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リアリティのダンス / アレハンドロ・ホドロフスキー監督 [感想文:映画]

 少年や 六十年後の春の如し(永田耕衣)

 ホドロフスキーの「エル・トポ」が公開された時、「フェリーニが撮った西部劇」と紹介されていた記憶がある。どちらの監督にも失礼な話だが、当時は、したり顔で納得した気になっていた。自己批判も込みで評すれば、想像力の「ダンス」の外側にいる人間の戯言だろう。ホドロフスキーはホドロフスキー。他の何者でもない。ホドロフスキーの映画を観るときは、ホドロフスキーだけを、ホドロフスキーのみによって味わえ。ホドロフスキーに溺れよ。
 そして、ホドロフスキーでしかないホドロフスキーの新作「リアリティのダンス」を観た。
ああ、フェリーニの「アマルコルド」だ、と思った。
舌の根も乾かぬ内にフェリーニの名前を引き合いに出すのは、そのくらい破廉恥で、厚かましく、節操なくあらねば、ホドロフスキーには付き合えないからである。
現存する世界一正直な嘘つきにして、聖なる山師アレハンドロ・ホドロフスキー。
そのホドロフスキーの、まるっきり私的な、少年時代の追憶の映画「リアリティのダンス」。
二時間強に及ぶ、自己陶酔的な、ある意味単調な、果実のように新鮮で、いつもながらの手管に満ちた、私的なリアリティの映画。それは、永田耕衣の俳句「少年や 六十年後の春の如し」に似て、割り切れることはないながらも、姿良い色彩で画面を輝かせている。
それにしても、ホドロフスキーは映画的センスの塊なのか、希代の剽窃者なのか、スタッフの勝手にやらせているのか。「リアリティのダンス」の画面の麗しさは、どうしたことなのだろう。本当に映画が上手く撮れる人なのだと思うことにしておこう。
小便を垂れるシーンの性器にボカシが入っている。
母親役の Pamela Flores がずーっとセリフを歌う。綺麗なソプラノだ。鼻が見事で、見惚れた。

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