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黒い花束 [小さな話]

 刑事が語ってくれた話である。
被害者は、三十二歳の男性だった。
指示を受け、アパートの前に遅れて到着したときは、すでに近所から野次馬が集まってきていて、ただならぬ雰囲気となっていた。夜の八時を少し回ったあたりだったので、自宅で寛いでいるのがパトカーのサイレンの物々しさにつられて出てきたのだろう。十一月の中旬は、夜になるともう寒さが滲みこんで来た。思いの外秋が短く、冬の足がはやかった。
現場はアパートの二階、道路側から一番奥の部屋。ドアが開いて、先に到着していた菊池刑事とはち合わせた。菊地刑事は白い手袋をした手を口元にかざし「メッタ刺し。」と声をひそめながら言って、脇を通り抜けて行った。
被害者は玄関を上がってすぐの所で、足先を外へ向け、大きな血溜まりの中、仰向けに倒れていた。グレーのトレーナーとジャージを着て、その首もとから、胸、腹、腿にいたるまで染みた血が乾き、黒ずんで見えた。投げ出された掌に裂けた傷口が見える。顔も相当刺されているらしい。近づいて見るには、入り口をふさいだ形の死体を回りこまなければならなかった。もう固まっているようだったが、血溜まりに足を踏み入れないようにするのに苦労した。頭の横にしゃがみ込んで、大小の顔の傷を見ていると、被害者の側をかすめて点々と続く血の跡があり、ひとつはリビングの中へ入っていっていた。風呂場らしきドアの近くにも跡がある。もちろん鑑識は見逃していない。犯人は被害者を刺した凶器を提げて、血を滴らせながら部屋の中を歩き回ったのだろうか。血まみれの体をまたがないと奥へはいけなかったろう。その時、被害者にまだ息はあったかどうか。そう思って膝先の男の顔を見た。開かれたままの瞳に白熱灯の光が淀んでいる。死体を見直すこんな瞬間が一番恐い。死が悪意の顔をして、己の背後に立っているような気がするのだった。
立ち上がってリビングの中へ入ると、所轄署の刑事がいた。部屋の真中でこちらに背を向けて立っていた。声をかけると振り向いて、ボールペンを握った手を上げた。その刑事からまず話を聞いた。
被害者の身元はすぐに確認された。名前を後藤瞭といい、殺害現場であった渋谷パレス二〇四号室の借主である。上野の事務機器販売会社に勤める会社員で、独身。鋭利な刃物で体の前面を執拗に刺されており、その傷に因る失血死とみられる。これは後の鑑識の報告で確認された。鑑識は刺創を三十二箇所数えており、死亡推定時刻を前日、十一月十六日の午後七時から九時の間とした。
第一発見者は、後藤と交際している古田美由だ。後藤から連絡がなく、会社にも出勤していないのを知って部屋を訪ね、倒れている後藤を発見し、通報した。古田は、後藤の部屋の合鍵を持っていたのでドアを開けることができた。つまり、古田が到着したときには、二〇四号室の鍵がかかっていたことになる。
一般的に「メッタ刺し」には強い殺意が見られる。捜査は、怨恨による殺害を軸にして始まった。
まず、被害者の殺害当日の行動をつかむこと。近隣への聞き込みも同時に行われた。並行して、後藤の交友関係の洗い出し。もちろんその中心となるのは、古田美由に対しての聞き込みであった。

 古田は取り乱し、怯えていた。身を保てない弱さを感じさせる女だった。泣き腫らした目をし、睡眠不足が浮いて、肌の色を黄色っぽくしていた。
年齢は二十七歳。後藤と交際をはじめて三年になる。付き合いだしたきっかけは、古田が勤める衣料卸会社に後藤の大学時代の同級生がいて、その人物の紹介であると言う。
古田も一人暮らしだが、一年ほど前から土日は後藤のところで過ごすことが多くなっていた。部屋の合鍵は後藤から渡された。後藤が仕事で遅くなる時は、合鍵で部屋にあがり、食事の準備などをして帰りを待つのだ。古田の住まいは、隣の駅である秋津から五分ほどの賃貸マンションで、後藤の住む清瀬へは会社からの帰りに途中下車すれば良いことになる。
事件当日の行動については、こう語った。
「その日は、いつも通りに会社を出て、三原あかりさんと映画へ行ったんです。」
「三原さんというのは?」
「会社の先輩です。」
「会社を出たのは何時でしたかね。」
「六時でした。タイムカードを押してから、更衣室で三原さんを待ってて、出るときもう一度時計を見て、その時六時でした。」
鼻をすする音が混じり、語尾がはっきりしないので、とても聞きづらかった。勢いこちらの声が大きくなってしまう。その度に古田は肩をびくっと動かした。
「どこの映画館ですか?」
「豊島園の。」
古田と三原の二人は、十八時四十分頃豊島園駅につき、マクドナルドでハンバーガーを購入。十九時十五分には、豊島園駅すぐそばのユナイテッドシネマとしまえんの座席についていた。映画は約二時間で、映画館を出たのが二十一時三十分頃。三原あかりの住まいの最寄り駅である大泉学園駅まで一緒に電車に乗り、その後は一人で帰った。駅からマンションまで寄り道はしていない。
「家に帰ってから彼にメールをしたんですけど、返事がなくて。十一時頃に電話してみました。でも、やっぱり出ないので変だなあと思いました。」
「変だと思った?」
「携帯なんで、いつもすぐでるんです。でも、ずっと呼び出してるのにでなかった。電源を切ってるわけじゃないようだから、おかしいって。」
その時、被害者の携帯がどうなっていたか確認していないのを思い出した。
「古田さんが三原さんと映画へ行くのを後藤さんは知ってましたかね?」
「映画に行くとは言ってありました。友達と行くと言いましたけど。三原さんのことは、彼は知らないから。」
「で、後藤さんが電話に出ないので、心配になって翌日、後藤さんの会社に電話したんですね。」
「はい。」
「誰と話したか覚えてますか。」
「上司の方だったと思います。連絡もなく、会社に来ていないと言われました。」
「後藤さんの部屋に行ったのは何時頃ですか?」
「七時過ぎだと思います。」
「会社から?」
「はい。」
「で、合鍵を使って入った?」
「はい。インターホンを押しても返事がないので。」
ドアを開けたときの光景を思い出したのか、古田の顔が沈んだ。
「大変でしたね。ところで後藤さんなんですけどね。誰かに恨まれるようなことはなかったですかね?」
「さあ…。そういう人じゃないと思いますけど。」
「人間関係のトラブルとかを聞いたことはないですか?」
「いいえ。ありません。」
「古田さんは後藤さんと結婚の話とかしてましたか?」
「…何度か。」古田の視線が宙をさまよった。
古田と話した後は、なにかひっかかるものがあった。恋人の無残な姿を目の当たりにした女性としては、古田の様子は受け入れやすいものだった。とにかく酷いショックを受けているのが見て取れた。起こったことをまだ完全には飲み込めていず、呆然としている。なのだが、その目にはこちらが思っている以上の恐怖が浮かんでいるように見えた。

 次に、一緒に映画を観ていたという三原あかりに会うことにした。古田と三原が勤める衣料卸会社は馬喰町にあった。古田が会社を休んでいるのを確認して、話を聞かせてくれと三原を訪ねた。
通された応接は、フロアの一角を衝立で囲っただけのもので、話す内容が他の社員に聞こえてしまうのではないかと気になった。そこへ三原が現れた。背格好が古田と同じくらいだ。派手ではないが、化粧に隙がない。目をわずかに細めて、相手を見据える。紺のカーディガンの下は、グレーのベスト、青いストライプのシャツを着ていた。スカートはベストと揃いのボックススカートだ。シャツ以外は他の女子社員も同じだったので会社の制服なのだろう。姓名と三十一歳という年齢、住居を確認した。
「古田美由さんとはお友達ですよね。」
「はい。古田さんが入社した時の教育係で、それがきっかけで友達になりました。」
「実は、古田さんのお友達の事件を捜査していまして。」
「知ってます。古田さん、可哀想。」
「十一月十六日の午後六時以降、何をされていたか聞かせてもらえませんかね。」
「はい。古田さんと映画を観ていました。」
三原の話は古田の話と食い違いを見せなかった。映画の後、大泉学園駅まで古田と一緒に電車で帰った。住んでいるマンションに帰りついたのは十時過ぎだった。これで被害者、その恋人、恋人の友人と一人暮らしが続いた。それほど珍しいことではないけれど、その時はなんとなく数え上げていた。
三原は協力的だった。ハキハキと受け答えた。その間、伸ばした背筋が揺るがない。
「古田さんと後藤さんの関係は、どうだったんでしょうね?」
「そうですねぇ、時々は喧嘩もしていたようですけれど、深刻な相談を受けたことはありません。仲は良かったのではないですか。他人には分からない部分もあるとは思いますけれど。」
「三原さんは、後藤さんに会ったことはない?」
「ええ。」
「後藤さんが殺害されていたことについては、誰から聞かれましたか?」
「いえ、テレビのニュースで知りました。まさかと思って、古田さんに電話して、それで。」
最後に三原はこう言った。
「私、本当に古田さんに同情しているんです。私にできることがあれば何でもしますので。」

