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「未來のイヴ」(ヴィリエ・ド・リラダン著 齋藤磯雄訳) [感想文:小説]

 「アンドロイド」(人造人間)という言葉は、この「未來のイヴ」の中で使われたのを嚆矢とすると言う。見ると、「メンロパークの魔術師」エディソンが「私の手づくりの『アンドレイード』、つまり人造人間」(p.130)と語っている。もちろんこのエディソンは、実在の発明王をモデルにした登場人物である。
ここで話題になっているのは、人造人間の一部分、切り落された若い女の腕と見紛うばかりの人造の腕であって、人造人間本体ではない。この腕だけが何故登場するのかは謎だ。しかしその妖しさと、肉感的なイメージは印象に残る。対照的に、その後に登場する人造人間そのもの、エディソンによって造られた驚異、ハダリーには、肉感的なイメージ、熱の暈が感じられず、影の遙けさが漂う。
 「大擔(だいたん)不敵な實驗者」、「電氣学者」にして技師であるエディソンの手になるハダリーは電気仕掛けだ。女性の体にデザインされた金属製のボディ(甲冑体)を持つ。これは「屈折自在」な殻であり、ハダリーの生命系統を納める「造形的媒體」なのだ。そこに納められているのは、「豊饒(ほうぜう)、精巧、かつ幽玄」な機構である。そこには、「我等人間の身體組織の生命過程に見受けられるやうな醜惡な印象は何一つ」ない。それに比べて生命過程は、その発生状態を見れば、「何か異様な氣持」、「『陰惨なるもの』が『不條理なるもの』と『想像を絶するもの』とを相手にして張合つてゐるやうな、そんな氣持」になると言う。
 ハダリーは如何にして歩行するか。エディソンの口から詳しく説明されている。おそらく作者リラダンのアイデアを盛り込んでいるためだろう。水銀を充填した、20キロ強にもなる脚を電磁石によって引き上げる。それによりバランスが失なわれる。すると胴体内部に設置された円盤上のガラスボールが転がり、電流のスイッチを切って脚を前方へ下し、同時に反対の脚を引き上げるスイッチを入れ、これを左右交互に繰り返して歩むのである。転がるボールの音、機械式スイッチの音、重い脚が接地する音など、ハダリーは結構な騒音を発するのではないだろうか。もっとも作中でエディソンはそれを否定してはいるけれど。
 ハダリーの機構で目を引くのは、言葉を話す仕組みと動作を実現する仕組みである。ハダリーに頭脳はない。AIに類したものは無いので、推論、学習といった働きは一切しない。オルゴールと蓄音機のアイデアを組み合わせた仕掛けが、ハダリーの応答と行動を実現する。ハダリーは予め記録しておいた文句を録音された音声で再生する。体の動きも、実際の人間の動きが「圓管(えんくわん)」に記録され、それが定義された一般的な約七十ほどの動作として「演奏」される。その演奏は、「圓管」上の突起物を櫛形の誘導神経が弾くことによるのだから、まるでオルゴールだ。作中で喩えられているのはオルガン(バルバリー風琴)であり、音楽の演奏と人間の振舞が照応したイメージとして呈示されている。この音声と動作が精妙に組合されることによって、ハダリーの「その場その場に應ずる言語動作」が実現される。
 エディソンからこの説明を受けたエワルド卿、ハダリーを未来の花嫁として迎える契約を結んだ貴族は困惑を覚える。ハダリーのサンプリングされた定型的な反応は、当意即妙、あるいは自由意志からはほど遠く見える。それに、ハダリーの振舞いを支離滅裂から救うためには、それに対応する人物、つまりエワルド卿自身がきまり文句を覚えて、芝居を打ち続けなければならなくなる。それは単調を免れないのではないか。
