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「ハーモニー」伊藤計劃著 [感想文:小説]

 本作の冒頭には奇妙な記号が置かれている。「〈?Emotion-in-Text Markup Language:version=1.2:encoding=EMO-590378?〉」などだ。これらは作中の随所に埋め込まれている。これが何であるかは作中で説明されていて、それは「etml」という架空のマークアップ言語の記述なのである。etml はメッセージ内容に付加されるメタ情報、主に「感情」の伝達を実現するためにあるとされる。
マークアップ言語は、通常、メッセージの受信者の視野の外にある。言語とは言うものの、その相手は、大抵はコンピュータなどのメディア・デバイスだ。
それで、「ハーモニー」を読むことは、架空のデバイスの位置に身を置くことになる。あるいは、置かされていたことに気がつく。これは、物語の中の物語、入れ子になった物語の効果をもたらしている。[物語a]が一度起り、それにメタ情報が付加されるという事態が起った[物語a+]が最初の[物語a]を語っているのである。しかも、末尾に仕掛けのスイッチが置かれているため、読者は語られた物語にもう一度目を向けざるを得なくなる。
 さて、その物語とは、霧慧トァンの物語である。
霧慧トァンを取り巻く世界は超高度医療福祉社会だ。
その昔、世界には「大災禍(ザ・メイルストロム)」があった。それは、アメリカを中心として拡散した大暴動と、それにより核兵器が使用された、戦争と虐殺の時代であった。世界は混乱し、荒廃した。結果、放射線の影響で癌が増加した。また、突然変異と思しき未知のウィルスによる疫病が蔓延し、人類の生存がとてつもなく脅かされた。人類社会は、その構成員を限られた資源(リソース)として意識し、その健康を守ることを最大の責務とみなすようになった。
医療分子(メディモル)というナノ・テクノロジーの発明がその人類の選択を支えた。
医療分子は体内に常駐し、サーバーに接続されて、人体を常時監視する(WatchMe)。疾病の兆候、異常を逸早く察知し、可塑的製薬分子(メディベース)によって予防、修復、治癒を行なう。
このインフラが、超高度医療福祉社会を実現させる。
医療システムを利用することに合意した共同体=医療合意共同体(メディカル・コンセンサス)、生府(ヴァイガメント)が登場したのだ。そのため従来の政府は縮退した。
この医療福祉社会は、その構成員を包みこみ、病気にならないように、怪我をしないように、傷つかないように見守る、医療と思いやりと慈しみの社会となった。
この社会の依って立つ思想は、生命主義、生命至上主義と呼ばれる。生命主義では、人間の尊厳の条件を次の三点と見なす。まず、「構成員の健康の保全を統治機構にとつて最大の責務と見なす政治的主張」。第二に、ネットワークされた健康監視システムへ構成員を組み込み、安価な薬剤と医療による医療消費システムを実現すること。第三に、「将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取及び生活パターンに関する助言の提供」である。
ピンク色をした優しい社会。緻密な論理で透視され、あり得る未来として描き出された社会は、なんと息苦しいのだろう。それは慈母のファシズムと形容される。
 そこにガラスのような少女たちが登場する。御冷ミャハ、霧慧トァン、零下堂キアンの三人だ。
美しく孤立するクラス随一の変わり者、「ソプラノの喉を持つ男の子のような声」をして、おせっかいな優しい社会を憎む、思春期のイデオローグ、御冷ミャハの磁力に引きつけられるトァンとキアン。ミャハは、境界を乗り越え、社会の束縛を断ち切り、自分を社会から取り戻し、自分自身で選択する自由を回復しようとする。溺れかけている自分を感じていたトァンは、ミャハをアイコンと仰ぐ。そして三人は、大人たちを出し抜き、餓死することによって死ぬ自由を取り戻そうと謀った。しかしミャハ以外の二人は失敗してしまう。
 それから十三年後、霧慧トァンは「螺旋監察官」となっている。それは、「世界原子力機構(IAEA)の遺伝子版」であり、生府なり政府なりが「健康的で人間的な」生活を保障しているかどうか査察する仕事だ。
なんとか社会と折り合いをつけて成人したトァンを死んだはずのミャハの影が訪れる。
ここから物語は、不気味な緊迫感に包まれて行く。それは、高度医療福祉社会のその先へと、作者が挑んだ根源的な思弁の緊迫感なのである。
 作者は、意識とは何かと問う。しかし、これが論争のための書ではないことは考慮しておくべきだろう。作者の思弁を追体験するようにしたい。
さて意識は、脳における報酬系を制御する活動と考えることができる。報酬系とは人の「選択を繰り返し行いたくなる動機づけを与える領域」で、それによって動機づけられる「欲求」のエージェントの数々が、競合し、葛藤し、調整して選択されようとするプロセスそのものが意志なのだ。それは喧騒の会議とイメージできる。そして、選択された「欲求」のエージェントの集合が、それと感覚されるものを形作るのである。つまり知覚される現実は、選択されたエージェントによって構成される。即ちそれが意識なのだ。
「欲求」のエージェントの競合と選択のプロセスが意識なら、動物にも意識を認めることができる。そこから意識は、進化の途上で遺伝的にプログラミングされた形質だと見なせる。
進化は場当たり的な適応の集積にすぎない。意識は、おのれが最高位にあり、すべてだと思いたがり、予測し、統御する自分の機能があらゆるものに適用可能だと考えたがるが、単に、進化の途上で獲得された適応の継ぎ接ぎの一部でしかないと考えられる。人間を取り巻く環境が変れば、時代遅れの機能となることもあるだろう。
進化の継ぎ接ぎの結果であるがために、報酬系は目の前の価値を最も高く評価する非線形の判断を行なってしまう。その場しのぎの生き残り戦略の残滓だ。これがフィードバックを伴う再帰的構造を取るため、報酬系の判断はカオスを生み出してしまう。人間の意志の、予測し難い、非合理性はここに由来する。それは人間の脳という自然なのである。暴虐、混乱、荒廃の根は人間の脳そのものにあるのかもしれない。
人間が積み上げてきた営為は、自然の制御、予測不能なものを抑えこもうとする意志の結果と見なせる。それなら、人間は脳という自然をも制御しようとするだろう。身体は治療するのに、脳を治療してはいけない法はないのだから。
脳の制御は、報酬系の価値判断の線形化になるだろう。それは、選択に葛藤がなく、行動が自明になる状態だろう。選択の葛藤の消失とは、言い換えれば、自律の価値観の消去である。それでどうやって行動し、生活できるのか。ネットワークに繋がったシステムに代替させる゠外注することでそれが可能になる。
 その結果、何が、どんな世界がやって来るか。
本作「ハーモニー」で示されるその世界は「永遠と人々が思っているものに、不意打ちを与え」る、強烈で、皮肉な衝撃をもたらし、読む者を途方に暮れさせる。
そこに三人の少女の、運命の軌跡が刻みこまれる。少女の、過剰で脆く、哀切な自意識がアラベスクを描く。
この作品は、透き通った傷つきやすい皮膚をしているようだ。それに、物として触知できると思わせるほどの喪失感を湛えている。
 物語の最後に、我々は「etml」を気づかされる。etmlの記述が終る時の意味を感じさせられることになる。それは、意識と物語を読むということの不思議な関係へ目を向けさせる。「フィクションには、本には、言葉には、人を殺すことのできる力が宿っているんだよ、すごいと思わない」という御冷ミャハの言葉が轟くだろう。作者が、物語を読むことに救済を見出したとは思わないが、その力を信じたことは確かだろう。
 本作では、ゲーテ、坂口安吾、フーコーなどへの言及が登場する。「全書籍図書館」の名前は「ボルヘス」だ。谷川流の「涼宮ハルヒの憂鬱」のパロディ、「ただの人間には興味がないの」は分ったが、それ以外にもあるのかどうかは分らなかった。

