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「ヒトラーと哲学者」イヴォンヌ・シェラット / 三ツ木道夫・大久保友博 訳 [感想文:その他]

 ヒトラーとナチスに影響を与えた思想家、協力者となった哲学者たち、迫害されたユダヤ系の学者や思想家達、抵抗した大学人を描いたノンフィクション。
影響を与えた思想家としては、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー、ニーチェが登場する。協力者としては、ドイツの大学の多くの大学人がナチスに協力したとされ、特に、カール・シュミットとマルティン・ハイデガーに章が割かれている。ナチスによって大学を追われたユダヤ人たちとして、不幸な最後に終ったヴァルター・ベンヤミン、アメリカに亡命したテオドール・アドルノ、ハイデガーと愛人関係にあったハンナ・アーレントが登場。数少ない抵抗者は、白バラ抵抗運動に加わったクルト・フーバーが取り上げられている。
 ナチスと哲学者たちというくくりは面白い。著者によれば、「哲学はドイツの文化にとっては象徴的な存在」であり、哲学はドイツ人とその文化にとって「北米の人間が法制度に対して抱くのと同じような文化的地位を保持している。哲学者は名士(セレブ)」(p.10)なのだそうだ。つまり、少なくとも戦前のドイツにおいては哲学はメイン・ストリームにあって、それだからこそヒトラーはカント、ショーペンハウアー、ニーチェを引用し、哲人指導者であるように見せかけ、「彼は目の前にあったドイツの(伝統的な)成分を取り上げ、自家製の錬金術によって調合し、ドイツ人の口に合うカクテルに作り変えたのだ」(エルンスト・ハンフシュテンブグル)(p.53)そして、そのカクテルにはナショナリズムによる反ユダヤ主義、戦争賛美という毒が盛られていたわけである。
 だが、その毒はヒトラーの独創ではない。カントやショーペンハウアーにも反ユダヤ的な偏見・差別意識が存在し、ヒトラーが登場した頃には「ナショナリズム、反ユダヤ主義、または人種主義が、知識人の地位には不可欠になっていた。」「ドイツの気高い遺産の下には、この隠された、暗黒面が広がっていたのだ。」(p.95)
 しかし、この本のこうした文化史的な分析はここまでだ。すでに序章においてこの本のスタイルがドキュメンタリー・ドラマだと断わられている。それで、取り上げられる個々の哲学者達は、その思想よりもヒトラーとナチスに対してどう行動したのかに光が当てられている。ホロコーストという闇を背景にして浮かび上がるその光景はかなりスキャンダラスである。
 ヒトラーは政権を掌握し、大学からユダヤ人、ユダヤ系の学者を追放し、焚書、カリキュラム検閲を行って教育と言論の場を支配しようとした。『二十世紀の神話』を著したローゼンベルクとその腹心、ボイムラー、クリークがヒトラーの尖兵となってドイツの大学に対する全面戦争を仕掛け、それに勝利する。
国民を改造するというヒトラーとナチスの使命に対しては、「大量の大学人が集団で協力」した。「抗議文も、キャンペーンも、抗議運動もなかった。」「ヒトラーと党に対する重要な反対の声は、ドイツでは一度も起きなかった」(p.125)そのかわりに大学人たちは、ユダヤ人たちが追放されて空席となったポストに嬉々として着いたとされる。沈黙の裏には利害の一致があったと言うことなのだろう。
こうして殆どナチス化した大学人たち、プロの哲学者たちは「古い価値や制度の破壊」、反ユダヤ主義と戦争賛美に進んで協力するようになる。特に、哲学史に残る知的巨人ハイデガーには一章を割かれてあり、ユダヤ人として追放される側になるハンナ・アーレントとの愛人関係も描かれており興味深い。ナチスに入党し、フライブルク大学の総長となるハイデガーは、恩師であるフッサールがユダヤ人であるために名誉教授職を解かれるのに際して何も手をうたない。ヒトラーを礼賛する。こうしたハイデガーの行動を著者は「地位と権力に惹かれたただの日和見主義者で、ナチス支配の下で出世と威光を手にする機会を狙っていただけなのだ」、と書いている。しかし、さすがにハイデガーは難物だったようで、反ユダヤ主義との関係や、「彼と第三帝国との知的関係については曖昧ではっきりしないまま」と書いており、挙句、「行動を起したのは事実だ」(p.176)という結論になってしまった。
 戦後の光景もまたスキャンダラスだ。戦後、ナチスに協力した大学人の大半は裁判を回避して大学のポストに返り咲くのだから。追放されたユダヤ人学者たちは殆ど戻らなかった。また、彼らの業績に対する評価も、ナチス時代に抹殺されている以上、当然ながら正当になされたわけではない。しかし、協力者であった学者たちはナチスとの関係を「不幸な時代ということで大目に見られ」(p.350)、その業績が高く評価されている者もいるのである。
 さて本書は、ヒトラーに対する哲学者たちというより大学人たちに近いだろう。著者が哲学者たちというくくりに注目したのは、前述したようにドイツ文化における哲学の位置もあるだろうが、それよりも著者が「〈道徳学(モラルサイエンス)〉の子孫」(p.354)である哲学のプロが「ナチズムを拒絶したのだろう」(p.9)とナイーブに思い込んでいたところへ事実を知って、隠されていた秘密をあばいたと思い込んだからのようだ。
 しかし、哲学はそこからこそ始まるのではないだろうか。分析哲学の祖フレーゲのユダヤ人に対する差別意識という事態と、ハンナ・アーレントがアイヒマンの裁判で見出した「悪の陳腐さ」という概念を並べてみるならば、それについての何がしかの手掛かりがあるように思える。ドキュメンタリー・ドラマと自称している本書の範囲は越えそうだが。