 これに対するエディソンの反駁は痛烈だ。そもそも社交における会話は「陳腐な紋切型」ではないか。「あらゆる言葉は繰返しにすぎず、またそれ以外のものではあり得ない」(p.282)のであり、我々が語るのはすでに語られてしまった言葉であり、それは「《卽興》のつもりで捲くし立てる埒(らち)もない無駄口」でしかないのだ。「その場で思ひついて何を言へと仰有るのです?」対するにハダリーの内部に記録された文句は、詩人や形而上学者や小説家たちに作らせた名言佳句なのである。無駄口に頭を絞るくらいなら、「時間の經濟」のために、プロフェッショナルによる成果物を活用すべきなのだ。
それに、人間の生活や会話は「永遠のあやふやさ」に包まれているから、「すべてのものが、完全に、すべてのものの返事になり得」る。そして「答への深さ美しさ」を創造するのは、実は問いそのものの中にあるのだ。そのような問いかけができる者に対してハダリーは、まさに待ち受けられた答を発するであろう。不毛の倦怠のない、裏切られることのない答が返るだろう。
ハダリーとの会話を芝居だとしても、そもそも芝居を打たぬ者などいるだろうか。「おのれの役割を心得ぬ連中だけが、芝居はせぬなどと言ひ張るのですよ。」(p.274)誠実など実現不可能な夢である。人間は誠実になり得るほど何事かを知ってはいない。人間は、あやふやな信念を互いに承認してもらうために利害の一致した芝居の打ちあいをしているに過ぎない。「もし人間が誠實であり得たら、どんな社會だつて一時間と持ちやしませんよ」(p.275)恋人たちもご同様。相手の心の中など幻の中で推し量られているだけだ。この幻が子供と結実し、そのおかげで人類は存続していける。恋人たちは「お互に識り合つたとただ單にさう思ひ込むや否や、それ以後はもうお互に習慣だけで結ばれて行」き、「お互の心に染み込んだ彼等の存在と彼等の想像の總體に執着(しふちやく)する」。「永遠に赤の他人である彼等戀人同士は、銘々が相手を原(もと)にしておのれの心に抱いた亡靈に執着」(p.276)するのである。これが芝居でなくて何であろう。「戀愛といふ情熱に於ては、一切が虚偽を土臺として空虚であり、無意識の上に築かれる錯覺であり、蜃氣樓から生ずる病患にすぎない」(p.278)。
そしてこの幻が現(うつつ)と同様に移ろわぬからと言って、それを単調だと責められようか。現実はそれほど変化に富むわけでもなければ、多様性に満ちているわけでもない。また無常の現実においては、恋愛が始まると同時に幻滅と衰退がしのび込んでいる。だから恋愛の唯一無二の、この上もなく甘美な瞬間を「永遠化すること、ああ、それを飛翔の途中で停め、それを固定し、自己をその中に限つてしまふこと! おのれの精神と最後の願望とをそこに化身させること! これこそ全人類の夢ではないでせうか。」(p.279)その至上な瞬間は「單調なそして高貴な時間」であろうが、それを繰返し味わうことに飽きるはずはない。その時間を繰返すために同じ言葉を繰返すように求められたら、それは芝居を打つことだろうか。絶対的な時間の中に永久に化身しようとする女性が単調だろうか。
 エディソンが語ることは逆説に満ちている。その冷笑の光は激しくこの世界を照らす。光源は「人類愛」と「かつて人間の口から發せられた、最も激しい絶望の叫び」(p.294)だ。ここに作者リラダンの声を認めることができる。「人類愛」という普遍的な価値を求めつつ、現実の世界に絶望していたのは作者自身に他ならないだろう。人造人間ハダリーという逆説は、呪詛にも似た絶望の叫びである。
 その逆説の方策は「妄想に報いるに妄想を以てす、罪惡に報いるに罪惡を以てす、蒸氣に報いるに蒸氣を以てす」(p.340)、あるいは、「幻に對するに幻を以て」(p.147)だ。
