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「ピース」ジーン・ウルフ著 西崎憲・館野浩美訳 [感想文:小説]

 1975年に発表された作品を2014年に読む。39年の間、この作者とこの作品を知らなかった。作者が、ファンタジーとSFの作家であり、ネビュラ賞、ローカス賞、世界幻想文学大賞を受賞していることも知らなかった。当然、この「ピース」という長編がその三作目であることも知らなかった。
知らない作品は、存在しない。
しかし、一度その名を知ると、作品はこの世界に身を現す。それを手にして読み、その物語の扉を開くことができるなら、「いまは滅んで取り戻せない物理的存在よりも現実的」な存在となることがある。
この作品=物語の有り様は、記憶の有り様に似ている。あるいは、ジーン・ウルフはこの「ピース」においてそう描いている。
 つまり、これは「記憶」を描いた物語、「記憶」と「物語」の物語、だ。
アメリカ中西部にあるとされる架空の町キャシオンズビルを舞台にして、オールデン・デニス・ウィアという男の、「一番遠いものである」「子供の頃の記憶」、「強烈に心を動かす」記憶が語られる。
記憶というものは、「正確に思いだされることなく」「採用される手順も異議を唱え」られないものであるから、物語も、直線的に筋道正しくは語られない。話の中に話が埋め込まれる。唐突に別の話に接続される。枝分かれをし、寄り道をし、曲がり、途切れたかと思うとまた続く。それは奇怪な邸を彷徨うのに似ている。
こうして、クリスマスと祖父のこと、美しく、気ままな叔母との生活、アイルランドの妖精猫の寓話、シェヘラザードが語るベン・ヤハヤと魔神の取り引き、「邯鄲の枕」、叔母の男友達の話、ジュリアス・スマートと薬剤師ティリーの不気味な挿話、偽書を作る男と図書館司書のこと、ネクロマンシー(死体蘇生術)、工場の冷蔵庫での死、アイルランドのシー族の衰亡が語られる。
これらの語りの回廊は、迷路という感じはしない。仄暗く静まった水路を流されて行くようだ。
そして、これらの記憶と物語が呼び起こされる手順は「理想化をほどこす手順であり、その理想は基本的に人工的なものであり、少なくとも事実には基づいてはいない。」だから「出来事のいくつかは実際には起こらなかったかもしれず、ただそうだったはずだと思っているだけかもしれない」。そのため、確定的な、説明的な叙述は一切ない。それが物語全体に謎が重層する感触を与えている。
この謎の感触が物語の水路を導く。
読者は、実際に起きた出来事を求め、その歪曲と隠蔽の距離を測ろうとし、行間に目を凝らすだろう。
しかし、恐らくそこには何もないのだろう。何故ならこれはやはり記憶の物語だから。記憶には解答などないだろうからだ。
記憶が召喚されるのは、常に、「あらゆる場所の縁にあたるこの見棄てられた地」においてである。そこから遠く、「あの庭園、永遠にティレニア海の午後の陽光を浴びた幼いジョーの庭」のように記憶は存在するが、それこそが「現実の核」なのである。
 さて、表題の「ピース」とは何を意味しているのか。それは死者の平和ではないかと考える。何故なら、記憶が「いまは滅んで取り戻せない」存在についての物語であり、つまるところ死者と死者の国の物語であるからだ。
その表題にふさわしく、この作品は全編に渡って静謐な調子が保たれている。水の匂いのように満ちた死の匂いを楽しむことができる。記憶についての瞑想を誘い出してくれる小説だと思う。

「11/22/63」スティーヴン・キング(白石朗 訳) [感想文:小説]

 上巻を読み終えて、これはキング版「ふりだしに戻る」だと思っていたら、作者のあとがきできっちりジャック・フィニィの名前が挙がっていた。どうやら本当にフィニィの作品を意識したらしい。その意気に圧倒されるし、感嘆する。しかも空回りせず、傑作として実った。敬意、祝意、謝意を捧げたい。
 つまり、本作はタイムトラベルものであり、歴史改変ものである。
時間旅行の行き先は、1960年代初頭のアメリカ。そこで主人公が「望ましい」歴史に書き換えようとするのは、1963年11月22日のケネディ暗殺だ。リー・オズワルドの凶行を未然に阻止すべく主人公が東西奔走し、物語が膨らんでゆく。下巻の真ん中辺りから、もう本を閉じることができない。ページをめくるのさえもどかしく、脳細胞に直接書き込んでくれればいいのに、と思う程の奔流となってクライマックスへ向かう。
 作者は、ケネディ暗殺の失われてしまった真相を、想像力によって、血肉を纏った仮説として描いてみせようとしている。それは成功して、リー・オズワルドが「薄っぺら」な人間として厚みのあるリアリティを得ている。それに比較すると、ほんの少しだけ顔をのぞかせるケネディ大統領自身は、物語の結構上仕方のない部分があるにしても、記号のようだ。それ程にオズワルドの人物描写が素晴らしい。
 が、それだけではない。「あの頃のアメリカ」もこの小説の主題なのだ。それを、歴史的位置づけで断罪するのではなく、「昔は良かった」的な懐古の妄想に溺れるのではなく、五感の内に、生きた現実として、喚び起こそうとするのだ。そのために、空気の味、匂い、人々の言葉、食べ物、車、タバコ、音楽、ダンス、映画、テレビドラマ etc.が総動員される。特に本作ではダンスが大きな役割を占めるが、悲しいかな、さっぱりわからない。それでも、躍り上がるような、熱のこもった描写は楽しい。
「生きた現実」のダンスには、相手が必要になるが、ここにラブ・ストーリーが絡んでくる。主人公は、過去の世界で過去の女性と恋に落ちる。キングのラブ・ストーリーは超真面目なメロ・ドラマだ。超真面目というのは、ベッド・シーンがないという意味ではない。作者が超真面目に取り組んでいるという意味だ。
 歴史という大きな流れとラブ・ストーリーという個人的な世界が、ダンスのように、互いの周りを回り、うねりとなって物語の終末を迎える。
スティーブン・キング・ワールドの、カタストロフのスペクタクルも用意され、決着をつけるべく、主人公は選択する。その味わいたるや絶品。キング作品の麻薬もこのあたりに忍んでいたりする。
 もちろん、「暗黒の塔」を中心としたキング・ワールドとの関連もしっかりあって、そこもまた面白さの一つだ。本作では、「IT」の舞台であったデリーが登場し、懐かしい二人が顔を見せる。
 「暗黒の塔」は、想像し、書き、生きるということがどういうことかについてのキングの挑戦であったわけだが、今作でも、過去を現実として生きるという、失われたものへの愛としての想像力が語られているのだと思う。それは、力強く、切なく、素晴らしい。
「そして音楽がぼくたちを運び、音楽が歳月を彼方へ押しやり、ぼくたちは踊る。」
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