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「レディ・プレイヤー1」スティーヴン・スピルバーグ監督 [感想文:映画]

 「世界」を救うために世界の「創造者」によって隠された「イースター・エッグ」を探す映画。映画、アニメ、ゲームといったポップ・カルチャーのアイコンが画面の至るところにばら撒かれ、引用されていて、バックグランドを共有している観客にとっては楽しくてしかたないはず。だが、何も知らなくても怖くはないだろう。山盛りの内容がスピルバーグの欠点=冗漫さを減殺して、良い所だけが残った。ポップスを音楽に使ったのも効果的だった。騒々しくオーケストラを鳴らすスピルバーグ監督の悪い癖を隠した。それだけでなく、映画のテンポにタイトな印象を与えてもいる。技術的な挑戦も含めて記念碑的な作品であることは間違いない。なんと言っても、ずっと映画に浸っていたいなら観逃がすわけにはいかない傑作だと思う。
 さて、映画を物語「世界」と見なすなら、その「イースター・エッグ」は作者のメッセージということになる。作者のメッセージを見つけた者だけが、その「世界」を救うことができる。「イースター・エッグ」の来歴自体は、女の子にキスできなかった思い出や、親友との仲違いといった、作者の極く個人的な体験にその鍵を持っている。しかし、「イースター・エッグ」を見つけるには、ただそのストーリーを追う=ゲームを勝ち終えるだけではだめなのだ。画面を隅々まで隈なく探索し、隠れたドットを集めなければならない。ポップ・カルチャーのアイコンを知らなければ、調べて知らなければならない。「シャイニング」を観たことがなければ観なければならない。それは、古きをたずねて新しきを知ることとなんら変りがないのだ。そうやって目を見開いた者だけが「イースター・エッグ」を手に入れることができる。心を開いて「世界」とつながることができる。そのつながりの真実は「リアリティだけが現実だ」ということ。実写だろうがCGだろうが、ゲームの体験(エクスペリエンス)だろうが関係ない。「リアリティ」だけが「リアル」なのだ。虚構だって「リアリティ」があれば「リアル」になる。「レディ・プレイヤー1」という映画が虚構なのに、VRと現実みたいな単純な紋切り型でこの映画を観てくれるな、とスピルバーグ監督が言っている。画面で表現した「リアリティ」を観てくれ、と言っている。それを観てくれた観客に対して作者が言いたいことは、とどのつまり、「僕のゲームを楽しんでくれてありがとう」に尽きるのだろう。それは、喩えようもなくあたたかな、喜びのメッセージである。

「BLAME!」瀬下寛之監督 [感想文:映画]

 この映画に登場する人物たちの名前を呟いてみよう。霧亥(キリイ)、シボ、づる、捨造、タエ、フサタ、アツジ。なんと「奇体にも懐しい名前」(大岡信『地名論』)なんだろう。この命名のセンス、懐しくありながら耳慣れぬ、時間の流れのどこかに位置しているとハッキリ分っているにもかかわらず、今誕生したように奇異な造形のセンス、これこそが弐瓶勉の「BLAME!」を圧倒的な作品として屹立させているものなのだ。それを一言で表すなら、もうただただカッコイイのである。そのカッコイイコミック「BLAME!」をフルCGで映画化した瀬下寛之監督の「BLAME!」は、あの「BLAME!」が動いている、と思わせてくれる、徹頭徹尾カッコイイ映画だった。弐瓶勉の描くアクションは荒々しいまでにノイジーだが、それを瀬下監督は組み立て直し、動かし、宇宙の軸を轟かせる破壊のカタストロフにしてくれている。
 その轟く破壊の中に、茫然と、茫洋と、寡黙に、孤独に身構える霧亥は無茶苦茶カッコイイ。胸の奥から漏れ出て口にしてしまうほどカッコイイ。霧亥が探しているのは、「感染」前に誰もが備えていた「ネット端末遺伝子」を持つ人間である。人類はそれによって「ネットスフィア」に接続し、都市をコントロールしていた。が、「感染」後、人間は接続を失ない、そのコントロールから放たれた都市は自己増殖し、途方もなく巨大な階層都市へと変貌してしまう。垂直と水平の果ての果てまで広がった都市は、皮肉にも人間を不法な侵入者として「セーフガード」によって駆除し、排除しようとする。主の座を追われ、文明を失なった人間は、ドブネズミのような異物扱いなのだ。だが、廃墟と構造物のアマルガムである超巨大階層都市こそ異物そのものである。その異形の風景には、内部もなく、外部もない。延々と続き、重層している。下方遥かに闇に没する。頭上彼方も闇に溶け、水平の果ても闇に沈んでいる。アリス症候群の眩暈を引き起こす迷宮だ。映画はこれを痺れるほど丁寧に描いてくれている。この迷宮の荒野を旅する霧亥は「重力子放射線射出装置」という究極の武器を携えたガンマンだ。つまりマカロニウェスタンでクリント・イーストウッドが演っていたようなガンマンなのだ。カッコ良くないわけがない。それに「重力子放射線射出装置」とその発射の描写は美しく、文句なしである。
 マカロニウェスタンのガンマンなどというまたしても懐しいイメージを喚起しながらも、そこに新鮮な造形が対置されている。それがシボとサナカンという美少女キャラクターだ。シボは骸骨まがいの腐れたトルソーとして現われ、その意識を新しい体にダウンロードして、でっかい女の子になる。その人形的な奇怪な造形がぞくぞくさせてくれる。特に爪先は堪らない。サナカンの方はシヴァ神として殺戮の限りを尽す。恐しい。
 さて、このカッコイイ映画を試写会で観ることができたのだが、上映後の試写会場に湧き広がった拍手のことも記しておこう。その拍手の意味は、よくやった、素晴しい、いいぞ、など様々にあるのだろう。私にとってそれは、「ありがとう」である。

「この世界の片隅に」片渕須直監督 [感想文:映画]