ここで蒸気とは蒸気機関のことに他ならず、それが象徴するものは科学と技術によって成立つ文明のことである。我々は「蒸気」のために先人が遺したあらゆる信仰を棄てた。科学的にしか考えられなくなって、生命あるものとないものとを区別できなくなり、「蒸気」と魂の見分けもつかなくなったのである。科学によって「苦惱」「謙譲」「愛」「信仰」「祈祷」「理想」、そして本質的「希望」をも否定し去った。その科学は常に「明日」完成すると空手形を発行する。やがて「未來」には「安樂な生活」が訪れ、「正義」が実現されるだろう、というわけだ。「常に脆弱(ぜいじやく)かつ幼稚な状態を脱しない自負心」(p.341)をもって「辻褄の合はぬ否定説や、いかにも變節漢らしい物識り顔の薄笑ひや、日ごと實生活によつて化の皮が剥がされる騒々しい道徳論など」(p.339)がまかり通る「現代至上主義」の社会、「偽瞞(ぎまん)的にして平俗、かつ轉變常(てんぺんつね)なき『現實』」(p.340)がそこにある。
この「蒸気」を「未來のイヴ」として性の物語の中へ持ち込んだのがハダリーというわけだ。「いけないわけはありますまい。」(p.340)
 しかし何故、「蒸気」は性の物語の中へ持ち込めるのだろうか。それは、「蒸気」のドグマが、複製し、保存することにあるからに他ならない。このことを象徴的に語るのが「蓄音機」である。
物語の冒頭、「蓄音機のパパ」たるエディソンは、自身の発明品である「蓄音機」、さらには「写真術」について夢想している。もし神話と伝説の時代に蓄音機や写真があったなら、「偉大な言葉」「神秘的な音色」が消え去ることなく録音され、「アララテ山頂より撮影せるノアの大洪水」(p.49)のような決定的瞬間が撮影されただろう。それは複製され、保存され、時を越えて運ばれ、現代に伝えられて「ありのままの現實」「あるがままの姿」(p.48)を知らせてくれたであろう。
 だが、それが複製である以上、「ありのままの現實」であろうはずはない。複製され、保存されることが意味を持つためには、コピーは「現實」よりもある点で小さくなければならないからである。小さくするためには捨てねばならない。その時捨てられるのが「内面的な意味」「眞の實在性を構成する意味」(p.32)である。それは「昔の人たちの耳の中でかつてその耳によつてそれらの音響が帯びてゐたところの、深い感銘を與へる特質」(p.32)であり、「しかもこれのみが、音響本來の無意味さに溌剌(はつらつ)たる活氣を與へてゐたのだ。」(p.32)「蓄音機」で録音=保存するということは、つまり「物音と聲も、聲と記號(きがう)も、事情は同じ」ようなものなのである。
複製され、保存されることによって、そこから「内面的な意味」が分岐し、生れる。一方、複製され、保存されたものは遠方へ運ばれ、あらゆる場所へ持ち込めるようになるのだ。性の物語の中へでさえも。
 ところでこの複製‐保存が蒸気=科学技術のドグマであるというのは、「《決定的》長持ち請合ひといふ保證がつけられてゐる」にしても、それは空手形であって、「肝腎なのはさうと確信してゐること、それだけ」(p.47)だからである。
 性の物語の中へ持ち込まれた科学のドグマによってハダリーに於て複製されるのは、アリシヤ・クラリーなる女優である。エワルド卿は、このアリシヤ・クラリーとの「永久に悲しみが癒(い)えぬやうな、實に不幸極まる戀」(p.60)に絶望し、この世を去ろうとして、別れの挨拶にエディソンのもとを訪れたのだった。
アリシヤは、「輝くばかりに」美しく、その「肉體が、實に神秘的なくらゐ、人間の容姿の理想的な典型に達して」(p.76)いて、ルーヴル美術館に収蔵されている「勝利のヴィナス」(=ミロのヴィーナス)の大理石像に生き写しである。しかし「その女の内的な存在はその容姿と著(いちじる)しく矛盾撞着して」(p.69)いた。アリシヤは「俗物(ブールジョワ)の女神」(p.81)を具象化したとも言える存在で、「頭が單純どころか、ただ愚劣なだけ」(p.89)、「否定的、嘲弄的な、いはゆる常識なるものの、病菌に冒されてゐる」のであった。「この常識なるものはあらゆるものをただ狭めてしまふだけであつて、その觀察の眼が向けられる對象はただ無意味な現實だけ、つまり、その熱狂的な信奉者どもが大袈裟に大地に卽した事物などと呼んでゐるあの現實だけに限られてゐるのです。」(p.89)要するにアリシヤは「超人的ともいへる美しさ」のかげに、「平凡な生温(なまぬる)さをそなへた性格や、俗惡な精神や、『黄金』『信仰』『愛』『藝術』のもつ純粋に外面的なもの、つまり空虚な幻影的なものへのひたむきで氣違ひじみた尊敬の念などが、蔽ひ隠されて」(p.96)いる女なのだ。
