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「ハーモニー」伊藤計劃著 [感想文:小説]

 本作の冒頭には奇妙な記号が置かれている。「〈?Emotion-in-Text Markup Language:version=1.2:encoding=EMO-590378?〉」などだ。これらは作中の随所に埋め込まれている。これが何であるかは作中で説明されていて、それは「etml」という架空のマークアップ言語の記述なのである。etml はメッセージ内容に付加されるメタ情報、主に「感情」の伝達を実現するためにあるとされる。
マークアップ言語は、通常、メッセージの受信者の視野の外にある。言語とは言うものの、その相手は、大抵はコンピュータなどのメディア・デバイスだ。
それで、「ハーモニー」を読むことは、架空のデバイスの位置に身を置くことになる。あるいは、置かされていたことに気がつく。これは、物語の中の物語、入れ子になった物語の効果をもたらしている。[物語a]が一度起り、それにメタ情報が付加されるという事態が起った[物語a+]が最初の[物語a]を語っているのである。しかも、末尾に仕掛けのスイッチが置かれているため、読者は語られた物語にもう一度目を向けざるを得なくなる。
 さて、その物語とは、霧慧トァンの物語である。
霧慧トァンを取り巻く世界は超高度医療福祉社会だ。
その昔、世界には「大災禍(ザ・メイルストロム)」があった。それは、アメリカを中心として拡散した大暴動と、それにより核兵器が使用された、戦争と虐殺の時代であった。世界は混乱し、荒廃した。結果、放射線の影響で癌が増加した。また、突然変異と思しき未知のウィルスによる疫病が蔓延し、人類の生存がとてつもなく脅かされた。人類社会は、その構成員を限られた資源(リソース)として意識し、その健康を守ることを最大の責務とみなすようになった。
医療分子(メディモル)というナノ・テクノロジーの発明がその人類の選択を支えた。
医療分子は体内に常駐し、サーバーに接続されて、人体を常時監視する(WatchMe)。疾病の兆候、異常を逸早く察知し、可塑的製薬分子(メディベース)によって予防、修復、治癒を行なう。
このインフラが、超高度医療福祉社会を実現させる。
医療システムを利用することに合意した共同体=医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)、生府(ヴァイガメント)が登場したのだ。そのため従来の政府は縮退した。
この医療福祉社会は、その構成員を包みこみ、病気にならないように、怪我をしないように、傷つかないように見守る、医療と思いやりと慈しみの社会となった。
この社会の依って立つ思想は、生命主義、生命至上主義と呼ばれる。生命主義では、人間の尊厳の条件を次の三点と見なす。まず、「構成員の健康の保全を統治機構にとつて最大の責務と見なす政治的主張」。第二に、ネットワークされた健康監視システムへ構成員を組み込み、安価な薬剤と医療による医療消費システムを実現すること。第三に、「将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供」である。
ピンク色をした優しい社会。緻密な論理で透視され、あり得る未来として描き出された社会は、なんと息苦しいのだろう。それは慈母のファシズムと形容される。
 そこにガラスのような少女たちが登場する。御冷ミャハ、霧慧トァン、零下堂キアンの三人だ。
美しく孤立するクラス随一の変わり者、「ソプラノの喉を持つ男の子のような声」をして、おせっかいな優しい社会を憎む、思春期のイデオローグ、御冷ミャハの磁力に引きつけられるトァンとキアン。ミャハは、境界を乗り越え、社会の束縛を断ち切り、自分を社会から取り戻し、自分自身で選択する自由を回復しようとする。溺れかけている自分を感じていたトァンは、ミャハをアイコンと仰ぐ。そして三人は、大人たちを出し抜き、餓死することによって死ぬ自由を取り戻そうと謀った。しかしミャハ以外の二人は失敗してしまう。
 それから十三年後、霧慧トァンは「螺旋監察官」となっている。それは、「世界原子力機構(IAEA)の遺伝子版」であり、生府なり政府なりが「健康的で人間的な」生活を保障しているかどうか査察する仕事だ。
なんとか社会と折り合いをつけて成人したトァンを死んだはずのミャハの影が訪れる。
ここから物語は、不気味な緊迫感に包まれて行く。それは、高度医療福祉社会のその先へと、作者が挑んだ根源的な思弁の緊迫感なのである。
 作者は、意識とは何かと問う。しかし、これが論争のための書ではないことは考慮しておくべきだろう。作者の思弁を追体験するようにしたい。
さて意識は、脳における報酬系を制御する活動と考えることができる。報酬系とは人の「選択を繰り返し行いたくなる動機づけを与える領域」で、それによって動機づけられる「欲求」のエージェントの数々が、競合し、葛藤し、調整して選択されようとするプロセスそのものが意志なのだ。それは喧騒の会議とイメージできる。そして、選択された「欲求」のエージェントの集合が、それと感覚されるものを形作るのである。つまり知覚される現実は、選択されたエージェントによって構成される。即ちそれが意識なのだ。
「欲求」のエージェントの競合と選択のプロセスが意識なら、動物にも意識を認めることができる。そこから意識は、進化の途上で遺伝的にプログラミングされた形質だと見なせる。
進化は場当たり的な適応の集積にすぎない。意識は、おのれが最高位にあり、すべてだと思いたがり、予測し、統御する自分の機能があらゆるものに適用可能だと考えたがるが、単に、進化の途上で獲得された適応の継ぎ接ぎの一部でしかないと考えられる。人間を取り巻く環境が変れば、時代遅れの機能となることもあるだろう。
進化の継ぎ接ぎの結果であるがために、報酬系は目の前の価値を最も高く評価する非線形の判断を行なってしまう。その場しのぎの生き残り戦略の残滓だ。これがフィードバックを伴う再帰的構造を取るため、報酬系の判断はカオスを生み出してしまう。人間の意志の、予測し難い、非合理性はここに由来する。それは人間の脳という自然なのである。暴虐、混乱、荒廃の根は人間の脳そのものにあるのかもしれない。
人間が積み上げてきた営為は、自然の制御、予測不能なものを抑えこもうとする意志の結果と見なせる。それなら、人間は脳という自然をも制御しようとするだろう。身体は治療するのに、脳を治療してはいけない法はないのだから。
脳の制御は、報酬系の価値判断の線形化になるだろう。それは、選択に葛藤がなく、行動が自明になる状態だろう。選択の葛藤の消失とは、言い換えれば、自律の価値観の消去である。それでどうやって行動し、生活できるのか。ネットワークに繋がったシステムに代替させる゠外注することでそれが可能になる。
 その結果、何が、どんな世界がやって来るか。
本作「ハーモニー」で示されるその世界は「永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与え」る、強烈で、皮肉な衝撃をもたらし、読む者を途方に暮れさせる。
そこに三人の少女の、運命の軌跡が刻みこまれる。少女の、過剰で脆く、哀切な自意識がアラベスクを描く。
この作品は、透き通った傷つきやすい皮膚をしているようだ。それに、物として触知できると思わせるほどの喪失感を湛えている。
 物語の最後に、我々は「etml」を気づかされる。etmlの記述が終る時の意味を感じさせられることになる。それは、意識と物語を読むということの不思議な関係へ目を向けさせる。「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」という御冷ミャハの言葉が轟くだろう。作者が、物語を読むことに救済を見出したとは思わないが、その力を信じたことは確かだろう。
 本作では、ゲーテ、坂口安吾、フーコーなどへの言及が登場する。「全書籍図書館」の名前は「ボルヘス」だ。谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」のパロディ、「ただの人間には興味がないの」は分ったが、それ以外にもあるのかどうかは分らなかった。

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