 こうの史代の漫画「この世界の片隅に」を原作としたアニメーション。戦前1930年代から終戦後まで、広島に生まれ、呉の軍港を見下ろす家に嫁いだ「すず」の生活が描かれる。
当然その生活は、戦争という巨大な暴力にさらされ、覆われ、押し拉がれる。どこからその悪意がやって来るのか。誰も語らない。ただ、ひしひしと迫り、切り裂くように現われ、すべてを塗り替えてしまう。すずの片隅の生活のすべてを。
 青々とした空のもとで営まれる片隅の生活。ぼんやりとした子で絵を描くことが好きだったすず。そのすずの手元を肩越しに覗きこむようなまなざしで、景色、街の風景、身の回りの品々、人々の振舞いがこまごまと注意深く描かれる。軍港の軍艦でさえも。それらは、戦争によって失われ、さらに記憶からも失われたものたち、人たち。それらを呼び戻そうとするこのまなざしは、祈り以外の何ものでもない。この映画の祈りは、はるか遠くにまで届いている。
 その祈りの届く先には、何があるか。それは、すずと共に笑うこと。驚くこと。泣き、縋ること。喜び、見つめること。すずが味わった世界。たとえば、軍港を見下ろす斜面にある北條家(すずの嫁ぎ先)と坂の描写が楽しい。方言がいつまでも耳を洗ってくれる。広島に原爆が投下された時、呉の北條家でも、閃光が届き、家ががたがたと揺れる。その底の無い恐ろしさ。すずと同級生・水原の気持の交錯がむず痒いほど精緻だ。
 この映画は、誰もが片隅に生きていることを教えてくれる。その片隅の憎たらしさと、愛らしさとを。小ささと、輝きを。この映画を見て泣くのはやめよう。これは最後まで、目を見開き、味わいつくすべき映画なのだ。

「浦沢直樹の漫勉 浦沢直樹」NHK Eテレ [感想文:その他]

 浦沢直樹自身による浦沢直樹の回。「BILLY BAT」の最終回執筆現場にカメラが入り、「ネームを入れる」作業も撮影されている。
気に入らない部分がざっくりとホワイトで消される。青鉛筆に持ちかえると、それで下書きをし、ペンを入れ直す。青い線は印刷されないので、都合がよいのだそうだ。このテクニックは、漫勉で他の漫画家が披露していもの。30年以上執筆を続け、一線にいるのみならず、代表作と言える作品を生み出し得たベテランなのに、使える工夫は取り入れようとするのだ。
これを浦沢氏の貪欲と言うこともできるが、そこには漫画の持つ性質も関係しているのだろう。浦沢氏はそれを「メソッドがない」と表現している。「メソッドがない」以上、工夫の積み重ねにならざるをえない。
「メソッドがない」を定型がないと言い替えられるなら、口語によって小説を書き出した小説家たちと現代の漫画家たちを並べて論じることができるかもしれない。
 しかし、小説以上に漫画は稚く、頼り無いくせに猥雑だった。何でも口にする赤子のように、ありとあらゆる物語に範を求め、真似をし、飲み込んで成長した。その成長を担った大樹のひとつは言うまでもなく手塚治虫氏である。その後、大友克洋氏が新しい時代を開く。番組では、その大友氏と手塚氏を結ぶ「ミッシング・リンク」として坂口尚氏、村野守美氏が引かれるのが嬉しい。
 さて、「メソッドがない」表現の現場で漫画家を待ちうけるのは、白い紙だけである。この白い紙を前にした恐怖は「漫勉」でも度々語られた。その恐怖を乗り越えて描かれたイメージが成り立つのを浦沢氏は「奇跡」だと言う。「奇跡」はもう一度語られて、それは「奇跡」によって定着されたイメージが他の誰かの手に渡り、それがその人に面白がられることなのである。
逃げ去る「奇跡」を掴まえるために、浦沢氏のペンは素早く走る。あるいは、「奇跡」のある場所を求めて、手探るように何度でも描き直す。そして、読者のもとでもう一度「奇跡」が起る。それは光よりも速く、一撃のもとに現われる。それによってがらりと世界が変ることさえある。
 だがそれは、何も高尚な目的によって起されるのではない。ただ描くのが楽しいから、面白いから、ワクワクするから描かれるのだ。そして、浦沢氏は8年続いた連載の最終回を描いた直後も、次を描くことを語る。体を酷使し、磨り減らしながらも。
なんということだろう。こういう人と同時代に生きられることを幸せと言わずしてどうしようか。浦沢直樹氏の漫画を読み直す必要がある。

「浦沢直樹の漫勉 高橋ツトム」NHK Eテレ [感想文:その他]

 高橋ツトム氏の回。
ペンが速い、速い。氏自身がそれに驚く。「意識が飛んでるんだ」と浦沢氏が注釈する。浦沢氏自身がよく知ってる状態なのだろう。白い紙の上にイメージを定着させることに集中して、無我夢中なのだ。
高橋氏がそんなに集中するのは、とにかく漫画を描いていて楽しくて仕方ないからである。その楽しさの根は「たかがいたずら書き」。その延長線上で高橋氏は、楽しくて仕方ないを追求して、様々な工夫を凝らす。
 特筆すべき工夫は、コンピュータを活用することによってスクリーントーンを貼る作業を無くしてしまったことだ。まず主線を描く。その紙をクリアファイルに入れ、その上に紙を重ねて薄墨を塗る。物理的に作ったレイヤーをそれぞれコンピュータに取り込み論理的なレイヤーに変換する。薄墨のレイヤーをドットに変換して、トーン化する。コンピュータの画面上で位置合わせをしてから紙に出力する。それにベタを入れて完成させる。それまで物理的な制約から、最後にせざるを得なかったベタ塗り・スクリーントーン貼りの順番をひっくり返し、より直感的な、表現する感性の構成に近い手順に、要するに描きたい通りに変えてしまったのである。やりたい通りにやるのが楽しいから、そのために頭をひねったわけだ。
 このあたりの作業を見ていると、高橋氏は空間を層が重ねあわされた構造として捉えているように思われる。単に近景・中景・遠景として考えられているだけで、絵を描く人には当たり前のことなのかもしれないが。このことを示唆する別の例は、修正ペンをもうひとつの描画ペンとして大胆に空気の流れを描き入れる時で、氏はそれを「一番手前にある空気の流れ」と表現するのだ。
こうした、シーンの中に捨象された構造を把握するセンス、あるいは、見えている景色から感じられる情景を取り出すセンス、さらにはカッコイイもの・スゴイものを見せるセンスが氏の楽しいの骨格であるのだろう。
 しかし、高橋氏の楽しさの中味は、そのセンスの中に閉じ籠る方向にはなくて、絶えず思いがけないものに出会うこと、技と偶然がせめぎ合う境界線にあることである。それは、紙のひっかかり具合や、かすれてくれる筆ペンとして追求され、ロックのライブ感、グルーブという言葉で語られる。恐らく氏は、カオスに囲まれた偶然の上に、氏のセンスが切り取る情景が立ち上がってくること、カッコよさが生成する瞬間にこそ表現の生命があるのを知っているのだろう。
 では、高橋氏の制作過程はやり直しを捨てた即興なのかというと、それも違う。「漫勉」に登場した他の漫画家同様に、ひとつのコマのために何度も描き直す。読者が一瞬で感じる衝撃のために、惜しげもなく描いては消し、消しては描く。「漫勉」を見ていて感じるのは、プロの漫画家達の描き直す時の潔さだ。誰もみみっちく消したりしない。捨てるときは、見ているこちらが「あーっ」と声を上げるほどあっさりと消してしまう。そして彼らは、読者に与える衝撃の為に悪戦苦闘するのである。
 漫画を描いているとどんなに楽しいか語る、その楽しさのための工夫を見せる、楽しさの奥にある表現の秘密を示唆する、今描けるものを全部掛けて描けと勧める。まさに「漫勉」にふさわしい偉大な教師の回だった。ご本人は教師だとは少しも思っていないだろうけれども。

