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女たちの村 [小さな話]

 「死んじゃえばいいのに、って思うの。」寛子はそう言った。その言い方は、(今年は、雨が少ないわね)と誰にとも無くつぶやいたようだった。真由美は少したじろいで、言葉を呑んだ。寛子の丸っこいシルエットの後ろには、乾いて白っぽくなった道が伸びていて、確かに今年は雨が少ない気がする。いやいや、寛子はそう言ったんじゃない。天候のことをつぶやいたのではないのだ。
「え?」真由美は聞き返した。
「だからさ、あいつなんか死んじゃえばいいのに、って思うのよ。」
あいつというのは、明らかに寛子の夫のことだった。寛子より二つ年下の夫は浮気をしていた。しかも同時に二人の女と。学校の新学期が始まる頃、真由美は寛子から夫の浮気について相談を受け、今はもうすぐ夏休みになろうとしていた。
「本気?」真由美は寛子の目を覗き込んだ。寛子の低い鼻と唇の間に、ごくごく小さな汗の玉が浮かび上がりだしている。こんどは寛子がたじろぐ番だった。頬でもすり寄せるくらいに目を見つめる真由美の様子に、寛子は少し上体を反らせてしまった。慌てて手を鼻の下に当て、汗を取るふりをする。真由美の勢いが寛子を戸惑わせた。同時に、ぐずぐずと悩み続ける自分の弱さを再び問い詰められているような気がして、一瞬、頬がカッと熱くなった。寛子は、真由美の視線から本能的に目を逸らしながら、言い返すように言葉を吐き出した。
「殺してやりたいくらいよ。殺したい。ああ、殺してやりたい。」
「そう。やっと決心したのね。」
寛子は、ほっとしている自分に驚いていた。与えられた課題をなんとかやり終えた子供の気分だ。背の高い真由美の見下ろすようなにんまりとした笑顔も、(よくやった)といっているように見える。自分と真由美との距離と高低の変化を、寛子は、袋の中の物の形を外側から撫でるように、いつからこうなったのか思い出そうとしていた。
寛子が夫の浮気のことをはじめて打ち明けたときから、真由美は親身になって相談に乗ってくれていた。そもそもは、サンダルで歩いていけるほどのお隣さんで、双方の娘が同級生だったから接する機会が多かったのである。近づいていったのは寛子のほうだった。今の家に引っ越してきてから三年以上もたつというのに、なんとなく周りに溶け込めず、壁を感じはじめていた寛子が、辺りでは前から住んでいる真由美を頼ったのだ。
真由美が前から住んでいるといっても、今の所に生まれ育ったというわけではないらしい。
真由美と寛子の家がある一画は、六年位前に分譲住宅地としてに家が建てられ、一斉に売りに出された。それから一年以内の期間で前後して、現在の住人たちが家を買って住み着いている。真由美達は、なかでも最も早く入居したのだそうだ。寛子達は、そのうちの一軒が事情で手放されたのを格安で買い、引っ越してきた。それで、遅れてやってきた家族といった格好になっていた。真由美らも含めて一画の住人たちは結構離れた様々な地域から移ってきているのだが、寛子の家族が前に住んでいたのはすぐ隣の町だった。夫の克彦が、今住んでいる町に仕事の事務所を開くことになり、それにあわせた転居であった。
 克彦は隣町の生まれで、地元の電気工事会社に勤め、そこから独立して自分の事務所を開いた。元の会社の好意でお客を分けてもらい、家も買って腰を据えると、仕事はまずまずの滑り出しだった。しかし当然、それまでの貯えは底をつき、ローンの返済のために寛子も働かなければならなくった。寛子にとっては億劫なことだった。だいたいが面倒くさがりで不活発な性向なので、勤めも夫の収入を頼りにそそくさと辞めたのに、また戻らなければならないなんて、馬鹿にされているような気すらした。それでも、新しい家に喜ぶ娘と、目に輝きが宿った克彦の様子を見ると罪悪感まで覚え、重く退く気持ちを抑えつけるようにして働きに出た。特に、克彦の目の輝きが強く背中を押した。久しぶりなのか初めてなのか。夫の顔を盗み見るたびに、血の気が戻ったような表情に驚かされた。
克彦と言うのは本来生気の無い男で、妻の寛子にも夫が何を楽しみにしているのか分からない。
顔は優しい。独身の頃の寛子はその顔にのぼせ上がった。つきまとう寛子を克彦もそれなりにデートに連れ回し、恋人同士らしい素振りも見せたが、結婚すると何も無くなった。結婚式が終わり、ホテルの部屋に戻ったとき、寛子に背を向けたまま克彦が漏らした「あー、あ。」というため息、一日の終わりのタオルのように芯の無いため息を合図として、克彦は生気の無い夫になった。夫に趣味があるのかどうか、寛子は知らない。克彦が休日にやることは、マンガ週刊誌を一冊か二冊買ってきて読み、テレビでゴルフ中継を見ること。それ以外は何をやっているのか、思い出そうとしてもはっきりしない。酒は付き合い程度に飲み、家で晩酌に缶ビールを一缶空けるくらいだ。口数も少なく、寛子が話しかけても、「ああ」とも「はぁ」とも聞こえる生返事をするばかり。色で言ったら薄い灰色で、どこまでも平べったい克彦との生活に、寛子は詐欺にあったような気がすることもあった。それでも諍いにまで発展することは無かった。波も流れも無い結婚生活に、寛子の性格がどっぷりと沈んでいったからだ。
そんな克彦が、朝、家を出るときに笑顔を見せるようになったのである。相変わらず口は重かったが、帰宅したときには疲れよりも頬の上気のほうが目に付くくらいだった。寛子は夫の変化に目を瞠り、まじまじと克彦の姿を検めていた。仕事上の独立が、克彦の心の中のどこかにあったスイッチを入れたのだろうか、と寛子は思った。独立自体は、もともと職場の同僚に誘われたもので、克彦が自発的に動いたわけではなく、会社から独立する事が決まっても驚かなかったが、独立後の克彦の変化はまったくの予想外だった。
