SSブログ

「パイドロス」プラトン著 藤沢令夫訳 [感想文:その他]

 「パイドロス」はプラトンによる対話篇で、紀元前370年代に書かれたもの。プラトンの活動においては中期に位置する著作である(解説 p.191)。
 時は真夏の晴れた日盛り、アテナイ郊外にあるイリソス川のほとりで、ソクラテスとパイドロスが対話する。
このパイドロスなる人物は、プラトンの他の著作(『饗宴』『プロタゴラス』)にも姿を見せ、「時代の風潮に敏感な、全般に快活で好奇心に富んだ一人のアテナイの知識人」(解説 p.189)だったようだ。
 対話の主題は弁論術についてである。弁論術は当時のアテナイにおいて花形的技芸であったらしい。「言論の自由と法のもとにおける平等をたてまえとする民主制下のアテナイでは、人は国民全体の集会である国民議会や陪審法廷の世論を動かすことによって国政を支配し、あるいは身の保全と立身をはかることができたから、そのための言論の能力」(解説 p.193)を技術として身につけることが人々の関心の的であったのだ。そして、弁論家たちは「手本となる弁論をあたえて暗記させる」(解説 p.194)ことによって弁論術を教えると標榜していた。
 しかし、その弁論家たちの弁論術は真に技術と呼べるものなのか。ソクラテス=プラトンは異議を唱える。
弁論術は「言論による一種の魂の誘導」(261A)なのだ。それが技術たり得るためには、真実の把握、本質の把握がまず前提となる。誇張や比喩などの修辞、真実らしく見せかけて、人を納得させるためだけのテクニックは、予備的知識ではあっても、技術の土台ではない。また、弁論術は魂をその対象とする以上、魂の本性の分析が必要となる。その魂の分析はデアレクティケーによって実行される。ディアレクティケー=対話術は、「多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめる」(265D)ことと、ものごとの「いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと試みることなく」「自然本来の文節に従って切り分ける」(255A)「分割と綜合という方法」(266b)によって行なわれなければならない。
 この弁論家・弁論術批判の枠の中に三つの話が埋め込まれている。
まず、パイドロスが持っていた高名な弁論家リュシアスの文章。それは「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」と主張していた。目を引く逆説的な主張だが、弁論家たちはこのような逆説でもテクニックで聞く人を納得させられる、本当らしく思わせることができる、と言っていたのだ。
こに対してソクラテスは、リュシアスの論を修辞はともかく構成に問題ありとして、修正したものを提示する。
しかし、以上二つの話がエロースの神に対する不敬虔にあたると言ってソクラテスは、「取り消しの詩(パリノーディアー)」を捧げるために第三の話を語る。それは恋する者を讃える話である。前の二つの論は恋する者の狂気が悪いということを根拠としていたのだが、第三の話は、それに対する反駁として、神より授けられた狂気からは善きもののことの中で最も偉大なものが生れてくることを出発点とする。そこから魂の三部分説や魂の転生の物語(ミュートス)が語られ、本篇の中核を成している。
 まず、神から授けられた狂気が挙げられる。予言術、占い術、そして「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気」。最後のものは、詩人と詩作を襲う狂気であるわけだが、「もしひとが、技巧だけで立派な詩人になれるものと信じて、ムゥサの神々の授ける狂気にあずかることなしに、詩作の門に至るならば、その人は、自分が不完全な詩人に終わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前には、光をうしなって消え去ってしまうのだ。」(245A) これらの狂気と同なじものであり、しかもこよなきものとして神から授けられたのが恋の狂気だとされる。その証明は魂の本性を説き起すことから始められる。
 魂(プシューケー)は「自分で自分を動かすもの」(246A)である。生物は「内から自己自身の力で動くもの」であり、それ故、魂を持つものである。外からの力で動かされるものは魂を持たない無生物だ。自己自身を動かすものは動くことをやめず、他の動かされるものにとっての動の源泉=始原である。始原は生じることがなく、そのため滅びることがない。よって魂は不生不死である。
ここで魂は、人間だけのものとされているわけではない。生物全体、そして神々までもが魂を持つものとされている。それのみならず、宇宙の秩序を支配する動の源泉=始原として考えられている。そして魂は、魂なきものの全体を配慮するのである。
特に、神々と人間について言えば、神々は完全な翼を持った魂であり、人間は翼を欠いた魂なのだ。魂は翼を欠けば、下へと落ちて、肉体に住みつく。それ故肉体は、自分で動くように見える。
このような人間の魂は、「翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力」(246A)という似像=イメージで描かれる。この馭者が操る二頭の馬はそれぞれ性格が違い、「一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。」(246A) これが魂の三部分説だ。