 古田と三原に会っている間に、近隣への聞き込みの結果と被害者の交友関係の情報があがってきた。
まず、アパートの住人。渋谷パレスは一年前にできたばかりのアパートだ。二階建て、部屋は全部で八つ。全部に入居者がいる。一階の一番手前、事件のあった二〇四号室から最も離れた部屋に年金暮らしの老夫婦がいるほかは、すべて若い勤め人の一人暮らしである。帰宅が遅くなる者が多く、事件当夜もほとんどがまだ会社にいた。後藤瞭が殺害された時間帯にアパートにいたのは、一〇一号室の老夫婦と、その上の部屋二〇一号室の住人だけだった。どちらも異変に気づいてはいなかった。
渋谷パレスの大家は敷地に隣り合って住んでいる。もとは農家だった地主で、趣味のようにしてやっていた菜園をつぶし、あとに渋谷パレスを建てた。後藤瞭とは契約の時に顔を合わせたぐらい。家賃は滞り無く振り込まれていた。大家は、まだ新しいアパートに起きた事件に困惑していた。
渋谷パレス近辺は、一戸建ての家が多い。申し訳程度の庭のついた分譲住宅も目につく。そのなかで聞き込まれた後藤瞭の姿は実にかすかなものだった。新しくできたアパートに最初に入居してきた人として、渋谷パレスの向かいの家の主婦が覚えていただけで、他は概ね、見かけた気がする程度の反応しかない。
アパートの住人間の認識も似たりよったりだ。真下の一〇四号室の住人も、存在を意識するぐらいだったと語った。古田美由が土日に泊まりに来ていたことも知られていなかった。
渋谷パレス近辺と駅までの間で不審者の情報は皆無だった。清瀬駅と駅前のコンビニからも防犯カメラのビデオが参考資料として借り受けてあった。が、コンビニの店員は当夜の客について知っている顔ばかりだったと言っており、あまり期待は出来なさそうだった。
次は、被害者の交友関係だった。後藤の交友は、会社の人間関係が中心となっていた。
後藤が勤めていた会社は、コピーやファックスなどを主力とする大手メーカーの販売代理店である。社員二百名を抱えて、中堅会社と呼ばれる規模だ。後藤はそこの総務部に所属していた。勤務態度は平均的だったと後藤の上司が語った。
職場の同僚で親密に交流があったのが二人。他の部署に二人、入社が同期で仲が良かった者たちがいて、これらと後藤を含めた五人でグループとなり、仕事が終わってからしばしば飲みに行ったという。
この会社の友人に、古田との交際のきっかけを作った人物ともう一名の大学時代からの友人を加えると、後藤の交友関係の図はほぼ完成する。
これらの友人たちの間から、ようやく後藤瞭の手触りのある姿が浮かび上がってきた。
総務部の同僚であり、後藤と席を並べて仕事をしている矢島哲也は、こう語った。
「真面目といえば真面目なんでしょうけど、そう言うより頑固というほうが近いかなぁ。」矢島は椅子に腰掛けると盛り上がった肉の塊のように見えた。
「社内でトラブルとかありましたか。」
「いや、そりゃあね。いろいろ毎日ありますけど、仕事の上のことで片が付いていましたよ。後藤くんはさぁ、融通が効かないところもあったから。なんか、他の部署の人と衝突しちゃうんだよね。」
「恨まれるようなことは。」
「そこまではないですよ。小さいことなんだもの。ぶつかると言っても。提出した書類の書き込みが足りないから受け付けないとか、ね。でも、それだけですよ。『あいつめ』と思っても、仕事の上のことだけで終わりでしたよ。」
「借金をしているとか言う話はなかったですか?」
「後藤くんがですか?いや、ないなぁ。彼、無趣味だからね。ギャンブルもやらないし。お金に困ってるということはないと思うなぁ。」
「女性関係はどうです?」
「彼女、いましたよね?古田さん。他には聞いたことないです。あの人、後藤の第一発見者だったじゃないですか。ショックですよね。」
「古田さんに会われたことは?」
「ありますよ。一度僕達の飲み会に後藤くんが連れてきたことがあって。可愛らしい人ですよね。」
矢島はそう言うと笑った。細くなった目が顔の肉の中に埋まりそうだった。
矢島は、事件当日に後藤がいつも通り午後六時には会社を出たことを証言した。後藤のパスモの記録から、清瀬駅の改札を出たのが十九時十三分。その後、駅前のコンビニ、ファミリーマートで弁当を買っている。その時のレシートが後藤の部屋のゴミ箱から出てきた。また、コンビニの防犯カメラにも後藤が写っていた。
後藤の友人の間からは、人間関係のトラブルの話は出てこない。借金の話もない。怨恨へと結びつく線は見えないままだった。
 しかし、他の部署の友人、大木伸彦からおかしな話が出てきた。なにやら半笑いを浮かべて大木はこう言った。
「そう言えば、後藤くん、変な間違い電話のことを言ってましたね。」
「間違い電話?」
「ええ。一週間ぐらい前だっけ。変な間違い電話がかかってきたと相談されまして。」
「どんな電話ですか?」
「女の人だそうなんですけど。自分のことを愛しているなら、明日の七時に錦糸町の駅前に来てくれと言ったんですって。それから、来なければ自殺すると言ったそうです。」
「それが間違いだというのは?」
「誰からの電話か、見当がつかなかい、と。声が低くて、気味が悪い感じだったと言ってました。」
「後藤さんが大木さんに相談されたんですね。」
「ええ。どうしようか、と。錦糸町へ行ったほうがいいだろうか、と相談されました。やめとけと言いました。」
「後藤さんは錦糸町へ行ったんでしょうか。」
「いや、行かなかったみたいですよ。」
「それはいつ頃のことかおぼえてますか。」
「えっと、あの日の前の週のことだったと思います。八日じゃないでしょうか。」
「電話は何時頃にかかってきたんですかね?」
「夜遅くだと言ってましたよ。十一時過ぎだとか。これ、続きがあるんです。」
「続きとは?」
「ええ。次の日に、何故昨日は来なかったかと怒りの電話がかかってきたそうです。同じくらいの時間に。さんざん一方的に詰って、恨みを言って切れた、と言ってました。それから四、五日続いたみたいです。呪ってやるとか言われたそうです。後藤くん、まいってました。」
「いたずらではなく、あくまでも間違い電話だと?」
「あ、そうか。いたずらかもしれないのか。後藤くんが間違いだと言ってたので間違い電話だと思ってました。事件と関係がありそうですか?」
「いえいえ、まだ何も分かりませんけれど。間違い電話なら、間違いだと言ってやれば収まりそうなものですよね。」
「そうですね。後藤くんも間違いだと相手に言ったようでしたけど。」
「その電話は、四、五日続いて終わったんですかね?」
「ええ。急にかかってこなくなったと言ってました。」
古田から間違い電話のことなどひと言も出てこなかったことを思い出した。
「後藤さんがその電話のことを相談したのは、大木さんにだけですかね。」
「ふん。どうかな。矢島くんは何か言ってましたか?」
「矢島さんは何も。」
「じゃあ、僕だけかも知れない。」大木の半笑いが急に消えた。あとを薄墨色に停滞した表情が広がっていった。同僚の死のショックから半笑いで自分を守っていたのが、力尽きたようだった。
「僕だけ知らされていたとしたら、嫌だな。」大木はぼそぼそと呟いた。
大木を帰して、もう一度矢島を呼んでもらった。矢島は最初の落ち着いた様子を失っていた。聞き忘れたことがあるからと宥めたが、こちらの真意をはかりかねて不機嫌になっていた。怯えが蹲っている矢島の感情こそ、後藤の友人たちの偽らざる空気だろうと思えた。矢島は、大木が証言した間違い電話を知らなかった。やはり後藤が相談したのは大木だけのようだった。
 大木が話した間違い電話をはっきりさせることにした。
鑑識に被害者の携帯電話について問い合わせた。携帯電話は、着信履歴、発信履歴、電子メール、ショートメッセージなどが諸々消去されていた。わずかに、殺害後に着信したと思われる電話と電子メールが残るのみだった。どれも古田美由からのものだ。映画を見た後、後藤にメールを送ったが返事がなく、電話をしたが出なかったという古田の話を裏付けている。ここで履歴関係が消されていることは見過ごせない。犯人はなぜそこまでしたのか。「自分」の「痕跡」を消そうとしたのだ。携帯電話に残されていた「痕跡」がその犯人に繋がっていることになる。通話記録をキャリアに照会するよう指示を出した。
鑑識の担当者は、携帯電話の指紋が拭い取られていることを教えてくれた。そのついでに、現場から指紋が発見されなかったことも告げてきた。
犯人は用意周到だ。強い殺意と殺害後の冷静さ。
部屋の中を点々と歩きまわっていた血痕を思い出した。凶器を手にしたまま、犯人は部屋で何をしたのだろう。指紋を拭き取るほどの落ち着きを見せる人間が、その冷たい眼差しで何を見たのか。
殺害現場に戻り、確かめることにした。

 アパートへは一人で行った。いつものやり方でやりたかったのだ。なるべく雑音を絶って、自分の感覚に集中する。人が殺されたその場所に、それを見ていた物たちに心を開くつもりでやる。運が良ければ、見えてくるものがあるだろう。しかし、うまくいくとは思っていない。ついていないことのほうが多いのだが、それでも自分の考えに集中することで、その後の捜査の進むべき道がしっかりと心のなかに落ち着く。
後藤瞭の事件で組んだ刑事は、こちらのやり方を知っている人間で、好きにさせてくれていた。
二〇四号室のドアを開けると、黄色いテープが貼ってあった。それをくぐって中に入り、後藤の死体があった場所、死体の足元あたりに立った。
すぐ右手に部屋がある。血の跡はこの部屋には入っていない。開けると寝室で、入った右奥の壁に寄せてベッドがおいてある。カーテンが閉めきってあり、暗い。ベッドの上は、十六日の朝、後藤が起きたままになっているのだろう。乱れた布団が人の背中のように盛り上がっていた。左手はクローゼットになっている。部屋の電灯をつけて、クローゼットを開けてみる。背広が数着。他にはジャケットやシャツ、ズボンなどが下げられていた。背広の上着のポケットを探ってみたが何もない。クローゼットには二段二列の引き出しが据え付けてあった。すべて開けてみる。下着やシャツが整理されてしまってあるだけだ。
もっぱら寝るだけの部屋らしい。気にかかるようなものは何もなかった。
その部屋を出ると、奥のリビングに入った。正確にはLDKだ。十畳ほどの広さで、中央に折り畳み式の間仕切りが付いている。間仕切りは畳み込んであった。そこを境に左側がダイニングキッチンだ。シンクとガスレンジがあり、冷蔵庫、テーブルが置いてある。右側にはフロアソファとリビングテーブル、大型の液晶テレビが目に付いた。リビングテーブルの上にノートパソコンがあったはずだが、鑑識が持っていったようだ。独身の会社員としては、なかなかに余裕のある住まいではないか。
血痕はこの部屋に入ってきてすぐに途切れ途切れとなり、部屋の中をどのように動き回ったかまでは教えてくれなかった。
まずはキッチンの方から、順に見て回る。棚の戸、引き出しはひとつ残らず開けた。シンクの下にある戸の内側には、包丁が一本だけ差してあった。鑑識では殺害に使われた凶器は大型のナイフではないかと見ている。おそらく犯人が持ってきたものに違いない。冷蔵庫も開けてみた。ペットボトルが四本、横倒しに入れてある。ミネラルウォーターだ。キッチン全体が乾いた感じで、汚れが少ない。ガスレンジの上の換気扇にも汚れがついていない。料理することが少なかったのだろう。古田が泊まりに来ても、コンビニの弁当などで済ましていたのか。冷蔵庫の脇のゴミ箱を覗くと、紙くずばかりだった。やはりコンビニのレシートが目に付く。
次にリビングへ移った。リビングデーブルの下に、雑誌がきれいに揃えて積んである。が、新聞は見当たらない。インターネットのニュースサイトで間に合わせているということもある。雑誌は、下から順に新しくなっている。この部屋に入った時からつきまとっていた直線的な感触が、雑誌の縁の線に重なった。几帳面の印象が強まる。掃除もまめにやったに違いない。というより、散らかさないように気を使った方だろうか。矢島哲也はこの部屋の主を「無趣味」と評したが、彼は、このリビングをある一定の状態に保つことに執着していたのではないかと思えてきた。土日に古田が泊まっていっていたというのは本当なのか、と疑問が湧く。
しかし、その疑問は洗面所に入って消えた。ドアの前に血の跡があって、ここへも犯人が足を踏み入れたことが分かる。洗面所は入ると洗濯機が置いてあり、左手が浴室になっていた。洗濯機の隣の洗面台に、ピンク色の柄の歯ブラシが一本、コップに入れてあった。それが古田の歯ブラシなら、後藤の所で週末を過ごしていたという話は嘘ではない。洗面台の上の鏡は、薬棚の戸になっていた。開けてみると、洗剤、コロン、整髪料などがきれいに並べて収納されている。ケースに入ったままの歯ブラシが二本あった。買い置きしていたのだ。一本はピンク色の柄で、もう一本は緑の柄。
部屋を出るとき三和土に立って、死体の様子を思い出してみた。
後藤瞭は、その時恐らくリビングにいた。インターホンに呼び出されてドアの前に来る。覗き穴から訪れた人間を確認してドアを開ける。来訪者は招じ入れられ、ドアを閉めると後藤と正対し、持ってきた凶器で後藤を刺した。何度も執拗に、恐るべき力で。後藤が倒れて虫の息になると、凶器を持ったままリビングに入り、中をうろついてから洗面所へ向かった。その後、部屋を出て鍵を閉め、闇の奥へ去る。後藤の鍵は部屋の中で発見されているので、犯人が使ったのは合鍵ということになる。
何も収穫がないまま、部屋を後にした。しかし、今見てきた部屋の様子の底で何かがこちらに合図を送ってきているような気がしていた。

