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最初の課長 [小さな話]

 課長がある日、「予知能力があるんじゃないかと思うんだよね。」と言いだした。
「じゃあ、何か予知してみせて下さい。」と返すと、「内線が鳴りだす前に、かけてくる人のことがふっと頭に浮かぶんだよ。」と言った。
猫でも膝に抱いていたい十一月の終りだった。
「やってみようか。」課長は嬉しそうに身じろぎした。
それで私達は、電話機を見つめて待つことになった。手を止めてじっとしていると、意外なほどに物音がない。その内、音にならないざわめきがあるような気がしてきた。たぶん、あちらこちらで昼食が準備されているのだ。壁の時計では、昼休みまであと二十分ほど。それを確認して、課長の顔に目を戻した。
課長は立ち上がっていて、机の電話の上に少し身を傾げている。電話が鳴るのを待っているというより、何かが出てくるのを構えているように見えた。
ちらりと私の方を見ると、にんまりと笑みを広げた。いたずらの共犯者に合図を送っているといった風だった。私は、二人でだるまさんが転んだみたいにじっとしているのがおかしくなり、脇腹の皮膚の内側がくすぐったくなってきた。笑いだすのを堪えている内に、頬が熱くなった。
笑わないようにと、課長の耳から顎の線に視線を滑らせてみた。いつも、あの辺りを触ってみたらどんな感じがするんだろう、と思っているので、それを思い出して気をそらせたのだ。
すると、奇妙なイメージが浮かんできた。空一面を雲が覆い、ぴたりと動きを止めている。雲の底は明かるい。光が柔らかくなり、物々の色が優しく、瑞々しい。読みさしの本を閉じた空気が満ちている。その雲の彼方では、戦争が始まっている。何と戦っているのか定かではないが、大風のように渦巻いている。
「はは、駄目だね。」課長がすとんと腰を下した。途端に内線が鳴りだした。私は跳びあがって電話を取った。机の端を握りしめ、課長の目が丸く見開かれている。
「はい、営業三課です。」笑いを堪えているので、声が裏返りそうだった。唇の端が痙攣した。
「はい。いらっしゃいます。お待ちください。」課長の方へ受話器を差し出した。「織田部長です。」
「はい。くっ。前川です。え?いえ、なんでもありません…」
課長は、笑いを抑えつけたので、鼻から変な音を漏らした。それを電話の向うの織田部長に聞き咎められたのだろう。私の方は、吹き出さないようにと手を口にあてていたが、もう鼻が思いきりひくひくしていた。涙が出そうにおかしかった。課長の額には汗が浮んでいた。
「ひゃー、びっくりしたぁ。」織田部長の電話を切ると、課長は高い声で言った。

 結局、課長に予知能力があるかどうかは、分からないままになってしまった。私は半分くらい信じていたかもしれない。課長が織田部長の事を話し出す。すると織田部長から内線がかかってくる。そんなことが確かにあったような気がする。
あれは、予知能力なんて言わなくても、前川課長の性格から説明できるんじゃないかとも思う。きっとそれまでに会議や立ち話で前振りがあったに違いない。「○○について×××したいんだけど、どうかな?」とか。課長のことだから、だいたいその手の話には「はい、大丈夫です。」と答えてしまう。相手ががっかりするのを見たくないからだ。それで課長の内では(あの仕事、振られるぞ)という身構えができて、課長に接触してきた人の行動パターンが思い出される。商品課の鈴木課長が内線でぐずぐず言いたくなる時間帯だ、とかだ。そうすると前川課長は、鈴木課長のことを話したくなってきて、そこへ実際に鈴木課長の内線がかかる。こんな具合だったのだろう。
 ただ、私たちのところへそれほど頻繁に内線がかかってくることはなかった。営業の織田部長、商品課の鈴木課長、経理課の平沼課長ぐらい。あと、商品が入荷した時に倉庫の担当者から確認の内線がかかってきた。一日一本、あるかないかだった。なにせ私達の営業三課は、忘れられた部署だったから。
こうなったのは織田部長の仕業である。
織田部長の前は遠山部長で、前川課長は遠山部長の派閥だった。周りはそう見ていた。課長自身は、派閥なんて夢にも思わない人なのに。遠山部長は急逝し、織田部長に交代して、前川課長は前部長派の残党みたいな扱いをうけることになった。
「遠山部長の遺志を継ぎつつ、僕の理想とする営業をつくっていきたい。」と織田部長は皆の前で宣言して、営業三課から仕事と人をどんどん減らした。故遠山部長と織田部長の間、あるいは織田部長と前川課長の間にしこりとなる過去の経緯があったのか、詳しくは知らない。案外何もなく、ただそんな流れになってしまって、周りも織田部長本人もそれに乗っかっただけなのかも知れない。
その時、前川課長は亡くなった遠山部長のことを考えていた。本人がそう言ったわけではなく、入社以来ずっと課長と仕事をしてきた私の目には、そう見えた。織田部長の理想が着々と私達の周りを侵食している時、課長は左腕を椅子の背にかけて、キーボードの上に視線をさ迷わせていた。たぶん、遠山部長のことを考えて。