「レッドタートル ある島の物語」マイケル・デゥドク・ドゥ・ヴィット監督 [感想文:映画]

 灰緑の巨浪が逆巻き、轟く。男が難破し、散り散りに波間を転がされ、絶え入りながら、無人島に漂着する。
茫漠に浮かぶ孤島で男は緋色の海亀と契る。
「雨月物語」の失われた一篇のような映画。そして、孤独の、描かれたものが動くアニメーションの孤独と、アニメーションを見る孤独の映画。
この映画に象徴を読む者は愚かだろう。寓意を拾うものは粗忽なのだ。ただ線と色彩の中に、男と女の姿が感じられる。
こんなアニメーション映画を観ることができた幸福を寿ぐ。この映画は、歴史よりも前に、どことも知れぬ何処か、心の在処にもっとも近い場所で、ずっと上映され続ける。
音楽と音は少し陳腐。

「シン・ゴジラ」庵野秀明監督 [感想文:映画]

 手垢がついて、馬鹿げきってしまったキャラクターに新しい「生命」が吹き込まれている。生れ変ったそれは、これこそがその本当の姿なのではないかと思わせる。そういう意味で、この映画は「新ゴジラ」であり、「真ゴジラ」なのだろう。
映画のクライマックスの舞台は東京駅だが、そこに屹立するコジラは皇居に対峙していることになる。リアルな虚構のキャラクターとアンリアルな生物のキャラクター。面白い。面白過ぎる。
そして、このアンリアルな生き物は圧倒的なリアリティーで画面を蹂躙する。ゴジラ映画の主役がゴジラであることを庵野監督はよく理解している。
この映画のゴジラのリアリティーは、「進化」という生き物の持つ「暗さ」によって描かれた。水中から地上へ、二足歩行へという形態の変化には人類の姿を重ね合せることもできる。何故二足歩行へ進化したのかと考えると、一度も姿を見せず、二足の革靴だけを残した老科学者の狂気も暗示しているようだ。
ゴジラは都市の怪獣であり、科学の怪獣である。都市も科学も本質は集団だ。そこでゴジラ映画の脇役は、逃げ惑う群衆であり、ゴジラと戦う自衛隊であり、官僚たちであるべきなのだが、この映画はその点でも実に的確だ。群衆は盲目で、愚かだ。しかし、粘り強くもあり、知恵を寄せ集めて何とかしようとする。ゴジラを止めるのは、華麗な兵器ではなく(この映画の兵器は悲しい)、愚直な作戦である。その作戦が何であるかは、映画館で見るしかない。見て喝采せよ。
畳みかけられる台詞で覆われ、戯画化された政治劇は巧妙な仕掛けだ。さもありなんと思った瞬間にゴジラのリアリティーが目の前に溢れる。ここでも庵野監督は成功している。
何よりもゴジラ、ゴジラ、ゴジラ、だ。その造形、その動き、その無目的さ、その不可解さ、その猛烈さ。度肝を抜かれる。カッコイイの一言に尽きる。米国のステルス爆撃機を撃墜した時の興奮はまたとない。
ゴジラ映画はようやくここに辿り着いた。これこそが我々のゴジラ映画の行くべき所だった。これを観たかった。これがゴジラの映画だ。第1作が開いた道は庵野監督の「シン・ゴジラ」へと続いていたのだ。素晴しい。面白い。

「未來のイヴ」(ヴィリエ・ド・リラダン著 齋藤磯雄訳) [感想文:小説]