「屍者の帝国」伊藤計劃+円城塔 [感想文:小説]

 この作品はもともと、故伊藤計劃氏の長篇、「虐殺器官」「ハーモニー」に次ぐ作品になるはずであったものだそうだ。故伊藤氏は30頁足らずのプロローグを残し、それを基に円城塔氏が全体を書き上げた。経緯は、円城氏による「文庫版あとがき」に詳しい。
舞台裏の成立事情だが、その才能が惜しまれる伊藤氏と円城氏の関係も含めて興味が尽きない。そして、もし、伊藤計劃が生きていてこの作品を書いたら、と想像してみたくなる。この「もしも」は、別の新たな歴史改変SFへの扉のような気がしてくる。物語の終った処から、物語の外側で、「もしも」の世界が広がっていく。それは、この物語の主題と仕掛けに絡んで来て、故伊藤計劃氏が蒔き、円城塔氏が育てた世界に呑み込まれてゆく眩暈をもたらす。
 物語の主人公は、ジョン・H・ワトソン。この「屍者の帝国」という物語の外側で、ロンドン、モンテギュー街に間借りする「諮問(コンサルタント)探偵」=シャーロック・ホームズに出会い、数奇な冒険を繰り広げることになる人物だ。ホームズの物語の中では、ワトソン博士は「アフガン戦争」から帰還したことになっているが、本作はワトソン博士登場の前日譚ということにもなる。
ワトソンの活躍する舞台は、「もしも」の過去、19世紀末の仮構の歴史である。この世界で「必要なのは、何をおいてもまず、屍体(したい)だ。」
遡ること100年ほど前、ビクター・フランケンシュタインは魂の正体を突き止め、生命を生命たらしめている根幹が「霊素」として把握できることを解明した。さらに歩を進めたフランケンシュタインは、擬似的に構成された「霊素」を屍体に書き込むことによって死者を動かすことを可能にしたのである。この屍体制御は技術として普及し、19世紀末には、擬似霊素を書き込まれた=インストールされた屍者が重宝な労働力として、蒸気による産業革命を経た社会のインフラとなった。ロボットを使役する社会として描かれる未来が、ゾンビによって19世紀末のヨーロッパに実現された按配である。
ロンドン大学の医学部で屍体蘇生術を学んでいたワトソンは、その腕前と熱心さを買われ、英国政府の諜報機関にスカウトされる。ワトソンの運命を変える導き手は、ブラム・ストーカーの「ドラキュラ」に登場するジャック・セワードとヴァン・ヘルシングだ。彼らは諜報機関の人物「M」にワトソンを引き会わせる。その機関の名前は、女王陛下の所有物(プロパティ)、スパイの祖、サー・フランシス・ウォルシンガムの名前を戴く「ウォルシンガム機関」。そして、機関の駒となったワトソンのお供をする屍者フライデーの、機関での登録名称は、スパイと言えば当然出てくるべき名前がついていてくすぐったい。
機関はワトソンをアフガニスタンへ派遣する。任務は、「ユーラシア大陸を股(また)にかけた大英帝国とロシア帝国の陣取り合戦」=「グレートゲーム」の只中で、奇妙な噂話の真相を探ること。それは「ロシア帝国の軍事顧問団の一隊アフガニスタン首都カーブルを離れ」、「屍者の一団を引き連れて」「アフガニスタン北方に屍者を臣民とする新王国を築こうとしている」という話で、そこには、東側の持つ未知の疑似霊素=屍者制御ソフトウェア(ネクロウェア)の秘密が見え隠れしていた。この「屍者の王国」を築こうとする、「地獄の黙示録」のカーツ大佐的な人物は、またもやフィクションの登場人物で、のけぞる程の有名人だ。
こうしてこの小説には、物語の外側のフィクションが次々に侵入してくる。それに驚かされ、くすぐられ、ニヤニヤさせられている内に、謎を追って世界中を引きずり回されることになる。途中、明治維新の日本も舞台として登場する。つまり史実も参照されるわけだ。歴史改変SFは、この史実との距離がまた楽しく、本作でも虚実が入り乱れる様を堪能することができる。
 ところで、史実とは何だろう?歴史とは実体を有する何ものかだろうか。物語の内側から見れば、フィクションも歴史もさほど差はないことに気づく。そして、歴史よりも物語の方が、小説「屍者の帝国」の方がより現実らしく、紙の書籍もしくは電子書籍を実現するデバイスとして実在して、読む者の手の中にある。これは物語が実在化しているということだろうか?言葉が実在化したということだろうか?
空想はジャンプする。
物語を読むという事は、擬似霊素をインストールすることに似ているのではないだろうか?物語を読むわれわれは、「屍者の帝国」に属しているのではなかろうか?では、物語を読み終った時、何が起きるのだろう?意識が残っているのではないか?意識とはそもそも一体何か?
意識と言葉について、実在と虚構について、疑問符が生れ続ける。これが恐らく、円城塔氏によって仕込まれた仕掛けであり、主題なのだ。
荒唐無稽の冒険譚中に織り込まれた、意識を巡る思弁的主題が「屍者の帝国」の魅力だ。文体の温度の低さが、凝った馬鹿話の速度を削いでいるが、屍者の肌を思わせて、読後の印象は強い。あとがきに、「賞賛は死者に、嘲笑(ちょうしょう)は生者に向けて頂ければ幸いである」と書かれているけれども、嘲笑の必要は感じない。故人の意志を継いで、見事な円城搭のSFを生み出し、読者のもとに届けてくれたことに感謝するばかりだ。

