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「レディ・プレイヤー1」スティーヴン・スピルバーグ監督 [感想文:映画]

 「世界」を救うために世界の「創造者」によって隠された「イースター・エッグ」を探す映画。映画、アニメ、ゲームといったポップ・カルチャーのアイコンが画面の至るところにばら撒かれ、引用されていて、バックグランドを共有している観客にとっては楽しくてしかたないはず。だが、何も知らなくても怖くはないだろう。山盛りの内容がスピルバーグの欠点=冗漫さを減殺して、良い所だけが残った。ポップスを音楽に使ったのも効果的だった。騒々しくオーケストラを鳴らすスピルバーグ監督の悪い癖を隠した。それだけでなく、映画のテンポにタイトな印象を与えてもいる。技術的な挑戦も含めて記念碑的な作品であることは間違いない。なんと言っても、ずっと映画に浸っていたいなら観逃がすわけにはいかない傑作だと思う。
 さて、映画を物語「世界」と見なすなら、その「イースター・エッグ」は作者のメッセージということになる。作者のメッセージを見つけた者だけが、その「世界」を救うことができる。「イースター・エッグ」の来歴自体は、女の子にキスできなかった思い出や、親友との仲違いといった、作者の極く個人的な体験にその鍵を持っている。しかし、「イースター・エッグ」を見つけるには、ただそのストーリーを追う=ゲームを勝ち終えるだけではだめなのだ。画面を隅々まで隈なく探索し、隠れたドットを集めなければならない。ポップ・カルチャーのアイコンを知らなければ、調べて知らなければならない。「シャイニング」を観たことがなければ観なければならない。それは、古きをたずねて新しきを知ることとなんら変りがないのだ。そうやって目を見開いた者だけが「イースター・エッグ」を手に入れることができる。心を開いて「世界」とつながることができる。そのつながりの真実は「リアリティだけが現実だ」ということ。実写だろうがCGだろうが、ゲームの体験(エクスペリエンス)だろうが関係ない。「リアリティ」だけが「リアル」なのだ。虚構だって「リアリティ」があれば「リアル」になる。「レディ・プレイヤー1」という映画が虚構なのに、VRと現実みたいな単純な紋切り型でこの映画を観てくれるな、とスピルバーグ監督が言っている。画面で表現した「リアリティ」を観てくれ、と言っている。それを観てくれた観客に対して作者が言いたいことは、とどのつまり、「僕のゲームを楽しんでくれてありがとう」に尽きるのだろう。それは、喩えようもなくあたたかな、喜びのメッセージである。

「BLAME!」瀬下寛之監督 [感想文:映画]

 この映画に登場する人物たちの名前を呟いてみよう。霧亥(キリイ)、シボ、づる、捨造、タエ、フサタ、アツジ。なんと「奇体にも懐しい名前」(大岡信『地名論』)なんだろう。この命名のセンス、懐しくありながら耳慣れぬ、時間の流れのどこかに位置しているとハッキリ分っているにもかかわらず、今誕生したように奇異な造形のセンス、これこそが弐瓶勉の「BLAME!」を圧倒的な作品として屹立させているものなのだ。それを一言で表すなら、もうただただカッコイイのである。そのカッコイイコミック「BLAME!」をフルCGで映画化した瀬下寛之監督の「BLAME!」は、あの「BLAME!」が動いている、と思わせてくれる、徹頭徹尾カッコイイ映画だった。弐瓶勉の描くアクションは荒々しいまでにノイジーだが、それを瀬下監督は組み立て直し、動かし、宇宙の軸を轟かせる破壊のカタストロフにしてくれている。
 その轟く破壊の中に、茫然と、茫洋と、寡黙に、孤独に身構える霧亥は無茶苦茶カッコイイ。胸の奥から漏れ出て口にしてしまうほどカッコイイ。霧亥が探しているのは、「感染」前に誰もが備えていた「ネット端末遺伝子」を持つ人間である。人類はそれによって「ネットスフィア」に接続し、都市をコントロールしていた。が、「感染」後、人間は接続を失ない、そのコントロールから放たれた都市は自己増殖し、途方もなく巨大な階層都市へと変貌してしまう。垂直と水平の果ての果てまで広がった都市は、皮肉にも人間を不法な侵入者として「セーフガード」によって駆除し、排除しようとする。主の座を追われ、文明を失なった人間は、ドブネズミのような異物扱いなのだ。だが、廃墟と構造物のアマルガムである超巨大階層都市こそ異物そのものである。その異形の風景には、内部もなく、外部もない。延々と続き、重層している。下方遥かに闇に没する。頭上彼方も闇に溶け、水平の果ても闇に沈んでいる。アリス症候群の眩暈を引き起こす迷宮だ。映画はこれを痺れるほど丁寧に描いてくれている。この迷宮の荒野を旅する霧亥は「重力子放射線射出装置」という究極の武器を携えたガンマンだ。つまりマカロニウェスタンでクリント・イーストウッドが演っていたようなガンマンなのだ。カッコ良くないわけがない。それに「重力子放射線射出装置」とその発射の描写は美しく、文句なしである。
 マカロニウェスタンのガンマンなどというまたしても懐しいイメージを喚起しながらも、そこに新鮮な造形が対置されている。それがシボとサナカンという美少女キャラクターだ。シボは骸骨まがいの腐れたトルソーとして現われ、その意識を新しい体にダウンロードして、でっかい女の子になる。その人形的な奇怪な造形がぞくぞくさせてくれる。特に爪先は堪らない。サナカンの方はシヴァ神として殺戮の限りを尽す。恐しい。
 さて、このカッコイイ映画を試写会で観ることができたのだが、上映後の試写会場に湧き広がった拍手のことも記しておこう。その拍手の意味は、よくやった、素晴しい、いいぞ、など様々にあるのだろう。私にとってそれは、「ありがとう」である。

