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祖母と孫娘〈十二〉 [小さな話]

〈十二〉

 右手に力が入らない。水希は息も満足につけずに、振り回されていた。両手に巻き付けたコードを引き絞ろうにも、男の背中にしがみついているのが精一杯だった。吉野智=小松秋男の体から立ち上る腐敗臭が水希の鼻を刺激する。小松秋男の体に触れている部分が、火傷しそうに熱い。背中の痛みも激しくなる一方だ。ふっと気が遠くなったら、殺されるという恐怖感に心臓が悲鳴を上げた。
その時、小松秋男が横を向いて、ぜいぜいと息をつきながら言った。
「がぁ、離せ。離さないと、お前の婆をごうじでやずずぅ。」
小松秋男は、水希を背負ったまま真子に近付き、倒れている真子の腹を踏みつけた。
真子が声にならない呻きをあげた。ぐぐっと体を縮める。
小松が真子を踏みつける度に上下に揺さぶられながら、水希は真子に呼び掛けたかった。しかし、今叫ぶと力が抜けて振り落され、二人とも殺されると思い、目を閉じ、真子の方を見ないようにして我慢した。体が、(早く、早く、これを止めて、もう勘弁して)と懇願を繰り返している。
小松は何度も真子を踏みつけた。
真子は、強烈な痛みから逃れようと身を捩り、そのせいで小松の足は、真子の腰、腿、胸、背中と所かまわず踏みつけた。真子の足の折れた部分に目をつけると、水希を背負ったまま跳び上がって、両足でそこを直撃した。真子の口から信じられないほどの血を吐く悲鳴があがった。真子の左足はギプスが砕け、膝と踝の中間が破れて白い骨が見えていた。
祖母の方を痛めつけても効果がないと思うと、小松は水希を圧殺する作戦にでた。勢いをつけて、背中から壁にぶつかっていく。壁際に寄せてあったワゴンが部屋の中央へ走り出すほどの衝撃で水希を叩きつける。肩口に突き立っていたガラスの破片は振動で割れ落ちたが、残った破片が深く肉の中に食い込んでしまった。水希は息がでずに、口を大きくあけてあえいだ。さすがに力が抜けて、腕が伸びてしまい、小松の背中にだらりとぶら下った格好になってしまう。しかし、両手に巻き付けたコードだけは、握り締めた拳が固まって離さないでいた。もう水希の視界は、黒い点々で覆われて、見えているものが分らなくなりかけているのだった。小松の首のコードは、深くめりこんでいる。そこから上、額の生え際のあたりまでが、赤黒く鬱血していた。額の真ん中とこめかみに血管が浮き上がり、剥き出た眼球も真っ赤に血走っている。耳から血が流れている。
「もういいよ、水希、もういいから、手を離しなさい。」真子はそう言ったが、息が苦しく、声にならず、ぜいぜいという獣じみた喘ぎしか出ない。両手と右足で這い、暴れる小松から身を遠ざけようとする。床についた右手が赤い手袋をしているように血まみれで、指が欠けている。しかしそれが自分の手だとは思えない。左足は膝から下が重い袋をひきずっている感じだ。何度も何度も神経を引き裂いては揉みくちゃにする痛みだけがある。が、激痛は、「そこ」とか「ここ」とか指差せる場所にあるわけではない。真子自身が痛みそのもので、痛みが真子を見ている。体の中がかき混ぜられている。散らばったガラスの破片を避け、分娩台の足元にたどり着くと、台に手をかけて体を少し持ち上げ、真子は水希の方を振り返った。
その時小松は、頭を膝の間にたくし込むように腰を折って、背負い投げに似た形で水希を前方に投げ飛ばした。派手な音をたてて水希は、事務机の前に足を上にして背中から叩きつけられた。そのままぴくりとも動かない。
「ぐ、がががぁ。」小松は、首にめり込んでいる電源コードを掻き毟って取った。さすがに息が荒い。その口から、鼻を刺す悪臭が吐きだされている。
(もう終りばい。)
真子がそう思った時、何かが始まった。
事務机にひっかかっていた水希の足が、ゆっくり横に倒れて床につくと、孫娘はくるりと体を返して四つん這いになった。次の攻撃を準備する猫科の野生の姿勢だった。天井の照明を反射して鋭く輝く瞳が、少し離れて息を整えている男に照準を合せている。その視線をはずさずに、左手で事務机の引き出しを開けると、中のものを鷲掴みにして、小松めがけて投げ始めた。