「パイドロス」プラトン著 藤沢令夫訳 [感想文:その他]

 「パイドロス」はプラトンによる対話篇で、紀元前370年代に書かれたもの。プラトンの活動においては中期に位置する著作である(解説 p.191)。
 時は真夏の晴れた日盛り、アテナイ郊外にあるイリソス川のほとりで、ソクラテスとパイドロスが対話する。
このパイドロスなる人物は、プラトンの他の著作(『饗宴』『プロタゴラス』)にも姿を見せ、「時代の風潮に敏感な、全般に快活で好奇心に富んだ一人のアテナイの知識人」(解説 p.189)だったようだ。
 対話の主題は弁論術についてである。弁論術は当時のアテナイにおいて花形的技芸であったらしい。「言論の自由と法のもとにおける平等をたてまえとする民主制下のアテナイでは、人は国民全体の集会である国民議会や陪審法廷の世論を動かすことによって国政を支配し、あるいは身の保全と立身をはかることができたから、そのための言論の能力」(解説 p.193)を技術として身につけることが人々の関心の的であったのだ。そして、弁論家たちは「手本となる弁論をあたえて暗記させる」(解説 p.194)ことによって弁論術を教えると標榜していた。
 しかし、その弁論家たちの弁論術は真に技術と呼べるものなのか。ソクラテス=プラトンは異議を唱える。
弁論術は「言論による一種の魂の誘導」(261A)なのだ。それが技術たり得るためには、真実の把握、本質の把握がまず前提となる。誇張や比喩などの修辞、真実らしく見せかけて、人を納得させるためだけのテクニックは、予備的知識ではあっても、技術の土台ではない。また、弁論術は魂をその対象とする以上、魂の本性の分析が必要となる。その魂の分析はデアレクティケーによって実行される。ディアレクティケー=対話術は、「多様にちらばっているものを綜観して、これをただ一つの本質的な相へとまとめる」(265D)ことと、ものごとの「いかなる部分をも、下手な肉屋のようなやり方でこわしてしまおうと試みることなく」「自然本来の文節に従って切り分ける」(255A)「分割と綜合という方法」(266b)によって行なわれなければならない。
 この弁論家・弁論術批判の枠の中に三つの話が埋め込まれている。
まず、パイドロスが持っていた高名な弁論家リュシアスの文章。それは「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」と主張していた。目を引く逆説的な主張だが、弁論家たちはこのような逆説でもテクニックで聞く人を納得させられる、本当らしく思わせることができる、と言っていたのだ。
こに対してソクラテスは、リュシアスの論を修辞はともかく構成に問題ありとして、修正したものを提示する。
しかし、以上二つの話がエロースの神に対する不敬虔にあたると言ってソクラテスは、「取り消しの詩(パリノーディアー)」を捧げるために第三の話を語る。それは恋する者を讃える話である。前の二つの論は恋する者の狂気が悪いということを根拠としていたのだが、第三の話は、それに対する反駁として、神より授けられた狂気からは善きもののことの中で最も偉大なものが生れてくることを出発点とする。そこから魂の三部分説や魂の転生の物語(ミュートス)が語られ、本篇の中核を成している。
 まず、神から授けられた狂気が挙げられる。予言術、占い術、そして「ムゥサの神々から授けられる神がかりと狂気」。最後のものは、詩人と詩作を襲う狂気であるわけだが、「もしひとが、技巧だけで立派な詩人になれるものと信じて、ムゥサの神々の授ける狂気にあずかることなしに、詩作の門に至るならば、その人は、自分が不完全な詩人に終わるばかりでなく、正気のなせる彼の詩も、狂気の人々の詩の前には、光をうしなって消え去ってしまうのだ。」(245A) これらの狂気と同なじものであり、しかもこよなきものとして神から授けられたのが恋の狂気だとされる。その証明は魂の本性を説き起すことから始められる。
 魂(プシューケー)は「自分で自分を動かすもの」(246A)である。生物は「内から自己自身の力で動くもの」であり、それ故、魂を持つものである。外からの力で動かされるものは魂を持たない無生物だ。自己自身を動かすものは動くことをやめず、他の動かされるものにとっての動の源泉=始原である。始原は生じることがなく、そのため滅びることがない。よって魂は不生不死である。
ここで魂は、人間だけのものとされているわけではない。生物全体、そして神々までもが魂を持つものとされている。それのみならず、宇宙の秩序を支配する動の源泉=始原として考えられている。そして魂は、魂なきものの全体を配慮するのである。
特に、神々と人間について言えば、神々は完全な翼を持った魂であり、人間は翼を欠いた魂なのだ。魂は翼を欠けば、下へと落ちて、肉体に住みつく。それ故肉体は、自分で動くように見える。
このような人間の魂は、「翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力」(246A)という似像=イメージで描かれる。この馭者が操る二頭の馬はそれぞれ性格が違い、「一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。」(246A) これが魂の三部分説だ。
