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/9/4 14:02 +9:00
Subject:Re:Re:Re:Re:説明
高松君
菅原です。
今、君のメールを読み終えました。
僕の狼狽ぶりはしっかり伝わったみたいだね。感謝する。これは、皮肉ではないから。
妻と娘は朝から仲良く買い物に出掛けて、僕一人だ。
この暑さは、なんだろう。このところ、九月はあたりまえのように暑さが居座ってないかい?下手をすると、下旬まで夏の顔をしている。
暑さのせいか、家の周りがしんと静まりかえって、固まったように思える。
この感じだ。つやつやと輝いたこの世界が、薄いペンキの層で描かれた模様にすぎない、という感じ。そのペンキが強い陽光の下で浮き上がり、ぺりぺりと剥れ落ちてきそうな、この感じだ。この感触が樫山恵美から伝わってきたのだ。だから、僕は彼女をいかれた女と言い切ることができない。
何を書いているのか、と目を丸くしているだろう。
僕は先のメールで君が指摘してくれた事に答えようとしているのだ。
君は、樫山恵美の狂気を僕が受け入れていない、その理由を書いていない、と指摘していたね。相変わらず君が鋭いと感心したのは、僕が彼女の正気を信じている、とは書いていないところだ。確かに自分の送信したメールを読み返すと、彼女の正気を信じているとは書いていない。人は、語と表現の選択で、どれほど無意識に左右されてるのだろうね。余談だけど、言葉を操るのは、本当に難しいと思うよ。言葉の世界は、後から押し付けられた別の世界のような気がすることがある。理屈っぽいというのは、その言葉の世界を渡るための一種の方策なのだ。すぐバラバラになってしまう筏みたいなもので、これがなければ、僕はあっという間に言葉の海に沈んでしまうだろう。
ともかく、そうだ、僕は樫山恵美の正気を信じてはいない。しかし、狂っていたとも思えない。
まず、ひとつ目の理由。それは僕が、彼女が自傷するようになった経緯、そこから自殺へと転落した経緯を知らないからだ。それについて樫山は、僕に何かを伝えようとしたが、それは曖昧なままだった。そもそもの発端には、ネットで何かに出会ったようなことを言っていた。「リンク」に辿り着いてこうなってしまった、と。自殺願望を持った人が集まるサイトのようなもの、この場合、自傷をする人達のサイトにでも出会ったのだろうか。興味本位でのぞいてみたら、ミイラ取りがミイラになったのか。憶測するしかないが、彼女の変化と動機を納得しないかぎり、正気と狂気の判断を選択できない。
次の理由は、前に書いた通りさ。樫山恵美の瞳に宿っていた光は強烈な印象だったんだ。それが、前に書いたような感触を僕にもたらした。この世界の脆さ、危うさが彼女の視界には隠すところなく現われているようだった。本当に直感でしかないけどね。彼女は、この世界が虚妄と欺瞞で覆われていることを直視し、彼女の言葉を繋ぎ合せれば、その薄い表層の下に蠢く恐怖を発見した。それは戦わなければならない敵の存在だった。戦わなければ、すべてが駄目になると彼女は言っていた。その戦闘が自傷だと言っていたのさ。自分の体を傷つけることによってこの世界を守るとは、一体、なんというヒロイズムなんだい?
あーあ、君が腹を抱えて馬鹿笑いしているのが見えるようだよ。
書いている内に、自分がいかれているように思えてきた。樫山恵美のが伝染ったのかもね。
言葉の力は不思議だな。こうやって書くと、憑き物が落ちるように、頭で沸騰していた熱が冷めるのだ。その冷えた灰色の脳細胞で客観的に見れば、樫山恵美は精神を病んでいた、ということだ。
僕の迷走を許してくれたまえ。
このメールは破棄してしまうこともできるけれど、君に甘えて送らさせてもらうよ。僕がまた、樫山恵美の事でとち狂った事を言いだしたら、目が覚めるようにこのメールを送りつけてくれ。頼む。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/10/1 21:31 +9:00
Subject:樫山恵美の件
高松君
菅原です。
さっき、樫山恵美からメールが届いたんだ。どういう事だ、これは?一緒にこれを考えてはくれないか。僕は、さっきから震えが止まらない。以下に、そのメールと添付されていたワードの文書を送る。

------------------------
菅原課長
樫山恵美です。
このメールが、菅原さんの所へ届いているということは、私はもうこの世にいないということでしょう。
でも、ご心配なく。幽霊がこれを書いているのではありません。これを書いている今現在は、私はまだなんとか生きています。そして、もしもの事があったら(殆ど「もしも」ではなくなりつつありますけど)、このメールを菅原さん宛に送信するように手配したのです。信頼の置ける友達に、私からひと月以上連絡がない場合は、私のアドレスでこのメールを送ってくれるように頼みました。だから、生きている樫山のメッセージとしてこのメールを最後まで読んで下さい。

菅原さん、会社ではいろいろお世話になりました。感謝しています。菅原さんの部署に配属されてからは、なんとか自分の思い通りの仕事ができた気がします。
菅原さんのご期待に応えきれなかったことは残念ですし、最後にはご迷惑までおかけして、申し分けなく思っています。このような形ですが、お詫びいたします。お許しください。
それから、もし私の取った行動に疑問を感じていらっしゃるようでしたら、私なりの説明を書いてみましたので、読んでみてください。ワードのファイルを添付しておきます。そこに書いてあることは、すべて真実です。表現の拙さはありますけれど、自分に正直になろうと努めて書きました。お時間のある時で結構ですので、読んでいただければ幸いです。
最後にこれは、お願いです。私の取った行動に関心を持たれたとしても、今以上の詮索をされることはおやめ下さい。これは、菅原さんご自身と菅原さんのご家族の為です。みすみす、ご自分から幸せを壊すようなことをされないよう、お願いします。知らなければいい事も存在するのです。私が近づいたことに決して近寄らないことをお約束ください。
では、これでお別れです。本当に色々ありがとうございました。お幸せに。

(樫山恵美.doc)
 敗北感が、ずっしりとのしかかってきます。頭が自然と垂れてきて、胸に顎が埋まりそうになります。望みの無い戦いだと知っていたつもりでしたが、これほど惨めな敗北に叩き落されるとは思いませんでした。それでも、私は一矢を報いたのではないか、と藁にすがるように思い返してみても、確かな手応えはありません。肺の空気が全部出て行って、残った空間すらも吐き出してしまったようです。
正直なところ、やるだけのことはやったという諦めさえ生れない。なぜなら恐怖があるからです。目を背けることもできない恐怖が、私を捉えて離さないからです。今や私は、タールのようにどろりと重い敗北感に押し潰されながら、恐怖の毒が体を鉛色に変えていくのを呆然と眺めているだけです。
 何故こんなことになったのか、それを書きましょう。でも、何故はありません。平凡な女であった私が、このような運命を辿ることになった理由などないのです。私にはそれが起きた。ただそれだけなのです。ですから、私のできることは、私の身に起きたことを始めから辿るだけです。
 私、樫山恵美は、父母との三人家族で、兄弟はいません。父は、仕事だけはごく普通のサラリーマンですが、かなりな変人です。菅原さんにはお話ししたように、巨大な昆虫じみた人です。私は父が苦手、というより嫌いでしたが、それ以外は平和な家庭だったと思います。母と私は姉妹のような親子です。母は、上達しないパステル画を、教室に通って延々と習っています。昼寝とお喋りが大好きです。
自分の家族の事をふっと客観的に見てみたりすることがあって、そんな時は、たいてい四角い食パンのイメージが浮かびました。焼きたては、本当にいい匂いがするんですけれど、時が経つにつれて乾燥し、味気ないものになっていく。その食パンが私の家族の味わいに近いと思うのです。食パンの四角い形というのは結構退屈ではないですか。
家族だけではなく、私自身も退屈な女と言われるかもしれないと思います。小中高校は公立です。ずっと自宅から通いました。大学だけ、静岡の短大へ通いました。コンピュータのシステムの勉強をしたのは、短大でです。短大の通学は、さすがに自宅からは無理なので、静岡で一人暮らしでした。静岡はいい所でしたよ。はんぺんがおいしかった。
大学の時、学科の助手の男に言い寄られて、ストーカーじみたことをされました。私が入学してからずっと目をつけていた、と言われて気持ちが悪かった。マンションの前で何時間も立たれたり、しつこくメールを送ってきたり。でも、それ以上は何も起らなかった。
私について語れることは、それだけです。平凡な女でしょう?思い出に凹凸が少いと自分でも思います。
大学を卒業して、運良く今の会社に就職しました。運が良かったのは、後にも先にもこの時だけです。友達は皆、就職に苦労していたので、羨しがられたものです。私自身がどんな気持ちだったのか、思い出してもぼんやりしています。おそらく、仕事のことで不安をお腹いっぱいにつめこんでいたのでしょう。
でも、勤めだすと心配していたようなことはなく、仕事自体が性に合っていたのか、すぐ慣れました。なんだか、お尻を置いておくぴったりの窪みを見つけたような気分でした。同期に友達もできたし、先輩にも可愛がってもらいました。最近の私の評判からはかけ離れた社員だったと思います。可愛げがあって、周りに溶け込んで、目立たない、大人しい新人だった言わせてもらっても、あながち嘘にはならないと思います。
仕事の量が増えてくると、夜遅く帰る日も多くなりましたが、それでも自由にできる時間がありました。他の女の子たちのような男性とのお付き合いもありませんでしたから。
その自由にできる時間に何をしていたかと言うと、まあおおよそ読書とネットのどちらかです。ゲームは苦手でした。でも、ゲーム機は一通り持っているんですよ。なんだか、ゲームに夢中になった方がいいような気がしていたんです。その時は筋の通ったことを考えているつもりでも、後になって振り返るとさっぱり意味が分からないものです。
ネットでは、買い物が楽しくなりました。最初は、本です。新刊を片っ端から買ったり、気に入った作家の本を揃えたり。あっと言う間に読み切れなくなって、本の山。そのうち、アマゾンから屆いた箱を開けることすらしなくなって、ダンボールの塔ができてしまいました。一度に一冊以上は必ず買うので、薄いダンボール箱で届くのです。それを積み重ねると、側面にある、開け口のミシン目を示す模様がきれいに揃って、どこかへ辿り着くことを急かしているように見えました。結局、空間的な余裕が無くなり、読んでもいない本をブックオフに売るようになって、自分でもこれはちょっとおかしいと思い、本を買うのを止めました。