 携帯電話の通話記録が届いた。古田美由との通話、会社の友人達との通話を除くと、確かに十一月八日の二十三時二十二分に非通知の電話がかかっていた。つけられたコメントによれば、同じ清瀬市内の公衆電話からの着信となっている。そして翌日の二十三時十分にまたかかってきていて、それ以降十二日の金曜日まで毎日、二十三時十五分から四十分の間に着信している。発信場所はいずれも清瀬市内の別々の公衆電話だ。これが大木が証言した間違い電話だろう。連日かかってくる奇妙な間違い電話。後藤はこのことを大木だけに相談していた。何故古田に話していないのか。話すチャンスがなかったとは思えない。十三日は土曜日なのだから、後藤は古田に会っていたはずだ。後藤が古田に話していないとすれば、後藤にそれなりの理由がある。話していたとして、古田がそれを隠していれば、古田にそれなりの理由があることになる。その時点では古田が隠している方へ傾いていた。古田を取り逃がす心配はなさそうだったので、後藤の周辺をもう少し洗い出すことにした。
 後藤の友人で古田との間を取り持った人物、中村輝に話を聞いた。
中村は古田と同じ会社に勤めていたので、古田への影響を考えて、会社ではなく自宅を訪ねた。
中村に会うと、まず日焼けが目についた。思わず、「よく焼けてらっしゃいますね。」と言うと、「走ってるもんで。」と髪の短い頭をゴリゴリかく。
「ジョギングですか?」
「いやぁ、トライアスロンですよ。」ジョギングなどと一緒にするなという目をした。寛いだスウェットの上からでも絞りこまれた体が分かった。
「あの鉄人レースというやつですか。いつ頃から?」
「大学時代からです。」
「それはすごい。あれ?後藤さんもトライアスロンをなさってたんですかね?」
「いえいえ。後藤はやってません。ぼくはトライアスロンのサークルに入ってましたけれど、後藤は別です。スキーじゃなかったかな。クラスは同じでした。」
「大学時代から後藤さんとは仲が良かったんですね。」
「はい。気が合って、よく遊んでいました。」
「なるほど。で、古田さんとは?」
「会社の後輩です。僕が営業で、彼女は営業事務なんです。それで話す機会も多いので親しくなりました。」
「後藤さんと古田さんが付き合うようになったのは、中村さんのご紹介だとか。」
「はい。一度、大学の友だちと会社の女の子たちとで合コンをやったんです。そこに後藤と古田さんもいて、それがきっかけですね。紹介したかといわれると、二人がお似合いだなと思ってはいましたが、あとは自然と付き合うようになったんです。」
「中村さんから見て、後藤さんと古田さんはどうでしたか?」
一瞬中村の返事が遅れた。そして逆に聞き返してきた。
「どう、といいますと?」
「うまくいってたんですかね?喧嘩をしていたとか、そういう事はなかったでしょうか。」
中村は目を逸らした。我々は小さな座卓を挟んで向い合って座っていた。中村の視線はテーブルの向こう側に落ちている。一緒に来ていた刑事が中村の顔を注視しているのが分かった。
「古田さんから相談を受けてたんですけどね。その…、後藤が浮気をしているらしいって。」
「古田さんの他に女性と関係があると?」
「ええ。」
「いつ頃の話ですか。」
「一月程前ですよ。古田さんから僕に連絡があって。会いたいって言うから、なんだろうと思ったら、後藤が浮気しているらしいと言うんです。相手は同じ会社の女で。正直言いますと、面倒くさいなあと思ったんですが、どうしてもと頼まれて後藤に僕の方から聞いてみたんですよね。そしたら、ハッキリとはしなかったんですが、やっぱり浮気してるようだったんです。それを古田さんに言ったら、彼女、強烈に落ち込んじゃって。」中村は大きく息を吐いた。
「その女性の名前は分かりますかね?」
「いや、分かりませんね。後藤は名前なんか言いませんでしたよ。」
「なるほど。で、古田さんは相当にショックを受けていた?」
「ええ。あれだったら泣かれた方がましだと思いました。何というのか、こう、ずどんと暗くなるというのか。その後は会社でもひどくて。古田さんの上司から聞かれましたよ。何があったんだって。言えるわけないですけど。」
「古田さんは会社でも落ち込んでいたんですね。」
「ええ。普段は明るい子なんで、かなり目立ちました。」
「三原あかりさんも同じ会社にお勤めですよね。」
「…古田さんを疑ってるんですか?」
「いえいえ、まだ何も分からないので、いろいろ聞いて回っているところです。」
「彼女にあんな事ができるとは思えないけど。」
「そうでしょうね。でも、こういうことは何が真相につながるか分からないんです。いろいろ注意して聞き込んでみませんとね。それで、三原さんのことなんですけど?」
「ああ、三原さんも古田さんと同じ営業事務なんです。よく知ってますよ。あの二人、姉妹みたいに仲がいいんです。」
「事件当日、古田さんと三原さんは映画を観に行ったそうなんですが、ご存知ですか?」
「いや、そこまでは知りません。もう、どうして後藤があんな事になったのか…。信じられないんです。嘘みたいで。笑われるかも知れませんけれど、怖いんです。本当に薄ら寒く、怖い。」

 何かを捉えたと感じていた。いや、何かに辿りついた感じだろうか。厚く覆う雲に小さな裂け目を見つけたように思えるのだ。そこへ向かって体中の感覚が集中していく。肩甲骨の辺りから目に見えない触角が生えてくるのをイメージしてしまう。それはバリバリと生い育ち、背中から頭越しに見つけた裂け目を狙う無数の針となる。
後藤の浮気と奇妙な間違い電話がこの裂け目を押し開くだろうと思えた。古田美由が重要人物なのは間違いなかった。だが古田にはアリバイがある。これが何を意味するのか、もう一度三原あかりに当たってみることにした。そしてそこで非常に奇妙なものを目撃することになった。
三原の住むマンションを訪ねると、女がドアを開けた。
「三原あかりさん、いらっしゃいますかね?」女の肩越しに部屋の中を覗くが、人の気配はなかった。
女が怪訝な表情で片方の眉を上げた。そこではじめて、目の前に立っているのが三原あかり本人だということに気がついた。同行していた刑事もそれに気づいて息を呑んだ。化粧をしている、していないの違いではなく、顔つきがまるで別人だった。髪型は変わらない。ひっつめて額を出し、後ろでひとつに纏めている。が、ほっそりとした印象は消え、四角張った顔に見えていた。目の下にたるみが見える。口角が下がって、倦怠と放埒が匂ってきそうだった。それが三原あかりだと気がつくのは、絵の中に隠してある絵を見つけるのに似ていた。
「三原ですけど。」声と喋り方も違っていた。低く、ねっとりとしていて、最初に会った時の高く、明瞭な口調は微塵もない。
「ああ、どうもすみませんね。また少し聞かせてもらいたいことがあるんですよ。」
三原は入れとも言わずに背中を向け、奥に見えていたリビングテーブルの前に行った。
「じゃ、上がらせていただきます。」顔を見合わせてから、我々は部屋の中へ入った。三原はむっつりと目を逸らしていた。背をこんもりと丸めて座り、十は老けて見える。
落ち着かない部屋だった。道端に腰を下ろしたような感じがした。物が少ない。目につく物は持ち主の体温を失って、自分の用途を忘れている。壁に取り付けてあるエアコンの、運転を示す緑色のランプが付いていたので、部屋の温度は低くないはずだったが、こちらの体から熱がどんどん奪われていく錯覚に襲われた。
テーブルを挟んで三原の前に座ると、その顔から視線を外すことができなかった。会社にいる時と自宅で寛いでいる時の顔つきが違うことはあるだろう。制服をきている巡査と勤務時間外に私服で会って、その印象の違いに驚かされたことは何度もある。しかし三原の変貌ぶりは、そういったイメージの変化とは根本的に異なっていた。あえて喩えるなら、三原あかりという役を、別の役者が別の解釈で演じているのだった。しかもこの解釈は、秩序に対する停滞した悪意をそのテーマとしていた。最初に会った時の三原あかりは通り一遍の印象しか残していなかったが、この時の三原あかりは忘れられなくなりそうだった。
「何を聞きたいんですか。」三原がぼそりと吐き出した。
「あ、どうもすみませんね。じゃ、早速。古田さんのことをもう少し詳しく聞かせていただきたいんですよ。この一ヶ月くらいの間で、古田さんの様子が変だったことはありませんか。」
「様子?」
「すごく元気がなかったとか。なんか悩んでいる感じだったとか。」
「ないです。」答えが早すぎた。俄然注意が掻き立てられ、用意していた質問を変えた。
「いや、実はですね、後藤さんが古田さん以外の女性と付き合っていたんじゃないかという情報がありまして。一ヶ月ほど前の事らしいんですけど、それを古田さんが知って、すごく落ち込んだというんですよ。心当たり、ありませんかね?」
「さあ。」
「あんまり元気が無いから、上司の方が心配したと言うんですよ。三原さん、古田さんと姉妹のように仲が良いそうですよね。気がつかれませんでしたかね。」
「さあ。」
「三原さん、具合でも悪いんですか?」
「は?何故?」
「会社でお会いしたときと感じが違うなあ。制服じゃないからですかね。」
「そうですか。別に、ふつうですけど。」
「なんだか違うなあ。別人のようだなあ。」
「それも捜査ですか。」
「いやいや、すみません。個人的な感想ですよ。じゃ、ちょっと質問を変えましょう。古田さんが後藤さんと付き合っていたのはご存知ですよね?」
「ええ。」
「いつ頃知られました?」
「さあ、少し前のことだから…。」
「古田さんからお聞きになったんですか。」
「ええ。彼氏ができたって言ってたと思うけど。」
「最近のことではないですね。」
「ええ。」
「古田さんというのはどういう女性ですか?」
「もう事情聴取したんでしょ。見ての通りの女の子よ。」
「真面目そうな方ですよね。」
「刑事ってのは想像力がなくてもやっていける商売なの?」
「え?」
「上辺だけ見てたって分からないこともあるわよ。」
「どういうことですか。」
「いえ、一般的な話。古田さんがそうだとかじゃなくて。古田さんは、どこにでもいる普通の女の子。明るくて、世話好きで。平均的にやきもち焼きで、そのくせ嫌なものを見ないで済むなら顔を背けていたい。囲いの中にいるのに気づいていない家畜のようだわ。」会話とは別に三原が何かを考えていることに気がついた。視線の焦点が拡散して消えることがある。その瞬間は、思考の流れの方に注意を奪われているのだ。比喩が飛躍しているのも、水面下にある思考が顔を出しているからだろう。三原が考えていることを掴めないかと思った。
「古田さんが家畜ですか。」
「喩え話をしただけなんだけど。」
「そうですか。上辺だけ見ても分からないことがあるというのには、まったくそのとおりだと思いますよ。こういう商売をしているとつくづく感じます。人は見かけによらないというのか。その一方で、内に抱えているものをまるっきり隠してしまえる人間もいないと思うんです。」
「あなたのペースには乗らないわよ。」
「…まいったな。あなたのように頭の切れる人は初めてだな。」
三原は返事をしなかった。こちらの言葉がどこかに命中したのだ。
「古田さんの上辺だけでは分からない部分というのは、どんなところなんでしょうかね。」
「そんなところないわよ。空っぽよ。」
「空っぽ。家畜と言われたり、空っぽと言われたり。古田さんが聞いたらびっくりしませんかね。三原さんはどうですか。」
「何が。」
「三原さんにも上辺だけでは分からない部分があるんじゃないですかねぇ。ほら、今日も雰囲気がぜんぜん違うし。」
「だったらどうだって言うの。」三原がねじ上げた口の端に皺が寄った。顔の筋肉が器を作ってからそこへ表情を流し込んだように、三原の顔が挑戦的な冷笑になった。「上辺では分からない何かというのも、結局のところ、あんた達にとっては隠されているだけで、表に引きずり出してみればなんていうこともない、お馴染みの汚物だと思ってるんでしょ。」
「おお、難しいなあ。」
「何が。あんたらは汚い物をほじくり出せればそれで安心なんだよ。」
返事をせずに三原の顔を見守った。攻撃的な口調にかかわらず、目が落ち着いている。連れの刑事が口を開いた。
「いやぁ、僕達でも見たくないもの、知りたくないものはありますよ。」三原の視線がわずかに動く。
「ふん。古田さんを疑ってるなら、ここへなんか来ないで、あんたら得意の取り調べでさっさとあの子を絞り上げればいいじゃないか。」

