SSブログ
感想文:小説 ブログトップ
前の10件 | -

「未來のイヴ」(ヴィリエ・ド・リラダン著 齋藤磯雄訳) [感想文:小説]

 「アンドロイド」(人造人間)という言葉は、この「未來のイヴ」の中で使われたのを嚆矢とすると言う。見ると、「メンロパークの魔術師」エディソンが「私の手づくりの『アンドレイード』、つまり人造人間」(p.130)と語っている。もちろんこのエディソンは、実在の発明王をモデルにした登場人物である。
ここで話題になっているのは、人造人間の一部分、切り落された若い女の腕と見紛うばかりの人造の腕であって、人造人間本体ではない。この腕だけが何故登場するのかは謎だ。しかしその妖しさと、肉感的なイメージは印象に残る。対照的に、その後に登場する人造人間そのもの、エディソンによって造られた驚異、ハダリーには、肉感的なイメージ、熱の暈が感じられず、影の遙けさが漂う。
 「大擔(だいたん)不敵な實驗者」、「電氣学者」にして技師であるエディソンの手になるハダリーは電気仕掛けだ。女性の体にデザインされた金属製のボディ(甲冑体)を持つ。これは「屈折自在」な殻であり、ハダリーの生命系統を納める「造形的媒體」なのだ。そこに納められているのは、「豊饒(ほうぜう)、精巧、かつ幽玄」な機構である。そこには、「我等人間の身體組織の生命過程に見受けられるやうな醜惡な印象は何一つ」ない。それに比べて生命過程は、その発生状態を見れば、「何か異様な氣持」、「『陰惨なるもの』が『不條理なるもの』と『想像を絶するもの』とを相手にして張合つてゐるやうな、そんな氣持」になると言う。
 ハダリーは如何にして歩行するか。エディソンの口から詳しく説明されている。おそらく作者リラダンのアイデアを盛り込んでいるためだろう。水銀を充填した、20キロ強にもなる脚を電磁石によって引き上げる。それによりバランスが失なわれる。すると胴体内部に設置された円盤上のガラスボールが転がり、電流のスイッチを切って脚を前方へ下し、同時に反対の脚を引き上げるスイッチを入れ、これを左右交互に繰り返して歩むのである。転がるボールの音、機械式スイッチの音、重い脚が接地する音など、ハダリーは結構な騒音を発するのではないだろうか。もっとも作中でエディソンはそれを否定してはいるけれど。
 ハダリーの機構で目を引くのは、言葉を話す仕組みと動作を実現する仕組みである。ハダリーに頭脳はない。AIに類したものは無いので、推論、学習といった働きは一切しない。オルゴールと蓄音機のアイデアを組み合わせた仕掛けが、ハダリーの応答と行動を実現する。ハダリーは予め記録しておいた文句を録音された音声で再生する。体の動きも、実際の人間の動きが「圓管(えんくわん)」に記録され、それが定義された一般的な約七十ほどの動作として「演奏」される。その演奏は、「圓管」上の突起物を櫛形の誘導神経が弾くことによるのだから、まるでオルゴールだ。作中で喩えられているのはオルガン(バルバリー風琴)であり、音楽の演奏と人間の振舞が照応したイメージとして呈示されている。この音声と動作が精妙に組合されることによって、ハダリーの「その場その場に應ずる言語動作」が実現される。
 エディソンからこの説明を受けたエワルド卿、ハダリーを未来の花嫁として迎える契約を結んだ貴族は困惑を覚える。ハダリーのサンプリングされた定型的な反応は、当意即妙、あるいは自由意志からはほど遠く見える。それに、ハダリーの振舞いを支離滅裂から救うためには、それに対応する人物、つまりエワルド卿自身がきまり文句を覚えて、芝居を打ち続けなければならなくなる。それは単調を免れないのではないか。
 これに対するエディソンの反駁は痛烈だ。そもそも社交における会話は「陳腐な紋切型」ではないか。「あらゆる言葉は繰返しにすぎず、またそれ以外のものではあり得ない」(p.282)のであり、我々が語るのはすでに語られてしまった言葉であり、それは「《卽興》のつもりで捲くし立てる埒(らち)もない無駄口」でしかないのだ。「その場で思ひついて何を言へと仰有るのです?」対するにハダリーの内部に記録された文句は、詩人や形而上学者や小説家たちに作らせた名言佳句なのである。無駄口に頭を絞るくらいなら、「時間の經濟」のために、プロフェッショナルによる成果物を活用すべきなのだ。
それに、人間の生活や会話は「永遠のあやふやさ」に包まれているから、「すべてのものが、完全に、すべてのものの返事になり得」る。そして「答への深さ美しさ」を創造するのは、実は問いそのものの中にあるのだ。そのような問いかけができる者に対してハダリーは、まさに待ち受けられた答を発するであろう。不毛の倦怠のない、裏切られることのない答が返るだろう。
ハダリーとの会話を芝居だとしても、そもそも芝居を打たぬ者などいるだろうか。「おのれの役割を心得ぬ連中だけが、芝居はせぬなどと言ひ張るのですよ。」(p.274)誠実など実現不可能な夢である。人間は誠実になり得るほど何事かを知ってはいない。人間は、あやふやな信念を互いに承認してもらうために利害の一致した芝居の打ちあいをしているに過ぎない。「もし人間が誠實であり得たら、どんな社會だつて一時間と持ちやしませんよ」(p.275)恋人たちもご同様。相手の心の中など幻の中で推し量られているだけだ。この幻が子供と結実し、そのおかげで人類は存続していける。恋人たちは「お互に識り合つたとただ單にさう思ひ込むや否や、それ以後はもうお互に習慣だけで結ばれて行」き、「お互の心に染み込んだ彼等の存在と彼等の想像の總體に執着(しふちやく)する」。「永遠に赤の他人である彼等戀人同士は、銘々が相手を原(もと)にしておのれの心に抱いた亡靈に執着」(p.276)するのである。これが芝居でなくて何であろう。「戀愛といふ情熱に於ては、一切が虚偽を土臺として空虚であり、無意識の上に築かれる錯覺であり、蜃氣樓から生ずる病患にすぎない」(p.278)。