本の次は、ボディケア用品や、化粧品、とりわけ香水、それにサプリメントにはまりました。自分の体からいい匂いがすると、自分自身が変ったように感じました。これをつけたらどんな感じがするだろう、ってパソコンのディスプレイの前でぐるぐる想像するのが楽しみでした。サプリメントも同じようなものです。肌に良いとか、目に良いとか、コラーゲン、ポリフェノール、ビタミン…、飲んで、体の内側から効果が現われるかもしれないというのが良かった。どんなにさっぱりするか、どんなに元気になるか、どんなに気持ち良くなるか、それを考えながら飲むんです。この手の商品は、買ってもあまり嵩張らないので助かりました。気を重くさせないんです。
でも、香水もサプリメントも、本の新刊とは違って、次から次へと新しいものが出てくるわけではないので、一巡したなと思うと飽きてきました。匂いって慣れてしまいますし、気分がいいのも物足りなくなったのです。感覚は恐しく貪欲だと思います。気持ちが晴れる高原も、あっという間に慣れて足下の大地にしか感じられなくなる。そして、もっと高い景色、ここではない別の場所を求める。
その頃ちょうど、高校時代に聞いていたバンドが再結成してライブをやるというので、会社の人に教えられて、ネット・オークションでチケットを手に入れました。ライブ自体は期待したほどではなくて、いえ、むしろダメダメでしたけれど、オークションはちょっと面白いなと思いました。どうせ手に入らないだろうと思っていたものが買えたのが魅力でした。色々なライブのチケットを買ってみました。友達に頼まれたこともあります。行くつもりがないのにオークションに参加して、結構な金額で落札したこともあります。もちろん落札できなかったことも何度もありました。執着心の差だと思いました。
こうしてオークションにはまりましたけれど、浪費したことはありません。私、びくびくしていましたから。その月の限度額を自分で決めて、それを越えそうになると、パソコンの電源すら入れないようにしていました。臆病でしょう。でも、その限度額内では、相当に無駄なものを落札しました。自分のもとに屆いたのを確認しただけで、すぐオークションに出品して、転売したこともしょっちゅうです。貝殻でできたフラダンサーの人形を買ったこともあります。口がオーの字になっていました。それを、五万円で落札して、五万円で転売しました。転売した相手は、沖縄に住んでいる人なんですよ。相手はすごく喜んでました。
オークション・サイトにかじりついていると、物の値段のわけが分からなくなります。美術品だとか骨董品だとか、宝石なんかのちょっと別の世界の物ではなく、自分のすぐ手に届く物、自分の傍らをだらだらと流れている物の値札がゆらゆらと剥がれて、それだけが独り歩きしている気がします。しかも、その値札に書かれている値段は、簡単に書き換えられて、いつの間にか消えていたりする。それで、その値札は実は真っ白で、それを、オークション・サイトに繋がった私みたいな人々が手渡しあって、自分達の間で回している。私がのめり込むのは、この値札が真っ白で、それを人と人の間で回していることなんじゃないか。そんなことをちらっと考えてみたりもしました。
 さて、あれは、オークション熱で風邪でもひいたようになっていた頃に起きました。私は奇妙な出品に行きあたりました。奇妙なと言うより、人を馬鹿にした、とか、ふざけ過ぎの、とか言ったほうがぴったりです。何故なら、そのオークションが出品していたのは、あるブログへのリンクだったからです。そんなもの、誰が買うというのでしょう。しかも、商品としてそのリンク先が明記されているのです。落札しなくても、そのリンク先にジャンプできるのです。まるでオークションとして成り立っていない出品でした。出品者も空白なので、システムのエラーなのかなとも思いました。あるいは、何かのコンピュータ・ウィルスのせいかも知れない。それでそのリンク先には、別のウィルスが仕込んであるのかも知れない。または、ブラクラと呼ばれるいたずらページへのリンクなのかも。でも、こんな仕掛けに引っ掛るとしたら、よほど物を知らない人ではないでしょうか。
あまりの間抜けさ加減に、私は思わず噴き出してしまいました。「何これ。」と呟いた自分の声に少し驚きました。普段、私はあまり独り言を言わないのです。コンピュータの仕事に携わっている人には、ディスプレイの前でぶつぶつ言う人が結構います。会社の同僚にも独り言を言う人が多い。頭の中がかき混ぜられて、あぶくが浮き上がってくるからでしょうか。でも、私は独り言を言わない方だと思います。それなのにその時は思わず呟いてしまい、その自分の声が部屋の中に大きく響いて聞こえたようで驚いたのでした。すると、急に自分の姿が意識されました。トレーナーにジャージで椅子に座り、机のパソコンに向っている私。その前のディスプレイでは、訳の分からないオークションのページが白々と開かれている。冷たい雫が一滴、つーっと背中を降りていくような気がしました。この時の感覚について、理由は説明できません。ただ、感じた通りの事を書いているだけです。私の背後に、がらんどうの暗い空間が広がっているような気がしました。そこでは味気ない気流が何かの布切れをはためかせて、ばたばたという馬鹿げた音がしているだけ。
自分の感じていた事が説明できないように、その後に私が取った行動も説明できません。私は、リンクをクリックしていたのです。システムの綻びか、他人の悪意か、いずれにしても思いもしなかったものが突然現われて、目でも眩んだのでしょうか。青い色の下線が引かれた文字を見て、指が反射的にマウスのボタンを押してしまったのか。
(しまった)と思った時には、もうページが書き変わっていました。ウィルス対策ソフトの警告は表示されませんでした。ブラウザも何事もなかったようです。私がクリックしたリンクは、ウィルスが仕込まれていたわけでもなく、ブラクラへのリンクでもなかったのです。ジャンプした先は、何の変哲もないブログのトップページでした。ページのURLは、よく知られたプロバイダのドメインになっています。
私は、拍子抜けしながら、そのブログを読んでみました。
内容は別にたいしたことはありません。文字中心で、長々と記事が書いてありましたが、要するに何を言いたいのかはハッキリしない、そんな文章ばかりでした。題材は、ファンタジーらしいものや、映画の感想でしたでしょうか。今では確認のしようがありません。と言うのも、そのブログは、もう消えてしまっているからです。ページをアーカイブしているサイトでも探してみましたが、見当りませんでした。おかしな点は、この跡形もなく消えてしまったということぐらいで、それも、後になって探してみたらそうだっただけです。変なオークションページからジャンプした時は、丸きり普通のブログのページででしかありませんでした。
私は、もともとのオークションのページに戻り、もう一度リンクを辿ってみたりしましたが、やはりあのブログのページが表示されるだけでした。
つまり、ウィルスやいたずらではなかったわけで、これはきっとオークション・システムの、プログラムのバグに行き当ったに違いないと思いました。表示が乱れたりはしていないので、おそらくロジックの部分のバグ、それも底の方に眠っていたバグなのでしょう。いくつかの条件が重なって、ひょっこり姿を見せ、それに私が行き当ったというわけです。オークション・サイトのシステム管理者にメールを入れようかどうしようかと考えましたが、多分、私以外にもたくさんの人が見ているに違いないので、様子を見ることにしました。それにしても、リンク先のブログの持ち主にとっては迷惑な話だろうななどと思ったものです。
オークション・システムのバグ。きっちりと組合せられた歯車の間に挟まっている綿埃のようなもの。歯車と歯車の間で、ひくっひくっと他の歯車の回転に合わせて痙攣し、さも全体の仕組みの一部であるかのように振る舞いながら、実のところは何ものでもないもの。取り除いたはずなのに、またどこからともなく現われ、歯車の油を吸って黒ずんでいる。
そんなどうでもいいイメージをぼんやり弄んでいると、なんだか冷たい水にいきなり足をつっこんだみたいで、その時はもうオークション・サイトにアクセスする熱が失せてしまいました。そのバグのページは閉じて、ただ惰性でパソコンの前を離れずにいましたが、程なく飽きてしまい、いつもより早く寝てしまったと思います。
 その時は何ともなかったのですが、次の日から「あれ」が起こったのです。
最初は、目が疲れているのかな、と思いました。会社で仕事をしている内に、PCのディスプレイの文字がなんだかにじんで見えたのです。ぼやけたと言うよりは、二重にぶれている感じでした。おかしいのは、ディスプレイの全体ではなくて、文書の一部分だけがそう見えたことです。たしか、「それでは」という接続詞だけが一箇所だけにじんで二重になっていました。でもそれは、じっとそこを見つめている内に、元に戻りました。気のせいかと思いはしましたが、なんとなくひっかかるところがありました。ずっと眼鏡もコンタクトもつけずにきたものですから、とうとう目が悪くなったのかも知れないとも思いました。視力が落ちるのは、コンピュータの仕事をしていると仕方のないことです。
そしてその現象は、家に帰ってからも再現しました。それももっとひどくなって、突然起りました。オークションに熱くなって一時間ほど経った時でした。いきなり、ディスプレイの文字がいっせいにずれたのです。のせてあった紙をずるりと動かしたようでした。「わっ」と顔をディスプレイから離しました。それからそろそろとディスプレイに近付いて、様子を確かめました。画像やアイコンはずれていない。文字の部分だけが二重にずれていました。元の文字の上に浮き上がったように重なっていました。文字の色や大きさ、書体は変っていないので、文字が脱皮して、その皮がまだ纏わりついているような、あるいは文字から文字が剥がれたようでした。剥がれ方に規則性はないようで、各々滅茶苦茶な方向にずれていました。テキストの部分だけではなくて、バナーやフラッシュに現われる文字にまでそれが起きていました。その時は、DVDの出品を見ていたのですが、商品写真として掲示されているDVDのパッケージの、タイトル文字も二重になっていました。つまり、ディスプレイの中で私が読めるものは、すべて剥がれておかしなことになっていたのです。
私は椅子から立ち上がり、洗面所へ行って目を洗ってみました。ディスプレイの中の文字がおかしくなっているのですから、コンピュータに問題がありそうだと考えるのが普通かもしれませんが、びっくりしてしまって、とにかく目をなんとかすれば元に戻るような気がしたのです。
目を洗って部屋に戻ると、部屋の中を見渡し、雑誌や本をとりあげてどう見えるか試してみました。いつも通りです。恐る恐るディスプレイの前に座ってみると、画面は元通りになっていました。目を瞬いても、こすっても、先程のようにはなりません。コンピュータを再起動させて、画面の解像度を変えてもみましたが、おかしくはなりませんでした。実は、コンピュータに原因があったのではないのですから、当然です。翌日、それがはっきりしました。お昼休みに携帯電話でメールを読んでいたら、また、一時に文字がずれて、剥がれてしまったのです。