そしてこの、アリシヤの外見と内面の乖離が青年貴族を苦しめた。言わゆる見掛け倒しなわけだが、それによって世をはかなむほどに至った理由は、彼が「人は全體と結婚する」(p.368)のだと信じているからだった。エワルドはアリシヤの「肉體の美しさだけを享樂することに滿足」(p.367)できない。人は肉体と「内面的な本質」からなり、相手の「肉體をわが物にすると共に否應なく所有することになる魂の影が、拭ひ去るすべもなく、自分に染み込んでしまふ」(p.368)と信じている。この「内面的な本質」゠魂は霊魂とも呼ばれていて、「生きとし生ける者には、消し去ることの出來ない、本質的な、或る根柢があつて、それが、その人のあらゆる観念に、最も漠然たる觀念にさへも、更にはまたその人の受けるあらゆる印象、或は移ろひ或は移ろはぬあらゆる印象に、‐‐たとへそれらが外部的には如何なる修正を受けようとも、‐‐一定の相貌、色彩、品質、要するに、特徴を賦與(ふよ)するものであり、これらのものを通じてはじめてその人は物を感じとり省察することが出來る」(p.68)とされる「基體(スブストラトム)」である。
つまりエワルド卿は、アリシヤの肉体がもたらす官能の快楽がその「内面的な本質」と何の連絡も持たないことに幻滅し、そのような存在と関係することが、全体と結婚すべきであると信じている自分の「品性堕落の所業」(p.368)であると思ったのだ。だが、「内面的な本質」が有れば全体は失われている。エワルド卿の望む結婚は予め失われている。
アリシヤの俗悪な「内面」、「俗物の女神」は、性が複製され、保存された時に生まれた。複製‐保存されるものは価値を平坦に均してしまう。血統を担保にした貴族などは、複製‐保存の前に押し潰される。「貴族になれた時代はとうの昔に過ぎ去つた」(p.98)のであり、「頑強一徹なブールジョワジー」、「何はともあれ反抗的な本質」をもつものが席巻し、「俗物の女神」は「人類の四分の三にとつて『理想の女性』ともいへる」(p.98)ようになる。
 性が複製‐保存される物語は、アンダーソンとエヴリンにまつわる物語として語られる。
このアンダーソン‐エヴリンの対は、エワルド‐アリシヤの対の複製として見ることができる。エディソンによって語られるアンダーソン‐エヴリンの物語は物語の入れ子となっている。さらに、アンダーソン‐エヴリンとエワルド‐アリシヤという対の対照があって、重層的な構図が作り出される。この構図は単にバランスの為に取られているのではなく、ある空隙を生み出し、物語をそこへ導くために作り出されている。それは、アリシヤ‐エワルド‐ハダリーに対置した時に明かになる、エヴリン‐アンダーソン‐アンダーソン夫人の組合せの夫人の位置である。そこへ行く前に、アンダーソンとエヴリンの物語を見なければならない。
その物語自体は単純だ。立志伝中の人物、「實業界では、最も穏健著實(ちやくじつ)な頭脳の持主として、また活動家として認められてゐた」(p.212)エドワード・アンダーソンは、地位も得、立派な家庭も築いていたにもかかわらず、赫毛の美人の踊り子、エヴリン・ハバルの手管に弄されて、瞬く間にすべてを失い、果ては「絶望のあまり狂亂の發作を起して、ただあつさりと、この世におさらばを告げてしまつた」(p.223)。アンダーソンが「結局のところ、お坊ちやんにすぎなかつた」にしても、また「あらゆる點(てん)から見て、恥づべき弱さ、精神錯亂、肉慾の罪は免(まぬが)れぬ男」(p.236)だっとしても、竹馬の友であったエディソンは「實に深刻な動揺‐‐實に強烈な衝撃」(p.224)を受け、「彼の心、彼の感覚、彼の良心を掻き擾(みだ)して‐‐あのやうな最期に導くに至つた魅力の正體(しやうたい)を、嚴密に分析してみようといふ考へ」(p.224)に取り憑かれることになった。