最初、ボールペンが小松の肩にあたって落ちた。定規が頭をかすめ、またボールペンが、今度は頭に命中した。小松は体を起して、反り気味に水希を見下ろした。水希は休まず引き出しの中のものを投げ付けた。
真子は自分の孫娘が一体何をしているのか、すぐには呑み込めなかった。
水希が投げて、小松の体をかすりもしなかった物が、真子のいる近くまで転がって来た。水色のステープラー。「コン」と音がして、プラスチックのペントレーが小松の足元に落ちた。水希は、引き出しの中の物を全て投げると、引き出し自体をひっぱりだし、振りかぶって放り投げた。小松がそれを腕のひと振りで払い退けると、壁にぶつかって「ガラン、ガラン」と床を大きく転がった。水希は手を止めない。既に次の引き出しを開け、中の物をどんどん投げつける。ノートやファイルや紙箱や、普通にぶつけられても何ともないような物まで、当ろうが当るまいが関係なしに小松秋男めがけて飛んで行った。小松はまばたきもせず、時々直撃しそうになる大物を払い落すだけだ。
恐怖と苦痛でとうとう孫娘はおかしくなったのか、とその目を見ると、ちらりと真子に視線を合せた眼差しは必死の色が明らかだった。水希は正気だ。しかしあれでは、百回繰り返しても、千回繰り返しても、立ち塞がる怪物を倒すことはできないだろう。十年続けても、百年続けても、無理だ。そこに奇跡は起きない。私の孫娘は、可哀想に、そんなことも分らない愚か者なのだろうか。一体何を考えて、あんな稚拙な、あんな無駄なことをやっているのか。
疲労と悲しみ。恐怖と苦痛の捻れた渦巻の中で、二つの感情だけが互いを吐きだしながら膨らんでいった。真子は、水希から目をそらし、分娩台にかけていた手を離すと、頭を傾けて横たわった。目の前の物がよく見えないのは、涙がいっぱいに溢れてきているからだった。
真子の足元の方から、水希の叫び声が聞こえてきた。
「お祖母ちゃん、逃げて。逃げて、逃げてぇ!」
不思議なことに、小松秋男は一言も発しなかった。水希が投げ付ける物を払う気配が時々するだけだ。じきに投げる物が無くなるのを、ただ待って止めを刺そうとしているのかも知れない。
(水希、あんた、手が空っぽになったらどうすると?その手を拳にして「あいつ」に殴りかかる?何のために?この婆を助けるために?どうしてそんなことをする。「あいつ」を倒せるわけないのに、そんな無駄なことを。)
 真子のぼやけた視界に、人の踵が見えた。裸足の人が真子の頭の方に立っている。目をしばたかせて見直すと、男のふくらはぎが分った。その男は裸で、真子に背を向けて立っていた。蛍光灯でできるはずの陰影がない。が、その肌は体温を感じさせて息づいている。腿から上へと視線を登らせると、その背中と肩の姿に見覚えがあった。
懐かしい背中と肩だ。
二年の間、その姿を思い出すことから無意識に遠ざかっていた。それは真子を一人残してさっさと逝ってしまった夫、哲雄の後ろ姿だ。思いの外に骨太のその肩を見間違うことはない。夫が若い頃には息詰まる弾力を感じさせ、中年を過ぎる頃からは眠りを誘う温もりを感じさせてくれた。ガンが発見された時は、陽気な男もさすがに悄気返って、その肩は線をぼやかしたように見えた。それでもひと時のことで、さばさばと病院の門をくぐった。話好きで、人懐こい夫の病室へは、幅広い多くの友人が見舞いに来て、傍で見ていた真子にしか分らない鮮かさで、夫は友人たちを捌いていた。それが病室での楽しみの一つにもなっていた。
ガンは、回復を願う真子たちとは別の世界に住んで、哲雄の体を蝕んだ。放射線、抗ガン剤と辛い治療を耐え、愚痴と泣き言を朗らかに喋り散らしながら、哲雄は闘った。闘った?そういう言い方もあるだろう。だが、「闘病生活」などと言われたら、哲雄自身が砂利を噛んだような顏をしたに違いないのだ。病室のベッドで「店仕舞いするまでは、いつも通りに営業いたします。」と哲雄は笑っていた。それは、「闘う」と言うよりは、「ガンと暮す日々」と呼ばれた方がしっくりくる佇まいだった。その在り様は、おそらく持って生れた気質という土壌に育ったものだったろうが、一方で哲雄は、光太郎に対する責務を感じて振る舞っていることも真子に語っていた。