「この世界の片隅に」片渕須直監督 [感想文:映画]

 こうの史代の漫画「この世界の片隅に」を原作としたアニメーション。戦前1930年代から終戦後まで、広島に生まれ、呉の軍港を見下ろす家に嫁いだ「すず」の生活が描かれる。
当然その生活は、戦争という巨大な暴力にさらされ、覆われ、押し拉がれる。どこからその悪意がやって来るのか。誰も語らない。ただ、ひしひしと迫り、切り裂くように現われ、すべてを塗り替えてしまう。すずの片隅の生活のすべてを。
 青々とした空のもとで営まれる片隅の生活。ぼんやりとした子で絵を描くことが好きだったすず。そのすずの手元を肩越しに覗きこむようなまなざしで、景色、街の風景、身の回りの品々、人々の振舞いがこまごまと注意深く描かれる。軍港の軍艦でさえも。それらは、戦争によって失われ、さらに記憶からも失われたものたち、人たち。それらを呼び戻そうとするこのまなざしは、祈り以外の何ものでもない。この映画の祈りは、はるか遠くにまで届いている。
 その祈りの届く先には、何があるか。それは、すずと共に笑うこと。驚くこと。泣き、縋ること。喜び、見つめること。すずが味わった世界。たとえば、軍港を見下ろす斜面にある北條家(すずの嫁ぎ先)と坂の描写が楽しい。方言がいつまでも耳を洗ってくれる。広島に原爆が投下された時、呉の北條家でも、閃光が届き、家ががたがたと揺れる。その底の無い恐ろしさ。すずと同級生・水原の気持の交錯がむず痒いほど精緻だ。
 この映画は、誰もが片隅に生きていることを教えてくれる。その片隅の憎たらしさと、愛らしさとを。小ささと、輝きを。この映画を見て泣くのはやめよう。これは最後まで、目を見開き、味わいつくすべき映画なのだ。

「レッドタートル ある島の物語」マイケル・デゥドク・ドゥ・ヴィット監督 [感想文:映画]

 灰緑の巨浪が逆巻き、轟く。男が難破し、散り散りに波間を転がされ、絶え入りながら、無人島に漂着する。
茫漠に浮かぶ孤島で男は緋色の海亀と契る。
「雨月物語」の失われた一篇のような映画。そして、孤独の、描かれたものが動くアニメーションの孤独と、アニメーションを見る孤独の映画。
この映画に象徴を読む者は愚かだろう。寓意を拾うものは粗忽なのだ。ただ線と色彩の中に、男と女の姿が感じられる。
こんなアニメーション映画を観ることができた幸福を寿ぐ。この映画は、歴史よりも前に、どことも知れぬ何処か、心の在処にもっとも近い場所で、ずっと上映され続ける。
音楽と音は少し陳腐。

「シン・ゴジラ」庵野秀明監督 [感想文:映画]

