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監禁された女/青空(二) [小さな話]


 彼は会社を休み、夜を待った。
昼間、雨は降らなかったが、重い雲に覆われた。夜になると、その一面の雲が街の光を吸い取る暗天となった。
真夜中をまわってから家を出た。懐中電灯と包丁を茶色い紙袋に入れて抱えた。「ちょっと酒でも買って行くよう見えるだろう?」と呟いてほくそ笑んだ。包丁は西谷に使うつもりだった。もちろん西谷が倉庫にいればの話である。その時は西谷を殺し、すべてを解決するつもりでいた。そういう事なら本当は女たちに使った斧の方が心強いのだが、それはすでに多摩川に捨ててしまったのだった。
倉庫へ向かって車を走らせるうちに、雨が降りだした。雨滴が湧いたようにフロント・ガラスに現れた。本降りになる様子はなかった。
彼は倉庫にまだ距離がある所で車を路上に停めて降りた。車の側に立ってじっとしていると、エンジンが冷えていく音が聞こえた。その辺りは街灯も間遠で、家々の灯りはすでに消され、雨筋など少しも見えなくなっていた。彼は倉庫へ向かって歩き出した。
見えない小雨がまとわりつくように肌を濡らした。それとは別に彼の手のひらは汗を握っていた。
視界に入ってきた倉庫は闇に沈んで、彼には人の気配が感じられなかった。
引き戸門を開けずに乗り越える。体重がかかった時、門がゆらりと動いて彼をひやりとさせた。
敷地のここかしこで亀裂の入ったコンクリートの隙間から雑草が伸びていた。それが闇の中から彼に触ろうとしてくる。
彼が出入りしていたドアを通り過ぎ、町工場との境の塀と倉庫の間に入った。打ち捨てられた廃材を慎重に踏み分けて進むと倉庫の壁に窓がある。そこから中を覗いた。
窓ガラスに闇が塗り込められていた。
中にはどんな灯りもない。やはり西谷はここにいないのか。彼は懐中電灯のスイッチを押すと、始め窓枠にピタリとつけ、それから少しずつ窓ガラスの方へずらしていった。ガラスを厚く汚している埃が斑に浮かび上がり、中の床に楕円の光の輪が落ちる。その光の輪の中では埃の影が大きくなって、不可解な地図を描いていた。ゆっくりと光線の向きを上げた。懐中電灯の光は棚と棚の間を貫き倉庫の奥へ消えていった。
彼はドアのところへ戻り、鍵を開けた。注意して鍵を回したのに鍵のバネが轟くような音を出した。扉の向こうの気配に耳を済ませてからドアノブを回した。
倉庫の中は、立ったままでじっとしていると何も気づかないが、動くと嫌な臭いが瀰漫していることに気付かされた。埃と甘く爛れた悪臭が口の中にまで入ってくる気がした。
懐中電灯を振ると、棚の一箇所が黒いシートで覆われているのが見えた。彼が最初に殺した女を入れた場所だ。何も変わっていない。
が、その手前の床が彼の目をひいた。
靴跡がある。
彼はゆっくりそこへ近づき、足を靴跡の横に並べた。彼の足とほぼ変わらないが、靴底の模様が特徴的な波形だった。彼は自分の靴にこんな波型の靴底があったか思い出そうとした。その靴跡は一番新しく、埃が積もりだしている他の靴跡を踏みつけていた。もし彼の靴跡なら、一番最後の殺人の時に履いていた靴になるが、彼はしばらく靴を新調していない。では、彼の靴跡でなければ彼以外の誰かがこの倉庫に入ったのだ。頬が粟立ち、首筋から背中へ広がっていった。
彼は靴跡が階段へ続いているのを追った。階段の下では埃が踏み荒らされて、靴跡を識別することは難しくなっていた。
中二階で彼が動きまわった跡はすでに埃で均されようとしていた。波型の靴底がその上を歩いていた。七体の死体が押し込められた棚の列には一見変化がないように見える。悪臭の原因を確かめようとしなかったのか、確かめたのだが、その後ビニールシートを元通りにしたか。
更に彼は三階へ登った。
これまで三階は殆ど意識したことがなかった。ここも下の階と同じく空の棚が端から端まで並んでいた。一、二階とは違って天井が高い。映し出される影の姿も大きくなり、ついには不分明な形となって天井の闇へ溶けていく。この階の道路側の端にパーティションで囲われた一画があり、そこは事務室に使われていた部屋だった。パーティションの壁にはめられた窓ガラスが懐中電灯の光を反射した。
部屋のドアを開けると、闇の底で盛り上がった塊が動いた。
慌てて光をそちらに当てた。
右手奥の壁際に誰かが座っていた。
「誰だ?」
その時、彼の背後で空気が裂かれ、後頭部で白い閃光が砕けた。彼はそのまま床に開いた闇の中へ吸い込まれ、落ちていった。

 「起きた?」女の声がした。
すぐ眼の前に汚れたクリーム色の床があった。明るい。後頭部から首筋にかけて鋭い痛みがあり、口から唸り声が漏れでてしまう。
「起きたね。よかった。痛い?」
また女の声がした。声のする方を見るために体を起こそうとして、彼は後ろ手に拘束されていることに気がついた。細く硬いもので固定されている。手首に食い込む感触からしておそらく結束バンドのようなものだろう。なんとか首だけを持ち上げると、とたんに後頭部の痛みがひどくなった。唸る彼を見て女が言った。
「じっとしてた方がいいよ。血がたくさん出てたから。でも、もう止まってるみたいね。」
彼は女の姿を探した。壁際に敷かれたマットレスの上に女は座っていた。
ボサボサと赤茶けた髪の中に白い顔が埋まっているのだけが見える。女は横座りになって両手をつき、彼の方を覗き込んでいた。
「どう、気分は?喉、乾いてない?」
彼は頷いた。
「じゃ、水を持ってくる。」女が視界から消えた。
すぐに戻ってきた女の手に小皿があった。「どうやって飲もうか。」と女が言う。
女の手を借りて体を起こし、どうにか座ると、女が小皿を口に持ってきてくれた。女が彼の口元に注ぐ視線を感じながら、彼は皿の水を啜った。水はぬるく、喉に微妙な粘つきを残した。何か水道の水には思えなかった。
彼は何が起こったのかを理解しようとした。
事務所の部屋に入った時に何者かに後ろから殴られて気を失ったのだろう。そのままそこで縛られて転がされていたのだ。床に彼のものと思われる血が落ちていた。この部屋に入った時に見た人影は彼の眼の前にいる女なのだろう。女はマットレスに座ってしげしげと彼を見ている。
そのマットレスの側にバケツが置いてあった。部屋にはそれ以外何もない。倉庫内の棚はそのままなのに、この部屋の机や椅子は処分されたらしい。
部屋が明るいのは壁に窓が並んでいるからだった。今の彼の位置からは電線と遠くのマンション、少しばかりの屋根の稜線、灰色の空が見えていた。雨が降っている。
その窓の列と反対側の、パーティションの壁にも窓が開いていた。しかし、手前に並んだ棚が見えるだけで、倉庫の奥の方は闇に沈んだままだった。
「分かった?あんた、あいつに殴られて気を失ったの。」女が話しかけてきた。
「あいつ?」
「知らないの?ここに入ってきたから、あいつのこと知っているのかと思ってたけど。」
「あいつって?」
「西谷よ。ひどい奴よ。人間じゃないよ、あいつは。」やはり西谷はここにいたのだ。そして彼を不意打ちした。破局がどこまで進んでいるのかと考えると視界が揺れた。また一方では、西谷に出しぬかれたことに対する怒りもあった。常に西谷に先回りされているという感じがしていた。自分で状況の進展を変えることができない無力感が彼を怒らせ、恐れさせた。上から土がどんどん彼の喉に押し込められる。入りきらない土塊が唇からこぼれて顎を転がり落ちる。その幻に彼は拳を握りしめ、爪を掌に食い込ませた。そのため彼の手首を締め付けているバンドがより厳しく肉を痛めつけた。怒りも拘束されてしまった。鼻から深く息を吐くと、「とうとう裁きが姿を現したのだ、とうとう裁きが姿を現したのだ」という独語が頭の中を満たして、他の感情を追い出してしまった。そのまま彼の体を固くさせていた力が萎えていった。
しかし、西谷はどうやって彼の仕業を知ったのだろう?そもそもこの倉庫に隠されている八つの死体の犯人が彼だと知っているのだろうか。彼は眼の前にいる女から探りだそうとした。
「君、名前は?」彼の質問に女の顔が明るくなった。
「わたし?わたしはね、尾島沙絵。」
「ここで何をしてる?」
「西谷にここに連れ込まれて、監禁されている。」
「監禁?」
「そう。逃げ出そうとすると、酷い目に合わせられる。ほら。」尾島と名乗った女は髪をかき上げて耳を見せた。左の耳朶がない。盛り上がった肉の間に耳の穴が開いていた。「耳を切り取ったのよ。それから、足の指も。見て。」尾島が足を差し出した。片方の足の小指と薬指のあるところにぷくりとした肉の突起があるだけになっていた。「きつかったのよぉ。今度ふざけた真似をしたら歯を抜くって。」尾島は顔をしかめてみせた。
「何がなんだかさっぱり分からない。詳しく説明してくれないかな。西谷というやつは何者なんだい?ここで何をしている?」
「あんた、名前は?」
「平沢和伸。」
