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君の唇は暗黒星(二) [小さな話]

 誰がどんな気を回して余計なことをしたのか、福岡に向う飛行機の席は恭子さんを真ん中に挟んだ三人並びの席だった。それでも和樹にとって幸いだったのは、恭子さんが久し振りの畑山に気をとられて、そちらに盛んに話しかけ、和樹の方にはそれほど干渉してこなかったことだ。ただ、恭子さんから逃がれようとした畑山はしきりに話題を和樹に振り、その度に恭子さんがくるりと和樹の方を向き、はしゃいだ笑顔を見せてくるので、まるっきり苛々しないでいられたわけではなかった。和樹は(こっち見んな、ばばぁ)と叫びだしたかった。
 福岡空港で飛行機のドアをくぐると、それまで圧迫感があったのだと気づかされた。その後の空白へ五月の風が寄せてくるようだった。その爽やかさに思わず頬を緩めていると、恭子さんが「あ、気持いいですねぇ。」と言い、和樹たちは「本当、本当。」と声を合せた。
畑山と和樹はスーツケース型のキャリー・バッグを引き摺り、別にビジネス・バッグを下げていた。どちらのキャリー・バッグも真新しく、この出張にあわせて買ったことが窺える。それに対して恭子さんは大きめのショルダーバッグ一つだけという軽さだった。展示会は三日だが、最終日に帰るので福岡に滞在するのは二泊であり、それほど荷物が必要なわけではないにしても恭子さんの手荷物は少なかった。畑山が和樹を突ついて、恭子さんの荷物に注意を促した。
「あれは少ないって。下着とかどうする気だ?三日間同じパンツか?」
和樹は畑山に口の形だけで聞こえるぞと警告した。逆に畑山は前を歩く恭子さんに追いついて質問した。
「これだけですか。ずいぶん身軽ですね。」
「え、ああ、これ。いつもこんなものよ。それに今回はお仕事でしょう。着るものもスーツでいいから、ある意味、楽ね。」
「そうか、さすが高野さん、旅慣れしてるなあ。博多は何度も来てるんでしょう?」
「そうね。結構来てるわね。でも、この前に来たのは去年の夏よ。」
「そうなんだ。やっぱりグルメ旅ですか。」
「それもあるけど。」
「他にも目的がある。彼氏がいるとか?」
「ないない。」
「本当ですかぁ?」
「博多の街が好きなのよ。街が肌に合うというのか、性に合うというのか。おいしい食べものもたくさんあるし。」
「後でつれて行ってくださいよ。高野さんがお勧めの店。」
「いいわよ。」
「どのくらい旅行に行くんですか?」和樹は急に興味を掻きたてられて質問した。
「以前に比べると減ったけど、月に二回ぐらい。連休があると出来る限り、ね。」
「一週おきのペースですね。行き先は?海外とかも行くんですか?」
「行きますよ。国内より安い所もあるから。それでも国内が多いかな。やっぱり食べ物は日本の方がおいしいから。」
「安心ですもんね。」畑山が地下鉄の方向を指差しながら言った。福岡営業所の最寄り駅に迎えが来ることになっていた。
「旅行に行かない時は何をしてるんですか?」
「旅行に行かない時ですかぁ、まあ、いろいろと。」
「忙しいわけですね。」
「そうね。結構時間がないのよね。」
「充実してるんだ。」畑山が言った。
「そう言われるとそうでもない気がするけれど。でも、仕事と言うのは生活していくための手段であってぇ、それが目的ではないわけ。だって働いている時間は人生の全体からしたら三分の一しかなくて、それ以外の時間が三分の二あるんです。だから、仕事以外の時間をどうやって過ごすかが大切なんです。その時間に本当にやりたい事を思い切りやらなきゃいけないのよ。」
「高野さんが本当にやりたい事は何なんですか?」畑山が目を丸くしているのを横目で見ながら、和樹はきいた。
「いろいろあるんだけど、やっぱり人との出会いかな。」
「出会い?」
「そうね。たくさんの人と出会いたいんですよ。そしてそこにある人間の生活を知りたいわけ。もちろん食べ物も含めて。分るかしら?」
「分んない。」和樹は呟いたが、恭子さんにも畑山にも聞こえなかった。
「最近は、ただ旅をしたり、美味しいものを探したりするだけでは駄目で、それを記録してぇ、自分の言葉で表現することに興味があるの。」
「はあ、記録って、写真を撮るとかですか。」畑山がきいた。
「ええ、写真も撮るの。カメラも ちょっとイイものを買ったし。今日はお仕事だから持って来てないけれど。それで。ふふふ。」ちょっと勿体つけたように恭子さんは言葉を切った。「撮った写真をブログにアップロードして、感想を書くんです。」
「ほぉ。」「どんな事を書くんですか?」
「感じたことや考えたことを自分の言葉で書くんです。食べ物だったらどんな風に美味しかったかとか、旅先でどんな人に出会ったかとか。難しいことは書けないけれど、自分が体験したことを嘘のない、自分の言葉で書く。それが本物の記録だと思うから。」
「写真の説明ではなくて?」
「写真と全然違うことを書くこともありますよ。それがいい効果を生み出すこともあるのね。」
「パソコンで入力して?」
「そう。」
「旅行から帰ってきたらすぐ書くんですか?」
「そうね。旅先で書くこともあるけれど。最近はスマホでも書こうと思ったら書けるのよね。でも、小さい画面だと眼につらいわ。」
「書いたものは見直したりするんですか?」
「ええ、当然。誤字脱字があったら恥かしいし、そんな文章読んでもらえないでしょう。それに私のブログの読者に失礼になると思うから、変な文章を読ませたら。」
どうやら自分のブログの文章なら慎重にチェックするらしい、と和樹は思った。ブログがプログになるようなことはないということなのだろう。本人が気づいていない可能性はあるが。
「へぇえ。ブログとか書くのは芸能人だけかと思ってましたよ。」
「いえ、そんなことないですよ。私にブログを教えてくれた人は、もうずっと前から自分のブログを持ってて、そういう方は結構いらっしゃるのよ。」
「ブログを教えてくれる人がいるんですか。どこでそんな人と知り合うんですか。そういう紹介所みたいなものがあるとか。」
「紹介所って何よ。ブログを通して知り合ったんです。」
「出会い系ブログ?」
「畑山君はどうしてもそちらの方向へ持って行きたいみたいね。出会い系ブログなんかないですよ。たまたま旅行した所の写真をインターネットで見つけて、それに添えられていた文章が素敵だったの。それで感想を書き込んだら、そこから遣り取りが始まってぇ、それで知り合ったわけ。」
「そんなことがあるんだ。」
「高野さんのブログはどれくらいアクセスがあるんですか。」
「んー、SNSでお友達になっている人が主に読んでくださるので、普段は五十人くらいかな。検索してくる人もいるから、時々増えるわね。」
「SNSって?」畑山が和樹に聞いた。
「フェイスブックとかミクシィとかのこと。」畑山は「そう言えばいいのに」という顔をした。
「そういう人達と一緒に旅行へ行ったりするわけですか。」
「そうね。誘い合うこともあるけど、そんなにいつも一緒ではないの。同じ所へ行ったらブログの内容が同じになってしまうでしょう。」
「はあはあ、なるほど。高野さんのブログのURLを教えてくださいよ。興味があるなあ。」
「あ、いいですよ。畑山君に読んでいただけると嬉しいわ。」
「あれ、高野さんは一人旅が多いんですか?」
「本来旅は一人ですべきなんです。連れがいるとその人に気を使うでしょう。一人だと気も楽だし。」
「高野さんのご家族は…?」
「家族も一緒には行きませんよ。」
「ご兄弟はいらっしゃいましたっけ?」
「いえ。今は母と私と二人だけ。父は一昨年亡くなったので。」
「じゃあ、休日はお母さん一人でお留守番じゃないですか。」
「そうよ。でも、いいの。」恭子さんは、話はここで終りという風に窓の外へ顔を向けた。列車は地上に出ていた。もう次が降りる駅だった。

 駅の改札口の向うには二人の男が待っていて、和樹たちに気づいた。こちらでは恭子さんが大きな声で「お疲れさまですぅー!お世話になります。お久しぶりぃ」と一歩先に近づいていった。
二人は福岡営業所の井上哲彦と古賀敏だった。後で古賀が和樹たちに語ったところによると、井上と古賀はほぼ同期の入社で、入社した時の本社研修で恭子さんに面倒をみてもらったことがあるとのことだった。「もう、僕達が入社した時には、高野さんはバリバリ働いておらしたとですよ。」と古賀が言った。二人は研修のあと福岡に戻り、数年後、他社からの転職してきた年長の井上が所長になった。
「何年ぶりですかね~、いや~、懐しいですね~。」と井上所長が言った。井上所長は背丈こそ中背だったが、肩の肉が盛りあがり、分厚い体つきで、こちらにどんどん迫ってきそうな男だった。四角い額が血色良く日焼けしていた。古賀の方はずっと小柄で、骨がないような掌をしていた。坊主頭が白髪でもないのになぜか白っぽい。抜け目なさそうに笑った。
煙草臭い会社の車に乗ると井上所長が後ろの和樹たちの方へ半身を出して、「とりあえず。」と手刀を振るような真似をしてから、ハンドルを握る古賀の方へ「おい、大丈夫か?」と声をかけた。古賀の返事など確かめもせずにまた後ろへ顔をつきだすと、「とりあえず、光正商会さんの所まで行って、挨拶をしときたいんですよ。それから食事をしましょう。ね?」と言った。そして和樹たちの返事もまた関係なく、古賀に「じゃ、行こう。」と指示するのだった。車が動きだすと前を向いたまま「食事が終ってから宿へ行きますから。」と言った。