エディソンの分析は苛烈で、その結論は、「ミス・エヴリン・ハバルの中には、精神的肉體的すべての實に邪悪な俗惡さがある」(p.227)のであり、アンダーソンを蠱惑したのは「虚無」、「空虚」による眩暈、「要するに單なる錯覺だった」(p.228)というものである。その魅力といわれるものは、エヴリンの「個性の本質的な貧しさの上にこつてりと塗りつけられたものだつた」(p.228)。それは「化粧術」による「生命の錯覺を與へる『人工物』」(p.256)だ。即ち「女性」自身が「おのれの代りに人工を置き換へ」(p.258)たのである。この置き換えによって、アンダーソンと似たような末路を辿る分別のある男が「あらゆる都會に弘まつて」しまった。
さて、置き換えることができるのは複製されたからだ。何が複製されたのかと言うと、それは「女性」、「血と肉とから立ち昇る烟霧(えんむ)の育むあらゆる汚穢な慾望」(p.231)を誘惑することができるもの、礼儀正しい閨房では愛の導きとなるはずの官能の刺戟であり、つまり「性」が複製され、保存されたのだ。複製されたものは運ばれ、流通し、金銭の価値へ変換され、エヴリンのような女の生活手段となる。「今の《社會組織》ぢや彼女等の生活手段がほかにはあまりありません」。だから、「金を稼ぐためにああいふ手段を使ふのですし、それが、今の世の中では、一番確かなやりかたなんですな」(p.236)。それを知るエヴリンのような女たちは、「その帶の結ばれる正にその一點に、『男』のあらゆる考へを連れ戻」(p.233)そうとする。その動機は「損得づくの打算」(p.233)。「俗物の女神」が登場する。
 「内面的意味」の担保のない複製は常に見掛け倒しである。言い換えるなら、中身は常に邪悪な俗悪さに満ちている。予め失われた結婚を求めるエワルド卿は叫ぶだろう。「ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!」(p.99)つまりこれは、いっそのこと外部だけに、表面だけに、複製されるものだけになったなら、という嘆息なわけである。それに対してエディソンのハダリーが応える。まさに「性」の複製の「造形的媒體」、内面のない表面=メディアとして。ここにメディアが自立して現れ、アリシヤ・クラリーはハダリーの上に、精緻に複製され、再現される。
アリシヤにおいてエワルドに幻滅をもたらしているものが、実は彼自身の「願望」にあることを、エディソンは正確に指摘する。ハダリーにおいて複製されるのはその「願望」の対象そのものだ。しかもそれは「本物」と見分けがつかないほどになる。「『理想』それ自體が、初めて、あなたの感覺にとつて、觸知し得るもの、聴取し得るもの、物質化されたものとして姿を現す」(p.137)。その時エワルド卿は、複製‐メディアとの結婚の契約に同意する。複製が精巧さを増して本物に近づき、本物に取って代る。その本物とは、複製を花嫁として迎える者の「願望」=「理想」に他ならない。複製物が「願望」そのものとなる。複製‐保存のドグマは「願望」を取込み、「願望」の装置となるだろう。その装置の志向はリアリズムである。
 こうしてエワルドの結婚が諾われると、物語は揺らぎ、前述したような構図を利用して空隙の点、もう一つの失われた結婚の花嫁、アンダーソン夫人へと導かれる。
夫を亡くした後、アンダーソン夫人は嗜眠性の奇病にかかり、眠ってしまった。磁気と電気に飾られたメスメリズム的な睡眠の中で、アンダーソン夫人はエニー・ソワナへと変容し、千里眼とテレパシーの能力を得る。そして、ハダリーに宿り、ハダリーを通して語りだす。
ハダリー自体には感官が無く、見えもせず、聞こえもせず、指輪の宝石だけがインターフェイスである。それと対照的に、ソワナは遠く離れた物を見ることができ、空間を越えて会話することができる。ソワナは遍在する。感覚のないメディア=ハダリーを通じて語りだすメッセージ=ソワナは遍在するのだ。そのソワナ‐アンダーソン夫人は眠りの中にいる。睡眠‐夢は、境界の無い世界であり、遍在する世界でもある。