「なんでここに来たの。」
「この倉庫を所有している会社の社員だ。倉庫で何か物音がするって連絡があって、調べに来た。」
「へ?夜中に?」
「夜中に音がするという連絡だったんだよ。」尾島は彼の言葉を吟味しているようだった。殴られて後ろ手に縛られているということはどういうことか想像してくれ、と彼は胸のうちで叫んだ。
「ふん。いいわ。話してあげる。その前に、あんたこっちに座って壁に寄りかかったら。そのほうが楽だよ。」尾島の勧めに従い、彼はマットの上に移動して背中を壁にもたれかけた。体を動かすと後頭部に痛みが走る。後ろ手の腕が壁に圧迫されて痺れそうだったが、支えもなしにただ胡座をかいているよりは楽だった。体の向きが変わったので、今まで背中になっていた部屋の部分が見渡せた。トイレと給湯室らしいドアがあった。
「あいつは西谷準というの。普通の会社に勤めているそうだけど、とんでもない悪魔よ。人間じゃない。西谷と最初に会ったのは池袋駅の地下だった。あたしね、ホームレスだったの。もう住むところがなくなって駅の地下に寝泊まりしてた。最低よ。でも最悪じゃない。今より良かったもの。ふふふ。
それで、地下街の柱に寄りかかってうとうとしてたら、西谷が目の前にしゃがんで優しい声で話しかけてきたの。若い女のホームレスはね、結構そうやって話しかけられたりする。他のおっちゃん、ホームレスのおっちゃんたちも気を使ってくれたりするしね。下心見え見えのやつもいるけど、西谷には感じられなかった。ほんとうに親切そうに見えた。今から思うと、私のホームレス歴が浅かったからあいつの本心が見抜けなかったのかも知れない。その日はお腹も空いていたし。要領悪くて食べ物を探せなくて。おっちゃんたちに分けてもらうのも嫌だった。ホームレスって結構縄張りとかあんのよ。難しいのよ。そこへ西谷が現れて『どうしたの?』とか言った。その時は本当に優しい声だったの。胸があっという間に一杯になるくらい。」
聞き手に飢えていたようで、尾島の話は勢いがついてきていた。彼はそのまま続けさせた。
「西谷について行ったら、マクドナルドのハンバーガーを食べさせてくれた。店の中へは入れなかったよ。西谷が買ってきてくれたのを外で、ベンチに腰掛けて食べたの。そうして西谷が自分の家へ来ないかって言うから、車に乗って行ったわ。怖くはなかった。もういいや、みたいな、ね。あたしのことを色々質問してきた。どうしてホームレスになったのか、とか。親のこととかも。
西谷の家というのはマンションだった。そこへ行ったら、お風呂を使わせてくれた。半年ぶりくらいに正式なお風呂に入った。正式っておかしいわね。ホームレスの間はね、公園の水道とか使うの。それが湯船にお湯を張った普通のお風呂に入ったわけ。あれは気持ちよかったな。
それから西谷の家で暮らすことになった。奥さんみたいに働いたんだよ。ご飯をつくったり、洗濯したりして。良かったよ、最初の頃は。上手く行ってたんだ。西谷も優しかったしね。働き口が見つかるまでいていいんだよ、なんて言ってくれた。この人どんだけ良い人かと思った。幸運が巡ってきたかも、とか思ったりもした。」
「それはいつ頃の話なんだ?」
「え?う~ん、と。三年ぐらい前かなぁ。」
「それで?その続きは?」
「そう。そのうち西谷の態度が変わり始めたの。変わったっていうかさ、それまでが嘘だったのよね。それまで仮面をかぶってたの。冷たくなって、よそよそしくなって。ちょっとしたことで怒鳴るようになった。料理がまずいとか。貧乏臭い顔をするな、とか。酷いでしょ?目障りだとかも言われた。びっくりしたよ。良い人だと思ってたから、わたしが本当に悪いんだと思って落ち込んだもの。ホームレスやってたような女だからなぁ、って。
それである日、決心してこう西谷に言ったの。お世話になりました、もう出ていきます。
そう言ったら、殴られたよ。すごく殴られたし、蹴られた。顔から体から、あちこち殴られて、お腹も蹴られた。次の日まで寝こむほどやられた。
黙って出ていけばよかったのよ。後悔しても遅いけど。なんで『出ていきます』なんて喋っちゃたんだろうね。やっぱりわたしが馬鹿だったんだ。」
尾島沙絵は悪夢の日々が甦るのか、眉根をしかめた。その時彼は、彼女の目が表情豊かな光に満ち、そこへ長い睫毛が影を落として繊細な葉陰のように見えることに気がついた。
西谷は彼女に「お前が俺のところから出ていくのは許さない。」と言った。「拾ってやった恩を返せ。」と何度も繰り返し、連日彼女を殴った。「勝手に出て行ったら、もっと酷い目にあわせる。」と暴力で脅した。彼女を恐怖で縛り付けた。彼女は「出て行かないから、殴るのはやめて。」と言う他に逃げ道がないように追い込まれた。すると西谷は少しの間優しくなり、彼女は一息ついて、またはじめの頃の生活に戻れるのではないかと淡い希望を抱いたりした。
昼間、西谷は会社へ行って不在になる。彼女は西谷に隠れて、駅と反対方向にあるコンビニでバイトを始めていた。バイト代を貯めて、西谷から逃げた時の足しにするつもりでいた。が、その日はいつか来る日で、明日や来週などの切迫した日付を持つとは思えなかった。拘束されていたわけではないのに西谷の呪縛が彼女を閉じ込めていたのである。
その頃から西谷が帰ってこないことがあるようになった。帰らないと連絡があるわけでなく、彼女は西谷の不在に安堵してはいたが、いつ玄関が開けられるのだろうかと気を置いたまま夜を過ごした。
そしてある日、西谷は女を連れて帰ってきた。
当たり前のように女を従えた西谷は、沙絵を一瞥しただけで、女については何も言わなかった。
女と沙絵は西谷が風呂に入った隙に自己紹介し合った。女は「千田奈津子」という名前で、西谷と同じ会社に勤めているといった。沙絵に対して構えることなく「よろしくね。」と言って笑った。友達になることを当たり前としているようなその笑顔に沙絵は驚かされた。奈津子は真面目そうで柔らかな顔つきをしていて、およそ西谷とは不釣り合いに見えた。奈津子がどうして西谷についてきたのか、沙絵には不思議だった。
翌日から三人の生活が始まった。
西谷と奈津子は前後して会社へ出勤した。残された沙絵は家事を慌ただしく済ませるとコンビニのバイトへ出かける。夕方戻ってくると三人分の晩御飯を作って待った。やがてまた前後して奈津子と西谷が帰ってきた。奈津子を連れてきて以来西谷は口を開くことが少なくなった。が、女性二人の挙動は常に目で追いかけていて、切り刻むような視線で喉元を鷲掴みにするのだった。気がつくと西谷の偽物めいた瞳が二人を刺し貫いていた。その黒目は意図や感情を表さず、底無しの欲望が地下の生物となって巨大な口を開いているように見えた。それが二人の急所をピンで止めて身動きできなくさせ、沈黙を強いた。
奈津子は一度、服を取りに家へ帰らせて欲しいと西谷に頼んだことがあった。西谷は「戻って来なかったらどうなるか、分かってるな。」とボソリと言い捨てた。奈津子の眉間に影が落ちるのを沙絵は見た。それでも奈津子は部屋を出、じきに大きなバッグを抱えて帰ってきて、中から出した服を沙絵に渡し、「もしよければ。」と言った。沙絵が服をほとんど持っていないのを知って、自分の服を分けてくれたのだ。奈津子は沙絵より背が高かったので、くれた服は丁度いいというわけにはいかなかったが、沙絵は喜んで着た。年が近い同性という存在が沙絵には珍しかった。西谷の視線が及ばないときは、沙絵は奈津子にあれやこれやと質問し、その言葉に耳を傾けた。料理を教わり、家事を習った。次第に沙絵と奈津子の距離は縮まっていき、沙絵は何よりも奈津子の傍らにいることを好み、奈津子も沙絵が懐くのを喜んだ。互いに世話をし、相手に気を配るのが沙絵には新鮮で、楽しくもあった。しかし我知らず奈津子と顔を見合わせて笑みを交わしている時、西谷が彼女たちが仲良くするさまを値踏みするように睨めつけていることに気付かされ、肺の中の空気が凍りつくほどゾッとさせられることがあった。その時、沙絵たちの接近を西谷が見逃しているのではなく、むしろ待っていたことに沙絵たちは気づくはずもなかった。「今なら分かるけど、」と沙絵は言った。「あいつは私達が仲良くなるのを待っていたのね。それがあいつの企みだった。私と奈津子さんが親しくなってから、酷いことをするつもりだったのよ。信じられないような事。」
西谷は沙絵にも奈津子にもセックスを強要することはなかった。沙絵は西谷と寝たことは一度もないといった。
奈津子が西谷とどういう関係にあったのか、はっきりと奈津子から聞いたことはなかったが、西谷と奈津子が一緒に寝るところを沙絵は見ていない。