そしてこの幻が現(うつつ)と同様に移ろわぬからと言って、それを単調だと責められようか。現実はそれほど変化に富むわけでもなければ、多様性に満ちているわけでもない。また無常の現実においては、恋愛が始まると同時に幻滅と衰退がしのび込んでいる。だから恋愛の唯一無二の、この上もなく甘美な瞬間を「永遠化すること、ああ、それを飛翔の途中で停め、それを固定し、自己をその中に限つてしまふこと! おのれの精神と最後の願望とをそこに化身させること! これこそ全人類の夢ではないでせうか。」(p.279)その至上な瞬間は「單調なそして高貴な時間」であろうが、それを繰返し味わうことに飽きるはずはない。その時間を繰返すために同じ言葉を繰返すように求められたら、それは芝居を打つことだろうか。絶対的な時間の中に永久に化身しようとする女性が単調だろうか。
 エディソンが語ることは逆説に満ちている。その冷笑の光は激しくこの世界を照らす。光源は「人類愛」と「かつて人間の口から發せられた、最も激しい絶望の叫び」(p.294)だ。ここに作者リラダンの声を認めることができる。「人類愛」という普遍的な価値を求めつつ、現実の世界に絶望していたのは作者自身に他ならないだろう。人造人間ハダリーという逆説は、呪詛にも似た絶望の叫びである。
 その逆説の方策は「妄想に報いるに妄想を以てす、罪惡に報いるに罪惡を以てす、蒸氣に報いるに蒸氣を以てす」(p.340)、あるいは、「幻に對するに幻を以て」(p.147)だ。
ここで蒸気とは蒸気機関のことに他ならず、それが象徴するものは科学と技術によって成立つ文明のことである。我々は「蒸気」のために先人が遺したあらゆる信仰を棄てた。科学的にしか考えられなくなって、生命あるものとないものとを区別できなくなり、「蒸気」と魂の見分けもつかなくなったのである。科学によって「苦惱」「謙譲」「愛」「信仰」「祈祷」「理想」、そして本質的「希望」をも否定し去った。その科学は常に「明日」完成すると空手形を発行する。やがて「未來」には「安樂な生活」が訪れ、「正義」が実現されるだろう、というわけだ。「常に脆弱(ぜいじやく)かつ幼稚な状態を脱しない自負心」(p.341)をもって「辻褄の合はぬ否定説や、いかにも變節漢らしい物識り顔の薄笑ひや、日ごと實生活によつて化の皮が剥がされる騒々しい道徳論など」(p.339)がまかり通る「現代至上主義」の社会、「偽瞞(ぎまん)的にして平俗、かつ轉變常(てんぺんつね)なき『現實』」(p.340)がそこにある。
この「蒸気」を「未來のイヴ」として性の物語の中へ持ち込んだのがハダリーというわけだ。「いけないわけはありますまい。」(p.340)
 しかし何故、「蒸気」は性の物語の中へ持ち込めるのだろうか。それは、「蒸気」のドグマが、複製し、保存することにあるからに他ならない。このことを象徴的に語るのが「蓄音機」である。
物語の冒頭、「蓄音機のパパ」たるエディソンは、自身の発明品である「蓄音機」、さらには「写真術」について夢想している。もし神話と伝説の時代に蓄音機や写真があったなら、「偉大な言葉」「神秘的な音色」が消え去ることなく録音され、「アララテ山頂より撮影せるノアの大洪水」(p.49)のような決定的瞬間が撮影されただろう。それは複製され、保存され、時を越えて運ばれ、現代に伝えられて「ありのままの現實」「あるがままの姿」(p.48)を知らせてくれたであろう。
 だが、それが複製である以上、「ありのままの現實」であろうはずはない。複製され、保存されることが意味を持つためには、コピーは「現實」よりもある点で小さくなければならないからである。小さくするためには捨てねばならない。その時捨てられるのが「内面的な意味」「眞の實在性を構成する意味」(p.32)である。それは「昔の人たちの耳の中でかつてその耳によつてそれらの音響が帯びてゐたところの、深い感銘を與へる特質」(p.32)であり、「しかもこれのみが、音響本來の無意味さに溌剌(はつらつ)たる活氣を與へてゐたのだ。」(p.32)「蓄音機」で録音=保存するということは、つまり「物音と聲も、聲と記號(きがう)も、事情は同じ」ようなものなのである。
複製され、保存されることによって、そこから「内面的な意味」が分岐し、生れる。一方、複製され、保存されたものは遠方へ運ばれ、あらゆる場所へ持ち込めるようになるのだ。性の物語の中へでさえも。
 ところでこの複製‐保存が蒸気=科学技術のドグマであるというのは、「《決定的》長持ち請合ひといふ保證がつけられてゐる」にしても、それは空手形であって、「肝腎なのはさうと確信してゐること、それだけ」(p.47)だからである。
 性の物語の中へ持ち込まれた科学のドグマによってハダリーに於て複製されるのは、アリシヤ・クラリーなる女優である。エワルド卿は、このアリシヤ・クラリーとの「永久に悲しみが癒(い)えぬやうな、實に不幸極まる戀」(p.60)に絶望し、この世を去ろうとして、別れの挨拶にエディソンのもとを訪れたのだった。
アリシヤは、「輝くばかりに」美しく、その「肉體が、實に神秘的なくらゐ、人間の容姿の理想的な典型に達して」(p.76)いて、ルーヴル美術館に収蔵されている「勝利のヴィナス」(=ミロのヴィーナス)の大理石像に生き写しである。しかし「その女の内的な存在はその容姿と著(いちじる)しく矛盾撞着して」(p.69)いた。アリシヤは「俗物(ブールジョワ)の女神」(p.81)を具象化したとも言える存在で、「頭が單純どころか、ただ愚劣なだけ」(p.89)、「否定的、嘲弄的な、いはゆる常識なるものの、病菌に冒されてゐる」のであった。「この常識なるものはあらゆるものをただ狭めてしまふだけであつて、その觀察の眼が向けられる對象はただ無意味な現實だけ、つまり、その熱狂的な信奉者どもが大袈裟に大地に卽した事物などと呼んでゐるあの現實だけに限られてゐるのです。」(p.89)要するにアリシヤは「超人的ともいへる美しさ」のかげに、「平凡な生温(なまぬる)さをそなへた性格や、俗惡な精神や、『黄金』『信仰』『愛』『藝術』のもつ純粋に外面的なもの、つまり空虚な幻影的なものへのひたむきで氣違ひじみた尊敬の念などが、蔽ひ隠されて」(p.96)いる女なのだ。