遠山部長について、課長は「入社した時からお世話になった人だよ。」と言っていた。私は、入社試験の面接で初めて遠山部長に会った。遠山部長というとM字型に禿げあがった額を思い出す。だらんと垂れたような顔がその下に続き、低い声で「えっへっへっへ。」と笑った。遠目に見ているとそうでもないが、近付くと結構量感がある体型だった。「昼下がりのオランウータンが、ちゃんと背広を着てるみたいだよね。」と課長が言ったことがあった。私を笑わせようとしてくれたのだけれど、遠山部長を言い表わし過ぎて、パズルが解けたように私は納得してしまった。私が笑わないので、課長は少し残念そうだった。
遠山部長の家庭は、奥さん、働きだした息子さんと大学生の娘さんの四人だった。大田区のマンションの十二階に住んでいた。
四月下旬、疾い風の前触れが吹く夜、遠山部長の家族は、少し遅くなる息子さんを待たずに夕食をはじめていたと言う。課長によれば、部長の話題は家族のことが多かったそうなので、仲の良い家族だったのだろう。息子さんが帰ってきた頃には、和やかさも一層盛り上がったに違いない。家族の顔が食卓の周りに揃うと遠山部長は笑顔で、「これで全員だね。よし。」と言って立ち上がり、そのままリビングへ、ベランダへと出て、十二階から地上へ飛び降りてしまった。
遺書などはなかった。うつ病の薬を飲んでいたことが後で分かったそうだ。
その頃私は、うつ病のことをよく知らず、遠山部長の行動を納得できないと思っていた。何か隠された動機があるだろうと思っていた。社内でもそういう方向で噂話をする人がいた。仕事に行き詰まっていた、女性関係で悩んでいた、借金があった、会社の金を横領した、などなど。それらの噂話は、どれも根も葉もないもので、私はますます納得いかなくなっていた。それで一度、課長の前で自分のもやもやを口にしたことがある。
「納得いかないと言うけどさ、納得してどうするの?」珍しく目をそらして課長が言った。その頃はまだ、営業三課に他の人もいて、課長は彼等に気を使って低い声で話した。
「うつ病だったらしいよ。僕も、うつ病になったことが無いし、遠山部長本人じゃないから、言えることはここまでだと思ってるよ。」
私は、課長の言葉にたじろいだ。
「でも、うつ病って、隠し通せるものなんですか。」
「さあ。遠山部長の性格を考えると、家族に心配させるのが辛かったんだろうね。」課長は私の表情を見た。「納得いかないかい?」私がうなずくと、課長は続けた。
「うつ病のこと、調べてみたら?僕は、病気と遠山部長の間に都合の良い説明を置くより、部長のことを思い出すことにするよ。」
課長の唇が固く結ばれ、顎の筋肉が浮き上がったのが見えた。私は自分が嫌になって、かなり落ち込んだ。

 遠山部長の死後、課長は流れから半分だけ身を引き抜いた。まだ半身は流れに任せながらも、あとの半身は向こう岸に気を取られていた。それは、表面だけなら、思い出に縛られている様子と区別できない。前川課長は故人の追憶に足をとられて、会社の隅に追いやられた、と取る人もいた。が、遠山部長に対して課長はそんなに湿った感傷を抱いてはいなかったと私は思っている。別の水位で、別の姿勢で、課長は遠山部長のことを考えていたと思う。

 それまでの課長はどんな感じだっただろう。
私が短大を卒業した新入社員で、研修を終えて配属された時、私を「小川葉子さんです。」と三課のみんなに紹介した、その声を思い出す。それは、すぐ近くで、あまりにも近くで聞こえ、とんと背中を押された気がした。その瞬間、白昼夢から引きずりだされ、ようやく自分の周りが見えるようになったみたいだった。
「小川さん、あれ、どうしたんだっけ?」
「あれは、どのあれですか。」
「どれだっけ?」
「知りません。」
毎日繰り返される、空気の流れのようなやりとり。でも、その日によって少しずつ違った。多分、課長と私だけが分かっていた違い。声の大小、高低、息遣いと間合い。はぐらかしたり、うまく合わせたり。あのやりとりの間、私は課長の声に耳を傾けていた。
それは、通り過ぎた雨の匂いに似ている。近づくと表面が滑らかで、冷たい感じがする。その先の奥行きは広く、掠れたりひび割れたりせず、課長の胸郭の熱が伝わる。
寡黙な人ではなかった。冗談や無駄口が大好きだったのに、おしゃべりの印象を与えなかった。自分から話題をふることが少なかったせいだろう。また、息を止めるようにして相手が話しだすのを待つ様子があったからだろう。
仕事の連絡に関しては、手際よかった。新入社員の頃、感心して、そのきびきびとした話しぶりを真似しようと、課長の話を漏らさずメモし、その話題の組み立て方をずいぶん勉強した。一方で、込み入ったことを語るのも好きなようで、そういう時は自分のペースで話しすぎることがあった。繰り返しを嫌がって、同じことを言わされるようなことになるとイライラしだした。そのくせ、自分の込み入った話に他人が苛立っているとは思いもしないのだ。