「あいつは人間じゃないから、人間の女には興味がないんだ、と思った。普通の人が興味を持ったりすることには関心がない。でも何に関心を持っているのかは分からないの。会社から帰ってくると、御飯食べて、風呂に入って、あとは少し携帯を弄って、それから寝るのよ。テレビも見ない、ゲームもしなかった。本はよく読んでいたけどね。本は買わないで、図書館から盗んでくるらしい。そして読んだら捨てるんだって。それを言った時だけは、薄笑いするの。楽しいんだろうけど、裂けて引き攣ったみたいな笑い方。本の中身はわかんないよ。あたし、本を読まないもの。そうだ。あいつが興味を持っていることがある。それは人を苦しめること、痛めつけること。人の悲鳴が奴の好物なのよ。」
やがて西谷はその嗜好を満たすため、紗絵たちに毒牙を剥いた。
夏の盛りのある日、頭痛がするような暑さの中を沙絵がマンションに帰ると、西谷がいた。「しまった」と臍を噛みながら沙絵は西谷の様子を伺った。西谷は半笑いを浮かべていた。目を薄くして「どこへ行ってた?」と訊いた。
「コンビニ。」
「コンビニ?コンビニで何を?」
「暑かったからアイスでも食べようと思って。」
「買ってきたのか?おや、手には何も持ってないようだけど。」
沙絵は首を振った。
「コンビニでアイスを、ねえ。どこからその金が出てくるのかな。どこから。俺の財布か?ちがうな。お前が隠れてコソコソ稼いだ金からだろう?なあ?」
「何の話?」
「何の話、とは何の話だ?あ?お前が勝手にコンビニでバイトしていることを知らないとでも思ってるのか?俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ。」
西谷は沙絵の腕をつかんで捻り上げた。ビシリと音が出そうな激痛に沙絵は声が出てしまうのを抑えられなかった。
「お前、どうせ逃げ出そうと思ってたんだろう。金を貯めて逃げ出そうとしてたんだろう?そんな勝手なことをしたらどうなるか思い知らせてやろう、な。」西谷はそう言うと沙絵を後ろ手に縛った。「奈津子が帰ってくるまで待て。」
「コンビニで働いて何が悪いのよ。私はあんたにお世話になった分を返そうと思ったんだ。」沙絵は必死に訴えて西谷の気を変えようとした。しかし読み取れるような表情は一欠片も浮かべず、西谷は白っぽい顔にニヤニヤ笑いを貼り付けたままでいた。
奈津子は帰ってきて沙絵の様子を見ると一歩、後退った。
「そこへ座れよ、奈津子。」奈津子の顔がみるみるうちに青ざめ、西谷に操られたように座り込んだ。
「この女はな、奈津子。逃げ出そうと企んでたんだ。お前も知ってたんだろう?」奈津子は西谷と沙絵の顔を見比べてから首を振って否定した。
「いや、知ってたはずだ。知ってたんだろう?お前ら仲良かったじゃないか。そういう話をしないはずはない。お前も知ってたに違いないんだ。いいか、俺を馬鹿にするんじゃないぞ。俺は本気だ。いつもだ。俺を馬鹿にしたらこうしてやる。」
西谷は立ち上がると、沙絵の髪の毛を鷲掴みにした。引っ張り上げるようにして沙絵の頭を固定し、右の拳で顔を続けざまに三回殴った。ゴツゴツゴツと鈍い音がした。それから足で沙絵の腹をけった。爪先を腹に刺すような蹴り方だった。沙絵の口から唸り声が漏れた。体が自然と折曲がって、顔が床についてしまった。
歯噛みしながら「寝るな」と言うと、西谷は髪の毛を掴んで沙絵の体を起こした。
顔を殴り、腹を蹴る。これを執拗に繰り返した。
視界がぼやけて、奈津子がどんな顔をしているのか、沙絵にはわからなかった。腹の痛みに息がつまり、体中が痙攣した。体の中のどこかから奇妙な音がしていた。それは金属を削る音に似ている気がした。しかしそれは、沙絵の口から出ている悲鳴だった。「やめて、許して」と自分では言っているつもりでも、声帯を吐き出すような音しか出せなかった。
「おい、奈津子。見ろ。見ろ。」西谷が殴るのを止めた。沙絵は崩れ折れた。「手が痛い。手を痛めたらこっちが損だな。」西谷が一度遠ざかって、足音が戻ってくると奈津子の近くで止まった。
「こいつで殴ろう。奈津子、俺はこいつを殴るのをやめられない。それだけ怒ってるんだ。それでもこの鉄アレイで殴ったら沙絵は死んでしまうよな。奈津子、目の前で紗絵が殴り殺されるのを見たいか?見たいか?」
「だめ。お願い。やめてください。」奈津子の小さな、震える声が聞こえた。
「なんだ?なんだ?聞こえないぞ。奈津子、沙絵が殴り殺されてもいいのか?沙絵を殴り殺したら、俺は刑務所行きだ、なあ?それでもいいのか?そうだろう。そんなことになったら困るよなあ。それでも、俺は収まりがつかないんだ。どうしたらいい?ん?そうだ、奈津子。お前が俺の代わりに紗絵に教えてやってくれ。どれだけ俺が怒っているか。それと二度とこんなことをしないように。奈津子が紗絵に教えてやってくれ。」
「はい。…そうしたら、沙絵さんに酷いことをしないんですね?」
「しない、しない。しないよお、奈津子。でも、俺の気持ちもわかってくれよぉ。俺は怒ってるんだ。だから、それ相応の罰を与えてやってくれないか?な、奈津子?」
「わかりました。」
「よし。待ってろ。」
西谷の足音がキッチンの方へ遠ざかった。
沙絵の体の中では心臓の代わりに痛みが脈動していた。その一拍一拍で体全体がバラバラになっては、か細い腱でなんとか結び合わさるのだった。
西谷は奈津子に沙絵の足指を一本、包丁で切り落とすように命じた。沙絵は引き起こされ、西谷の寝室へ連れていかれた。グラグラ揺れる体をベッドの隅に縛り付けられて、悲鳴が漏れないようにタオルをくわえさせられた。新聞紙を厚く敷き、その上にバスタオルを畳んで置き、そこへ足先を出させられた。
奈津子は包丁を握らされ、沙絵の小指に刃をあてたが、結局、包丁が左右に揺れるほど震えだして西谷の命令を実行することは出来なかった。奈津子のその様子を西谷は目を輝かせて眺め、喜んだ。それから奈津子の手に自分の手を添えて、沙絵の足の小指を一気に切り落としてしまった。
痛みが沙絵を灼いた。奈津子のキーっと言う悲鳴を聞きながら、痛みから逃れようとして沙絵の体はひとりでに跳ね上がった。その後、沙絵は気を失った。
気がついたのは次の日の朝だった。布団に普段通りに寝かされていた。爪先に熱い痛みがあって、目と目の間で爪先が息づいているようだった。見ると爪先は丁寧に包帯を巻かれていた。
「それからは地獄。西谷は奈津子さんも殴った。わたしのことも。思い出すと体が震えてくる。毎日少しずつ、少しずつ、奈津子さんと私は潰された。理由なんか何もない。脅かされて傷めつけられて、無茶苦茶なことをされたよ。彼奴は人間じゃないんだって。もう許してくれというと、その代わりに奈津子さんを痛めつけろと命令したし、奈津子さんも同じだった。できるわけ無いけど、もう苦しくて苦しくて、奈津子さんに酷いことをしたわ。命令に従って奈津子さんを傷つけると、その後は本当に辛かった。奈津子さんも同じだと言ってた。二人で涙を流して、頭がぼんやりしてきたりした。」沙絵は深いため息をついて口をつぐんだ。
「どうして逃げなかった?」
沙絵は彼の顔を一度見てから首を振った。
「分からない。奈津子さんもわたしも、どうやったって逃げられないと思っていた。変よね。それに西谷がわたし達を痛めつけない日には、そのことでありがたいとか思いそうになったりしたの。西谷の機嫌がよかったり、あたし達に興味がない日は嬉しくなったりして。完璧に滅茶苦茶。あたしは片足に枷をつけさせられてた。その枷は長い鎖でベッドの足に結いつけられているの。トイレとかキッチンとかへ行くだけは動けるんだけど、外へは出られない。その枷は鍵がかけられてた。奈津子さんも帰ってくると同じような枷をつけられていた。奴隷みたいにね。
それでも、逃げようとしたこともあったの。わたしの足の指がまた切り落とされた後、わたしの方から奈津子さんに逃げ出す話をした。このままじゃ殺されると思ったから。一度思いつくと、結構簡単そうに見えた。彼奴は寝る時わりと無防備だった。あたし達の足枷の鍵も、キーホルダーにぶら下げてて、寝る時は財布と一緒に机の引き出しの中に入れてた。それで彼奴が寝入った後ならチャンスがあると思った。奈津子さんにそう言うと、真剣に聞いてくれて、あたし達、手を取り合って泣いたのよ。『がんばろうね』とか言ったりしてさ。
でも、それは彼奴の罠だった。信じられる?」
罠、しかも裏切りが仕組まれた罠だった。奈津子が沙絵の計画を西谷に漏らしていたのだ。沙絵が足枷の鍵を机の引き出しから取り出した瞬間に西谷が目を覚まし、沙絵を殴りつけて組み敷いた。薄暗がりの中で、バネでも仕掛けられたかのように跳ね起きた西谷の眼から青白い光が迸ったと沙絵には見えた。恐らく西谷は新たに沙絵の体を傷つける口実を求めて奈津子を脅し、沙絵の計画について口を割らせたのだろう。この時沙絵は結局、耳を切り落とされてしまった。
沙絵を裏切ってしまった奈津子はおかしな振る舞いを見せるようになった。会社を休み、一日中泣いた。沙絵に話しかけることもせず、座り込んで背中を丸めたまま何をするわけでもなくだらだらと涙だけを流した。身だしなみに対してごく自然に気を使う様は沙絵を感心させ、真似させたものだったのに、それが一向に気を使わなくなり、崩れた感じになってきた。眼から光が失せた。視線が固まり、表情が少しも変化しなくなった。西谷に殴られても、魂の宿らない人形のようにされるがままになって、悲鳴のひとつも、唸り声すら漏らさないのだった。