そしてこの、アリシヤの外見と内面の乖離が青年貴族を苦しめた。言わゆる見掛け倒しなわけだが、それによって世をはかなむほどに至った理由は、彼が「人は全體と結婚する」(p.368)のだと信じているからだった。エワルドはアリシヤの「肉體の美しさだけを享樂することに滿足」(p.367)できない。人は肉体と「内面的な本質」からなり、相手の「肉體をわが物にすると共に否應なく所有することになる魂の影が、拭ひ去るすべもなく、自分に染み込んでしまふ」(p.368)と信じている。この「内面的な本質」゠魂は霊魂とも呼ばれていて、「生きとし生ける者には、消し去ることの出來ない、本質的な、或る根柢があつて、それが、その人のあらゆる観念に、最も漠然たる觀念にさへも、更にはまたその人の受けるあらゆる印象、或は移ろひ或は移ろはぬあらゆる印象に、‐‐たとへそれらが外部的には如何なる修正を受けようとも、‐‐一定の相貌、色彩、品質、要するに、特徴を賦與(ふよ)するものであり、これらのものを通じてはじめてその人は物を感じとり省察することが出來る」(p.68)とされる「基體(スブストラトム)」である。
つまりエワルド卿は、アリシヤの肉体がもたらす官能の快楽がその「内面的な本質」と何の連絡も持たないことに幻滅し、そのような存在と関係することが、全体と結婚すべきであると信じている自分の「品性堕落の所業」(p.368)であると思ったのだ。だが、「内面的な本質」が有れば全体は失われている。エワルド卿の望む結婚は予め失われている。
アリシヤの俗悪な「内面」、「俗物の女神」は、性が複製され、保存された時に生まれた。複製‐保存されるものは価値を平坦に均してしまう。血統を担保にした貴族などは、複製‐保存の前に押し潰される。「貴族になれた時代はとうの昔に過ぎ去つた」(p.98)のであり、「頑強一徹なブールジョワジー」、「何はともあれ反抗的な本質」をもつものが席巻し、「俗物の女神」は「人類の四分の三にとつて『理想の女性』ともいへる」(p.98)ようになる。
 性が複製‐保存される物語は、アンダーソンとエヴリンにまつわる物語として語られる。
このアンダーソン‐エヴリンの対は、エワルド‐アリシヤの対の複製として見ることができる。エディソンによって語られるアンダーソン‐エヴリンの物語は物語の入れ子となっている。さらに、アンダーソン‐エヴリンとエワルド‐アリシヤという対の対照があって、重層的な構図が作り出される。この構図は単にバランスの為に取られているのではなく、ある空隙を生み出し、物語をそこへ導くために作り出されている。それは、アリシヤ‐エワルド‐ハダリーに対置した時に明かになる、エヴリン‐アンダーソン‐アンダーソン夫人の組合せの夫人の位置である。そこへ行く前に、アンダーソンとエヴリンの物語を見なければならない。
その物語自体は単純だ。立志伝中の人物、「實業界では、最も穏健著實(ちやくじつ)な頭脳の持主として、また活動家として認められてゐた」(p.212)エドワード・アンダーソンは、地位も得、立派な家庭も築いていたにもかかわらず、赫毛の美人の踊り子、エヴリン・ハバルの手管に弄されて、瞬く間にすべてを失い、果ては「絶望のあまり狂亂の發作を起して、ただあつさりと、この世におさらばを告げてしまつた」(p.223)。アンダーソンが「結局のところ、お坊ちやんにすぎなかつた」にしても、また「あらゆる點(てん)から見て、恥づべき弱さ、精神錯亂、肉慾の罪は免(まぬが)れぬ男」(p.236)だっとしても、竹馬の友であったエディソンは「實に深刻な動揺‐‐實に強烈な衝撃」(p.224)を受け、「彼の心、彼の感覚、彼の良心を掻き擾(みだ)して‐‐あのやうな最期に導くに至つた魅力の正體(しやうたい)を、嚴密に分析してみようといふ考へ」(p.224)に取り憑かれることになった。
エディソンの分析は苛烈で、その結論は、「ミス・エヴリン・ハバルの中には、精神的肉體的すべての實に邪悪な俗惡さがある」(p.227)のであり、アンダーソンを蠱惑したのは「虚無」、「空虚」による眩暈、「要するに單なる錯覺だった」(p.228)というものである。その魅力といわれるものは、エヴリンの「個性の本質的な貧しさの上にこつてりと塗りつけられたものだつた」(p.228)。それは「化粧術」による「生命の錯覺を與へる『人工物』」(p.256)だ。即ち「女性」自身が「おのれの代りに人工を置き換へ」(p.258)たのである。この置き換えによって、アンダーソンと似たような末路を辿る分別のある男が「あらゆる都會に弘まつて」しまった。
さて、置き換えることができるのは複製されたからだ。何が複製されたのかと言うと、それは「女性」、「血と肉とから立ち昇る烟霧(えんむ)の育むあらゆる汚穢な慾望」(p.231)を誘惑することができるもの、礼儀正しい閨房では愛の導きとなるはずの官能の刺戟であり、つまり「性」が複製され、保存されたのだ。複製されたものは運ばれ、流通し、金銭の価値へ変換され、エヴリンのような女の生活手段となる。「今の《社會組織》ぢや彼女等の生活手段がほかにはあまりありません」。だから、「金を稼ぐためにああいふ手段を使ふのですし、それが、今の世の中では、一番確かなやりかたなんですな」(p.236)。それを知るエヴリンのような女たちは、「その帶の結ばれる正にその一點に、『男』のあらゆる考へを連れ戻」(p.233)そうとする。その動機は「損得づくの打算」(p.233)。「俗物の女神」が登場する。