さて、魂に翼があるのは高みの天界を経巡るためである。神々は天空を行進する。それは「あまたの祝福された光景、あまたの祝福された行路がある」「幸多き旅路」である。そして神々は饗宴におよぶと、「天球のはてを支える穹窿のきわまるところ」(247B)までのぼりつめ、天球の外側、天球の背面に立ち、「天の外の世界を観照する。」(247C) そこにあるのは「真の意味においてあるところの存在‐‐色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である。真実なる知識とはみな、この《実有》についての知識なのだ。」(247C) 神々の魂は、天球の運動が一回りするまで、真実在を観照し、「それによってはぐくまれ、幸福を感じる。」(247D) 真実在によって魂は《正義》そのもの、《節制》、《知識》などなどを観得する。
一方、神々以外の魂、神に倣う魂は、その馭者の頭を天外へ出して、かろうじて真実在を観得する。他の魂は、上の世界を求めはするが叶わず、「言語に絶した擾乱と抗争と辛苦の汗」に巻き込まれ、翼が折れ、疲れはてて立ち去り、「思惑(ドクサ)をもって身を養う糧とする。」(248B) その魂が、神の行進に随行して、真実在の何かを観得できている間は損なわれないが、それができないと地上に墜ちる。そして真実在をどれだけ観たかに応じた人間の種に入る。
魂は一万年経つと翼が生えてもとの場所に戻ることができる。その間、まず最初の生が終わると、魂は裁きを受ける。地下の仕置場で罰を受けるか、天上でふさわしい生を送る。それが千年。その後、次の生を選択する。この時、動物の中に入ったり、動物から人間に戻るということが起こる。そしてこれが一万年まで繰り返され、翼が生えると魂は神々の行進に預かる天上に戻ることができる。ただし、「誠心誠意、知を愛し求めた人の魂、あるいは、知を愛するこころと美しい人を恋する想いとを一つにした熱情の中に、生を送った者の魂」(249A)が、三回続けてそのような生を選ぶなら、三千年で立ち去ることができるのである。
 かくして魂は真実在をかつて見たことがあるのである。それ故、ものを知るということは、既視の真実在を想起することになる。なぜなら、知るということは、形相(エイドス)に則し、「雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くこと」によって、真にあるところのものの知に到達することであり、それは既に、天の外の世界において見られていたものなのだ。従って、知を愛し求める人は、かつて見た天外の世界を求める人であり、そのような「知を愛し求める哲人の精神のみが翼をもつ。」(249C)「しかしそのような人は、ひとの世のあくせくとしたいとなみをはなれ、その心は神の世界の事物とともにあるから、多くの人たちから狂える者よと思われて非難される。だが神から霊感を受けているという事実のほうは、多くの人々にはわからないのである。」(249C) すなわち、神から授けられた狂気はもっとも善きものなのである。「この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気にあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕う者がこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ」(249E)
 《正義》や《節制》などの真実在の地上における似像はぼんやりとしかとらえられないが、《美》は、視覚という一番鋭い知覚によってとらえられるので、何よりも鮮明にかがやいてとらえられる。そこで真実在を想起した者が、「美をさながらにうつした神々しいばかりの顔だちや、肉体の姿など」(251A)の「少年にそなわる美」(251C)を目にすると、おののきに貫かれ、畏怖の情が湧き、怖れ慎みながら、異常な汗と熱を帯びる。欠けていた翼が成長しようとし、「魂の全体は、熱っぽく沸き立ち、はげしく鼓動」(251A)し、むずがゆさといら立ちを感じる。
明言されているわけではないが、ソクラテス=プラトンの言う恋は少年愛が前提とされているようである。その少年愛はまず何よりも表面の美に打たれるのだ。見目麗しい少年を恋い求める衝動が、知を求める衝動によって基礎づけられ、大掛りな宇宙論(コスモロジー)に組み込まれている。生殖活動に根を持つ異性愛は当然のように視野から落とされている。だが、価値の断絶があるわけではない。それはより低く位置づけられているだけで、天外の真実在へ至る連続性が常に意識されているように見える。現代のわれわれの身辺では少年愛の価値が違っている。時代的、文化的に相対的な価値であったということだが、プラトンの論はその連続性によって、少年愛の価値の変動を吸収するようだ。
 恋する人の魂の三つの部分のうち、悪い馬は恋する人の側へ直ちに寄って愛欲の歓びを満たそうと暴れるが、良い馬は慎みのために抵抗し、馭者はこれらをコントロールしようと悪戦苦闘する。ここで激しい葛藤と苦痛が恋する状態に起こる。
このように魂は、単一で均等な構成ではなく、衝突さえ起こす「力」の集合体と捉えられている。しかもそれは多数の要素ではなくて、三つほどの部分から成るのである。性質の良い部分も悪い部分も同じ平面にあり、真実在を観照できる部分がそれらをコントロールしようとするが、そこには常に抵抗と葛藤がついて回るのだ。もっとも善きものから由来する恋の狂気においてさえも、である。
 恋する人は相手を神とみなしつつ、崇拝し、礼拝する。「そして求める相手を手に入れたときは、自分自身も神にみならうととも、愛人にも同じようにすることを説得したり、そのための訓練をほどこしたりしながら、それぞれの力でできるかぎり、その神の生き方に従いその神の姿に近づくようにと、愛人を導いて行く」(253B) 恋される人は神のように奉仕され、もともとの天性から神に憑かれた恋する者と親しくなるようにできているので、恋する者を受け入れると、この人の価値を知るようになる。恋する者に流れ込む愛の情念、美の流れは、恋する者の内であふれ、愛人の魂に帰り、恋される者を恋で満たすようになる。