沙絵は奈津子の事を心配した。はじめの頃奈津子に世話を焼いてもらってようにして沙絵が奈津子に気を使った。沙絵の働きかけに対して奈津子は無反応だった。それでも、沙絵の手が奈津子の頬に触れてさめざめと涙を流しだしたことがあり、そのことで沙絵は、奈津子の胸の奥深くに彼女の心が退いて、扉を閉じてしまっていることを理解した。
ある日西谷は奈津子の枷を解き、身の回りの品をバッグに詰めて奈津子に持たせ、部屋から連れ出した。それ以来奈津子は帰って来なかった。どこへ行ったのか沙絵には分からなかった。あたりまえのように西谷は奈津子の行方について語らない。奈津子は沙絵の生活から消え去った。
「それからひと月くらい経ったかしら。ここに連れてこられたのよ。」
彼は体を動かした。肩が痺れだしていた。
「西谷は何も言わなかったのかな?ここに行くことについて。」
「いきなり連れてこられたわよ。でもここのことについては喋ってた。興奮してさ。面白いものを見つけたと言ってた。『ひでえぞ。ひでえことした奴がいんだ。そいつの隠れ家を見つけたが、もう俺のものだ。』とか。」
「『ひでえことした奴』というのは?誰のこと?」彼は唾を呑み込んだ。
「さあ。誰だとかは言ってなかった。何人も人を殺して死体を隠してる。それだけ。世の中、気違いだらけよね。最初にここに入った時はさぁ、変な臭いがして、おまけに恐いし。犯人が戻ってきたらわたしも殺されると思って。だからあんたが入ってきた時はもう息が止まりそうだった。」
「それで、君はここにずっといるのか?」
「そうよ。西谷は夜にちょっと寄って食べ物と飲み物を置いていくだけ。昼も夜もわたし一人。」
「昨日の夜、西谷が僕を殴った時は、食べ物を置きに来てたわけか?」
「いいえ。昨日は特別だったわね。夕方一度来て、それからもう一度来たから。そう言えば、あんたが来るのを知ってたみたいね。何故?」
「西谷のことは何も知らないんだ。どうやって西谷が僕のことを知ったのかも分からない。…西谷が来るのは、いつも何時頃?」
「何時かな。時計ないからね。だいたい日が暮れてから。最近は黙って食べ物を置いていなくなるの。以前は、逃げ出そうとしたら殺すとか、もっと酷い目にあわせるとか脅かしていったけど、最近は何も言わない。何を考えているのか、もう分からないわね。」
「西谷は昨日、何か言ってた?僕のこととか。どうするつもりか言ってなかった?」
沙絵は首を振った。
「あんたを縛り上げたら出て行った。」
その沙絵の言葉に反射的に頷いてから、彼は一旦頭の中を整理しようと思った。
西谷は倉庫の棚に押し込まれているのが死体である事を知っている。誰かが人を殺して隠していることも知っているようだ。どうやってそれを知ったかは分からない。では、殺人者が誰かを知っているだろうか。昨日の夜、彼を襲ったことを考えると西谷は彼が犯人であることを知っているように思えた。彼が来ることを察知していたからこそ彼の背後を襲い、虚をつくことができたのだ、と思った。しかし、と彼は縋るように思い直した。彼が犯人だと西谷が気づいた徴はなにもない。沙絵によれば西谷はそれらしいことを何一つ言ってないのだ。そこまで考え至って彼はある事に気づいた。それで愕然とし、その事を沙絵に確かめた。
「昨日は真っ暗だったよね?」
「そう。ここには電気も来てないからね。」
「西谷は懐中電灯か何かを持ってきていたの?」
「そうよ。何故?」
「僕の顔を見ていた?」
「ええ、懐中電灯で照らしてたわ。それからその懐中電灯を私に持たせてあんたの手を縛ったのよ。」
つまり西谷は彼が誰であるかを知ったということだ。仕事上の直接的な関係はないとはいえ、会社では何度も顔をあわせている彼を西谷が分からない訳はない。彼がなぜここにいるかという疑問から、倉庫の中にある死体と彼を結びつける説明を思いつくことは造作もないことだろう。
彼は焦った。
恐らく西谷は佐山殺害の件で隠れている。昨日はここに来たが、また現れるかどうかは定かではない。沙絵を打ち捨てて姿をくらますことも考えられる。その先はどうなるだろう。行方知れずになったままだろうか。兇悪な目的で彼のもとに現れないと断言できるだろうか。何も判然としない以上、西谷が彼にとって目に見えない脅威となるのは間違いない。それに逃亡の果てに捕まることも充分ありうる。そうなれば彼の犯罪も白日のもとに引き摺り出されるだろう。やはり西谷に顔を見られたことは致命的であった。
事が動く前に手立てを講じなければならない。
彼の所業を知っているものは、その存在を消さねばならないのだ。知られることがなければ破局は免れ得る。そうやって彼の地平線を遠くから圧している雲影を吹き払うことができる。
西谷を何とかして殺さなければならない。沙絵も、と彼は思った。

雨は小止みなく降っていた。たっぷりと膨れた雨雲が空を覆って動かない。すでに昼近いようだったが、雨のせいで気温はさほど上がっていなかった。
掌を閉じたり開いたりして痺れをとろうとしながら、彼はこれからのことに考えを集中しようとしていた。日中に西谷が現れる確率は低そうだった。とりあえず日が暮れるまでに手の拘束を解く。それからここを出て一旦家に帰る。刃物か何かを手にれるのと、西谷とどこでどのように対決するか、考える必要がある。
彼は沙絵に訊いた。
「僕の手のバンドを切りたいんだが、なにか使えそうなものはないかな。僕が持ってきた包丁はどうしたんだろう?」
「あんた、包丁なんか持ってきてたの?何するつもりだったの?本当に会社の社員なの?怪しいわぁ。包丁は見てない。西谷が持っていったと思うよ。それを切るものねぇ…。ここは何もないのよ。」
「ガラスを割って、その破片で切れないだろうか。」
「そうね。そうするしかないと思うけど。ここのガラスを割るか、下のどこかのガラスを割るか。なにか使えるものがあるかも知れないから調べついでに下の階へ行ってみる?手伝ってもいいよ。」
「そう。じゃそうしよう。」
「うん。その前にさ、あんたお腹空かない?パンがあるから、食べようよ。」
沙絵は立ち上がって給湯室らしいドアの方へ行き、パンと水を入れたコップを持って帰ってきた。
「あら、その手じゃ食べられないか。じゃ、食べさせてあげるわ。」
「その水は?」
「西谷がペットボトルの水を置いていくの。だから大丈夫。ここは水も出ないからね。どうしたの?」
「手が痺れるんだ。この格好だと血がうまく流れない。」
「さすってあげようか。」すでに膝立ちになった沙絵の言葉に彼は驚いていた。
「ああ、ありがとう。」
沙絵は彼の背中に廻り、両肩から二の腕をさすり出した。はじめは沙絵の手が触れただけで腕全体が細かい針で一斉につつかれているようだったが、段々とむず痒い感じへ変わっていった。沙絵は黙って手を動かしていた。彼は二の腕の袖越しに、沙絵の掌が少し熱を持ってきたのを感じた。
「もう大丈夫みたいだ。ありがとう。すまない。」
「楽になった?じゃ、パン食べよう。」
沙絵は持ってきた調理パンを分けて彼の口へ入れてくれた。
「あんたさぁ、わたしの弟に似ている。」
「弟?」
「わたし、弟と二人姉弟なんだ。もうずいぶん長いこと会ってないわ。」
「君の弟なら僕よりずっと若いだろう。」
「そうね、私より四つ下だから二十二よ。でも、あんたは弟と雰囲気が似ている。弟ももう少し年取ったらあんたみたいになるんじゃないかなあ。」
「どこにいるの、弟さん。」
「どこにいるかしらね。舟に住んでた頃が懐かしいわ」
舟といった後沙絵の言葉が途切れた。耳を澄ませても雨の音すら聞こえなかった。
「君はどうしてホームレスになった?」
「え〜、わたし?それはねぇ、いろいろあったのよ。いろいろ、いろいろ。」
「さっき、舟に住んでた言ったろう?」
「そう。私達の家族は舟に住んでたの。父と母と私と弟と犬のホシ。ホシはね、全身真っ黒で、左の耳の先っぽだけがぽっつり白かった。それが星みたいなので、ホシという名前。外国の犬の雑種よ。柴犬より少し大きいくらいかしら。きりりとした男前だねえって母がよく言ってた。」
「犬も舟で暮らしてたのか?散歩とかどうするの?」