これ以後、この文字が剥がれて二重になる現象は、私の目に入る文字すべてに起きはじめました。何かを読んでいる最中に起きましたし、視界の端で何かゴミのようなものを感じてそちらに目を向けると、そこにあった文字が剥がれていることもありました。日本語だけではなく、アルファベットにも同じことが起きました。駅の案内に記されているハングル文字でも起きました。中国語の漢字もです。読めるかどうかということには関係なかったのです。
この時私は、母と会社の友達(その頃はまだ私にも友達がいました)に相談しています。まず起きたことを説明するのが一苦労で、話している内に、相手の視線がこちらの目の底を覗きこむようになるのに閉口させられました。挙句には、口裏でも合わせたように、疲れているのではないか、気になるなら病院に行ったほうがいいという答えが、母と友達それぞれの口から返ってきました。
もちろん私も病院へ行ってみたのです。始めは眼科へ。でも医者の診断は異常なし。視力が落ちているわけでもありませんでした。その医者は首を捻りながら、脳神経の方へ紹介状を書いてくれました。脳神経科ではMRIも使いました。結果は、脳に異常は認められない、というものでした。
勤めながらこういう病院通いをするのは結構大変でした。時間を取るのが気苦労の種で、慣れない検査に引きずり回されるのにも疲れました。診察費もかさみました。
その間も、あの現象は断続的に、でも執拗に起きていました。通勤の途中で、電車の吊り広告の文字が滅茶苦茶になりました。病院の待合室でも襲われました。医者に問診されている時に始まって、「先生、今です。今起きています。」と言ったこともあります。携帯電話のメールを読んでいる時に起ることもありました。仕事中だろうが関係ありません。あの頃配属されていた所では、周りと上司に目の治療中だと伝えてありましたので、仕事の手が止まってしまうことに対する言い訳や周囲の目に気を遣う必要はありませんでした。
それよりも、あれが起きた時のショックとその後の気分がこたえました。
あの現象が起きると、急に引き剥がされたようなショックがあります。その後、目が回った気持ち悪さに襲われ、なんとも寄る辺無い気分になってしまうのです。果てしなく降りこめる雨の中を一本道へ突き放されたみたいでした。
 そうして、幾つかの病院を巡り、精神科にもかかり、治るあてのない薬を飲んでいると、自分に失格の烙印が押されていると思えてくるのでした。
朝起きると、今日は症状が快方に向かうのではないかと思いました。耳を澄ます姿勢で、その日最初の現象を待ちます。朝食の時か、通勤途中か、または例によって仕事中にそれが起きると、その現象の程度が少しでも弱まっている徴を求めて、二重になっている文字の具合を昨日までの現象の記憶と比べてみます。剥離している文字が少なくなっている傾向を読みだそうとしました。剥離している文字は、その離れている度合いが小さくなっているのではないか、と目を凝らしました。一方で、どう見ても昨日より酷くなっているとも思えて、叫びだしたくなる気持ちが身を振り解こうとするのを、必死になって押さえ込むのでした。
その日最初の現象がおさまると、次に起きるまでの時間を測ります。それが起きる間隔は明らかに短かくなっていました。分かっていても、汗をかくと熱が引くような具合に、どんどん短かくなっていく間隔がピークに達すると下り坂になって、間隔があきはじめるんじゃないかと、次に起きるまでの時間を測るのでした。
現象の進行が停滞しているように見える時は、それが起きるきっかけや規則性を求めて、記憶をなぞりなおしました。こうしたら起きるんじゃないか。起きる時間帯があるんじゃないか。こんな体調の時は起きやすいのかも知れない。起きる前触れがあるかも知れない。
その頃の私は、不安の流砂の中で足掻いていました。なんとか現象が起きるのから逃がれようとしていました。が、それはどんどん進行していきました。その事実を認めるのが怖くて、進行していない兆しを探して現象に対して感覚を尖らせるあまり、考えることがそればかりになりました。生活が文字の剥離に侵食されていきました。こうなってくると、健康面に歴然とした影響がでてきました。まず、よく眠れなくなります。すると食欲が無くなります。どんどん体重が減っていきました。生理も不規則になって、止まりました。次に、体から変な臭いがしているような気がしだしました。口臭も気になりました。以前に夢中になって買い集めた香水を次から次へと使い、暇さえあれば歯を磨きました。そのため、歯茎からの出血が止まらなくなって、口の中がしょっちゅう鉄臭くなってしまいました。
この頃、文字の剥離は一度起きると、だいたい三分くらいは続いて、長ければ三十分もそのままのこともあり、短かいと十秒も経たないで元に戻りました。持続はまちまちだったのです。そのおかげで仕事は、なんとかこなすことができていました。起きたら、その間だけじっとしていればよいのです。会議や打ち合わせでは、プレゼンの文字、ホワイトボードの文字、書類の文字が剥離してもそんなに不自由はありません。睡眠薬なども飲んでいたので、寝過したり、日中ぼうっとしていることはありましたが、出勤できないほどではありませんでした。それよりも、生活と心の変調が周りにわかってしまうようで、「顔色が悪いよ。」「休んだほうがいいんじゃない?」「大丈夫?」と誰からも言われるようになってしまいました。働いていることは、崩れそうになる生活の輪郭をピン止めしておく命綱と思えて、本人はもがきつつ必死でしがみついているつもりでしたが、普通じゃない状態の臭いが体中の毛穴からじわじわとしみ出しているのか、やがて職場の人から敬遠され、自分が孤立しているのに気づかされました。
すると私は、文字の剥離を「現象」ではなく「症状」として、原因不明で治療の見通しもたたない「病気」と考える方へ傾いていきました。
会社は休ませてもらい、通院なり入院なりして治療に専念したほうがいいのではないか、と母に相談しました。母はうろたえました。顔の表情が、支え棒をはずされて、なんとも薄っぺらいものに変ったのを憶えています。最後は、休職しての治療に同意してくれましたが、本心は、娘に働いていて欲しかったのでしょう。働いて自立している娘が彼女にとって価値のあることだったのです。病気であるということも認めたくなかったでしょう。それが娘の身体に対する心配に渋々負けたのでした。
父は、もちろん何も言いません。ただ、文字の剥離の様子について珍しく質問してきました。ひょっとすると、あれがあの人なりの、娘への心配の現れだったのかもしれません。そのあたりを確かめる時間はもうありませんが。
 両親に相談した後、すぐに休職したわけではありません。自分に起きている事を病気という輪郭に定着させようと、うな垂れながら何度も決意し直していました。ぐずぐずしていたわけです。そうしている内、私がいる空間は、その辺々の配置をゆっくりと変えだしていました。
位置の変化ではないのです。星座が夜空を巡っていくような変化とは違います。四角形が平行四辺形へ、菱形へと変化するような配置の変化です。それが私の存在する空間で起きはじめていたのです。
今ここまで来て振り返って見れば、その時起きていたことを繋ぎあわせて形を描き、意味を読み取ることができますが、まだ何も分かっていなかったその頃の私にしてみれば、ぐちゃっとした混沌が延べ広がっているだけでした。私はそれに驚き、恐れ、ただ戦きました。
 ある日唐突に文字の剥離が止みました。お昼まで待っても起きず、会社から帰宅する道すがらも半信半疑でしたが、翌日目が覚めた時、あれは終ったんだなと確信しました。布団の中で天井を見上げながら、解放感よりも手足が浮腫んだような疲れを感じていました。
その日は会社を休みました。
終ったんだという直感に手で触れることができるんじゃないかと、頭の後ろの方で感じながら、会社に行きそびれてしまいました。
「病院へは行かないの?」と母が訊いてきました。私の休職が始まったものと思っていたようです。「もう終ったのよ。今日は会社を休む。」と私は答えました。
窓から射す冬の陽が床で三角形に輝き、それがベッドのそばまで近付いた頃に、私は起き上がって、母と昼食をとりました。もう随分と寒くなっていましたが、その日だけはよく陽が射して、あたたかくなりました。思い返してみれば、かれこれ三ヶ月はあの文字の剥離に苦しんでいたのでした。
母は、ちらちらと私を見ては、「終ったって、治ったの?」と訊いてきました。けれども私には、治ったという感触はありませんでした。終ったということは、次が始まるのではないか、とすら思っていましたし、事実その通りだったのです。
私は母を、哀れんで見つめていました。母は、答えない私に少し憤慨して「何よ。心配してるのに。」と言って、味噌汁の椀を持ち上げました。どうして母を哀れむ必要があるのでしょう。すると(この人は知らないんだ。)という考えが浮かんできました。(え?何を?何を知らないって?)私は、自分の頭の中に流れこんできた言葉に驚きました。(あのリンクを辿ってあれを経験してないから、母は知らないんだ。)
その時、母が私の顔色に気づいて、「また青くなってるわよ。大丈夫なの?」と言いました。私は震えを隠しながら立ち上がり、「なんでもない。もうちょっと横になってるね。」と言って自分の部屋に戻りました。
自分の内側が、突然大通りに放り出されたようでした。内側が外側へめくり返った気がしました。思考が外から私の頭の中へ差し込まれた、と思いました。そうだ、あの文字の剥離は、外から私の内へ考えを流し込む手術だったのだ。(いったい、何の話?)ようやく準備ができたわ。(私は、耳を塞ぎ頭を振りました。)さあ、自分の手を見てごらんなさい。手の形を。(やめて。やめて。やめて。耳を塞いだまま、部屋の中を歩きまわりました。母に悟られないよう、足音には気をつけて。)
 それから私は知ったのです。
幕が引き上げられて、一足飛びに頂上に連れ去られていたようでした。突然、広大な景観をつぶさに見下ろしている自分に気づくのです。けれども、そこに見えているものの意味については、少しも分からず、ごちゃごちゃとした混沌としか思えませんでした。
私が知ったのは、生命が従わさせられている、ある意図でした。それは、詐欺と言っていい方法で、生命に押し付けられているのです。その意図の主こそ「あれ」らです。「あれ」らは意図の背後に隠れています。「あれ」らは、生命に触れることができません。でも、生命を欲っし、自分のものとすることを望んでいる。「あれ」らは生命を持たないからこそです。そこで「あれ」らは、巧妙な方法で生命に干渉し、生命に「あれ」らの目論見を押し付けようとしました。自分の目の前に、両の掌をひろげてごらんなさい。平たい肉色の瘤から、無様な盲目の突起が五つ飛び出している。この形の意味は何ですか?どうしてこんな形でなければならないのでしょう。足指に目をうつしてみれば、よりはっきりとこの形の無様さと無意味さが分かるのではありませんか?しかし、私達にとっては無意味なのですが、「あれ」らにとっては意味があるのです。「あれ」らは、私達の生命がこの形になることを欲っしているのですから。