 「内面的意味」の担保のない複製は常に見掛け倒しである。言い換えるなら、中身は常に邪悪な俗悪さに満ちている。予め失われた結婚を求めるエワルド卿は叫ぶだろう。「ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!」(p.99)つまりこれは、いっそのこと外部だけに、表面だけに、複製されるものだけになったなら、という嘆息なわけである。それに対してエディソンのハダリーが応える。まさに「性」の複製の「造形的媒體」、内面のない表面=メディアとして。ここにメディアが自立して現れ、アリシヤ・クラリーはハダリーの上に、精緻に複製され、再現される。
アリシヤにおいてエワルドに幻滅をもたらしているものが、実は彼自身の「願望」にあることを、エディソンは正確に指摘する。ハダリーにおいて複製されるのはその「願望」の対象そのものだ。しかもそれは「本物」と見分けがつかないほどになる。「『理想』それ自體が、初めて、あなたの感覺にとつて、觸知し得るもの、聴取し得るもの、物質化されたものとして姿を現す」(p.137)。その時エワルド卿は、複製‐メディアとの結婚の契約に同意する。複製が精巧さを増して本物に近づき、本物に取って代る。その本物とは、複製を花嫁として迎える者の「願望」=「理想」に他ならない。複製物が「願望」そのものとなる。複製‐保存のドグマは「願望」を取込み、「願望」の装置となるだろう。その装置の志向はリアリズムである。
 こうしてエワルドの結婚が諾われると、物語は揺らぎ、前述したような構図を利用して空隙の点、もう一つの失われた結婚の花嫁、アンダーソン夫人へと導かれる。
夫を亡くした後、アンダーソン夫人は嗜眠性の奇病にかかり、眠ってしまった。磁気と電気に飾られたメスメリズム的な睡眠の中で、アンダーソン夫人はエニー・ソワナへと変容し、千里眼とテレパシーの能力を得る。そして、ハダリーに宿り、ハダリーを通して語りだす。
ハダリー自体には感官が無く、見えもせず、聞こえもせず、指輪の宝石だけがインターフェイスである。それと対照的に、ソワナは遠く離れた物を見ることができ、空間を越えて会話することができる。ソワナは遍在する。感覚のないメディア=ハダリーを通じて語りだすメッセージ=ソワナは遍在するのだ。そのソワナ‐アンダーソン夫人は眠りの中にいる。睡眠‐夢は、境界の無い世界であり、遍在する世界でもある。
 ソワナ‐ハダリーが語るのは、「目に見える空間が單にその表象にすぎないやうな、或る異なる空間が實在すること」(p.401)である。それは「窺ひ知れず、‐‐形無く、避くるすべなき『無限世界』」(p.406)、「およそ理性なるものは、(……)豫感(よかん)や眩暈(めまひ)による以外には、‐‐或は願望のなか以外には、‐‐その觀念を抱懐(ほうくわい)し得ない」「最も確實な現實」(p.400)。ソワナ‐ハダリーは、自分がその「無限の國」(p.408)からエワルドに差向けられた使者だと言う。その真の起源と真の目的とを思い起こさせ、死の淵へ向う身を救うために。失われた結婚を求めるエワルドは、「将來自己の生成すべき存在の、前觸れの豫告の影が射し入るやうに感じ」(p.401)、「未來の豫知」を知る人であり、今はそこにいない人々、「五官の世界に隣接するこの幽玄の世界に棲(す)む」「未來のものである人々」(p.401)から呼びかけられているのである。
ソワナ‐ハダリーの呼び掛けに応えるためには、ただそれに存在を授けること、それが「存在してゐるのだと確信」すればよい。その幻から醒めない覚悟をすればよいのだ。「ああ! わたくしからお目ざめにならないで!」(p.409)「わたくしが存在する方がよいとはお思ひになりません?‐‐さうお思ひでしたら、わたくしの存在についてかれこれ理窟をおつけにならないで。快くわたくしをお享(う)けになつて。」(p.412)
 この、逆説と呪詛の果てに届く奇妙なメッセージには作者の神秘主義を見てとれる。オカルティズムであるが故に、そのメッセージはメディア=ハダリーの造り主であるエディソンに対して隠されねばならない。「先程申上げたことはエディソン様には仰有らないで。あなたにだけ、なんですもの。」(p.428)また、複製され、保存されるメディアにまつわるオカルティックなメッセージには、本物に成り代わろうとするメディアに対する恐怖と不安、本物と複製の見分けがつかなくなることへの魅惑も込められているのだろう。
しかしこのメッセージは、ハダリーとしてエワルドの居城に運ばれる途中、大西洋の航路上で火災に遭い、海の底へと消えてしまう。エワルドの結婚は成就しない。ハダリーが格納される箱は「黒繻子で張りつめてある黒檀の重い柩(ひつぎ)」(p.165)であるのだから、それが葬られることは宿命であった。エディソンのもとに届くのは、「黙々として身をふるはせ」るより他ない、読み解かれざるメッセージである。「それから、最後に、視線を上げて、燦々たる萬古蒼茫(ばんこさうぼう)の星座を仰いだ。星座は、重い雲の間に冷嚴に燃え、抱懐すべからざる天空の神秘を、無限に横切つて進んで行くのであつた。」(p.456)
 こうして、最初の「アンドロイド」の物語は終る。それは、逆説による冷笑、絶望による呪詛、複製‐保存に対する魅惑が組み合されて構築された物語だった。それだけではない。奇体なオブジェに対する趣向もあって、例えばハダリーは、バッテリーが消耗して「氣絶」するのだが、再起動後に碧玉の薄手のコップによって真清水を飲み、「一瞬後に、私たちの美しいハダリーは、半ば閉ぢた唇の間から、青白い煙をふわふわとかろやかに吐き出しますが、この煙は今申上げた粉のために虹色に煌いてゐますし、熱い蒸氣のやうな匂がするだけで、それも、先程申上げた薔薇の精油の上を通つて來まので、まあ芳しいと申してもよろしいくらゐです。」(p.180)なんと奇怪で美しく、フェティッシュなイメージだろうか。読む者は、エワルド卿と共に叫びたくなるだろう。「何ですつて! 唇の間からふわふわと煙を吐くのですつて?」(p.181)