 すぐに恭子さんが「井上君、この車煙草臭いわね。」と言いだした。
「あ、匂いますか?すみませんね。二人とも吸うもんで。窓ば開けてください。」井上所長が言った。
「芳香剤を置きなさいよ。本来、煙草を吸うべきじゃないのよ、会社の車だって。」
「すみません、すみません。申し訳ないです。いや〜、なかなか止められんとですよ。でも、高野さんに怒られちゃいかんですな。禁煙せんと。おい、古賀君、君も禁煙だな。」
「はい、頑張ります。」古賀の返答に井上所長がすかさず「本当だな。禁煙しろよ。東京の皆さんが証人だからな。」と言い、古賀がそれに「明日からでいいですか?」と返した。井上所長は「これはあてにならんですばい。」と和樹たちの方へ振り向いてから、一緒に笑えとばかりに大笑いしてみせた。何度も繰り返された儀式に見えた。恭子さんの文句を黙らせようとする圧力が底に隠れていそうだった。畑山は笑い声に乗じて「禁煙は難しいですよねぇ〜。」と同調してみせたが、それに対して井上所長は前を向いたまま頭を二三度上下に沈ませただけだった。
「畑山君、窓を開けてもらえない?気持ち悪くなりそう。」恭子さんはおかまいなしに続けた。
一呼吸の間、車内が風の音だけになった。
井上所長は左肩を窓に寄せながら座る位置をずらし、「本社の方はどうですか?」と誰にというわけでもなさそうに聞いた。「そうですね、やっぱり厳しいです。」と畑山が出番を心得ていると言わんばかりに首を伸ばした。「九州の方はどうですか?」
「景気悪いですよ。だめ、だめ。さっぱりですて。」
「そうですか。どこも厳しいんですねぇ。」
「そいでも、本社はいいのではないですか。奥井部長がおらすけん。」
「はあ。」畑山には「おらすけん」が今ひとつピンとこなかったようだった。和樹は話の行方に見当もつかず、ただ聞くだけだった。
「奥山部長がいれば大丈夫です、ねえ。奥山さんが部長になったのは会社にとっていい事だった、と僕は思います。それまでは会社が、いや営業部がね、私物化されていた。戦略も展望もない人たちが権力だけを握って、悪い方へ流れていた。それが奥山部長によって変りましたよ。社長だって分っとったはずです。でも、営業所から見とるとよりはっきりと分かるんですな。」
「井上君は奥山部長のことが好きみたいね。」恭子さんの肘がわずかに張られて、和樹の肘を押した。
「好きか嫌いかと言われれば、好きなんですかね。あは、そんな気はありません、僕は。ノーマル、ノーマル。女の人の方が好きですよ。なあ、古賀君。」
「え、所長は女性が大好きです。」
「大好きは余計だろ。ハハハハ。でも、奥井部長の考えとらすことは、いちいち頷けるとですよ。部長は、良く考えている。会社にとって何が大切か、これからどうすべきか。ああいう人こそ会社にとって必要なんですな。」
「そうかしら。横暴だという人もいるわよ。奥山部長こそ私物化しているかもしれないし。」
「そんなことはないでしょう。ハハハハ。売上がすべてを物語っているとではなかですかね。」
「福岡営業所がお荷物になってなければいいけど。」
「おお、こりゃたまらんばい。高野さんの毒針は健在ですな。」
「何が毒針よ。」
「なあ、古賀君、高野さんには鍛えられたもんな。」
「はい、はい。お世話になりました。」
「あら、もう忘れたわ。」
「いや〜、あの頃の高野さんは内藤部長の隣で輝いていましたから。新入りの私らにしてみたらまるで女王様のようでした。なあ、古賀君。」
運転席のヘッドレスト越しに古賀の頭が少しだけ振られるのが見えた。
「失礼で図々しいのは変らないのね。内藤部長がいなくなって、叱ってくれる人がいなくなったせいかしら。」
「内藤さんがいなくなられて、本当にほっとしましたよ。あの人がいたら会社は駄目になっていたばい。」
「どうかしら。古くからのお客さんがどう言ってるか、よね。」
「どう言ってるとですか。」
「離れていいってるお客さんもいるようよ。商売の基本を忘れてるんじゃないかって、心配する声も聞くけど。奥山部長は数字だけ追いかけて、お客さんに顔を向けていないって。」
「どうせ片山商事の社長あたりの話でしょう?まったく。売上をあげなければどうやって食べていくとですか。環境が変ってきているのに今まで通りのことなどできんでしょうに。あの手の人たちは、自分たちがおいしい目にありつけた頃の思い出にいつまでもしがみついてるということですよ。言わせておけばよかとです。もう片山さんの時代ではなかとです。」
「そうかしら。やっぱり聞くべきところは聞くべきだと思うけど。今の営業のやり方に不満を持っている得意先もいるということじゃないの。」
「ハハッ。」
井上所長と恭子さんの間に何か因縁があったのか、それとも単に内藤対奥山闘争の残響を見せられているだけなのか、和樹にはどうにも判断できかねた。二人の言葉は、声色低く、相手の間合をはかるように繰り出されて、じりじりと切っ先を尖らせていくようだった。
「それはそうと、高野さんは結婚されたんですか。」恭子さんが明かに面喰っているのが分った。
「いきなり何?」
「いや、高野さんはもう結婚されたのかなと思ったのですよ。私らが東京にいた頃には、高野さんは憧れの的でしたもん。どげん男が高野さんのハートを射止めるのか、みんな注目してました。」
「何それ。私が誰と結婚しようと井上君には関係ないことよ。」
「おろ。結婚されたとですか。こっちには噂が流れてこんかったなあ。」
「してない。」
「はあ?」
「結婚なんかしてないわよ。」
「ありゃ。そうですか〜、失敬、失敬。しっかしそれはいかん、いかんばい、なあ、古賀君。高野さんならよか奥さん、よかお母さんになるとに。もったいなか〜。これからでも遅くはないですよ。結婚せんばいかん。結婚して子供ば作らんですか。」
「残念ながら結婚してくれる人がいなくて。でも井上君に心配してもらう必要はないわ。おおきなお世話です。」
「この古賀君はどうですか。なあ、古賀君。内藤さんに比べると少し見劣りするかもしれんばってん、内藤さんよりずっと若いですよ。真面目だし。どうですか、ええ?」
恭子さんは答えず、シートに背を深く預けた。井上は恭子さんが黙り込んだのを無視しして、「どうだ、古賀君。え?」と言いながら古賀の左肘を下から突くのだった。古賀は「ありゃ、あぶない、所長、あぶないですて。」と笑っていた。

 窓の外の緑が明るかった。山が迫るほど近くなって来ているのだ。市街地から随分と離れてしまっていた。取引先の会社へ向かっている気分ではない。和樹は「旅館、温泉、刺身の盛り合わせ。」と呟いてしまった。
「本当ね。」恭子さんが和樹の独り言を聞きつけていた。「これじゃ社員旅行よね。」畑山がニヤリとしてから井上に向かって言った。
「結構遠いんですね。」
「ああ。そうね。もう少しですよ。ちょっと不便な所にあるけんね。」
しかし、どう見ても「ちょっと不便」どころではなさそうだった。左手には山の連なりが近く、道路と山裾の間には山中から降りてきた木々が立ち塞がり、建物の影も見あたらなくなっている。右手は、路肩を下った先に水田が見え隠れしてはいるが、その向こうにはやはり山々が控えていて、それが道の先の方でぐっと近寄ってきている。どうも山の間に入って行くような感じだった。あれほど賑やかに道の両脇に並んでいたファミリー・レストラン、日用雑貨のショッピング・センター、ガソリン・スタンド、パチンコ屋、ラーメン屋が、既にまるっきり影も形もない。それどころか、濃くなる緑が途切れたと思うと、何か取り壊した跡なのか、白っぽく開いたコンクリートの空き地が急に現れたりして、人間が去ってしまった雰囲気がするくらいなのである。
山を越えると町が開けるということもあるかも知れないが、こんな所で商売が成り立つのだろうか、と和樹は疑問に思った。
さすがに空腹が感じられて、時計を見ると一時半を回っていた。車内は、エンジンの唸りとタイヤの擦過音の背景に風の音がかぶさり、舗装の継ぎ目を乗り過ぎるゴトッ、ゴトッという音が間遠に響くだけだった。
恭子さんと井上所長の、棘を含んだやり取りを見せられ、それが何を下敷にしているものなのか見当もつかないまま、和樹は案内の無い土地の奥深くへ運ばれていた。誰かとこの状況を整理したかった。その誰かは畑山以外にはいないのだが、しかし畑山は、和樹の視線に一向に気づく様子はなく、車に乗り慣れた犬のような顔をして、風に顔を差し出し、目を細めていた。
その時、和樹の手の中に何かが押し込められた。「ひっ」と声を出して見ると、「ソイジョイ」とアルファベットで書いてある細長い袋だった。
恭子さんが「どうぞ。お腹、減ったでしょう?はい、畑山さんも。」と言いながら、カバンから同じ物を取り出して畑山に渡した。それから、もう一度カバンに手を入れ、さらに二本取り出すと、井上所長と古賀に「食べます?」と聞いた。
「お、すみませんな。」と井上所長は二本とも受け取った。恭子さんも自分の分の袋を破き、五人は「ソイジョイ」という小麦色の、ハーモニカのような棒を齧り、黙々と口を動かした。
恭子さんは五本以上の「ソイジョイ」を持ってきているようだった。ちらりと見えたカバンの中には、「ソイジョイ」の袋がさらにわさわさと入っていた。どれだけ「ソイジョイ」が好きなのだろう。配るチャンスがなかったら、全部自分で食べるつもりだったのか。横目で見た恭子さんは、まるっきり空っぽの表情で口を動かしているのだった。