このようにして「精神のよりすぐれた部分が、二人を秩序ある生き方へ、知を愛し求める生活へとみちびくことによって」(256B)、「この世において彼らが送る生は、幸福な、調和にみちたものとなる。それは彼らが、魂の中の悪徳の温床であった部分を服従せしめ、善き力が生ずる部分はこれを自由に伸ばしてやることによって、自己自身の支配者となり、端正な人間となっているからだ。」(256B) 彼らは「この世の生を終えてからは、翼を生じて軽快に」なるだろう。「これにまさる善きものは、人間的な狂気も、神のさずける狂気も、けっして人間に対して与えることはできないのだ。」(256B)
 恋の狂気が善いものであることの証明は、知を愛し求める生活を送るべしという主張に自らなっている。なぜなら知を愛し求めることが真実在にあずかるからなのだ。この知を愛し求める人は「愛知者」(哲学者)(278A)と呼ばれる。愛知者は「ディアレクティケー」を身につけなければならない。弁論術・弁論家批判の水路は、哲学すべし、哲学者たるべしという思想へつながっているのだ。
 しかし、これは直線的に論述されていない。
中核は、物語(ミュートス)、例え話だ。そこでは、真実在の似像というイデア論、魂の三部分説、始原としての魂(プシューケー)、魂の転生が語られ、それらが神話的コスモロジーの中に織り込まれている。リュシアスの論の反駁ではあるのだが、直接的に対峙させられているのではなく、エロースの神への捧げものとして置かれている。それにそもそも全てが対話に終始する。思想を論ずるにしては手が込んでいるように見えるこの体裁は何故なのか。
それは、書かれた言葉が影でしかないからだ。書かれたものは「ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉」(276A)の影なのであり、「取りあつかわれている事柄について知識をもっている人にそれを思い出させるという」(275D)こと以上のことはしないのである。書かれたものが与える知恵は、「知恵の外見であって、真実の知恵ではない。」(275A)
上手く書かれていれば、書かれた言葉が「ものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない」(275D)が、何か教えてもらうと思っても、それは「いつでもただひとつの同じ合図をするだけである。」そして、書かれた言葉はそれを理解できる人だけでなく、不適切な人のところにも届いてしまい、誤解されたり、誤用されても、それだけでは何にもできず、書いた人がどうにかしなければいけなくなる。
書かれたもののこのような限界を踏まえた上で、想起のよすがとなるような書き方は、「生命をもち、魂をもった言葉」の似像でなければならない。それが、師ソクラテスを中心人物とした対話であり、ミュートス=物語なのである。
「書かれた文字の中に何か高度の確実性と明瞭性が存すると考えて」(277D)、ものを書くようなことは恥ずべきことだ。それは影なのであり、真理の名において区別しなければならない。「正しいこと、美しいこと、善いことについて知識をもっている人」(276C)がその知識を本来の目的のために用いるときは書きとめたりしないだろう。
知識が本来の目的のために用いられるときは、「ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ。」(276E)「その言葉というのは、自分自身のみならず、これを植えつけられた人をもたすけるだけの力をもった言葉であり、また、実を結ばぬままに枯れてしまうことなく、一つの種子を含んでいて、その種子からは、また新なる言葉が新な心の中に生れ、かくてつねにそのいのちを不滅のままに保つことができるのだ。そして、このような言葉を身につけている人は、人間の身に可能なかぎりの最大の幸福を、この言葉の力によってかちうるのである。」(277A)
プラトンにおいて哲学は、ディアレクティケーの実践という行動が本態とされ、その行為は《善》という価値によって意味付けられている。そのため、哲学は最高の徳目なのであり、身体をケアするように魂を哲学によって取り扱わなければならない。そしてディアレクティケーという技術がそうであるように、正しい技術は善なる技術なのだろう。
 では、何故書くのか。「自分自身のために、また、同じ足跡を追って探究の道を進むすべての人のために、覚え書きをたくわえるということなのだ。」(276D) ものを書くということは「真剣な熱意に値するもの」(277E)ではない。「そして他方、正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがある」(278A)
 そうではあるが、それにしても、「書かれた言葉の中には、その主題が何であるにせよ、かならずや多分に慰みの要素が含まれて」(277E)いる。現にこの「パイドロス」には、蝉たちの声への言及があり、それがアテナイの郊外の陽光を想像させてくれる。また、ソクラテスとパイドロスのやり取りも何やら溌剌としている気がする。川のほとり、日盛りの木陰という、時が止まったような空気の中で語られる、神々の天界での行進は至福に満ちている。垣間見られた真実在の《美》の思い出は、強いあこがれを溢れさせる。恋する人の葛藤と喜びの描写は微に入り、ユーモラスでさえある。総じて、「パイドロス」は伸びやかで、馥郁たるものを感じさせる。これが「慰み」なら、書き手は大いにその「慰み」を楽しみながら書いたことだろうと思う。