「ハーモニー」伊藤計劃著 [感想文:小説]

 本作の冒頭には奇妙な記号が置かれている。「〈?Emotion-in-Text Markup Language:version=1.2:encoding=EMO-590378?〉」などだ。これらは作中の随所に埋め込まれている。これが何であるかは作中で説明されていて、それは「etml」という架空のマークアップ言語の記述なのである。etml はメッセージ内容に付加されるメタ情報、主に「感情」の伝達を実現するためにあるとされる。
マークアップ言語は、通常、メッセージの受信者の視野の外にある。言語とは言うものの、その相手は、大抵はコンピュータなどのメディア・デバイスだ。
それで、「ハーモニー」を読むことは、架空のデバイスの位置に身を置くことになる。あるいは、置かされていたことに気がつく。これは、物語の中の物語、入れ子になった物語の効果をもたらしている。[物語a]が一度起り、それにメタ情報が付加されるという事態が起った[物語a+]が最初の[物語a]を語っているのである。しかも、末尾に仕掛けのスイッチが置かれているため、読者は語られた物語にもう一度目を向けざるを得なくなる。
 さて、その物語とは、霧慧トァンの物語である。
霧慧トァンを取り巻く世界は超高度医療福祉社会だ。
その昔、世界には「大災禍(ザ・メイルストロム)」があった。それは、アメリカを中心として拡散した大暴動と、それにより核兵器が使用された、戦争と虐殺の時代であった。世界は混乱し、荒廃した。結果、放射線の影響で癌が増加した。また、突然変異と思しき未知のウィルスによる疫病が蔓延し、人類の生存がとてつもなく脅かされた。人類社会は、その構成員を限られた資源(リソース)として意識し、その健康を守ることを最大の責務とみなすようになった。
医療分子(メディモル)というナノ・テクノロジーの発明がその人類の選択を支えた。
医療分子は体内に常駐し、サーバーに接続されて、人体を常時監視する(WatchMe)。疾病の兆候、異常を逸早く察知し、可塑的製薬分子(メディベース)によって予防、修復、治癒を行なう。
このインフラが、超高度医療福祉社会を実現させる。
医療システムを利用することに合意した共同体=医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)、生府(ヴァイガメント)が登場したのだ。そのため従来の政府は縮退した。
この医療福祉社会は、その構成員を包みこみ、病気にならないように、怪我をしないように、傷つかないように見守る、医療と思いやりと慈しみの社会となった。
この社会の依って立つ思想は、生命主義、生命至上主義と呼ばれる。生命主義では、人間の尊厳の条件を次の三点と見なす。まず、「構成員の健康の保全を統治機構にとつて最大の責務と見なす政治的主張」。第二に、ネットワークされた健康監視システムへ構成員を組み込み、安価な薬剤と医療による医療消費システムを実現すること。第三に、「将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供」である。
ピンク色をした優しい社会。緻密な論理で透視され、あり得る未来として描き出された社会は、なんと息苦しいのだろう。それは慈母のファシズムと形容される。
 そこにガラスのような少女たちが登場する。御冷ミャハ、霧慧トァン、零下堂キアンの三人だ。
美しく孤立するクラス随一の変わり者、「ソプラノの喉を持つ男の子のような声」をして、おせっかいな優しい社会を憎む、思春期のイデオローグ、御冷ミャハの磁力に引きつけられるトァンとキアン。ミャハは、境界を乗り越え、社会の束縛を断ち切り、自分を社会から取り戻し、自分自身で選択する自由を回復しようとする。溺れかけている自分を感じていたトァンは、ミャハをアイコンと仰ぐ。そして三人は、大人たちを出し抜き、餓死することによって死ぬ自由を取り戻そうと謀った。しかしミャハ以外の二人は失敗してしまう。
 それから十三年後、霧慧トァンは「螺旋監察官」となっている。それは、「世界原子力機構(IAEA)の遺伝子版」であり、生府なり政府なりが「健康的で人間的な」生活を保障しているかどうか査察する仕事だ。
なんとか社会と折り合いをつけて成人したトァンを死んだはずのミャハの影が訪れる。
ここから物語は、不気味な緊迫感に包まれて行く。それは、高度医療福祉社会のその先へと、作者が挑んだ根源的な思弁の緊迫感なのである。
 作者は、意識とは何かと問う。しかし、これが論争のための書ではないことは考慮しておくべきだろう。作者の思弁を追体験するようにしたい。
さて意識は、脳における報酬系を制御する活動と考えることができる。報酬系とは人の「選択を繰り返し行いたくなる動機づけを与える領域」で、それによって動機づけられる「欲求」のエージェントの数々が、競合し、葛藤し、調整して選択されようとするプロセスそのものが意志なのだ。それは喧騒の会議とイメージできる。そして、選択された「欲求」のエージェントの集合が、それと感覚されるものを形作るのである。つまり知覚される現実は、選択されたエージェントによって構成される。即ちそれが意識なのだ。
「欲求」のエージェントの競合と選択のプロセスが意識なら、動物にも意識を認めることができる。そこから意識は、進化の途上で遺伝的にプログラミングされた形質だと見なせる。
進化は場当たり的な適応の集積にすぎない。意識は、おのれが最高位にあり、すべてだと思いたがり、予測し、統御する自分の機能があらゆるものに適用可能だと考えたがるが、単に、進化の途上で獲得された適応の継ぎ接ぎの一部でしかないと考えられる。人間を取り巻く環境が変れば、時代遅れの機能となることもあるだろう。
進化の継ぎ接ぎの結果であるがために、報酬系は目の前の価値を最も高く評価する非線形の判断を行なってしまう。その場しのぎの生き残り戦略の残滓だ。これがフィードバックを伴う再帰的構造を取るため、報酬系の判断はカオスを生み出してしまう。人間の意志の、予測し難い、非合理性はここに由来する。それは人間の脳という自然なのである。暴虐、混乱、荒廃の根は人間の脳そのものにあるのかもしれない。
人間が積み上げてきた営為は、自然の制御、予測不能なものを抑えこもうとする意志の結果と見なせる。それなら、人間は脳という自然をも制御しようとするだろう。身体は治療するのに、脳を治療してはいけない法はないのだから。
脳の制御は、報酬系の価値判断の線形化になるだろう。それは、選択に葛藤がなく、行動が自明になる状態だろう。選択の葛藤の消失とは、言い換えれば、自律の価値観の消去である。それでどうやって行動し、生活できるのか。ネットワークに繋がったシステムに代替させる゠外注することでそれが可能になる。
 その結果、何が、どんな世界がやって来るか。
本作「ハーモニー」で示されるその世界は「永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与え」る、強烈で、皮肉な衝撃をもたらし、読む者を途方に暮れさせる。
そこに三人の少女の、運命の軌跡が刻みこまれる。少女の、過剰で脆く、哀切な自意識がアラベスクを描く。
この作品は、透き通った傷つきやすい皮膚をしているようだ。それに、物として触知できると思わせるほどの喪失感を湛えている。
 物語の最後に、我々は「etml」を気づかされる。etmlの記述が終る時の意味を感じさせられることになる。それは、意識と物語を読むということの不思議な関係へ目を向けさせる。「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」という御冷ミャハの言葉が轟くだろう。作者が、物語を読むことに救済を見出したとは思わないが、その力を信じたことは確かだろう。
 本作では、ゲーテ、坂口安吾、フーコーなどへの言及が登場する。「全書籍図書館」の名前は「ボルヘス」だ。谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」のパロディ、「ただの人間には興味がないの」は分ったが、それ以外にもあるのかどうかは分らなかった。