 「アンドロイド」(人造人間)という言葉は、この「未來のイヴ」の中で使われたのを嚆矢とすると言う。見ると、「メンロパークの魔術師」エディソンが「私の手づくりの『アンドレイード』、つまり人造人間」(p.130)と語っている。もちろんこのエディソンは、実在の発明王をモデルにした登場人物である。
ここで話題になっているのは、人造人間の一部分、切り落された若い女の腕と見紛うばかりの人造の腕であって、人造人間本体ではない。この腕だけが何故登場するのかは謎だ。しかしその妖しさと、肉感的なイメージは印象に残る。対照的に、その後に登場する人造人間そのもの、エディソンによって造られた驚異、ハダリーには、肉感的なイメージ、熱の暈が感じられず、影の遙けさが漂う。
 「大擔(だいたん)不敵な實驗者」、「電氣学者」にして技師であるエディソンの手になるハダリーは電気仕掛けだ。女性の体にデザインされた金属製のボディ(甲冑体)を持つ。これは「屈折自在」な殻であり、ハダリーの生命系統を納める「造形的媒體」なのだ。そこに納められているのは、「豊饒(ほうぜう)、精巧、かつ幽玄」な機構である。そこには、「我等人間の身體組織の生命過程に見受けられるやうな醜惡な印象は何一つ」ない。それに比べて生命過程は、その発生状態を見れば、「何か異様な氣持」、「『陰惨なるもの』が『不條理なるもの』と『想像を絶するもの』とを相手にして張合つてゐるやうな、そんな氣持」になると言う。
 ハダリーは如何にして歩行するか。エディソンの口から詳しく説明されている。おそらく作者リラダンのアイデアを盛り込んでいるためだろう。水銀を充填した、20キロ強にもなる脚を電磁石によって引き上げる。それによりバランスが失なわれる。すると胴体内部に設置された円盤上のガラスボールが転がり、電流のスイッチを切って脚を前方へ下し、同時に反対の脚を引き上げるスイッチを入れ、これを左右交互に繰り返して歩むのである。転がるボールの音、機械式スイッチの音、重い脚が接地する音など、ハダリーは結構な騒音を発するのではないだろうか。もっとも作中でエディソンはそれを否定してはいるけれど。
 ハダリーの機構で目を引くのは、言葉を話す仕組みと動作を実現する仕組みである。ハダリーに頭脳はない。AIに類したものは無いので、推論、学習といった働きは一切しない。オルゴールと蓄音機のアイデアを組み合わせた仕掛けが、ハダリーの応答と行動を実現する。ハダリーは予め記録しておいた文句を録音された音声で再生する。体の動きも、実際の人間の動きが「圓管(えんくわん)」に記録され、それが定義された一般的な約七十ほどの動作として「演奏」される。その演奏は、「圓管」上の突起物を櫛形の誘導神経が弾くことによるのだから、まるでオルゴールだ。作中で喩えられているのはオルガン(バルバリー風琴)であり、音楽の演奏と人間の振舞が照応したイメージとして呈示されている。この音声と動作が精妙に組合されることによって、ハダリーの「その場その場に應ずる言語動作」が実現される。
 エディソンからこの説明を受けたエワルド卿、ハダリーを未来の花嫁として迎える契約を結んだ貴族は困惑を覚える。ハダリーのサンプリングされた定型的な反応は、当意即妙、あるいは自由意志からはほど遠く見える。それに、ハダリーの振舞いを支離滅裂から救うためには、それに対応する人物、つまりエワルド卿自身がきまり文句を覚えて、芝居を打ち続けなければならなくなる。それは単調を免れないのではないか。
 これに対するエディソンの反駁は痛烈だ。そもそも社交における会話は「陳腐な紋切型」ではないか。「あらゆる言葉は繰返しにすぎず、またそれ以外のものではあり得ない」(p.282)のであり、我々が語るのはすでに語られてしまった言葉であり、それは「《卽興》のつもりで捲くし立てる埒(らち)もない無駄口」でしかないのだ。「その場で思ひついて何を言へと仰有るのです?」対するにハダリーの内部に記録された文句は、詩人や形而上学者や小説家たちに作らせた名言佳句なのである。無駄口に頭を絞るくらいなら、「時間の經濟」のために、プロフェッショナルによる成果物を活用すべきなのだ。
それに、人間の生活や会話は「永遠のあやふやさ」に包まれているから、「すべてのものが、完全に、すべてのものの返事になり得」る。そして「答への深さ美しさ」を創造するのは、実は問いそのものの中にあるのだ。そのような問いかけができる者に対してハダリーは、まさに待ち受けられた答を発するであろう。不毛の倦怠のない、裏切られることのない答が返るだろう。
ハダリーとの会話を芝居だとしても、そもそも芝居を打たぬ者などいるだろうか。「おのれの役割を心得ぬ連中だけが、芝居はせぬなどと言ひ張るのですよ。」(p.274)誠実など実現不可能な夢である。人間は誠実になり得るほど何事かを知ってはいない。人間は、あやふやな信念を互いに承認してもらうために利害の一致した芝居の打ちあいをしているに過ぎない。「もし人間が誠實であり得たら、どんな社會だつて一時間と持ちやしませんよ」(p.275)恋人たちもご同様。相手の心の中など幻の中で推し量られているだけだ。この幻が子供と結実し、そのおかげで人類は存続していける。恋人たちは「お互に識り合つたとただ單にさう思ひ込むや否や、それ以後はもうお互に習慣だけで結ばれて行」き、「お互の心に染み込んだ彼等の存在と彼等の想像の總體に執着(しふちやく)する」。「永遠に赤の他人である彼等戀人同士は、銘々が相手を原(もと)にしておのれの心に抱いた亡靈に執着」(p.276)するのである。これが芝居でなくて何であろう。「戀愛といふ情熱に於ては、一切が虚偽を土臺として空虚であり、無意識の上に築かれる錯覺であり、蜃氣樓から生ずる病患にすぎない」(p.278)。
そしてこの幻が現(うつつ)と同様に移ろわぬからと言って、それを単調だと責められようか。現実はそれほど変化に富むわけでもなければ、多様性に満ちているわけでもない。また無常の現実においては、恋愛が始まると同時に幻滅と衰退がしのび込んでいる。だから恋愛の唯一無二の、この上もなく甘美な瞬間を「永遠化すること、ああ、それを飛翔の途中で停め、それを固定し、自己をその中に限つてしまふこと! おのれの精神と最後の願望とをそこに化身させること! これこそ全人類の夢ではないでせうか。」(p.279)その至上な瞬間は「單調なそして高貴な時間」であろうが、それを繰返し味わうことに飽きるはずはない。その時間を繰返すために同じ言葉を繰返すように求められたら、それは芝居を打つことだろうか。絶対的な時間の中に永久に化身しようとする女性が単調だろうか。
 エディソンが語ることは逆説に満ちている。その冷笑の光は激しくこの世界を照らす。光源は「人類愛」と「かつて人間の口から發せられた、最も激しい絶望の叫び」(p.294)だ。ここに作者リラダンの声を認めることができる。「人類愛」という普遍的な価値を求めつつ、現実の世界に絶望していたのは作者自身に他ならないだろう。人造人間ハダリーという逆説は、呪詛にも似た絶望の叫びである。
 その逆説の方策は「妄想に報いるに妄想を以てす、罪惡に報いるに罪惡を以てす、蒸氣に報いるに蒸氣を以てす」(p.340)、あるいは、「幻に對するに幻を以て」(p.147)だ。
ここで蒸気とは蒸気機関のことに他ならず、それが象徴するものは科学と技術によって成立つ文明のことである。我々は「蒸気」のために先人が遺したあらゆる信仰を棄てた。科学的にしか考えられなくなって、生命あるものとないものとを区別できなくなり、「蒸気」と魂の見分けもつかなくなったのである。科学によって「苦惱」「謙譲」「愛」「信仰」「祈祷」「理想」、そして本質的「希望」をも否定し去った。その科学は常に「明日」完成すると空手形を発行する。やがて「未來」には「安樂な生活」が訪れ、「正義」が実現されるだろう、というわけだ。「常に脆弱(ぜいじやく)かつ幼稚な状態を脱しない自負心」(p.341)をもって「辻褄の合はぬ否定説や、いかにも變節漢らしい物識り顔の薄笑ひや、日ごと實生活によつて化の皮が剥がされる騒々しい道徳論など」(p.339)がまかり通る「現代至上主義」の社会、「偽瞞(ぎまん)的にして平俗、かつ轉變常(てんぺんつね)なき『現實』」(p.340)がそこにある。