「禁忌」フェルディナント・フォン・シーラッハ / 酒寄進一 訳 [感想文:小説]

 かなりひねりの効いたミステリー。法廷劇の姿をとって謎が解き明かされるのだが、物語の前半は、少女を誘拐し殺害したとされる容疑者エッシュブルクの半生が描かれている。
 ゼバスティアン・フォン・エッシュブルクはドイツの名家の末裔。常人より多くの色彩を感じることができ、文字に色を感じる共感覚の持主である。エッシュブルクは、古い、不幸な家を出て、ベルリンで写真家になり、世に認められる。やがて、商業的な写真に飽き足らないようになり、インスタレーションを手がける。そしてある日、警察にかかってきた、助けを求める少女の電話によって逮捕されてしまう。刑事の強要によってエッシュブルクは少女の殺害を自供する。起訴されたエッシュブルクは、ベテランの刑事弁護人ビーグラーに弁護を依頼。ここから法廷が舞台となり、ビーグラーによる真実の解明が展開されるのである。
 前半、没落した名家が息を引き取る様子、崩れる不幸な家庭の冷たさ、それを見ているエッシュブルクの孤独な視線と世界に対する違和感が簡潔な文章で淡々と描かれ、引き込まれる。ミステリー臭さを感じさせないので、後半の急転に驚かされる。精神的なドラマか人間性の真相を照らす物語を読まされる気になってくる処へ、スキャンダラスな殺人事件を主題にしたミステリーが現れるのだ。
もちろん前半はミスリードの為の仕掛けであり、エッシュブルクの動機に筋道を通すための伏線なのである。読後に点検してみれば、よく計算されていると感心する。計算されているだけではなく、「千円札裁判」などを念頭に置いてインスタレーションのことを考えてみると、作者の描いた射程が意外に遠くまで届いていることがわかる。
 全体を通して、エッシュブルクという非凡な人格の悲しみがじんわりと伝わるし、ビーグラーの偏屈さも面白い。作品を巡って考えに沈むこともできる、見事な一編だと思う。しかし、このひねり具合が万人に受け入れられるかは疑問だ。また、エッシュブルクの共感覚が後半にそれほど生かされない恨みもある。インスタレーションを素材としたからには、この作品自体がルールを越えて溢れ出てきても良かったのではないか、と思ったりもする。