「屍者の帝国」伊藤計劃+円城塔 [感想文:小説]

 この作品はもともと、故伊藤計劃氏の長篇、「虐殺器官」「ハーモニー」に次ぐ作品になるはずであったものだそうだ。故伊藤氏は30頁足らずのプロローグを残し、それを基に円城塔氏が全体を書き上げた。経緯は、円城氏による「文庫版あとがき」に詳しい。
舞台裏の成立事情だが、その才能が惜しまれる伊藤氏と円城氏の関係も含めて興味が尽きない。そして、もし、伊藤計劃が生きていてこの作品を書いたら、と想像してみたくなる。この「もしも」は、別の新たな歴史改変SFへの扉のような気がしてくる。物語の終った処から、物語の外側で、「もしも」の世界が広がっていく。それは、この物語の主題と仕掛けに絡んで来て、故伊藤計劃氏が蒔き、円城塔氏が育てた世界に呑み込まれてゆく眩暈をもたらす。
 物語の主人公は、ジョン・H・ワトソン。この「屍者の帝国」という物語の外側で、ロンドン、モンテギュー街に間借りする「諮問(コンサルタント)探偵」=シャーロック・ホームズに出会い、数奇な冒険を繰り広げることになる人物だ。ホームズの物語の中では、ワトソン博士は「アフガン戦争」から帰還したことになっているが、本作はワトソン博士登場の前日譚ということにもなる。
ワトソンの活躍する舞台は、「もしも」の過去、19世紀末の仮構の歴史である。この世界で「必要なのは、何をおいてもまず、屍体(したい)だ。」
遡ること100年ほど前、ビクター・フランケンシュタインは魂の正体を突き止め、生命を生命たらしめている根幹が「霊素」として把握できることを解明した。さらに歩を進めたフランケンシュタインは、擬似的に構成された「霊素」を屍体に書き込むことによって死者を動かすことを可能にしたのである。この屍体制御は技術として普及し、19世紀末には、擬似霊素を書き込まれた=インストールされた屍者が重宝な労働力として、蒸気による産業革命を経た社会のインフラとなった。ロボットを使役する社会として描かれる未来が、ゾンビによって19世紀末のヨーロッパに実現された按配である。
ロンドン大学の医学部で屍体蘇生術を学んでいたワトソンは、その腕前と熱心さを買われ、英国政府の諜報機関にスカウトされる。ワトソンの運命を変える導き手は、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」に登場するジャック・セワードとヴァン・ヘルシングだ。彼らは諜報機関の人物「M」にワトソンを引き会わせる。その機関の名前は、女王陛下の所有物(プロパティ)、スパイの祖、サー・フランシス・ウォルシンガムの名前を戴く「ウォルシンガム機関」。そして、機関の駒となったワトソンのお供をする屍者フライデーの、機関での登録名称は、スパイと言えば当然出てくるべき名前がついていてくすぐったい。
機関はワトソンをアフガニスタンへ派遣する。任務は、「ユーラシア大陸を股(また)にかけた大英帝国とロシア帝国の陣取り合戦」=「グレートゲーム」の只中で、奇妙な噂話の真相を探ること。それは「ロシア帝国の軍事顧問団の一隊アフガニスタン首都カーブルを離れ」、「屍者の一団を引き連れて」「アフガニスタン北方に屍者を臣民とする新王国を築こうとしている」という話で、そこには、東側の持つ未知の疑似霊素=屍者制御ソフトウェア(ネクロウェア)の秘密が見え隠れしていた。この「屍者の王国」を築こうとする、「地獄の黙示録」のカーツ大佐的な人物は、またもやフィクションの登場人物で、のけぞる程の有名人だ。
こうしてこの小説には、物語の外側のフィクションが次々に侵入してくる。それに驚かされ、くすぐられ、ニヤニヤさせられている内に、謎を追って世界中を引きずり回されることになる。途中、明治維新の日本も舞台として登場する。つまり史実も参照されるわけだ。歴史改変SFは、この史実との距離がまた楽しく、本作でも虚実が入り乱れる様を堪能することができる。
 ところで、史実とは何だろう?歴史とは実体を有する何ものかだろうか。物語の内側から見れば、フィクションも歴史もさほど差はないことに気づく。そして、歴史よりも物語の方が、小説「屍者の帝国」の方がより現実らしく、紙の書籍もしくは電子書籍を実現するデバイスとして実在して、読む者の手の中にある。これは物語が実在化しているということだろうか?言葉が実在化したということだろうか?
空想はジャンプする。
物語を読むという事は、擬似霊素をインストールすることに似ているのではないだろうか?物語を読むわれわれは、「屍者の帝国」に属しているのではなかろうか?では、物語を読み終った時、何が起きるのだろう?意識が残っているのではないか?意識とはそもそも一体何か?
意識と言葉について、実在と虚構について、疑問符が生れ続ける。これが恐らく、円城塔氏によって仕込まれた仕掛けであり、主題なのだ。
荒唐無稽の冒険譚中に織り込まれた、意識を巡る思弁的主題が「屍者の帝国」の魅力だ。文体の温度の低さが、凝った馬鹿話の速度を削いでいるが、屍者の肌を思わせて、読後の印象は強い。あとがきに、「賞賛は死者に、嘲笑(ちょうしょう)は生者に向けて頂ければ幸いである」と書かれているけれども、嘲笑の必要は感じない。故人の意志を継いで、見事な円城搭のSFを生み出し、読者のもとに届けてくれたことに感謝するばかりだ。

「地獄のハイウェイ」ロジャー・ゼラズニイ著 浅倉久志訳 [感想文:小説]

 ポスト・アポカリプス・アクション・SF超大作、堂々のノヴェライズ。なんて言ってみたくなる快作。しかしあくまでもオリジナル作品で、1969年のクレジットが記されているから、おそらく「核戦争後」の荒廃した世界を舞台にしたアクション物の先駆的作品になるのだろう。今年(2015年)「マッドマックス 怒りのデスロード」という傑作で甦ったジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」シリーズや、ジョン・カーペンター監督の「ニューヨーク1997」などに影響を与えているのではないだろうか。憶測だが。
 近未来、核戦争後のアメリカが舞台だ。世界は崩壊し、大規模な気候変動も起きている。人類は大半が死に絶え、合衆国は失くなり、北米大陸にはカリフォルニアとボストンの二つの国があるのみ。そのボストンでペストが発生。追い詰められた人々はカリフォルニア国へ助けを求める。放射能に汚染され、想像を超えた「呪いの横丁」と化した大陸横断を完遂し、ボストンにペストの血清を届けるために、冷血無頼の悪党にして抜群のドライバー、ヘル・タナーに白羽の矢が立てられる。特別製の装甲車を駆って、果してタナーは地獄の道を走り抜けられるのか。
物語はテンポ良く、軽快だ。会話がやや古臭いのはご愛嬌。「あたりき」なんて言い回しは微笑みで迎えましょう。殆ど異世界化した自然描写が見物だ。ゼラズニイの腕が冴える、その荒涼感がたまらない。主人公のタナーは最後まで悪党を貫き「ブレない」ので爽快だ。

「その女アレックス」ピエール・ルメートル著 橘明美 訳 [感想文:小説]

 発端はアレックスが誘拐される場面である。激しい暴力で彼女は拉致される。その目撃情報が警察へ通報され、小男カミーユ警部を中心に捜査が始まる。被害者アレックスが主体の場面と警察の捜査が描かれる場面が交互に語られ、誘拐事件の謎解きとアレックスの身に迫る危機が読む者を引き込む。
すると暴行目的と思われた誘拐が別の姿を現わす。そこから読者は、アレックスという女が何者なのかという謎へ導かれる。この謎が解かれる時、周到な伏線が回収される妙味と、凄惨な孤独の旅路を味わうだろう。
 この小説の良いところは、まず、アレックスを巡る謎のエグさだ。それから、生々しい暴力描写。そして、どんでん返しの爽快感というわけにはいかないが、読者を共犯者にしてしまう伏線の張り方とそれらを結び合わせてゆくクライマックスが見事だ。
サイド・ストーリーとして、カミーユ自身の来歴、ユニークな同僚と上司が描かれるが、それほど粒だった感じはない。どちらかと言うとばらばらな印象だ。警察ものについてのテーマを持っていない点が出てしまっているのだろう。
また、捜査の行程で見せて欲しい街の表情があまり描かれていない。季節感も希薄。
堂々たる傑作にはやや遠い。が、描写が結ぶイメージはしっかりしていると思う。後味が残る佳作。