「あの子は、見とるばい、真子さん。ぼくがどんな風に死ぬのか、見とる。だから、見せてあげるよ、父親の死に方を。後から来る人に死とのつきあい方を見せてやるのは、ぼくの務めだと思うから、自分なりの考えで、こんな風にしていると。まあ、これ以外にどうしようもなかとも事実。」
そして、真子の顏を包みこむように見て、こう続けた。
「心残りは山ほどあれど、致し方なき仕儀にて候。ばってん、仕方ない事は、普通に生きてても沢山あるわけだから。やれる事をできる時までやるだけだ。たとえ途中で倒れて、無駄で、役に立たないままに終っても。」
やれる事の中には、連れ添った伴侶の行く末を案ずることは数えられていなかったようだった。哲雄からの感謝と労いの言葉を聞きながらも、真子は、昏い道程でつないでいた手が離れてゆくような気がしていた。
「やれる事をできる時までやるだけ」という言葉通りに振る舞って、半年後、哲雄は逝ってしまった。再び手がつながれることはなかった。
その哲雄が裸で、真子に背を向けて立っている。
死地に現われた幻覚に違いない。その証拠に哲雄は、亡くなる直前の痩せ細った体ではなく、若い頃の、つやつやと張った肉体を見せている。我乍ら妙な幻にすがったものだ、と真子がただあきれていると、哲雄の幻が左手を持ち上げ、床の一点を指差した。そこには、小松が落した鉈が転がっていた。哲雄の体が明るさを増したように思える。その鉈を持て、と哲雄が言ってると真子は合点した。
(そう、わかった。その鉈を持って、「やれる事をやれるまでやれ」というわけね。よか。やるよ。やるからもう消えていいよ。)
真子は一度目を閉じて、開いた。哲雄の姿は消えていた。
呻く声に振り返ると、小松が水希の首に手をかけている。小松の口がめりめりと己の頬肉を裂きながら開き、苦痛に歪んだ水希の顏に狙いをさだめていた。真子の口の中に薬品を含んだような味が広がった。真子は、体を投げ、右手を伸ばすと残っていた指と親指でなんとか鉈をつかんだ。左手を分娩台にかけ、体を引き上げながら、右足を素早く引き付ける。血で滑って鉈を落しそうだったが、持ち替えている暇はなかった。右足が床を踏み、力を入れられるようになると、一気に立ち上がりながら振り向いた。左手で応援して鉈を頭の上に振り上げる。回転を止める左足の踏ん張りがないので、真子の体はそのまま前のめりに倒れこんだ。小松のところまでは相当距離があるのに、鉈の木柄が右手の血で滑って、すっぽ抜けてしまった。(失敗した)という声が真子の頭を過った。しかし、その真子の体勢の崩れが、逆に功を奏した。倒れる体の運動が加勢して真子の体重が上手く鉈に乗り、握った手から高い位置で抜けることによって鋭い回転を与えられ、鉈は驚くほどの勢いで飛んだ。
床に倒れて額をしたたかに打ったが、真子は咄嗟に顏を上げ、鉈の行方を追った。
鉈は、背中を向けている小松秋男の第一頚椎、盆の窪の辺りに深々とかっきり縦に切り刺さった。ざくっという音が聞こえたようだった。鉈は延髄を断ち切ったのだ。脳から切り離された体は、一瞬にして肉の塊となった。小松秋男は吉野智の頭蓋の内に閉じ込められた。水希の首を締めていた両手がすとんと垂れ、ゆらりと前に倒れる。大きく開いた口からは、何の声もない。水希は、小松が倒れ込んでくるのに気付くと、あわてて身をかわした。影になった男の顏で、目がぎょろりと動いたようだった。祖母と孫娘を苦しめた化け物は、重い音をたてて床に伸び、そのまま動かなくなった。
水希は荒い息で、吉野智=小松秋男の側に立っていた。鉈を背負った死体は、感じていたよりもずっと長く、巨大に思える。水希は震える手を胸の前で握り合せた。膝も震えが止まらず、時折、体全体を大きな震えが走る。
「水希、大丈夫ね?」ささやくような祖母の声に我を取り戻すと、水希は祖母の元に駆け寄った。
「お祖母ちゃん、お祖母ちゃん!」
「あ、痛い、痛たた。ごめんね、あちこちボロボロになってしもうた。」