いつか鋼鉄の蝶が [やけくそ]

いつか鋼鉄の蝶が
すらすらと絶え間ない流れの上で
一瞬の隙を突き
悶狂う溶岩の赤々とした接点に
落下し続ける花びらとして静止する
鈍色を刻み込んだ羽根の
渦を巻いた紋様は分岐し、交差し、
絡み合い、ねじれ、襞を折り
箱のなかの箱のなかの箱を開け
らららららと音階を昇り降りする

それと指すより簡潔な
蝶の脚が立っているのは
そこにありながら何処にもない所
星を崩す轟きとともに
蝶の腹が息づく音

戦慄を帯電したまま
一撃で全てが殺到する
わさびの光が斜めに射してくる場所
空の両手を光に濡らしてはいるが
恐れと喜びを携えて、この歌をうたう

「火星の人」アンディ・ウィアー著 小野田和子訳 [感想文:小説]

 これは、シンプルでストレートな、「宇宙開発新時代の傑作ハードSF」(文庫裏表紙から)。読み終わると、もう火星へ行けそうな気がしてくる。ずっとわくわくする。
 物語はいきなり災厄から始まる。
舞台は火星。3度めの有人火星探査ミッション「アレス3」の6人のクルーは、強烈な砂嵐に遭遇し、ミッションを中止、帰還しようとする。
しかし、不慮の事故が襲い、マーク・ワトニーだけが火星に取り残されてしまう。ミッションの物資はあるものの、通信機器は破壊されてしまった。薄い大気と酷寒の苛烈な環境に孤立無援で、マークはサバイバルを始める。
次々と起こる不測の事態。それをマークは、知恵と勇気とユーモアでさばいていく。
それは、地球で育ったいくつかの最良の部分がマークという個人にパッケージングされて、生還を掛けて火星に挑む、ミッション・インポッシブルだ。
 物語は、マークの科学的知識が大きな鍵となるのだが、読んでいると、結局、科学とは勇気が素(もと)なんじゃないかと思えてくる。
そして、勇気の物語が面白く無い訳はない。
それから、独特のユーモアを醸しだす、マークのキャラクターも魅力だ。読めばわかるが、「見て見て! おっぱい!-> (.Y.)」のくだりは最高だ。
この小説にはSFっぽい駄法螺的展開はないが、それでも驚天動地は用意されている。センス・オブ・ワンダーがたっぷり楽しめる。
文庫の巻末に収録された中村融氏の解説では触れられていなかったが、映画「エイリアン」のキャッチ・コピーのパロディもある。

「皆勤の徒」酉島伝法 著 [感想文:小説]