「泰平ヨンの未来学会議」スタニスワフ・レム / 深見弾・大野典広 訳 [感想文:小説]

 「ソラリス」の作者レムには泰平ヨンが主人公のシリーズがある。「泰平ヨン」とかいうダジャレ的なセンスが嫌いだった。「泰平」という字面は今も嫌いだ。そんな偏見で、こんなに面白い本を読まずにいたわけだ。
 主人公の泰平ヨンはコスタリカで開かれる未来学会議に参加する。その会議のテーマは、破滅的に人口激増した世界とその増加の阻止だ。この人口増加による危機というやつは、原著が書かれた頃(1971年刊)には良く言われたものだったように思う。近頃なら地球温暖化になるのだろう。さて、ヨンが会議に参加する理由がよく分らないというのっけからカオスが突っ走るが、テロ事件が起きてあっと言う間に氾濫する。軍部の出動、薬物爆弾という問題外の鎮圧戦術でヨンはメロメロ。ひっちゃかめっちゃかの挙句に冷凍保存され、未来で解凍される。未来は薬物まみれ、現実崩壊大パレードの、キ印世界。この途方もない阿呆くさい出鱈目の描写がこの小説のキモだ。
 この未来世界は言葉が変化して、言葉遊びの悪ふざけが度を越したようになっている。野生の鳥や動物は姿を消してしまった。再生医療が発達して、死体も蘇生可能になった。全面軍縮が達成されている。コンピュータとロボットが社会の至るところに進出しているが、知性という内面的自由を持ったコンピュータたちは考えられうる限りの逸脱をしている。要するに仕事をしない。そして何より、この未来世界では精神化学が鍵となっており、ありとあらゆる状況に適した薬物(薬名のダジャレが物凄い)を適切に服用することで人々は幸福な社会生活を営んでいる。ように見える。しかし、実のところは……と、暗鬱というよりはスラップスティック、不安感というよりは猛烈な空転感がぶちまけられ、引っくり返って、思ってた通りのオチになる。まあオチは、一応つけときましたくらいの感じだ。
 この小説は、薬づけの社会という現実批判を通り越して、どうやら読むドラッグに近い。ここで体験できるのは薬物による全体主義的社会という、肌が粟立つ幻覚だ。ブラックユーモアなどというお行儀のいいものではない。意地悪になってニヤニヤしながら読むべき小説だ。傑作。

「紙の動物園」ケン・リュウ / 古沢嘉通 編・訳 [感想文:小説]

 新鋭SF作家の日本オリジナル短編集だそうだ。力量と豊かさを見せてくれる多彩な良編が選ばれていて、翻訳者の愛が伝わってくる。
一読激震の傑作があるわけではない。使い捨てのセンス・オブ・ワンダーがつめこまれているわけでもない。憂愁の色合いが遠くに望まれるような、内省的な抒情の作風だ。
 中国生れの作家なので、中国とアジア圏の歴史、社会、文化を取り込むところもあり、それが目新しく、興味深い。台湾の二・二八大虐殺事件が物語の背景に取り上げられていたりして、教えられ、考えさせられる。「中国人は長いこと、語って聞かせられるような幸せな話を持っておらんのだ」(「文字占い師」)
日本という社会・文化も相対化されて作品中に登場する。「もののあはれ」では危機に際した日本人の行動が主題だ。東日本大震災における被災地の人々の行動は余程印象が強かったと見え、この作品でもその影響を読むことができる。また、歴史改変SFである「太平洋横断海底トンネル小史」では、日本とアメリカが開戦せず、太平洋戦争が起こらなかった世界、第二次世界大戦がない世界が描かれる。
 そして、この作者の関心はどうやら言葉と文字(漢字)にあるらしい。「結縄」「選抜宇宙種族の本づくり習性」「文字占い師」の三編で言葉と文字がテーマになっている。「結縄」では縄の結び目を文字とする民族が登場する。作者の創作による架空の民族と文字だが、それがアッというアイデアに結びつけられている。苦い結末も好ましい。「選抜宇宙種族の本づくり習性」は異星の生命体が作る「本」のカタログだ。「だれもが本をつくる」が、その「本」の奇想天外な変奏が刺激的。「文字占い師」は、前述した台湾の二・二六事件を背景に、文字占いをする男が受ける社会の暴力と過酷な運命が語られる。「"日本"や"中国"は存在していない。それらは単なる言葉だ。」という思想は繰り返し語られてきているのだろうが、ケン・リュウはそれを自分の言葉で語ろうとしている。
言葉と文字というテーマは当然、コミュニケーションというテーマへも深化している。「1ビットのエラー」は信仰というコミュニケーションについて、「愛のアルゴリズム」はコミュニケーションの本質に存在するパラドックスについて、厚みのあるイメージを彫琢している。「月へ」は亡命者と難民認定のために働く弁護士とのコミュニケーションが筋になっている。特に「紙の動物園」は、母親と息子のコミュニケーションを哀切に描いていて迫るものがある。
 これ以外の作品はもう少しSF寄りかもしれない。「円弧」と「波」は不死を扱ったポスト・ヒューマンSFと言えるだろう。「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」はサイバー・スペースへ移住してしまった人類の話。「良い狩りを」はちょっと風変りな角度からやってくるスチーム・パンクSFだ。華麗とは言い難いが、物語後半のあれよあれよという感じが面白い。

「禁忌」フェルディナント・フォン・シーラッハ / 酒寄進一 訳 [感想文:小説]