「陸に上がって連れて行くのよ。なんで?ああ、あんたはわたし達が海で暮らしてたと思ったのね。海にも出たけど、うちの舟は川岸につけてあったの。だから陸に上がってホシを散歩に連れていけるの。散歩は弟の日課だった。それでね、舟で暮らしていると陸の人から何かにつけて差別されるのよね。特に子供は陸の子供からいじめられたりする。私もいじめられたし、弟もいじめられた。弟がホシを連れて散歩していたら、陸の子供の目に止まって囲まれたの。弟は『これはやられるな』と思ったそうよ。またいじめられるんだ、ってね。弟は私と違って大人しくて優しいから、いじめられても我慢する。その時も観念してじっとしていた。弟を囲んだ子供の中から一人が弟に近寄って、ホシを指さしながら『この犬を殺せ』と命令したの。その時弟はびっくりしたと言ってたわ。自分がいじめられるならまだ我慢ができるけど、可愛がっている犬を、しかも殺せだなんて。弟は迷わず嫌だと言った。そしたら誰かが石を投げて、それがホシに当たった。でも、ホシは鳴かなかったそうよ。そのかわり弟の目を見上げたんですって。見上げて、それから囲んでいる子供たちを見据えてじっとしていたんですって。弟はその時のことを思い出してこう言うの。その時ホシを理解したと思った。そう思ったらひとりでに体が動いて、弟はホシに覆い被さったの。ホシを包んでホシの盾になろうとした。陸の子供らの方はね、容赦ないから、弟とホシに向かって石を投げつけたり、蹴ったり、殴ったりした。舟に帰ってきた時、弟は傷だらけだったわ。服を脱がせたら背中なんか痣だらけ。ホシも脚に怪我していた。でも、弟もホシも平和な顔をしていた。」
彼は話しだすと止まらない沙絵を面白がっていた。沙絵が話している間、明るく息づく彼女の視線から彼の中に流れ込んでくるものがあるような気がした。彼は沙絵をもっと笑わせてみたくなっていた。
沙絵は彼と倉庫の死体を結びつけて考えてはいない。西谷を始末した後に沙絵の口も封じる必要があるだろうか。その答えは西谷のことを決着させた後でも充分間に合うだろう。その時になったら決断できるだろう、と彼は思った。
「君の家族の住んでいたのは、瀬戸内海とかあっちのほうかい?」
「違う。伊豆よ。」
「伊豆?」沙絵の言葉は俄には信じがたかった。「伊豆の川に舟を浮かべて暮らしていた?」
「そうよ。生まれた時は別の場所だったって聞いたわ。あたしが覚えているのはものすごく青い海。ずっと深くまで透明で泳いでいる魚が手で掴めそうなの。誰もいない白い砂浜に光が降り注いで眩しかった。小さな波が次から次に舟縁で砕けて、笑い続けてるように見えた。それが一番古い記憶。伊豆に来たのは小学校に上がる前。だから、父と母は何回か引っ越してる。」
「お父さんはなんの仕事をしていたの?」
「知らない。会社勤めじゃなさそうだったけど。背広を着てるところなんか見たことないもの。子供に仕事の話はしなかった。金持ちではなかったわね。あたしも弟も父の仕事が何なのか尋ねたことはない。子供に話せるほどの仕事じゃなかったんでしょうし、わたしも知りたいと思わなかった。」
彼は沙絵の顔を見つめた。何かを隠しているのではないかと思った。あるいは、話のほとんどが嘘か。
「舟で仕事をしていたわけではないのか?」
「舟からどこかへ出かけて仕事をするの。そして夜に帰ってくる。」
「お母さんは舟にずっといる?」
「今?」
「いや。お父さんが仕事に出かけている間。」
「母もどこかへ出かけて仕事をしてた。パートで働いてたのよ。あたし達が学校から戻ってきて舟で待っていると母が帰ってくるの。それから父が帰ってきて、晩ご飯。」
「伊豆には何歳までいた?」
「高一まで。伊豆にいた時が一番長かったわね。高校一年生の夏休みが終わる時、台風で父が死んだの。猛烈な風が吹いて、その中で舟を守ろうとしてたら河に落ちて流されてしまった。ああいう時の水は本当に恐ろしい。土が流れているように茶色で、手がつけられない程膨れ上がってる。ずっと水の上で暮らしてきた父なのに、簡単に流されてしまったのよ。遺体は信じられないくらい離れたところに沈んでた。優しい父だった。あたしのことを一番理解してくれていた。宇宙のことに詳しくて、あたしが質問するとなんでも教えてくれた。それで父が亡くなって、母は舟を捨てたの。東京に住んでる母の兄の家を頼って行った。あたしと弟を連れて。
叔父さんはとてもいい人だった。結婚してなくて、身の回りの世話をしてくれる人が必要だったみたいで、母が来たのを喜んでたわ。わたし達のこともかわいがってくれた。賑やかになったって言ってね。信じられる?いい人ばかりでしょう。でもいい人はすぐいなくなるのね。父と同じ。叔父さんはわたし達と暮らすようになってから二年ほどして死んだ。勤め先で倒れてそのまま。心筋梗塞だって。まだ五十前で、そんなに年でもなかったのに。会社の仕事が不規則でそれが祟ったらしい。
叔父さんの遺体を前にして母が言った。いつも揺れてた舟を降りたのに、途端に頼りない生活になったねぇ、って。
そう言ってた母も死んだの。叔父さんが亡くなってから半年も経ってなかった。
風呂場で足を滑らせて頭を打って、その打ちどころが悪くて死んだ。まったくなんて死に方かしらね。冗談みたいな話よ。他人に話すときに一瞬ためらう。だって想像してみて。ほら、やっぱり冗談みたいな話でしょう?ねぇ。冗談ごとじゃなかったけれどね。
風呂場で倒れたときはすごい音がしたのよ。私はもう布団に入ってたんだけど、飛び起きて風呂場に行ったもの。弟はあたしが呼ぶまで起きなかった。母は裸で、仰向けになってバンザイするみたいな格好で倒れてた。呼んでも揺すっても起きないから、バスタオルを掛けてあげてから弟を起こし、二人で布団まで運んだ。弟が手を滑らせ、母の頭を床に落とした。母の髪も体も濡れてたからね。それでも母は目を覚まさなかった。そのまま朝まで起きなかった。あたしは心配でそばにいたんだけど、眠ってしまって、気がついたら母が布団の上に正座してた。鬼のような顔をしてた。顔全体の色が変わったみたいだった。そして『頭がいたい、気持ち悪い』と言ったの。病院へ行こうと言っても石のように動かない。少し気味が悪くなったわ。昼頃、泡だったものを吐いて、また倒れた。救急車を呼んで病院へ連れて行ってもらったけれど手遅れで死んだ。
母と弟は仲が良かった。それなのに弟は取り乱したり泣いたりしないので、ちょっと腹が立って、悲しくないのかと訊いたの。そしたら弟は怖いと言って、それで分かったんだけれど、弟はショックが大きすぎて固まっていたわけよ。
それから弟は落ち込んで、落ち込んで。せっかく受かった高校にも行かなくなった。もっとも高校へ通ったところで、学費をどうするか見当もついてなかったのよ。あたしが働けばいいのは分かっていたんだけれど…。あたしはもう高校を卒業していた。でも働かないで男とつきあってた。学校の先生が世話してくれた会社へも行かないでね。最低でしょう?もっと最低なのはそのつきあってた男。西谷には負けるけど、それなりに酷いやつだった。結局あたし、そいつに働かされていいようにしゃぶられたんだから。最後はあっさり捨てられて。男運が悪いって、こういうことなの?」
彼はただ首を振って答えに代えた。それを見て沙絵は少し笑った。彼ににじり寄るとまた腕をさすり始めた。
「あたしね、弟を置いて家を出たの。そのつきあってた男の部屋に転がり込んだの。めそめそした弟が嫌だった。家族で暮らしたことを思い出すのも嫌だった。喧嘩をしたことがない仲の良い家族だったのに。それから働くのも嫌だった。弟のことは本当に可哀想だと思っていたけれど、それでも働くのが嫌だった。どうしようもない奴よ、あたしは。
自分の貯金を全部おろして、封筒に入れておいて出た。三十万ぐらい。ごまかしよね。でも無いよりマシでしょう?家はね、叔父さんの持ち物だったから住んでても大丈夫なはずなんだ。もしかしたら今でも彼処で暮らしてるかも知れない。どうしてるかしらね。考えると胸が苦しくなる。息が詰まりそうになる。朝早くこっそり家を出たんだけれど、その時弟の寝顔だけでも見ておこうかと思って、やっぱり止めた。今になってみると、見ておけばよかった。あたしが置いていったお金が無くなったらどうしたかしら。身寄りもないのよ。あたしのことを恨んでるわよね。軽蔑してるわよね。憎んでるんだ、きっと。
あたしが今こんなことになってるのは当然の報いのような気もするの。弟を見捨てたことが廻り巡ってきて、西谷っていう気違い野郎に閉じ込められ、半分殺されかけてるのよ。当たり前と言えば当たり前のこと。」
「弟さんは元気で暮らしてるよ。」まるっきりその場しのぎの慰めでしか無いと知りながら彼は言った。手が自由なら、沙絵の体に触れてやりたかった。

 それから平沢と名乗ったその人は、コップを割って手を縛っているバンドを切ると言った。もちろん自分では難しいので、あたしが床の上でコップを割り、割れ口のきんと尖った所でバンドをこすった。その時、平沢さんの親指の付け根辺りも切ってしまった。血がだいぶ流れた。コップの底を握って使っていたのだけれど、あたしの手についた平沢さんの血でぬるぬるしてしまい、また誤って切りそうで怖かった。
辛抱強くこすり続けてなんとかバンドを切ることができた。
あたし達は一階へ降りて、窓ガラスを平沢さんが割り、外へ脱出することができた。雨がやまず、不機嫌が上からのしかかってくるような天気だったけれど、西谷から逃げられると思って嬉しかった。でもあたしは裸足で、そんなに遠くへはいけそうになかった。平沢さんはあたしの足を見て、心配ないと言った。