 井上所長の「もう少し」が三十分近くになってようやく車は止まった。すでに舗装された道路は途絶え、車輪の跡が深い山道を登ってきた。車から降りた恭子さんが「ここぉ?」と誰の答を期待するわけでもなさそうに溜息をつきながら言った。
来た道は先へ登ってから、少し薄暗くなった緑のトンネルの中へ曲がって消えていた。和樹たちが止まった所には左へ入る脇道があり、入口に矢印の描かれた板が棒に打ち付けられて立っていた。しかし、赤く大きく矢印が描かれているだけで他には何もなく、しかも板が少し下を向いているので、脇道自体を矢印が指しているように見えて、「ここに脇道がありますよ」と白痴じみた念を押されている感じがするのだった。
「ここですか?」畑山が小さい声で言った。畑山も和樹同様に驚き、訝しんでいるようだった。
博多の市街から車で二時間も離れているのである。そして滅多にお目にかかれないほど瑞々しい緑の只中だ。意識しなくとも耳が澄んでくる。すると遠くで、喉を潤すような鳥の囀りが聞こえる。
強度の人間嫌いにはその辺りは天国だろうと思われた。しかし、会社を作るのは馬鹿げていた。畑山が携帯の画面を覗いて「圏外かよ。」とぼやいた。
「こっちです。」古賀が脇道の奥を指差している。井上所長は腰に両拳をあてて、背を反らせていた。
道は軽自動車でも通れない幅で、井上所長を先頭にして縦に一列となって歩くことになった。両側に杉の森が押し出してきていた。道との境界は草が息を吹き返したように繁っている。道を半分ほど進んだあたりで、両脇の草叢の中に黒い鉄柵が現れた。
和樹の前を歩いている畑山が振り返って道の入口を指し、「光正商会さんに来たら、みんなあそこで車を降りるのか。」と言った。
「会社の車はどうなってるんだ?」
「さあ。」
「それに、社員はどうやって通勤するんだよ?携帯も通じないでどうするんだよ?」
「不思議だよな。」畑山と和樹の会話は囁き声になっていた。畑山の前を歩いていた恭子さんも振り返り、同じように小さな声で言った。
「なんなの、これは?変よね。」畑山と和樹は何度も頷いた。
道の突き当たりはコンクリート塀で塞がれ、その中央に黒い鉄の門が現れた。門の向うに平屋の建物があって、屋根の下の壁に大きく「光正商会」と書かれた看板が取り付けてあった。
 和樹たちは明かるい緑の作業服を着た男性に案内されて応接室へ通された。
「ただいま社長が参りますので、お掛けになってお待ちください。」男性はカクッとおじぎをすると応接を出て行った。部屋はそれほど広くなく、和樹たちが腰をおろすともう空きはなかった。
すぐにノックの音がして、お盆を捧げ持った女性が入ってきた。最初の男性と同じ色の上着に紺のスカートで、丸い顔をしていた。
「いらっしゃいませ〜。」と一礼してから、お盆のお茶を配った。それが終わると、テーブルのすぐ横に立ち、お盆を胸の前に抱えて和樹たちを見ながらニコニコしている。
「あの、東京からいらっしゃたんですよね。」
「そうたい。本社の精鋭部隊に来てもらったと。」井上所長が答えた。
「遠いところからありがとうございます。あの、あの、私、先月、東京へ行ってきたんです。」
「アキちゃん、前から行きたいと言いよったもんね。」古賀が言った。
「はい。念願の東京ですよ。」
「どぎゃんだった?」
「楽しくて、楽しくて。」
「東京のどこに行かれたんですか。」畑山が口を開いた。
「え、お台場のディズニーランドへ。」アキちゃんと呼ばれた女性はさらに笑顔を広げ、目が描かれたように細くなった。畑山の笑顔が固まっていた。
「ディズニーランドか。いいねぇ。」井上所長はアキちゃんの言葉にも畑山の様子にも気づいていないようだった。
「それから山手線を一周して、秋葉原のメイドカフェも行きました。」
「ディズニーランドはいつからお台場に移ったの?」恭子さんの言葉は昨日の夕飯に何を食べたかと訊いているようだった。
「本当に行ったんですよ。有給を取って。」恭子さんは畑山を見た。恭子さんの視線は「あなたが続きを引き受けなさいよ。」と言っていたが、畑山は固まったままだった。
「疑ってるんですか?」アキちゃんの顔から笑顔が消えた。
「アキちゃん、誰も疑ったりしとらんよ。」古賀が手をアキちゃんの方へ伸ばし、掌で拭うような仕草をしながら言った。「よく社長が有給とらせてくれたねぇ。」
「はい。真面目に働いているから、お休みとっていいよ、て。」
「ほぉ〜。」
「どちらにお住いなんですか?」和樹はどうやって通勤しているのかを知ろうとして訊いた。しかし、和樹の質問は無視された。
「新宿も原宿も行きましたよ。人、人、人ですね。びっくりしました。私だったら、あんな所には住みきらんなーと思いました。蟻の巣のように人がいるじゃないですか。人を見ていると具合が悪くなってしまいました。なんであんなに人がいるんですか。あんなに人が必要なんですかね?」
「あら、必要ない人もたくさんいるわよ。必要もないのに遊びに来る人たちも混じってるし。」
「あれ。あれ。どういうことやろうか。遊びに行ったらいけんかったとですか?」
「本当に人の多さにはあきれますよね。新宿駅とか池袋駅の中は人が多すぎて速く歩けないんですもん。具合が悪くなるというのは良く分るなぁ。」ようやく畑山が口を挟んだ。アキちゃんは畑山の言葉に我が意を得たりと笑顔になって頷いた。
「アキちゃん、お土産は?お土産はないとね?」
「あ、忘れた。古賀さん、ごめーん。」急にアキちゃんが大きな声を出した。
「忘れんでよー、切なかー。」古賀とアキちゃんが叫んだ。和樹にはそう聞こえたのだが、どうやら笑っているというのが本当のところのようだった。古賀は「へやへやへや」と収まったが、アキちゃんは「くきっ、くきっ」と鋭い音を出し続けた。和樹が井上所長を窺うと、何もおかしいとは思っていないようで、少し斜め上の空間に視線をさまよわせていた。
「この古賀さんのことを忘れんでよー、アキちゃーん。古賀さんは独身で寂しかとばーい。」
「んもう、古賀さん、笑わせんで〜。おかしか。」
「オカシカ。」恭子さんがアキちゃんの言葉尻を平板なイントネーションで繰り返した。「オカシカ。」
すると急に古賀もアキちゃんも静かになって、和樹たちと視線を合せないようにあらぬ方を向いた。アキちゃんはお盆の縁を持ちかえ持ちかえしてずらしていた。やがて片手をお盆から離すと、恭子さんを真っ直ぐ指差しながら古賀に向って言った。
「この人たちは何しに来たと?」恭子さんの目が見開かれた。
「お仕事のお手伝い、ばい。」
「へー。でも、手伝ってもらわんでもいいよ。人手は足りとるもん。それに、訳の分からん人に余計な事をされると、逆に仕事が増えるけんね。」
「アキちゃんはプロだもんなー」
「そうよ。 プロよ。」
「アキちゃん、社長はまだかなぁ?」井上所長が口を開いた。しかし、アキちゃんは井上所長の方を見ようとはしなかった。
「あんた、何様のつもりですか?」アキちゃんが恭子さんに向かって言った。「あんた」と「ですか」という非対称が和樹の耳についた。
「なにかしら、この子は。」恭子さんは不意をつかれた。
「えっらそうにして。ただのオバチャンのくせして。あたしは正社員ですよぉー、馬鹿にせんといてくれんかね。」
「アキちゃん、アキちゃん、もうよかて。よか、よか。」古賀が中腰になってアキちゃんの腕をつかもうとした。しかし、アキちゃんは古賀の手を振り払って怒鳴りだした。
「触るな。触るな。セクハラぞ。なんばしよっとか。ふざけんな。ふざけんな。あんたら、いっちょんわかっとらんちゃ。事務の仕事がどんだけ大変か、知らんちゃ。うちは正社員ばい。正社員の権利を行使させていただきます。そう言ってんだ。ふざけんなよ。触るな。セクハラで訴えるよ。訴えてやる。このエロババア。男の前でくにゃくにゃしてから。お前がセクハラだ。訴えてやるぞ。出るとこ出るぞ。目にもの見せてやる。」
アキちゃんの顔からは笑顔が消え、黒目が瞳の真ん中に固まってしまった。割れるほどの大声を出している間中、持っているお盆をぐらんぐらんと振り回した。一番近くにいた畑山と古賀がそのお盆の方に腕をかかげて護りながら、止める隙を伺っていた。井上所長が立ち上がって、アキちゃんにすっと近寄った。振り回しているお盆をハッとつかむと、肩を巻き込むようにしてアキちゃんをドアの方へ向かせ、「社長を呼びに行こうよ、な。」と言いながらあっさりと出て行った。アキちゃんの方は体の向きを変えられた途端に怒鳴るのを止め、井上所長に背中を押されるがままにドアの外へ去った。
 二人の姿が消えると、泡立って物問いたげな空気が応接室を支配した。
古賀が口火を切った。
「いや、今日はどうしたのやろか、アキちゃん。興奮しとったのかなぁ。」
「何なの、あの子?」恭子さんが訊いた。
「少しコレ、ですか?」畑山がこめかみの辺りに人差し指を立てて訊いた。
「コレ?いや、いや、普通の女の子ですよ。普通だと思うけど。」
「明らかに普通じゃないでしょう?」
「電波が飛んできちゃってる感じですよね。急に怒りだして。」
「意味が分からないもの。」
「え〜、そうですか。そうかなあ。いつも普通ですけどねぇ。明るいイイ娘なんだけどなぁ。」
「本来、社長のお客様に話しかけるのがおかしいのよ。そこらへんから変だったわ。どこか目付きもおかしかったし。精神的な病気じゃないの?」恭子さんの「本来」が珍しく「べき」を連れず、「おかしい」をお供に登場した。