この「蒸気」を「未來のイヴ」として性の物語の中へ持ち込んだのがハダリーというわけだ。「いけないわけはありますまい。」(p.340)
 しかし何故、「蒸気」は性の物語の中へ持ち込めるのだろうか。それは、「蒸気」のドグマが、複製し、保存することにあるからに他ならない。このことを象徴的に語るのが「蓄音機」である。
物語の冒頭、「蓄音機のパパ」たるエディソンは、自身の発明品である「蓄音機」、さらには「写真術」について夢想している。もし神話と伝説の時代に蓄音機や写真があったなら、「偉大な言葉」「神秘的な音色」が消え去ることなく録音され、「アララテ山頂より撮影せるノアの大洪水」(p.49)のような決定的瞬間が撮影されただろう。それは複製され、保存され、時を越えて運ばれ、現代に伝えられて「ありのままの現實」「あるがままの姿」(p.48)を知らせてくれたであろう。
 だが、それが複製である以上、「ありのままの現實」であろうはずはない。複製され、保存されることが意味を持つためには、コピーは「現實」よりもある点で小さくなければならないからである。小さくするためには捨てねばならない。その時捨てられるのが「内面的な意味」「眞の實在性を構成する意味」(p.32)である。それは「昔の人たちの耳の中でかつてその耳によつてそれらの音響が帯びてゐたところの、深い感銘を與へる特質」(p.32)であり、「しかもこれのみが、音響本來の無意味さに溌剌(はつらつ)たる活氣を與へてゐたのだ。」(p.32)「蓄音機」で録音=保存するということは、つまり「物音と聲も、聲と記號(きがう)も、事情は同じ」ようなものなのである。
複製され、保存されることによって、そこから「内面的な意味」が分岐し、生れる。一方、複製され、保存されたものは遠方へ運ばれ、あらゆる場所へ持ち込めるようになるのだ。性の物語の中へでさえも。
 ところでこの複製‐保存が蒸気=科学技術のドグマであるというのは、「《決定的》長持ち請合ひといふ保證がつけられてゐる」にしても、それは空手形であって、「肝腎なのはさうと確信してゐること、それだけ」(p.47)だからである。
 性の物語の中へ持ち込まれた科学のドグマによってハダリーに於て複製されるのは、アリシヤ・クラリーなる女優である。エワルド卿は、このアリシヤ・クラリーとの「永久に悲しみが癒(い)えぬやうな、實に不幸極まる戀」(p.60)に絶望し、この世を去ろうとして、別れの挨拶にエディソンのもとを訪れたのだった。
アリシヤは、「輝くばかりに」美しく、その「肉體が、實に神秘的なくらゐ、人間の容姿の理想的な典型に達して」(p.76)いて、ルーヴル美術館に収蔵されている「勝利のヴィナス」(=ミロのヴィーナス)の大理石像に生き写しである。しかし「その女の内的な存在はその容姿と著(いちじる)しく矛盾撞着して」(p.69)いた。アリシヤは「俗物(ブールジョワ)の女神」(p.81)を具象化したとも言える存在で、「頭が單純どころか、ただ愚劣なだけ」(p.89)、「否定的、嘲弄的な、いはゆる常識なるものの、病菌に冒されてゐる」のであった。「この常識なるものはあらゆるものをただ狭めてしまふだけであつて、その觀察の眼が向けられる對象はただ無意味な現實だけ、つまり、その熱狂的な信奉者どもが大袈裟に大地に卽した事物などと呼んでゐるあの現實だけに限られてゐるのです。」(p.89)要するにアリシヤは「超人的ともいへる美しさ」のかげに、「平凡な生温(なまぬる)さをそなへた性格や、俗惡な精神や、『黄金』『信仰』『愛』『藝術』のもつ純粋に外面的なもの、つまり空虚な幻影的なものへのひたむきで氣違ひじみた尊敬の念などが、蔽ひ隠されて」(p.96)いる女なのだ。
そしてこの、アリシヤの外見と内面の乖離が青年貴族を苦しめた。言わゆる見掛け倒しなわけだが、それによって世をはかなむほどに至った理由は、彼が「人は全體と結婚する」(p.368)のだと信じているからだった。エワルドはアリシヤの「肉體の美しさだけを享樂することに滿足」(p.367)できない。人は肉体と「内面的な本質」からなり、相手の「肉體をわが物にすると共に否應なく所有することになる魂の影が、拭ひ去るすべもなく、自分に染み込んでしまふ」(p.368)と信じている。この「内面的な本質」゠魂は霊魂とも呼ばれていて、「生きとし生ける者には、消し去ることの出來ない、本質的な、或る根柢があつて、それが、その人のあらゆる観念に、最も漠然たる觀念にさへも、更にはまたその人の受けるあらゆる印象、或は移ろひ或は移ろはぬあらゆる印象に、‐‐たとへそれらが外部的には如何なる修正を受けようとも、‐‐一定の相貌、色彩、品質、要するに、特徴を賦與(ふよ)するものであり、これらのものを通じてはじめてその人は物を感じとり省察することが出來る」(p.68)とされる「基體(スブストラトム)」である。
つまりエワルド卿は、アリシヤの肉体がもたらす官能の快楽がその「内面的な本質」と何の連絡も持たないことに幻滅し、そのような存在と関係することが、全体と結婚すべきであると信じている自分の「品性堕落の所業」(p.368)であると思ったのだ。だが、「内面的な本質」が有れば全体は失われている。エワルド卿の望む結婚は予め失われている。
アリシヤの俗悪な「内面」、「俗物の女神」は、性が複製され、保存された時に生まれた。複製‐保存されるものは価値を平坦に均してしまう。血統を担保にした貴族などは、複製‐保存の前に押し潰される。「貴族になれた時代はとうの昔に過ぎ去つた」(p.98)のであり、「頑強一徹なブールジョワジー」、「何はともあれ反抗的な本質」をもつものが席巻し、「俗物の女神」は「人類の四分の三にとつて『理想の女性』ともいへる」(p.98)ようになる。
 性が複製‐保存される物語は、アンダーソンとエヴリンにまつわる物語として語られる。
このアンダーソン‐エヴリンの対は、エワルド‐アリシヤの対の複製として見ることができる。エディソンによって語られるアンダーソン‐エヴリンの物語は物語の入れ子となっている。さらに、アンダーソン‐エヴリンとエワルド‐アリシヤという対の対照があって、重層的な構図が作り出される。この構図は単にバランスの為に取られているのではなく、ある空隙を生み出し、物語をそこへ導くために作り出されている。それは、アリシヤ‐エワルド‐ハダリーに対置した時に明かになる、エヴリン‐アンダーソン‐アンダーソン夫人の組合せの夫人の位置である。そこへ行く前に、アンダーソンとエヴリンの物語を見なければならない。
その物語自体は単純だ。立志伝中の人物、「實業界では、最も穏健著實(ちやくじつ)な頭脳の持主として、また活動家として認められてゐた」(p.212)エドワード・アンダーソンは、地位も得、立派な家庭も築いていたにもかかわらず、赫毛の美人の踊り子、エヴリン・ハバルの手管に弄されて、瞬く間にすべてを失い、果ては「絶望のあまり狂亂の發作を起して、ただあつさりと、この世におさらばを告げてしまつた」(p.223)。アンダーソンが「結局のところ、お坊ちやんにすぎなかつた」にしても、また「あらゆる點(てん)から見て、恥づべき弱さ、精神錯亂、肉慾の罪は免(まぬが)れぬ男」(p.236)だっとしても、竹馬の友であったエディソンは「實に深刻な動揺‐‐實に強烈な衝撃」(p.224)を受け、「彼の心、彼の感覚、彼の良心を掻き擾(みだ)して‐‐あのやうな最期に導くに至つた魅力の正體(しやうたい)を、嚴密に分析してみようといふ考へ」(p.224)に取り憑かれることになった。