 菅原さん。ここまで読んで、私が正気を失なったのだとお思いでしょう。無理もないですね。私自身、自分は本当におかしくなったのだと思いましたから。自分の頭の中に考えが吹き込まれると感じるなんて、精神の病気としか思えませんもの。しかも、その考えの内容が、いきなり妄想じみて、脈絡のないものだったら、なおさらですよね。
私は、自分の頭の中で流れる思考から目をそむけようとしました。それを黙らせようとしました。けれどもその考えは、鳴りやまない鐘のように、私の頭の中で声高らかに語り続け、反響しました。やっぱり自分は狂ってしまったのだ、と思いました。
この事は母に相談しませんでした。むしろ隠したのです。母だけでなく、他の誰にも悟られないようにしなければいけない、と思いました。それは、まず恐しかったからでした。頭の中に考えが流れ込んでくると誰かに告げた途端、病気の名前が貼り付けられ、自分が打ち消されて、何処かへ連れ去られると思いました。それから、もっと強い理由がありました。流れ込む思考に対して、澄んでその筋道を辿る私がいたのです。いくら、狂ってしまったんじゃないのと自問してみても、それに否と答える、疑うことのできない正気の自分がいることが感じられたのです。あともうひとつだけ、隠そうとしたわけがありました。頭の中へ思考が流れ込んでくると他人に言ったら、その思考の内容を話さざるをえなくなるでしょう。でも、それは危険だと思いました。何故かは分かりませんでした(今は分かっています)が、匂いの予感がするのにも似て、そうしてはいけないと思いました。この事は隠しておかなければならない。
 私たちの形に隠された「あれ」らの計画を、おおっぴらに話すのが危険なのは、もちろん、「あれ」らがそれを望んでいないからです。「あれ」らは、生命そのものを略取することを目論んでいますので、私たちがそれを知ることは、「あれ」らにとって好ましくないのです。「あれ」らは、この世界の外側から、私たちを常に監視しています。私たちの数など、「あれ」らにとっては問題ではありません。蟻の様子を監視するとしたら、蟻の一匹一匹を気にしますか?蟻が何匹いようと、問題ではないでしょう。それと同様なのです。私たちが何人いようと、「あれ」らは私たちを監視し、私たちの行動を察知しているのです。
 少し先を急ぎすぎました。こんな考えに至ることができたのは、流れ込んでくる思考と対話を続けたからです。もっとも、最後の仕上げは、彼からの示唆が必要ではありました。その頃は、まだ彼と接触してはいなかたので、私は、一人で考えていました。あの考えが、頭の中で響きはじめると、理性的に澄んでいる正気の自分が、それを考え始めるのです。狂ってしまったのではないかという恐怖と、思考の内容の荒唐無稽さ加減に怯えながら、「あれ」らについての思考が語りかけ、私がそれに答え、また、私の方から問いかけて、思考の答えに耳を傾けました。
 私は、自宅を出て、一人暮らしをすることにしました。流れ込んでくる思考に翻弄されるのを、母に隠し通すのはなかなか大変だったのと、落ち着いて雑音に邪魔されない環境で、自分の頭の中の騒ぎに取り組みたかったのです。
部屋を借りて一人で暮ししてみたいと言うと、母は、「本当に大丈夫なの?」と疑り深い目でした。母が疑うのも仕方ありません。彼女が辿り着けるのはそこまででしたでしょうし。
私は、これまで通りの社会生活と奇妙な思考と対話をする生活との二重生活を始めました。
職場の人たちが私の一人暮らしについて、「男ができたんじゃないか」と詮索していたことは知っていました。それはそのまま放っておきました。「彼氏でもできたんじゃないのぉ?」と笑いながら、それでいて目だけは針を刺し込んで探るような視線で近付いてくる人には、「そうだったらいいんですけどねぇ。」と曖昧に微笑んで離れました。そうして、私が知っている事を知らないであろう人たちを、母に対すると同様に哀れんで見るようになりました。
職場の人たちだけではなく、世間の人々の大部分は知らないのです。「あれ」らは、その存在と目的を隠しているのですから。
では、私は何故それを知ることができたのか。
それは、やはりどう考えても、あのリンクをクリックして、文字の剥離が起きたからです。では、あのリンクは、「あれ」らの意図を暴くために、誰かが残した標だったのでしょうか。それは何のために?
昼間は、ありふれたOLの顔をして働き、夜は、マンションの部屋でこんな考えと取っ組みあい、額にじっとりと汗をかいて、夜も遅くまで眠れない生活は、刺激的で、ざりざりと音をたてて磨り減るような毎日でした。
 私は、あのリンクを見た人が他にもいるに違いないと思って、あちらこちらの掲示板を覗いてまわりました。あるいは、あのリンク先のブログの内容を思い出して、関係する言葉で何度も何度も検索しました。「あれ」らについての手掛かりと同じ体験をした人間を求めていました。インターネットだけではなく、他のメディアも漁って回りました。新聞、雑誌、本、テレビ、ラジオ、手の届くものは何でも。
殆どが無駄に終ってから、もし同じ体験をした人がいるなら、私と同様にそのことを隠して二重生活を送っているのかも知れないと考えるようになりました。もしそうだとするなら、いえ、それは確実だと思えたのですが、あからさまにそれと分かる形でその人たちが姿を現わすことはないでしょう。でも、「あれ」らの情報を求めて、目を光らせてはいるでしょう。だったら、張られた網にかかるように餌を投げてみたらよいのです。そう考えて私は、いろんな手段でメッセージを残しました。例えば、「奇妙なリンクに出会った人はいませんか?」とか、「文字が剥がれる現象についてご存知の方はいませんか?」、「生命の形に隠された目論見について。」等々です。
メッセージの効果は、たいていはうんざりするものでした。からかわれたり、冷笑されたり、罵倒されたり。一番多いのは無視です。そうでなければ、オカルトじみた宗教にかぶれている人から執拗に面会を申し込まれたり、支離滅裂なメールを一時間おきに送ってくる人もいました。日本の社会は、ある大物音楽家の陰謀によって操られていて、その魔手はその人の弟までも洗脳しようとしている、と言う人から、「あなたも充分に気をつけなさい。」と忠告されました。その人は、大物音楽家から四六時中監視されていて、洗脳して人格改造をするための催眠暗号をしこんだ音楽が電波によって直接頭の中へ送られてくると書いていました。他にも屑のようなメールが山ほど送られてきました。
電波系と言うのでしょうか、妄想に捉われた人のメールには悩ませられました。頭の中に考えが流れ込んでくるというのと、電波が飛んでくるというのはよく似ていて、自分もそういう人たちと同じなのではないかと思えたからです。生命がある意図に従わされているなどというのは私の妄想でしかないのではないか、と思うと、体中が冷たくなるほど不安になりました。私は狂っているんじゃないか、でも私の体験は揺ぎない真実としか感じられない、だからと言って狂っていないことを証明できない、じゃあ狂っていることは明らかなのだろうか。自分で自分の尻尾を咥えて、ぐるぐる回っている自問自答の連続でした。高揚したり、落ち込んだりを繰り返しました。最初は、自分の部屋に帰ってから、そういう感情の上昇と降下にもまれていましたが、やがて仕事中にも、それに襲われるようになりました。はっと我にかえると、こめかみにじっとりと汗をかいていました。他の人に気づかれてはいないか、と周囲を確かめる私の目つきは、どれだけ血走っていたことでしょう。
 それでも、「あれ」らの計画について考えることを止めることはしませんでした。
私は、ある実験をすることにしました。吉田部長の誘いに乗ることにしたのです。しつこく食事へ行こうと言われていたので、それにOKの返事をしました。食事だけでは済まないことは承知でした。むしろ、そちらが私の実験の目的だったのです。
吉田部長は、以前から何かにつけて声をかけてきて、私に興味を示していました。でも、私のタイプではありません。渋い渋いとのぼせあがった女の子もいるようでしたが、私から見れば黒い染みだらけのどぶ鼠です。吉田部長は、飲み会などで同席すると、他に悟られないタイミングを巧妙に待っては、「君は、雰囲気があるなあ。」と顔を寄せてくるのでした。その時、私の視界に入ってくる吉田部長の口元は、盲目の器官でした。意志無く裂けた肉の割れ目。そこにも「あれ」らの影がありました。
何度かアプローチを重ねた後、もう大丈夫と思ったのか、吉田部長は「今度、二人で食事へ行かないか。スペイン料理のお店に連れて行くよ。」と誘ってきました。翌日私は、メールで「木曜日なら空いています。」と返事しました。その時の返事の速かったことと言ったらありませんでした。もちろん、吉田部長は、自分が私の実験の片棒をかつがされるのだとは知る由もありません。もし、私の実験の目的を知ったら、どんな顔をしたでしょうか。私と食事に行ったでしょうか。今になって想像すると、ちょっと可笑しい。
約束した日に連れて行かれたお店は、それなりに良いお店でした。料理もおいしかった。
勧められるままにワインを飲みました。
吉田部長はおおいに語りましたよ。会社と仕事のこと、趣味のこと、家庭のこと。「僕はさぁ、理論派なんだよね。」が口癖のようでした。肝心の理論の方は一向に分かりませんでした。分かったことは、話しの途中で一呼吸置いてこちらを見る時は、あの齧歯類じみた初老の男がこちらの称賛を待っている時だということでした。あの人達が住んでいる世界では、自慢をすることがコミュニケーションなのでしょうか。でも、家族のことは自慢しなかったようです。
吉田部長が菅原さんと同じように映画が好きだということはご存知でしたか?それも、結構たくさん観ていて、的確な鑑賞眼を持っているんです。学生の頃からの趣味だそうです。
少し意外でしたけれど、それはそれだけのことで、吉田部長を見る私の目を変えることはありませんでした。
目の前に座っていたのは、私にとって実験材料でしかなく、私はその実験を試す時をじりじりとして待ちました。
食事の後、ホテルのバーに連れて行かれ、椅子が温まった頃に慣れた段取りで「夜景の見える部屋をとってあるから、行こう。」と言われました。私自身は、そんなフルコースをふるまわれたことがありませんでしたから、へぇとは思いました。それ以上の感慨はありませんでした。頭の中は、これから試すことでいっぱいだったのです。
その実験というのは、他人の肉体、特に男性の性器に「あれ」らの意図を読み取ることができるかどうか試してみることでした。
齧歯類おやじとの退屈な時間を書くことはやめて、実験の結果を記しましょう。
それは見事に予想を裏切りました。