「え、えー?」古賀はテーブルの上へ少し前屈みになり、茶碗に目を落した。恭子さんの言葉には抵抗を感じているが、それ以上アキちゃんのことを話すつもりはないようだった。
「あー、驚いた。九州の女性はホットだということですかね。」畑山が言うと、恭子さんが睨み返した。
「ちょっと、畑山君、それは違う。」
「あの人はどこに住んでるんですか。」和樹は古賀に訊いた。
「え?え?どこ、とは?」
「この近くに住んでるんですかねぇ。ここは通勤するのに大変そうじゃないですか。だからどこに住んでいて、どうやって通勤してるのかな、と思って。」
「はあ、そりゃそうばいねー。いやぁ、知りません。聞いたことないです。考えたこともない。」
「それじゃだめじゃない。取引先の社員の動向に関心持たなきゃ。特に、事務所にいる女性社員は色々情報を持っていることがあるんだから、コネクションを作らなければダメよ。」
「はあ、はあ。」古賀はニヤニヤしていた。
「何がおかしいの、古賀君。」
「ずいぶん昔の研修で高野さんから同じような事を聞かされたと思いまして。デジャブって言うちゃろか?」
「お、古賀さんが入社された頃の事ですか?高野さんが古賀さんの教育係だったんですよね。」
「はい。私と井上所長も高野先生の生徒でした。」
「先生とかやめなさいよね。」
「いや、先生ですよ。あの頃ですね、高野さんにみっちり仕込まれたから今の私があるとですもん。」
「仕込んだって、新人の研修期間は三ヶ月しかなかったじゃないの。それにあの時の研修の結果がこれなら、私の教育は失敗したんじゃない。」
「ありゃ、オレは失敗作ですか。かはっ。切なかー。それにしても、もう何年前になりますかね?」
「やめてよ。何年前かとか、数えたくないわ。いやね。」
「さーて、何年前だったかなー?」部屋の空気から角々しいところが抜けたように感じられた。畑山がソファの背凭れに体を預けて、古賀と恭子さんを交互に見ていた。
「十五年?二十年にはならんですもんね。この私めがですね、今年で三十八だからー、そうか、やっぱり十五年になりますね。速いなー。」
「古賀君、三十八なの。老けてるわね。ああ、いやね。」
「ええ?そうですか。ショックぅー。でも、高野さんは変らんですね。あの頃もおきれいでしたし、今も、ね。」
「高野さんは、やっぱり厳しかったんですか。聞きたいな。」
「何、畑山君。あたしは厳しくなんかないわよ。」
「そりゃあ、もう、ビッシビッシでした。所長はね、転職してこられてたので叱られることはありませんでした。でも、僕なんかは、なーんも分かっとらん若造ですもん。高野さんにビッシビッシと鞭打たれましたよ。」
「ビッシビッシ、ね。」
「そう、ビッシビッシ。」
「何言ってるのよ。本来、新入社員の研修は社会人としての常識も教えなければならないの。だから、少しくらいは厳しくしなければいけないわけ。」
「そうです。そうなんですけど、ほら、高野さんは営業部のマドンナでしたからね、大卒のヒヨッコには見ただけで目が潰れそうなくらい神々しいお方だったとですよ。もう女神様ですよ、言うなれば。言うなれば。その女神様から、『あなた、馬鹿じゃなないの?』とか叱られたら、どう思います?もう会社からアパートに帰ったら、首をくくって死のうと思いましたもん。」
「馬鹿ね。」
「ほら、ほら、ほ~ら。聞いたでしょう?『馬鹿ね。』くぅー、ジンジンくるなぁ。柚子胡椒を一瓶食ろうたごたるばい。食べたことはないけど、です。」
「高野さんはマドンナだったんですか?」
「え?今でもそうでしょう?営業部の女神様ですよね?」
「今は企画課よ。」
「あ、そうかー、そうか、そうかー。企画課に異動になったんですよね。もう営業部ではないとですね。僕が入社した時は、内藤部長と高野さんが並ぶとキングアンドクィーンのようでした。え、内藤部長はどちらかと言うと、お殿様的な顔ではないですか。そう思いませんか?あれ、高野さんにも同意していただけない。おかしいなー。内藤部長は営業部のキングという感じで、高野さんがクィーンだと思ってました。その内藤部長も辞められて、寂しかです。内藤部長、中柳商事へ行かれたんですよね。よかねー、よかねー。僕も中柳商事へ行こうかな。内藤部長がおらっしゃった頃がよかった。そりゃあ良かった。井上の奴を叱ってくれましたからね。え?所長のことですよ。アイツはね、駄目です。
どこが駄目かと言うと、所長は奥村部長にべったりですもん。奥村部長に大切な尻の穴を貸したんじゃないんですかい。おっと失礼。しかし、この噂はあながち嘘でもない。穴だけに。な〜んて。え、福岡営業所内の噂です。そうです、福岡営業所は井上所長と僕しかおらんけん、僕が言ってる噂ということです。ここだけの話ですけどね、井上の奴、内藤部長時代には大人しかった癖に、奥村部長の部長就任が発表された日に、こう言いよったとですよ。『明けない夜はないのだよ、古賀。』偉そうに、人を呼び捨てにしよってから。僕はアイツの友達でもなんでもないとです。親しき仲にも礼儀ありだ。僕を呼び捨てにできるのは、そうだなー、高野さんくらいですかね。高野さ~ん、呼び捨てにしていいですから、『古賀』と言ってみてください。
ふざけてないですて。本気。本気と書いてマジ。は?まあいいじゃないですか。それにしても遅いですね。何をしとるのかな、ここの会社の人達は。井上所長も出て行ったきりで。待つしかないです。何の話でしたか?ああ、そうだ、僕たちは十五年前からずっと高野恭子ファンクラブの会員だったんです。井上所長もそうですよ。あれ、もう忘れたとですか?井上の奴が高野さんにセクハラをしようとして、内藤部長に殴られた事件。そうかー、そうかー、高野さんは知らなかったのかー。くそ、それを知ったら井上の奴が喜びよるなぁ。そしたら、ここで僕がお話ししておきますよ。十五年前に何があったのか。真実を知って、井上の奴を軽蔑してください。あはは。井上よ、ザマを見ろ。悪の栄えた例は無いのじゃ。
あれは、研修も残り一ヶ月になったあたりやったから、六月の終わり頃でしたか。僕と井上所長は奥村部長に飲みに連れて行かれました。ああ、その頃はまだ奥村課長で、所長も肩書はなかったのです。だから、井上さんと奥村課長と呼びますけん。連れて行かれたのは、結構おいしいしゃぶしゃぶのお店でした。でも、蒸し暑い日で、食べながら汗だくだくになりました。お腹もいっぱいなり、アルコールもいい加減まわった頃合いに、話が女の子の事になったとです。当然、社内の女性の品定めですよ。高野さんの顔が恐か。そう怒らんでください。男というものは下らんものなのです。男同士が寄り集まれば、女性の話題はアルファにしてオメガ、挨拶代わりであり、かつ究極の話題です。それで、誰それがかわいい、自分が好きなのは誰それだと、奥村課長も独身ですけん、盛り上りました。
そうですよ、奥村部長は今も独身ですよ。なんで結婚されんとですかね。知りませんけど。井上所長?結婚してます。ぶっさいくな奥さんですよ。所長そっくりなケチでね。
バーベキューをやるから来いと言われて、恐る恐る行ってみたとですよ。そしたらなーんか、ドブ川のごたる所にシートば広げて、小汚いガキが三人もいてですよ。上の子はゲームばっかしよってから挨拶もせん。真ん中のは女の子なんですが、どこがどう捻じ曲がっとるのか、僕の尻をボッコボコ蹴りよるとです。けたけた笑って。一番ちっこいのなんか鼻水ば僕のズボンにべらべらつけよってから、もう散々ですよ。こっちは良い肉とビールを持っていったとに、僕の皿には野菜とトウモロコシと焼きそばばっかりのせよって。僕が持って行った肉は『あーら、このお肉は高級品ちゃねー。』とかなんとか言いながらこっそり隠してしまいよりました。なんちゃ、あげな女が許されて、似たものどうしくっつきよるか、不思議ですばい。
僕ですか、まだ独身ですもん。どこかに良い人のおらんですかね。高野さんに憧れたままこの歳になってしまっとです。ひゃははは。
そいで、奥村課長と僕たちの好みの女性の話も、当然高野さんの事になりました。なるでしょう。なんと言うても一番でしたから。いや、今でも一番か?な、ヤング諸君もそう思われるでしょう?なにニヤニヤしとるっちゃ。ヤングやら死語ですか?ともかく、やっぱり高野さんが良い、一度でいいからデートしたい、と僕と井上さんが言うと、奥村課長があの目をすうっと細めまして。よしよし、みたいに、ね。それからこう言いよったんです。
『口先だけじゃ、どうしようもないだろう。行動に移さないと、行動に。』
行動と言っても何をしたらいいですか、と井上さんが訊くと、『今度、営業部で飲み会があるはずだから、その時、高野を酔わせて口説け。』と言いよったとです。いやいや、本当に奥村課長が言ったんです。本当、本当。井上さんはもう目をとろっとさせて奥村課長の方へ顎を突き出して、『いいんですか?本当に口説きますよ。』とか言いいだしよりました。奥村課長は『おう、いいぞ。口説け、口説け。』とけしかけて、井上さんはすっかりその気になったようでした。
僕は、どうせ酔っ払いの悪ふざけだろうと思っとったんですが、奥村課長が言う飲み会が近付くにつれて、井上さんがそわそわしだして、いよいよその日などは黒目が上にあがっていて、もうこれは本気も本気、危ないと思い知らされました。
たしか、その営業部の飲み会は七夕の日やった。ねえ、高野さん。」