ただ、振り返ってみれば、あの時、別のスイッチも入ってしまっていたのだ、と寛子は思う。独身の頃は、女を追い掛け回すような様子はなかった。それでもそういう素質を持っていたのか、誰かに教えられたのか。寛子としては、悪い友達がそそのかしたのだと思いたいところだった。
最初は漠然とした変化だった。ごく小さな「あれっ?」が積み重なっていった。克彦の、深夜まで続く残業が増え、土日の出勤が度重なりだした頃には、疑念が寛子の頭上にずしりと垂れ下がっていた。働いている最中も、夫が浮気してるのではないかという疑惑が瞬間的に寛子を捕らえた。枯れ木の皮を穿り返すと虫がわらわらと這い出てくるように、ふと疑いの渦が浮かび上がれば、それに巻き込まれてあれやこれやと思い当たる節が出てくる。克彦は笑顔を見せなくなっていた。仕事が忙しい、疲れたを口実に、寛子の視線を避けるように見える。夫の持ち物を調べ、それとなく寛子から遠ざけてある携帯電話にまで手を伸ばす頃には、克彦の浮気はほぼ確実になっていた。
 大きくて重い渦が寛子の家庭を襲い、毎日の一々が引きずられ、めちゃくちゃになって行った。黒いとしか言いようの無い感情が寛子の心を覆った。裏切られた悔しさと怒り、馬鹿にされている屈辱、情けなさ、心細さ。何のために私が働きに出て行ってると思ってるのよ、と、時々無性に怒鳴りたくなる。堂々巡りする黒い感情が満ちてくると、動作が緩慢になるか、苦しさから逃れようとして発作的に動き回るかの両極端になった。
克彦が珍しく早く帰宅して、家族で食卓を囲んだ。克彦は、食事中に寛子と娘の由佳がしゃべるのを嫌う。それで由佳はいつものおしゃべりを我慢して、克彦と寛子の様子を窺いながら箸を動かしていた。そんな由佳の様子を感じながら、寛子は自分の父親が同じように食事中の女のおしゃべりを嫌ったのを思い出した。寛子の父は、打ち解けるには時間がいる男だったが、それでも和やかな家庭的な人で、母が父のことで愚痴をこぼしているのを聞いたことは無かった。そんな父も六年前に亡くなっているのだが、父がいた食卓がはるか昔の出来事のように思われると同時に、そこだけ光があたっている絵葉書のように、今でもどこかに訪ねていける場所として存在するような気がした。すると、克彦の浮気のことが寛子の目の前に幕を下ろした。寛子の目が焦点を失い、箸が止まって、手がテーブルの上に下りた。寛子の様子に気がついて、由佳の目が丸く見開かれる。寛子は克彦を睨みつけていたが、克彦は気がついていなかった。寛子はつくづくと克彦を観察し、こちらの気持ちに少しも気付かぬ様子はまるで見知らぬ男だと思った。その異物のような男が自分を裏切り、コケにしているのだ。そして、しゃあしゃあと私が作ったものを食べている。感情が一転して激した。
「何よ!」
寛子は我知らず、怒鳴っていた。克彦の動きが止まり、由佳の背筋がこわばる。
ゆっくり唾を飲み込めるほどの数秒が過ぎる間、由佳は、食卓の上の料理が一気に冷めるかもしれないと本気で思った。
「なんだよ。」はっきりしない声でそう言うと、克彦は視線を逸らせ、食卓の明かりから逃げるように席を立って自分の部屋へ行ってしまった。自分を見ている由佳に気がつくと、寛子は「早く食べなさい。」と言ってから箸を持ち上げ、食事を続けようとした。食欲など感じず、涙が溢れそうになるのをこらえるのに苦労した。
翌日、寛子は私立探偵に夫の浮気調査を頼みに出かけた。
結果が黒なのはほとんど疑いなかったが、克彦を出し抜いた形で証拠をつかみ、目の前に突きつけ、問い詰めてやりたかったのだ。それからどうしよう?夫が手をついて頭を地べたにこすりつけて謝ったら、許してやるのだろうか。寛子の思考は、浮気の証拠を手に克彦を詰るところから先へ進もうとしなかった。
探偵事務所に払う費用は、こっそり貯めておいた銀行預金を取り崩した。それで、請求書の金額を見たときはさすがに驚き、落胆したけれども、それを誰かに訴えて憂さを晴らすわけにはいかず、探偵事務所の応接のソファで舌打ちを飲み下すことになった。それよりも、調査の結果が寛子の頭を真っ白にした。
津山克彦は、同時に、二人の女と浮気をしている。寛子の前に座った調査員は結論を先に告げて、思考が停止している寛子の様子に気付かずに、淡々と克彦の行動記録を説明しだした。寛子は慌てて調査員をさえぎり、聞き返した。
「本当ですか?」
「ええ。本当です。」調査員は寛子の顔を見守った。
「二人の女と浮気しているって、何ですか、それは。」
「一人は、ご主人の会社で働いている、部下の方ですね。年配の。もう一人は、出会い系のサイトで知り合われたようですけど、ずっとお若い方です。それでも、三十代ですか。」調査員は、寛子の反応を待った。
「どうしましょう。行動記録の詳細をここでご説明しますか。」
寛子は、黙って首を横に振った。
浮気調査なんか頼まなければ良かった、と寛子は思った。
「こういうことは、よくあるんでしょうか。」
「えーと、多くは無いですけど、ありますね。ご主人はマメな方のようで。」調査員の顔に好奇心がかすかに浮かんだのを見て、寛子は目を伏せた。膝の上で握り合わせた自分の手が、まるまるとしていて無神経に見える。他人の目から隠れてしまいたいこんな時こそ、いつの間にかぼったりと太って始末に困る自分の体が悔しくなった。
夫が浮気している。それも、二人と。つまりそれは、自分より他の女を好きになったのではなくて、三人の女をだまして遊んでいるということなのか。