 2011年第二回創元SF短編賞を受賞した表題作「皆勤の徒」を冒頭に置く、連作短編集。変貌し果てた遠未来の世界とその歴史が描かれる。
その未来史は、奇怪な語彙で織られている。イメージを封じこめた、軟質のカプセルのような言葉。行間に異形の世界が見える。想像を超えたと言うのも生ぬるい。バイオテクノロジーとコンピュータが、不可解な姿態で結婚し、変位し、浸透し合い、繁茂している。
この作品は、固まった思考回路を融解させ、未開の地平を垣間見させるに充分な想像空間を描き切っている。
未来史の「見取り図」については、大森望氏が解説を書いているので、読後に確認したほうがよい。驚愕の読書体験の後で、さらに驚かされるだろう。大森氏の親切な解説が、朦朧としていた理解に光を与えてくれる。私はその解説を頼りに読み返した。
 さて、その奇怪な語彙群を少し引いておこう。
例えば、「胞人(ほうじん)」「媒収(ばいしゅう)」「隷重類(れいちょうるい)」「屠流々(とるる)」「辛櫃鱓(からびつうつぼ)」「社長」「念菌(ねんきん)」「皿管(けっかんもどき)」「外回りの営業」「取締役」「冥棘(めいし)」。ごつごつとした造語の合間に会社組織にまつわる言葉が嵌めこまれている。隠喩と言うには、あまりにも隔絶している。しかし、断絶しているわけではない。干涸びた残滓のように似姿が漂っていて、それが薄明じみたユーモアと、時の河の幅を感じさせてくれる。
同じく「埜衾(のぶすま)」「素形(すがた)」「地漿(ちしょう)」「社之長(やしろのおさ)」「百々似(ももんじ)」「穢褥(えじょく)」「腫瘤(しゅりゅう)に覆われた脳状の塊(かたまり)、喇叭形の無鱗魚(むりんぎょ)、眼球を実らせた螺旋海綿——複数の口腕(こうわん)をたなびかせる象皮の無肢熊(むしぐま)、無数の背触鬚(はいしょくしゅ)を振動させる鱏(えい)、櫛状触角を八方に花開かせる半索動物、疑似餌(ぎじえ)の腸鰓(ちょうし)類に襲われる変色甲虫——(中略)——三葉虫(さんようちゅう)に象(かたど)られた木菟(みみずく)、絛虫(じょうちゅう)の阿弥陀籤(あみだくじ)、繁茂した臓物(ぞうもつ)の雲、疣足(いぼあし)を蠢(うごめ)かす水蝉(みずぜみ)」。
これだけではない。これらはまだまだ一部分だ。
作者の造語の追求は、全編で低減することなく持続し、徹底している。シュールレアリストの詩がもたらすことのある、絢爛としたイメージの火花とは毛色が違っているが、作者独自の味があって、唖然とさせられつつ、賛嘆する。
この味を名指しするのは難しいが、幸いなことには、作者自身による挿画が収められていて、それが幻惑しつつも手助けしてくれる。例えば、稠密な朦朧の異形とでも呼んだらいいのだろうか。そこにはエルンスト・フックスの遠い谺を見て取れそうなものもある。
 大森氏は解説で本作を、「”ポストヒューマン(人間以後)”の未来像を真正面から」描いたと評している。それに加えて言うなら、本作において我々は、人間以後の、エキサイティングな物(オブジェ)の世界に出会うことができるのである。

「ピース」ジーン・ウルフ著 西崎憲・館野浩美訳 [感想文:小説]