平沢さんは車で来ていた。車のキーは西谷に取り上げられていた。お金も携帯も家の鍵もなにもかもない。ドラマや映画で見るように、車の窓をこじ開けて、ハンドルの下の線をバチバチやってエンジンをかけられるのじゃないかと思ったけれど、平沢さんはそんなことやったこともないから分からないと言った。
平沢さんは倉庫へ戻り、スニーカーを持って出てきた。あの倉庫の中にある死体から取ってきたのだ。あたしは死体が履いていた靴を履くのはなんとも思わなかった。でも、別のことが怖かった。平沢さんがあの倉庫を持っている会社の社員だと言うのは本当だろうか。どうして死体が靴を履いていると思ったのだろう。平沢さんが言ったことが嘘だとしたら、倉庫の棚の黒いビニールシートと関係があるのだとしたら。並んで歩きながらあたしは平沢さんの顔を盗み見た。
歩き出すと靴はやっぱり変な臭いがした。
平沢さんにその事を言うと、立ち止まってしゃがみ込みあたしの靴の臭いを嗅いだ。腰を伸ばして頭を傾げ、しばらく黙っていた。それからこう言った。
「たしかに臭うね。これじゃ人混みの中には入れないだろうけれど、電車や車を使うお金もないんだ。歩いて行くしか無い。外を歩いて行く分には心配ないよ。」
どこへ行くつもりなのか聞くと、まず会社へ行って友達に助けてもらう、と言った。
あたし達は歩いた。さっきあんなに喋ったのに、平沢さんもあたしも黙っていた。
時々靴の臭いがした。見えない死体がぞろぞろとあたし達の後をつけているようだった。死体達はもう腐れ切ってぼろぼろになっている。ただ臭いだけさせて、ぽっかり開いた眼をあたし達の背中に据えて、揺れながら歩いているのだ。彼らには行く場所がない。本物の死体はぐちゃぐちゃになっているはずだ。それなのにあの倉庫には蝿が集まっていなかった。父に聞いた話では、家の中に人間の死体があると外からでも分かるのだという。その家へ流れ込む蝿の川ができるから。あたしは平沢さんを試すつもりで、蝿のことを聞いた。
「ああ、はは。大丈夫だよ。シートでしっかり塞いであるから。」
何気ない言葉に真相が顔をのぞかせていることがある。
あたしは平沢さんに気をつけなければいけないのだろう。そう思って平沢さんの横顔を横目で見ると、この人は本当に真哉に似ていると思う。真哉に似ていると言うことは父にも似ているのだろうか。あたしも似ているところがあることになるのか。でも、あたしと弟はあまり似ていないと言われていたし、平沢さんの顔を見ていても父を思い出すことはない。おそらく、横から見た平沢さんの目尻から顎の様子が真哉に似ているのだけなのだ。
真哉のことを考えるのは止めよう。あたしは真哉を捨てたのだ。あれこれ考えたところであたしの罪が軽くなるわけはない。あたしがしなければいけないことは罪を償うことだ。真哉に会って、謝り、真哉のために尽くすのだ。真哉の暗い目があたしを見つめている気がする。小さい頃、いつもあたしの手を求めて握ってきた。あたしが喋ると全身を耳にして聞いていた。あたしの誕生日にはいつもあたしより早く起きて、あたしが目を覚ますのを待っておめでとうを言ってくれた。プレゼントはなかったけれど。

 小田急の線路と並んで歩き、途中で小田急線と別れた。しょぼしょぼの雨は細かい水滴に変わって宙を漂うような具合になり、髪が水をたっぷり吸い込んで顔に張り付いてきた。厚い雲のせいで早くも空が暗くなりだした。お腹が空いてきた頃に平沢さんの会社に着いた。
ビルの裏に回ると、平沢さんはシャッターの前の軒下で待っているように言った。誰か出てきて見咎められないか不安になった。
人影が現れ、思わず身をすくめると、平沢さんでほっとした。
でも、平沢さんの顔色は暗い。
友達に会えたかと聞くと「会社を休んでる。」と言った。その友達は高岡という女の人らしい。
「部下の武田くんからお金を借りたので、真理の家へ行ってみよう。」
平沢さんのマンションへ行くのは危険だそうだ。西谷は平沢さんの鍵を持っている。その鍵を使って平沢さんのマンションに入っているかも知れないから。
平沢さんは西谷のことを警戒している。警戒しすぎているかも知れない。あたしから見ればそれは怖がっているのと変わりないようだ。あたしから西谷の暴力の話を聞いたからだろうか。鍵を持っているだけで平沢さんの家の場所が分かるわけがないとあたしは思った。そう言うと平沢さんは「免許証も取られている。免許証の住所からだって住んでいる場所は分かる。」と答えた。あたしは納得していない。何かが引っかかって平沢さんの言うことをすんなり呑み込むことができない。注意するに越したことはないのだろう。でもこんなに普通っぽい人があの倉庫の死体と関係があるのだろうか。もしそうだとしたら、もし平沢さんがあの人達を殺した犯人だとしたら、なんでそんなことをしたんだろう。殺す理由は何なのだろう。西谷と同じように人をいじめるのを楽しむうちに殺してしまったとか。殺すのが楽しかったから殺したとか。理解も想像もできない。あたしのすぐ隣りにいる人が西谷と同じような怪物なのだろうか。
西谷は怪物だけど、人は殺していない。いや、あたし達を殺していない。違う、あたしを殺していないだけだ。奈津子さんはいなくなってしまって、どうなったか分からないのだから。西谷が奈津子さんを殺したとしたら、本当に憎いし、悲しい。奈津子さんはあたしに優しくしてくれて、仲良くしてくれた。ずっと姉が欲しいと思っていたけれど、奈津子さんがあたしの姉だといいのにと思った。中学生の頃、母に姉が欲しいと打ち明けたことがある。母は笑ってこう答えた。「あたしもそう思ってたことがある。綺麗な姉がいたらどんなに楽しいか、想像したわ。でも、子育てしてたらそういう考えも吹き飛んだわね。今じゃ、なんであんなこと思ったんだろうと不思議よ。」
西谷は奈津子さんを殺したのだろうか。殺される時、奈津子さんはどれだけ怖かったろう。きっと怖くて怖くて、寂しくて、悲しくて。奈津子さん、と声に出して呼びかけたくなる。あの倉庫に一人きりでいた時も何度もそうやって奈津子さんの名前を呼んだ。あたしの声は、どこへも届かず、誰にも聞かれず、一番意味のない物音になって、すっと消えた。奈津子さんにはどこかで元気に暮らしていて欲しい。

 地下鉄の駅のホームでベンチに座り、キオスクで買ったおにぎりを平沢さんと並んで食べた。のりがパリパリしていておいしい。ちょっと足を前に出すと新しい靴が見える。死体の履いていた靴を捨て、新しいのを買ったのだ。なんてことのないスニーカーだけれども新品の靴は少しうれしい。
平沢さんはあたしがホームレスになったわけを知りたがった。
わけなんて無いのに。
それでもあたしは話した。真哉を捨てて男のところに行ったあとから順番に。
今日はずっとあの男の名前が出てこない。弟を捨てることまでしたというのに。記憶の通路が塞がれてしまった。でも、どうしても思い出したいわけでもない。あいつはその程度のやつだった。あたし達は一年くらい前から付き合っていることになっていた。それはあいつが決めたことだったと思う。あたしは同意した覚えがない。それは付き合っているというのだろうか。どうでもよかった。あいつはそんなに邪魔にならなかったし、友達の紹介の手前もあったので、深く考えないであたしはあいつと付き合っていた。
あたしがあの男の部屋へ行ったのは、もう前に話したとおり、働きたくなかったからだ。それなのに、結局あたしはあの男に働かされるハメになった。あいつの部屋へ行ったその日のことはよく覚えている。あいつ、そうだ渡辺敏というやつだった。でも名前なんかどうでもいいか。あいつはあたしが転がり込んだのを喜んだ。頼ったのが嬉しかったらしい。
それからしばらくは普通のカップルみたいにして過ごした。あれ、これはどこかで見たことがあるパターンだ。西谷とも最初は、同棲している男女みたいにしていたんだ。あたしは同じ事を繰り返している馬鹿なのか。ひょっとしたらあたしが望んでこういうことを繰り返しているのかも。ずっと気づかなかった。なんて間抜けでぼんくらな女なんだろう。
とにかく、そういう日はそれほど長く続かなくて、あいつは仕事でミスをやらかし、それを上司に怒られて、それをきっかけに勤め先を無断欠勤し、そのままずるずると働かなくなった。気の弱い男だった。興奮しやすい質でもあった。勤め先で怒られて帰ってきた日は、ずっと気に病んで目に涙を浮かべていた。それで勤めに出なくなって、お金が無くなり、冷蔵庫がすっからかんになった時、あいつはあたしに泣きついて、何とかしてくれ、と言った。あいつの指先がブルブル震えていた。何とかしてれ、って言うのが、誰かに言って何とかなるものなのか。あたしとその男については何ともならなかった。あたし一人が働いたところで、なんの取り柄もないのに。あいつの知り合いに紹介してもらった、キャラクター商品のメーカーの倉庫であたしは働き出した。あたしが貰った給料をあいつは取り上げ、どこかで教科書でも読んだみたいに、ギャンブルに使った。男の、ああいうパターンというのは、本当にどこかに教科書でもあるのではないだろうか。男たちはそれを読んで、その通りにやっているのではないだろうか。