 三原あかりの言うとおりだった。古田美由への事情聴取を優先すべきだったのだが、結局その機会を失うことになった。三原を訪ねた翌日に、古田美由が死体となって発見されたのだ。後藤の場合同様に、鋭利な刃物でメッタ刺しにされて殺されていた。
古田が鍵を握っていると思い込んでいた矢先だったので、これはかなりこたえた。三原の意外な毒気に当てられていたところへ、どやしつけられて天地が返った気がした。
発見された古田の様子は、後藤瞭の場合に酷似していた。マンションの自室の入口で、ドアの方に足を向けて仰向けに倒れていた。体の前面から顔に至るまで複数の刺創があった。
古田殺害の発見までの経過はこうだ。
古田の隣に住むOL戸田花奈が出勤しようと部屋を出た。その時、戸田は古田の部屋の前に血溜まりが出来ているの気づいた。ドアの下の隙間から夥しい血が流れ出ていた。戸田は慌てて管理人に知らせ、管理人から110番通報がされた。十分ほどで管轄署の巡査が到着し、管理人を伴い古田の部屋へ向かった。インターフォンで呼びかけたが返事がないので、管理人に持ってこさせたマスターキーで開けようとしたところ、鍵はかかっておらず、チェーンもかけてなかった。そして玄関口に血まみれの古田が倒れていたのである。
古田を最後に見た人間は、やはり戸田花奈だった。前日の十九時頃、戸田は秋津駅で古田と会い、そのままマンションまで一緒に帰っている。途中、古田の方から後藤の事件のことを話し始め、「怖い、怖い」と異様に怯えていたという。戸田は二十八歳と古田に年齢が近く、マンションの入居も古田と同じ頃だったとのことで、古田と部屋を訪ねあうほどの交流があったらしい。後藤が殺害されてからは、日増しに憔悴する古田を部屋に呼んで、ひと晩中慰めたこともあったと語った。
部屋の前で別れてから後、戸田は古田の部屋で起こったことに気づいていない。ただ、二十三時近くに鈍い音がしたような気がすると言った。
「このマンションは、上の階の音はそれなりに響くんですが、お隣さんの音はほとんど聞こえないんです。それでも、十一時ころだったかな。古田さんの部屋の方から音がしたようでした。どすん、というような。鈍い音です。でも、ちょうどお風呂に入っていたので、ちょっとはっきりしないんですが。」
「何の音か確かめようとしなかったんですか?」戸田の青ざめた顔の中で目が大きく見開かれた。エラの張ったいかつい顔立ちだに、目がアンバランスに大きく、顔の造作は騒々しいのに、しゃべり方は大人しかった。
「椅子みたいなものから飛び降りたのかなと思って。確かめようとは思いませんでした。」
「そういう音がすることはよくあることなんですかね。」
「うーん、しょっちゅうかと言われると、どうかなぁ。でも、おかしな音ではないような…。」
「では、今朝のことを聞きますね。戸田さんは会社へ行こうと部屋を出て、古田さんの部屋のドアから血が流れ出ているのを見つけたんですね。」
「はい。」
「その時の様子を話してみてもらえませんか。」
「えーとぉ、はぁ。」急に戸田がため息をついて、黙り込んだ。
「大丈夫ですか?」
「はい。ほんとぉにびっくりしちゃって。まだ、体が震えてるんです。」
「分かりますよ。誰だってそうなります。」
「刑事さんたちはやっぱり平気なんですね。」
「いや、平気ということはないです。平気な顔をしてるだけでね。足が震えるようなこともしょっちゅうなんですよ。仕事ですから、少しは鈍感になってるところもありますけれど。」
「はぁ。…。」
「戸田さん、じゃ、いいですか。」
「はい。朝のことですよね。いつもどおり六時に起きました。起きたらシャワーを浴びて。低血圧なんです。それから朝ごはんを食べて、支度して、六時五十分には部屋を出たんです。ドアの鍵をかけて、ふと古田さんの部屋の方を見たら、黒っぽいものが部屋の前に広がっていました。最初、お醤油がこぼれているように見えました。でも、たくさん広がっていたので、なんだかおかしいと思って、もしかしたら血かもしれないと思って、それでしゃがんでよく見たら、やっぱり血で。もう私、パニックになっちゃって、管理人さんのところへ走って降りて行って、助けてくださいって叫んじゃったんです。」
「古田さんの様子を確かめようとはしなかったんですね。」
「はっ?」
「血が染み出ているのを見て、古田さんに何か起きたのではとは思わなかったんですか?」
「あぁ、全然思いつかなかった。大変なことが起きてるとは思いましたけど、古田さんがあんな事になってるなんて、全然思わなかった。…刑事さん、古田さんは殺されたんですよね?」
「恐らく。」
「あらぁ。」戸田は絶句した。
「戸田さんは、古田さんの恋人の後藤さんのことはご存知ですか?」
「ニュースで。後藤さんも殺されたんですよね。」
「ええ。後藤さんに会われたことは?」
「ないです。」
「後藤さんは古田さんのところに来られてましたかね?」
「どうかなあ。ないとおもいますけど。」
「古田さんのところにどなたか訪ねてこられたことはありませんか?」
「ご実家のお父さんとお母さんが時々来てたみたい。あとは会社のお友達が遊びに来たことがあるんじゃないかなぁ。」
「どんな友達か分かりますか?」
「女の子たちでしたよ。顔までは分らないけど。その時は賑やかで。次の日に古田さんが、昨日はうるさくてごめんなさいと謝りに来て、その時会社の友達が遊びに来ていたと教えてくれました。」
「なるほど。今日のところは、もう結構です。どうもありがとうございました。またいろいろ聞かせてもらうかも知れませんので、よろしくお願いします。」
「私、アリバイないですよね。」
「?」
「昨日の夜の、私のアリバイはないですよね?古田さんと一緒だったけど、部屋の前で別れた後のアリバイがないでしょう?」
「まあ、そうですね。」
「私も容疑者ですか?」
「そうだと言うわけにはいかないんですけどね。」
「捕まります?」
「戸田さんが犯人ですか?」
「まさか、まさか。やだ。なんですか、それぇ。」
「色んな事をはっきりさせないといけないんですよ。戸田さんから聞いたことも、別の角度から裏付けて、はっきりさせる必要があるんです。それをこれからやります。だから、今日のところは、こんなところで、ということですね。」
「そうですか。」戸田は気抜けして、目を伏せた。
たしかに戸田にはアリバイがなかった。だが、動機もない。戸田にこだわる刑事はいなかった。それよりも、後藤が二股かけていたもう一人の女の方へ捜査の流れは急いだ。
鑑識の分析を待たずに刑事たちは、後藤瞭の殺害と古田美由の殺害を同一犯による連続殺人とみなしていた。捜査本部が増員され、後藤の現場で見かけた菊池刑事が戻ってきた。他の事件に駆り出されていたのが呼び戻されたのだと本人が言った。
「騒々しくなりそうだぜ。」と菊池刑事は、例によって口元に手をかざし、意味もなく秘密めかしてみせた。
それは、菊池刑事の言うとおりで、捜査の内外で雑音が増えた。
まず係長が、今までの捜査が手ぬるいと怒ってみせた。それを真に受けて色をなすような者はいなかったが、本庁の上の方が苛立っていることは明らかだった。捜査会議では、新たに加わった連中が露骨に圧力をかけてきた。不審人物の洗い出しを槍玉に上げてきて、後藤瞭の件の再捜査を声高に主張した。自分たちがやるというのではない。やり直せというのだった。係長が喚き、抑え込もうとしたところへ、部長の決断がそれを制した。つまり、もともとのメンバーは不審者情報の洗い直しに集中的に回され、古田美由の周辺への聞き込みは新たに加わった連中の担当となるのだった。犯人(ホシ)につながる線が濃いのがどちらかは明らかで、不審者情報の捜査を命じられた面々の間から言葉にならない不平のざわめきが起きた。
捜査本部の外側では報道が騒ぎ出した。恋愛関係にあった男女が相次いで殺され、その手口がそっくり同じだ。これは同一犯による連続殺人だと思われるが、警察では犯人へ迫る手がかりを何もつかんでいないらしい、と報道は色めき立った。捜査の周辺をうろつく人が増えた。後藤と古田に関係する第三の人物の存在が憶測され、刑事の誰もが閉口した。捜査会議では、報道に対する注意事項が度々繰り返され、煩くなっていった。
 それらの雑音の中で、刑事たちが期待を寄せていたもう一人の女が特定された。
はじめ、矢島、大木といった後藤の同僚からはなんの手がかりも浮かび上がらなかった。これは、捜査当初と変わらなかった。後藤瞭の名前に対して古田以外の女の名前を挙げたのは、別の部署の女子社員だった。その、経理課に所属する小沢比呂美はこう語った。
「たぶん、私と同じ経理課の森朋絵さんのことだと思います。でも、人それぞれの見方があるから断言できませんけれど、森さん自身は後藤さんと付き合っていたとは言わないと思います。どちらかと言うと、後藤さんのほうがちょっかいを出していて、森さんはそれを迷惑だと思っていたんじゃないでしょうか。後藤さんの方から森さんを飲みに誘っていましたけれど、最初一回、私も一緒に行っただけで、あとは断っていました。森さんは後藤さんに彼女がいることを聞いて知っていたんですよね。彼女はそういう事が許せないので、後藤さんの誘いを断ってました。」
結婚したばかりの小沢は、落ち着いた振る舞いを見せるのが嬉しそうだった。その小沢に名前を挙げられた森朋絵は、小沢の言ったとおりに後藤瞭との関係を否定した。後藤が一方的にアプローチしていただけで、森は応じるつもりなどなかったというのが真相のようだった。古田は後藤の気持ちが自分から逸れたのに感づいて、浮気を疑い、中村に相談したのだろう。中村に問い質された後藤は、はっきり否定しなかった。友人に対しておかしなプライドが働いたか、後ろめたさに口ごもったか。いずれにしても、後藤瞭が二股をかけていた女性は消え、捜査はあっという間に振り出しへ送り返されてしまった。