「ああ、そうねえ。営業部で七夕にビアガーデンへ行ってたわ。」
「そうです。井上さんは色々準備してましたよ。準備している間に妄想がエスカレートして、おかしな方向へすっ飛んで行きよりました。
まず、飲み会でどうやって高野さんの横に座るか。内藤部長の横が高野さんの定位置なのは営業部の常識でしたから、それをどう乗り越えるかが最初の問題でした。これが内藤部長以外の人が障害物なら井上さんの図々しさで無理矢理も通せたでしょうけど、内藤部長だとそうもいかない。どうするか。内藤部長がトイレに席を立った隙を狙うとか。でも、内藤部長の膀胱が人一倍大きかったら、飲み会が終るまでトイレへ行かない可能性もある。井上さんは僕に、『内藤部長に、飲むとトイレが近くなるかどうか訊いてきてくれないか』と頼んできましたが、断りました。すると井上さんの思考は、内藤部長を飲み会へ参加させない方向へ向かい、当日の朝から内藤部長のコーヒーに下剤を混ぜようと言いだしたのです。それでも内藤部長の大腸が人一倍長かったら無駄になるから、何か仕事を入れて、飲み会に出席できなくすればいいということになりました。
本気ですよ。井上さんは本気でそう考えよったとです。
しかし、まだ研修中の井上さんに部長の仕事をどうこうできるわけなどありません。その位は井上さんも判断できて、井上さんは真面目に奥村課長に相談したとですよ。奥村課長は『まかせろ。俺がなんとかする。』と言いました。相談した井上さんも相当な奴ですが、それに『まかせろ』だなんて答える方も僕の想像を超えるとです。まあ、結局、なんともできなかったわけですが。でも、井上さんは、奥村課長は懐の広い人だ、侠気のある人だ、とか言って、目を潤ませよりました。
それから井上さんは高野さんの横に座ってからどうするかに集中するのだと宣言しまして。
『ああいうプライドの高い女に対しては、まず全否定から入る。』いや、これは井上さんが言ったとですよ。そげな怖い顔で睨みつけんでくださいよぉ、高野さ〜ん。井上さんが高野さんのことを『プライドの高い女』て言いよったとです。
『全否定して、そのプライドの城壁を崩してから、一気に攻めこむ。高いプライドの奥には、自信の無い本丸が隠れているのだ。その本丸を武装解除して、怒涛となって激しく、かと思えば両の掌で包むかのように優しく、さらに炎のように熱く隈なく、次の瞬間には春の風となってくすぐり、揺がしては慰め、静めては轟かし、緩急、緩急と絶え間ない波となって、敵が膝を屈っするまで攻め続ける。』てな意味不明な事をですね、しつこく繰り返すとです。目はぎらぎらと光らせて、小さな声でも念仏を唱えるように呟きよりました。これはなんだか危ないなと思っちょったら、そのうちこう言いだしました。
『飲み会の後、どこへ行くか。』
『はあ。』
『だから、飲み会で口説いた後だよ。』
『そうですね。』
『何がそうですね、だ。真面目に考えろ。場所を移して、最終段階へ行かねばなるまいが。』
『そうですか。』
『あたりまえばい。しかし、ああいうプライドの高い女は、なんのかんのと屁理屈を並べて尻込みするもんたい。への理屈で尻込みか。面白い。とにかく、それにあらかじめ手を打っておかにゃならん。ま、女に言い訳を与えてやるわけさ。』
『と言うと?』
『もうどうしようもなく眠くなって、仕方なくホテルへ入った、とか、な。』
『はあ?』
『目薬をさ、酒の中に垂らすといいとか聞いたこあろうもん。目薬を入れた酒を飲ませると眠らせることができる、とか。』
『ああ、高校生の頃、よくそんな話を聞きました。先輩たちが話してましたが、あれは昔の目薬のことだとか。』
『目薬はな。だから、本当に眠くなる薬を手に入れるわけ。』
『高野さんを眠らせてホテルへ連れ込もうとか考えとるとですか?それは犯罪じゃなかとですか?』
『阿呆。それまで俺の口説きでもう合意に逹っしとるとに、何が犯罪か。』
『ええー、そうかいな?でもですよ、飲み会の席で眠らせることはできんですよ。皆の目がありますよ。』
『なんとかなるさい。それよか、睡眠薬を手に入れねばならん。古賀くんはどこかにあてがなかかな?』
『あるわけないですよ。』
『困ったな。誰が病院に知り合いがおる奴はおらんかなあ。』
この調子でもう滅茶苦茶でした。本当にこんなことを言いよったんです。そ、最低、最悪です。
とんでもない事はもっと続きました。
内藤部長に病院関係者の知り合いがいるという話を井上さんが聞き付けてしまったのです。それで、僕はまさか井上さんもそこまではやらないだろうと思っとったら、そのまさかをやりおりました。しかも僕をだしにして。井上さんは内藤部長の所へ行って、古賀が不眠症で悩んでいる、医者に相談したいが、会社に知られると研修中なのでまずいのじゃないかと行けないでいる、と言ったとです。
内藤部長は、病気だったら治療した方がいい、心配しないで病院へ行けと答えたそうです。当たり前ですよね。それに対して井上さんは、博多からこちらに出てきていて良く知らないので、どこか信頼できる病院を紹介してくれないだろうかと頼み、内藤部長が保険組合の診療所を使えと言っていたのを押し切って、内藤部長の知り合いの病院をまんまと聞きだしました。自分が責任を持って古賀くんを病院へ連れて行きます、とかなんとか言ったようです。
いえ、僕は病院へ行ってません。井上さんは僕の保険証を持って、僕の振りをして診察を受けたのです。
お医者さんの前でどんなでたらめを言ったのか。その場に居合せなかったので分かりませんが、おそらく相当ちぐはぐな事を言ったんだろうと思います。あるいは、とにかく眠れなくて辛いから、よく効く睡眠薬をだしてくれと強引に押し通したか。聞いた話では、井上さんはようやく処方箋を出してもらったんですけれど、その時も、この薬はすぐに眠れるかどうかとしつこく質問し、お医者さんからかなり怪しまれたそうです。何故そんな事を訊いたかと言えば、眠くなるのに時間がかったのでは思い通りにならないからです。
そやけん、井上さんは薬局で薬の袋を開け、自分で飲んでみたとです。どのくらいで効き目が現われるのか、試してみたくなったわけですよ。
薬局を出て、電車に乗る頃にはふらふらになってしまい、様子が変なので、乗客から通報されて電車を降ろされたそうです。持っていた処方箋から薬局、病院と連絡が行き、結局、紹介者となっていた内藤部長が呼び出されたました。そこで僕の振りをしていたことがバレて、井上さんは問い詰められ、あっさりと計画を吐いてしまったらしいとです。なんでしょうね。睡眠薬の副作用でもあったとか、頭がぼんやりしていたのでしょうかね。高野さんを眠らせてホテルに連れ込むつもりだったとまで内藤部長に言ってしまったそうですから。内藤部長はびっくりしカンカンになって、井上さんをごつごつ殴り倒したそうですよ。どうやら、その時井上さんは、奥村課長が一枚噛んでいるというような事も口を滑らしたようです。そのせいで奥村課長は内藤部長に酷く叱られ、奥村課長の方ではそれを随分と根に持ったとか。井上さんは真っ青な顔で奥村課長に土下座したそうですが、奥村課長は全然怒らず、それっきり井上さんは奥村派ですもん。
なんとも滅茶苦茶な、最低な、馬鹿げた話でしょう。ああいう事が井上の本性そのものなんですよ、高野さん。分かりましたか。ああ、すっきりしました。」
「へえー。」畑山がふうっと息を吐きながら体を起し、ソファの背凭れに背中を伸ばした。
「まったく、あきれ返るわね。人のこと何だと思ってるわけ?会社に何しに来てるわけ?馬鹿じゃないの。馬鹿だけじゃなくて、犯罪者ね。もう、信じられない。」恭子さんが一息にまくしたてた。「会社に何しに来てるのか」という質問は、そのまま恭子さんにも訊いてみたいものだ、と和樹は思った。
「高野さんは全然知らなかったんですか?」
「知るわけないでしょう。気持悪いわ、まったく。」
古賀はニヤニヤして恭子さんの反応を見ていた。
「あー、やだやだ。古賀くん、二度と聞きたくないわよ、そんな話。分かった?」
「はいはい。分かりました。怒らんといてくださいよ、高野さん。」
「ま、あなたに怒っても仕方ないわね。…お手洗は何処かしら。」
「あ、ここを出て、左手の突き当たりを右に曲った所にあります。」
「ありがとう。ちょっと失礼します。」
恭子さんが皆の視線の中で立ち上がった。が、平均より低め、かつ横幅との差があまり無いため、立ったのかどうか変化が分かりにくかった。スーツ姿の恭子さんは実におばさんだった。

 恭子さんが応接室から出て行くとすぐに、和樹は声をひそめて古賀に質問した。
「高野さんて、昔はそんなに良かったんですか?」
「はあ?どういうこと?」
「だって話を聞いていると、内藤さんや奥村部長を含めて、みなさんが高野さんを巡って大騒ぎしていた様じゃないですか。でも僕には正直、今の高野さんからは想像できないんですよ。それで昔は今と違っていたのかな、と。」和樹にしてみれば、居眠りとミスばっかりの、ジャバ・ザ・ハット餅おばさんに男が群がるはずなどないのである。しかし、古賀の話に誇張があるとしても、それが事実であるなら、恭子さんは今と違って別人のようだったということになるだろう。それ以外の事は和樹には思いもよらなかった。
「そうねぇ。今より随分痩せていたかいなぁ。それ以外は変ってないよ〜。あまりお変りない。」