エディソンの分析は苛烈で、その結論は、「ミス・エヴリン・ハバルの中には、精神的肉體的すべての實に邪悪な俗惡さがある」(p.227)のであり、アンダーソンを蠱惑したのは「虚無」、「空虚」による眩暈、「要するに單なる錯覺だった」(p.228)というものである。その魅力といわれるものは、エヴリンの「個性の本質的な貧しさの上にこつてりと塗りつけられたものだつた」(p.228)。それは「化粧術」による「生命の錯覺を與へる『人工物』」(p.256)だ。即ち「女性」自身が「おのれの代りに人工を置き換へ」(p.258)たのである。この置き換えによって、アンダーソンと似たような末路を辿る分別のある男が「あらゆる都會に弘まつて」しまった。
さて、置き換えることができるのは複製されたからだ。何が複製されたのかと言うと、それは「女性」、「血と肉とから立ち昇る烟霧(えんむ)の育むあらゆる汚穢な慾望」(p.231)を誘惑することができるもの、礼儀正しい閨房では愛の導きとなるはずの官能の刺戟であり、つまり「性」が複製され、保存されたのだ。複製されたものは運ばれ、流通し、金銭の価値へ変換され、エヴリンのような女の生活手段となる。「今の《社會組織》ぢや彼女等の生活手段がほかにはあまりありません」。だから、「金を稼ぐためにああいふ手段を使ふのですし、それが、今の世の中では、一番確かなやりかたなんですな」(p.236)。それを知るエヴリンのような女たちは、「その帶の結ばれる正にその一點に、『男』のあらゆる考へを連れ戻」(p.233)そうとする。その動機は「損得づくの打算」(p.233)。「俗物の女神」が登場する。
 「内面的意味」の担保のない複製は常に見掛け倒しである。言い換えるなら、中身は常に邪悪な俗悪さに満ちている。予め失われた結婚を求めるエワルド卿は叫ぶだろう。「ああ! 誰かがあの肉體からあの魂を取除いてくれないかなあ!」(p.99)つまりこれは、いっそのこと外部だけに、表面だけに、複製されるものだけになったなら、という嘆息なわけである。それに対してエディソンのハダリーが応える。まさに「性」の複製の「造形的媒體」、内面のない表面=メディアとして。ここにメディアが自立して現れ、アリシヤ・クラリーはハダリーの上に、精緻に複製され、再現される。
アリシヤにおいてエワルドに幻滅をもたらしているものが、実は彼自身の「願望」にあることを、エディソンは正確に指摘する。ハダリーにおいて複製されるのはその「願望」の対象そのものだ。しかもそれは「本物」と見分けがつかないほどになる。「『理想』それ自體が、初めて、あなたの感覺にとつて、觸知し得るもの、聴取し得るもの、物質化されたものとして姿を現す」(p.137)。その時エワルド卿は、複製‐メディアとの結婚の契約に同意する。複製が精巧さを増して本物に近づき、本物に取って代る。その本物とは、複製を花嫁として迎える者の「願望」=「理想」に他ならない。複製物が「願望」そのものとなる。複製‐保存のドグマは「願望」を取込み、「願望」の装置となるだろう。その装置の志向はリアリズムである。
 こうしてエワルドの結婚が諾われると、物語は揺らぎ、前述したような構図を利用して空隙の点、もう一つの失われた結婚の花嫁、アンダーソン夫人へと導かれる。
夫を亡くした後、アンダーソン夫人は嗜眠性の奇病にかかり、眠ってしまった。磁気と電気に飾られたメスメリズム的な睡眠の中で、アンダーソン夫人はエニー・ソワナへと変容し、千里眼とテレパシーの能力を得る。そして、ハダリーに宿り、ハダリーを通して語りだす。
ハダリー自体には感官が無く、見えもせず、聞こえもせず、指輪の宝石だけがインターフェイスである。それと対照的に、ソワナは遠く離れた物を見ることができ、空間を越えて会話することができる。ソワナは遍在する。感覚のないメディア=ハダリーを通じて語りだすメッセージ=ソワナは遍在するのだ。そのソワナ‐アンダーソン夫人は眠りの中にいる。睡眠‐夢は、境界の無い世界であり、遍在する世界でもある。
 ソワナ‐ハダリーが語るのは、「目に見える空間が單にその表象にすぎないやうな、或る異なる空間が實在すること」(p.401)である。それは「窺ひ知れず、‐‐形無く、避くるすべなき『無限世界』」(p.406)、「およそ理性なるものは、(……)豫感(よかん)や眩暈(めまひ)による以外には、‐‐或は願望のなか以外には、‐‐その觀念を抱懐(ほうくわい)し得ない」「最も確實な現實」(p.400)。ソワナ‐ハダリーは、自分がその「無限の國」(p.408)からエワルドに差向けられた使者だと言う。その真の起源と真の目的とを思い起こさせ、死の淵へ向う身を救うために。失われた結婚を求めるエワルドは、「将來自己の生成すべき存在の、前觸れの豫告の影が射し入るやうに感じ」(p.401)、「未來の豫知」を知る人であり、今はそこにいない人々、「五官の世界に隣接するこの幽玄の世界に棲(す)む」「未來のものである人々」(p.401)から呼びかけられているのである。
ソワナ‐ハダリーの呼び掛けに応えるためには、ただそれに存在を授けること、それが「存在してゐるのだと確信」すればよい。その幻から醒めない覚悟をすればよいのだ。「ああ! わたくしからお目ざめにならないで!」(p.409)「わたくしが存在する方がよいとはお思ひになりません?‐‐さうお思ひでしたら、わたくしの存在についてかれこれ理窟をおつけにならないで。快くわたくしをお享(う)けになつて。」(p.412)
 この、逆説と呪詛の果てに届く奇妙なメッセージには作者の神秘主義を見てとれる。オカルティズムであるが故に、そのメッセージはメディア=ハダリーの造り主であるエディソンに対して隠されねばならない。「先程申上げたことはエディソン様には仰有らないで。あなたにだけ、なんですもの。」(p.428)また、複製され、保存されるメディアにまつわるオカルティックなメッセージには、本物に成り代わろうとするメディアに対する恐怖と不安、本物と複製の見分けがつかなくなることへの魅惑も込められているのだろう。
しかしこのメッセージは、ハダリーとしてエワルドの居城に運ばれる途中、大西洋の航路上で火災に遭い、海の底へと消えてしまう。エワルドの結婚は成就しない。ハダリーが格納される箱は「黒繻子で張りつめてある黒檀の重い柩(ひつぎ)」(p.165)であるのだから、それが葬られることは宿命であった。エディソンのもとに届くのは、「黙々として身をふるはせ」るより他ない、読み解かれざるメッセージである。「それから、最後に、視線を上げて、燦々たる萬古蒼茫(ばんこさうぼう)の星座を仰いだ。星座は、重い雲の間に冷嚴に燃え、抱懐すべからざる天空の神秘を、無限に横切つて進んで行くのであつた。」(p.456)
 こうして、最初の「アンドロイド」の物語は終る。それは、逆説による冷笑、絶望による呪詛、複製‐保存に対する魅惑が組み合されて構築された物語だった。それだけではない。奇体なオブジェに対する趣向もあって、例えばハダリーは、バッテリーが消耗して「氣絶」するのだが、再起動後に碧玉の薄手のコップによって真清水を飲み、「一瞬後に、私たちの美しいハダリーは、半ば閉ぢた唇の間から、青白い煙をふわふわとかろやかに吐き出しますが、この煙は今申上げた粉のために虹色に煌いてゐますし、熱い蒸氣のやうな匂がするだけで、それも、先程申上げた薔薇の精油の上を通つて來まので、まあ芳しいと申してもよろしいくらゐです。」(p.180)なんと奇怪で美しく、フェティッシュなイメージだろうか。読む者は、エワルド卿と共に叫びたくなるだろう。「何ですつて! 唇の間からふわふわと煙を吐くのですつて?」(p.181)