 1975年に発表された作品を2014年に読む。39年の間、この作者とこの作品を知らなかった。作者が、ファンタジーとSFの作家であり、ネビュラ賞、ローカス賞、世界幻想文学大賞を受賞していることも知らなかった。当然、この「ピース」という長編がその三作目であることも知らなかった。
知らない作品は、存在しない。
しかし、一度その名を知ると、作品はこの世界に身を現す。それを手にして読み、その物語の扉を開くことができるなら、「いまは滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的」な存在となることがある。
この作品=物語の有り様は、記憶の有り様に似ている。あるいは、ジーン・ウルフはこの「ピース」においてそう描いている。
 つまり、これは「記憶」を描いた物語、「記憶」と「物語」の物語、だ。
アメリカ中西部にあるとされる架空の町キャシオンズビルを舞台にして、オールデン・デニス・ウィアという男の、「一番遠いものである」「子供の頃の記憶」、「強烈に心を動かす」記憶が語られる。
記憶というものは、「正確に思いだされることなく」「採用される手順も異議を唱え」られないものであるから、物語も、直線的に筋道正しくは語られない。話の中に話が埋め込まれる。唐突に別の話に接続される。枝分かれをし、寄り道をし、曲がり、途切れたかと思うとまた続く。それは奇怪な邸を彷徨うのに似ている。
こうして、クリスマスと祖父のこと、美しく、気ままな叔母との生活、アイルランドの妖精猫の寓話、シェヘラザードが語るベン・ヤハヤと魔神の取り引き、「邯鄲の枕」、叔母の男友達の話、ジュリアス・スマートと薬剤師ティリーの不気味な挿話、偽書を作る男と図書館司書のこと、ネクロマンシー(死体蘇生術)、工場の冷蔵庫での死、アイルランドのシー族の衰亡が語られる。
これらの語りの回廊は、迷路という感じはしない。仄暗く静まった水路を流されて行くようだ。
そして、これらの記憶と物語が呼び起こされる手順は「理想化をほどこす手順であり、その理想は基本的に人工的なものであり、少なくとも事実には基づいてはいない。」だから「出来事のいくつかは実際には起こらなかったかもしれず、ただそうだったはずだと思っているだけかもしれない」。そのため、確定的な、説明的な叙述は一切ない。それが物語全体に謎が重層する感触を与えている。
この謎の感触が物語の水路を導く。
読者は、実際に起きた出来事を求め、その歪曲と隠蔽の距離を測ろうとし、行間に目を凝らすだろう。
しかし、恐らくそこには何もないのだろう。何故ならこれはやはり記憶の物語だから。記憶には解答などないだろうからだ。
記憶が召喚されるのは、常に、「あらゆる場所の縁にあたるこの見棄てられた地」においてである。そこから遠く、「あの庭園、永遠にティレニア海の午後の陽光を浴びた幼いジョーの庭」のように記憶は存在するが、それこそが「現実の核」なのである。
 さて、表題の「ピース」とは何を意味しているのか。それは死者の平和ではないかと考える。何故なら、記憶が「いまは滅んで取り戻せない」存在についての物語であり、つまるところ死者と死者の国の物語であるからだ。
その表題にふさわしく、この作品は全編に渡って静謐な調子が保たれている。水の匂いのように満ちた死の匂いを楽しむことができる。記憶についての瞑想を誘い出してくれる小説だと思う。

GODZILLA ゴジラ(2014)/ ギャレス・エドワーズ監督 [感想文:映画]

 冒頭、「東宝」のロゴマークが燦然と輝き、過去のゴジラシリーズへの敬礼がなされる。そうだ。この映画は、敬意と愛の映画。荒唐無稽で、馬鹿馬鹿しく、そのために恐ろしい、「怪獣」の映画を営々と作り、奮闘してきた映画人たちとそれを受け止めて、やんややんやの快哉を謳ってきた観客たちへの、返礼なのだ。
 台風が近づくとわくわくする者よ、増水した川を見に行きたくなる者よ、この映画を観よ。この映画に浸れ。
 おしっこをわざと我慢するための遠回りを知っている者よ、この映画を観よ。「怪獣」が主役の映画にとっては、人間の社会のごちゃごちゃはおしっこを我慢するための言訳でしかない。この映画はそうなっている。しかも丁度いいバランスで。「ゴジラ」の主役はゴジラであり、ゴジラが主題なのだ。人間どもは、蟻かゴミ屑であって、狼狽え、逃げ惑い、踏み潰されていればいいのだ。これをメタファーや批判に置き換える必要があろうか?フィクションであり、「美」であり、体験であるのに?
 「怪獣」映画のスペクタクルの勘所がこの映画には、全て入っている。巨大な生物が地上で荒れ狂う「美」を「怪獣」映画は発見したのであり、この映画は、ギャレス・エドワーズ監督は、それを知っている。ついでに言えば、平成「ガメラ」シリーズも入っている。
 ゴジラ・シリーズの正統な新作が一本誕生した。それを目撃することができて、嬉しい。誰か、ギャレス・エドワーズ監督に言ってくれ。「ありがとう」と。

「11/22/63」スティーヴン・キング(白石朗 訳) [感想文:小説]