「浦沢直樹の漫勉 さいとうたかを」NHK Eテレ [感想文:その他]

 「ゴルゴ13」のさいとうたかを氏が、自身の漫画を描く様子を録画した映像を見ながら、「20世紀少年」の浦沢直樹氏と対談する番組。このシリーズでは、かわぐちかいじ氏、山下和美氏、藤田和日郎氏も登場したらしいが、見逃した。残念。
 番組中、さいとうたかを氏がデューク東郷を描くシーンと鬼平犯科帳の鬼平を描くシーンがあるのだが、これが驚愕だった。さいとう氏は大まかなアタリをつけただけで、いきなりゴルゴの太い眉毛から描きだすのだ。鬼平もしかり。眉毛から描く漫画家は多いらしいと聞いたが、マジックペンのマッキーでぐいと描きだすのを実際に見ると驚く。その後さいとう氏のペンは、まるで白紙からゴルゴの顔を彫り起すように描いていく。
「さいとうたかをはゴルゴの目だけを描いている」という都市伝説めいたものは事実無根だった。さいとう氏自身がその噂をどこから出たのだろうとぼやいていた。
おそらく、さいとう氏が作りあげた協業体制がその噂を生むことになったのだろうが、その協業体制への指示の過程も番組では見ることができて、原稿への記号めいた書き込みから緻密な背景が仕上がってくるのだ。この辺りは映画の絵コンテなどによる作業に近い感じだ。さいとう氏は、ネームと呼ばれるセリフ、コマ割り、アングルなどを考え、主要人物を描き、最後に仕上げを行なう。
仕上げでもビックリさせられる場面があった。すでに出来上ったコマに、さいとう氏はサインペンやマッキーで擬音を一気に描き込んでいくのである。間違ったらとか、これでいいのかという迷いは無い感じだ。修正することもあるのだろうが、それでもあの様子には、さいとう氏にはすでに「見えている」感じがした。ゴルゴの顔を描く時もそうだが、さいとう氏にはイメージがもう見えているのではないだろうか。
 番組中、さいとう氏が描きながら口を動かしていて、浦沢氏にセリフを喋っていると指摘されるが、さいとう氏はそんなの意識したことない、と答える場面がある。そのさいとう氏の集中とその時さいとう氏の顔を内側から照らしていた輝きが、信じられないほど美しかった。
漫勉の再放送を希望。

「地獄のハイウェイ」ロジャー・ゼラズニイ著 浅倉久志訳 [感想文:小説]

 ポスト・アポカリプス・アクション・SF超大作、堂々のノヴェライズ。なんて言ってみたくなる快作。しかしあくまでもオリジナル作品で、1969年のクレジットが記されているから、おそらく「核戦争後」の荒廃した世界を舞台にしたアクション物の先駆的作品になるのだろう。今年(2015年)「マッドマックス 怒りのデスロード」という傑作で甦ったジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」シリーズや、ジョン・カーペンター監督の「ニューヨーク1997」などに影響を与えているのではないだろうか。憶測だが。
 近未来、核戦争後のアメリカが舞台だ。世界は崩壊し、大規模な気候変動も起きている。人類は大半が死に絶え、合衆国は失くなり、北米大陸にはカリフォルニアとボストンの二つの国があるのみ。そのボストンでペストが発生。追い詰められた人々はカリフォルニア国へ助けを求める。放射能に汚染され、想像を超えた「呪いの横丁」と化した大陸横断を完遂し、ボストンにペストの血清を届けるために、冷血無頼の悪党にして抜群のドライバー、ヘル・タナーに白羽の矢が立てられる。特別製の装甲車を駆って、果してタナーは地獄の道を走り抜けられるのか。
物語はテンポ良く、軽快だ。会話がやや古臭いのはご愛嬌。「あたりき」なんて言い回しは微笑みで迎えましょう。殆ど異世界化した自然描写が見物だ。ゼラズニイの腕が冴える、その荒涼感がたまらない。主人公のタナーは最後まで悪党を貫き「ブレない」ので爽快だ。