さて、魂に翼があるのは高みの天界を経巡るためである。神々は天空を行進する。それは「あまたの祝福された光景、あまたの祝福された行路がある」「幸多き旅路」である。そして神々は饗宴におよぶと、「天球のはてを支える穹窿のきわまるところ」(247B)までのぼりつめ、天球の外側、天球の背面に立ち、「天の外の世界を観照する。」(247C) そこにあるのは「真の意味においてあるところの存在‐‐色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である。真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。」(247C) 神々の魂は、天球の運動が一回りするまで、真実在を観照し、「それによってはぐくまれ、幸福を感じる。」(247D) 真実在によって魂は《正義》そのもの、《節制》、《知識》などなどを観得する。
一方、神々以外の魂、神に倣う魂は、その馭者の頭を天外へ出して、かろうじて真実在を観得する。他の魂は、上の世界を求めはするが叶わず、「言語に絶した擾乱と抗争と辛苦の汗」に巻き込まれ、翼が折れ、疲れはてて立ち去り、「思惑(ドクサ)をもって身を養う糧とする。」(248B) その魂が、神の行進に随行して、真実在の何かを観得できている間は損なわれないが、それができないと地上に墜ちる。そして真実在をどれだけ観たかに応じた人間の種に入る。
魂は一万年経つと翼が生えてもとの場所に戻ることができる。その間、まず最初の生が終わると、魂は裁きを受ける。地下の仕置場で罰を受けるか、天上でふさわしい生を送る。それが千年。その後、次の生を選択する。この時、動物の中に入ったり、動物から人間に戻るということが起こる。そしてこれが一万年まで繰り返され、翼が生えると魂は神々の行進に預かる天上に戻ることができる。ただし、「誠心誠意、知を愛し求めた人の魂、あるいは、知を愛するこころと美しい人を恋する想いとを一つにした熱情の中に、生を送った者の魂」(249A)が、三回続けてそのような生を選ぶなら、三千年で立ち去ることができるのである。
 かくして魂は真実在をかつて見たことがあるのである。それ故、ものを知るということは、既視の真実在を想起することになる。なぜなら、知るということは、形相(エイドス)に則し、「雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くこと」によって、真にあるところのものの知に到達することであり、それは既に、天の外の世界において見られていたものなのだ。従って、知を愛し求める人は、かつて見た天外の世界を求める人であり、そのような「知を愛し求める哲人の精神のみが翼をもつ。」(249C)「しかしそのような人は、ひとの世のあくせくとしたいとなみをはなれ、その心は神の世界の事物とともにあるから、多くの人たちから狂える者よと思われて非難される。だが神から霊感を受けているという事実のほうは、多くの人々にはわからないのである。」(249C) すなわち、神から授けられた狂気はもっとも善きものなのである。「この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気にあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ」(249E)
 《正義》や《節制》などの真実在の地上における似像はぼんやりとしかとらえられないが、《美》は、視覚という一番鋭い知覚によってとらえられるので、何よりも鮮明にかがやいてとらえられる。そこで真実在を想起した者が、「美をさながらにうつした神々しいばかりの顔だちや、肉体の姿など」(251A)の「少年にそなわる美」(251C)を目にすると、おののきに貫かれ、畏怖の情が湧き、怖れ慎みながら、異常な汗と熱を帯びる。欠けていた翼が成長しようとし、「魂の全体は、熱っぽく沸き立ち、はげしく鼓動」(251A)し、むずがゆさといら立ちを感じる。
明言されているわけではないが、ソクラテス=プラトンの言う恋は少年愛が前提とされているようである。その少年愛はまず何よりも表面の美に打たれるのだ。見目麗しい少年を恋い求める衝動が、知を求める衝動によって基礎づけられ、大掛りな宇宙論(コスモロジー)に組み込まれている。生殖活動に根を持つ異性愛は当然のように視野から落とされている。だが、価値の断絶があるわけではない。それはより低く位置づけられているだけで、天外の真実在へ至る連続性が常に意識されているように見える。現代のわれわれの身辺では少年愛の価値が違っている。時代的、文化的に相対的な価値であったということだが、プラトンの論はその連続性によって、少年愛の価値の変動を吸収するようだ。
 恋する人の魂の三つの部分のうち、悪い馬は恋する人の側へ直ちに寄って愛欲の歓びを満たそうと暴れるが、良い馬は慎みのために抵抗し、馭者はこれらをコントロールしようと悪戦苦闘する。ここで激しい葛藤と苦痛が恋する状態に起こる。
このように魂は、単一で均等な構成ではなく、衝突さえ起こす「力」の集合体と捉えられている。しかもそれは多数の要素ではなくて、三つほどの部分から成るのである。性質の良い部分も悪い部分も同じ平面にあり、真実在を観照できる部分がそれらをコントロールしようとするが、そこには常に抵抗と葛藤がついて回るのだ。もっとも善きものから由来する恋の狂気においてさえも、である。
 恋する人は相手を神とみなしつつ、崇拝し、礼拝する。「そして求める相手を手に入れたときは、自分自身も神にみならうととも、愛人にも同じようにすることを説得したり、そのための訓練をほどこしたりしながら、それぞれの力でできるかぎり、その神の生き方に従いその神の姿に近づくようにと、愛人を導いて行く」(253B) 恋される人は神のように奉仕され、もともとの天性から神に憑かれた恋する者と親しくなるようにできているので、恋する者を受け入れると、この人の価値を知るようになる。恋する者に流れ込む愛の情念、美の流れは、恋する者の内であふれ、愛人の魂に帰り、恋される者を恋で満たすようになる。