私は、生殖器も「あれ」らによってデザインされているのだと想像していましたが、実は、生殖器は「あれ」らの手が入っていないところだったのです。驚きでした。最も「あれ」らが注目して干渉していそうな部分が、逆に「あれ」らの手が及んでいない部分だったとは思いませんでした。驚きの一方では、「あれ」らの意図がより鮮明に感じられました。一部分干渉されていない部分があることが影となって、他の部分を覆っている「あれ」らの痕跡がより一層くっきりと浮き上がって見えました。
まじまじと股間を凝視める私に、吉田部長は照れ笑いをしながら、「そんなに珍しい?普通だと思うけど。」と言いました。そこに滲んだかすかな不安に、私は爆笑してしまいました。「あれ」らの事も知らずに、何を心配しているのだろう、とも思いました。私の馬鹿笑いに悪びれもせず、むしろ嬉しそうににやついている吉田部長の様子には、それほど腹黒い人でもないのだなと思えて、たいして後悔も感じることなく身を任せることができました。支払いを済ませているような気がしていました。でも、それ限りです。吉田部長は関係を続けることを求めました。私がきっぱりと拒絶すると、逆上して、その後のことはご存知の通りです。
しかし、吉田部長がどんなに嫌がらせをしてきても、むず痒さすら感じませんでした。「あれ」らのことを探るのにのめり込んでいたからです。

 私は、あるスイッチのようなものが思考の中にできているのに気づきました。そこに、意識の平面を傾けてぐっと力を入れると回路が繋がり、「あれ」らの押し付けた手形をくっきりと見分けることができました。やはり、文字の剥離が発生して以来、私の中か、私が存在する空間に変様が起きていたのだと思います。その、スイッチによって回路が繋がると例えた状態は、「多義図形」と言われているもので体験できることに近いのではないでしょうか。「多義図形」などという言葉は、それまで知りませんでした。インターネットで得た知識です。ウィキィペディアで調べて、それをそのまま鵜呑みにしています。知ったような気になっているだけです。でもこの場合は、視点によって別々のものが見える「多義図形」で、ひとつの絵柄から別の絵柄に切り替わる感じが、回路が繋がって「あれ」らの意図が浮びあがってくる時の感触に似ていると思うのです。「ルビンの壺」で、壺と人の顔が切り替わる時の感じ、「妻と義母」で若い女と老婆が切り替わる時の感じです。私はスイッチを入れ、流れ込んでくる思考と対話しつつ、「あれ」らの正体を調べました。
恐怖が広がりました。川を流されながら、それまで遠くと聞こえていたどよめきが、流れが速くなると共に、滝壺へ落ちる水の轟きだと分かってくる。そんな恐怖。地平線にじわじわと湧き上がっていると見えていた暗雲が、呑み込む速さで空一面を覆う。そんな恐怖。
(私たちの形が「あれ」らの望んだ形になっているということは分かった。「あれ」らは、私たちを捏ね上げて、それでどうしようというの。)
(そのことを考える時に、まず気をつけなければいけないことがある。「あれ」らは、私たちの世界に属しているのではないということ。この世界の外側から「あれ」らは干渉してきている。つまり、この世界のものでない以上、「あれ」らの考えていることを、そっくりそのまま把握することはできないということ。)
(それは、人間の動機や理由づけで「あれ」らの行動を推測してはいけないということね。)
(「あれ」らの計画は、まだ準備段階なのか、計画は実行中で、目的の達成の半ばなのか。それとも、一向に上手くいっていないのか。)
(時がくるのを待っているのだわ。機が熟するのを待っていると思う。計画は、おおよそのところが実行されて、最後の詰めを残すのみとなっているという気がする。)
(では、その計画の行き着くところは何処なのか。さあ、考えるんだ。考えるのよ。)
(「あれ」らは、今、息を濳めて待っている。その時が来るのを待っている。この世界の外側で、鉱物の炎に似た目を、あえぎあえぎ揺らめかせて。)
(そうだ。「あれ」らは準備を整えた。)
(「あれ」らの待ち望んでいるものは、手が届くところまでに来ている。それは、私たちにとって望ましいことかしら。)
(それが生命にとって「あれ」らと同じように待ち望むべきものならば、「あれ」らは何故干渉してきた?)
(干渉するということは、そのままいっても「あれ」らの望む事にならないから。「あれ」らの意図に私たちを沿わせるため。生命の進路をねじ曲げるため。)
(「あれ」らの望むところは、生命が望まないところ。)
(生命の望まないもの?…死?でも、生命は刻々と死んでいる。その死では、「あれ」らは足りない?)
(「あれ」らは死を望んでいるのではない。「生命」を望んでいる。)
(「生命」を略取すること。一挙に、「生命」をその姿のまま、奪い取ること。)
(そうだ。時が来れば、「あれ」らは私たちの「生命」を横取りする気なのだ。)
(それは、阻むことはできないのかしら?)
(「あれ」らは、この世界の外側にいる。「あれ」らのできることは、間接的なことだけ。「あれ」らは、私たちを監視し、迂遠な方法で私たちを捏ね回そうとする。)
(では、「あれ」らの意図を挫くとも不可能ではない?)
(形が問題であることに注意するのだ。「あれ」らが生命をコントロールするために「形」を使っていることに注意するのだ。)
(生命の形。人間の形。肉体の形。)
(そうだ。形だ。形に潜む「あれ」らの目論見を潰すのだ。)
(核爆弾でも落して、何万人という人を殺したらどうかしら。)
(いや。数が問題なのではない。形が問題だ。)
(分からない。)
(考えるんだ。考えるのよ。さあ、考えて。)
(一体、どういうこと。人の数ではなく、形が問題?)
(人の体を解剖してみれば、見事にどの体も同じ器官を、同じ位置関係で備えているだろう。その位置関係はひとつであり、人の数は関係ない。)
(奇形というものがあるでしょう?)
(同じものが問題で、奇形は「あれ」らの射程の内にない。同様に事故や病気も。)
(どういうことなの?分からないわ。)
(形だ。形を壊すのだ。)
(それがどうして「あれ」らの計画を阻むのかしら。)
(ひとつの肉体の形の破壊は、形そのものの破壊だから。)
(やっぱり分からない。)
(お前がひとつの肉体の形を壊せば、「あれ」らの計画に綻びが生じるだろう。いいや、計画全体が狂うかも知れない。)
(肉体の形を壊すということは、人を殺すということ?自殺するということ?)
(生命から「あれ」らが押し付けた形を引き剥がすのだ。殺すことではない。)
(でも、どうして私がこれに関係しなければならないの?そもそも、私の頭の中で語っている声は誰?)
(私自身でなければ、誰だというの?私がやらなければ、誰がやると言うの?)
(何故、私なの?私でなければならないの?)
私が私の頭の中で語っている。そして、その声が私の肉体の形を壊せと言う。こんな馬鹿気た話しはありません。馬鹿気たことが現実に自分に起きている。次から次へと。この恐怖を分かってもらえるでしょうか。そして、何かよくないことが、災厄が近付いているのです。その災厄の終末的な規模と、茫漠とした姿が、空に蓋をする鋼色の恐怖となりました。土中に掘られた竪穴に、杭の格好で埋められていく、そんな気がしました。
私は、自分が辿る道を受け入れることができないでいました。宿命を引き受けることができなかった。なんとかその時の恐怖から逃がれることを考えました。
「あれ」らの存在などをシーソーの片端に置かなくても、この世界はちゃんとバランスが取れて説明がつくのです。「あれ」らの存在など、それくらいの不確かなものなのです。そんなものの最終目的が成就されることに怯えるのは、意味がないはずです。「あれ」らのことなど頭の中から追い出してしまえばいいのだ、そう思って、新たに配属された部署の課長が優しく話しかけてくれているのを見ていると、その顔にも「あれ」らの憎むべき計画が刻まれていて、無情にも餌食になる未来が浮びあがってくるのです。
そうです。菅原さん、あなたと話している時も、私はこんな事を考えていたのです。でも、あなたの話しが退屈だったわけではないので、勘違いなさらないでください。
振り切っても振り切っても、(「あれ」らの意図を阻止しなければならない。それは自分がやるしかない。自分の肉体の形を壊すのだ。)という考えが、どこまでも追い掛けてきました。
 そうしてとうとう、彼からのメールが届きました。
「あれ」らのことを知っている人を探そうという意識が、ふと消えている時でした。
彼が誰なのか、本名も住所も知りません。「山際」と名乗っていましたが、仮名だと断わっていました。彼が「あれ」らについて知っている人間だと確かめるまでそれほど時間はかかりませんでした。彼の方から、私に信じてもらうまで徹底的につきあうと言ってきて、私の質問に答えてくれたのです。彼にしても、私の質問の内容によって私が本当に見えている人間なのかどうかを測っていたのでしょう。この人は本物だと思った時は、心の底から溜息がでました。ついに私が見ているものが幻ではないことが証明され、同時に「あれ」らの企みがまぎれもない事実だということも証明されてしまったのですから。恐怖から逃がれることはできないのでした。
彼、山際さんとは一度もリアルに会ったことはありません。すべてメールとスカイプでのやり取りだけでした。Webカメラの粗い画像でしかありませんけれど、顔は知っています。お相撲さんみたいに太った人です。顔の上にもうひとう顔を被せたのかと思うほど顎の周りに肉が二重になっていて、さらにその下の体の盛り上りようが目を疑うほどでした。後になって恐る恐る、そんなに太っているのは「あれ」らの企みを阻むためかと聞いたことがあります。大きな体をゆさゆさ揺らして笑いながら「違う」と言ってました。
山際さんは、私なんかよりずっと考えていました。ずっと先のほうまで「あれ」らについて調べていました。
始まりは、やはり私と同じようにオークションサイトのリンクに出会ったことによるものだそうです。彼によれば、あのリンクは誰かが仕込んだものに違いないということでした。彼は、以前にWebサイトのプログラマーをしていたことがあるので、あのようなリンクの組込み方にも心当りがあると言っていました。では、なぜあのリンクを辿ったことが、世界の変様を引き起すのか。それには、「あれ」らがこの世界へ干渉してくる方法と深い関係があります。でも、それについて説明することはやめておきましょう。私自身が山際さんに説明された事を完全に理解しているとは言えませんから。彼のメールはまだ手元にあるので、今ならそれをここに引用することもできますけれど、そうすると菅原さんをこちらに引き摺り込んでしまいます。今でさえ、菅原さんがここまで読んでくださっていることはとても危険な状態なのに、これ以上近付くなと言っておいて門を開くようなことはしたくありません。ですから、山際さんの考えたことを細かく説明することはやめておきます。彼と接触するようになって、何が起きたかだけを書きます。
山際さんによれば、あのリンクを張ったのは一人の天才だったに違いないそうです。その一人が、警告を発し、その警告を受け止めることができる人々に行動を促すために仕掛けたのです。