「浦沢直樹の漫勉 萩尾望都」NHK Eテレ [感想文:その他]

 漫画家の制作現場を目撃するシリーズ、第2シーズン1回目。
「少女漫画の神」と題されたのは萩尾望都氏。
 萩尾氏は、ご両親の反対を押し切って漫画家の道を進まれたそうだ。その反対が翻ったきっかけが「ゲゲゲの女房」のドラマだと言う。つい最近のことでは、と浦沢氏が驚くと、「ゲゲゲの女房」で水木しげる氏が一生懸命に漫画を描いているのを見て、娘の仕事を理解するようになったと、なんとも傑作なエピソードが語られる。
 萩尾氏の制作過程も非常に興味深いものだった。
カメラは例のごとく、漫画を描く萩尾氏の手元を凝視する。丁寧なあたり、下絵から、カリカリと刻み出すように描かれていく。そのスピードは決して速くはない。しかし、番組のサイトを見ると、浦沢氏との対談で放映されなかった部分があって、そこでは若い頃はもっと速かった、と語られている。筋力が衰えて、遅くなったそうだ。
「仕事は若いうちにししなくちゃいけない」(萩尾氏)
「漫画って筋力ですよね。若い人たちは、若い内に、みずみずしい線で、じゃんじゃん描いた方がいいよって」(浦沢氏)
「一生、その線は描けない。その線は20代の線、この線は30代の線、変わっていきますよね。」(萩尾氏)
(http://www.nhk.or.jp/manben/hagio/)
これらの言葉には漫画の線が生きていることの秘密の一端が語られているように思える。
 さて、衰えた筋力によって描かれる萩尾氏の漫画は衰えてしまったのだろうか。そんなことはない。画面に広がった絵は、艶さえ見せて、力強く、自由だ。休まず、弛まず、萩尾氏は描き続ける。手の表情ひとつに拘って、2時間も3時間も試行錯誤を繰り返す。観ている内に、どんどん言葉を失う。ずっと深いところで、より大きく揺さぶられるような感じがしてくる。
氏の代表作の一つ「ポーの一族」の原画が呈示されて、当時の印刷技術は原画に追い付いてなかった、と浦沢氏が語る。それだけでも驚きだが、萩尾氏が漫画の道を志すようになったのが、その未熟なメディアに載った先人たちの漫画だったことを思うと、深く深く心を打たれる。萩尾氏は、メディアの向う、それを超えた所にあるものを感じたのだし、自身もまた、メディアの向う、それを乗り越えることを信じて描き続けてきたのだ。その証拠に萩尾氏はこう語っている。「こういう物語の世界に、私は救われたし、とても楽しいと思う。そういった自分が感動したものを、(読者に)伝えたい。だけど、笑ったり、泣いたり、感動したりっていう、感情をゆさぶるっていうのは、非常に大変なことで、やっぱりこっちも必死でやらないと、伝わらないです。」(http://www.nhk.or.jp/manben/hagio/)
これは、奇跡だ。その奇跡は、いつも身の回りにある漫画の中に潜んでいたわけだ。萩尾氏が描く奇跡に、自分自身の読者の姿勢は釣り合っているかと反省させられる。読み飛ばし、消費するだけでは、萩尾氏の線に釣り合うわけはない。その深みに届くだけ読みとれているかを問わなければならない。
萩尾氏自身の作品と同じくらいにゆさぶられる放送だった。