「ええ?あんな女にみんなが目の色変えてたんですか?想像できないです。」横で畑山が激しくうなずいていた。
「あんな女って、あははは。ひどい事ば言うねえ。あははは。あんな女が好きな男もいるとばい。僕は違うよ。」
「でも、さっきから『高野さん、高野さん』て…」
「あれは社交辞令たい。挨拶のお世辞くさ。」
「とてもそうには聞こえませんでしたよ。」
「そうね?でも、高野さんは僕のタイプじゃなか。鼻の穴もでかいし、そのくせ目は小さいし。僕はどちらかというと、もっと目がパッチリした女性がよか。」
「いやあ、それなら尚更ですよ、何故恭子さんがもてたんですか?」
「う〜ん。でも、もてたと言っても、恭子さんに熱を上げとったのは、内藤部長やろ、奥村課長やろ、井上さんの三人くらいなもんばい。」
「三人もいれば十分ですよ。」
「多いくらい。」
「そうねえ、何だろうねえ。フェロモンかなあ。奥村課長、おっと部長か、奥村部長が『あの女はくすぐられ好きじゃないか』と言ってたねえ。こう、気安く近寄ってきて、くすぐられるのを期待している、みたいな雰囲気を出しとるような気がしたよ、あの頃。」
「分からん。分からん。」畑山が腕組みを揺らした。和樹は古賀の「フェロモン」という言葉に、恭子さんのずり上がりかけたスカートと太腿を思い出していた。それから、歯車が噛み合って回りだすような自分の連想にげんなりした。
「あとさ、内藤元部長と恭子さんの仲は、そもそも恭子さんの方から仕掛けたとばい。それとさ、奥村部長が恭子さんに手を出そうとした話は知っとる?井上所長が睡眠薬騒ぎを起す前の事さ。社員旅行の時、宴会の席で奥村部長は、あ、その頃はまだ課長ね、恭子さんにねちねちと言い寄ってから、しまいには恭子さんにビールを浴せられたらしいよ。ビールを頭からね、こうやってコップでかけたんだと。僕の目から見たところではですね、奥村部長が恭子さんに言い寄ったとは、内藤元部長になりたかったからじゃないか、と思う。奥村部長は内藤元部長のようになりたくて、恭子さんも欲しかったんだね。」
その時、駆け足の音が近付いてきて、三人は口を閉じた。和樹は恭子さんがトイレの水を止められずにパニックを起こし、助けを求めに帰ってきたのかと思った。
が、ドアを開けて顔を出したのは井上所長だった。
「古賀君、それと東京の人たちも、ちょっと来てくれんか。」井上所長の後ろには戻ってきた恭子さんの顔があった。
「どうしたんです?」
「早う、早う。理由は歩きながら説明するけん。」

 応接から一旦玄関を出て、建物の右に回り込んだ。井上所長の隣を古賀が歩き、和樹たちはその後ろに続いた。森を押し止めている柵と建物の間には、和樹たちが横に並んで歩けるほどの空きがあり、森から建物へと手を伸ばした枝々がひんやりとした陰を敷いていた。鳥の声も絶えていた。振り返りながら話す井上所長の声だけが和樹の耳に届いた。
「さっきのアキちゃんがね。倒れてしもうたらしい。社長が病院へ連れて行くんだが、今ラインを見ておれる人間がいなくてさ。」
「吉野さんはお休みですか?」古賀が訊いた。
「うん、うん。ちょうどタイミングが悪かと。それでさ、機械を動かし始めたところだから、もう手伝ってくれんか、ということなわけ。」
「あれ、今日は挨拶だけだったでしょ?」
「そうばってん、こうした状況だから、一日早いがお願いできませんか、ということです。みなさん。」
井上所長がさっと手を前に伸ばした。その先には、背の低い、ネズミ色の建物があった。一見すると窓がない。壁板の継ぎ目から雨水の跡が汚なく垂れていた。そこに目がいってから改めて建物を見ると、至る所に黒ずんだ染みが浮んでいるのに気づく。
和樹たちが面した壁の一角に入口があった。今は扉が内側に開いたままになっていた。その入口にくっきりとした日射しが切り込んで、グリーンの床の上に眩しい三角形を描いている。そこへスニーカーの爪先が現れるのが見えると、建物の中の影から若い男が出てきて、和樹たちの方へお辞儀した。最初に和樹たちを応接へ案内した男性だった。
「お、どうも、どうも。んん?まだ、スイッチは入れとらんとですかな?」
「はい。これから稼動させるところだったので。」
「そうか。それはある意味、都合がよかった。さ、みなさん、入って。」
促されて細い通路を入って行った部屋には、長い折り畳みテーブルが中央に一本あり、壁にずらりとロッカーが並んでいた。
若い男は、テーブルの上の白い布の山を指差して言った。
「これを着てください。帽子とマスクの着用も忘れないでください。上着やらは脱がれて着られたほうが動きやすいと思います。脱がれたものは空いているロッカーば使ってもらって構いません。ここから向こうのロッカーは誰も使ってませんです。」
「そしたら、みなさん、森本くんが教えてくれますので、指示に従って頑張ってください。ちょっと予定が狂いましたが、早くなったと思えばよかとです。ある意味、光正商会さんのピンチですから、我々で応援しましょう。」
「さっぱり訳が分からないんだけど。」恭子さんの声は遠慮を忘れた大きさになっていた。
「なにがですか?」
「私たちに何をしろと言うの?」
「ここの手伝いを。」
「ええー?何故?」
「さっきも説明しましたけど、ほら、アキちゃんというお茶を持ってきた女の子が倒れて…」
「待って。一日早いとか、予定が早まったとか言ってたけれど、それはどういうことなの?」
この時ばかりは和樹も恭子さんの質問にすんなりと同調していた。
「予定ではですね、今日は挨拶だけして、明日からこちらのお手伝いをすることになっておりました。それが少し早まったということですばい。」
「ここの手伝い?展示会のお手伝いじゃないの?」
「いんや、光正商会さんの工場のお手伝いですよ。ちょうど社員の方の休暇が重なって、人手が足らんごとなってしまわしたけん、当社でピンチのお手伝いをするとです。」
「僕達、福岡の展示会の展示の手伝いをするって聞いてきたんですけど?」畑山が森本と呼ばれた男のことを気にしながら抑えた声で言った。
「いんや〜、なんやろ?福岡の展示会やら今は開かれておらんけど。古賀くん、知っとうや?」
「知らんです。」
「ちょっと、井上くん。」
「あのさ、高野さん。一応、わたしも役職がありますけん。昔馴染での『くん』づけは控えていただけません?ここは他の会社さんですけん。」
恭子さんは井上所長の唐突な強い口調に一瞬たじろいでしまった。井上所長はそんな恭子さんを睨み付けてから言った。
「奥村部長にはメールでも伝えたけどなあ。光正商会さんの工場の手伝いだと。なあ、古賀くん。あのメール、君にもBCCしておいたよな?」
「はい、僕も見ました。」
「なによ、それ。ちょっと私、高野課長に電話して聞きます。あの、ここで携帯を使ってもいいでしょうか?」
「あ、どうぞ。でも、ここら辺、だいだい圏外ですけど。」
森本の返事に臆することなく、恭子さんは携帯を取り出した。畑山も和樹も俥を降りた時に電波が届かないのを知っていたが、もしかしてと思って自分の携帯を確認してみた。
「本当。」
「やっぱり、圏外ですね。」
「社員の皆さん、不便ですよね?」畑山が森本に気をつかった。
「ええ、まあ。でも慣れれちょるけんですね。」
「すみませんけど、事務所の電話を貸していただけませんでしょうか?本社に重大な確認事項があるものですから。」
言葉遣いが奇妙なうえに、森本がその場にいて話の流れを知っているはずなのを無視して「確認事項」などと殊更言うところがいかにも恭子さんだった。加えて、「重大」などという自分中心の余計な情報を押し付けるのも忘れていない。
「よかですよ。こちらが事務所ですから。」森本は恭子さんを連れて部屋を出て行った。
恐らく原因は奥村部長か井上所長のどちらかにあるのだ。またはその両方か。誰かがいい加減な事を伝えたということは確実だった。営業部の畑山も知らなかったのだから、部署の違う高野課長の仕業とは考えにくい。それでも恭子さんは高野課長に電話するつもりだろう。情報を正確に伝えられないおっさんたちもにうんざりだし、自分の気の済むまで騒ぐつもりのおばさんにもげんなりだった。そのおばさんと同じ側に自分が位置付けられかけていることを思い出すと、和樹は苛々してきた。
もう九州の山の中まで来てしまっているのだから、高野課長に何を確認しようとも同じことなのだ。話が違うから帰ってこいなどという命令がでるはずもない。そうであれば、何をやらせられるのか不安であるにしても、工場の手伝いとやらをさっさと始めた方がいい。

「おい、古賀くん。僕は荒牧先生にアポとっとったとばい。今になって思い出した。」
「あれ、そうでしたか?」
「そいけん、行かにゃならんばい。すまんけど、後を頼む。そしたら、えっと、お二人さん。僕はちょっと離れます。」
「え?」「マジですか?」
「大丈夫、大丈夫。夕方になったら迎えに来るけんですね。では、では。」
手刀を下から上へすいすいと二度振って、あれよあれよと井上所長は去った。古賀が「逃げよった。」と忌々しそうに呟いた。
「どうなるんだよ、俺たち。」畑山が和樹に訊いた。和樹は首をすくめて見せた。
「ま、大丈夫やろ。ここの工場はフル・オートマチックで、人間のやることは監視だけらしかけんですね、難しくはないはずです。」
「ここでは何を作ってるんですか?」和樹が古賀に訊いた。
「辛子大福。」
「大福?食べ物ですか?うちの会社は食品関係と取引できるんですか?」