三課のメンバーの課長に対する評価のひとつは、「課長の話はくどい。」というものだった。
営業三課は、一番多い時、課長を含めて六人で構成されていた。女性が私の他にもう一人、植野さん。植野さんは課長の話のくどさに対して一番愚痴を言った。
「丁寧なのはいいんだけどさ、夢中になっちゃうのが良くないのよねぇ。途中で話の本筋を忘れて、あれ、なんの話でしたっけって、お客さんも呆れちゃうのよ。なんなの。細かいことを話しだすと、その、細かいことを話していること自体が課長のテンションを上げて、余計細部に迷い込むのよ。側で聴いてるとイライラするの。」植野さんはそう言った。丸顔でころっとした感じの女性だが、植野さんの口からは辛辣な言葉が山崩のように撒き散らされた。植野さんは、課長の話だけではなく、他にもたくさんのことにイライラした。営業三課から他の部署に移動することになったとき、「前川課長があんな風じゃねぇ。仕方ないというものよ。残念。」と疲れた目をして言った。
営業三課は部の中では新しい課だった。ドイツで作られている特殊な計測器を輸入して売ることがそもそもの業務とされていた。新しく置かれた部署なので、私以外は全員他からの移籍だった。その中で、内海さんが一番年長で、前の部署の頃から課長と一緒に仕事をしてきていた。内海さんは、課長のことをこう言った。
「とりあえず真面目な人ではあるな。だから、これといったエピソードもないんだ。入社した頃は大人しかったってよ。鍛えられて営業マンになった人かね。それ以外は、実際とらえどころのない人だな。休みの日とか何してるのか、いまだによく分からないんだ。何が趣味なのかなあ。聞いたことあるような気がするんだけど。」課長がドイツのメーカーの所へ長期出張している折のことだ。植野さんもそこにいて、私たちは椅子を回し、内海さんを囲んで話を聞いていた。植野さんは、内海さんの言葉に「ああ、そうだわね。」と頷いた。「休みの日に何をしているのか分からない」という言葉が私の耳に残った。
それからだいぶ経って、課長と二人きりになった時私は、「休みの日に何をしているのか」を課長に直接聞いてみた。
その日、私たち以外の課員は皆営業に出かけていた。
春先の陽が射して、机の上に置かれた書類が白く光って見えた。当時の営業三課の部屋は、後に課長と私だけになってから移らされた部屋の四倍はあった。片側に大きく窓が開いて明るい。事務机が六つ、向かい合わせに置かれて長方形の島となっていた。入口から奥の端が課長の席で、その対角線の端が私の席だった。机の上には、PCのディスプレイが背中合わせに並び、その間に電話機やファイルが置かれている。植野さんの机はさっぱりと片付いている。書類を積み上げがちな横山さんは、そんな植野さんの机を見る度に、「お亡くなりになったみたいだ。」と冗談を言った。その横山さんが、溜まった書類を整理するために座るのが野添さんの席だ。男性の中では一番年下の野添さんは月の半分以上外出していて、大抵そのまま会社には帰ってこない。北関東の顧客を担当しているからなのである。
その野副さんに頼まれていた見積書をメールに添付して送信し、顔を上げると、課長がこちらを向いていた。課長は私を見ていたわけではなかった。こちらの方を見て考え事をしていただけだったようで、私には気づかず、視線を滑らせて下を向いた。キーボードを叩く音が歩き出して、また立ち止まった。両手をキーボードから上げ、伸び加減に頭の後ろへと回して組み合わせる。「ふーっ」とため息をついてから、私の視線に気づき、目だけで「何?」という表情をしてくれた。
「課長。」
「はい。」
「もう週末ですね。」
「ああ、そうだね。」
「課長のお休みは、どんな風なんですか?」
「ええ?」
「内海さんたちが、課長のお休みの日の様子が想像つかないそうです。」
課長は笑った。
「普通だよ。」
「遅くまで寝ますか?」
「いつもよりはね。」
「何をして過ごすんですか?」
「一人暮らしだと、やらなきゃいけないことがたくさんあってね。」
課長は独身だった。結婚歴はなかった。
「洗濯とか掃除とか、さ。君も同じだろう?」
「はい。…土曜日はそれで潰れますけど、日曜日は好きなことができます。」
「何をするの?」
「え?…いろいろ、と。買い物へでかけたり。絵を観に行ったり。」
「ああ、小川さん、学生の頃絵を描いていたんだっけ。やっぱり展覧会とか行くんだ。」
「はい。観るのも好きですから。」
「ふーん。」
「どんな絵が好きなの?」
「どんな、ですか?…そうですねぇ、…少し白っぽくなった海辺の小屋とか。」
「潮風にさらされて?」
「そうです。」
「潮に洗われた木切れは、骨のようになるよね。」
「あの感じが好きです。」
「そう。」
課長は、頭の後ろに回していた手をキーボードに戻すと、ディスプレイに顔を寄せてキーを打ち始めた。もう話は打ち切りなのかと思っていると、入力を続けながら言った。