 上巻を読み終えて、これはキング版「ふりだしに戻る」だと思っていたら、作者のあとがきできっちりジャック・フィニィの名前が挙がっていた。どうやら本当にフィニィの作品を意識したらしい。その意気に圧倒されるし、感嘆する。しかも空回りせず、傑作として実った。敬意、祝意、謝意を捧げたい。
 つまり、本作はタイムトラベルものであり、歴史改変ものである。
時間旅行の行き先は、1960年代初頭のアメリカ。そこで主人公が「望ましい」歴史に書き換えようとするのは、1963年11月22日のケネディ暗殺だ。リー・オズワルドの凶行を未然に阻止すべく主人公が東西奔走し、物語が膨らんでゆく。下巻の真ん中辺りから、もう本を閉じることができない。ページをめくるのさえもどかしく、脳細胞に直接書き込んでくれればいいのに、と思う程の奔流となってクライマックスへ向かう。
 作者は、ケネディ暗殺の失われてしまった真相を、想像力によって、血肉を纏った仮説として描いてみせようとしている。それは成功して、リー・オズワルドが「薄っぺら」な人間として厚みのあるリアリティを得ている。それに比較すると、ほんの少しだけ顔をのぞかせるケネディ大統領自身は、物語の結構上仕方のない部分があるにしても、記号のようだ。それ程にオズワルドの人物描写が素晴らしい。
 が、それだけではない。「あの頃のアメリカ」もこの小説の主題なのだ。それを、歴史的位置づけで断罪するのではなく、「昔は良かった」的な懐古の妄想に溺れるのではなく、五感の内に、生きた現実として、喚び起こそうとするのだ。そのために、空気の味、匂い、人々の言葉、食べ物、車、タバコ、音楽、ダンス、映画、テレビドラマ etc.が総動員される。特に本作ではダンスが大きな役割を占めるが、悲しいかな、さっぱりわからない。それでも、躍り上がるような、熱のこもった描写は楽しい。
「生きた現実」のダンスには、相手が必要になるが、ここにラブ・ストーリーが絡んでくる。主人公は、過去の世界で過去の女性と恋に落ちる。キングのラブ・ストーリーは超真面目なメロ・ドラマだ。超真面目というのは、ベッド・シーンがないという意味ではない。作者が超真面目に取り組んでいるという意味だ。
 歴史という大きな流れとラブ・ストーリーという個人的な世界が、ダンスのように、互いの周りを回り、うねりとなって物語の終末を迎える。
スティーブン・キング・ワールドの、カタストロフのスペクタクルも用意され、決着をつけるべく、主人公は選択する。その味わいたるや絶品。キング作品の麻薬もこのあたりに忍んでいたりする。
 もちろん、「暗黒の塔」を中心としたキング・ワールドとの関連もしっかりあって、そこもまた面白さの一つだ。本作では、「IT」の舞台であったデリーが登場し、懐かしい二人が顔を見せる。
 「暗黒の塔」は、想像し、書き、生きるということがどういうことかについてのキングの挑戦であったわけだが、今作でも、過去を現実として生きるという、失われたものへの愛としての想像力が語られているのだと思う。それは、力強く、切なく、素晴らしい。
「そして音楽がぼくたちを運び、音楽が歳月を彼方へ押しやり、ぼくたちは踊る。」

リアリティのダンス / アレハンドロ・ホドロフスキー監督 [感想文:映画]

 少年や 六十年後の春の如し(永田耕衣)