探偵事務所を出るときには、克彦を問い詰めてやるどころか、寛子の気持ちが挫けていた。身を締め付けるような心細さに襲われた。誰かに話を聞いてもらって、心を寄せて休ませたい。しかし、母はだめだ。最近の老け込み具合を見ていると、心配をかけさせるわけには行かない。寛子の姉は、中学生の頃から折り合いが悪く、姉が遠方に嫁いでからは、こちらから相談するのも気詰まりだった。独身時代の友人らは女の友達の常で、それぞれが結婚後、深い付き合いもなくなり、消極的に思い出にしたがっているとさえ思われる。寛子の頭に残ったのは、ようやく近所づきあいがはじまった真由美のことだった。 真由美は、取り立てて用事も無いはずなのに訪ねてきた寛子をこころよく家に招き入れた。休日なので、真由美の娘の朋美は由佳と誘い合って出かけ、離婚して夫のいない真由美は一人きりだった。
真由美は背が高く、肩幅も広い。全体的に普通の女性とは規格が違う感じで、手や足などの体の部分部分から顔の造作に至るまでが大きく、大女という言葉が第一印象で浮かぶ。近づいてみると、肌理の細かい若々しい肌をしているのが分かる。眉の弧が見事に優しい感じがして、一度どうやって整えているのかと聞いた事があったが、何もしていないと言っていた。その眉から鼻にかけての線は、真由美の動じない性格にじつにぴったりだった。真由美はどこにいても堂々とした雰囲気をマントのように広げていた。
真由美の家を訪ねると、リビングに通される。そこにはかなり長いテーブルがおいてある。天板が何かの黒い石でできていて、クリーム系の家の内装には少しそぐわない、量感のあるテーブルだった。動かされる心配などなさそうなのに、床に固定してあった。真由美と娘の二人暮しには大きすぎるだろうが、来客が多ければ重宝なのかもしれない。寛子は、真由美が上座に座ってテーブルを囲む客をもてなす様は、女主人という言葉を絵に書いたようだろうと思った事があった。
しかしその日は、上座に座りはしたものの、ゆったりとしたTシャツにジーンズで、真由美はリラックスしているようだった。寛子は真由美の側で、だされた紅茶を飲みながら、軽い世間話からはじめた。やがて、話題も一巡りすると、真由美が訊いた。
「それで?今日は、どうしたの?」その言い方は、寛子が訪ねてきた時から、相談ごとがあるのは分かっていたのだ、と告げていた。
「ああ、そうね。そうなの。…実は、真由美さんに聞いて欲しい事があるの。」
「何かしら。困ったことでも?」
「恥ずかしいんだけどねぇ。…夫が浮気してるみたいなの。」
「えっ、ほんとうに?」寛子はうなずいた。
「まぁー、そう。そんな風に見えないわよ。」克彦が浮気をするようには見えないということなのだろう。寛子は、「それが…」とそれまでの経緯を一気に話し出した。真由美の目が少し細くなったのを寛子は気付かなかった。寛子には、真由美が自分の話に関心を持ってくれているのが感じられ、また話し出すと、それまで胸のうちに溜まっていた鬱憤が堰を切り、話の終点にまで追い立てられてしまっていた。
寛子が話の区切りにたどり着いて息をつくと、真由美も「そうなのぉ。」と深々と言った。
「それは、心配ねぇ。」
「ごめんなさいね、こんな話をして。」
「いいのよ、いいのよ。気にしないで。わたしに何かできることがあるかしら。」
「話を聞いてもらえるだけでありがたいわ。私、もうどうしたらいいか分からなくなっちゃって。」
「そうでしょうねぇ。それにしても、二人の女と浮気とは、ねぇ。」
「信じられないのよ。何を考えてるのか、いったいどうしたいのか。」
「本当ね。ご主人は、どうするつもりなのかしらね。奥さんがいて、二人の女と浮気しているということは、三人の女を騙しているということよね。ふざけた話。あら、ごめんなさい。」
「ううん、いいの。そうなのよ、真由美さんの言うとおり。ふざけた話なの。ああ、話したらなんか疲れちゃった。でもホッとした。真由美さん、ありがとう。」
「少しは気が晴れたかしら。家に来たときは、ほんとに暗い顔してた。」
「そう。だめね、私。ごめんなさい。」
「元気出して。負けたらだめよ。私、寛子さんの事が心配だから、また来て。何か私に出来る事があったら言って。」
「あら、もう、ほんとに、ありがとう、ね。うれしいわ、そう言ってもらうと。こんなこと相談できる人がいなくて。やっぱり、真由美さんはやさしいわ。」
「男どもに負けたらだめ。元気出してね。娘さんもいるんだから。」真由美の瞳孔がぐっと拡がり、黒味が増したように見えた。「男どもをつけあがらせないようにしないとね。」
寛子は真由美の様子に違和感を覚えた。表情が微妙に変化し、声の調子に冷たい暴力的な何かがかすかに混じったような気がした。恐らく、自分の離婚の事を思い出しているのだろう。真由美も辛い体験をしてきたのだ、と寛子は納得していた。
 その日から寛子は、真由美のもとを訪れては、夫の浮気のことを相談するようになった。真由美は、熱心に耳を傾けてくれた。相談といっても、事態が急に進展することも無かったので、およそ寛子の堂々巡りの愚痴になる事が多かったのだが、それでも真由美は、話の一々を受け止めてくれるのだった。寛子にとっては、得がたい相談相手となった。