 手垢がついて、馬鹿げきってしまったキャラクターに新しい「生命」が吹き込まれている。生れ変ったそれは、これこそがその本当の姿なのではないかと思わせる。そういう意味で、この映画は「新ゴジラ」であり、「真ゴジラ」なのだろう。
映画のクライマックスの舞台は東京駅だが、そこに屹立するコジラは皇居に対峙していることになる。リアルな虚構のキャラクターとアンリアルな生物のキャラクター。面白い。面白過ぎる。
そして、このアンリアルな生き物は圧倒的なリアリティーで画面を蹂躙する。ゴジラ映画の主役がゴジラであることを庵野監督はよく理解している。
この映画のゴジラのリアリティーは、「進化」という生き物の持つ「暗さ」によって描かれた。水中から地上へ、二足歩行へという形態の変化には人類の姿を重ね合せることもできる。何故二足歩行へ進化したのかと考えると、一度も姿を見せず、二足の革靴だけを残した老科学者の狂気も暗示しているようだ。
ゴジラは都市の怪獣であり、科学の怪獣である。都市も科学も本質は集団だ。そこでゴジラ映画の脇役は、逃げ惑う群衆であり、ゴジラと戦う自衛隊であり、官僚たちであるべきなのだが、この映画はその点でも実に的確だ。群衆は盲目で、愚かだ。しかし、粘り強くもあり、知恵を寄せ集めて何とかしようとする。ゴジラを止めるのは、華麗な兵器ではなく(この映画の兵器は悲しい)、愚直な作戦である。その作戦が何であるかは、映画館で見るしかない。見て喝采せよ。
畳みかけられる台詞で覆われ、戯画化された政治劇は巧妙な仕掛けだ。さもありなんと思った瞬間にゴジラのリアリティーが目の前に溢れる。ここでも庵野監督は成功している。
何よりもゴジラ、ゴジラ、ゴジラ、だ。その造形、その動き、その無目的さ、その不可解さ、その猛烈さ。度肝を抜かれる。カッコイイの一言に尽きる。米国のステルス爆撃機を撃墜した時の興奮はまたとない。
ゴジラ映画はようやくここに辿り着いた。これこそが我々のゴジラ映画の行くべき所だった。これを観たかった。これがゴジラの映画だ。第1作が開いた道は庵野監督の「シン・ゴジラ」へと続いていたのだ。素晴しい。面白い。

GODZILLA ゴジラ(2014)/ ギャレス・エドワーズ監督 [感想文:映画]

 冒頭、「東宝」のロゴマークが燦然と輝き、過去のゴジラシリーズへの敬礼がなされる。そうだ。この映画は、敬意と愛の映画。荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しく、そのために恐ろしい、「怪獣」の映画を営々と作り、奮闘してきた映画人たちとそれを受け止めて、やんややんやの快哉を謳ってきた観客たちへの、返礼なのだ。
 台風が近づくとわくわくする者よ、増水した川を見に行きたくなる者よ、この映画を観よ。この映画に浸れ。
 おしっこをわざと我慢するための遠回りを知っている者よ、この映画を観よ。「怪獣」が主役の映画にとっては、人間の社会のごちゃごちゃはおしっこを我慢するための言訳でしかない。この映画はそうなっている。しかも丁度いいバランスで。「ゴジラ」の主役はゴジラであり、ゴジラが主題なのだ。人間どもは、蟻かゴミ屑であって、狼狽え、逃げ惑い、踏み潰されていればいいのだ。これをメタファーや批判に置き換える必要があろうか?フィクションであり、「美」であり、体験であるのに?
 「怪獣」映画のスペクタクルの勘所がこの映画には、全て入っている。巨大な生物が地上で荒れ狂う「美」を「怪獣」映画は発見したのであり、この映画は、ギャレス・エドワーズ監督は、それを知っている。ついでに言えば、平成「ガメラ」シリーズも入っている。
 ゴジラ・シリーズの正統な新作が一本誕生した。それを目撃することができて、嬉しい。誰か、ギャレス・エドワーズ監督に言ってくれ。「ありがとう」と。

リアリティのダンス / アレハンドロ・ホドロフスキー監督 [感想文:映画]

 少年や 六十年後の春の如し(永田耕衣)