最終目的は、もちろん、「あれ」らの計画を挫くこと。
山際さんは、こう言いました。
(これは、「あれ」らとの戦いだと思う。困難な、本当に困難な戦いだ。この戦いに勝てるかどうかは、あの天才にも予測できなかっただろう。あの天才も、恐らくこの戦いに参加したに違いない。「あれ」らのことを知った者は、そうせずにはいられなくなる、と思うんだ。で、天才がどうなったか。もう命を落しているかも知れない。あるいは、まだ壮絶に戦い続けているかも。天才と接触できないので、注意深く接触の道を絶ってあるので、僕にも分からない。
いずれにせよ、この戦いは本当に厳しい戦いだと思う。絶望的と言ったほうが正しいのかも知れない。勝てる見込みは、率直に言って、ゼロに近いのでは?でも戦わなくては。勝つことはできなくとも、破滅の到来を遅らせることはできるはずだ。ぐうっと向こうに壁を押しやるのだ。「あれ」らの思い通りにさせてはならない。僕たちの一人一人がそれをやらなければならない。僕らは、「あれ」らのことを知った以上、そうする義務があると思う。知っているということは、それだけで責任があるということ。僕らは戦わなければならないんだよ、樫山さん。
その戦いの方法について話そう。
「あれ」らの計画は、要するに形によって生命を抽象することなのだ。だから生命のDNAに干渉した。裏返せば、「あれ」らの準備している形がなければ、計画は遂行できない。そこで僕たちの取ることのできる戦術は、この「形」を壊すことにつきる。もっと他に、効果的な手段があるのかも知れないが、思いつけない。あの天才なら、何か考えついているのかも知れない。だが、それは分からない。僕に選ぶことができるのは、「形」を壊すことのみだ。
それで僕は、決心したよ、樫山さん。本当に怖いけれど、これは僕に与えられた使命なのだから、いつまでも躊躇しているわけにはいかない。まず、この耳から切り取ろうと思っている。足の指が、社会生活的には影響が少くないのかも知れないんだけど、残念ながら、この体でね。足の指に手が届かないのだ。それに、半分引き篭りみたいな僕には、他人の目なんてないようなものだからね。耳だって大丈夫だろう。じゃあ、樫山さん、見ていてください。僕の決心が鈍らないように、見張っていて欲しいから。)
その後に私が見たものは、本当に信じられない光景でした。
山際さんの右手には、大きなカッターナイフが握られていました。額と顎の周りに汗が吹きでていて、それが照明に光っていました。左手で耳をつまんで引っ張りました。耳は太らないようで、ちょこんとついてるのが、あまり広がらず横にひしゃげました。右手でカッターナイフの刃を出すと、引っ張っている耳の根元にあて、一瞬動きを止めたようでした。肉に埋まった目が私に向かって怒鳴りだすように吊りあがり、鼻に皺がよって、人相が変りました。右腕の腱がびくっと盛り上がりました。「ごわー」というような割れた叫び声がスピーカーから聞こえました。目がぎゅっと閉じられ、右の方へ少し傾げながら俯き加減になって、何が起きているのか分からなくなった時、右手が鋸を挽くように前後に動きだしたのです。照明とWebカメラの解像度のせいで黒く見える血が、右腕の下をすーっと伝い、肘の先からぽたぽた落ちだしました。まるまるとした右手の中に隠れているカッターナイフがずんずん下っていきます。山際さんの荒い息だけが聞こえていました。耳の根元の、切り開かれたところが見えてきて、左手が少しずつ顔から離れていきました。最後に、耳朶のところでやはり一瞬動きが止まり、それから「ふんん」という強い鼻息と共に、山際さんは完全に自分の耳を切り離しました。たくさんの血が、頬から顎へと流れていました。
山際さんは、切り取った耳をカメラの前に掲げると、疲れた笑顔を見せて言いました。
「どう?やったよ。やったよ。」
画面の真ん中でつままれて差し出されている耳は、透明人間がそこにいて、耳だけ見えたのを山際さんが捕まえたみたいでした。そんなことを思っている一方で、胸がもやもやとした塊になる気持ち悪さを感じながら、頭の芯がじーんと震え続けている気がしていました。画面の肉の塊から、目を離せませんでした。何か、くぐり抜けたような感じが、そこにはありました。
山際さんは、唐突にこんな事を語りだしたのです。
「僕が太りだしたのは、中学の頃だったんだ。とにかく甘い物が好きでね。それと早食いさ。なんだか必死になって食べないと、食べた気がしないんだ。それでアイスクリームをどか食いしちゃって。アイスって、当然だけど冷いでしょう?口の中が痺れて、味がしなくなるんだよ。すると食べてない気がして、もっと食べたくなるんだ。あっという間に百キロを越えてた。もともと体力が無いのに体が重くなるもんだから、動くのが億劫になる。全般的にどんよりしてくるんだよね。お決まりのコースで、学校ではいじめられる。というより避けられる。家では、遠巻きにして心配される。居場所がどんどん無くなって、もう心の中は隙間みたいな空間しかないのに、体は必要以上に膨張していくんだ。負の連鎖反応だ。負のスパイラルだ。酷いやつがいてね。『その肉には神経が通ってんのかよ?』って言って、シャーペンを脇腹に刺してくるんだ。芯を出して、何回も、何回も。ワイシャツに黒い点々がついて、胡麻でも散らしたみたいになった。泣きながら、便所で脇腹を見たら、シャーペンの芯が何本も刺さって、腹の肉に埋まっているのもあった。びっくりして、爪で掻き出そうとしたら皮膚が破れて、血がでてきたよ。意味もなく体を殴られるのなんか、数えだしたらキリがないくらいだった。高校は進学校だったから、体に傷がつくほどのいじめはなかったけれど、完璧に無視されてた。それはそれで辛かったけれど、体の方が別の悲鳴をあげだしてね。胸が苦しくなったり、眠れなくなったり。食べたものを吐いたりもした。そうかと思うと、食べ続けるんだ。親も心配して、とうとう入院したんだよ。それでまあ、なんとか体重の増加は抑えることができた。」
私は、話しの切れ目を待って言いました。
「山際さん。いったい何の話しなのかしら。」私は、耳から流れ続ける血が気になっていたのです。
「ああ、ごめんね。つい高ぶってしまって。嫌だった?」
「いえ。でも、まずその血を止めたほうが。」
「そうだね。でも、大丈夫だよ。こうやってタオルで押さえておけば。じんじんと熱い感じだけど、それほど痛みはないよ。なんとなくふわふわしてるかも。」
「そう。大丈夫ならいいけど。」
「もう少し話してもいいかな?」私はうなずきました。「でね、なんで太るようになったかということなんだけれど、精神科にまで通ったんだけど、原因は分からないままなんだ。普通はさ、ええと普通ってのもおかしいんだけど、つまりありがちな原因としてはさぁ、ストレスだとかコンプレックスとか、家庭環境なんかじゃないの。でも、そんな要素は少しもないんだよ、僕の場合。平凡な男が異常に太ってしまったんだ。」
私は、山際さんの体が少し震えているのを見逃しませんでした。
「たまたまなんだ。たまたま道を外れて、僕は太り過ぎてしまったんだ。そこに何の理由もない。どんな原因もない。もう本当に事故だ。」
「『あれ』らについて知ったのも事故だということ?」
「僕はそう思ってる。知らなくても、生きていけるんだもの。ただ、明日、『あれ』らの計画が発動すると、みんな無になってしまうわけだけどね。それでも、その時までくよくよ悩んでいるよりは、知らないでいる方が幸せなのかも知れない。ほら、未知の伝染病を恐れてびくびく暮すよりは、思い悩まず気楽に毎日を送ったほうが得だということだよ。それなのに、この事故に遭ってしまったら、もう以前には戻れない。そうすると、どうしたらいいか、ということだよね。」
「私の考えていることが分かると言いたいの?」
「ああ。仲間を求めたということは、自分が知ってしまった事から逃げだしたいと思っているんだな、と思っていたよ。」
「あなたはどう思ってるの?」
「さ、この耳を見て。僕はやったよ。今は、成し遂げたという気持ちで清々しいよ。この気分がいつまで続くか知らないけれど、やはり『あれ』らの計画にブレーキをかけてやっている実感はあるんだ。やってよかったよ。」
その後、日を置きながら、山際さんは右の耳を切り落し、鼻を削ぎ落しました。
どちらの時も、私に注視することを求めました。私は吐き気を必死で堪えながら、画面に映る狂気の沙汰を凝視めました。自分の体を傷つけた後の山際さんは、最初の時の昂揚に比べると憔悴の影が濃くなっていって、頭がぐらぐら揺れ、口もきけない様子になるのでした。その目だけは熱を帯びて光り、顔の肉の間から浮かび上がってくるようでした。
それから山際さんは、左手の指全部、唇、目蓋へすすむつもりだ、と計画を語った後、連絡してこなくなりました。メールを送っても、返事がないのです。仮名しか知らず、ネット上でだけのやり取りだったので、住所なども知る由もありません。ぷつりと繋りが絶たれました。
こうなることは予想していました。
私は、ようやく大きな塊を飲み下した感じでした。
とうとう私の番だ、と思いました。
山際さんが辿った道を私が追った後は、どうなるんだろう、と思いました。「あれ」らの計画を誰が阻むのだろうか、もう誰もいなかったらどうなるのだろう。いいえ、誰かがやるに違いないのです。私のような巡り合わせが、きっと誰かのもとを訪ずれるのです。そして、この絶望的な戦いに参加することになるのです。
そうです。私は戦いに参加しました。もう他に選択の余地はなかったのです。それで、まず足の指を切り落しました。そのことはご存知の通りです。仕事の上では、ご迷惑をおかけしてしまいした。本当に申し訳ないと思っています。ごめんなさい。
 最初の指を切り落した時は、心臓が破裂するかと思うほどどきどきしました。山際さんが言っていたような達成感はそれほど感じませんでしたが、それとは別に私は、「あれ」らの存在を強烈に感じました。私のとった行為に対して「あれ」らが怒り狂い、痙攣して悪態をついているのが分かったのです。「あれ」らは私のすぐ側にいて、硫黄のような息を私の頬に吐きかけながら、激しい怒りにきりきり舞いしていました。目に見えたわけではありません。それでも、「あれ」らの悍しい姿形が今にも目の前に現われるような気がしました。その衝撃が強すぎたせいか、私は気を失ってしまいました。
次の指にとりかかるにはだいぶ躊躇いましたが、二本目を通り過ぎると、後は事務的に行えるようになりました。体は悲鳴をあげました。悲鳴と言うよりは、物が壊れてばらばらになる時の音がしていたようです。私は自分の体から「あれ」らの痕跡を削ぎ落していきました。
自分の身を文字通り削ることで、敵の計画の進路に石塊を撒き散らす。狂った児戯。戦術ですらない。苦しまぎれの捨て鉢。すでに敗北は決定的なのです。では、徒労なのでしょうか。その答えすら分からない。ただただ、恐怖の毒が体中に広がっていくのだけが分かるのでした。