 ソワナ‐ハダリーが語るのは、「目に見える空間が單にその表象にすぎないやうな、或る異なる空間が實在すること」(p.401)である。それは「窺ひ知れず、‐‐形無く、避くるすべなき『無限世界』」(p.406)、「およそ理性なるものは、(……)豫感(よかん)や眩暈(めまひ)による以外には、‐‐或は願望のなか以外には、‐‐その觀念を抱懐(ほうくわい)し得ない」「最も確實な現實」(p.400)。ソワナ‐ハダリーは、自分がその「無限の國」(p.408)からエワルドに差向けられた使者だと言う。その真の起源と真の目的とを思い起こさせ、死の淵へ向う身を救うために。失われた結婚を求めるエワルドは、「将來自己の生成すべき存在の、前觸れの豫告の影が射し入るやうに感じ」(p.401)、「未來の豫知」を知る人であり、今はそこにいない人々、「五官の世界に隣接するこの幽玄の世界に棲(す)む」「未來のものである人々」(p.401)から呼びかけられているのである。
ソワナ‐ハダリーの呼び掛けに応えるためには、ただそれに存在を授けること、それが「存在してゐるのだと確信」すればよい。その幻から醒めない覚悟をすればよいのだ。「ああ! わたくしからお目ざめにならないで!」(p.409)「わたくしが存在する方がよいとはお思ひになりません?‐‐さうお思ひでしたら、わたくしの存在についてかれこれ理窟をおつけにならないで。快くわたくしをお享(う)けになつて。」(p.412)
 この、逆説と呪詛の果てに届く奇妙なメッセージには作者の神秘主義を見てとれる。オカルティズムであるが故に、そのメッセージはメディア=ハダリーの造り主であるエディソンに対して隠されねばならない。「先程申上げたことはエディソン様には仰有らないで。あなたにだけ、なんですもの。」(p.428)また、複製され、保存されるメディアにまつわるオカルティックなメッセージには、本物に成り代わろうとするメディアに対する恐怖と不安、本物と複製の見分けがつかなくなることへの魅惑も込められているのだろう。
しかしこのメッセージは、ハダリーとしてエワルドの居城に運ばれる途中、大西洋の航路上で火災に遭い、海の底へと消えてしまう。エワルドの結婚は成就しない。ハダリーが格納される箱は「黒繻子で張りつめてある黒檀の重い柩(ひつぎ)」(p.165)であるのだから、それが葬られることは宿命であった。エディソンのもとに届くのは、「黙々として身をふるはせ」るより他ない、読み解かれざるメッセージである。「それから、最後に、視線を上げて、燦々たる萬古蒼茫(ばんこさうぼう)の星座を仰いだ。星座は、重い雲の間に冷嚴に燃え、抱懐すべからざる天空の神秘を、無限に横切つて進んで行くのであつた。」(p.456)
 こうして、最初の「アンドロイド」の物語は終る。それは、逆説による冷笑、絶望による呪詛、複製‐保存に対する魅惑が組み合されて構築された物語だった。それだけではない。奇体なオブジェに対する趣向もあって、例えばハダリーは、バッテリーが消耗して「氣絶」するのだが、再起動後に碧玉の薄手のコップによって真清水を飲み、「一瞬後に、私たちの美しいハダリーは、半ば閉ぢた唇の間から、青白い煙をふわふわとかろやかに吐き出しますが、この煙は今申上げた粉のために虹色に煌いてゐますし、熱い蒸氣のやうな匂がするだけで、それも、先程申上げた薔薇の精油の上を通つて來まので、まあ芳しいと申してもよろしいくらゐです。」(p.180)なんと奇怪で美しく、フェティッシュなイメージだろうか。読む者は、エワルド卿と共に叫びたくなるだろう。「何ですつて! 唇の間からふわふわと煙を吐くのですつて?」(p.181)

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