「辛子大福はここの本業ではないとです。でもね、最近始めて、これを本業にしようと力を入れとるようです。」
「つまり僕達のお手伝いは大福作りということですか?」
「そういうことだね。」
「その辛子大福って、餡の中に辛子が入ってるんですか、それとも外側に辛子が練り込んであるとか。」唖然としている和樹を尻目に、畑山がおどけたように訊いてきた。
「さあて、さあて、よく知らん。」
「そうかー、どんな味なんですかね。」
そこへ恭子さんが森本と一緒に帰ってきた。
「どうでした?」畑山が笑顔で恭子さんに声をかけた。
「もう、高野課長は出張なの。何にもハッキリしないわ。どうなってんのかしら。」恭子さんは、畑山の顔をちらりと見ると、テーブルに軽く指を触れながら行ったり来たりした。
「高野さん。もう仕方ないですから工場の仕事をやらせてもらうしかないです。」和樹の言葉に恭子さんは止まると、和樹の目は見ずに言った。
「でも、話が違うじゃない。本来、命令と違うことをしてはいけないのよ。命令は展示会の手伝いなの。工場の作業ではないはずなんです。」
「それでも、やっぱり仕方ないでしょう。」
「そうかしら。あたしはそう思わないけど。仕方ない、仕方ないで諦めていいのかしら。溝口さん、結構簡単に諦めるわよね。それって良いのかしら…。あら、井上くんは?」
「約束があるとかで、出て行かれました。夕方に迎えに来てくださるそうです。」和樹が恭子さんの口からでた批判の言葉に不意を突かれて黙っていると、畑山が恭子さんの質問に答えていた。
「何それ。無責任よ。信じられない。自分の伝え方がまずかったから、極りが悪くなって逃げたんじゃないの。信じられない。有り得ない。」
「まあ本当のとこは分かりませんけどね。それを追求したところで…」
「あの。」そこへ森本が口を挟んだ。「あの。横から申し訳ないとですが、もし良ければですね、手伝っていただけると有り難いとですが。今のうちに機械を動かしておかないと夕方の納品に間に合わんとです。僕一人じゃ、ちいとばっかし無理とです。ですから、今日だけでも手伝っていただけると助かります。」
「おう、おう、森本くん、あたりまえたい。是非手伝わせていただきますよ。ねえ、高野さん。」
「…」
「じゃ、やりましょうか。な、溝口。やらせていただきますよ。」
「いいですか。」「もちろん。」というやり取りがあって、森本はテーブルの上の白い布の山を再び指差して「これを着てください。靴は、工場の中に入る前に履き替えますので。」と言った。和樹が見やると、どうやら恭子さんはしぶしぶ従うようだった。それから、服のサイズはどうなっているんだ、パンツを履くようになっている、ここでは着替えられないということになって、結局、恭子さんは女子のロッカー室へ案内された。

 和樹たちが作業服を上下、帽子、マスクと白づくめになって勢揃いすると、背の高さだけで見分けるしかなかった。恭子さんだけが一段背が低く、目立ってその人と分かるのだった。
森本に引率されて工場に入った。
マスクを通しても、胸を埋めるような、粉っぽい匂いが分かった。
学校の体育館並の広さの所を、ステンレス製の機械が埋めつくしていた。それほど高くない天井から蛍光灯が隈無く照らし、その光を銀色の機械が反射して、影がことごとく無くなっているように見えた。機械はおおよそ三列に分かれ、その間をローラーコンベアが貫いて繋いでいる。どの機械も複雑に絡み合っていた。どちらを向いてもステンレスの光沢があるため、厨房の設備の雰囲気が漂よっていて、そこへ、見当もつかない目的で畸形の技術がぶちまけられたようだった。
畑山が和樹に耳打ちした。
「辛子大福でこんなに大掛かりな設備が必要なのか?まだ売れてもないんだろう?」
森本は和樹たちを連れて機械の間を歩き、一人一人と指差し、機械の操作パネルへ連れて行っては仕事の段取りを説明した。まず古賀、次に畑山が持ち場を与えられた。どちらの仕事も単純なもので、パネルのディスプレイに表示される数値とメッセージを監視するのである。数値は、機械の各所の状態についてのセンサーの測定値で、それぞれに標準値が決まっている。そこからずれだすと、数値の色が緑から橙、赤へと変化する。ひとつでも赤に変化すると要注意で、いくつかの数値が赤になってしまうと、メッセージが表示されるので、そのメッセージに従ってパネルのボタンやスライドバーを操作するのだ。古賀の持ち場には操作するように言われたボタンが一つしかなかったが、畑山の所にはボタンとスライドバーが二つずつあった。どちらの操作パネルにも、与えられた仕事には関係ない部分がいくつかあって、その一つは特に、「これだけは僕の指示がない限り触らないでください。」と念を押されていた。見ると、ボタンの表面に「緊急停止」と印字してあった。
それからだいぶ離れて、もう装置の行列の終端近くまで歩いていき、森本は、あろうことか和樹と恭子さんの二人でペアになって監視するように言った。
「ここはもう最終工程で、箱詰めまでやります。他よりも少しばっかり複雑な作業ですけん、お二人でやってください。」
森本の説明によれば、片方がディスプレイの数値を監視し、もう一方がその数値にあわせて別の操作パネルでレバーを上下するのだ。
「こんなに機械化されているのに、人間が合図するんですか。」
和樹が驚いて発した言葉を森本は質問と捉えて頷き、言った。
「どうもここの連携のタイミングが上手くいかなくてですね。機械の業者が何度も来て調整しよったとですが、駄目でした。仕方ないので、僕達人間がコントロールします。」

森本がライン全体の起動を行うために去ると、恭子さんはスススッと和樹に近付いてきて、マスクを掴んで下げると、「溝口さん、どうします?」と訊いてきた。
「レバーの方は立ったままやらなければならないようですね。数字の方を高野さんが担当してもらえますか。」
「はい。」恭子さんの声が妙に高く、甘ったるく聞こえるので、こちらが気を使うのを予め計算していたのではないかと和樹は思った。「なんだか緊張するわね。」
「では、皆さん。ラインを稼動させます。僕は、 餡と辛子と皮をセットしたら、製品の運び出しを担当します。皆さんの所には管理者呼び出し用の内線があると思います。その内線は、僕が持っているPHSに繋がっておりますので、何かあったら呼び出してください。よろしいでしょうか。では、スタート。」
館内放送で森本の開始の合図が響いた。
あちこちでガタン、ガタンという音がした。それにつれてモーターが回りだし、ファンの音が重なって、場内は低い唸りに満たされた。
それでもすぐには何も起らない。森本が一人で原材料をセットするのだから、それなりに時間がかかるだろう。それが済んでも、上流から和樹たちの所まで流れてくるのはまだ先のことになりそうだった。
「これは貴重な体験よね。」恭子さんが話しだした。マスクを戻しているので声がくぐもっていた。それでも場内の音に負けないように少し大きな声をだしている。「ああん、カメラを持ってくればよかった。」
「写真を撮るんですか。」
「ここの事を書いてアップしたら面白いと思って。まだ誰も辛子大福なんて知らないでしょう?後で試食させてくれないかしら。」
「明日、明後日もありますから、撮るチャンスはあると思いますよ。」
「そうよね。…それにしても、今回の出張はひどい。そう思いません?だって、展示会の手伝いだなんて嘘八百。本当は工場の手伝いでしたなんて。馬鹿にしてる。本来バイトを雇うべきよ。ここの会社にいい顔したいなら、うちの会社がバイトを雇って、それをここに来させればいいんじゃない。東京から飛行機を使って社員を送り込むような事じゃないわ。」
「どこかで伝達ミスがあったんでしょうね。」
「うん、奥村部長かしら。」
「井上所長が勘違いしたのかも。」
「奥村部長ね。あたしへの嫌がらせよ。」
「でもそれでは僕と畑山が余計でしょう?」
「でも、溝口さんはあたしと同じチームだし、畑山さんは溝口さんとお友達でしょう。だから、ターゲットになったのかもしれない。最低。卑劣よ。奥村部長はケダモノだわ。」
恭子さんが「同じチーム」と言ったのは、和樹と対等に仕事をしていると思い込んでいるからだろう。しかし、和樹にしてみれば、それは恭子さんのとんでもない錯覚なのだ。
それから和樹は、奥村部長がケダモノだというのには、全然別の方角からの恭子さんの感想だろうと思った。
「溝口さん、本当にごめんなさいね。」
「え?何がですか?」
「わたしなんかと同じチームになったばっかりに、溝口さんがこんな馬鹿げたことに巻き込まれて、申し訳ないと思ってるんです。営業部の権力争いの結果が、奥村部長の個人的な、んー、なんと言うのか、恨みになるのかな、わたしに対する恨みになって、それが溝口さんにまで及んでしまって。すみません。それだけじゃなくて、企画課の仕事でも色々迷惑をかけているし。」
「迷惑じゃないですよ。」迷惑と言われると何か違和感があった。そういう感情の貸し借りみたいなものなど、和樹には少しもないのだ。しかし、恭子さんは和樹に説明させてはくれなかった。
「いえ、やはり迷惑は迷惑ですから。私は本当に申し訳ないと思っているの。本来なら、わたしがもっとちゃんとしなければならないのに。」
「ちゃんと、ですか。」ちゃんとというのは便利な言葉だ、と和樹は思った。具体的なことは何も言っていない。