真由美はいつも、寛子の話がひと通り済むと、「男ども」についての意見を述べた。私たち女性は、男どもに負けてはいけない。男どもは女性を騙して、自分たちの好き勝手放題をやっている。男どもは、女性を食い物にしている寄生虫みたいなもの。「いつか男どもに報いを与えてやらないとね。」真由美は繰返しそう言った。その時、真由美の表情は、少し人間味を失って、彫像のように見えた。瞳孔が目全体に拡がり、昆虫じみた印象を与えた。テーブルの上におかれた手が白い曇りを滑らかな黒い表面に生み、体温が上がったことを物語った。「男ども」を槍玉に挙げるときの真由美の変化に、寛子はいつも違和感を覚えたが、真由美が自分の離婚経験を基にして、寛子の苦しみに心底共感してくれているのだと思うと、真由美の「男ども」の話をやがて面白がるようになっていた。
そのうち、「これから、どうしたらいいかしら。」などという質問とも独り言ともつかない言葉が、ためらうことなく寛子の口をついて出るようなった。自分でも気付かないうちに、寛子は真由美を頼りにするようになっていったのだ。
「由佳ちゃんのことを一番に考えて、あなたが克彦さんから自立できなければね。」
「自立?…はぁ、できるかなぁ。」
「大丈夫よ。ほら、この辺りにもたくさんいるじゃない。わたしもそうだけど。みんながんばってるわよ。一緒にがんばりましょうよ。」たしかに、真由美たちが住む一画は、母子家庭が多かった。一戸建ての家に住んでいることを考え合わせると、そこへ越してきてから離婚した女性たちが多いのかもしれない。
「浮気していることをつきつけて、問い詰めてやろうかしら。」少しすねてみせる子供のように、寛子は真由美の言葉を逸らした。
「問い詰めてどうするの?しばらくはしゅんとしているかもしれないけど、ほとぼりが冷めたら同じことを繰返すわよ。男というのはそういうものよ。『浮気してるんでしょう』とこちらが怒っているその時に、見えないところで舌を出して、私たちの隙を窺っているの。よく考えて。」
少しずつ不安の影が寛子の心を侵食しだした。
「自立しなければ。辛い思いするくらいなら、苦労してでも自立したほうがいい。それが由佳ちゃんのためにもなるし。」
「離婚するということ?」
真由美は、直接には答えず、急に緩慢になったような笑顔を浮かべた。
「寛子さん次第よ。寛子さんさえ決心すれば、それでいいのよ。」
真由美は、寛子に行動の決断を迫るようなことは決してしなかったが、四足の動物が鼻面でぐっと押すように、状況の出口へ寛子を誘った。それは、何かの答えを寛子から待っているようでもあった。克彦の浮気に対する疑念と憤りは、真由美に話を聞いてもらう度に軽くなっていった。しかし、別の不安が、面接試験の順番を待たされているような不安が、寛子の肩から首筋にべったりはりつくようになった。
真由美の「男ども」を攻撃する舌鋒は、さらに激しさを増した。男という「種族」はたいして用の無い寄生虫で、その自覚は無いのだけれど、自分たちの劣位を本能的に隠し、保身のためにあれやこれやとじたばたしているのだ。その軽薄さ、猥雑さは、埃まみれの新聞紙の切れ端のように、汚らしく、騒がしく、役に立たない。なのに、男どもは厚顔無恥にも、女たちに様々な罠を仕掛け、なんとか隷属させようと足掻き続けている。結婚という一夫一婦制は、資本主義社会をつくりあげるために男どもが考え出した悪意ある制度であって、男どもはそれを利用して、女性に寄生し、女性を裏切り、女性の品性を汚して屈辱を与え続け、暴力を振るい、苦しみの底に押さえつけて食い物にしているのだ。今や、女性は結婚する必要など無い。女性は男という「種族」の策略と悪辣さに目を覚まさなければならない。覚醒して男どもと対決する事が必要だ。いや、男どもを叩き潰すことこそ必要なのかもしれない。
男が寄生虫だという真由美の意見を聞くと、彼女の大きな体に虫のような男がしがみついているイメージが寛子の脳裏に浮かんだ。男の手足はひょろひょろと細く、落ちまいとして指先を真由美の肌に食い込ませようとしている。しかし、真由美の筋肉はたくましく張り詰め、ほんの少し肌をくぼませるだけだ。その虫男が、しがみついたまま頭だけをゆっくりめぐらし、寛子のほうに顔をねじると、それはところどころに薄っすらと緑を帯びた、四角い、見たことも無い男の顔なのだ。寛子が気味の悪さにぎょっとなって気がつくと、真由美は話をやめて、ひんやりとした微笑を浮かべて、こちらを見守っているのだった。
 寛子は、真由美の矛先が自分にも向けられるのでは、と感じていた。男どもへの反撃として、寛子は、克彦の浮気に対して何らかの行動を起こさねばならない、と真由美が言いだすのではないだろうか。すると、「今のままでいたい」と心の底でつぶやいている寛子の声が、真由美の耳に聞こえる時が来るだろう。たいていそういうことになるのだ。何も変えようとせず、それでいて不満をだらだらと繰返す寛子の性格に、いつも相手が怒りだす。他人が寛子の何を我慢できなくなるのか、分かりすぎるくらいなのだ。真由美との間にも同じ事が起きるかもしれない。真由美はいつか、停滞を選ぼうとする寛子の性格に業を煮やし、たちまち怒りに膨れあがる、と寛子はびくびくしていた。しかし同時に、寛子の心の中には、真由美に対する反発もあった。寛子は、空から丸く垂れてくる雨雲のように彼女を覆いだした真由美の影響力から、少しだけ逃れようとしてみたかった。そうして一週間ほど前、黒いテーブルに座って真由美の目の表情をちらりと盗み見しながら、寛子は言った。
「でもね、やっぱり、夫がどうして浮気をしたのか、知りたいの。」口を閉じてから、寛子は唾を飲み込んで身構えた。
「どうして浮気をしたか、その理由を知りたいということ?」
「そう。」
「浮気をする理屈など無いでしょうから、それはつまり浮気をする気持ちということになるでしょうね。」
「なんで二人の女と浮気なんかしたのかしら。私のことはどう思ってるのかしら。」