「大学に入る時に大分からこちらへ出てきて、もう二十年くらいになるのかなぁ。一人暮らしもこれだけ続くと、生活のパターンが出来上がっていて、土日もほとんど意識せずに同じことを繰り返しているんだ。いつも通りが安心する面もある。だから、はっと気がつくともう日曜の夕方なんてこともあるよ。」
「出掛けたりしないんですか?」
「実はね、飛行機を見るのが趣味で、羽田や成田へ行くんだ。」
「お一人ですか?」
「いや、他にも飛行機が好きな友達がいて、そいつらと行く。」
「飛行機を見る趣味かぁ。初めて聞きました。」
「飛行機を見てると楽しいよ。僕はただ見てるだけだけど、仲間には写真を撮る人もいる。」
「飛んでいるのがいいんでしょうか?」
「飛んでいる姿も、地上にいる姿もいいね。陽が強い時は、主翼が作る影がエプロンにくっきり映って、とても綺麗なんだ。それに飛行場は目を遮るものがなくて、そこも好きだよ。」
「音は?音が凄くないですか?」
「確かに。あの音が好きなやつもいるけど、僕は気にならない程度かな。」
私は、羽田の飛行場を思い出そうとしてみた。機種を斜めにして空を上がっていく飛行機を思い浮かべた。鳥は空に住んでいる。飛行機は空の道を迷っている。
課長はもう自分の仕事に戻った。私は、ディスプレイの脇に見えている課長の肩の線を見た。ワイシャツのシルエットが飛行機の翼に似ていなくもない。課長と私は、浮かんでいる机の島にしがみついているようだった。その島は何の上に浮いているのか、下は視界から逃れていた。

 内海さんが最後に営業三課を出て行った。課長と私の二人だけになることが決まると、部屋の引越しの指示が降りてきた。私たちだけ別のビルの一室へ移動することになった。
引越の荷物はそれぞれの私物と、段ボール箱三つほどの書類だけだった。仕事がどんどんなくなったので、課に置いておかなければいけない物も減っていた。
荷造りの時、課長は「いい機会だから、捨てられなかったものを捨てる。」と言って、自分の机の中の殆どをポンポンと捨てていた。引き出しの奥から昔の企画書がいくつも出てきて、「はぁー!真面目に仕事してたんだなぁ。」と笑った。他にも、会社の慰安旅行の写真が出てきた。「小川さん、小川さん、見てご覧。」と、写真を見つける度に私を呼んで、他の課長たちの若い姿を見せてくれた。そこには、課長になる前の課長の姿も当然写っていた。それは、私の知らない姿だった。体型などはあまり変化なく、髪の毛がずっとふさふさしていて、笑顔がずっと恥ずかしそうだった。この人はどんなことを感じていたんだろうと、私はじっと写真を見た。私の知らない課長がいて、何かを感じ、何かを思っていた。その時の課長のことは、誰にも開けられない箱となった。その痕跡だけが、写真に拙く残っていた。
引越しを始めると、元営業三課のメンバーが手伝いに来た。内海さん、横山さん、植野さん、野添さんと順々に現れて、段ボール箱を運んだり、後片付けを手伝ってくれた。みんなニコニコと笑いながら、でもあまりおしゃべりをせずに働いた。全部運び終わると、誰が言うともなく、元の営業三課の部屋に集まった。空っぽの棚、空っぽの書類キャビネット。部屋は軽くなっていた。僅かな風でも、通り抜ければ、かたかたと溜息をつきそうだった。卓球台みたいになった机の島を皆で囲んで立った。ケーキに立てられた蝋燭になった。
「ああ、終わったね。」ワイシャツを腕まくりした課長が口を開いた。「みんな、ありがとう。」
「この部屋は、どうなるのかしら。」植野さんが言った。
「会議室になるんだそうですよ。」野添さんが答え、「それは助かるね。お客さんが来ても部屋が空いてなくて困るんだよな。」と横山さんが引き取った。
「別に部屋を借りるくらいなら、ここをそのまま使わせてくれればいいのに。」植野さんが、ふんと鼻を鳴らした。
「机や書棚は総務の方で片付けてくれる。」課長が言った。「さ、みんな、仕事に戻ってください。どうもありがとう。」
野添さんを先頭に、みんなはぞろぞろと部屋を出て行った。さらりとしたものだった。

 課長と二人きりになると告げると、同期の加茂澄子が心配した。
「それってさぁあ。」紙パックの野菜ジュースをストローでぐっと一息飲んでから、澄子は続きを言った。「独身男と二人きりってことじゃん。」私たちは会社の裏にある公園でお昼を食べていた。
「そうとも言う。」
「えー、えー、えー。」
「何か?」
「大丈夫なの?葉子ちゃん、大丈夫なの?」澄子の言葉は、セリフの棒読みのようだった。
「何が、よ?」
「だって、課長と二人きりだよ。あぶないって。」
「なんでよ。何があぶないのよ。」
澄子がストローを咥えた唇に力を入れ、ズ、ズコココォと頬を凹ませて吸うと、紙パックのお腹がぺこっとひしゃげて少し身を捩った。
「あぶないわよ。男女の間は予測不可能よ。」
「あら、それは体験に基づいた忠告なのかしら。」
「まあそうね。ふん。」澄子は、下唇を突き出した。