 菊池刑事は古田美由の殺害現場について、気になることがあると言ってきた。
「どうでもいいことなんだ。でも、気になるんだ。古田が通勤に使っていたショルダーバッグ、これは部屋の中にあったんだが、その中身を見たら、手帳らしきものがない。いや、手帳は使ってないのかもしれんさ。女性にしては珍しいが。でも、もうひとつないものがある。化粧ポーチさ。こっちは珍しいどころじゃない。そうそう。仰るとおりバッグから取り出したのかもしれんから、部屋の中も探して回ったんだが、ないんだぜ。な。気になるだろう?どう思う?」
「失くしたか。」
「ふん。小さいもんじゃないだろうからな。化粧道具を色々詰め込んでるから、それなりだよな。そいつを失くしているとなると、どこでだろうな。」
「ホシが持っていったかもしれないのか?」
「ああ。そうだとしたら、何故かということだ。」
「携帯は?」
「あった。でも後藤の時と同じだ。いや、後藤の時よりご丁寧だぜ。粉々にしてあった。」
「部屋の中で?」
「マンションのすぐ近くの道端。」
「メモリが取り出せるだろう。」
「履歴もメールもすっかり消した上で、道に叩きつけ、踏みつぶしたらしい。指紋もなさそうだ。」
「携帯を潰して手がかりを消したか。じゃ化粧ポーチは何のために?その中にも手がかりがあったのか?」
「な、気になるだろう?」
「化粧ポーチをそもそも持ち歩いていたのかという疑問があるだろう。ばらばらにカバンの中に入れる習慣で、帰ったら鏡台に戻してしまう。」
「ひとそれぞれだからな。」
「後藤の部屋から無くなっているものがないか、洗ってみる必要もある。」
「ああ。」
「歯ブラシ。」
「歯ブラシ?」
「後藤の部屋を調べたとき、洗面所にピンク色の歯ブラシが一本あった。棚には買い置きの歯ブラシがあって、それは緑色とピンク色だった。ピンク色が古田のものだとするなら、後藤の歯ブラシがないことになる。」
「他には?」
「誰かが気づくようなところはなかったと思う。何かが見当たらないとか、そういうものを聞いてはいない。」
「そもそも普段どういう暮らしをしていたのか、さっぱり分からんからなぁ。普通こんなもんだろうとだいたいの当たりをつけるしかないが。ホシは歯ブラシを盗っていったか。日用品が好きな人殺しかよ。」

 古田美由の足取りと不審人物情報の聞込みを担当していた組が、駅改札口の防犯カメラの録画を持ち出してきた。戸田の証言に基づいて古田が駅を出たところを確認し、死亡推定時刻から逆算した前後の録画もチェックしていて見つけたのだという。マンションの住人への聞込みでは、不審車を見たという情報がなく、その時刻頃にエンジン音を聞いたという証言がないことから、犯人が徒歩で逃走し、電車を使った可能性もあると思われた。そこでマンションから駅までの時間を加味して、その前後の時間帯の録画にも目を通したわけである。
画面を指さしながら、重松という刑事が説明した。
「まず、これ。左下の時刻を注意していてください。十九時三分。そして、ここ。ストップ。この女性が古田です。服装が戸田花菜の証言と一致します。はい、では進めて。どんどん。二十二時五十九分。降車客が出てきます。はい、ストップ。この女。誰だと思いますか。」
一瞬目を凝らす間があってから、訝しげな声が聞こえた。「古田に見えるけど。」
「でしょ?よく似ています。でもありえない。この時刻に古田がここに映るわけがありません。」
「顔がよく見えんな。そんなに古田に似ているか?」
「そう言われてみれば、そう見える。」
「次は、また進めて、二十三時三十八分。女がひとり、改札を入って行きます。これ。」
「あ、さっきの女か。」
「何か持ってるか?」
「来た時と同じバッグですね。それだけだ。」
「時間的には殺ってから戻ってきたとしておかしくない。」ビデオの画面を囲んでいた刑事たちの間の空気がとたんに密度を増した。
「おい、後藤の最寄り駅は、清瀬だったけ?そこのカメラの録画は?」
「取ってあります。」
「じゃあ、この女を探してみろ。それと、秋津駅周辺の聞き込み。古田の周りの女にあたれ。古田に似ている女がいないか。古田の身長を調べて、同じくらいの背丈の女で、少しでもひっかかるようだったらすぐに連れてこい。」
清瀬駅の防犯カメラの録画には、十一月十六日の午後八時ちょうどあたりに、古田もどきの女が改札口から出てくるところが映っていた。女は、それから約三十分後、改札を通って駅に入っていった。
二つの殺人の前後に、駅に現れる女。この女がそれぞれの殺人とは無関係であることもあり得たが、関係しているという感触を刑事たちは共有していた。しかも、この女は古田に似ている。と言うよりも、どうやら古田の振りをしているのだ。
古田美由に関係する女がもう一度リストアップされ、そこへ後藤瞭の生活圏にいた女も加えられた。その内飛び抜けて身長の高い女二人が外された。リストの残りが所轄署を中心に割り振られて、聞き込みが始まった。
古田美由が殺害された当夜に何処にいて、何をしていたか。それを確認できる人物がいるか。あるいは出来事があるか。同じく、後藤瞭が殺害された夜は?多くは、時間帯からして家に帰っていた。それまでの行動については、家族が証言したり、友人たちが証言したり、あるいは恋人が一緒にいた事を証言した。会社から自宅へまっすぐ帰った者。居酒屋から帰った者。ホテルから帰った者。習い事から帰った者と、行動と所在が明らかになった女は、リストから次々に消されていった。
そして残ったのは、二人だけ。その一人は三原あかりだった。
もう一人のアリバイが、不倫相手の証言によって裏付けられると、とうとう三原あかりに的が絞られることになった。