 ホドロフスキーの「エル・トポ」が公開された時、「フェリーニが撮った西部劇」と紹介されていた記憶がある。どちらの監督にも失礼な話だが、当時は、したり顔で納得した気になっていた。自己批判も込みで評すれば、想像力の「ダンス」の外側にいる人間の戯言だろう。ホドロフスキーはホドロフスキー。他の何者でもない。ホドロフスキーの映画を観るときは、ホドロフスキーだけを、ホドロフスキーのみによって味わえ。ホドロフスキーに溺れよ。
 そして、ホドロフスキーでしかないホドロフスキーの新作「リアリティのダンス」を観た。
ああ、フェリーニの「アマルコルド」だ、と思った。
舌の根も乾かぬ内にフェリーニの名前を引き合いに出すのは、そのくらい破廉恥で、厚かましく、節操なくあらねば、ホドロフスキーには付き合えないからである。
現存する世界一正直な嘘つきにして、聖なる山師アレハンドロ・ホドロフスキー。
そのホドロフスキーの、まるっきり私的な、少年時代の追憶の映画「リアリティのダンス」。
二時間強に及ぶ、自己陶酔的な、ある意味単調な、果実のように新鮮で、いつもながらの手管に満ちた、私的なリアリティの映画。それは、永田耕衣の俳句「少年や 六十年後の春の如し」に似て、割り切れることはないながらも、姿良い色彩で画面を輝かせている。
それにしても、ホドロフスキーは映画的センスの塊なのか、希代の剽窃者なのか、スタッフの勝手にやらせているのか。「リアリティのダンス」の画面の麗しさは、どうしたことなのだろう。本当に映画が上手く撮れる人なのだと思うことにしておこう。
小便を垂れるシーンの性器にボカシが入っている。
母親役の Pamela Flores がずーっとセリフを歌う。綺麗なソプラノだ。鼻が見事で、見惚れた。

オール・ユー・ニード・イズ・キル / ダグ・リーマン監督(2014) [感想文:映画]

 トム・クルーズの映画。トム・クルーズが演じるヒーロー誕生物語。卑怯者が使命に目覚め、地球を救うために一発逆転の賭けを戦う映画だ。トム・クルーズが怯える。鼻の下いっぱいに脂汗を浮かせて。トム・クルーズがクールに睨む。どん底からステップアップして。そして最後には、「まだまだ爽やかだぜ」的締めの笑顔を楽しむことができる。
つまり、トム・クルーズの「普通の」映画だ。
それはそれでいい。トム・クルーズは好きだし、楽しかった。でも同時に僕は、原作のことを少し考えた。
 原作「All You Need Is Kill」も面白い。その面白さはがどこにあったのか、トム・クルーズの普通の映画が教えてくれる。実のところ、映画が切り捨てた部分に原作の面白さがあるのだと思う。
例えば、エイリアンのハイ・テクノロジーの戦闘兵器に対して主人公はバトル・アックスだけで戦う。数え切れぬループで磨きあげた手順の、寸分違わぬ動きで、敵を斬って斬りまくる。その荒唐無稽さと、コツを会得する的な覚醒の結びつきのワクワク感。
リセットされてループする時間とリニアに蓄積される記憶を意識する主人公とそれを読んでいる自分という重なりあった層の感触。
初年兵の主人公、少女兵のリタと人間性を奪い去る激戦という定番のコントラスト。たとえどんなに戦闘に長けていても、若い登場人物にとって未知の未熟さがあるのではないか、と危ぶませてくれることによって、不安定のスリルと傷つきやすい皮膚の感覚を伝えてくる。
侵略してくるエイリアンのギタイは、顔のある敵ではない。それは、分散ネットワークで構成されているシステム。その無頭の不気味さ。蟻や蜂を恐れる人には馴染み深い。
この不気味なシステムは押し寄せる。圧倒的に、無慈悲に、無意味に。主人公キリヤ・ケイジはそのシステムに殺され続ける。その閉塞感。
しかし、その絶望的な反復の線上で主人公は、体験を経験へと変換し続け、ミニマルな曲線から屹立する成長を引出してくる。そこには、虚無の上で透明に沸騰する昂揚がある。
実は、無頭のシステムこそが、主人公が成長するための導師であり、主人公はシステムからのメッセージを読み解くことによって覚醒する=コツを覚えるのである。
つまり、多くの物語と同じく「All You Need Is Kill」も、メッセージを読み解くという物語の真実を共有しているのだろう。
 誰かが発見し、ハリウッドに持ち込まれた「All You Need Is Kill」は普通の映画へと均されてしまった。ハリウッド映画は、原作者と原作を受入れた読者達の感性にとって、小さすぎる器だったようだ。

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