「知ってどうするの。」実に落ち着いた声だった。真由美の言葉がテーブルの上に置いてあって、触れそうな気さえした。寛子は真由美の顔から目が離せなくなったが、真由美はテーブルの向こうに目を据えて、冷たい笑いを浮かべていた。
「現実をしっかり見つめないと、ね。あなたの夫の浮気は、ただの遊びよ。度を過ぎたおふざけよ。克彦は踏み外したの。」そう言うと、真由美はゆっくり顔を向け、寛子の目を視線で刺し貫いた。呼び捨てにされた夫の名前が、寛子の耳の奥、遠くでちりちりと何かを知らせていた。それが何か、意識の表面に呼び浮かべ、言葉を与えようとすると、太ももの裏側の、椅子に触れている部分がじっとりと汗ばんでいることや、テーブルの上のアイス・コーヒーが入ったコップの表面にみるみる水滴が増えていくように見えることなどばかりが気になって、寛子は、克彦の名前が呼び捨てにされたことに何を感じていたのか見失ってしまった。
「浮気をした理由を知ったところで、何も変わりはしないわ。決着はつかないわよ。男に与えられたものに仕返ししてやることはできない。やらなければならないのは、それよ。」
「真由美さんはいいわね。強くて。わたしは、そんな風になれない。」
途端に真由美の顔の輪郭から角が取れた。彼女は慈しむようなまなざしを寛子の額からかぶせた。
「ひとをプロレスラーみたいに言わないでよぉ。でも、寛子さん一人では大変でしょうから、私たちがお手伝いするわ。大丈夫。力をあわせれば、男どもを出し抜いて、痛い目に合わせられる。」
「痛い目?」
「そうよ。徹底的に、決定的に、ね。放って置けば、悲しい思いをする女が増えるだけなんだから。止めないと。」
「なんだか、怖いわ。」真由美は応えなかった。寛子が恐る恐る見た顔からは表情が消えていた。(怒ってる)と寛子はおののいた。
「あら、もうこんな時間。帰らなくちゃ。」寛子はそそくさと暇を告げて席をたったが、真由美は見送ろうというそぶりを見せなかった。心臓の鼓動が乱れる。リビングを出る寛子の背中に真由美の声が投げつけられた。
「寛子さん、あなた次第よ。」
 それから一週間は、寛子にとって居心地の悪い毎日となった。
克彦は、相変わらず遅く帰ってきて、ほとんど会話もない。寝室を別にしてから久しいので、自分の部屋に引っ込んだ克彦が何をしているのかは知るすべもない。克彦が帰宅するまでの間に、何かないかと部屋を覗いてみたりするが、収穫はゼロだった。女たちとは携帯電話のメールでやり取りしているらしいけれど、その携帯電話は、すっかり隠されて、手が出せなかった。
由佳が期末試験の勉強に取り掛かったり、友達とのメールに夢中になっていたりすると、寛子はひとりきりになって、あれこれと思い漂い、ひとりでに真由美とのやり取りにたどり着いていた。ともすると、夫のことより真由美から投げかけられた呼びかけに応えることのほうが長く寛子の心を占めていることさえあった。勤めから帰って来たときも、一礼でもするように真由美の家のほうを見ずにはいられなくなっていた。
真由美の家は、広い公道から一番奥まった場所にあるように見える。実際は、公道に向かって開いた台形の区画の、上辺に当る境界に寛子の家と並んで建っていて、特別な場所にあるわけではない。が、公道から真っ直ぐ真由美の家に向かって道が敷かれており、そこを通って家に帰っていると、真由美の家が扇形の土地の要に位置するように感じられるのだ。そして寛子は、渦の中心に巻き込まれるように、真由美の家に視線を吸いつけられていた。寛子の家も含めて、似通った外観の、同じような大きさの家が並ぶ中、真由美の家は門灯がひときわ輝き、祭事か葬式でもやっているみたいだ。夏の日はまだ暮れていないというのに、周りをかすませるほど明るく感じるのは不思議だ、と訝りながら寛子は、あの扉を開けて返事をしなければ何も先へすすまないと思い、「なんとかしなきゃね。」とつぶやくのだった。
 日曜日まで寛子は真由美にメールもせず、顔をあわせるのを避けていたが、ついに意を決して家を訪ねた。
真由美は穏やかに迎えた。
しかし、家の中へ通そうとはしない。寛子は真由美の意図を感じて緊張した。話題が途切れるのを待たれていると察知して、必死で会話を取り繕ったが、やがて空しく、自分が追い詰められたことを了解した。家の外にいるというのに、寛子には背後が断崖のように思われた。動けない。にこやかにうなずきながら、真由美の視線が寛子をピンで留めたように串刺しにしている。
その時、「死んじゃえばいいのに」という言葉が寛子の口をついて出たのだった。苦し紛れが、思いもよらぬ跳躍をもたらした。真由美のたじろぎが寛子の心をくすぐった。それで、本気かと問い返されたとき、息を吹き返した自尊心が反発する勢いで寛子はさらに一段飛び上がり、「殺したい」と口走った。冷静になってみれば、冗談でしかない言葉だった。もっとも、克彦を殺したいととか、それに類したことを思った事がなかったわけではないが。寛子は、跳び箱を跳べた子供のようにホッとしつつ、達成感すら感じている自分に驚き、さらに、真由美が寛子の言葉を冗談として着地させなかったことを、芝居でも見ているように感じていた。
真由美は急に忙しくなったという風に会話を打ち切ろうとした。
「準備ができたら、メールで連絡するわ。」
「え?」準備?何の準備?何を準備するというのだろう。
「大丈夫、心配しないで。きっとよくなるから。よく決心したわね。うん。じゃ、後でね。」
真由美は、寛子を残して家の中へ消えた。

 寛子が家に帰ると、由佳がカキ氷を食べていた。
「あら、いつ帰ったの。」
「さっき。お父さん、いるよ。」
「そう。」克彦は二階の自分の部屋にいるらしかった。
「どこいってたの。」