 ホドロフスキーの「エル・トポ」が公開された時、「フェリーニが撮った西部劇」と紹介されていた記憶がある。どちらの監督にも失礼な話だが、当時は、したり顔で納得した気になっていた。自己批判も込みで評すれば、想像力の「ダンス」の外側にいる人間の戯言だろう。ホドロフスキーはホドロフスキー。他の何者でもない。ホドロフスキーの映画を観るときは、ホドロフスキーだけを、ホドロフスキーのみによって味わえ。ホドロフスキーに溺れよ。
 そして、ホドロフスキーでしかないホドロフスキーの新作「リアリティのダンス」を観た。
ああ、フェリーニの「アマルコルド」だ、と思った。
舌の根も乾かぬ内にフェリーニの名前を引き合いに出すのは、そのくらい破廉恥で、厚かましく、節操なくあらねば、ホドロフスキーには付き合えないからである。
現存する世界一正直な嘘つきにして、聖なる山師アレハンドロ・ホドロフスキー。
そのホドロフスキーの、まるっきり私的な、少年時代の追憶の映画「リアリティのダンス」。
二時間強に及ぶ、自己陶酔的な、ある意味単調な、果実のように新鮮で、いつもながらの手管に満ちた、私的なリアリティの映画。それは、永田耕衣の俳句「少年や 六十年後の春の如し」に似て、割り切れることはないながらも、姿良い色彩で画面を輝かせている。
それにしても、ホドロフスキーは映画的センスの塊なのか、希代の剽窃者なのか、スタッフの勝手にやらせているのか。「リアリティのダンス」の画面の麗しさは、どうしたことなのだろう。本当に映画が上手く撮れる人なのだと思うことにしておこう。
小便を垂れるシーンの性器にボカシが入っている。
母親役の Pamela Flores がずーっとセリフを歌う。綺麗なソプラノだ。鼻が見事で、見惚れた。

オール・ユー・ニード・イズ・キル / ダグ・リーマン監督(2014) [感想文:映画]

 トム・クルーズの映画。トム・クルーズが演じるヒーロー誕生物語。卑怯者が使命に目覚め、地球を救うために一発逆転の賭けを戦う映画だ。トム・クルーズが怯える。鼻の下いっぱいに脂汗を浮かせて。トム・クルーズがクールに睨む。どん底からステップアップして。そして最後には、「まだまだ爽やかだぜ」的締めの笑顔を楽しむことができる。
つまり、トム・クルーズの「普通の」映画だ。
それはそれでいい。トム・クルーズは好きだし、楽しかった。でも同時に僕は、原作のことを少し考えた。
 原作「All You Need Is Kill」も面白い。その面白さはがどこにあったのか、トム・クルーズの普通の映画が教えてくれる。実のところ、映画が切り捨てた部分に原作の面白さがあるのだと思う。
例えば、エイリアンのハイ・テクノロジーの戦闘兵器に対して主人公はバトル・アックスだけで戦う。数え切れぬループで磨きあげた手順の、寸分違わぬ動きで、敵を斬って斬りまくる。その荒唐無稽さと、コツを会得する的な覚醒の結びつきのワクワク感。
リセットされてループする時間とリニアに蓄積される記憶を意識する主人公とそれを読んでいる自分という重なりあった層の感触。
初年兵の主人公、少女兵のリタと人間性を奪い去る激戦という定番のコントラスト。たとえどんなに戦闘に長けていても、若い登場人物にとって未知の未熟さがあるのではないか、と危ぶませてくれることによって、不安定のスリルと傷つきやすい皮膚の感覚を伝えてくる。
侵略してくるエイリアンのギタイは、顔のある敵ではない。それは、分散ネットワークで構成されているシステム。その無頭の不気味さ。蟻や蜂を恐れる人には馴染み深い。
この不気味なシステムは押し寄せる。圧倒的に、無慈悲に、無意味に。主人公キリヤ・ケイジはそのシステムに殺され続ける。その閉塞感。
しかし、その絶望的な反復の線上で主人公は、体験を経験へと変換し続け、ミニマルな曲線から屹立する成長を引出してくる。そこには、虚無の上で透明に沸騰する昂揚がある。
実は、無頭のシステムこそが、主人公が成長するための導師であり、主人公はシステムからのメッセージを読み解くことによって覚醒する=コツを覚えるのである。
つまり、多くの物語と同じく「All You Need Is Kill」も、メッセージを読み解くという物語の真実を共有しているのだろう。
 誰かが発見し、ハリウッドに持ち込まれた「All You Need Is Kill」は普通の映画へと均されてしまった。ハリウッド映画は、原作者と原作を受入れた読者達の感性にとって、小さすぎる器だったようだ。

去年マリエンバートで / アラン・レネ監督 (1960) [感想文:映画]

 冥界へ下ったオルフェウスのように、男「X」(ジョルジュ・アルベルタッツィ)は女「A」(デルフィーヌ・セイリグ)を、そこから連れ出そうとする。

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まぼろしの市街戦 / フィリップ・ド・ブロカ監督 (1967) [感想文:映画]


まぼろしの市街戦

 この映画を「衣装」に着目して整理してみる。

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