澄子は、妻子ある男との関係に入社早々はまったのである。相手は新入社員研修の時の教育係だった。二人きりになったのがきっかけではなかったようだが、傍から見ていた限りでは、のぼせ上がったのは澄子の方だ。三年くらいは続いたのだろうか。結局、男は家庭を取り、彼女の恋は終わった。そのすぐ後に男は仙台の営業所へ異動になり、澄子も転属になった。「意外に社内で知れ渡っていたようね。それにしても、この会社が古臭い体質だということが分かったわけよ。今どき不倫で飛ばされるなんて、バッカじゃないの。」当時、澄子はこう言った。ふるふる揺れる涙を零しながら。
「私、騙されたのかしら。」涙の粒が次から次に澄子の頬を転がっていった。
「さあ。免疫がなかったのかもしれないわね。泣かないでよ。」その時も、澄子は下唇を突き出した。しぶしぶだけれど私の言うことを認める、という表情だった。
「そうね。そうかもしれないわ。女だらけの中高一貫校、そのまま女子大へエスカレーターだもん。男と知り合うチャンスなんか殆ど無かったもの。ある意味変態環境だもの。」ポケットティッシュを取り出すと、少しあぐらをかいた鼻をおもいっきり音を立ててかんだ。衝立の向こうで人の顔がひょいと伸び上がった。澄子の鼻をかむ音がすごすぎて、驚かせたようだった。行きつけの居酒屋の、衝立で仕切られた座敷席で、モツ鍋をつつきながら私は澄子の話を聞いていた。女二人でのモツ鍋はいささか持て余し気味だったと思う。
「こうなったのも家の親のせいよ。親が甘やかしすぎたのよ。」
澄子の親は歯科医で、練馬に住み、四谷で開業していた。弟が一人いて、そちらの方は歯医者になるべく歯科のある大学で勉強中だった。少しだけ金銭的に恵まれた家庭環境と愛情という名のエゴを、澄子は「親が甘やかしすぎた」と表現するのだ。
「情報はどんどん入ってくるわけよ。女の子はメディアの刺激と退屈にさらされているの。まして、東京っていうところはさ、メディアが形になったような街じゃない。そういうところをかいくぐって、学校に通うでしょ。スレない方が変だって。でも、親はさ、娘の幸せを願うのと自分の欲望を取り違えてさ、あまーい粘膜で包み込もうとするわけよ。その結果の選択が、女だらけの十年間。頭でっかちになって、いびつな思春期を送って、免疫もなくなるわ。」
「そうなの。でも澄子さん、親の収入が多いのを結構利用してるんじゃないの?学校だって、それなりに楽しかったんでしょう?」
「あああ。言われちゃった。葉子ちゃんに言われたら、反論できないじゃないのぉ。反則よ。母一人娘一人で暮らしてきて、頑張ってるあなたから見れば、私の言う事なんて甘いわよねぇ。笑うんでしょうねぇ。」
「そんなこと言ってないけど。それぞれ事情があるからね。澄子ちゃんの家、キレイで、みんな面白いから好きよ。会社に入ってすぐ男の人を好きになったのは、親のせいじゃないと思うわ。」
涙がふたたび澄子の目から溢れ始めた。
「でもね、でもね。葉子ちゃん。ああいう人、はじめてだったの。」
箸を持ったままテーブルに肘を付き、澄子は座りなおした。大柄で、どこもかしこもパンと張って、凹凸のはっきりした澄子の体は、一見固く締まっているようなのだが、体が動きだすとふんわり複雑な曲線を描く。その魅力を相手の男が知っていたことは間違いない。その男の方は、白目のくっきりした、角張ったところのない人だった。澄子と別れた後、仙台に飛ばされる前、旗でも立つほど落ち込んでいた。そもそも不倫などは、柄に合わなかったのだろう。
男とのごたごたが終わると、澄子は私と遊ぶようになった。私たちは入社当時からうまが合って、お昼はいつも一緒、仕事が終わってから映画を見に行ったりしていたのだが、それが休みの日も一緒に遊び回るようになったのである。澄子は美術館へもついてきてくれた。私が一番好きな都の現代美術館へも行った。彼女は、どんな絵を前にしても素直に観ようとして、私の感想に熱心に耳を傾けてくれるのだった。
「絵を見ると、どこかが洗われた気がするね。」澄子はそう言って、私と一緒に絵を観ることを喜んだ。
私と加茂澄子の間に濃さはなかった。つまり高校時代から続いている友情のような濃さはなくて、クラゲとクラゲが手を触れあわせながら、波間をゆらゆら漂っているみたいだった。足先の、二三メートルほど下には、冷たい藍色の淵が深まっていても、背中は海面を温める日光を常に感じている。
その加茂澄子が、私と課長の関係を心配したのだが、その時私は、とりあえず「取り越し苦労よ。上司と部下よ。それに前川課長は私のタイプじゃないもん。向こうも私なんかに興味ないでしょ。」と言っておさめておいた。
課長が独身であることについては、女子社員の間で話題になったことがある。課長は女子社員の関心を引くような人ではなかったが、独身である点だけは彼女らの網に引っかかったのだ。網から持ち上げられると、ごくあっさり検分されて、そのまま海に帰された。
「三課の前川課長も独身でしょ。」
「ああ、そうだね。でもなんで独身なんだろうね。」