あいつは初め、ギャンブルへ行っていることをあたしに隠していた。それなりに悪いと思っていたらしい。そのうち、運良く小金を手に入れた時などは、あたしにおいしいものをご馳走して、あたしの機嫌をとったりした。ご機嫌取りの手はたいてい食べ物。あたしは物を欲しがらないので。服とかアクセサリーとか、指輪とかバッグとか、そういうものを欲しいと思ったことがない。あたしは何を欲しかったんだろう。あたしは何を欲しいのか。
ギャンブルはあいつを呑み込んでいった。そのうちポーカー賭博に手を出し始めた。競馬は馬が信用ならないんだそうだ。パチンコはうるさいと言っていた。ポーカーが性に合うんだといった。性に合うギャンブルなど見つけ出す必要はないのに。そんなところに居場所を見つけてどうするのだろう。その居場所に、あいつはずっと居ることができたのだろうか。無理に決まっている。あっという間にお金がなくなったのだから。あたしはもっとお金をとれる稼ぎ口を見つけなければいけなくなって、あいつは賭博場で知り合った男の紹介で水商売の口をあたしに押し付けた。
でも、それは思っていたより苦ではなかった。割と楽しくやっていたのだ。店の女の子たちとも仲良くなったし、いろんな客と会うのも楽しかった。お酒も好きだったし。結構向いているかもと思ったものだ。なによりもあたしにとっては重苦しくなかった。どうでもいいことがさらさらと繰り返されて。船縁をさざ波が叩いているみたいだった。あたしはずっと平和な気持ちで働いていた。
お客さんの中にはいろんな人がいた。わざわざ重たいものを抱え込んでいるような人も大勢いた。奥さんと五年も口をきいていない男とか。なんだか喧嘩してそうなったらしいんだけれど、本人も何が原因なのか思い出せなくなっていた。それで楽しいのかと聞いたら、それなりに暮らしているから良いといった。奥さんを無視するのは立派なDVでしょうと言うと、「じゃあ、どこかへ訴えればいいじゃないか。」とあっさり返してきた。そういう夫婦関係なので、娘がおかしくなった。登校拒否から始まって、拒食症、自傷と続いたそうだ。娘さんが可哀想だというあたしの言葉にその男は黙っていた。その男の顔はむっつりと固まって、何か封じ込められた音みたいだった。そのまんまでお酒を飲み、あたしの体を撫でまわし、感情の手触りを感じさせないままで帰って行くのだった。その人が帰る時はいつも、あたしはその背中を見送った。この人はどこへ行くのだろうと思いながら見送った。
あたしのことを好きだと言ってくれる人もいた。一人だけだったけど。その一人が問題だった。あたしがホームレスになるきっかけはその人にある。
その人の名前がまた思い出せない。さっきは渡辺の名前を思い出せなかった。渡辺の名前は心の底で思い出したくないと思っていたのかもしれないけど、私のことを好きになってくれた人に対しては何のわだかまりもないのに思い出せない。せっかく好きになってくれたのに。
あたしのことが好きだというのがあたしには不思議だった。その人はあたしにそれを告げる時、すごく必死になっていた。同じボックスにいた他の女の子が高い声で笑った。その人と一緒に来ていた男の人も椅子から腰を滑り落として笑った。その人はその騒ぎの方へ照れくさそうな笑いを向け、それでもあたしの方を向いた時は笑顔が消えて、顔色がちょっと青ざめていた。眼が見開かれたまま固まり、口の端が引き攣れるようにぴくぴくと動いていた。たぶん笑顔を作ろうとして作れないでいたのだ。少し前かがみになって、肘を膝につき、両手を前で組み合わせていた。爪の先の色が白くなっていたので、相当力を入れているようだった。その袖口から腕時計が見えていた。その人は大きな部厚い腕時計をしていた。針や目盛りがびっしりとつめ込まれている腕時計だった。あたしはその人のその腕時計が気になった。
その人はあたしが男と暮らしていると言っても諦めなかった。あたしにアプローチする前に他の女の子に聞いていたらしい。「うん、うん、それは知ってるよ。」と機械みたいな速さで頷いた。それでその人の望みは店の外であたしとデートすることだったから、あたしは承諾した。断り切れないだろうと思ったし、渡辺に対してはどんな義理も感じなくなっていたので抵抗感もなかった。
その次の週、その男の人の車に乗って葛西の臨海公園へ行った。あたしがそこへ行きたいといったのだ。海の近くならどこでも良かった。海の側にいると舟で暮らしていた頃のことを思い出す。舟で暮らしていたことを言うとその人は驚いていた。
「誰だって驚くだろう。」と平沢さんが言った。「そもそも、君自身、舟で暮らしたことがある人にあったことあるのかい?そうだ、君たちの家族の他に舟で暮らしていた家族はいなかったの?」
舟で暮らしていた人にあったこともないし、あたしたちが舟で暮らしていた頃、周りにはそんな舟はなかった。
男の人は「そうかー、それで海を見ていると落ち着くんだね。」と言ったが、別に落ち着くわけではなかった。ただ舟で暮らしていた頃のことを思い出すだけだった。思い出すのは少し苦しいのだ。弟のことも頭に浮かぶから。弟のことはその人には話していない。今まで誰にも話していない。平沢さんに話したのは、平沢さんが弟に似ていると思ったからだ。それに平沢さんにあった状況があんな具合だったから、少し気持ちが上ずってしまったせいもあると思う。
デートの話に戻ると、あたしたちは水族館にも入った。その男の人が入ろうというので入った。実を言えば、水族館は少し嫌いだ。水槽に音が吸い込まれるような気がして、ほんの少しだけの目眩が頭の底の方に溜まるからだ。そのせいであたしが黙りこんでも男の人はしゃべり続けていた。あたしが渡辺と暮らしているのは間違いで、もっと幸せになれるはずだ、と言っていた。幸せ?その言葉が不思議で、この不思議さは皮膚の下に小石が入ってごろごろする感じかもしれないなどと思っているうちに男の人の話の行方を見失った。いつの間にかものすごく大きな筒型の水槽の前に立っていて、男の人があたしの手を握ってきた。水槽を明るくしている照明が男の人の顔に映り、のっぺりとした感じになっていた。眼だけが黒く輝いていた。あたしの手を握っている手と反対の腕にあの腕時計がはまっているのが見えた。
それからあたしたちはホテルに行って、あたしはその男の人に抱かれた。そして、あたしは隙を見てあの腕時計を盗み、ホテルから逃げ出した。隙って、結構あるのだ。あの時はシャワーを浴びさせ、バスルームの戸口に椅子をつっかえて置いてから逃げ出した。
ホテルを出てからは本当に走った。心臓が破けて血を吐きながら倒れてしまうかもしれないと思ったけど、それでも走って走って、走った。振り向いたら捕まると思った。あんなに必死になって、今思い出すと笑ってしまう。電車に飛び乗り、ドアが閉まってからやっと、もう大丈夫だと思った。
あたしは手の中の腕時計を見た。
思っていたより軽かったが、それでも中味が隙間なく詰め込まれている感じがした。黒い文字盤の上も空いているスペースは殆ど無かった。時刻の目盛と針の他に小さい円が三つあり、その中にも数字と文字、目盛が書いてあるのだ。樹脂でできた黒いバンドの腕につく内側は滑らかだが、外はゴツゴツしていて、エビの背中を思い起こさせる。時計の側面には飾りだかボタンだか分からない突起が並んでいた。蟹の甲羅の刺やシュモクザメの奇妙な頭のように、あたしには意味が分からなかった。使い方もデザインの感覚も理解できないということだ。ただもう、奇怪な毎日を封じ込めた貝に見えた。それは針を慎重に規則的に動かしては、自分の固い体に響く音だけに耳を開いているのだった。既に何年も、何百年も、何千年も、人に知られず果てしなく繰り返された間に。
あたしは満足してその時計を駅の空き缶入れの中に捨てた。それからそのままどこにも帰らずにホームレスになったのだ。お店に戻れるわけもなかったし、渡辺のところへ帰ることなど考えもしなかった。
「だから、ホームレスになった理由なんかないといったのに。」とあたしが言うと、平沢さんは「立派な理由があったようだけど。」と応えた。

 あたしは平沢さんに本当のことを言ってもらってもいいような気がしていた。平沢さんが頭のおかしな人殺しだという事を教えてもらってもいいような気になっていた。あたしにはそれを知る権利があるようだった。まったくの思い込みだけれど。
「あの倉庫の死体、いつからあるの?」
「さあ。」
「誰が殺したんだろう?」
「分からない。」平沢さんの声が一段沈んだ。