「大丈夫?すぐ病院に行かなくちゃ。」
「ここが病院よ。」
「ああ、そうか。」ふふと二人は笑った。
病院が崩れだしたのは、その時だった。
爆発音に似た響きが一発、足のすぐ裏で轟き、ひと呼吸置いてから、がらがらという音が地中から這い上がってきた。そこへ、撓み軋む音が重なった。部屋を揺らす振動がどんどん大きくなっていく。無影灯が前後左右に振れ、狂ったダンスを踊っている。
「お祖母ちゃん、車椅子に乗って!」水希は、真子を抱き抱えるようにして車椅子に乗せ、部屋を飛び出した。右手向うの廊下の床がどんどん沈みだし、天井が濛々と埃を滝にして崩れ落ちてきていた。腹の底を浮き上がらせる轟音と視界を掻き回す塵雲の嵐の奥へ、病院が噛み砕かれ、飲み込まれていく。水希は、出口を目指して駆け出した。
しかし、車椅子はそう簡単に走り出すほどには軽くない。体のあちこちが悲鳴をあげている。肩甲骨のあたりは痙攣が止まらず、熱い痛みで穴でも開いていそうだ。気持ちばかり焦るが、一向にスピードがでなかった。前方の彼方で女の悲鳴がいくつも聞こえる。直進して、突き当たりを左へ折れる。一歩だけ足が滑ったが、すぐに立て直すと、ようやく車椅子の車輪に勢いがついて、速度が上がった。ちらりと左手の窓を見ると、まさに向いの病棟が崩れだし、地中へ落ち込もうとしていた。すっかり暗くなった空を背景に、それよりどす黒い煙が一際高く噴き上がった。塵の雲が塵の雲の上にのしかかって押し広げ、建物の部分が一時に引き込まれると、そのあおりで、別の塵の雲が身悶えながらせり出る。
真子もそちらへ目を見開いている。が、一声も発しない。車椅子の肘掛けを握った手に力が入っていて、体も固くしているのが分る。右手は指が三本欠け、血が手首のあたりまで覆っていた。自分に預けきっている真子の様子が祖母らしい、と水希は、切羽詰った状況の中でくすぐったくなった。
最後の角を曲って、正面玄関が見えてくると、水希は笑いたくてむずむずしてきて、「お祖母ちゃん、行くよぉ!」と大きく声を掛け、残っている力を振り絞った。真子が腹の底から怒鳴り返す。「いいよ、水希、今はまだ負けるわけにはいかんよ!」
病院を呑み込む奈落と真子・水希の競争になった。
後頭部にちりちりと粟立つ感じがある。耳のすぐ後ろで、病院が悲鳴を叫びながら、波にさらわれるようにどんどん地下へ崩れていく。破滅が何度も水希の踵を舐めそうになる。
玄関を飛び出ると、門の辺りにいくつも車のヘッドライトが光り、その間々で人影が手を振り回していた。「こっち、こっち、急げ!」と叫ぶ声が耳に届く。車寄せを突っ切る。衝撃波が地の裏を叩いて足が浮いた。地中深く、正体不明の顎へ、どどどと瓦礫が転げ落ちる。門の外に出た瞬間に水希が振り向くと、病院があった場所がそっくり黒々とした穴に変っていた。それに被さって土埃のドームが盛り上ったかと思うと、たちまち吸い込まれて内側から崩れて萎み、かわりに漆黒の虚無から音とも思えない轟きが地表を目指して急襲して来た。それは大量の水が空間を占領する音へと変り、渦巻く轟音となった。
「水希!わたしにも見せて!」真子が叫び、孫娘は車椅子を振り向かせた。
ヘッドライトの光の束が数本、黒い穴の中へ落ち、そこが薄ぼんやりと緑に光って、渦に走る水塊を見せていた。水嵩が見る見る内に地表に近付く。溢れるのではないかと、水希たちの周りがたじろぐ。盲目の貪欲が地の縁を噛んで、ごぼりごぼりと不気味な音をたてた。穴の中央で、巨大な獣が身を起すように、水面が丸々と膨れあがるのが分った。瞬きするほどの間、そのまま凍り付き、次の瞬間、地中深くへあっけなく吸い込まれていった。後を追って土塊が滑り落る音がしばらく続き、やがてそれもおさまった。
声にならない溜息が、水希の周りで一斉に起きる。
水希は、車椅子のグリップを握ったまま、その場に座りこんでしまった。
黒が凝り固まった穴のはるか上に、賑やかな星座が瞬いている。夏の間ずっと夜を飛び続ける白鳥座の十字が、天空の流れを静めていた。

〈完〉

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