「結婚するにも運が必要ってことかしらね。」
「そうかもね。」と、こんな具合だ。課長の結婚運はもう尽きていると勝手に決めつけられているのがおかしかった。

課長と二人きりの職場は、なんだか、回り澄んでいるコマの、心棒の天辺にいるようだった。あの頃、課長は一日も休まなかった。私が休暇を貰い、澄子と海外旅行へ行っても、課長は働いていた。お土産に買ってきたマカデミアナッツ一箱を二人で分けて、「さすがにこれだけ食べると、飽きるね。」「吹き出物ができそうです。」と笑った。
予算だとか、売上だとか、人事考課だとか、押し寄せてくる波もあったけど、課長と私は、「どうしようか?」「どうします?」と内緒話でもするようにやり過ごした。
私たちは話した。暇にはほど遠いくらいの仕事はあったにもかかわらず、本当によくおしゃべりをした。飛行機のことも、絵のことも、遠山部長のことも、私の父のことも。色んなことを話し、耳を傾け、感心したり、微笑んだり、声を立てて笑ったり、また、お互いに黙りこくって、それぞれの考えを追ったりもした。また一時期は、コンビニで買えるお菓子にはまった。新製品が出るたびに買ってきて、二人で食べては、ただただ笑い転げた。「ああっ、これは!課長。」「うん、うん。」「ねぇ、おいしいですよ。」「おいしいね。」そして笑うのだ。目を合わせ、おいしそうに食べている相手が面白くて。
加茂澄子と同じように、課長を展覧会に誘ったことがある。課長は、「お、おお、誘ってくれるの?」と笑った。
「うれしいなあ。」
「金曜日は八時まで開館してるんです。だから、今週の金曜日はどうですか。あまり大きな展覧会じゃないんですけど、ラ・トゥールという人の絵が観られるので。」
「仕事帰りに観られるんだ。いいね。金曜日、ご一緒させてください。展覧会の後に食事でもどうですか。二人だけだと飲み会とか行かなくなっちゃったし、たまには、仕事場の外で話しましょう。」
私は少しどきりとした。
「ラ・トゥールって、どんな絵を描くの?絵のことは、全然知らなくてさ。」
「フランスの十七世紀の画家です。二十世紀になって再評価されたんです。」
「好きなんだ?」
「ええ。残っている作品は少なくて、その中でも夜の場面を描いた絵が印象的なんですよ。『夜の画家』って呼ばれるそうです。光と闇のコントラストがすごいんです。光が闇を引きつけて、闇をまとっているようです。マグリットの『光の帝国』という作品と通じ合う所があると思うんですよね。あの雰囲気がもっと触れるくらいになったのがラ・トゥールじゃないかな。観ていると、時間が消えてなくなる気がする。」
予想はしていたけれど、やっぱり課長は私の顔をじっと見ていた。私が黙ると、課長は「おや」という顔をしてから「どうかした?」と訊いた。
「いえ。私が説明するより、実物を見たほうがいいですよ。」私は言った。課長の目を見つめながら。
「じゃ、金曜日に。」
「はい。」
結局その金曜日は課長に急な仕事ができて、一緒にラ・トゥールを観に行くことはできなかった。私は一人で上野へ行った。ラ・トゥールの〈夜〉の前に立つと、〈夜〉を見ているのではないと思った。分かちがたい光と闇に立ち会っているのだ。その場所は、回転する独楽の、心棒の天辺みたいに澄んでいる。

 二人だけとなっても、課長が出張することもあれば、私が外出することもあった。
その日課長は「今日は僕がお留守番するよ。」と言って、以前課長と仕事をしたことがある人の処へ資料を届けてきて欲しいと、書類封筒を私に差し出した。メールで済みそうなものなのにと思っている側から、「借りていた会員名簿なんだ。現物だから。」と言われた。
「郵送ではいけないんですか?」
「ちょっと間があいてしまって。お詫びの手紙をいれといたから、届けてくれないかな。」
その時、どことなく座りの悪い感じがしたと思う。
建物の外へ出ると、絞られるように寒気に包まれた。空は高く、雲の気配さえなく晴れている。高低のビルがその空に噛み込み、複雑な稜線を、研磨されたような青色が際立たせていた。
神田の駅まで私の足で十分はかからない。道すがらまんべんなく陽は差していたが、透明な紗をかぶせたくらいの感じで、暖かくなることはなかった。
神田から銀座線に乗り、日本橋で降りる。高島屋の地下を抜けるとき、パン屋から溢れる、うっとりするほどの香ばしさに足を止められそうになった。お土産に買って帰って課長と食べようと思うと、地上に出るときにはうきうきしていた。
五分も歩くと目的地にたどり着いた。真新しく、大きなビルだった。ロビーに入って、壁に掲げてある案内板を確かめる。八階に相手の会社の名前があり、社名の前に一段小さな文字で「Webソリューション」と書いてあった。つまり、インターネットのWebサイトにまつわる仕事、デザインであるとかシステム開発であるとかを請け負っている会社というわけなのだろう。課長との間をつなぐ線が想像つかなかった。