「真由美さんのとこ。あなた、朋美ちゃんと一緒じゃなかったの。」
「一緒だったけど、駅で別れたの。朋美ちゃん、南口のほうに用事があるって。お母さん、かき氷、食べる?」
「いいわ。それより、麦茶、麦茶。」
寛子は無性に喉が渇いていた。冷蔵庫から出した麦茶を注いだコップを手に、食卓の椅子に腰を下ろすと、そのまま沈んでいきそうだった。由佳がこちらの様子をうかがっているのが感じられたが、寛子は、真由美の言葉を思い出して、ふわふわとした気分だった。それは、何か自分の手に余るほど大きなものを買ったときの気分に似ていた。寛子が心ここにあらずで黙りこんでしまうと、彼女を見ている由佳の目が険しく細められた。
「お父さん、何してんのかな。」
「え?」自分でも出したかどうかわからないくらい小さい声だった。
「部屋に入ったっきりだよ。」由佳が視線を落としたのを寛子は気付かないでいた。お母さんは、また、お父さんのことを悩んでいる。由佳は、放心して見える寛子の様子に、自分にも一因があるように感じ、眉間を曇らせた。
由佳は、克彦の浮気について、寛子とほとんど同じ頃に感づいた。
家族三人で写った写真を探して、克彦の携帯電話を勝手にいじくっていた時、克彦から知らない女に宛てたメールを見つけ出したのだ。父が秘密めかしたメールを書いているのを無邪気に面白がって母に見せると、母の顔色がすーっと変わり、由佳はそのメールが何を意味するのか理解した。そして悔やんだ。まず、物を知らない自分が子供っぽくて嫌だった。先に女からのメールを見つけていたら、克彦が何をしているのか自分にだって分かったのに、と思った。分かっていたら、それを母に知らせたりはしなかっただろう。母が悲しんで、苦しむのは目に見えているから。そっと、父に加担するようにそのことを隠し、母が知らないうちに父と話をする。父にそんなことやめるように頼むのだ。お父さんは、私の頼みなら、聞いてくれたかもしれない。そうすれば、何事もなかったかのようにすべてが上手くいったのだ。しかし、由佳はそうする機会を逃がし、事態を押しとどめることができなかった。自分があのメールさえ見なかったら、こんなことにならなかったかも知れないのに。寛子が思い悩み、取り乱していく様子を見ながら由佳は、母親の苦しみの一部分は自分に起因していると思い込むようになっていた。
今もまた、寛子は、眼前の由佳のことを忘れ、克彦の浮気に心を奪われている。由佳は、寛子に苦しみを負わせた克彦の罪は自分にも責任があるんだ、と思った。
由佳は、二階へ駆け上がり、克彦の部屋の前に立った。
「お父さん。お母さん、帰ってきたよ。」
寛子は、二階の由佳の声をぼんやりと聞いていた。
「お父さん、お父さん。」しばらく待って由佳は、「お父さん、いるんでしょう?寝てるの?」と少し声を張った。返事が無いらしい。克彦の部屋のドアを叩きながら、由佳は再び呼び続ける。どんどんと低い音がかなり大きく家中に響く。
「お父さん、お父さん、てば。何してるの。出てきなよ。お母さん、帰ってきたよ。」
くぐもった声が聞こえて、由佳の手が止まった。克彦は「うるさい」とでも言ったのだろうか。
「お父さん!」
寛子は、ふらふらと立ち上がって、階段の下に向かった。見上げると、ドアが開くところだった。
「うるさいよ。なんだ。何の用だ。」ドアノブから手を離さず、克彦が由佳を睨みつけていた。由佳はその視線に負けまいとしていた。握られた手に力が入って白っぽくなっている。見上げた娘の顎の輪郭はぽってりとしていて、この子は自分に似ていると寛子は思った。
「何してるの、お父さん。」克彦がすこし虚を突かれた事が見て取れた。由佳の問い掛けが二重の意味をこめられたように聞こえたのだ。今何をしているのかという問いに克彦の責任を問う問いかけが忍び込んで、克彦は娘の顔を見直した。しかし、それが自分の勘違いであることに気がつくと、動揺を打ち消すように声を荒げた。
「うるさい。子供には関係ない。」子供に言えないようなことをやってるくせに。寛子は口には出さなかったが、反射的に毒づいた。
「お父さんに、かまうな。」
克彦がドアを閉めようとする。由佳がさせまいとして一歩踏み込んだ。克彦はドアノブから手を離し、由佳の肩をぐいと押して遠ざけ、余裕たっぷりを装ってドアを閉めた。父親に肩を押されると、由佳の体が強張りよろめいた。由佳の顔色が変わった。真っ赤になって由佳は、階段の下で自分を見ている寛子の方を見た。その目が涙で潤んでいた。
「由佳…。」
寛子の呼びかけに応えず、由佳は自分の部屋へ駆け込んだ。泣いているのだろう。
寛子は、ふらふらと食卓に戻り、麦茶の前に腰を下ろした。この家には人が三人しかいない、と自分でも脈絡の分からないことを呟いた。

 水曜日に、真由美からのメールが届いた。
準備万端整ったので、金曜日の九時ごろに家に来て欲しい、という内容だった。他に友達も待っている、とも書いてあった。

「こんばんは。」「いらっしゃい。」真由美はにこやかだった。迎えに出てきた真由美の後ろに、二人の女が控えていた。メールに書いてあった友達なのだろうか。一人は真由美や寛子より年上のようで、もう一人は若い女だった。二人とも真由美の側に立つと、小柄な女に見える。実際は真由美の大きさが普通ではないのだ。
「紹介するわね。」真由美は年上の女のほうを芳川美津子、若い方を坂本真澄と紹介した。二人の取り合わせが寛子の心に引っかかった。この三人はどういう関係なのだろう。芳川も坂本も結婚指輪をしていないようだから、離婚した女の会みたいなものなのだろうか。二人が寛子に送る視線の妙な馴れ馴れしさが寛子を面食らわせた。
「さあ、上がって。どうぞ。すぐ始めましょう。」