 かなりひねりの効いたミステリー。法廷劇の姿をとって謎が解き明かされるのだが、物語の前半は、少女を誘拐し殺害したとされる容疑者エッシュブルクの半生が描かれている。
 ゼバスティアン・フォン・エッシュブルクはドイツの名家の末裔。常人より多くの色彩を感じることができ、文字に色を感じる共感覚の持主である。エッシュブルクは、古い、不幸な家を出て、ベルリンで写真家になり、世に認められる。やがて、商業的な写真に飽き足らないようになり、インスタレーションを手がける。そしてある日、警察にかかってきた、助けを求める少女の電話によって逮捕されてしまう。刑事の強要によってエッシュブルクは少女の殺害を自供する。起訴されたエッシュブルクは、ベテランの刑事弁護人ビーグラーに弁護を依頼。ここから法廷が舞台となり、ビーグラーによる真実の解明が展開されるのである。
 前半、没落した名家が息を引き取る様子、崩れる不幸な家庭の冷たさ、それを見ているエッシュブルクの孤独な視線と世界に対する違和感が簡潔な文章で淡々と描かれ、引き込まれる。ミステリー臭さを感じさせないので、後半の急転に驚かされる。精神的なドラマか人間性の真相を照らす物語を読まされる気になってくる処へ、スキャンダラスな殺人事件を主題にしたミステリーが現れるのだ。
もちろん前半はミスリードの為の仕掛けであり、エッシュブルクの動機に筋道を通すための伏線なのである。読後に点検してみれば、よく計算されていると感心する。計算されているだけではなく、「千円札裁判」などを念頭に置いてインスタレーションのことを考えてみると、作者の描いた射程が意外に遠くまで届いていることがわかる。
 全体を通して、エッシュブルクという非凡な人格の悲しみがじんわりと伝わるし、ビーグラーの偏屈さも面白い。作品を巡って考えに沈むこともできる、見事な一編だと思う。しかし、このひねり具合が万人に受け入れられるかは疑問だ。また、エッシュブルクの共感覚が後半にそれほど生かされない恨みもある。インスタレーションを素材としたからには、この作品自体がルールを越えて溢れ出てきても良かったのではないか、と思ったりもする。

「火星の人」アンディ・ウィアー著 小野田和子訳 [感想文:小説]

 これは、シンプルでストレートな、「宇宙開発新時代の傑作ハードSF」(文庫裏表紙から)。読み終わると、もう火星へ行けそうな気がしてくる。ずっとわくわくする。
 物語はいきなり災厄から始まる。
舞台は火星。3度めの有人火星探査ミッション「アレス3」の6人のクルーは、強烈な砂嵐に遭遇し、ミッションを中止、帰還しようとする。
しかし、不慮の事故が襲い、マーク・ワトニーだけが火星に取り残されてしまう。ミッションの物資はあるものの、通信機器は破壊されてしまった。薄い大気と酷寒の苛烈な環境に孤立無援で、マークはサバイバルを始める。
次々と起こる不測の事態。それをマークは、知恵と勇気とユーモアでさばいていく。
それは、地球で育ったいくつかの最良の部分がマークという個人にパッケージングされて、生還を掛けて火星に挑む、ミッション・インポッシブルだ。
 物語は、マークの科学的知識が大きな鍵となるのだが、読んでいると、結局、科学とは勇気が素(もと)なんじゃないかと思えてくる。
そして、勇気の物語が面白く無い訳はない。
それから、独特のユーモアを醸しだす、マークのキャラクターも魅力だ。読めばわかるが、「見て見て! おっぱい!-> (.Y.)」のくだりは最高だ。
この小説にはSFっぽい駄法螺的展開はないが、それでも驚天動地は用意されている。センス・オブ・ワンダーがたっぷり楽しめる。
文庫の巻末に収録された中村融氏の解説では触れられていなかったが、映画「エイリアン」のキャッチ・コピーのパロディもある。

「皆勤の徒」酉島伝法 著 [感想文:小説]

 2011年第二回創元SF短編賞を受賞した表題作「皆勤の徒」を冒頭に置く、連作短編集。変貌し果てた遠未来の世界とその歴史が描かれる。
その未来史は、奇怪な語彙で織られている。イメージを封じこめた、軟質のカプセルのような言葉。行間に異形の世界が見える。想像を超えたと言うのも生ぬるい。バイオテクノロジーとコンピュータが、不可解な姿態で結婚し、変位し、浸透し合い、繁茂している。
この作品は、固まった思考回路を融解させ、未開の地平を垣間見させるに充分な想像空間を描き切っている。
未来史の「見取り図」については、大森望氏が解説を書いているので、読後に確認したほうがよい。驚愕の読書体験の後で、さらに驚かされるだろう。大森氏の親切な解説が、朦朧としていた理解に光を与えてくれる。私はその解説を頼りに読み返した。
 さて、その奇怪な語彙群を少し引いておこう。
例えば、「胞人(ほうじん)」「媒収(ばいしゅう)」「隷重類(れいちょうるい)」「屠流々(とるる)」「辛櫃鱓(からびつうつぼ)」「社長」「念菌(ねんきん)」「皿管(けっかんもどき)」「外回りの営業」「取締役」「冥棘(めいし)」。ごつごつとした造語の合間に会社組織にまつわる言葉が嵌めこまれている。隠喩と言うには、あまりにも隔絶している。しかし、断絶しているわけではない。干涸びた残滓のように似姿が漂っていて、それが薄明じみたユーモアと、時の河の幅を感じさせてくれる。
同じく「埜衾(のぶすま)」「素形(すがた)」「地漿(ちしょう)」「社之長(やしろのおさ)」「百々似(ももんじ)」「穢褥(えじょく)」「腫瘤(しゅりゅう)に覆われた脳状の塊(かたまり)、喇叭形の無鱗魚(むりんぎょ)、眼球を実らせた螺旋海綿——複数の口腕(こうわん)をたなびかせる象皮の無肢熊(むしぐま)、無数の背触鬚(はいしょくしゅ)を振動させる鱏(えい)、櫛状触角を八方に花開かせる半索動物、疑似餌(ぎじえ)の腸鰓(ちょうし)類に襲われる変色甲虫——(中略)——三葉虫(さんようちゅう)に象(かたど)られた木菟(みみずく)、絛虫(じょうちゅう)の阿弥陀籤(あみだくじ)、繁茂した臓物(ぞうもつ)の雲、疣足(いぼあし)を蠢(うごめ)かす水蝉(みずぜみ)」。
これだけではない。これらはまだまだ一部分だ。
作者の造語の追求は、全編で低減することなく持続し、徹底している。シュールレアリストの詩がもたらすことのある、絢爛としたイメージの火花とは毛色が違っているが、作者独自の味があって、唖然とさせられつつ、賛嘆する。
この味を名指しするのは難しいが、幸いなことには、作者自身による挿画が収められていて、それが幻惑しつつも手助けしてくれる。例えば、稠密な朦朧の異形とでも呼んだらいいのだろうか。そこにはエルンスト・フックスの遠い谺を見て取れそうなものもある。
 大森氏は解説で本作を、「”ポストヒューマン(人間以後)”の未来像を真正面から」描いたと評している。それに加えて言うなら、本作において我々は、人間以後の、エキサイティングな物(オブジェ)の世界に出会うことができるのである。
前の10件 | - 感想文:小説 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。