「ウォッチメン」アラン・ムーア、デイブ・ギボンズ著 [感想文:その他]

石川裕人、秋友克也、沖恭一郎、海法紀光 訳
 これは、1986年から1987年にかけて出版されたアメリカのグラフィック・ノベルを翻訳したものだ。
原作は、2009年にザック・スナイダー監督によって映画化されている。映画化については、テリー・ギリアムがチャレンジして頓挫していたものをザック・スナイダーによって実現されたのだと言う。今回、映画を観てから原作を読む順番となったが、原作と映画版を比べると感心する。ぶ厚く、入り組んで、暗い苦味に充ちた物語をよくも料理して映画にしたものだと思った。結末が変更されているけれど、ザック・スナイダー版は本作を理解するための一助になるかもしれない。とは言っても、本作が難解なわけではなく、その圧倒的で、重層的な語りに眩暈を感じさせられるので、映画版で整理されたストーリーは大海を渡る櫂になり得ると思うのだ。
 この物語の背骨となるプロットは、殺人事件の謎を追うダーティな探偵ストーリーだ。そこにアメコミ(アメリカン・コミック)のヒーロー・ファンタジーが中年太りして重なり、その主軸に沿って黙示録的SFが螺旋を描き、ダークな街を背景にベトナム戦争と冷戦がレリーフとなるアメリカ現代史が苦渋を噛むシルエットを見せ、核の不安と恐怖、暴力とレイプ、挫折と後悔、憧憬と幻滅が、正義と狂気への問いかけが渦を巻くのである。しかもこれらすべてが、凝った重層的構成で語られて行く。
その構成のひとつで目につくのが、章間に挿入される様々な文章(引用、抜粋、新聞記事の切り抜き、インタビュー記事、警察の調書、精神科医のメモ等々)である。例えばそれは、マスクを被ったヒーロー(ナイトオウル)となって犯罪と戦い、引退した男が書いた自伝の抜粋である。
すなわち、物語のアメリカは、覆面を被った自警団=スーパーヒーロー達が実在する世界となっている。彼らは「悪い奴なんか、やっつけちゃえ!」という幼稚な正義感情に鼓吹され、アメコミの紙面から表通りに飛び出て大人になってしまったのである。そこで現実の網に搦め捕られ、泥に沈む。背を丸めて、ポケットに手を突っ込み、見て見ぬふりをして通り過ぎるしかない、人間の愚かさに溺れる。拳と道具で戦うスーパーヒーローは少しもスーパーではなく、卑小で滑稽な自警団として法律で禁じられてしまう。
では、サイエンス味のフィクションであるヒーロー=DR.マンハッタンはどうだろうか。絶対のスーパーパワーを持った彼は、徐々に人間味を失っていきながらも人間の愛憎に振り回される。宇宙の秘密を観照することは、一向に問題を解決しない。DR.マンハッタンの姿は丸裸の現実逃避に見えてくる。そしてそのスーパーパワーを持ってしても、核戦争の危機を押し止めることはできない。陰鬱な不安と恐怖が、コマの各所に記される。例えば、新聞の見出し、ポスターのキャッチコピー、壁の落書きなどが、近付く核戦争による破滅を囁く。
いったい、スーパーヒーローの活躍に胸躍らせた古き良き時代、子供の頃はどこへ行ってしまったのだろう。しかし、ショートケーキじみた子供時代など幻想なのだ。ロールシャッハ=ウォルター・コバックスの少年時代のように、ささくれ立った、粗暴な現実こそが追憶の真の姿なのではないか。
では、大人になればいいのか。オジマンディアス=エイドリアン・ヴェイトのように、大人になって、ビジネスの波に乗ることが正しい選択なのか。その選択の果てには、ついに成長しきれない「やっつけちゃえ!」という感情が、大人の論理を携えて、狂気の振舞いに及ぶだろう。そうして物語は、あまりにも悪い冗談でしかないカタストロフへと墜ちていくのである。
 ここに、社会の真の姿があるとは思わない。誇張され、パターン化したイメージが描かれているだけだ。
しかし「ウォッチメン」には物語の真の力が溢れている。読む者の頭を揺すぶり、地獄の劫火を思い出させてくれる。どこから齧っても、こちらの口の中は苦い味でいっぱいになる。その上この苦みには滋養などこれっぽっちもない。だが、これを読まずして何を読むのだろう。べったりとした色彩に塗られたコマの隅から隅へ、ページの端から端へ、舐めつくす視線で読み進み、歪んだ、膨張した想像力の実在を感じ、その坩堝の只中に飛び込むことこそコミックの喜びなのだ。
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