 三原のアリバイは弱かった。古田が殺された時、自分のマンションに帰っていたと三原は言ったが、それを裏付る証言をする人物はいなかった。しかし、後藤が殺された夜のアリバイは古田の話によって確証されていたので、二つの駅のビデオに記録された女に結びつけることは無理に思われた。ただ、三原の背格好は古田によく似ていた。古田になりすますことは難しくない。とは言え、古田を殺しに行くのに古田になるのは奇妙だ。なにより、後藤と古田を殺す動機が見当もつかなかった。二人に対して恨みを抱くような事柄は、それまでの捜査では見えてきていない。金銭関係のつながりもない。それでも古田殺害当夜のアリバイの弱さと、三原が聞き込み時に見せた違和感だけを頼りに、三原あかりを追った。
三原の部屋で再度向き合ったとき、三原はまた様子を変え、最初に聞き込みを行った時の三原に戻っていた。唖然とするこちらを尻目に、三原はにやにやしながら言った。
「私の顔が変ですか?」
「え?」
「刑事さんたち、私の顔をじっと見られるので。恥ずかしい。」背筋を伸ばし、耳にかかる髪を神経質になでつけながら、粘つくような笑いを向けてきた。
「いや、失礼しました。三原さんの雰囲気がまた違うんで、びっくりしてたんですよ。」
「何も変わってませんよ。」三原は目を逸らした。部屋は、前回と変わらない。寒々とした、落ち着かない部屋のままだった。そして、全体にまとまりがなく、石ころが寄り集まった気がする。その中で三原は白いシャツに身を包んで、柱のように座っていた。
「今日は、古田さんのことですね。」歯切れのよい口調の裏に、見下した冷たさが混じる。
「ええ。」
「古田さんが殺された時の事なら、別の刑事さんにお話ししたと思うんですけど。」
「ええ、ええ。それなんですけど、もう少し詳しく聞かせてもらえませんかね。」
「六時すぎに会社を出て、寄り道もせずにまっすぐ家に帰りました。七時半には家に着いていたと思います。それで、食事をしてから、お風呂に入ったり、ネットをやったりして、一歩も家を出ていません。十二時には寝ました。」
「はぁ。わかりました。三原さんがずっと家にいた事を証言できる方はいらっしゃいませんかね。」
「いません。私、友達は少ないんです。会社では古田さんぐらいでした。」
「そうでしたね。そうなると、七時から三原さんが家にいた事を確かにするためにはどうしたらいいかなぁ。」
「簡単よ。」
「と言うと?」
「私は古田さんの家に行っていないからです。何故なら、古田さんの家を私は知らない。だから、行けるわけがない。」
「ふむ。ちょっと弱いなあ。弱いですよ。」
「そう?でも、そうしたら、誰だって証明できないでしょう?家にずっといた事なんて証明できるのかしら。」
「ま、それはそうですけどね。ご自宅にいらっしゃる間、お友達に電話をされたりしませんでしたか?」
「いいえ。友達はいないと。」
「じゃ、ちょっと質問を変えさせてください。古田さんに最後に会われたのは?」
「あの日、会社でずっと一緒でした。」
「古田さんの様子に変わったところはありませんでしたかね。」
「さあ。」
「三原さんと古田さんは通勤経路が同じですよね。一緒に帰らなかったのですか。」
「帰りませんでした。」
「でも、いつもは一緒に帰ってたんでしょう?」
「いいえ。仕事が終わる時間が違ってたりするんで、たまにです。」
「当日は、どちらが先に帰られたんです?」
「古田さんのほうが先に帰りました。」
三原の話は、古田の行動については迷いないが、古田の有り様については曖昧になった。古田がどんな様子だったかとか、古田が何を考えていたと思うかという質問に対して、三原の目がわずかに泳ぐ。
「でも、後藤さんの事件があった日は、映画を観に行かれた。」
「はい。」
「なんの映画を観に行かれたんでしたっけ?」
「…」
「映画のタイトルを教えてもらえませんか。」
「忘れたわ。」
「映画を誘ったのはどちらからです?」
「古田さんだったかしら。私かもしれない。忘れました。」
「古田さんは映画が好きだったんですかね。」
「そんなこともないと思いますけど。私も彼女もそれほど映画を観るわけではなかった。あの日は、暇つぶしに映画でも観に行こうということになったのよ。」
「そうですか。もう一度聞きますけど、事件当日、古田さんは会社でどんな様子でしたか。」
「さあ。別に普通だったと思います。」
「古田さんのお隣に住んでいる人によると、古田さんは後藤さんの事件のことですごく怖がっていたらしいんですよ。三原さんにもそれらしいことを相談していませんかね。」
「いいえ。」
「三原さんは古田さんと仲が良かった、ですよね?三原さんに古田さんは後藤さんの事件のことをどう話していました?他の人には話せないようなことも、仲のよい三原さんには話せたんじゃないかなあ。」
「あんた達がここに来たあと、彼女から電話があった。」
「ほう。」
「後藤の浮気の事までほじくり返されて、悔しいって。ある意味天罰が下ったのに、自分の気持まで根掘り葉掘り聞かれて、隠しておきたいことも引っ張り出されて、本当に嫌だって言ってた。」
古田の事件の前日、三原に対する聞き込みを行った後、三原から古田に電話をしていることは、通話記録から割り出されていた。古田から三原へ電話をかけたのではない。
「天罰とは?」
「悪いのは男のほうでしょう?浮気をしてたんだから。それの罰が下ってあんなことになったのよ。」
「でも、後藤さんは実際に浮気をしてたわけではないようなんですよ。まあ、他の女性にちょっと目移りしたのはしたんですけど、どうも古田さんの思い込みのようでしてね。」
「そうなの。」
「だから、後藤さんが天罰をくだされたとしたら、少し厳しすぎるなあ。」
「天罰は天罰よ。」
「では、古田さんはどんな判決をくだされたんですかね。」
「…」
三原の顔つきが目に見えて変わって行った。表情の移ろいでは言い尽くせない変化、むしろ変形と言ったほうが近い。ぐんにゃりと頬が垂れ、目蓋がかぶさった。唇が暗紫色に、頬骨のあたりが灰色に、白目が黄味がかった。目の下に黒ずんだ隈が、染みるように広がった。耳の下から顎のエラにかけて肉が盛り上がり、ついに四角い顔になってしまった。
明らかに異様なことが起きていた。三原の体が内側から別のものに乗っ取られたかのように見えた。しかし、どう表現しても、目撃したものはそれまで経験したことのない何かだった。
三原の体つきも変わっていた。姿勢よく座っていたのに、今や背が丸まり、肩が落ちていた。
「三原さん?」「三原さん?大丈夫ですか?」同行していた所轄署の刑事が同時に声を上げた。この刑事は前回の三原の様子を知らない。そのため眼前の三原に警戒もなく驚かされていた。だが、現れたのはこの前の三原と同じ三原で、もしかするとこの三原が本来の三原なのかもしれないのだった。
「何が?」三原自身は自分の変化を意識していないように見えた。
「顔色が悪いように見えたものでね。大丈夫ですか。」
「なんともないわよ。」
「では、もう一度聞きますけど、古田さんにはどんな罰が下ったと思いますか?」
「ふん。」
「古田さんは、後藤さんを殺した犯人について、なにか知っていたので殺されたんじゃないでしょうかね。」
「…」
「後藤さんが殺された時、部屋の鍵がかかっていたんです。つまり、後藤さんが殺されてから誰かが合鍵を使って部屋を閉めて行った。後藤さん自身の鍵は部屋の中に置いてありましたからね。古田さんも合鍵を持っていた。もう一人合鍵を持っている人物がいた。おそらくその人物が犯人でしょう。その犯人について、古田さんは何かを知っていたので、とても怯えていた。犯人は古田さんが自分のことを漏らすのを恐れて、古田さんも殺したんでしょう。古田さんは部屋を開けて犯人を迎え入れていたので、古田さんの顔見知りの中に犯人はいると考えられます。」
「妄想と大差ない憶測ね。」
「後藤さんの部屋の合鍵は、古田さんの持っていた合鍵から作ったと仮定してみましょう。どうやって犯人は古田さんの合鍵を手に入れたか。古田さんが差し出していたとしたら?強要したかもしれませんけれどね。それにしても、後藤さんを殺害する計画に古田さんの関与があったことになります。すると、古田さんが殺されたのはやはり口封じのためだったのでしょう。
もうひとつ。十一月八日から十二日まで、後藤さんはおかしな間違い電話を受けていました。殺された日の四日前までですね。女性からだったそうです。最初は、一方的に待ち合わせ場所を指定して、こなければ自殺すると言ったそうです。知らない女性だったので後藤さんが無視すると、次の日もかかってきて、なぜ来なかったのかと後藤さんを詰ったと言うんです。どう思いますか、三原さん。これは多分、後藤さんと古田さんを殺した犯人がやったいたずらだと思うんです。」
「証拠は?」
「ないですよ。でも、聞いてください。犯人はなぜ、そんな間違い電話のようなことをしたのか。後藤さんの生活パターンを探っていたのかもしれない。あるいは、後藤さんに心理的なストレスを与えようとしていたのか。怖がらせるためか。あるいは、もっと別の目的があったか。」
「くだらない。刑事さんの独り言にいつまで付き合えばいいのかしら。仕事で疲れてるのよね。」
「あと少し。古田さんが犯人の計画に関わるのには、動機がありました。古田さんは後藤さんが浮気をしたと思っていた。事実は古田さんの誤解でしたが。でも、古田さんは後藤さんが浮気をしたと思い込んで、後藤さんを恨んでいた。罰したいと思っていたとしても無理はありません。だから、犯人に協力する気になった。では、犯人の動機はなんでしょうか。これがいくら調べても出てこない。後藤さんの身辺にも、古田さんの周りにも、犯人の動機につながるものが見当たらない。」
「あんたらが無能ということもありうるわ。」
その時、スイッチが入ったようにいくつかの事柄が結びついて、あるイメージが浮かび上がってきた。そのイメージの動かしがたい感触を頼りに、三原あかりに対して賭けを仕掛けることにした。
「まあね。でも、ここはちょっと違うように考えて、犯人の動機が隠れているのではなくて、そもそも動機がなかった、いわゆる動機というやつがなかったと仮定してみます。いわゆるというのは、怨恨とか、男女関係とか、金銭とか、そういうものに端を発する動機ということです。そういう動機があれば、必ずどこかに、なんらかの手がかりがあります。それがどう探しても見つからないということは、そういった動機そのものがなかったと考えるわけです。では、動機もなしに後藤さんを殺したのでしょうか。そういう殺人を犯す人間はいます。そうそうざらにいるわでけではありませんが、確実に存在します。刑事たちに聞けば、多くの刑事が頷くと思いますよ。
それで、この事件の犯人もその手の人間だとしたらどうでしょう。
古田さんが犯人に後藤さんを恨んでいることを漏らす。犯人は古田さんに同情したふりをし、復讐を代行してやると持ちかける。犯人は最初から後藤さんを殺すつもりだったが、古田さんの方ではそこまでとは思っていなかったかもしれない。古田さんは犯人の言うとおり、合鍵を犯人に渡す。犯人は人殺しの計画にもっともらしい言い訳を与えるために、後藤さんに電話をかけ、不実を詰ってみせる。一体全体、なんのための言い訳なんでしょうね。自分自身に与える言い訳でしょうか。その中身は、不実な男に罰を与える、という言い訳。犯人はそうやって演技して自分を騙さないと落ち着かないのかもしれません。
演技すると言えば、犯人は古田さんの格好をして後藤さんを襲ったようです。どうやら後藤さんを一瞬騙せるほど、うまく化けたらしい。十一月十六日の夜、古田さんの格好をして後藤さんにドアを開けさせた犯人は、中に入った途端、持っていた刃物で後藤さんをメッタ刺しにして殺した。何回も何回も刺して、殺しました。鑑識で調べたら、結構な数の傷が非常に深いものだったということです。どんな刃物を使ったのかまだ分かっていないけれど、それだけ深く刺すには相当な力がいる筈です。人間の体は豆腐じゃないんだから。犯人は猛烈な勢いと力で刺しまくったのでしょう。恐ろしい仕業です。多分、興奮しつつ、一方で冷めているような、そういう簡単には理解できない心理状態で刺し続けた。冷たい炎のような。墓場の鬼火のような。」
「分かったようなことを。」
「そうですね。平然と人を殺す怪物の胸の内のことですからね。
さて、あっという間にメッタ刺しにされて、後藤さんは倒れました。仰向けに。後藤さんの体を越えて犯人は部屋の中に入り、あるものを探します。この手の怪物にとっては、それがなくてはならないようです。それは記念品です、人殺しの記念品です。後藤さんを殺した記念品になるものを探して、犯人は部屋の中をうろついたのです。それを持ち帰り、あとで自分のやったことを思い出し、もう一度興奮しようというのですかね。犯人が持ちだしたのは、後藤さんの歯ブラシでした。歯ブラシなんてと思ってしまうけれど、殺した相手が普段身に付けているものや身の回りに置いているのがいいんだそうですね。それにしても歯ブラシなのかというのは、多分、時間がなかったからそれを選んだんでしょう。実際に人を殺したのは、これが最初か、もしくは二回目ぐらいかもしれない。落ち着いているようで、あまり余裕がないのが透けて見えるんです。だから、それほどたくさん場数を踏んでいるとは思えない。」
三原は黙り込んでいた。伏せた目の焦点がどこに合っているのか、はっきりしなかった。
「そこで犯人はもっと思い描いていた通りにやりたいと考える。失策とまではいかない、でも、現実に人を殺してみると、その結果に何か不満があって、やり直したいと思い始める。そうなると灼けるような焦燥を感じたことでしょう。
そこへちょうどいい具合に古田さんの口を封じる必要が出てきた。もう一度、後藤さんの時と同じようにして犯人は古田さんを襲った。古田さんの扮装をするところまで同じにやった。儀式的な匂いを感じますね。今度は古田さんが犯人のことを知っています。ドアを開けて迎え入れてくれました。相手に隙を与えず、再び刃物で執拗に刺し殺す。古田さんの恐怖はどんなものだったでしょうかね。想像するだけでもおぞましい。古田さんは罰せられるような罪はなかった。いや、少なくとも犯人に罰を与える資格はない。犯人は古田さんのバッグの中から化粧ポーチを記念品として持ち帰った。今度は満足したでしょうか。わかりません。犯人は古田さんの家を出ると、電車で逃走している。駅の防犯カメラにその姿が写っていたのです。後藤さんの時と同じ姿でね。今、犯人はどこにるのでしょう。何をしているのか。手を染めている血を平気で洗い流し、案外、普通に勤めに出ているかもしれない。この手の犯人は、しばらく鳴りをひそめますが、渇きのようなものに責められて、また殺人を夢見るようになるそうです。怪物に平和な夜は訪れないでしょう。警察はそいつのすぐそばまで来ている。」
沈黙が降りた。同行していた刑事の驚いている視線があった。今まで誰も口にしたことがない読みだったからだ。その場で咄嗟に思いついたものだった。それを三原にぶつけることで揺さぶり、反応を見るという賭けを仕掛けた。しかし直ちにどうこうなるわけはなく、九歩九厘、やり過ごされのるが落ちだったが、それでもさらに追い込みをかけるための取っかかりとしては、充分食い込むはずだった。
この賭けの仕上げは、三原あかりを犯人と見ていることをもっとあからさまに示唆することだった。それには古田と映画を観ていたというアリバイを崩して見せるのだ。古田が始めから承知していたら、映画館に入ってすぐに抜けだして後藤の部屋へ行くことができるはずで、それで三原のアリバイに穴が開く。ここまで考えていることを分からせてやれば仕上がる。
その時、三原がのそりと立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」同行の刑事が訊いた。三原は刑事を一瞥すると、低い声で答えた。
「トイレ。」
三原がリビングの外へ出てから、刑事が小声で言った。
「どうでますかね。」
「どうだろうな。」
どこかが止まったように静かになった。
まさか、と顔を上げると相手も同じ事を思ったと見えて目があった。
「三原!」跳び上がってリビングを出ると、玄関のドアが大きく開いていた。
「しまった。」
「非常階段だ。本部に連絡を入れてくれ。三原は逃げた!」
廊下に出てみると、突き当たりの非常階段への扉がゆっくり閉まろうとしていた。走った。非常階段を降りて遠ざかる足音が聞こえたようだった。階段の踊り場に出たときは、勢い余って手すりに体をぶつけた。下をのぞくと、非常灯の蒼白い光の暈を突っ切る姿が見えた。すでに地上近くまで降りている。四階から降りたのだが、信じられないほどの足の速さだった。
ほとんど飛び降りるようにして後を追った。階段がぶるぶる揺れていた。外へ飛び出しそうになる体を手すりにぶつける度、派手な音がした。
すでに三原は非常階段を降りきり、マンションの前の通りへと走り出ていた。一瞬の迷いもなく右手の方へ逃げる。翼に似てひるがえるスカートの下から、白い脹脛が闇の中に浮かび、さらに白い足裏が見えた。裸足だ。その足が地面に触れているように見えない。ようやく通りに出て走りだした頃には、三原はすでに夜の中に呑まれようとしていた。
だが、女の足で、しかも靴を履かずに、それほど遠くまで行けるとは思われないと高を括った。幸いなことにあたりは静まり返っていた。三原の足音に耳を澄ませながら闇の中を走った。
民家の並びが続いた後、右手にはゴルフ練習場の高いネットが現れた。その後、なんの敷地なのか、延々とフェンスが続く。その向こうは茂った立ち木が遮って見通せず、闇が一段と濃い。道の両側に灯りを挟んで並ぶ街路樹も幾重にも葉を広がらせており、光の届く範囲を狭めてしまっていた。途切れ途切れに歩道に落ちた光の暈の中に、遠ざかる三原がちらりと見えた。その後ろ姿はすでに相当小さい。もう足音が聞こえるはずもない。
道は、側道もなくほぼまっすぐ続き、果てで右に折れているようだった。そのあたりになると街灯がないのか、夜が壁のように立ちはだかっていた。猛烈な勢いで逃げ去る三原は、たちまち曲がって姿を消した。そのあたりまで三原のマンションから二キロはあったのではないだろうか。ようやくたどり着くと、もう息が上がって、喉がひりつくほど渇いていた。体が思わず前のめりになる。膝に手をついた。心臓を吐いてしまいそうだった。右手の方へ闇に消えていく道を見ても三原の姿はなかった。石炭で夜の上に描いたような家々が、道の両側を遠くまで埋めていた。肺を出入りする荒い呼気の音のほかは静寂だった。汗が流れてはいたが、すぐに冷気が取り囲んで押し寄せようとしていた。
 三原の部屋に戻って、待っていた連れの刑事に三原を取り逃がしたことを伝えると、その逃げ足の速さに驚いていた。部屋の中をちょっと調べようというと、刑事は頷いた。
令状が無いので、細かく見ることはできない。それでも気がかりを確かめることはできる。後藤の歯ブラシと古田の化粧ポーチを見つけておきたかった。
それらはあっさりと見つかった。
リビングの奥にもうひと部屋あった。そこは寝室になっており、置かれたベッドの下に紺色の旅行カバンがあった。それをあけると、歯ブラシと化粧ポーチ、どす黒い染みが広がった布に包まれた大型ナイフが二本、転がりでてきた。布の染みは、乾いた血だろう。後藤の時と古田の時と別々のナイフを使っていたのだ。DNA鑑定をすれば、証拠となるだろう。
カバンの中には他に、何も書いてないノートが三冊。それと、髪の毛の束があった。髪の毛は片手に余るほどの量だった。細く、茶が強い髪質は、三原のものではなさそうだった。これもまた記念品なのだろうか。
カバンの底からは写真が入った封筒も出てきた。三原自身が写った写真は一枚もなかった。十枚のうち半分は、別々の場所で撮られた別々の人物のスナップ。ざっと見た限りでの人物の共通項は、中年の女性であることと、服装や髪型が十年くらい前のものであることだった。特定できないまちまちの場所で、笑っているのは一人だけ、あとは無表情に近い顔をしていた。写真の残りは全部、同じものを写していた。それは木造の掘っ立て小屋だった。片屋根で窓はない。扉が一枚、見えている。木板は、永く雨風に打たれ、日に焼け、垂れ流れたような薄鼠色になっている。地面に近いところはもう腐りだしているのか、黒っぽい。どこがどう、何がどうと指さすことはできないが、全体的に禍々しいものが迫ってくる。深いようでいてまるで厚みのない、不潔な空気が小屋の中に閉じ込められている、と根拠のない空想が漂いだす。同じ封筒に入れられていた他の写真の女性たちとこの掘っ立て小屋はなにか関係があるのか。三原あかりは、これらの写真を何のためにとっておいたのか。これらの写真を、どんな顔で見て、何を思っていたのか。疑問の渦が、忌まわしい穴の中へ吸い込まれていった。
「ちょっと来てください。」
別の部屋を見ていた刑事が声をかけてきた。彼は風呂場の扉を開けて、手招いていた。
「なんですかね、これ。」
指さされた浴槽の中には、メロンほどの大きさの石が七分目くらいまでびっしりと詰めてあった。目を凝らすと、浴槽の縁に砂がついているのが分かる。
「なんだろうな。」
すべての言葉を拒んで、電灯の光の下、石と石の間にひときわ濃い影が潜んでいた。