「石の思い出」A・E・フェルスマン 著 堀秀通 訳 [感想文:その他]

 帯に「鉱物エッセイ」と書いてある。鉱物学者による鉱物゠石にまつわる思い出話である。
訳者あとがきによれば、著者は、1883年にロシアに生まれた著名な鉱物学者とのこと。その名を冠した鉱物博物館もあり、街の名前、山の名前にもなっているそうだ。
フェルスマンは中年の頃にロシア革命を経験し、働き盛りには鉱物資源開発によってソビエト連邦の鉱工業の発展に寄与したことになる。
そうした時代の影がこの本にも読み取れる。たとえば、科学アカデミーによる裏イマンドラ高地方面の学術探査に漂う使命感(「第九章 モンチャ」)、科学技術への楽天的な信頼(「第十一章 三つの大理石」)、社会のために働いた英雄的な個人への賞賛や、新しい社会、未来の称揚(「第十九章 石にたずさわる人々」)などなど。
この、時代の波頭を越えた上方で、石に魅入られた人の、何か忘れ物をしたような哀愁を漂わせる懐旧譚が語られている。
しかし、「珠玉」とかいう形容詞はあまり当らないだろう。鉱物学者による石にまつわるエッセイという珍しさが取り柄か。それでも、鉱物採集にまつわる恐ろしい話(「第五章 カラダーク火山で」)、宝石にまつわる人の心の話(「第十八章 二つの値打ち」)などはちょっと面白い。

「その女アレックス」ピエール・ルメートル著 橘明美 訳 [感想文:小説]

 発端はアレックスが誘拐される場面である。激しい暴力で彼女は拉致される。その目撃情報が警察へ通報され、小男カミーユ警部を中心に捜査が始まる。被害者アレックスが主体の場面と警察の捜査が描かれる場面が交互に語られ、誘拐事件の謎解きとアレックスの身に迫る危機が読む者を引き込む。
すると暴行目的と思われた誘拐が別の姿を現わす。そこから読者は、アレックスという女が何者なのかという謎へ導かれる。この謎が解かれる時、周到な伏線が回収される妙味と、凄惨な孤独の旅路を味わうだろう。
 この小説の良いところは、まず、アレックスを巡る謎のエグさだ。それから、生々しい暴力描写。そして、どんでん返しの爽快感というわけにはいかないが、読者を共犯者にしてしまう伏線の張り方とそれらを結び合わせてゆくクライマックスが見事だ。
サイド・ストーリーとして、カミーユ自身の来歴、ユニークな同僚と上司が描かれるが、それほど粒だった感じはない。どちらかと言うとばらばらな印象だ。警察ものについてのテーマを持っていない点が出てしまっているのだろう。
また、捜査の行程で見せて欲しい街の表情があまり描かれていない。季節感も希薄。
堂々たる傑作にはやや遠い。が、描写が結ぶイメージはしっかりしていると思う。後味が残る佳作。

「Me キャサリン・ヘプバーン自伝」キャサリン・ヘプバーン / 芝山幹郎 訳 [感想文:その他]

 マーティン・スコセッシ監督の映画「アビエイター」を観た。この映画にはキャサリン・ヘプバーンが登場する。レオナルド・ディカプリオが演じる主人公ハワード・ヒューズの恋人として、ケイト・ブランシェットが演じている。
映画は大変面白かったのだが、どうもケイト・ブランシェットの演技が気になってしまった。大女優の若かりし頃ということでそれなりの工夫もあったのだろうし、スコセッシ監督が意図するところを表現するための脚色もあったのだろうけれど、何か、キャサリン・ヘプバーンってこんな感じだったかなという疑問符が残ったのだ。
そこでご本人が書いた「Me キャサリン・ヘプバーン自伝」を読んでみた。
 ヘプバーンは1907年生れ。この本が出版されたのは1991年(翻訳は1993年)、ヘプバーン84歳の時だ。その後、2003年96歳で亡くなっている。この本は、80代の婆さんがゴースト・ライターの手を借りずに書いた回想録なのだ。そのため決して読み易くはない。まず、話がぽんぽんと行ったり来たりする。それから、ご本人にとって当たり前のことは説明されないので背景が見えてこないことがある。場所柄などが特に。また、当人も自覚していたようだが基本的に「私、私、私」の人なので、他人に対する観察がそれほど面白くない。
それでも、翻訳者による「キャサリン・ヘプバーンとその時代」という解説とヘプバーンの年譜、さらに「おもな登場人物と映画作品に関する訳注」という大変有り難いガイドがあるので、これらを頼りにすれば、ヘプバーンが語っていることに近づくことができる。
 そしてどうやら、キャサリン・ヘプバーンは活発な、あるいはじゃじゃ馬娘だった。それが演ずることに魅せられ、ハリウッドと映画の黄金期に成長し、努力を重ねて大女優になったのだ。我の強い、自立した人だったのだろう。プロらしく、自分の欠点も冷静に把握できていたようで、発声法を改善すべくチャレンジしていたという。
20年以上のパートナーだったスペンサー・トレイシーについての条りはやはり面白い。「全面的な献身」として語られるトレイシーに対する愛は陰影も深い。さばさばした性格が伝わる語り口が逆に、トレイシーが亡くなった後の寂寥感を感じさせるが、一方では、トレイシーがキャサリン・ヘプバーンの掌の上に乗っていたような気もしてくる。
ハワード・ヒューズとの関係も語られている。ここを読むとスコセッシ監督の映画がどんな脚色を施しているかが分って興味深い。ケイト・ブランシェットの演技はやはり再現ではなくて、別物と捉えたほうがよさそうだ。