受付で、「藤谷さん」という相手の名前を告げると、パーティションで仕切られた会議室らしき部屋へ通され、一分と待たずに当人らしき男性が現れた。私は調子が狂って、バッグから名刺を取り出すときに慌てた。受付で挨拶をし、預かってきた書類を手渡して終わりだと思っていたからだ。
「前川さんはお元気ですか?」私の前に座った「藤谷さん」は、三十代前半くらいの、口の大きな人で、くっきりした笑顔で話しかけてきた。
「はい。」
「そうですか。会いたいなあ。」ほっそりした目と骨が厚い鼻梁の線が裏を感じさせない。ふさふさの尻尾をつけたら似合いそうだ、と思った。
藤谷さんは、私の前で書類封筒を開け、中の物を取り出した。が、それは名簿のような冊子ではなく、クリアファイルに挟まれた書類だった。他に、課長の手紙らしい紙が一枚。その手紙に目を通すと、クリアファイルの中を検めだす。
「ははあ。小川さんでしたっけ?」
「はい?」
「小川葉子さん。」
「え、はい。」
「僕、藤谷貴です。」互いに名刺を交換したはずなのに名乗った。「前川さんと一緒に仕事をされてるんですか?」
「はい。」自分がさっきから「はい」しか言ってないことがおかしくなってくる。おしりがむずむずしてきた。
「前川さんは大学の時の先輩なんですよ。同じ研究室でした。前川さん、変わってるでしょう?変人ギリギリだったんですよね、大学の時から。いや、もう変人の域かもなあ。」
「そうですか。」
「僕は仲良くさせてもらってて、結構色々遊んだなあ。」
「お仕事の関係ではないんですね。」
「いえいえ。大学を出てから、定期的には会っていたんですけど、このところ間が空いていました。四年ぶりぐらいですかね。いや、五年になるのかな、んんん、やっぱり四年ですね。」
「以前お仕事をご一緒したことのある方だと聞いてきたものですから。」
「あ、そうか。前川さん、嘘をついたんですね。ははは。」野原を風がひと撫でするような笑い方だった。
「なんで嘘をつく必要があったんでしょう?」
「あなたを驚かせるつもりだったのかなあ。あの人、ひとの驚く顔が好きですからね。僕なんか、後輩なのに誕生日プレゼントをもらって面食らったことがあります。」
課長がついた嘘は少しも気にならなかった。課長のことを話すときの相手の笑顔がうれしかった。大学の時の後輩ということは、課長より少し年下になるので、最初の印象は若く見えていたことになる。それから、藤谷さんの耳が私の目を引きつけていた。少しウェーブがかった髪の毛を逆らわずにまとめ、そこにのぞいている耳は、きりっとした形をしていて、何より清潔そうに見えた。
「まだ、時間ありますか?」
「え?」
「こんな会議室ではなんですから、外でコーヒーでもいかがですか。前川さんに関わりのある人間同士ということで、もう少しお話ししましょうよ。」
「はぁ。」胸の内に言葉が浮かぶ前に、こくりと頷いていた。
私たちは近くのスターバックスで一時間ほど話し込んだ。藤谷さんは話すときの息遣いが絶妙な人だった。息を自在に操って、柔らかで疾走する話し方をした。私は、私自身のことを、自分でも驚くほどに話した。課長を肴に、笑わせられながら。それで、藤谷さんと別れると、相手が自分のことをそれほど話していないのに気がついて、ずるいと思い、今度は自分のことを話させてやらなければ、と思っていた。
その日の後も二三度、課長は藤谷さんのところへ行く用事を頼んできた。言い添えられる用向きは、都度違っていた。それを追求することもなかったし、課長に真意を聞くこともなかった。藤谷さんと会うのが楽しみになったせいもある。やがて彼の方から誘ってくるようになって、週に一回は一緒の時間を過ごした。
私たちが付き合ってることを課長には言わなかった。藤谷さんにその事を聞いてみると、「いや、前川さんには話してないよ。言ったほうがいいかな。」と答えた。
「黙っておいて。」「うん。」のやり取りだけで、私たちは納得した。
課長が私のことを藤谷さんにどう言ったのか、知りたい気もあったが、それも聞かないでおこうと思った。
課長の気持ちと私の気持ち。それらが精密に切り出された石の立方体となって、砂の海底に沈んでいた。やがて時の力によって砂塵が舞い立ち、光を閉ざす雲と広がり、石も海底も覆ってしまう。

 一年が経った。
課長と私は、窓辺で外を見ていた。二人並ぶと肩が触れそうだった。
どこか近くで、トラックから荷物をおろし終わり、扉を閉める「ギィ」という音がして、昼休み前の静けさが訪れた。
窓の外には、大小のビルが押し詰まったように建っていた。そこへ春の陽射しが差している。もしも鳥だったら、我知らず囀りだし、そのままいつまでも唄っていたくなるような陽射しだ。でも、そんな陽を浴びているビルはどれも、冬を耐えるのに疲れた様子だった。中央通りと昭和通りに挟まれたそのあたりは、丸の内や秋葉原が再開発されたのに比べて、驚くほど取り残された顔をしている。
「神田のここいら辺は、あまり変わらないなぁ。」課長が呟いた。
「一駅違うだけで、全然違いますよね。」
