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ストリート・オブ・クロコダイル / ティム・クエイ, スティーブ・クエイ監督 (1988) [感想文:映画]


Brothers Quay: Shorts

 手元のVHSテープの発売元はダゲレオ出版(1990年)となっていて、次の5つの短篇が収録されている。

「レオシュ・ヤナーチェク」 '83/27分
「ヤン・シュヴァンクマイヤーの部屋」 '84/14分
「ギルガメシュ/小さなほうき」 '85/11分
「ストリート・オブ・クロコダイル」 '86/22分
「失われた解剖模型のリハーサル」 '88/15分

いずれも極北で輝く一群の星座のような作品ばかりだが、なかでも白眉は「ストリート・オブ・クロコダイル」の一篇だろう。以下には、その「ストリート・オブ・クロコダイル」について書く。

 これは、他の作品同様の、人形アニメーションによる映画だ。そして、この映画には曇りが無い。そのため、何度観ても、この映画は"分からない"。

 まず、そこには物語と呼ぶことのできる時間的構造が無い。それ故、事件の説明を求めてプロットを辿ろうとする努力は破綻する。それでも、画面では何かが起きる。続いてまた何かが。つまり、事象の継起を目撃することはできる。ただそこには、動機や伏線と言った、画面で動くものを曇らせるものが無いのだ。

 映画の冒頭、小さな劇場のような空間に、"管理者"らしき老人が登場する。彼は、覗き式のキネトスコープと覚しき装置に唾を一滴垂らす。すると、装置が作動しだし、何かが始まる。糸につながれていた人形を"管理者"が解放すると、人形の"彼"は"探索"を開始する。この"探索"は、到達せず、発見しない。闇の彼方を窺う姿勢と、訝しげに辿る足取り、チラチラと光る小窓を覗き込み、物陰から凝視する首の運動のみが有る。

 便宜的に"探索"と呼んだものが展開するのが、"大鰐通り"と言う街の一角である。それもまた、ほぼ恣意に近い呼び名だ。そこは、空間の位相が錯綜し、影が立ちこめるどこかである。打ち棄てられた商店街にも、水底に沈殿する建造物にも似ている。錆に覆われ、細かい粒子が隅々に蝟集している。それは、ぼろぼろに崩れた"目的"や"用途"などであるかもしれない。地下鉱物へと退化しつつあるガラスが鬱蒼と繁茂している。かろうじて機能の存在を暗示するかのような糸が一角に張り巡らされているが、その巻取りは何も引き寄せない。

 ここでは、通常の物理法則という曇りもかき消えている。木ネジがひとりでに緩み、動き出すのだ。錆付いた木ネジたちはそぞろ歩く。懐中時計の内臓をためす。木ネジたちは体を逆回しにねじり、緩みつつ伸び上がる。体が外に出るや否や、コロコロと転がり、立ち上がり、そぞろ歩く。その律儀な運動は、かわいらしささえ感じさせる。"彼"はこの木ネジを1本、箱に入れて後生大事に運んでいる。

 "彼"は人形たちに遭遇する。鏡で遊ぶ"男の子"。目が光る"お針子"たち。どの人形も"半欠け"だ。"彼"のフロックコートは型が崩れだしている。"男の子"のセーターはほつれている。"お針子"たちは頭頂が欠け、脚がない。そのかわりに台座に乗っている。これは、果たして、"人形"だろうか。つるつるで閉じられた輪郭はどこにもない。数え上げることができるという個物の曇りが溶解している。

 "お針子"たちは"彼"を招き入れ、取り囲む。テーブルの上に肉片を広げ、"彼"の頭をすげ替える。目耳口から綿が飛び出た、巨大な頭という諧謔。そこには、なにものかの隠喩という曇りもない。見えているものを覆い隠す"意味"がない。どこからどこまでもくっきりとあるのは、物(オブジェ)の運動だけだ。滑りながら痙攣する運動。生物の合目的的な滑らかさと、機械の盲目的、偏執的な繰り返しのあわい、すなわち昆虫のような運動。この運動は、顔を覆い、身を反らせ、嘆き悲しむ仕草をして見せるが、その見慣れた"意味"はたちまちのうちに解体し、"分からない"運動へと戻ってしまう。