 三原あかりとは誰なのか。
三原あかりは「三原あかり」ではなかった。
役所の記録に三原あかりなる人物は存在しなかった。当然、家族や親類も不明。給与の振込口座、公共料金の支払い、税金、携帯の契約、マンションの契約等々はすべて「三原あかり」で行われていたが、それは「三原あかり」という記号が機能しているだけの話だった。三原あかりは父母から命名された名前を名乗っていたのではなかった。
馬喰町の会社には七年勤めていた。三原の上司も同僚も、堅苦しいまでの真面目な勤務態度を語った。異口同音に、会社で仲が良かったのは古田さんくらい、と言われるほどの細い付き合いで、職場を離れたところでの三原の生活、姿、振る舞いを知るものはいない。
入社以前、どこにいて何をしていたのかは、断ち切られたように消え失せていた。保管されていた三原の履歴書の記載は、すべて虚偽であることが分かった。それでも、嘘に潜む真実が探された。まるっきりの嘘をひねり出すのは難しく、どこかに嘘の種となった痕跡を残すものだ、という経験則にのっとって、書かれていた経歴が徹底的に洗われた。例えば、卒業したと書かれている「仙台市立青葉第二高等学校」というでたらめの名前も捨てられることなく、仙台市内の高校すべてを巡って、三原あかりに似た人物が在籍したことがなかったかどうかが調べられた。が、「三原あかり」と名乗っていた人物が存在した記録は見当たらなかった。
三原の部屋から犯行に使用したと思われる凶器が発見され、付着していた血液が被害者のものだと分かると、捜査会議で部長が猛り狂った。三原に対して何度か聞き込みを行っていながら、その身辺調査がうっちゃられていて、挙句に三原に逃げられたとなると、部長の激高も頂点に達した。だが、その素性を明かそうと調べれば調べるほどに、どうやったのか正体不明のまま人々の間を泳いでいた、のっぺらぼうのような存在が剥きでてきて、すると部長の怒りもしりすぼみとなっていった。刑事の面々にとっても事は同じようなものだった。事件が思いもよらない、理解の届かない姿をしていたことを目のあたりにすると、誰もが呆然と両手を垂らしたのである。
三原が住んでいたマンションの部屋は、それこそ壁紙を剥がして見るほどに調べられた。浴槽に突っ込んであった石は、ひとつひとつ取り出され、並べられた。全部で五十七個あった。捜査員は、石を取り出す時、下から死体でも出てくるのではないかと緊張した言う。実際は石だけだった。石に付着していた泥や、石そのものから、奥多摩近辺から持ってこられたものとされた。それ以上のことは何も断定できなかった。この奥多摩という地名と奇妙な小屋の写真が結び付けられ、聞き込みが行われた。写真に写っている小屋を見つけようというのである。小屋の背景としてわずかに写っている部分を拡大し、地形を推測することも行われた。結局、場所を特定することは出来なかった。他の写真の女性たちについては、行方不明者の情報と照合された。一人だけ、十二年ほど前に失踪した人物に似ているという情報がでてきた。その行方不明者についての届出を出していたのは失踪した本人の妹だった。そこで連絡をとり、写真を見てもらうことになった。が、見た瞬間に、写っているのは姉ではないと言った。見せる前は疑わしそうな様子だったのに、内心は期待していたのか、見当違いだったことがわかった後の落胆ぶりは激しかった。傍らの刑事が思わず手を差し出して支えようとしたほどだった。これより他の写真は、どれも行方不明者と合致するようなものはなかった。行方不明者の届出の時期を十年前からもっと範囲を広げて照合されることになった。時間がかかる割には望みが薄い調査で、期待する者はいなかった。デジタルカメラではなく、フィルムのカメラから印画紙に現像されたものであることが手がかりになるのではないか。この思いつきも、道を開くことは出来なかった。