真由美が先頭に立ってリビングへ向かうと、外国人の話し声のようなものが低く聞こえてきた。
中へ入ると、男が黒いテーブルの上に縛り付けられていた。
外国人の声のように聞こえたものは、その男が発している唸り声だった。口を粘着テープでぐるぐる巻きにふさがれており、男はしきりに何か言っているのだが、低い唸り声にしかならないのだ。しゃべってるというより、助けを求める悲鳴を上げているのだろう。男は、首を振っていた。体のほかの部分は、がっちりテーブルに縛り付けられていて、首以外はまるっきり自由にならないようだった。
「何、これ…」
息を呑む寛子に、芳川と坂本が声を立てて笑った。真由美は、平然として男の頭の方、いつもの上座へ向かう。男の足元のほうにいる寛子から、その顎の線と鼻の形が見える。見覚えのある顔つき。
「あなた?」
男は、克彦だった。寛子の声に克彦の目が丸く見開かれ、一瞬息を詰め、首を何とか持ち上げて寛子を確かめると、一段と大きく唸りだした。
「美津子さん、真澄さん、しっかり押さえていてね。あばれるわよ。寛子さんは、そこに座って。」真由美に指示されて二人の女は、克彦の左右に付いた。克彦は、今朝出勤したときの背広のズボンにワイシャツの格好で縛られている。固まったまま動かずにいる寛子を見て、芳川美津子が真由美に目配せをした。
「真由美さん、…。」
真由美は頷いて言った。
「そうよ、寛子さん。ここに縛られているのは、あなたたちがよく知っている男よ。寛子さんが決心してくれたおかげで、今夜、私たちはこの男を裁く事ができるの。寛子さん、美津子さん、真澄さん、あなたたちの苦しみ、悔しさ、辛い思いを晴らしましょう。あなたたちを辱めたこの男に、罰を与えましょう。」
寛子ははっと二人の女を見た。
「寛子さん、この二人を責めてはダメよ。二人も被害者なのだから。あなたたちのうち、誰かを悪者にすることは許さない。悪いというならあなたたち三人が三人とも咎を受けることになるでしょう。でも、あなたたちは悪くないの。あなたたちに罪は無いわ。寛子さんは、分かるわよね。」
克彦は、自分の頭の上で話している真由美を見ようと、思い切り目を上に向けていた。そのため、寛子のほうからは白目を剥いているように見える。
「寛子さん、分かるわよね。」真由美が念を押す。「美津子さんと真澄さんはあなたの夫の浮気の相手だったのよ。」
芳川美津子が口を開いた。
「寛子さん、はじめまして。」年相応にくすんだ肌の色。丁寧にウェーブをかけられた髪が肩まで広がっている。首が肩に埋まっていて、笑い皺が深いという印象のほかには取り立てて特徴がない。「克彦さんの会社で働いていたんですけど、ご存知ですよね。まあ、寛子さんのことは知っていたんですけど、申し訳ないなあっていつも思ってて、こんな形でお会いするのは少し残念ね。でも、今晩ご一緒できるの、私、うれしいわ。私も真由美さんに助けていただいて、目が覚めたというか、寛子さんもきっとそうでしょうけど、真由美さんには本当に感謝しているの。真由美さんのおかげで、寛子さんにも、それからこちらの真澄さんともお友達になれたんですもの。真澄さんもとっても素敵な方。」
「いえいえ、とんでもない。」坂本真澄が首を振った。
「寛子さん、今日は、いろいろびっくりされるかもしれないけれど、大丈夫よ。真由美さんにおまかせして、すべておまかせして、私たちは真由美さんの言う通りにしていれば間違いないわ。」
坂本真澄がうなずいて後を引き継いだ。面長にショートの髪。目元から頬骨にかけて、黄色味が強い。少し陰鬱な印象を与える顔だった。
「美津子さんの仰るとおりだと思います。私、坂本真澄です。ご主人とはインターネットの出会いの掲示板で知り合いました。寂しかったんです、私。もう三十台も半ばだというのに、結婚できなくて。男の人の友達もいないし。仕事は人一倍がんばっているつもりです。男の人に負けないし。メディアの世界では、そこそこ実績があると思います。でも、やっぱり寂しくて。それが間違いでした。私の甘えだった。真由美さんにそこを気付かされました。最初は厳しかったけれど、今となってはありがたいと思います。寛子さんも、きっとお分かりになるんじゃないでしょうか。」
「ちょっと、ちょっと待って。待ってちょうだい!」寛子は、手をばたばたさせて、真澄の話をさえぎった。「なんだか分からないわ。一体、どういうこと。みんなで私を騙していたのかしら。私だけ、何も知らなかったみたい。」
「ふふふ。あなたの言いたい事は分かる。」真由美が答えた。「でも、誰もあなたを騙してはいない。美津子も真澄も、そしてあなたも、皆、別々に私のところに来た。それで、私があなたたちを助けようと思ったの。もちろん、美津子と真澄のことはあなたに言わなかったわ。言ったほうがよかったかしら。いいえ、時が来るのを待つ必要があった。」
「二人とは前からの知り合いなの?」
「まあ、そんなところね。でも、知り合いという言い方をするなら、知り合いは大勢いることになるけど。この辺りの人は、みんな知り合いね。
これは起こるべくして起きたのよ。私たちは、寛子、あなたの決断を待っていたの。それがすべての鍵だった。今、ここで、その鍵によって扉が開かれるわ。
ねえ、女と男は同じ生き物だと思う?明らかに違うわ。男は人間の形を擬態した別の生き物よ。遥かな昔、私たち女の祖先にまだ知恵が足りなかった頃、彼らは人間を装って女に取り付いた。彼らがどこから来たのか、それは分からない…」