私は、山際さんが語らなかったことがあることに気がつきました。「あれ」らの牙は、私達の生命にがっちりと噛み付いているため、「あれ」らの痕跡を剥ぎ落すということは、自分の命を削ることに他ならないのです。
私も、だいぶ自分の生命を減らしました。「あれ」らの計画の遅滞はかなりなものだと思いますが、私の時間も尽きようとしているみたいです。「あれ」らは間接的にしか干渉できないので、私の行動に激怒しても、それ以上どうすることもできませんでした。でも、「あれ」らの敷いた道筋は、周到に綿密に設計されていて、予定通りではないにせよ進路を外れることはありません。私は何をしたのでしょうか。こんなに体をずたずたにして。薄ら寒く、重く垂れる敗北感だけを感じます。それでも、残りの痕跡を剥ぎ取らなければなりません。最後の力がまだ残っていることを祈りましょう。
これが、私の身の上に起きたことです。
表現の拙さで、正確さに欠けた部分があるでしょうが、嘘を書いてはいないと思っています。
菅原さんがここまで読んでくださったとしたら、それは私にとって大きな慰めです。何度も書きますが、ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。それと、私に親切に接してくださってありがとうございました。お願いですから、私が近付いたものには近付かないでください。ここに書いてあること以上のことを知ろうとなさらないでください。私のことは忘れてしまってください。では、長々と失礼しました。さようなら。
------------------------

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/10/2 23:44 +9:00
Subject:Re:Re:樫山恵美の件
高松君、
君のメールを何度も読み返したよ。
信じてほしいが、今は感謝の気持ちで一杯だ。君のおかげで目が醒めた気がする。
もちろん、罵倒されるのは辛かったが、そうでもしてくれなければ僕の目は物事を正しく見ることができなかった。
君が書いていた通り、あの文書は狂気による妄想の産物でしかないと思う。まさに「矛盾だらけの意味不明な文章」だ。そんなものに慌てふためいた自分が悲しい。そして、君にまで迷惑をかけたことが恥かしい。
亡くなった人には申し訳ないが、あの文書はもう削除したよ。君もどうか消しておいてくれ。
一言だけ弁解させてもらえれば、樫山恵美は僕の部下だったんだ。僕は生きている彼女に接し、彼女の声を聞き、その表情の移り変りを見たのだ。それが信頼の土壌であり、まず彼女のことを信じてからでないと何事も始まらなかった、ということを理解して欲しい。
兎にも角にも、今は、疲れた。明日はゆっくり休むよ。また、呑みに行こう。では、では。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/10/31 15:26 +9:00
Subject:相談
高松君。
菅原です。
今月の始めに君に迷惑をかけた件について、ちょっと聞いて欲しくてメールしている。樫山恵美の件だよ。覚えているだろう?彼女の狂った文章で僕が大騒ぎしたものだから、君に叱られたよね。
その傍迷惑な亡霊が、また蠢いているみたいなんだ。
あの文章の中に、「山際」という男が登場していたことを覚えているかい?僕の手元にもあのファイルは無いのでハッキリはしないけれども、樫山恵美と同じような症状になっている男で、彼女とネットで知り合い、彼女の自傷に影響を与えた男だったと思う。すごい肥満体なんじゃなかったかな。
その「山際」の妹と名乗る人物からメールが送られてきたんだ。自分の兄のことで知っていることがあったら教えて欲しいのだそうだ。
どうしようか迷ったんだけれど、今までの経緯を包み隠さず知らせようと思っているんだ。君の意見を聞かせてくれないか。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/10/31 21:07 +9:00
Subject:Re:Re:相談
高松君。
菅原です。
うーん、なんということだ。確かに君の言うとおり、「山際」が仮名だと書いてあった記憶がある。じゃあ、妹というのは偽物ということか。ひょっとしてこれは、手の込んだいたずらかね?だとしたら、一体誰が犯人なんだろう。樫山恵美の周りの人間?おいおい、「山際」というのも実在する人間なのかぁ?
なんだか腹が立ってきたよ。一切無視してやろうと思う。
では。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/11/6 23:08 +9:00
Subject:(未設定)
高松君。
菅原です。
また、樫山恵美関連のことだ。うんざりだろうとは思うが、どうか見捨てずに、最後までつきあってくれるようお願いする。君だけが頼りなのだ。
 まず、僕は「山際」の妹という人物に会ったことを報告しておこう。今日のお昼のことだよ。あれはいたずらではなくて、「山際」という人物は実在し、妹も本物のようなのだ。ただ「山際」という名は確かに仮名で、「山際」の妹と名乗った方が通りやすいだろうと考えたということらしい。結局本名は明かさなかった。今は仮にYと呼んでおこう。
そのYに会うに至った経緯は以下の通りだ。
もう察しているとは思うが、僕は、この前「山際」の妹と名乗って届いたメールを無視できずに返事を書いた。いたずらなら、騙されたふりをして犯人の正体を見透かしてやろうと思ったのだ。
僕は、僕が誰だか知っているのか、どうして僕にメールすることができたのかと質した。
返信には、僕が樫山恵美の職場の上司であることを知っているとあった。それは樫山恵美から聞いたということだった。僕のメールアドレスを知っているのは、樫山恵美の死後のメールを送信したのが、Yだったからだ。添付してあった樫山の文書には触れられていなかったが、樫山とYには接触があり、樫山が死後のメール送信を頼めるぐらいの信頼関係があった。
Yと樫山の接点は、やはりYの兄である「山際」を介してだった。兄の様子を案じたYが、その兄と頻繁にやりとりしている樫山に接触したのがきっかけだ。兄に内緒で、使っているパソコンから樫山の情報を取り出すのは大変だったとYは書いていた。「山際」は殆ど一日中パソコンの前に座っていたからだ。どうも「山際」はフリーランスのプログラマをしていたように見える。Y自身は詳しいことを知らなかった。Yの家庭では兄のことは腫れ物になっていたんだ。Yには、彼女の両親が「山際」の存在を忘れようとしているように見えたらしい。だが、Yにとっては「山際」は優しい兄だった。奇怪な巨漢となって、ずっと自分の部屋に籠っていたが、Yとは兄妹らしい会話ができた、妹思いの兄だったのだ。
それでYは兄の異変に気づくことができた。
Yがおかしいと思うようになった頃には、Yと話していても、「山際」はどことなく上の空で、怯えているようですらあった。始終緊張感から解放されないようで、目蓋がひくひく痙攣していたり、顔色がずっと悪かったという。Yは、休息を取るか、医者に診てもらうように勧めたのだが、少し俯いて首を振るだけだったと。家族の意見はきかなくても、友達の意見ならと考えて、樫山の存在をさぐりだし、接触してみた。兄の異変の原因についても手掛かりが得られるかも知れないとも思ったらしい。
樫山はYに、「山際」と樫山が何をしているのかを丁寧に説明したそうだ。Yの感想は、僕達の意見と同じだよ。兄も狂ってしまったのかと恐しくてならなかったとYは書いていた。
程なくして「山際」は死んだ。死因は、そうだ、失血死だ。表向きは自殺ということになっている。Yが虚をつかれている所へ、樫山から死後のメールを頼まれたと言う。ひと月以上連絡がなかったら、僕宛にメールを送ってくれと頼まれたんだ。Yが兄の死を知らせても、樫山からは返事がなくなった。
Yはこれまでのことを書いて、僕に会ってもらえないかと言ってきた。Yは「山際」の死について不審に思っている。「山際」が死に至った線上に樫山がいる。Yにしてみれば、そこに何かが隠されている気がしてならない。しかし、その樫山からは音沙汰が無くなってしまった。樫山につながる人物として僕が浮かび上がってきた。だから、僕に会って話しがしたい、僕は何か知っているだろうと言うのだ。「山際」についてどんなことでもいい。たとえ知らなくても、樫山についてのことでもいい。「山際」と樫山が関わっていたことについて知っているなら、どんなに些細なことでもいいからそれを話してくれないかとYは書いていた。
Yは兄の喪失を受け入れられないでいるんだ。藁でもすがる気で僕に接触してきたことが感じられた。僕の方は、樫山の文書に書かれていたことの一部が裏付けされることになるので、かなり動揺していた。メールだけのやり取りではなく、実際に会って話しがしたいというのに心が動かされたと思う。それに僕も、樫山の死について、間接的にせよ関係のある人間から話しを聞きたい気持ちが強くなったんだ。君が眉を顰めるのが目に浮ぶが、樫山のことはやはり僕の心に引掛ったままなんだ。あの文書について、全てを否定できない自分がいる。それと、あの文書の内容についてYは知らないようなので、それを教えてやれば、Yの期待にもわずかながら応えられそうだし、Yが知っていることで樫山が直面していた事(「あれ」らのこと)に関係したことを聞きだせるかも知れないと思った。
以上のような次第で、僕はYと会うことにした。
それが今日で、二時に僕は、Yに指定された東京駅の丸の内北口へ行った。
なんでわざわざそんな場所を待合せに指定したのか。Yが言うには、オークションサイトで売買した物品を受け渡す時、よく丸の内北口を使うのだそうだ。
Yは、ぽっちゃりした女性だった。ダンガリーのワンピースを着て、味気ない感じ。樫山恵美とそう変らない歳ではないだろうか。
僕たちは移動して、新丸ビルの中の店に腰を下した。店の中は話し声でとんでもなく湧きかえっていた。その騒音の隙間に隠れるようにして、僕とYは自己紹介から始めたよ。Yが、メールに書いてきたことをあらかた繰り返し、僕の方は樫山が送ってきた文書の内容を説明した。もちろん思い出しながらだ。あの文書を削除したことをちょっとばかり後悔した。樫山が書いていたこととして僕が話すことに、Yはしっかり頷くんだ。ひとつひとつ腑に落ちるという感じでね。樫山と山際が連絡を取り合うようになった経緯(いきさつ)については、僕とYのどちらも納得した。焦点は、もちろん、樫山とYの兄「山際」を死に至らしめたのが何なのかということだった。
まず、樫山が経験した体の変調については、山際の口から聞いたことは無いとYは言った。それから、山際とYの間で「あれ」らに関することと思われる話がでたこともないらしい。しかし、樫山と山際の間で「あれ」らと呼ばれるものについての物語が共有されていて、それが彼等の関心を占有していたことは確かだった。それだけではない。彼等は「あれ」らに振り回された。「あれ」らを恐れた。その恐怖の只中で「あれ」らに戦いを挑んだ。その戦術は自分の体を傷つけ、滅茶苦茶にするというものだった。挙句、彼等は死ぬことになったのだ。