このようにして「精神のよりすぐれた部分が、二人を秩序ある生き方へ、知を愛し求める生活へとみちびくことによって」(256B)、「この世において彼らが送る生は、幸福な、調和にみちたものとなる。それは彼らが、魂の中の悪徳の温床であった部分を服従せしめ、善き力が生ずる部分はこれを自由に伸ばしてやることによって、自己自身の支配者となり、端正な人間となっているからだ。」(256B) 彼らは「この世の生を終えてからは、翼を生じて軽快に」なるだろう。「これにまさる善きものは、人間的な狂気も、神のさずける狂気も、けっして人間に対して与えることはできないのだ。」(256B)
 恋の狂気が善いものであることの証明は、知を愛し求める生活を送るべしという主張に自らなっている。なぜなら知を愛し求めることが真実在にあずかるからなのだ。この知を愛し求める人は「愛知者」(哲学者)(278A)と呼ばれる。愛知者は「ディアレクティケー」を身につけなければならない。弁論術・弁論家批判の水路は、哲学すべし、哲学者たるべしという思想へつながっているのだ。
 しかし、これは直線的に論述されていない。
中核は、物語(ミュートス)、例え話だ。そこでは、真実在の似像というイデア論、魂の三部分説、始原としての魂(プシューケー)、魂の転生が語られ、それらが神話的コスモロジーの中に織り込まれている。リュシアスの論の反駁ではあるのだが、直接的に対峙させられているのではなく、エロースの神への捧げものとして置かれている。それにそもそも全てが対話に終始する。思想を論ずるにしては手が込んでいるように見えるこの体裁は何故なのか。
それは、書かれた言葉が影でしかないからだ。書かれたものは「ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉」(276A)の影なのであり、「取りあつかわれている事柄について知識をもっている人にそれを思い出させるという」(275D)こと以上のことはしないのである。書かれたものが与える知恵は、「知恵の外見であって、真実の知恵ではない。」(275A)
上手く書かれていれば、書かれた言葉が「ものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない」(275D)が、何か教えてもらうと思っても、それは「いつでもただひとつの同じ合図をするだけである。」そして、書かれた言葉はそれを理解できる人だけでなく、不適切な人のところにも届いてしまい、誤解されたり、誤用されても、それだけでは何にもできず、書いた人がどうにかしなければいけなくなる。
書かれたもののこのような限界を踏まえた上で、想起のよすがとなるような書き方は、「生命をもち、魂をもった言葉」の似像でなければならない。それが、師ソクラテスを中心人物とした対話であり、ミュートス=物語なのである。
「書かれた文字の中に何か高度の確実性と明瞭性が存すると考えて」(277D)、ものを書くようなことは恥ずべきことだ。それは影なのであり、真理の名において区別しなければならない。「正しいこと、美しいこと、善いことについて知識をもっている人」(276C)がその知識を本来の目的のために用いるときは書きとめたりしないだろう。
知識が本来の目的のために用いられるときは、「ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。」(276E)「その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけられた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新な心の中に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである。」(277A)
プラトンにおいて哲学は、ディアレクティケーの実践という行動が本態とされ、その行為は《善》という価値によって意味付けられている。そのため、哲学は最高の徳目なのであり、身体をケアするように魂を哲学によって取り扱わなければならない。そしてディアレクティケーという技術がそうであるように、正しい技術は善なる技術なのだろう。
 では、何故書くのか。「自分自身のために、また、同じ足跡を追って探究の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということなのだ。」(276D) ものを書くということは「真剣な熱意に値するもの」(277E)ではない。「そして他方、正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがある」(278A)
 そうではあるが、それにしても、「書かれた言葉の中には、その主題が何であるにせよ、かならずや多分に慰みの要素が含まれて」(277E)いる。現にこの「パイドロス」には、蝉たちの声への言及があり、それがアテナイの郊外の陽光を想像させてくれる。また、ソクラテスとパイドロスのやり取りも何やら溌剌としている気がする。川のほとり、日盛りの木陰という、時が止まったような空気の中で語られる、神々の天界での行進は至福に満ちている。垣間見られた真実在の《美》の思い出は、強いあこがれを溢れさせる。恋する人の葛藤と喜びの描写は微に入り、ユーモラスでさえある。総じて、「パイドロス」は伸びやかで、馥郁たるものを感じさせる。これが「慰み」なら、書き手は大いにその「慰み」を楽しみながら書いたことだろうと思う。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。