混乱が寛子の耳を塞いだ。真由美の声がだんだんと張り上げられていく。が、寛子には、その言葉の意味をつなぎ合わせる事ができなくなっていた。克彦のワイシャツの、胸の辺りが色を変えて、肌に張り付いているのが見える。汗をかいているに違いない。エアコンが効いているというのに、克彦の額は油を引いたようだ。大きな鐘の内部で無限に反響する音を聞いているように、真由美の声が部屋中に隙間なく注ぎ込まれ、寛子はその声の海の中へ沈んでしまったように感じていた。真由美ら三人の女の視線が、寛子に注がれている。
「…。さあ、少ししゃべりすぎだわね。」
美津子と真澄が、視線を寛子から真由美に向けて、同時にうなずいた。
「始めましょう、始めましょう。」
真由美の言葉を合図に、美津子と真澄は克彦の両肩にそれぞれ取り付き、腰を入れて身構えた。
「さあ。」
「さあ。よいしょ。」
真由美は左手で克彦の顎を引っ掛け、右手で頭を鷲掴みにした。その時、一瞬、真由美の掌が倍ぐらいにぐいと広がって見えた。
「よいしょ、よいしょ、よいしょ。」美津子と真澄が綱引きでもするように掛け声をかける。
真由美の首が一回り太くなる。子供の指くらいはある血管が、ぼっこりと浮かび上がり、真由美の首を這い上がる。皮膚の下にワイヤーのような筋があるのが分かる。その筋が続く肩がぽんと膨れ上がった。今までどこに眠っていたのか、上腕の力こぶが尋常ではない勢いで盛り上がり、Tシャツの布地に悲鳴を上げさせた。むき出しの肘から先は、真由美の体の変化をさらに明らかに見せた。太い筋肉が何本も手首に向かって集中し、細かく震えて、ピークへ向かって筋肉が興奮の急勾配を駆け登っていることを物語っていた。
「よいしょ、よいしょ、よいしょ。」
真由美の指が克彦の頭にめり込んでいく。指が当っている辺りに小さな血の粒ができ、みるみる大きくなっては崩れ、だらだらと流れ出した。克彦のくぐもった叫びが一段と強くなる。恐怖と痛みで盛大に悲鳴を上げている。
真由美の体は筋肉の鎧で覆われていた。体の各分の筋肉がそれぞれ鋼の塊になって、ひとりでに甲冑を形作ったようだった。その鎧は増大していた。腹の辺りのTシャツがずるずるとめくりあがるのでそれが分かる。真弓の胸は乳房が姿を消し、かわりに亀の甲羅のような筋肉が隆起して、Tシャツがほぼ限界まで引き伸ばされている。
肉体の強大化に対して頭部の大きさは変わらないので、逆に顔が縮んだように見える。しかし、真由美の顔は、異様な形相になっていた。眉のところが庇のように突き出している。見開かれた目は漆黒で、ぬらぬらとしたその輝きは満々となった墨に似ている。引き絞られた唇は筋となって見えない。剥きだしの歯ががっちりと噛み締められていた。鼻孔が広がって吊り上った。鼻筋に皺がよって、歯の隙間から、「ぐぐぐぐ」と真由美の喉が鳴るのが漏れてきた。
克彦が猛烈に暴れる。それでも、テーブルにぎっしりと縛り付けられた上に、二人の女に押さえつけられ、頭部を真由美のものとされているので、動かせるところは、爪先や、手先や、腹などだった。その動かせるところを引き攣らせ、動かせるだけ滅茶苦茶に動かしている。真由美に掴まれた頭の周りは、べっとりと血で覆われた。
息継ぎを忘れたような克彦の叫び声の波の中で、二人の女の掛け声が寛子の頭を揺さぶる。寛子の視界が狭まり、その中心で、真由美が咆哮を噴き出す。体の震えが止まらない。真由美が何をしようとしているのか、寛子には判然としなかったが、事態は決定的な一点に向かって急速に収束していた。今更、後戻りも、逃げ出すこともできない。
その時、ボツッという音がした。克彦の叫びが止んだ。そのかわり、体全体が痙攣しいる。
女たちも掛け声を止めた。
真由美が「そらぁぁぁ!」と怒鳴ると同時に、肉を裂く音がして、克彦の首の付け根から血の飛沫が上がり、真由美の胸から顎へと点々と飛び散った。克彦の頭は胴体から引き抜かれた。ぼろぼろの赤い裂け口の中にちらりと白い首の骨が見えた。勢いで真由美は克彦の頭を持ったまま後ろによろけ、こらえようとしたがどさりと尻餅をついてしまった。
「あら、やだ。」
真由美がおかしそうに言った。顔つきが元に戻っている。美津子と真澄がつられて、きゃっきゃっと笑い声を上げた。女たちの頬の汗が、電灯の光を反射していた。
克彦だった胴体からどぼどぼと血が流れ出し、黒いテーブルの上に広がって、深紅色の蜂蜜が溜まっているように見えた。
真由美の腕の中の、克彦の頭は目を見開いたままだった。それに視線が合って、寛子は膝から崩れ、倒れてしまった。

 寛子は、どうやって家に帰ったのか、分からなかった。自分が家に戻って、食卓に座っているのは理解できたが、しばらくの間、現実感が戻らなかった。いつでも帳消しにできる夢の中にいる感覚が続いている。それでも、視線をテーブルの上に置かれた大きなタッパーから逸らすことができない。それは、克彦の体から切り分けられた肉である。美津子と真澄が豚でも解体するように大汗をかいて切り分け、三人分を平等にタッパーに詰め、真由美が「はい、寛子さんの分ね。」と言って一つを渡してくれたのだ。
二階から由佳が降りてきた。寛子の顔を覗き込む。
「お母さん、大丈夫?」
寛子は、由佳の顔を見返した。由佳はにっこり笑って言った。
「心配ないわよ、お母さん。これから二人で頑張ろう。きっと良くなるよ。」
この子は何を知っているのか?驚いて寛子は、現実の世界に引き戻された。
「明日、朋美ちゃんと出かけるから、もう寝るね。」そう言うと由佳は自分の部屋に戻っていった。
(きっと、良くなる)か。
寛子は、タッパーの肉に視線を戻し、私の夫だったのに、みんな同じだけの量なんて少しおかしくないかしら、と思った。

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