「ずっと、このままかな。」
「このままがいいんですか?」本当に小さな声で私は言った。返事はなく、課長の横顔がすぐそこにあった。目を落とすと、窓枠に置かれた課長の手が見えた。握力は強そうなのに、何かに気を取られて、大切なものを掴むのを忘れたような手だった。
「昨日は、ありがとうございました。」私は、昨晩の送別会の礼を言った。元営業三課の面々が集まって、三月いっぱいで辞める私の送別会をしてくれたのだ。
「いえいえ。お幸せに。」こちらへ顔を傾けて、にっこり課長が笑った。私は、藤谷さんと結婚することになって、会社を退職することにした。辞める理由は何もなかったが、あまり考えずに退職願を出した。藤谷さんは、「君がそうしたいなら、いいさ。」と言ってくれていた。
「でも、君が辞めると寂しくなるよ。」
「課長、いろいろありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとう。」
「やめる前にひとつ、質問していいですか?」
「はい。」
「遠山部長が亡くなってから、何を考えていましたか?」
「ずっと考えていて、目を逸らしていたこと。」課長は、外の景色に視線を戻して、割と躊躇なく答えた。
「それは?」
「僕がいなくなってしまった後の世界の様子。僕という存在が消え去った後、この世界はどうなっているんだろう。君や、僕の知り合いはどうしているだろう。そんなこと。」
「それが、ずっと考えていて、目を逸らしていたことですか?」
「そう。子供の頃から、それが僕の大問題だったんだ。でも、考えるのは怖くて、ずっと目を逸らしていた。」
「考えて、どこかにたどり着きましたか?」
「いいや。まだ、何も分からない。どこへもたどり着かない。」

 会社を辞めてから一年ほど後に、パートタイムで働き出した。それが一年。そして子供ができて、目が回るような毎日になった。
加茂澄子は、時折連絡をくれていたが、私に子供が出来た頃に転職して、互いの環境の変化と共に疎遠になった。
夫は職場での交友関係もあって、大学の時の先輩については、さほど気にかけていない様だった。また、何よりも、子供が二人の生活の中心となって、私たちの目にはそれ以外のことが映りにくくなっていた。私は課長のことを忘れかけた。
息子がもうすぐ三歳になる頃、ふとした拍子に夫が課長のことを口にした。
「前川さん、どうしてるかな。」
「連絡とってないの?」
「いやあ、全然。」
「冷たいわね。」
「前川さんがいなかったら、僕達、ここにこうしていなかったろうし、この子もいなっかたろうね。」
「最初に会った時、私が持たされていたのは私のことを書いたものだったんでしょう?」
「お、知っていたのか。前川さんが書いた君の紹介状だったよ。その前に電話であらかたは聞かされていたけれどね。」
「なんて書いてあったのよ。」
「君が入社の時にあの会社に出した履歴書の内容と、前川さんの人物評だった。」
「私には仕事の関係で借りていた名簿を返してきてくれといったのよ。」
「とっても真面目で、可愛らしい人だと書いてあった。」
「それだけなの。課長も人を見る目がない。」
「結婚式にも来てくれた。」披露宴の時、課長はお酒を飲んだ真っ赤な笑顔で、私の目を真っ直ぐ見つめていた。「子どもができた報告はしたんだっけな。」
「多分、してない。」
「そりゃあ、失礼してるね。」そのまま夫は黙った。失礼しているから電話でもしなければ、という言葉は出てこなかった。
「前川さんて、人を寄せ付けないところがあったんだよね。目の前にいる僕達には興味がなくて、どこか遠いところに注意を取られている感じがした。あれじゃ、駄目だと思った。」
「駄目?」
「うん。人付き合いができなければ、やっぱり駄目だよ。」最後の「駄目」は、押し付けるようだった。課長が目の前の人を見ていなければ、夫も課長を見ていなかったのかも知れない。

 それから私は、ある日思い立って、子供をベビーカーに乗せ、神田へ行った。バランスを取った天秤が、ぴたりと静止したような秋の日だった。
JRの駅前は、すっかり店が入れ替わっていたが、それでも街の顔つきは前のままで、平日の昼前にベビーカーを押しているのは、さすがに私だけだった。
中央通りから外れると、急にざわめきが遠くなる。
会社に寄るつもりはなかったが、ビルの前まで行ってみることにした。
会社の名前は見当たらなかった。
課長と私、二人の営業三課があったビルの方へも行ってみた。
そこは、建物すら無くなって、駐車場になっていた。今は、車が一台も停められていない。コンクリート敷の白っぽい四角な空間がただぽかりとあるだけだった。
私は、息子をベビーカーから抱き上げた。見慣れない風景に目を輝かせている息子に笑いかけ、小さな体に頬を寄せた。その儚いぬくもり、しかし今この現在には、確かに腕の中にあるぬくもりに私の方がしがみつくように。
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