SSブログ

オール・ユー・ニード・イズ・キル / ダグ・リーマン監督(2014) [感想文:映画]

 トム・クルーズの映画。トム・クルーズが演じるヒーロー誕生物語。卑怯者が使命に目覚め、地球を救うために一発逆転の賭けを戦う映画だ。トム・クルーズが怯える。鼻の下いっぱいに脂汗を浮かせて。トム・クルーズがクールに睨む。どん底からステップアップして。そして最後には、「まだまだ爽やかだぜ」的締めの笑顔を楽しむことができる。
つまり、トム・クルーズの「普通の」映画だ。
それはそれでいい。トム・クルーズは好きだし、楽しかった。でも同時に僕は、原作のことを少し考えた。
 原作「All You Need Is Kill」も面白い。その面白さはがどこにあったのか、トム・クルーズの普通の映画が教えてくれる。実のところ、映画が切り捨てた部分に原作の面白さがあるのだと思う。
例えば、エイリアンのハイ・テクノロジーの戦闘兵器に対して主人公はバトル・アックスだけで戦う。数え切れぬループで磨きあげた手順の、寸分違わぬ動きで、敵を斬って斬りまくる。その荒唐無稽さと、コツを会得する的な覚醒の結びつきのワクワク感。
リセットされてループする時間とリニアに蓄積される記憶を意識する主人公とそれを読んでいる自分という重なりあった層の感触。
初年兵の主人公、少女兵のリタと人間性を奪い去る激戦という定番のコントラスト。たとえどんなに戦闘に長けていても、若い登場人物にとって未知の未熟さがあるのではないか、と危ぶませてくれることによって、不安定のスリルと傷つきやすい皮膚の感覚を伝えてくる。
侵略してくるエイリアンのギタイは、顔のある敵ではない。それは、分散ネットワークで構成されているシステム。その無頭の不気味さ。蟻や蜂を恐れる人には馴染み深い。
この不気味なシステムは押し寄せる。圧倒的に、無慈悲に、無意味に。主人公キリヤ・ケイジはそのシステムに殺され続ける。その閉塞感。
しかし、その絶望的な反復の線上で主人公は、体験を経験へと変換し続け、ミニマルな曲線から屹立する成長を引出してくる。そこには、虚無の上で透明に沸騰する昂揚がある。
実は、無頭のシステムこそが、主人公が成長するための導師であり、主人公はシステムからのメッセージを読み解くことによって覚醒する=コツを覚えるのである。
つまり、多くの物語と同じく「All You Need Is Kill」も、メッセージを読み解くという物語の真実を共有しているのだろう。
 誰かが発見し、ハリウッドに持ち込まれた「All You Need Is Kill」は普通の映画へと均されてしまった。ハリウッド映画は、原作者と原作を受入れた読者達の感性にとって、小さすぎる器だったようだ。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。