「泰平ヨンの未来学会議」スタニスワフ・レム / 深見弾・大野典広 訳 [感想文:小説]

 「ソラリス」の作者レムには泰平ヨンが主人公のシリーズがある。「泰平ヨン」とかいうダジャレ的なセンスが嫌いだった。「泰平」という字面は今も嫌いだ。そんな偏見で、こんなに面白い本を読まずにいたわけだ。
 主人公の泰平ヨンはコスタリカで開かれる未来学会議に参加する。その会議のテーマは、破滅的に人口激増した世界とその増加の阻止だ。この人口増加による危機というやつは、原著が書かれた頃(1971年刊)には良く言われたものだったように思う。近頃なら地球温暖化になるのだろう。さて、ヨンが会議に参加する理由がよく分らないというのっけからカオスが突っ走るが、テロ事件が起きてあっと言う間に氾濫する。軍部の出動、薬物爆弾という問題外の鎮圧戦術でヨンはメロメロ。ひっちゃかめっちゃかの挙句に冷凍保存され、未来で解凍される。未来は薬物まみれ、現実崩壊大パレードの、キ印世界。この途方もない阿呆くさい出鱈目の描写がこの小説のキモだ。
 この未来世界は言葉が変化して、言葉遊びの悪ふざけが度を越したようになっている。野生の鳥や動物は姿を消してしまった。再生医療が発達して、死体も蘇生可能になった。全面軍縮が達成されている。コンピュータとロボットが社会の至るところに進出しているが、知性という内面的自由を持ったコンピュータたちは考えられうる限りの逸脱をしている。要するに仕事をしない。そして何より、この未来世界では精神化学が鍵となっており、ありとあらゆる状況に適した薬物(薬名のダジャレが物凄い)を適切に服用することで人々は幸福な社会生活を営んでいる。ように見える。しかし、実のところは……と、暗鬱というよりはスラップスティック、不安感というよりは猛烈な空転感がぶちまけられ、引っくり返って、思ってた通りのオチになる。まあオチは、一応つけときましたくらいの感じだ。
 この小説は、薬づけの社会という現実批判を通り越して、どうやら読むドラッグに近い。ここで体験できるのは薬物による全体主義的社会という、肌が粟立つ幻覚だ。ブラックユーモアなどというお行儀のいいものではない。意地悪になってニヤニヤしながら読むべき小説だ。傑作。

「紙の動物園」ケン・リュウ / 古沢嘉通 編・訳 [感想文:小説]

 新鋭SF作家の日本オリジナル短編集だそうだ。力量と豊かさを見せてくれる多彩な良編が選ばれていて、翻訳者の愛が伝わってくる。
一読激震の傑作があるわけではない。使い捨てのセンス・オブ・ワンダーがつめこまれているわけでもない。憂愁の色合いが遠くに望まれるような、内省的な抒情の作風だ。
 中国生れの作家なので、中国とアジア圏の歴史、社会、文化を取り込むところもあり、それが目新しく、興味深い。台湾の二・二八大虐殺事件が物語の背景に取り上げられていたりして、教えられ、考えさせられる。「中国人は長いこと、語って聞かせられるような幸せな話を持っておらんのだ」(「文字占い師」)
日本という社会・文化も相対化されて作品中に登場する。「もののあはれ」では危機に際した日本人の行動が主題だ。東日本大震災における被災地の人々の行動は余程印象が強かったと見え、この作品でもその影響を読むことができる。また、歴史改変SFである「太平洋横断海底トンネル小史」では、日本とアメリカが開戦せず、太平洋戦争が起こらなかった世界、第二次世界大戦がない世界が描かれる。
 そして、この作者の関心はどうやら言葉と文字(漢字)にあるらしい。「結縄」「選抜宇宙種族の本づくり習性」「文字占い師」の三編で言葉と文字がテーマになっている。「結縄」では縄の結び目を文字とする民族が登場する。作者の創作による架空の民族と文字だが、それがアッというアイデアに結びつけられている。苦い結末も好ましい。「選抜宇宙種族の本づくり習性」は異星の生命体が作る「本」のカタログだ。「だれもが本をつくる」が、その「本」の奇想天外な変奏が刺激的。「文字占い師」は、前述した台湾の二・二六事件を背景に、文字占いをする男が受ける社会の暴力と過酷な運命が語られる。「"日本"や"中国"は存在していない。それらは単なる言葉だ。」という思想は繰り返し語られてきているのだろうが、ケン・リュウはそれを自分の言葉で語ろうとしている。
言葉と文字というテーマは当然、コミュニケーションというテーマへも深化している。「1ビットのエラー」は信仰というコミュニケーションについて、「愛のアルゴリズム」はコミュニケーションの本質に存在するパラドックスについて、厚みのあるイメージを彫琢している。「月へ」は亡命者と難民認定のために働く弁護士とのコミュニケーションが筋になっている。特に「紙の動物園」は、母親と息子のコミュニケーションを哀切に描いていて迫るものがある。
 これ以外の作品はもう少しSF寄りかもしれない。「円弧」と「波」は不死を扱ったポスト・ヒューマンSFと言えるだろう。「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」はサイバー・スペースへ移住してしまった人類の話。「良い狩りを」はちょっと風変りな角度からやってくるスチーム・パンクSFだ。華麗とは言い難いが、物語後半のあれよあれよという感じが面白い。

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