Yは「あれ」らとは何なのかと真剣に聞いてきた。「おそらく、この時空の外側に存在するもので、この世界の生命を監視し、干渉して、最終的には生命の本質のようなものを奪取することを狙っている…」と僕は説明したんだが、眩暈がしそうだった。自分はいったい何を話しているんだろうと思って。あの時、僕達の話している事を聞いていた人がいたら、さぞかしおかしかったろう。僕達だけ別の空間にいるようだった。賑やかなこの世界に重なり合った別の世界に置かれたようだった。僕達の世界では、遠くの方からだんだん闇が迫ってきている気がした。この世界は土曜日の昼下りなのに。
Yはたたみかけるようにして「あれ」らの話を信じるかと問うてきた。信じないとは言ったんだが、内心は驚いていたよ。「あれ」らの話はそもそも、信じる、信じないの二者択一の態度を表明するようなものなのだったろうかと思ってね。「あれ」らの話は完全な妄想だったはずなのに、信じないと答えている僕の視野では、「完全な」姿から揺れ動いて広がる雲へと変っていたのだ。
信じないと答えた僕にYは同意した。声を出さず、何度も頷いた。それから目を伏せたまま、自分のバッグからUSBメモリを取り出して、僕の方へ差し出した。
「兄は自分のパソコンをキレイに片付けてから死んだようです。パソコンの中のデータは全て消去されていました。念入りで、兄らしかった。このUSBメモリは、机の中から出てきたものです。バックアップか何かのために一時的な退避用として使ったものが、兄の目から逃れたんだと思います。中には一つ、ファイルが入っています。兄が書いたものだと思います。私にはこれの内容を理解することができませんでした。菅原さんなら、お分かりになるんではないでしょうか。どうか、兄のために読んでみてください。お願いします。」
僕は何度か断わった。樫山の文書を思い出して、嫌な気分だったんだ。でも結局はYの頼みを聞くことになった。もしかすると、Yは兄が書いたものを厄介払いしたかったのかも知れない。兄の思いを受け止めてあげて欲しいと頭を下げられて押し切られたんだけれど。僕はUSBメモリを受け取って、Yと別れた。また何かあったら連絡を下さいと言ってはみたが、Yの目の色を見れば、もう会うつもりがないことが分かった。
USBメモリの中には確かにファイルがあった。もう読んだよ。先程読み終えたんだ。それは完結しているわけではなかった。断片だった。しかも、Yが期待したようには内容を理解できたわけではない。
そこで、だ。
ここからようやく、このメールの本題に入るよ。実は、君にその山際の文書を読んでもらいたいのだ。なんて厚かましいんだろうな。これでも、おずおずと言ってるつもりだ。僕は、君の意見を聞きたい。でも、いきなり添付するのはやめておく。そんなことをしたら絶交されそうだからな。君が読んでみてもいいと言ってくれるなら送ることにする。僕としては、君の冷静な判断力を頼みにしたいんだ。どうか、読んで、意見を聞かせてはくれないだろうか。返事を待つよ。では。

From:菅原時雄 To:高松祥之
Date:2010/11/9 21:13 +9:00
Subject:Re:Re:
高松君。
ありがとう。恩に着るよ。
君の言葉はすべてしっかりと受け止めているつもりだ。
今や僕は樫山恵美の亡霊にとり憑かれた男だ。家族の中でも浮き上がっているのを感じる。会社でも様子が変だと陰口を叩かれている。なんとかしなければいけないんだ。
こんな時、君の友情が本当に有り難い。もう一度言うが、ありがとう。
では、山際の文書を添付する。

(新しい文書.txt)
あれらがいつから存在しているのか、それは永遠に謎だろう。恐らく、生命が誕生するより遥か以前から存在していたに違いない。この宇宙の外側にいるということは、この宇宙よりも古い存在であるということも考えられる。
だが、あれらが我々の宇宙を創造したのではない。あれらは我々の宇宙に対して外部に留まっている。そして、この宇宙を監視してきた。永劫の時の間、広がりも想像することができない闇の宙空で、光り輝く我々の宇宙を凝視してきた。
あれらは、この宇宙に生命が誕生したのを目撃した。
その意味するところは、たちどころに理解された。その理解が反射して、それまで形を持たなかったあれらは、形に陥いった。痙攣し、広がる。枝分かれし、重なり合い、絡みあう。繰り返しと結合。口が開き、分裂する。内部が外部へと展開する。島ができて、それが囲まれ、内部へと繰り込まれる。
しかし、形は生命ではない。あれらは、生命ではない。
その時からあれらの渇仰が始まった。あれらは、生命を欲し、生命を手に入れようとした。あるいは、生命になろうとした。だが、あれらは手を触れることすらできなかった。
この事を分かるには、観察者をイメージするのだ。封印されたフラスコの外にいる観察者。彼は、フラスコに生れた生命に魅入られ、それを手にしたいと思っているが、フラスコの外側に留め置かれるために、身悶えし、切歯扼腕する。
観察者に無くて、あれらにあるものは、ほぼ無限回の試行が許される際限無い時間だった。何度でもやり直せるということ。つまりは、なんでもできるということ。あれらは、生命に干渉する方法にたどりつく。
あれらが注目したのは、生命の核心にあるもの、生命の増殖の戦略だった。そこにはDNA、生命の設計図があった。設計と図。言葉と形。無生命から生命への、雲状の境界線には、言葉と形が橋となって掛っている。そこに着目して、あれらは、その形に干渉することにしたのだ。
フラスコの外側の観察者は、フラスコを透過する力によって中の形に干渉することができるだろう。フラスコを透過する力とは、観察を可能とする条件に他ならない。光だ。光が観察を可能とする。光は観察という行為を可能にする力だ。光はフラスコを透過する。その向きを変えれば、フラスコの中の生命の形に干渉することができる。実際、そうやってあれらは、地球の生命に干渉し続けたに違いない。
形をねじ曲げる。生命に枷をはめる。生命を歪める。強制。生命の殆どを絶滅させる失敗を繰り返しても、あれらは止めようとしなかった。
あれらは、そうやって形に干渉し、形を己らの意志に従わせることによって、生命を言葉へと導こうとしている。生命を言葉へと抽象し、フラスコの外へ取り出し、強奪するつもりなのだ。
それはいつのことだろう?あれらの生命の強奪は、一挙に行われるだろう。なぜなら言葉によって行われる以上は、一瞬にして全てが実現するだろうからだ。それがいつなのか、今の我々には分からない。恐しいことに、我々の生活はすでに覚束無く、未来を閉ざされたものになってしまっている。あれらという、我々を監視する、この世界の外側の悪意によって。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/11/13 14:26 +9:00
Subject:Re:菅原君のことです。
高松さん。恭子です。
メール、ありがとう。
菅原から高松さんのメールに返信がないということですが、変ですね。
病気ではないと思います。今日も普通に会社へ行きました。別に忙しそうでもないし。
菅原は、高松さんのことを本当に大切に思っているようで、いつも高松さんのことを話すときは、とても楽しそうなんですよ。それなのに、メールに返信しないなんて、どうしたんでしょう?
でも、様子がおかしいと言えばおかしいんです。
先週の土曜日、何処へ行くとも言わないで、ふらっと出掛けました。帰ってきたときは、むっつりしてて、なんか近寄りがたい感じでした。変でしょう?
何か心配事でもあるのか、と聞いてみたんですけれど、取り付く島もないというか…、
会社の人のお葬式があって以来、なんだかとっても暮しにくい調子です。
愚痴みたいになってしまいましたね。ごめんなさい。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/11/16 10:48 +9:00
Subject:(未設定)
高松さん、恭子です。
先日、菅原にくださった電話のこと、とても気になってメールしました。
喧嘩したのですか?電話口で菅原が怒鳴りだしたので、びっくりしました。普段は、大きな声なんか滅多に出さないんです。
喧嘩なんかしないで下さいね。菅原と高松さんが仲違いするのは、私にとってとても悲しいことなのです。だから、仲直りのお手伝いでできることがあれば、なんでも言ってください。
それに、高松さんを口実に菅原と話をすることができますから。
この前から、菅原はずっとふさぎこんでしまって、全然口をきいてくれないんですよ。
こんな可愛い奥さんをほったらかしにして、どういうつもりなんでしょう。浮気しちゃうよね。
なーんちゃって。

From:菅原恭子 To:高松さん
Date:2010/11/22 22:39 +9:00
Subject:お礼
高松さん、恭子です。
昨日は、ありがとうございました。
また、他人行儀だと言われるかも知れないけど、でも本当に感謝しています。お礼だけは言わせてね。
高松さんと話して、元気がでました。勇気かな?
私、相当ひどい顔していたみたいですね。高松さんの顔に書いてあったよ。昨日、話したように菅原の事ではだいぶ参ってるんです。でも、もう大丈夫。しっかりしなきゃ。
その菅原なんですけど、今日も一日部屋に籠ったきりです。中でぶつぶつ言ってるのが聞こえるんですけど、何をしているかは分かりません。食事には出てきました。体を壊さないよう、栄養だけはしっかりとらせようと思います。あんな風で会社の仕事が上手くいってるのか、それも心配なんです。
昨日もお願いしましたけど、一度家に来て、菅原に会ってやってくれませんか。会うとびっくりすると思うけど。別人みたいですもん。
それから、昨日は包帯だらけでごめんなさいね。高松さんの前ではちゃんとしてようと思ったんだけど、足の指は椅子の脚にぶつけるやら、手の指は包丁で切るやらで、あんなみっともない格好になっちゃって、恥かしいです。でも、たいした怪我ではないから、ご心配なく。
本当にありがとうございました。また、会いましょう。さようなら。

From:菅原茉莉 To:高松秋ちゃん
Date:2010/11/23 20:02 +9:00
Subject:この前のリンク
秋ちゃん、元気?茉莉だよ〜ん。
この前話してたリンク、送るね。
ママが見てたやつだよ。
このリンクをクリックするとすごいことが起きるって、うちらの学校で話題になってるんだ。
わたしはもうクリックしてみたけれど、「余白」なんとかとかいうブログにジャンプするだけなの。そのブログ、いろいろごちゃごちゃ書いてあるけど、ふつうのブログだよ。だから、わたしには何も起こらなかった。でも、秋ちゃんならちがうかもしれないから、いちおう送るね。
じゃあね。また電話しよう。
家庭ほうかい中の茉莉でした。
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