 とうに年が明け、一週間二週間、飛ぶように過ぎた。
三原あかりには指名手配が出されていたが、捜査の網にかかるものは何もなかった。
着の身着のまま、しかも裸足で逃走し、それほど遠くへいけるとは思えない。それでも潜伏していられるのは、近くに頼る先があるに違いなかった。そこでもう一度、三原のマンションを出発点とした、綿密な聞き込み捜査が行われることになった。
すでに二月に入り、外を歩いていると爪先がしびれてくるほどの寒さだった。
菊池刑事とパートナーを組み、アパートやマンションの扉を一つ一つノックして回った。扉が開くと、警察手帳を見せ、三原の写真を見せる。清瀬市で起きた殺人事件であることを説明し、写真の人物を見かけなかったかどうかを聞く。相手の名前を確認し、同居している人がいないかどうかを確かめた。その間菊池刑事が、戸口に立った人物の背後に見える部屋の様子を伺った。外の寒さが幸いして、中に入ってドアを閉めるように言われることもある。そんな時は、近所で不審者を見たか、その類の話を聞いたことはないか、近所の噂話などをさらに詳しく聞くことができた。
地図を区分けし、住居をリストアップし、聞き込みを行った所はチェックして消していく。捜査の手が、三原のマンションの周辺からじわじわと広がっていった。捜査本部のホワイトボードに貼られた地図を見ると、捜査済みのマークが、伝染病が蔓延するようにも、炎が焼き広がるようにも思えた。
横に立って同じように地図を見ていた菊池刑事が言った。
「どこに隠れてるかなあ。男かねぇ、やっぱり。」
潜伏先が男の所というのは想像しやすい。しかし、三原あかりに関しては、そういう分かり易さとは壁を隔てたところに居るのではないかと思われた。
壁を隔てたすぐ隣で息をひそめ、気配を殺している。
もっと高いところから見れば、同じ平面でごく近くにいることが分かるのだろうが、違う次元にいる限り容易には見えてこない。
 そんな感触を裏付けるように、まるっきり考えもしなかった方角から情報が舞い込んできた。
それは所轄署の刑事が、自分の子供から聞いた話として報告した。その刑事の子供は新座市の小学校に通っており、そこの子供たちの間である噂話がしきりに囁かれているというのである。
子供の噂話を捜査の現場に持ち込んできたということは、その所轄署の刑事にも、三原あかりについての違和感が共有されていたということなのだろう。
そしてその噂話というのは、自衛隊の朝霞駐屯地からほど遠くないマンションの屋上に、カラスのように黒い女が出没するというものであった。この「カラス女」と目が合うと、ある日「カラス女」が家を訪ねてきて、包丁で刺殺されて死ぬというのだ。
菊池刑事はこの話を聞くと「へへっ!」と笑い声を上げた。
「刺し殺す、ねぇ。やばいなぁ。」
子供らが熱中する「怖い話」にまともに反応しようとする照れ隠しから、額をごしごしとこすり、それでも拒否することなく、菊池刑事は朝霞駐屯地周辺の捜査に同意した。

 空一面を動きのない雲が覆っていた。雲の腹が重々しく垂れ、幾重にも連なった。
風が止んでいた。車はきりもなく行き交っていたが、どこか全体に音が沈んでいるようだった。
捜査は、菊池刑事ともうひとり、所轄署の刑事が同行し、三人で大泉学園の駅から朝霞駐屯地までの、多層階のマンションの屋上を調べて回ることになった。
蜥蜴の腹のような雲を背景とした屋上に目を凝らしつつ目的のマンションに近づき、管理人を呼び出し、屋上を調べさせてくれるように頼む。大抵は施錠してあるので、管理人を同行させるか、鍵を借り受けた。一人は地上で待機し、二人が屋上へ向かった。
目星は、大通りから外れ、かなり築年数が経った建物だった。そのようなマンションなら、屋上への出口が施錠されていないか、鍵を壊すことができるかもしれないからだ。
すでに八件のマンションをめぐり、目星の一つへ向かった時だった。
菊池刑事が腕を上げて指さした。道に面して細長い空き地があった。その奥に、背を向けるように窓のない壁を見せたビルが建っている。五階建てほどに見えた。菊池刑事が指差しているのは、そのビルの屋上だった。囲いをめぐらした屋上の、建物の天辺にわずかに黒いものが盛り上がって見えた。黒いビニール袋が置いてあるようでもあった。
その区画を廻って建物の正面に出ると、それは雑居ビルだった。一階が牛丼屋になっていて、その店の脇に上への階段がある。階段の入り口の壁に、五つの郵便受けが取り付けてあった。三つには記入された名札がついていたが、残りの二つには無い。空室なのかもしれない。
ビルの脇には細い通路があって、そこを入ると、一階の厨房の出入口と非常階段があった。通路は別のビルに突き当たって右に曲がり、先で通りに開いていた。空き地の側から見えていたのは、この雑居ビルの一部分のようだった。
菊池刑事が非常階段の下に待機することになった。
菊池刑事は壁の換気扇を見上げていた。黒い油が縁から垂れて固まっていた。その換気扇から出てくる匂いがひどい。
「災難だな。」という菊池刑事のつぶやきが背中越しに聞こえた。
所轄署の刑事の名は近藤といって、その近藤刑事を従えて階段を登って行くと、やはり四階から上は空き室だった。
五階から屋上へ行く階段は、ダンボールの箱や紐でくくられた雑誌が山積みされて塞がれ、簡単には登れなくなっていた。
人が通ったようには見えなかった。だが、障害物をひとつひとつ脇へよけてみると、つもった埃にかすかな跡がついているものがあった。誰かがここを登っていったに違いない。
階段の壁は湿気を帯びていた。そのため一段と温度が下がって感じられた。ぐっと天井が低くなり壁が迫った果てに、屋上への扉があった。鍵はかかっていない。扉に隙間があるのか、風の唸り声が聞こえた。ノブを回し開けようとすると、大気の圧力が押し返してくる。
屋上へ出ると強い風が吹いていた。
階段でまとわりついていた湿気がまたたく間に消え去る。風の冷たい手で頬を張られる。ジャンバーが膨れ上がり、バタバタと音を立てた。続いて出てきた近藤刑事が思わず、「うぉ。」と声を出した。五階建てビルの屋上ぐらいの高さでこれほどの風が吹いているのは意外だった。風のせいで急激に体温が下がる。
右手には囲いに沿ってエアコンの室外機が並んでいた。空き地の側にあたる左手には何もなく、長方形の角に、下から見えた黒い塊がうずくまっていた。
その塊がするすると伸び上がり、人の形になった。女だ。風と髪が絡みあい、踊り狂っている。だが、首から下をすっぽり覆っている黒いマントのようなものは、少しもはためかない。
「三原!三原あかりだな。」
風にさらわれて、声が届いたかどうか怪しかった。だが、女はゆっくり振り向いた。
相手の動きに注意を払いながら、余裕を与えず、かつ刺激しない程度の早足で近づく。近藤刑事はやや遅れてついてきた。四方八方からめちゃくちゃに風が吹きつける。時々、巨大な空気の塊があたりを圧して吹き過ぎ、その直後は少しだけ風の勢いが弱まるが、すぐ元に戻って荒れ狂う。
女が身にまとっている布は視線を吸い取る漆黒だった。その裾から白い足先が見えている。近づくにつれて、その足先が薄汚れているのが見えた。
跳ね広がる髪の渦に浮かぶ白い顔を凝視する。血の気を失った唇。透けて見える蛹の体を思わせる頬。焦点のない目は、虚空にただ意味もなく穿たれた二つの穴だった。とても三原あかりには見えなかったが、彼女に間違いなかった。またもや変身している。顔の骨格や、目鼻の配置に注意すると、三原の面影を認めることができた。
しかしこの三原あかりは、これまでの彼女とはまるで違っていた。何か、黒い花束に見えた。
「三原、殺人容疑だ。逮捕する。」
言葉も風のわめきも、はるか彼方にあるようだった。水底深く沈んで、遠いざわめきが聞こえている気がした。
黒い花束の花が、花弁を押し開き、内側の白さが空間に満ちていった。
三原あかりは、くるりと囲いを乗り越え、消えた。
「あっ!」近藤刑事の声を聞きながら走り寄り、下を見た。どんと低い音がして、三原あかりが舗道に叩きつけられるところが見えた。三原の体を覆っていた黒い布が舞い上がり、一瞬、三原を視線から隠した。風を巻き込むようにくるくると回った。ふわりと更に高く浮かび、瞬く間に仰ぎ見るほどになって、そのまま斜めに上昇しながらぐんぐん飛び去った。
三原の体は、舗道に頭を埋め込んでいるように見えた。逃走した時の服装のままだった。頭の周りに、深紅の血溜りが広がっていった。

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