 解体、溶解、廃棄。この映画に登場する物たちは、"意味"の世界にそろそろと近づいたかと思うと、しかし接続はせず、弾かれたように離れ、己の上に覆いかぶさる曇りを解く。この映画を観るものの視線は、どこまでも曇りのない画面をまさぐることになる。そこで継起する運動を目撃し、物の表面に突き当たる。視線は"意味"の生成を捉えようとする。だが、その視線の運動こそが、物の上を滑り、見えているものを曇らせる根源であるために、視線の目論見は物の表面で"半欠け"になる。それは、"男の子"の一人遊び(鏡の反射光で物を撫ぜると運動が始まる)に等しい。無償の一人遊びがさわさわと戯れるのは、寂寞の質感だ。一方で、その"分からなさ"は、外部から襲ってくる"怪物性"ともなっている。

 曇りを払う最後のものは、そこに演技が存在しないという事だ。人形に演技は無い。"彼"の眼差しにしたところで、その瞳は、曇り無きガラス玉なのだから。


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mistletoe

大好きです。ブラザース・クエイ。
このビデオはレンタルで観ました。
私が持っているのはアメリカ版のDVDです。
実はまだきちんと観ていないのですが・・・。

この作品を最初に観たのは遥か彼方昔の事ですが、
「あ~~~やられた!!」
・・・と思いました。それ位、私のツボにピンポイントの作品です。

今月末はピーター・グリナウェイ監督のワークショップ参加です。
レンブラントでは無くフェルメールの話題の様ですが・・・
久々の新作・・・公開が楽しみです♪
by mistletoe (2007-10-26 10:46) 

symplexus

この作品は観ていないのですが,
意味や物語性を性急に求めたがることにはかねてから異論がありました.
ymineさんの運動や身体に着目する視点は,並みの評論を越えて
はっとするような新鮮さを含んでいると思います.

不可解さが席捲したような現代アートですが,
僕自身は物語性の解体の後の新しい”意味”は
まさにこの身体や,運動,と結びついたもの,
それゆえ動物の再発見にもつながる
なにかではないかと思っているのですが・・.
by symplexus (2007-10-29 18:02) 

ymine

> mstletoe さん、nice! とコメント、ありがとうございます!
ピーター・グリーナウェイ監督のワークショップですかっ!どんなんなんでしょう?し、知りたい。(^^;)
by ymine (2007-10-31 13:05) 

ymine

> symplexus さん、nice! と刺激的なコメント、ありがとうございます。
う~む、職場から反応するには、深いお話ですねぇ。日を改めて、コメントさせてください。とりいそぎお礼まで。
by ymine (2007-10-31 13:07) 

mistletoe

こんばんは~
yumineさん動きが無いので勝手に心配してました(汗)
今日、ワークショップ行ってきました。
グリナウェイ自身ちょっとご機嫌ナナメ?って感じでしたが
すんばらしいレクチャーでした。
記事にしますので覗いて見てくださいね!
by mistletoe (2007-10-31 17:46) 

江戸うっどスキー

これ、観てないのですが、ymineさんの緻密な分析と、独特の言い回しが、
どんぴしゃで (*^ー゚)b グッド!! です。
by 江戸うっどスキー (2007-11-01 00:07) 

ymine

> mistletoe さん、記事、楽しみにしてます。(^0^)
by ymine (2007-11-01 20:56) 

ymine

> 江戸うっどスキー さん、nice! とコメント、ありがとうざいます。うれしいな〜(^_^)
by ymine (2007-11-01 20:58) 

ymine

> xml_xsl さん、nice! ありがとうざいます。
by ymine (2007-11-01 20:58) 

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