「あんなに殺して、平気なのかな?殺した奴は何考えてんだろう?」
「西谷がやったんじゃないのか?」
「彼奴は自分じゃないって言ってた。おれはこんなことしない、って。笑っちゃうけど、そこだけは本当のような気がした。」
「そうか。」
「平沢さんが殺したんじゃないの?」
平沢さんは黙って答えなかった。

 夜がもう滲みでてきていた。点灯した街灯の背が一段と高く見えた。高岡さんという平沢さんの友達の家に着き、ドアのチャイムを押したが返事がなかった。部屋の中にチャイムの音が響いているのが小さく聞こえた。平沢さんは首を傾げた。
「具合が悪くて休んでいると聞いたんだけど。病院へでも行っているのかな。」そう言いながらドアノブを回すとあっけなくドアが開いた。三和土に靴が一足もない。
「鍵もかけないで出かけたのか。上がって待ってよう。」
あたしは少し引っ掛かるものを感じた。玄関に靴がないから出掛けているというのは呑み込める。でも、脱いだスリッパもないのは不自然だと思った。先に靴を脱いで上がった平沢さんの背中を見ながら、この感触をどうしたものか迷った。高岡という人が部屋の中でスリッパを履かないのならそれまでの事なのだ。その人を下の名前で呼び、すいっと部屋のなかに入っていけるくらいの間柄なのだから、もし本当に不自然だったら平沢さんが気づいているに違いないと考えて、あたしは何も言わないことにした。
だけど、平沢さんは別の何かに気づき、テーブルの傍らで立ち尽くしていた。視線の先には次の部屋への扉があった。
何かが臭う。
鼻の奥を刺激する臭いが分かった。平沢さんもその臭いに気がついたのだ。
「…何の臭い?」
平沢さんは答えずに扉に近づいて開けた。あたしのいる所からは向こうの部屋がどうなっているのか見えなかったけれど、臭いが一段と強まり、それがガソリンの臭いに似ていることは分かった。
「真理?」平沢さんが部屋の中に向かって呼びかけた。あたしは平沢さんの後ろについて、部屋の中が見える位置に立った。
だだっ広い部屋の真ん中に、椅子に縛り付けられた女の人がいた。口をタオルで塞がれている。何故か髪の毛が濡れているようだった。多分その人が高岡さんなのだろう。高岡さんは目を大きく開けてあたしたちの方を見ていた。
ガソリンが目まで刺激してきた。床一面にガソリンが撒かれているのだ。高岡さんの髪もガソリンを浴びせかけられたのだろう。
高岡さんは胸をつきだした格好になっていた。後ろ手で、縄が胸を挟んで二の腕ごと胴体を巻いているから、おっぱいが絞り出されたようになっていた。白いシャツに醜く皺がよっている。下はピッタリとしたジーンズで、この人はこれが部屋着なのだろうかと思った。普段は、あたしなんか逆立ちしても敵わないような女の人なんだろう。
高岡さんの顔の下半分を覆っているタオルからくぐもった唸り声がした。
平沢さんは部屋の中に踏むこもうとしていたが、その唸り声を聞いて体を強張らせ、足を止めた。
部屋の奥にドアが見えていて、それが開き、西谷が現れた。心臓が平べったく潰れたと思った。西谷は片手に赤いポリタンクを持っていた。平沢さんに気がつくと一瞬たじろいだ。それからあたしのことにも気づいたようだった。あたしたちの様子を見て、高岡さんはドアの方へ首を捻った。
何が起こっているのかを理解しようとしていた西谷の視線があっという間にその状態を抜け出、低く身を潜めて的を絞る獣になった。
「さ・え・〜、お前が連れてきたのか?」手足から血が引くのがわかった。体は冷たくなるのに、汗が背骨の上を流れる。
「お前が平沢課長と知り合いとは。びっくりさせられるな。」
「いったいなんだ、これは。」平沢さんが西谷に向かって言った。
「なんだ、これは?なんだ、これは?」西谷は平沢さんの口調を真似、ヘラヘラと笑った。「あんたが一番良く知ってるんじゃないの?」
「ここで何をしている?何をするつもりだ?真理をどうする?佐山くんを殺したのはやっぱりお前だな?」
「質問ばっかりする奴だな。あの倉庫の死体をやったのはあんただろう?」
「真理を放せ。」
「命令すんじゃねぇ。」
「西谷、真理を放せ。」
「落ち着けって。わめくなよ。近所迷惑だろう?世間は狭いな。沙絵とあんたが知り合いなんだからな。順番に片付けていこうぜ。これが何かわかるか?」西谷はポリタンクを下におろし、ズボンのポケットからライターを取り出した。「ライターだよ。ライター。俺はタバコをやめたんだ。でもライターを持ってる。それで、こっちのポリタンクに入っているのはガソリンで、この部屋にはガソリンが撒いてある。あんたの女にもガソリンをかぶってもらった。」
西谷は平沢さんの反応を待つように言葉を切った。平沢さんが何も言わないのを見て、西谷は口の端を歪めた。本人はニヤついたつもりなのだろう。
「わかるよな?このライターで火をつければ…、な?」平沢は空いている方の手を顔の前ですぼめ、ぱっと開いてみせた。「だから、落ち着けよ。危ないんだぜ。」
「何が望みだ。」
「ほぅ。望みなんか、ない。あんたもそうだろう?望みなんかないんだ。俺はやりたいことをやる。それをやらずにはいられないんだ。あんただって同じだろう。殺したいから殺したんだろう?殺さずにいられないから殺したのさ。通りを歩いている人間を見ると、あいつらを一人ずつ殺したくなる。どんな気持ちになるだろうと思ってな。だが本当は、どんな気持ちか知ってる。すっきりするのさ。会社の糞野郎を殺した時もな。突っ立ってる奴を引きずり倒して、地面に叩きつけるとすっきりする。なぁ、そうだろう?あんたの気持ちを言ってやってるんだ。地べたを這いずりまわる虫を潰すのと同じなんだろう?え?え?俺様は違う、か?俺様はお前らと違う、か?そうさ。違うんだよ。まるっきり違うんだ。」
西谷の顔はますます青ざめ、ぬめついて見えた。耳だけが真っ赤になっている。平沢さんの肩が小さく上がったり下がったりしていた。西谷の切れ目ない言葉に押し出されるように汗が流れた。
「あんたのことは前からおかしいと思っていたんだ。臭いがするんだよ。腐った臭いが。俺達がいつも嗅いでる臭いだぜ。それがあんたからも漂ってきていた。だから俺達は同類だと思っていたんだ。どうだった?殺す時、どうだったい?あいつら泣き叫んだか?怯えて震えたか?人の悲鳴ほど聞いていて楽しいものはないよなぁ。面白くて笑っちゃうよなぁ。ヒャハハハハ。」
「黙れ!」平沢さんが怒鳴ったのに、西谷は笑い続けた。平沢さんは「黙れ、黙れ、黙れ」と繰り返して、床をどんどん踏みつけた。高岡さんの体が椅子の上で跳ね上がった。
「黙らないぜ。黙るもんか。これからどうするか教えてやろう。火をつけて全て終わりにするんだ。この糞ったれな物語にケリをつけよう。つけたいだろう?もううんざりしているくせに。お互い、もううんざりなのさ。あんたも、俺も。それで終わりにする。燃やして終わり。終わり。」
「くそっ」
「ヒャハハハハ。やっぱりそうか。あんたもそう思ってたんだな。そうさ。俺達は飽きちまったのさ。だから終わりにするんだ。ここいらで。あんたの女も、そこの沙絵も、ついでだから道連れ、な。」
西谷が何を言ったのか、あたしは理解できなかった。
「このままいったらどうなるか、俺達にはわかってる。なぁ、平沢さんよぉ。取っ捕まって死刑か?そんなことが怖いんじゃない。そんなのは鬱陶しいだけの話だ。鬱陶しいのはごめんだよ。なんでこんなことになっちまったんだろうなぁ。あぁ?ヒャハハ。潰せ、潰せ、潰せ。平沢、お前も死ねよ!」
平沢さんの体が跳ねたように見えた。両手を前の方に伸ばして西谷に飛びつこうとした。西谷の手の中で炎がちらりと燃え上がり、そのままライターと一緒に床に落ちた。もう片方の手のポリタンクを振り回し、平沢さんの肩を殴った。その時にはもう炎が西谷のズボンを這い上がりだしていた。ポリタンクは中の液体をぶちまけながら高岡さんの足元まで転がっていった。平沢さんは殴られた衝撃で体勢を崩しながらも西谷に組み付き、二人はそのままその場で回転するようにして倒れた。ぱっと部屋が明るくなった。二人のところから大きな炎が立ち上がっていた。その根本から炎が四方へ走り広がった。二人は縺れ合いながら転げまわった。高岡さんのくぐもった叫び声が聞こえた。もう、熱気があたしの目を焼いていた。歓声を上げるように炎が昇る。低く、恐ろしい轟きの中に、めりめりという細かくなっていく音が混じっている。本当にあっと言う間に、高岡さんの姿が炎と煙で見難くなっていた。部屋の向こう端に、黒い塊がちらちら見えているが、それはおそらく平沢さんと西谷なのだろう。
猛烈な煙が溢れかえる。胸の奥まで熱く、息ができなくなった。
あたしは炎と煙に取り巻かれて、その場に座り込んでしまった。
この炎がすべてを焼き尽くした後、上の方には青空が広がっているんだろうか、とあたしは思っていた。
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