「そうなんです。でも、言い訳じゃないんですが、母が高齢で、少しボケが始まってしまっていて。家では母の面倒を見なければならないので、夜遅くなってからでないと自分のことができないんです。そのせいで会社で少しぼんやりしてしまうみたいで。溝口さんには理解してもらってると思うんですけど、それでも私の問題なので、本来自分がもっとちゃんとしなければならないな、と感じているんです。もう本音を言いますと、自分でも歯痒くて、うーんていうのかなぁ。企画課の仕事ももっと覚えて、溝口さんに迷惑をかけないようにしなければならないし…」
どうやら恭子さんは、仕事中の居眠りと仕事そのものが出来ないことを、こんな時に言い訳しているようだった。
母親がボケて、面倒をみなければならず、それに自分の趣味も忙しいので夜更かしをします、だから昼間は眠くて、仕事中居眠りをします。仕事は、覚えるつもりはあるんですけど、まだ覚えられません。いつになったら覚えられるのか分からないけど。
こんな言い訳を聞いて、和樹に同情して欲しいのだろうか。まさか愛して欲しいということはないだろう。「大変ですね」とか言って欲しいのか。多分、恭子さんは自分の気持に収まりをつけたいだけなのだ。和樹は、それならばいっそのこと、「高野さんの鼻の穴はデカイですね。」と突然、まるで関係ない言葉を投げつけてやろうかと思った。
恭子さんはこうして自分の気分の為だけに無駄な言い訳をして、ここの仕事が済んで東京に戻ったら、言い訳する前と変らず、うとうとと同じことを繰り返すのだろう。そして定年を迎えて、会社とも馬鹿な奥村部長ともサヨナラするのだ。自分のプライドを死守するために「本来」とか「べき」を武器として振りかざし、それでいて現実を認めようとしないまま、生活の道があちらこちら穴ぼこだらけになったのを認めないまま、フゴー、フゴーと鼻の穴をから空気を出入りさせて過すのだ。
急に恭子さんの姿が、白衣の内側にすっぽりと収まったように和樹は感じた。不透明で、べっちゃりした、ジャバ・ザ・ハット餅が、白衣に包まれてそこにそのままの姿で立っている。それ以上でも、以下でもない。
和樹の理解もそこまで、その限り、それより先に進まず、一日の何時間か以上に共有するものもなく、ここの今より頒ちあうこともない。つまるところ、会社とかいう場所で面つきあわせるだけのつきあいというわけだ。
恭子さんの頭頂でじわじわと領土を拡張している白髪が目に浮かんだ。
その時、和樹たちの持ち場のローラーコンベアが一斉に回りだした。機械がざあっと滝を落とすような音をさせた。もう話しができるような空間は無くなって、二人とも自分たちの前の機械に向き直った。
場内をモーターの唸りが満たし、その上に、箱いっぱいのネジを揺するような音、瓶を次から次へとぶつけるような音、歯車でできた烏の鳴き声がリズミカルに絡み合っった。
和樹たちの持ち場の機械は、上下二つの大きな長方形の箱がコンベアを挟みこんでいて、上の箱の底面にそれぞれ形の異なる棒が出ているのが見えた。
そこへ、二つずつケースに入った「辛子大福」が流れてきた。
先頭のケースが最初の棒に近付くと、恭子さんのパネルに表示されている数字がゼロから変化した。
「23。」と恭子さんがその数値を読み上げる。数値がマイナスになると和樹がレバーを操作しなければならないのだ。
機械は棒の先端で「辛子大福」をひとつずつ、チョンチョンと触れた。次の棒は先端が小さな丸い円盤になっている。それで又、ひとつずつ触れる。その次は、小振りのトングのようなものが下りてきて、大福の両脇をクイックイッとつまむのだ。最後に二枚の板がケースの蓋を閉じ、四角い棒がすばやくケースにステープラーを打つ。
その間恭子さんが「23、23、23。」と数字を読み上げる。
「高野さん、マイナスになった時だけ読み上げて下さい。」「はい。」
「辛子大福」はどんどん流れてきた。
チョンチョン、チョンチョン、クイックイッ、カチカチ、チョンチョン、チョンチョン、クイックイッ、カチカチ。
和樹たちの所を出た「辛子大福」は、もう一度何かの機械を通ってからコンベアの終端に溜るようだった。その脇にはクリーム色のコンテナボックスが積んであった。
そこへ森本が小走りに到着した。和樹の所から実際の作業は見えなかったが、森本は「辛子大福」のケースをコンテナボックスに並べ、ある程度の数のコンテナボッスがいっぱいになったら、台車で場外へ運びだすのだろう。
最終工程に納得すると和樹は、目の前の「辛子大福」の行列に目を戻した。結構なスピードで流れている。
時々、和樹たちの所から遠く、場内の真ん中あたりで、圧搾空気が排気される音がした。
騒音がリズミカルなので直に慣れてきた。すると騒音は意識の背景に退いて、和樹の頭の中だけに静けさが生まれた。すぐに和樹の頭の中はとりとめない考えでいっぱいになった。畑山と古賀はどうしてるのだろうか、明日はこの仕事を一日やることになるのだろうか、こんな所にこんな仕事をしに来る人がいるのか、晩は何か旨い物を食べたい、東京へ戻ったら恭子さんと同じ扱いから抜け出したい。
どれだけそうしていたのか、ふと気がつくと、コンベアの流れが注意を引き付けた。「辛子大福」のケースが少し斜めになってコンベアを流れていた。機械が刻むリズムの中におかしな音が混じっていた。何か潰れるような音。
たちまち「辛子大福」のケースがひっかかり、止まり、後から来たものがその上に乗りあげ、また後から来た一つに押されて、塔のように立ち上がったかと思うと、コンベアの外に倒れて落ちた。それからそれへ「辛子大福」は溜まり続けた。
はっとして和樹は恭子さんを見た。
恭子さんの鼻先が操作パネルにくっつきそうだった。こっくりこっくりと近づいてパネルに着地し、そのまま押し潰され、恭子さんの雄大な鼻の穴はひしゃげて山羊の瞳孔の形になった。
機械の中でも「辛子大福」が詰まっていた。到着する新たなケースが溜まった山にぶつかってぼろぼろとコンベアの左右に落下していく。
「高野さん!」
和樹が叫ぶと恭子さんははっとして体を起こし、何事もなかったふりをして「マイナス5。」とパネルの数字を読んだ。
その時、トング形の棒のあたりから「ビーン」という音がして、何かが和樹の頭めがけて飛んできた。咄嗟に頭を下げて和樹は飛んできたものをよけた。背後でぐしゃっという音がした。振り向くと、ケースが辛子大福を吐き散らかしていた。また機械から弾ける音がして、辛子大福のケースがコンベアの外に転がり落ちた。
「高野さん、緊急停止ボタン、緊急停止ボタン!」
叫ぶ和樹に目を剥いた恭子さんは、一瞬凍りつき、それからあわてて操作パネルの上で「緊急停止ボタン」を探した。しかし、「緊急停止ボタン」は恭子さん側のパネルには無く、実は和樹の前のパネルについていた。それを知らない恭子さんはとりあえず赤いボタンを連打した。
「ビーン、ビーン、ビーン」
弾ける音が速くなった。今や暴発した花火倉庫のように、四方八方へ辛子大福が発射されだした。
「おい!どうした?」
遠くで古賀の声が聞こえたようだった。和樹は辛子大福の弾幕をよけるのに精一杯で、返事をする余裕はなかった。辛子大福は着弾して破裂し、餡をぶちまけ、辛子を飛び散らせた。
ひときわ高く発射されたケースが、空中で回転しながら場内の真ん中あたりへ飛んで行ったのが見えた。そこから古賀か畑山の「うわー!」という叫びが聞こえた。
和樹はしゃがんで頭を抱えながら、恭子さんに近づき、呆然と突っ立っている恭子さんをしゃがませようとした。耳もとで辛子大福爆弾が風を切る音がする。床には、黒く見える餡がぼたぼたと広がり、それに辛子の鮮かな黄色が鳥の糞に似た飛沫を叩きつけていた。餡の甘ったるい匂いと辛子の刺激臭が分かった。
和樹が恭子さんの白衣の裾に手を伸ばした時、しゅるしゅると音がしたと思うと、横に回りながら飛んできた辛子大福のケースに手をはたき落された。
「痛ーっ!…高野さん、高野さん、危ないから。しゃがんで。高野さん!」
機械から異音が轟きはじめ、餡と辛子の阿鼻叫喚が地獄への斜面を滑り落ちる中、和樹は声を張りあげた。
すでにトング形の棒は連続的に振動し、「ビーン」という長い唸りに変化して、その形も目には見えなくなった。辛子大福爆弾の弾はまだまだ到着していた。人が息をつく暇など少しも与えず、空中に辛子大福が浮んでいない時がない程に、次、また次と、右に左に上に下に、辛子大福爆弾が発射され続けた。
恭子さんの体がよろめき、一歩二歩と後退った。左肩に辛子大福が命中したのだ。
「危い、危ない、危いからしゃがんでください!高野さん、てば!」
和樹が見上げると恭子さんは大福の餡を両方の鼻の穴に詰めてふざけているようだった。しかし、それは恭子さんの鼻の穴が大きくて、餡が詰められているように見えただけ、恭子さんはふざけているはずはなく、混乱に目を見開いているだけだった。その恭子さんの顔へ、辛子大福爆弾が命中した。射出される時にケースが外れ、皮もやぶれた辛子大福は、恭子さんの顔の真ん中を直撃し、餡まみれにした。餡の中の辛子も破裂した。その様子が、恭子さんをスカトロ趣味の変態に見せた。
恭子さんの頬についている餡の塊がずり落ち、和樹は思わず身を引いてその餡の塊を避けた。
あの唇は餡こ臭くなっているだろう、と和樹は思った。そして、その場から逃げだすことにした。

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